2021年7月11日日曜日

豪徳寺、井伊直孝の猫、桜田殉難八士之碑

 6月30日、仕事で恵泉女学園に向かう途中、松陰神社に立ち寄った。(別ブログ)

 20210709 松陰神社は長州閥の聖地。桂太郎墓、広沢公神道碑

急いで恵泉のある経堂に行こうとするも、近くに豪徳寺がある。
途中で食事するのはあきらめてこの寺に寄ることにした。
 
松陰神社のある丘から西に坂を下り、城山小学校の脇から住宅街の緩やかな坂を上がると豪徳寺の東の塀にぶつかる。東門は閉じているので南の正面に回った。
2021‐06‐30 11:30 豪徳寺東門

11:32 豪徳寺山門
以前清藤さんと来たことがある。
手帳に1998年4月29日と1999年1月24日、両方にこの文字がある。
しかし二度は来ていない。一つは駅だろうか。
当時はたぶん井伊家の菩提寺という知識がなく(知っていたとしても関心がなく)、「Let’s豪徳寺」しか知らなかった。

11:33 忠正公神道碑
とは読めるが誰だか分からない。
神道碑については前のブログで書いた。

帰宅後調べたら忠正公は井伊直弼の次男、井伊直憲の諡号。
初代彦根藩主直政から15代目の当主である。
彦根藩当主としては17人の名があるが、直政長男の2代直継は上野安中藩、8代直治は5代直興と同一人物なので数えないことが多い。
仏殿 11:33

このあたりは中世の武蔵吉良氏の世田谷城の主要部だったとされる。
その一角に1480年、世田谷城主吉良政忠が伯母、弘徳院のために弘徳院と称する庵を結び、それが臨済宗のち曹洞宗の寺となった。

江戸時代になって1633年ころ譜代大名筆頭、井伊家2代直孝の時代、世田谷が井伊家の所領となったのを機に、領内の弘徳院が井伊家の菩提寺として取り立てられ、伽藍を建て、大々的に整備した。直孝の死後、その法号から豪徳寺と改名する。
この地は江戸から遠いが、南のほうに大山街道が通り、井伊家としても彦根に帰る途中である。

敷地一万五千坪の大寺
その割には人がいない。

庫裏
花鋏を持ったお寺の老婦人が何かしていらした。

11:40 仏殿の裏に本殿
白手袋の運転手が境内にぶらぶらしていて、霊柩車が止まっていた。
葬儀でもしているのだろうか。

11:34 招福殿の前に多数の招き猫。
直孝が鷹狩の折、住職の飼い猫「たま」の招きで落雷の難を逃れたという。
こんな昔から「たま」と呼ばれていたのが意外。
今や豪徳寺は井伊家より招き猫で有名。
彦根のゆるきゃら「ひこにゃん」はこの猫と関係あるか?

この招福猫は自由に手に取れる。
正月のだるまと同じように買い求めて家で飾った後、念願成就のあと持ってきて勝手においていくのだろうか?

絵馬も猫というのは悪乗りしている。

奥に進むと井伊家墓所。
23年前?に来たときは見なかった。
11:36 井伊家墓所
広い。
作業員が3人、落ち葉を掃いていた。
というかエアブローの風で落ち葉を寄せていた。
その音で静寂な墓域が工事現場のようになっていた。

井伊直弼墓
黒船が来航した国難に、老中首座、阿部正弘は幕政を今までの譜代大名中心から雄藩藩主(水戸斉昭、松平春嶽ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛の顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。

斉昭は攘夷を強く唱えたから、それまで幕政を担ってきた譜代の筆頭で開国派であった直弼としては面白くなかった。攘夷vs開国、さらには13代家定あとの将軍後継で一橋慶喜支持vs紀州徳川慶福支持などで一橋派と南紀派(譜代中心)は対立を深めていく。

阿部の死後、老中首座は溜詰大名(南紀派が多い)の、佐倉藩堀田正睦となる。彼自身は、幕閣内融和のため一橋派と協調路線を取ろうとしたが、もともとは開国派。幕府は開国やむなしと決め、堀田は上洛。ところが攘夷派の工作もあり勅許がなかなか得られず、手ぶらで江戸にもどる。この間に根回しした直弼は、大老に就任、日米修好通商条約に調印してしまった。一橋派はそれを咎め、斉昭、春嶽らが江戸城に無断で登城した。直弼はこの行為を責め、斉昭らと一橋慶喜を隠居、謹慎処分とした。

これら直弼による処分をきっかけに攘夷過激派の動きが活発になり、その結果直弼によって尊王攘夷派の公家、大名が処分、活動家が大量に捕縛されたのが安政の大獄である。
斉昭は永久蟄居、一橋派に属した幕臣も罷免された。吉田松陰らは伝馬町の牢で処刑され、その墓は皮肉にも谷を挟んですぐそば、さっき見てきた松陰神社にある。
11:38 桜田殉難八士之碑
そうか、8人だったか。

直弼による厳罰処分は反対派の反発を呼び、とくに斉昭がいて戊午の密勅(説明略)も受けた水戸藩の者たちは憤激した。脱藩した藩士が安政から万延に変わったばかりの雪ふる三月三日、桜田門外で直弼を襲った。60余名の行列が18名に襲われたのだが、丸腰の駕籠かき、徒歩人足、藩士まで逃げる者多数、必死に籠を守る者も雪で刀を袋に入れていたため、次々と討たれた。
ここは藩主と家族だけでなく江戸藩邸でなくなった藩士も葬られており、墓石は三百を数えるという。
染井霊園の松浦、藤堂ら大名家の墓は都内にもあるが、たいてい明治以降に亡くなった当主のもの数基で、このように江戸時代初期からあるのは珍しい。

11:45 山門から南に延びる参道
歴史というのはどうにでも作られてしまう。
井伊直弼は彦根では英雄であるが、全国の学校ではたぶん悪役として習う。明治以降の歴史教科書は薩長に有利なように書かれた。
つまり中世の秩序を壊し商業を発展させた信長は、大量の虐殺をしながら英雄と書かれる。しかし、避けられない開国を困難に打ち勝って成し遂げた直弼は、討幕派を弾圧、反対派を粛正したことで悪漢とされる。

ただし井伊家はその後、薩長、討幕派から幕府を守ったわけではない。
すなわち直弼死去のあと幕府内では一橋派が盛り返し、井伊家彦根藩は10万石減封されるなど、冷遇された。この結果藩論も分裂。
家康以来譜代筆頭として先鋒を任され、島津毛利が東進した時は関ケ原手前で抑える役目を担わされていたのに、戊辰戦争では薩長側につき、函館戦をのぞき全国を転戦した。

豪徳寺のすぐ西に世田谷線宮の坂駅がある。
23年前は雨が降っていた。ここから三軒茶屋に出た気がする。

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