都内を歩いているとよく富士塚に出くわす。
江戸時代の富士信仰による塚(小山)である。
たいてい富士山から運んできた溶岩でできている。
最古のものは1780年、高田籐四郎が高田水稲荷の境内に建てたものとされるが、早大キャンパス拡張に伴い移築された。最初の場所に残るものでは、鳩森八幡境内にある千駄ヶ谷富士が都内最古とされる。
現在、江戸七富士と呼ばれるのは
1.品川富士(品川神社)
2.千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)
3.下谷坂本富士(小野照崎神社)
4.江古田富士(茅原浅間神社)
5.十条富士(十条冨士神社だが社殿はない)
6.音羽富士(護国寺)
7.高松富士(豊島区、富士浅間神社)
2,4,5,7は明治の旧東京市15区には入っておらず、郊外であり江戸市中とは言いにくいが、江戸時代の朱引き内(1818)には入っている。
多くは各区の指定文化財で、3,4,7は国の重要有形民俗文化財にもなっている。
かつては移築前の高田富士も入れて江戸八富士と言われた。
私は3番だけ行ったことがない。
このほかに、以下は行ったことがある。
駒込富士神社(江戸七富士に負けぬくらい立派)
谷中富士塚(道端に小さく単独で存在)
神田柳森富士、
浅草富士
目黒元富士(跡)、
白山神社
海蔵寺(富士信仰の中興の祖、食行身禄を祀る)
田端八幡
向島白鬚神社
わざわざ行ったのでなく、歩いていて出くわしたものだ。
ブログのどこかに書いてある。
2021‐11‐29
さて、11月29日、江戸七富士の7、高松富士に行った。
現住所は豊島区高松2丁目9番3号だが、かつては長崎村であったことから長崎富士ともいわれる。
富士講の一派、月三講(椎名町元講)によって、幕末の文久2年(1862)に築造されたという。
いまは長崎も椎名町もずっと南の西武新宿線沿線の地名になっている。
2021‐11‐29 元講社の標柱
社殿はあるが、門は閉ざされ、塚にも上れない。
神社というのは寺と比べ地元に開放的なところが多いが、ここは珍しい。
手前の児童公園から眺める。
子どものけがを恐れるのか、いたずらを防ぐのか、厳重。
塚は高さ8m 直径21m
しかし、この富士浅間神社の横の道は古そう。
富士神社通りという。
昔ながらの商店も並ぶ。
「桑原」「互祐レジデンス」という表札。
北隣は同じ色合いのレンガ塀だが、プラネアールスタジオとある。
西池袋Aスタジオとして、ドラマなどの室内撮影に使われるらしい。
2021‐11‐29
石屋さんではないし、古さから言って路傍にあったものだろう。
篠禰輔、篠慶弥という表札
杉浦商事という不動産会社の社長さんらしい。
この道を南に行けば、要町通りという有楽町線が下を走る幹線道路に出る。
古道は大通りを越えてさらに続き、城西大付属城西高校の横を通って、長崎神社、椎名町駅に通じる。
この日は豊南高校から富士神社通りを南下して城西高校へ行き、都立豊島高校に寄って、西武新宿線の江古田まで歩いた。
高校に行った理由は別ブログで書く。
江古田の駅前にも江戸七富士のひとつ、江古田富士がある。
以前にも豊島高校からここまで歩いてきたので、二回目。
江古田浅間神社
富士信仰の神社は浅間神社、祀る神を浅間大神というが、浅間とは何だろう?
古くはアサマといい、浅間の漢字をあてた後世からセンゲンと読むようになったのだろう。ではアサマは何か?
浅間山のように「火の山」を表すと考えられている。アソ(阿蘇)の訛りとか、アイヌ語、マレーシアの言葉でも火の山を表すというが、本当のことは分からない。
登山道入り口には2匹の猿が狛犬のように座っている。
2021‐11‐29
この辺りは江戸時代、小竹村といい(豊島郡上板橋村字小竹というときもある)、冨士講の一派、小竹丸祓(まるはらい)講という人々が建てた。
高さ8m、直径30mというから、長崎富士より裾野は広い。
そろそろ高校訪問も終わりかもしれないと感じ、二つの富士塚を写真に撮ってきた。
この翌30日、3月で退職することが正式に決まり、本当に豊島区を歩き回るのはこれが最後となった。
お出かけ 目次へ (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ
翻訳本あとがき 目次へ
競技ダンス 目次へ
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ
翻訳本あとがき 目次へ
競技ダンス 目次へ