2021年12月31日金曜日

江戸七富士の高松富士、江古田富士

都内を歩いているとよく富士塚に出くわす。

江戸時代の富士信仰による塚(小山)である。
たいてい富士山から運んできた溶岩でできている。

最古のものは1780年、高田籐四郎が高田水稲荷の境内に建てたものとされるが、早大キャンパス拡張に伴い移築された。最初の場所に残るものでは、鳩森八幡境内にある千駄ヶ谷富士が都内最古とされる。

現在、江戸七富士と呼ばれるのは
1.品川富士(品川神社)
2.千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)
3.下谷坂本富士(小野照崎神社)
4.江古田富士(茅原浅間神社)
5.十条富士(十条冨士神社だが社殿はない)
6.音羽富士(護国寺)
7.高松富士(豊島区、富士浅間神社) 

2,4,5,7は明治の旧東京市15区には入っておらず、郊外であり江戸市中とは言いにくいが、江戸時代の朱引き内(1818)には入っている。
多くは各区の指定文化財で、3,4,7は国の重要有形民俗文化財にもなっている。

かつては移築前の高田富士も入れて江戸八富士と言われた。
私は3番だけ行ったことがない。

このほかに、以下は行ったことがある。
 駒込富士神社(江戸七富士に負けぬくらい立派)
 谷中富士塚(道端に小さく単独で存在)
 神田柳森富士、
 浅草富士
 目黒元富士(跡)、
 白山神社
 海蔵寺(富士信仰の中興の祖、食行身禄を祀る)
 田端八幡
 向島白鬚神社
わざわざ行ったのでなく、歩いていて出くわしたものだ。
ブログのどこかに書いてある。

2021‐11‐29
さて、11月29日、江戸七富士の7、高松富士に行った。
現住所は豊島区高松2丁目9番3号だが、かつては長崎村であったことから長崎富士ともいわれる。
富士講の一派、月三講(椎名町元講)によって、幕末の文久2年(1862)に築造されたという。
いまは長崎も椎名町もずっと南の西武新宿線沿線の地名になっている。
2021‐11‐29 元講社の標柱

社殿はあるが、門は閉ざされ、塚にも上れない。
神社というのは寺と比べ地元に開放的なところが多いが、ここは珍しい。
手前の児童公園から眺める。

子どものけがを恐れるのか、いたずらを防ぐのか、厳重。

塚は高さ8m 直径21m

豊島区高松一帯は、整然とした区画、まっすぐな道が縦横に走り、いかにも関東大震災以降に畑を開いた住宅地という感じ。
しかし、この富士浅間神社の横の道は古そう。
富士神社通りという。
昔ながらの商店も並ぶ。

「桑原」「互祐レジデンス」という表札。
北隣は同じ色合いのレンガ塀だが、プラネアールスタジオとある。
西池袋Aスタジオとして、ドラマなどの室内撮影に使われるらしい。

2021‐11‐29
石屋さんではないし、古さから言って路傍にあったものだろう。

篠禰輔、篠慶弥という表札
杉浦商事という不動産会社の社長さんらしい。

この道を南に行けば、要町通りという有楽町線が下を走る幹線道路に出る。
古道は大通りを越えてさらに続き、城西大付属城西高校の横を通って、長崎神社、椎名町駅に通じる。

この日は豊南高校から富士神社通りを南下して城西高校へ行き、都立豊島高校に寄って、西武新宿線の江古田まで歩いた。
高校に行った理由は別ブログで書く。

江古田の駅前にも江戸七富士のひとつ、江古田富士がある。
以前にも豊島高校からここまで歩いてきたので、二回目。
江古田浅間神社
富士信仰の神社は浅間神社、祀る神を浅間大神というが、浅間とは何だろう?
古くはアサマといい、浅間の漢字をあてた後世からセンゲンと読むようになったのだろう。ではアサマは何か? 
浅間山のように「火の山」を表すと考えられている。アソ(阿蘇)の訛りとか、アイヌ語、マレーシアの言葉でも火の山を表すというが、本当のことは分からない。

登山道入り口には2匹の猿が狛犬のように座っている。

2021‐11‐29
この辺りは江戸時代、小竹村といい(豊島郡上板橋村字小竹というときもある)、冨士講の一派、小竹丸祓(まるはらい)講という人々が建てた。
高さ8m、直径30mというから、長崎富士より裾野は広い。

そろそろ高校訪問も終わりかもしれないと感じ、二つの富士塚を写真に撮ってきた。
この翌30日、3月で退職することが正式に決まり、本当に豊島区を歩き回るのはこれが最後となった。



2021年12月26日日曜日

65歳からの職探し2 博物館と墓地管理人

 

