2022年8月25日木曜日

京都22 本願寺の歴史を整理する

3月19日、定年退職を前に家族で京都を旅行した。

2泊3日の最終日は、昼食後家族と別れ、ひとりで丹波口の京都リサーチパークにきた。ここは2003年から2005年にかけて50回ほど通って懐かしい場所である。

外からKRP4号館ビルを見ただけで、近くの京都中央卸売市場、島原花街跡を久しぶりに通り過ぎながら、家族との待ち合わせ場所の東本願寺に急いだ。

14:46に島原大門を出て、家族にラインしたら東本願寺境内にまだいるとのこと。

まっすぐ花屋町通りを東に歩くと大宮通りで西本願寺の北西角にぶつかった。

2022‐03‐21 14:54
塀に沿って大宮通りを南下

延々続くのは蔵だろうか。
浄土真宗の大本山として相当な財力、影響力をもつ。江戸時代以来の宝物、仏具やら仏典、書類が大量にしまわれているのだろう。戦前の大谷探検隊が持ち帰った西域仏教の資料もあるのかな?

14:58
ようやく塀が切れ、東に行く道があった。
左右とも龍谷大学。

ちなみに(西)本願寺の山号は龍谷山である。
龍谷大学図書館
この大学は、寛永16年(1639年)、西本願寺13代宗主良如が、本願寺阿弥陀堂の北に僧侶の教育機関として設立した学寮を起源とする。
1922年、大学令により(旧制)大学となったから、日本の正式大学としては古いほうだ。
いまは文系各学部のほかに滋賀県には理工学部、農学部もある総合大学となっている。単なる宗教大学ではない。

ちなみに甲子園最多出場を誇る平安高校も、2008年から竜谷大付属平安となったように、本願寺系の学校である。(大宮通りの西にある)
14:59 龍谷大学北黌
明治12年建築の重文

15:00
本願寺の台所門
本願寺中央幼稚園の表札がかかっている。

ちなみに東本願寺と西本願寺は通称で、正式にはそれぞれ真宗本廟(山号、寺号なし、真宗大谷派)と龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派)である。

大玄関門
24年前の1998年3月25日、薬理学会の合間に東本願寺と西本願寺を見物した。
東の堀川通りの門から西本願寺に入ると、駅に近くて観光客もいる東本願寺とは違って人はほとんどいなかった。国宝飛雲閣は見られなかったが、夕日の中、境内をゆっくり歩いてこの大玄関か台所門からでて龍谷大学を見つけた。それまでこの大学が本願寺付属とは知らなかった。

15:01 唐門
国宝なのに、人通りもなく誰も見ている人はいない。
本願寺の私道と思われる道は、北小路通りというらしい。何が北なのか分からないが。

本願寺は浄土真宗の寺。
1262年に親鸞が89歳でなくなった後、弟子たちが親鸞の師匠、法然が起こした浄土宗から別れ、新たな宗派を発展させた。だから親鸞は創立者ではないが、教団からは教祖とされる。

親鸞は鳥部野北辺の「大谷」に葬られ、大谷廟堂が教団のよりどころとなる。親鸞のひ孫にあたる第三世宗主、覚如が1321年、廟堂を寺格化し、本願寺と号する。

その後、本願寺は延暦寺など既存宗派から迫害を受け各地を転々としたが、徐々に教勢を拡大し、戦国時代には各地で一向一揆をおこし大名と戦うほどだった。1533年以降、教団本山となっていた大阪、石山本願寺は信長と11年間戦った。最後は11世顕如が和議に応じ紀伊に去ったが、このとき長男の教如は徹底抗戦を主張した。
ちなみに、のちに大阪城が築かれる石山は中興の祖8世蓮如の隠居所として作られたもの。

本願寺教団は1591年、秀吉から現在の堀川七条の地を与えられた。
しかし顕如の跡を継いだ長男の教如は、石山合戦のときの強硬派ばかりを側近として重用したため、教団が分裂していく。石山合戦のときの穏健派は三男の准如をたてた。12世となるはずの教如は秀吉の怒りを買い、准如が本願寺12世となる。
いっぽう教如は本願寺の一角に御影堂を建てた隠居所に暮らすことになった。

秀吉没後、長男教如は家康に近づき、本願寺のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領を寄進され、御影堂などをうつした。そして教如の三男、宣如の時代になって、正式に一派を成し、教如を12世、本人を13世とする真宗大谷派(東本願寺)が成立した。

