2020年8月14日金曜日

清戸坂から永楽病院、東大分院

梅雨のおわり7月26日、文京区の西の端、関口台地というか目白台を歩いた。
日本女子大の裏は静かな住宅街である。かつては高田老松町、小石川雑司ヶ谷町といった。
窪田空穂旧宅
信州松本の人。
空穂旧宅から私道のような細道を北に降りる。
高台でも井戸がある。
不忍通りに出た。
護国寺に向かって下っている。
清戸坂という。
今の目白通りは昔、清戸道といった。
尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現在清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道が開かれたと書かれているが、はて、清戸というのが江戸に響くほどの地名だろうか?

今は誰も知らない地名だが、むしろ清瀬というのが明治になってから出来た地名で、その中心、清戸は戦国、後北条時代には清戸番所が置かれ重要な地点だった。

その護国寺前から清戸道に上がるから清戸坂という。
清戸坂から東を見る
家族で長野に帰省するとき、埼玉にいた時は指扇から川島、東松山ICから高速に乗ったが、千駄木に来てからは不忍通りから目白通りに入って練馬ICをつかった。
息子が免許を取って運転させたところ、交通量が多くて緊張するなか、護国寺前から清戸道をあがらず間違えて池袋駅に向かってしまい慌てたことがある。

清戸坂から再び小石川区雑司ヶ谷町にあがる。
薬缶坂
薬罐、夜寒ともかく。小日向にもあったし、都内各地にある。
野カン(豸+干、キツネのこと)であろう。

坂を上がると左(東)に豪邸。
村川邸
明治44年(1911)築、大正4年・9年・昭和8年増築の国登録有形文化財。
村川堅固(1875~1946)、長男の村川堅太郎(1907~1991)とも西洋古代史の東大教授。

表札は村川以外にもあったが、メモし忘れた。
現在も住まわれているようだが、これだけのものを維持するのは大変だろう。

村川邸から少し東に歩くと何やら古い塀が。
かつての永楽病院、東大病院分院である。

以前ブログに書いたが、明治末に東京駅を作るとき、当時の麹町区永楽町にあった通称「永楽病院」をこの地に移転させた。本当は東京医学校のあった神田和泉町に移るはずが、三井がその地をとり、代わりに雑司ヶ谷の土地と建設費を提供した。

当時は医学校を出なくても国家試験に受かりさえすれば医師になれた。歯科医、薬剤師も含め、その実地試験が行われたのが永楽病院である。患者は試験に供されるため、治療費、入院費は無料であった。その後、病院を持つ医学校が整備され、実地試験の必要性がなくなると、東京帝大付属となった。

別ブログ
敷地内はきれいに撤去されビルになった。
もっと早く来るべきだった。

1897年7月(明治30)、 内務省医術開業試験場として設立
(東京市麹町区永楽町一丁目2番地)
1903年3月 - 医術開業試験の移管に伴い文部省へ移管
1908年6月(明治41) - 現在地(小石川区雑司が谷120番地、現 文京区目白台3-28-6)に移転
1917年8月 - 東京帝国大学へ移管、医科大学附属医院分院となる。
東大病院の第四内科と第三外科は分院だった。

2001年4月(平成13) 本郷の東大病院に統合され、6月に閉院。
教職員367人、入院245床 一日外来639人の総合病院だった。

雑司ヶ谷に移った明治41年以降も、医歯薬の国家試験はここで行われていたが、大正5年に歯科試験場は神田一橋に移り、それが東京医科歯科大の前身となった。
また、のちに大塚、有明に移転した癌研付属腫瘍治療所ができたのも、ここであった(大正12年)。

正門わきの守衛所だけ保存されている。
夜間窓口でもあったのだろうか。


分院が閉鎖された後も跡地利用を決めかねていたのか、近くの大塚警察署の仮庁舎になったりして建物はしばらくあった。

東大分院を初めて知ったのは、1987年、細胞内Caをfura-2で測っていたとき。
第四内科(内分泌?)の尾形悦郎先生の研究室の論文を読んだ。
そのご、90年代に藤田敏郎(腎臓内科)先生の講演を近くの椿山荘で聞いた。遠藤實先生のところで一緒だった上田美樹さんもここの研究室ではなかったか。


病院跡地にはずいぶん大きな寄宿舎ができた。
2019年9月開寮というからつい最近である。
目白台インターナショナル・ビレッジという。
カフェもファミマもあった。家具家電つき1000室。
豊島区巣鴨庚申塚にも立派な寄宿舎を作ったし、留学生が増えているのだろうか?

そうだ、田辺時代にお世話になり、3年前にも浜松を案内していただいた竹山茂之さんは、1960年ころだろうか、3年間ここ小石川分院に出向されていた。衛生看護学科の三浦義彰先生のもとで生化学の研究をされていたはず。
三浦家というのは三宅艮斎-三宅秀-三浦勤之助(娘婿)ー義彰と150年づづく医家である。

三丁目坂
世界初の胃カメラもここで開発された。
上部消化器を専門とする第三外科は分院にあったからだ。
オリンパスの深海正治をモデルとした「光る壁」という小説がある。作者の吉村昭はこの東大分院で結核の手術を受け、術後の経過観察で通っているころ、胃カメラの開発が行われていた。終戦間もないころの話である。
段ボールの中から「光る壁」を探しだした。
ほとんど覚えていなくて、新刊のように読めそうだ。
私が知っている分院関係者も、小説の人も、みなこの坂を上り下りしたはずだ。



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