ハローワーク飯田橋のPCコーナー
専用プリンター付き

4月から無職になる。
人並みの年金がもらえるなら働く必要はないだろう。
しかし何もしないのも退屈なので、何かしら仕事をしてみたい。

どうしようかな、と漠然と考えていたのだが、先日、物珍しさでハローワークを訪ねたことから俄然、身近な関心ごとになってきた。
それ以降のことを書く。

1.探偵会社の調査員

ハローワークのネット求人情報で「司書、その他専門職」というカテゴリーを見ていたら出くわした。なるほど、専門職ね。
仕事は浮気調査がメインだが、「クライアントの深刻な悩みを解決する社会貢献度の高い仕事」だという。
パートで年齢不問、時給1,200~2,500円。
面白そうなので初めて行ったハローワークで紹介状をもらってきた。
履歴書を書いて封をしたのだが、朝、封筒を家に置き忘れて一日考える時間ができた。
ここで初めてその会社の公式サイトをみると、創業18年、業界でも大手のほうらしい。
浮気関係の読み物が充実していて、しばらく読む。尾行、GPS、聞き込み、録画、と浮気の証拠を集めるようすが、動画になっている。
ここでユーチューブを見ると実際の探偵の尾行が動画になってアップされていた。二人一組で車を追跡していく。池袋から東京湾の海ほたるまで延々と走る(よく気づかれなかったものだ)。テレビドラマはすぐ現場を押さえられるが、実際は長丁場、これは想像以上に大変な仕事で、興味本位ではやれないと思った。
迷うことなく、封筒は投函せず。

2.東京国立博物館
有期雇用職員、時給 1,160円。
「百五十年史」編集と関連資料の整理、データ入力、校正、編集の補助。

ハローワークの求人情報は、上記のカテゴリー検索よりもキーワード検索のほうが効率が良い。そこで博物館といれたらヒットした。しかし締め切りまで2日しかなかった。
ハローワークでなく博物館の公式サイトにある採用情報でも同じ求人情報があり、そちらをみるとメール提出でも良いという。そこで急いで所定の履歴書をダウンロードした。

しかしPDFだった。私のPCではPDFに直接書き込めない。さてどうしよう?
無料のPDF編集ソフトにPDFelementがある。以前使って便利だったのだが、透かしが入ってしまうらしい。有料版は1年間4480円。ちょっともったいないな。

Googleドライブに目的PDFを入れて開く方法がある。
開くときにGoogleドキュメントで開くと、自由にテキストを編集できる。ところが、顔写真の枠がつぶれてしまい、履歴書の形式が変わってしまった。
いっぽうDocHubで開くと、顔写真の枠はそのまま維持される。しかしテキスト文は編集できず、空欄に文字を置いていくという感じになる。しかし、顔写真を載せるにはこの形しかない。
とにかく、夜中までかかって完成、送信した。
発表は3日後、書類選考の結果通った人だけに連絡が来て面接に進むらしい。

連絡は来なかった。
歴史は得意だし、雑誌編集の経験もある。補助員としてはけっこう役に立つ人材だと思ったのだけど、ダメだった。強力な応募者がいっぱいいたのだろうか。

立花隆の求人を思い出した。
1993年、「一般秘書業務・資料整理・集め
年齢学歴不問 主婦可 能力人柄重視 固20万 週休2日」
として朝日新聞に出した。
50通くらいだろうと思ったら翌日から速達の束がドサドサ届き500通になったとか。主婦可としたのは良質の知的労働力が家庭に眠っているからだという。
「すごい経歴の人がいっぱいいて、こんな雑用に才能を使わせていいのだろうか」と彼も躊躇したほど。

東京国立博物館の時給1160円パートで私が負けたのは、こんな人たちが相手だったのではなかろうか?

3.佐倉の国立歴史民俗博物館のパート

これもハローワークのキーワード検索。内容は
・朝・夕2回巡回し、展示ケース内の資料の状態、汚れ等を確認。
・温湿度計のデータ集計と展示ケースの照明を点検・補充。
・展示室で使用するパネル・キャプション等の製作、パネルリストのデータベース更新。
・撮影、写真原版の貸出に関する電話応対と事務処理
・展示替え作業の立会いと作業で使用する備品の準備等

時給1080円。
千駄木から佐倉まで1時間半かかるけど、やりたい。
ぜひやりたい。
ハローワークの紹介状が必要なので、12月22日にまた行った。
前回と同じ相談員をリクエスト。彼はにこにこしながら調べてくれた。
ところが、1月14日締め切りで既に26人が応募しているという。20代から60代までの男女、住所は佐倉近辺、千葉の人が多いそうだ。
これは勝ち目がなさそう。断念した。

4.墓地管理人

職探しとは全く関係なく、散歩で芝離宮に行こうと思った。
開園時間などを知りたくて公式サイトを見たら、上のほうに「公益財団法人・東京都公園協会」のバナーがあった。クリックするといろんな都立公園についての情報があったのだが、「採用情報」というのに目が反応してしまった。
クリックすると臨時職員(アルバイト)を募集していた。
ここは都立公園だけでなく霊園や水上バスなども管理運営している。
私の好きな染井霊園もアルバイト募集があった。