・・・・
唐門の前を通って東の堀川通りに出るには北小路門をくぐる。
15:04 本願寺北小路門
西本願寺の東南の隅にあたる

本願寺は北小路の北にあるが、堀川通りで南を見ると本願寺並みの立派な門がある。

15:04
見れば本願寺でなく興正寺とある。
興正寺とは何だろう?
本願寺の前にちょっと覗いてみよう。
15:05 興正寺三門

興正寺は真宗興正派の本山。
本願寺同様、親鸞を開祖とし、阿弥陀如来を本尊とする。
山科で建立され、南北朝時代に仏光寺と寺号を改めた。室町時代に14世蓮教は本願寺8世蓮如に帰依して、仏光寺を弟に譲り、再び山科本願寺の隣に興正寺を創建、以後、ずっと本願寺と歩みをともにした。すなわち石山本願寺からここ京都堀川まで一緒だった。しかし明治になって独立、真宗興正派となった。
15:06 興正寺御影堂

現在では、親鸞を宗祖と仰ぐ昔からの一向宗教団は10派存在する。
 浄土真宗本願寺派(本願寺) 所属寺院 約 10,500
 真宗大谷派(真宗本廟、東本願寺) 所属寺院 約 8,900
 真宗高田派(専修寺) 所属寺院 約 640
 真宗興正派(興正寺) 所属寺院 約 500
 真宗佛光寺派(佛光寺)
 真宗木辺派(錦織寺)
 真宗出雲路派(毫摂寺)
 真宗誠照寺派(誠照寺)
 真宗三門徒派(専照寺)
 真宗山元派(證誠寺)
つまり、浄土真宗を名乗っているのは、西本願寺だけである。

ところで一向宗、浄土真宗、真宗の違いは何か?

一向宗は鎌倉時代、浄土宗の一向俊聖が始めたものだが、同じ踊り念仏をする浄土真宗と混じるようになり、戦国時代には一向一揆で見られるように本願寺門徒が一向衆(一向宗ではない)と呼ばれた。

戦国時代までは一向宗とよばれたが(教団は自称していない)、幕府により時宗と一緒にされいったん時宗一向宗と改称、のちに一向宗が公式名称とされた。

しかし江戸時代、東西本願寺が一向宗という幕府公称を浄土真宗に変更するよう請願した。ところが浄土宗の大寺、将軍家の菩提寺・増上寺が「浄土」を使うと混同を招くと反対。
ようやく明治になって政府が浄土の語をはずした「真宗」ならよいとし、一向宗から真宗と変わり、1世紀かかって決着した。
すべては真宗となったわけだが、国家による宗教統制が解かれた第二次世界大戦後、西本願寺だけは浄土真宗本願寺派と正式に名乗るようになった。

15:06 興正寺阿弥陀堂
明治35年の本堂消失の後、再建。

再び堀川通りに出て急いで隣の本願寺にいく。
15:09 本願寺御影堂門
東西本願寺では、みえいどうではなくごえいどうという。

15:10 
目隠し塀(重文)の後ろに本願寺御影堂

15:11 逆さ銀杏
枝が根のように広がっているから。
樹齢400年、京都市天然記念物。

忙しいので御影堂(国宝)、阿弥陀堂(国宝)、飛雲閣(国宝、非公開)、書院(国宝)など、じっくり見る暇もなく、すぐ退出し、家族と合流せねばならない。

東本願寺にいるはずの家族にラインしたら、これから京都駅あたりでお茶するという。
京都駅観光案内所で16時半待ち合わせに変更した。
少し余裕ができたが、時間がないことに変わりはない。

御影堂門から東を見ると、堀川通りの向こうに門がある。
西本願寺の総門である。

15:20
御影堂門からまっすぐ、本願寺総門をくぐる通りは正面通りという。
この普通名詞のような通り名は、京都における本願寺の大きさを表している。
両側は仏具店などが並ぶ。

写真右は西本願寺伝道院。生命保険会社の社屋として明治45年(1912)に建てられ、銀行や診療所などを経て、いまは僧侶の教育施設として使われている。設計は築地本願寺(西本願寺系)を設計した東京帝大教授・伊東忠太。