仕事は
(1)書類作成、データ入力、台帳記入
(2)お客様対応(接客・電話等)
(3)墓所調査、納骨業務
など
時給1050円というのは、東京都の最低賃金1041円の1円の桁を切り上げただけの最低レベル。

春4月からの自分を想像した。
窓から木々の緑をみながら、のんびり。
外に出て有名人を含む墓石群を見ながら明治以降の歴史を学び楽しむ。
そして自分の人生を反省する。
最後の仕事として最もふさわしいと思った。
ここの応募なら、博物館のような激しい競争はないだろう。

ところがこの募集情報は10月25日更新とあった。
2か月前から募集していたということだ。
もう決まっているのではなかろうか? 
無駄な履歴書を送るのももったいないので、電話してみた。
まだ決まっていないという。
よし!!

急いで力を入れて履歴書を書いた。
応募要項に書いてある職務経歴書はふつう同業に転職するときに使うものだが、何か書かねばならない。墓地管理人などの経歴はないから、自分が役立つことをアピールした。
書類作成はなんでもOK、自信あり。穴掘り、伐採、清掃、土いじりは家庭菜園で慣れており、体力もダンスで十分である。墓地の所有者と散策一般訪問者の双方にとって、最高の場所であり続けるよう、この環境を維持していきたい、と抱負を書いた。

ところが、数日後、12月20日の消印で
「~貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」という不採用通知がきた。
なぜだ?
10月以降、彼らは、誰でもできそうな仕事に東京都最低賃金で募集して、ずっと決まっていなかった。それなのに不採用とするのは、一体どういう採用基準なのか?
本日26日、東京都公園協会のHPを見れば、染井霊園は相変わらず募集している。
声色を変えて電話すれば「まだ決まっていません」と答えるだろう。
できれば不採用の理由を聞きたいものだ。
でも、もう応募することはないので電話しない。


(続く。たぶん)


別ブログ



2021年12月23日木曜日

植えて5年、温州ミカンが豊作

2021‐11‐21 温州ミカン
2016年11月、棕櫚を伐採抜根し、あとに上尾セキチューで買った苗を植えた。
 2回の春は花咲かず、なにもなし。
2018年は台風で倒れた。
2019年5月、初めて花が咲く。しかし小さな実はすべて落ちた。
 6月には猫が乗ったのか、枝が折れてしまった。
2020年5月、一面に花が咲き、花びらが落ちたあと小さな実がついた。
 しかし次々と、全て落ちた。
と思ったら、6つ残り、それが秋までもった。酸っぱかったが味は濃かった。

そして2021年。植えて5年。

2021‐11‐21
いっぱい生った。
みかんは隔年で豊作というが、それが事実かどうか来年分かる。

みかんは春、夏、秋の年3回、枝が伸びるらしい(未確認)。
そして、その年に伸びた春枝や夏枝の先が冬の間に花芽分化して実がつくらしい。
すなわち一度実がついた枝は翌年花が咲かない。
つまり剪定は、徒長枝や内部の込み入った枝の他、実がついた枝を切ればよい。

2021‐12‐03
しかし2月、3月の剪定時期になれば、実の付いた枝がどれだったか分からないだろう。
そこで実をとるとき枝も長めに切ることにした。(これは教科書にない)

12月23日の時点で、47個取って、木に10個以上残っているから、60個くらいなったか。
2021‐12‐11
この日、妻が娘にもっていったもの。

我が家のミカンは市販品と比べ、皮(内側の個別袋)が少し厚い。
酸味が強いがまあまあ。
正月まで持ちそうだ。

夏ミカンもある。
ザクロを伐採、抜根した後に2017年3月、苗を植えた。
上尾セキチュウで1058円だった。
11月に買った温州ミカンと「同学年」ともいえる。

2019年までアゲハの幼虫がつくくらいで何もなし。
さくらの日陰になっているせいか、温州ミカンと比べ成長いまいちだった。
2020年に初めて花をつけたが、すべて落下した。

2021年も花がつくがすべて落下した、
と思ったら2つだけ残っていた。
2021‐10‐22
しかし、よりによって2つは塀の外に飛び出ている。
ちょうど歩く人が手に取りやすく、いかにも悪戯されそう。
何とか塀の内側に居れようと枝を曲げたりしたが無理だった。

ふと、古い靴下をかぶせてみた。
なんとなく歩く人が触らなくなるかもしれないと思ったが、一つしか入らなかった。
それでも、少し威圧感が出た(気がする)。
2021‐12‐13
むこうは伐採を決心した区の保護樹木、千駄木ザクラ

2021‐12‐23
2か月以上たって靴下を脱がしてみた。
黄色になっていた。
靴下で日差しが当たらないほうは色は付かないと思っていたから意外だった。
しかしぐるっと回してみると2つとも塀側のほうは青みが残っている。
やはり着色には日光が必要なのかもしれない。

きちんと実験するには、伸びきった靴下でなく、黒紙などで完全遮光するべきだろう。

50年以上前の中学生の頃、よくリンゴの袋掛けを手伝わされた。
袋は二重になっていて、外は古新聞、内側は黒い袋で完全遮光されていた。秋になってリンゴが大きくなると袋を外す。外すのは光を当てて赤くするためだろう。ではリンゴが大きくなるまで光を当てないのは、人の肌と同じようにあざができないようにするためか? 
 
外袋はたいていスポーツ新聞で、田舎で活字に飢えていたのか、ごく一部分しかない記事でも、木の下でよく読んでいた。いやいや手伝っていたから、袋掛けの意味を聞いたこともなかった。

別ブログ


2021年12月20日月曜日

道灌山通りのマンションと開成の改築

バブル華やかな1987年ころ、地域雑誌「谷根千」で「不忍通りが大変だぁ」という特集があった。底地買いと地上げのため、歯の抜けるように商店が閉まっていくようすが記事になっていた。
そして、今や不忍通りが渓谷に見えるほどマンションが林立、グーグルの立体航空写真をみれば背骨のように高い建物が並んでいる。

一方、不忍通りから東に分かれ西日暮里駅のガードをくぐる道灌山通りは、まだのどかな雰囲気を出していた。私が千駄木の家を買った2011年でも2階建ての店が結構あった。それがマンション2棟たち、そして2,3年前からまた動き始めた。

まず、2020年1月、サイクルスポットや岩崎青果(生花)店などが閉店、解体された。今その一角に12階建てのマンションが建設中である。
旭化成の「アトラス西日暮里道灌山」というが、すぐに完売したらしい。

そこへきて、「引っ越すので、ご自由にお持ちください」と、今年の6月、植木鉢はじめ、色んながらくたが路上に出ていた一角も壊され始めた。

2021‐11‐07
1.一番向こう、クレーンの乗っている灰色の覆いが「アトラス西日暮里道灌山」(12階、2022年5月予定)
2.その手前の黒い覆いは、修繕中のアプレパークス道灌山通(11階建て、2003年)
3.その手前の高いマンションは「ザ・パークハウス 谷中道灌山通り」(14階建て、2012年1月築)。
4.そして一番手前、6月にイチジクの鉢が路上に出ていて、解体が始まった現場

2021‐11‐07
解体現場の手前(西)はまだ二階屋が2軒残っている。
5.その手前が「モダーヴ西日暮里」(6階建て、2001年4月築)。

6.そして一番手前は「ザ・パークハウス谷中道灌山レジデンス」(15階建て、2016年12月築。中古なのに69平米で8480万円もする。)
このマンションの名前、これは先に書いた3.「ザ・パークハウス 谷中道灌山通り」(解体現場の向こう)と紛らわしくないか? 
ともに三菱地所だが、むしろI, IIのほうが間違わない。

ところでモダーヴ西日暮里は、住所が谷中なのに西日暮里を名乗っている。この20年で西日暮里ブランドは谷中ブランドに負けたことが分かる。
ちなみに建設中「アトラス西日暮里」は谷中でないから名乗れない。

さて、道灌山通の南側はほぼマンションだらけになったが、北側はまだ二階建てが残っている。もともと北側は日照権の問題があるから開発が難しいが、二階建ては狭い範囲に集まっている。
2021‐11‐07
左から斎藤靴店(閉店)、シルクロード(カレーは別腹。以前は韓国料理店)、中里タバコ酒店、ひらいはりきゅう接骨院

ここだけ二階建てが並んでいるのは、補助92号線の予定地だからか。
この都道は赤紙仁王の東覚寺のあたりだけ広げたものの、計画はとん挫している。
しかし道灌山通(つまりこの地点)までの計画はまだ廃止されていない。役所というのは思ったより頑固である。
いっぽう、道灌山通から南の、谷中、上野までの路線は数年前に中止になった。北側がそのままで南側が数年前から動き始めたのはそうした状況と関係しているのかもしれない。
2021‐10‐24 道灌山通の南側
92号線計画がなくなったから、こういう路地はしばらく残る。

それにしても道灌山通は広い。
いつからこんなに広いのだろう、と過去の航空写真を探した。
1936‐06‐11 陸軍撮影(国土地理院)
昭和11年だから恐らくわが国最初の航空写真であろう。
左下が千駄木小学校、右下が日暮里駅である。
線路の東の尾久橋通りはない。

さて、道灌山通の北側というと開成である。
昭和11年でもグランドが道路側に白く写っている。
その後(戦後)、道路側に建てられた校舎は古くなって、今、大改築の最中である。
2021‐10‐30
東校舎はほぼ完成した。
これだけかと思ったら正門西側も覆い始めた。


フェンスの隙間から覗いてみた。

2021‐10‐30
中学との間の道、向陵稲荷坂下からみる。
新校舎の北の4階建ても壊している。

2021‐11‐26
一か月たって正門西側校舎はほぼなくなった。

2021‐11‐29

2021‐12‐18
道路の向こうの中学校舎が丸見えになるほど、古い校舎がなくなった。

通りに面した「顔」はどうなるのだろう?