1998年とは逆の順番で、西から東に向かう。
正面通りは新町通りで行き止まりなので、北に曲がった。
東本願寺も西本願寺と同じように、西辺に門はない。

15:26
新町通りをいくと、たまにある隙間から、東本願寺の城壁のような石垣が見えた。
普通の寺なら四方に入口があるものだが、東本願寺は東の烏丸通りにしかないようだ。
15:29
東本願寺北辺の花屋町通りを急ぐ。
先に訪ねた島原大門から続く通りである。

ようやく烏丸通に出て南下。
東本願寺の正面に出る。
15:34 烏丸通りと京都タワー

15:35
寺号が書かれる扁額には、なるほど「真宗本廟」と書いてある。

15:36
御影堂、左が阿弥陀堂
もう家族はお茶に行ったので、合流する必要もなく、じっくりみていく。
1998年と同じように御影堂に上がってみる。
15:38
東西本願寺の良いところは、京都駅近くの広大な境内に豪壮な建物が並ぶにもかかわらず、入場無料なこと。全国一万寺を誇る大寺の財力によるものか、あるいは敬虔な参拝信者と観光客と区別できないからか。

御影堂は親鸞聖人の御真影を安置する。
蛤御門の変による焼失の後、 1895(明治28)年に再建されたもの。
よって西本願寺と違い国宝はない。ほとんどが重文。

高廊下を渡ってギャラリーにいく。
15:41


ギャラリーでは親鸞聖人の生涯についてビデオを流していた。
閉館の16時近かったこともあり、客は誰もいなかった。
高廊下をゆくと参拝接待所があり、自由に入って休めるようだった。
広い畳の大広間に、信者だろうか、数人座っていらした。

東本願寺を出て京都駅に向かう。
16:08
ちなみに、今CMでよく出る「浅草浄苑」を売り出している浅草の「東本願寺」は、ここから分かれた。
1969年に真宗大谷派の内紛(お東騒動)の余波で1981年東京別院東京本願寺住職であった大谷光紹(第24世 闡如(大谷光暢)の長男)が京都の真宗大谷派から独立、1988年、賛同する寺と一緒に浄土真宗東本願寺派を結成した。
宗派名は本家のここよりずっと「東本願寺」を思わせるから紛らわしい。
本家の正式名が東本願寺でないことから、名乗ることができた。

16:11
京都駅に向かう途中、半地下のフロアにカフェなどが並ぶ。
ヨドバシカメラ、ユニクロも入り、古都に現代が混じる。

16:13
駅についてふと見るとメルパルク京都があった。
メルパルクは日本郵政が土地を保有、全国でホテル、会議室などを運営している。
2004年、丹波口KRPの野間プロジェクトに出張していたころ、嵯峨野公民館、江坂などのダンスパーティに行き、7月にはここメルパルク(ぱるるプラザ)のパーティにも来た。

2017年5月、全国の薬学部の薬理担当教員が集まった、薬剤師国家試験問題検討会も、ここのメルパルクで開かれたことを思い出す。
16:18 京都駅
家族と合流、新幹線で東京に戻った。

二泊三日だったが単独行動もしたおかげで密度濃い旅行だった。
いろんな記憶がよみがえり、ブログも17本にわたる。
しかし、かつて訪ねた哲学の道から銀閣、金閣、嵯峨野、桂、宇治、大津、宝ヶ池などは行けなかった。退職老人として千駄木に引きこもったから、もう京都に行くことはないと思う。

(京都シリーズ終わり)


2022年8月23日火曜日

ピーマン挿し木は育たない。


2022‐08‐09
夏、一番元気なのはサツマイモ。足の踏み場もない。
右奥は種をまいたばかりの人参
左奥はキウリのネット、4株で95本とれた。

2022‐08‐09
茄子は4株で64個取れた(8月19日時点、ほんとにこんなに食べたかな?)。
しかし元気がない。
みれば虫害がすごい。
元気がないと余計に食われるのかな?
来年は肥料をあげよう。

パプリカはまだ花が咲かない。
種から始めたとはいえ、時間がかかりすぎる。
昨年も狭い庭を長期間占有し、秋に1株当たり2,3個取れただけだった。
来年はもうやめる。
2022‐08‐09
同じナス科のピーマン
パート先で剪定された枝を持ち帰り挿し木した。17本くらい水につけ、萎れなかった14本をプランターの土に差し、最終的に4本育った。ジャガイモを抜いたあとに移植したが、しかしちっとも大きくならない。