2021‐12‐18
新しい東校舎の角、すなわち歩道橋を渡ったところに東門ができた。
いかにも裏口という雰囲気だが、今はここしか入り口がない。
あと40日余りの2月1日、受験生は全員裏口から入るのかな。

つい一昨日、テレビドラマ「二月の勝者たち」が終わった。
我が家は3人とも中学受験した。
3人のうち一人は二月に5校受けて全滅したことを以前書いた。
(普通はチャレンジ、本命、滑り止めを混ぜるから5校落ちる人は珍しい)

もし、孫ができて、もし、ここに通うなら、祖父母の家から通えばよい。
(低確率の二乗?)


20210119 西日暮里三丁目の廃墟は補助92号線の地上げ?

2021年12月19日日曜日

65歳からの職探し、ハローワーク飯田橋

今度の3月で定年退職。

先月末、学部長に改まった調子で、話があると言われた。
半分予想していた不吉な予感で部屋にいると、来室され
「規定通り、来年3月までということで・・・退職です」と正式に伝えられた。
当然のことなのにわざわざ言われるのは、65歳過ぎても残る人が多いからである。

昨年は教授6人が65歳を迎えたが、3人が地位、待遇はそのままで残り、二人は非常勤講師となり、完全にやめたのは一人だけだった。
教授として残れず非常勤講師になったX先生は突然言われたと文句を言っていたが、今年も講義を受け持ち、いろんなところで顔を出して活躍している。

私はあまり貢献しなかったから、今年で終わりかもしれないとは思っていた。
講義は前期1コマ、後期2コマのみ。広報委員長は2年前に首になり、薬学体験学習委員長も引き継ぎが大事ということで今年は副委員長になって委員会の仕事もほとんどなかった。

貢献しなかったのは認めるから退職にまったく異論はない。
しかし大学が私をこれほどまで役に立たないと見ていたことに申し訳ない気持ちになった。

講義については、教科書に書いてあることをそのまま読んでもつまらないと思い、書かれていないことを一生懸命(できるだけ広範囲に、興味を引くように)しゃべった。しかし真面目な学生は国家試験用テキストを暗記することこそ勉強と思っていて、私が薦めた「覚えるのでなく、広く、かつ深く掘ろうとする勉強」は無用だと思っていたふしがある。大学で学ぶ者に「学問の面白さ」を伝えられなかった。力不足というよりミスマッチという気がする。

ま、過ぎたことは仕方がない。
4月からどうしよう。
家に居てテレビをみて食事を待つだけの生活は嫌だな。
仕事を探そう。

大学、学生を満足させられなかったのはやはり力不足を認めねばならないだろう。
林修先生も言っている。「相手の期待以上のものを出せなければ負け」。
私は期待通りですらなく、平均以下、期待以下だったのだから。
ここは潔く、もう、教育、薬学・化学関連の仕事はやめようと思った。
すなわちキャリアを捨てれば期待もされない。
素人としての舞台で期待以上のパフォーマンスをする。

自分の強みは何だろう?

ダンス?
しかしコロナの影響もあり、有名な教室のプロの先生も公民館のサークル指導やダンスパブで出稼ぎされている。
ダンスというのは相性で、私のようなレベルでも競技選手でなければ指導もできる。もちろんパブなどでスタッフとして踊るのに問題ない技量はある。しかし、明らかにレベルが違うプロの先生と同じ土俵に行くのはおこがましい。

翻訳?
よくあるのは特許などの技術翻訳である。私の強みは専門知識に基づいた、読みやすい、わかりやすい日本語だが、特許などの日本文はもともと(わざと?)分かりにくい文章である。あのレベルならグーグル翻訳でも足りると思う。それに1日家に閉じこもる仕事は嫌だ。

ふと、浦和の妹の夫が高校の地学教員を定年後、博物館の仕事を探していたことを思い出した。定年後の職探しに何かヒントがもらえるかもしれない。
持病を持つ彼はコロナですっかり家に閉じこもっている。久しぶりに話してみると、とりあえずハローワークに行ってみたら、とアドバイスされた。

ハローワークの愛称は1990年から使われているらしい。
職安、職業安定所というと、失業という、どこか暗いイメージがある。幸い今まで世話にならずに済んできたが、一度は行ってみるべきかもしれない。

2021‐12‐13
千代田区・中央区・文京区を管轄するのはハローワーク飯田橋。
飯田橋というから千代田区のほうかと思ったら、文京区にあった。
確かに橋の北詰めではある。
家から自転車で20分、小石川後楽園の西の塀に沿って南下し、外堀通りとの角にある。

一階は企業が来る求人部門、二階は我々が行く求職部門、と別れている。
失業給付、教育訓練給付などもここのようだ。

階段で二階に上がる。
求人票が貼ってある。この手作り感が昭和の職安ぽい。
45年前、学生課でアルバイトを探したことを思い出した。

しかし、ここハローワーク飯田橋は、求人取扱い件数全国ナンバーワン。
事務系求人は東京全体の4分の1が飯田橋に集まるという。
と言っても全国から応募できるのだからその数字に意味あるの?

受付で番号をもらって座る。
二階は高い間仕切りのブースが並ぶ。
写真左は個人相談ブース。
写真右側の奥にパソコンコーナーがあり、自分で求人情報を検索できる。
家でも検索できるが、ここなら質問もでき、印刷も無料、紹介状もすぐ出してもらえる。

平日夕方だったこともあり、ほとんど待ち時間なくブースに案内された。
窓口で相談に乗ってくれたのはKさんという60代前半くらいの人。
家で個人ページを作り必要情報を入れてきたので話はスムーズ。

まず希望する勤務地を聞かれたが、答えられない。
仕事が魅力的なら単身赴任、関西でも海外でもいいし、スーパーの商品陳列なら家のそばでなくては嫌だ。時給など希望する待遇も聞かれたが答えにくい。面白ければタダでもいいし、つまらなければ高いほうがいい。

じゃ、どんな仕事がいいですかと聞かれても漠然としている。
今までのキャリアと関係なくてもいい、というと「あ、それもいいですね」と笑顔で賛成してもらえた。

しかし何も手掛かりがないと彼も動きようがない。
「博物館などの学芸員にあこがれているのですが、経験もないし、そもそも募集もないですよね?」
「いえいえ、なんでも希望することです」
とようやく彼は画面に向かって何か打ち込み始めた。

身の程知らずに学芸員といったことを打ち消すために
「造園とか農業にも興味があります」
「何か資格がありますか?」
「ありません。こんなんじゃだめでしょうか」
「いえいえ、いいです。じゃ、植木職見習いで探しましょうか」

「図書館で調査するのも興味があります」
「司書の資格はありますか?」
「ありません。ないとだめですか」
「今から資格を取るという手もあります。私も取ったんです」
と、彼は得意そうに胸の名札をアピールした。キャリアコンサルタントとある。

「そうだ、家で「司書、その他専門職」というカテゴリーで検索したとき、司書などの仕事のほかに探偵会社がヒットしたんですが、少し興味があります」。
ほんとは大いに興味があった。
「確か豊島区のほうの会社でした。」
というと彼は検索し始めたが見つからない。
「アルファベット二文字だったような・・・・」それでも見つからない。
すると隣のブースの女性職員が客がいなかったのか、我々の話をこっそり聞いていたらしい。その探偵会社の求人情報をプリントアウトしてくれた。

「ああ、なるほどね。・・・張り込みとか尾行とか大変ですけど、ほんとに応募するんですか?」
彼は念を押し、紹介状を印刷してくれた。
そのあと、履歴書、職務経歴書の書き方といったパンフレットをくれ、
「また、何度も来てください」
と笑顔で仰った。

階段を降りる前にもう一度、求人票をみた。
2021‐12‐13
60歳以上の求人コーナーは
ビル清掃、マンション管理人、建設現場の交通整理などが目立つ。
これが現実か。

帰りは右に日中友好会館、小石川後楽園の塀をみて北上、
風が冷たかった。
ラクーアの交差点で信号待ちしながら、大勢の人が行きかうのを眺めた。
彼らはどんな仕事をしているのだろう?
でも私は彼らのように若くないからな・・・・

区役所を過ぎ白山通りに出る。
日は落ち寒くなってきたけれど、一歩を踏み出した気がして、なんかわくわくしてきた。

2021年12月16日木曜日

黒田五寸人参は15センチだった

  

2021‐09‐06
まだ梅雨の残る7月8日に種まいて、13日に発芽。
しかしそこから育たない。
2か月たってもこの程度。
ちなみに種袋には、まきどき7月中旬~9月中旬、収穫9月中旬~12月下旬とある。

9月に入ってからは夜中に虫が出てきて葉を食った。
キャベツなどのヨトウムシより細いが、消毒効かず、懐中電灯を照らしながら割りばしでとった。

初めて種をまいたのは千駄木菜園4年目の2016年。
しかし、人参は難しい。
発芽はするが、育つ前に雨で泥をかぶったりして大きくならない。
いかに冬前に大きく育てるかが問題な気がする。
できるだけ早くまこうと、7月に空くキャベツのあとの場所を使っている。

それでも、育たない。
日当たりが悪いのだろうか。
肥料もやらないし。
種が古いのかもしれない。豆類やオクラと違い、種が小さく多いから、一袋が使いきれず、冷蔵庫に保管しつつ4,5年使った。
ようやく昨年種を新しくし、今年は2年目。

2021年、12月の土曜日、妻が上野で娘に会うというので、初めて抜いてみた。

2021‐12‐11
思ったより良くできていた。
種まいて5か月もかかったが。

人参の学名はDaucus carotaという。
ふーん、英語のキャロットは種名をそのまま使っているんだ。
あれ? 
カロチンってここからきているのか。
考えたこともなかった。
ビタミンAのカロチンは中学生、carrotは高校生のとき知ったと思う。
しかし「きゃ」と「か」が結びつかず、この年まで不思議とつながらなかった。

(carotinは、carrotのラテン語carotaに物質のinをつけたのだろう。
in,ineはギリシャ語のinos有効成分からきている)

2021‐12‐11
妻が出かける前、娘のために収穫したもの。
大根は今年6本目、葉を落として1130グラム。

さて、人参3本は、190,150,100グラム
デッキの板の幅は18センチ。
黒田五寸人参の5寸は15センチだから、十分に名前通りの大きさ。

妻に人参、大根、ミカン、落花生と、さらにサツマイモも持たせようとしたが、重いからいやだという。
彼女は歩くことが健康にいいと信じていて、上野松坂屋まで歩いていった。そりゃ重いだろう。

ところで人参は文字からして本来は、根っこが人の形にもみえる朝鮮人参(オタネニンジン)のことを差すのだろう。オタネの由来は、それまで輸入していた薬用人参の国内栽培が江戸時代に成功し、幕府が各藩に「御種」を配布したからとか。
この人参はウコギ科である。

いっぽう食べるニンジンはセリ科。16世紀ころ中国から伝わった。ニンジンの根はヒト型にはとても見えないが、同様に太い根が可食部になることで、セリニンジンといった。明治以降、薬用人参の需要が減り、セリニンジンが普及するにつれ、人参と言えばニンジンになった。

ニンジンには江戸時代初期に広まった東洋系と、幕末に入ってきた西洋系に分かれる。京野菜の金時人参や江戸の滝野川人参は東洋系。今スーパーで売られているのはほとんど西洋系の五寸人参で、東洋系と比べ短くて太く、栽培しやすい。

ダイソーで2袋100円、私が買ったニンジンの種は、大正末期に黒田正氏が丸山五寸から改良した黒田五寸人参。

2021‐12‐13
ふと、葉っぱを食べてみようと思った。
以前食べたらまずくて、この私でさえ吐き出した。
しかしあれはトウが立ち始めた春だった。
この季節なら食べられるかもしれない。
2日前、畑に捨てておいた葉っぱを水につけたら元気になった。

電子レンジで茹でてみたが、やはり不味くて吐き出した。
少しセリの味がした。

子どもの頃、信州でアゲハの幼虫が、セリとニンジンのみに居たことを思い出した。
彼らは、同じセリの仲間だと知っている点では人間より賢い。
我が家にはニンジン、セリ、アゲハの3者が共存するけれど、アゲハはセリ科には行かず、なぜかミカンの葉っぱのみに着く。




2021年12月14日火曜日

谷中墓地12 寛永寺新規墓地は40年前の幻、徳川夫人墓地だった

都心4都営霊園の一つ、谷中墓地は染井、雑司ヶ谷、青山と違って、近年急速に変わっている。中に都営ではない寛永寺墓地があるからだ。

上野桜木のほうから入り、渋沢家墓所を越え、寛永寺墓地管理事務所と阿部家墓所の間をゆくと青山胤通の墓にぶつかるが、そこを曲がると一気に視界が開ける。
2021‐10‐24 11:47
徳川田安家墓所(写真奥、左の森)と青山胤通墓所(右、手前)の間


これからびっしり墓石が並ぶのだろう。

4年前にも開発中の寛永寺墓地についてブログを書いた。
それからさらに進んでいる。

谷中墓地に初めて来たのはいつだろう?
1978年1月、大学3年の終わりに本駒込から谷中に引っ越した。
しかし当時は散歩する趣味もなかった。墓地に隣接する日暮里駅をたまに使うことはあっても、六阿弥陀道と七面坂を通ったから、墓地の北縁を素通りしただけだった。

近道を探そうとしたのか、気まぐれで中に入ったのは、三年間で二、三度しかなかったのではないか?
1980年に谷中を去って埼玉に住んでからは一度だけ、1992年正月に安藤英広氏と皇居一般参賀の帰り、この墓地まで歩いてきたことがある。

それらのいつだったか分からないが、墓地の中で迷った。
出口を探しているうちに、古い大きな石塔がいくつも並ぶ場所に出た。
倒れている塔もあり、桐の木があって草がぼうぼうに生えていた。
夕方で、誰もいなくて、ちょっと不気味な場所だった。

その後、2000年、2001年ころから日暮里サニーホールのダンスパーティに来るようになった。懐かしくて2,3度、墓地を歩いた。時間つぶしの5分、10分だから、全部歩いたわけではなく、その廃墟のような一画は見つからなかった。

さらに10年後、千駄木で家を探し、引っ越してからも何回か墓地を歩いた。
2013年はカラスに頭を直撃された。
そして、ほぼ墓地全体が頭に入ったとき、あの不思議な場所はどこにもないことが分かった。

となると40年前見た(と思う)あの光景は何だったのだろう?
荒涼とした石塔群は夢だったのだろうか?

今回、ふと、国土地理院のホームページに各年代の航空写真があることに気が付いた。
あれが夢だったかどうか、これで分かる。
2019‐08‐08 最新の墓地写真
中央十字は小さくなった渋沢家墓地
その上に阿部家墓地がある。
その右上に広がる寛永寺墓地は、駐車場、分譲済み墓地、更地となっている。
2017‐08‐25
このころ寛永寺新規墓地についてブログに書いた

2014
寛永寺分譲予定地はまだ草の生えた空き地になっている。

2009‐04‐28
渋沢家墓は縮小前で樹木に覆われている。
分譲予定地は土の更地。
ここではっとした。
よく見れば、更地の端に集められているのは古い墓石ではないか?
それら墓石は2014年にも放置されている。

さらにその20年前をみて確信する。
 1989-10-20
今駐車場や更地になっている寛永寺墓地は、大木に覆われている。
ここだ!
私が見た夢のような廃墟の墓所は、寛永寺墓地だったのだ。
阿部家墓地の道を挟んだ隣。いまの田安家墓所の並びである。
幻でも記憶違いでもなかった。
あの石塔の古さ、大きさ、寛永寺墓地ということからして徳川家のゆかりの墓所だろう。

ネットで調べたら、上谷桜池氏のHPにたどり着いた。
大変優れたサイトで、以下のように書かれている。

御台所様墓地(みだいどころさまぼち)/徳川御婦人墓地/徳川妻妾墓地

    谷中霊園の中で最大の墓域であり、敷地、2,000坪に及ぶ石囲(石塀)の中にある。正式な名称ではないようだ。現在発掘調査および整備工事のため見学はできない。下記は、工事前の状態であるので、工事後には全てなくなって、長昌院墓地跡に移設される予定。


いつ書かれたものか不明だが、発掘調査、整備工事中だったという。
それが終わって更地になったわけだ。
現存する田安家墓地と比べてその大きさが分かる。
(比べなくとも今分譲中の寛永寺墓地・徳川浄苑の広さをみればよい)

1979-11-14
1979年はまさに私が谷中にいたころである。
もう自分の頭の中にしかない、あの光景がひどく懐かしい。

2021‐10‐24 徳川浄苑入り口

墓地は景色が変わりにくいというが、40年ですっかり変わった。
ちなみにグーグルのストリートビューは、この場所まで来ている。
1980年の景色が記録されていないのが残念である。

江戸期徳川家の妻妾や、夭逝子女の墓などを守る子孫、縁者もいないだろう。
だから管理していた寛永寺が土地資産として、整地し売り出すことも、わからなくはない。
しかしだからといってすべて破却したというのは、なんとも寂しい。


2021‐10‐24
新たにできた墓地の入り口には販売事務所があり、幟が立ち人が詰めていた。
1メートル四方、こたつ程度の広さでも500万近くする。6.6平米だと2000万円。
郊外なら土地付き中古住宅66平米は2000万で買える。
つまり墓は土地の10倍の価格でも売れるということだ。
それに目をつけ寺や業者が土地を買って開発したら日本は墓地だらけになる。
いくら高くしても買う人は買う。
金持ちが死ぬとき、子孫よりも墓に残したい人はいくらでもいるだろう。

もう新規墓地の建設、分譲は許可しないほうがいいのではないか?
都会のお寺の新規分譲墓は座布団程度になっている。
樹木葬も見に行けば塀ぎりぎりの箱庭のような狭いスペースだったりする。
都営霊園 第5立体埋蔵施設
後ろの緑のフェンスは旧渋沢栄一墓所の公園工事

立体埋蔵施設も谷中は競争率が高そうだ。
私は死んだら散骨してもらい、サイドボードの上の小さな写真だけでいいと思う。
そのうち本棚で忘れられたアルバムだけになっても文句は言わない(言えないけど)。

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