2022‐08‐09
根は確かに出ているが、実がならなければ育てる意味がない。
すべて抜いて捨てた。

ピーマンを捨てるのは場所を空けるため。
ここで白菜の苗を作る。
昨年は大根の間に種をまき、日が当たらず苗が十分育たなかった。
寒くなる前にある程度大きくならないと、冬になって葉が巻かない。
2022‐08‐21
白菜は2020年に買った種がまだ十分残っている。
8月10日、25鉢に2粒ずつ50粒まく。
8月14日、34発芽。
冷蔵庫に保管して3年目でも発芽率68%というのは優秀。

こちらはニンジン
8月7日、すじまきにしたが、発芽したところと、まったく芽が出ないところがある。
種の問題ではなく場所の問題。
土が深すぎたのか? 種が流れてしまったのか?

2022‐08‐21
サツマイモはさらにはびこってきた。
通路だけでなく、人参の畑も、キウリのネットも、そして家さえも覆われそう。



2022年8月21日日曜日

飯田3 レトロ伊那市で途中下車、長野への直通電車

きまぐれで前日8月12日の夕方、用もないのに飯田に来て、寝ただけで早朝出発。
同じ長野県だが、南から北の端へ、5,6時間かけて実家の信州中野に行く。
迎え盆だからね。

2022‐08‐13 4:49
未明の飯田駅
人口10万なのに駅が小さいのは乗る人が少ないから。
飯田線は単線の地方線。5:00から23:00まで18時間で16本しかない。
ほとんど通学高校生しか乗らないのではなかろうか。

1日2往復の特急「伊那路」は秘境が売り?の飯田発豊橋行き、一方、東京へ行くには快速みすず(1日1往復)でも2時間以上かかって岡谷に出てから中央線に乗り換える。その不便さに名古屋方面、東京方面ともみな高速バスを使う。

長野まで乗車券は3080円。スイカは使えず。

5:00始発の茅野ゆきは一車両に2人しかおらず、一番いいボックス席を独占し、お菓子とジュースを窓際に並べ、パンをかじる。一人旅は楽だ。
これが人と一緒だとゆっくり起きてホテルのレストランで朝食となる。
もちろん前日夕方のように駅から歩いて暗くなる前30分で飯田城を見終わる強行軍など不可能だっただろう。

5:14
昨夜までの雨は上がり、伊那山地までは見える。
その向こうの南アルプスは、晴れたら線路から見えるのか見えないのか分からない。

5:18
伊那谷と書いてきたが、「信濃の国」では、松本、佐久、善光寺と並ぶ4つの盆地の一つ、伊那平である。

山塊に囲まれた伊那平
(赤印が飯田駅、盆地の一番広いところが伊那市)。
天竜川は右下にみえる諏訪湖から発し、左上の静岡方面の山塊に消えていく。
もし天竜の水が山中に海への抜け道を見つけられなかったら、伊那平は琵琶湖のように大きな湖となっただろう。
それにしても、中山道、中央本線はこの広い伊那谷を通らずに、なぜ山しかない木曽谷(右上)を通ったのだろうか?

飯田駅を5:00に出た電車は、6:33に伊那市に着いた。
このあと飯田を5:45に出て長野まで行く電車があるので、途中下車することにした。
30分くらい市内見物できる。

飯田が下伊那郡の中心であるのに対し、伊那市は上伊那郡の郡都である。
しかし飯田が明治8年、すでに町制施行し、1937(昭和12)年に市となった城下町であるのに対し、伊那市は1897(明治30)年にようやく伊那村が町となり、戦後の1954年に中野市などと同じようにようやく市になった。名前で得をしているな。
人口は6万4千人。
駅前の地図には2006年に合併した高遠町なども広域図に描いてある。
ここから高遠支所まで9.5キロメートル

6:36
朝のせいか、ここも人がいない。
正面の看板は「ようこそ 伊那節と勘太郎の街へ」であるが、この意味が分かる人がどれだけいるだろう? 伊那市民はみんな知っているのかな?
越後屋の向こうに少し見えるのは複合ビル「いなっせ」。

伊那市の中心。いなっせ前の交差点。

6:39
街路樹の代わりに植木鉢が並んでいる。見ればすべてバラである。
はっとした。伊那は「ばらサミット」のメンバー自治体だった。
昔からバラには興味がないが知っていた。なぜなら、実家の信州中野も、30代の7年間住み、最後の9年間の職場があった埼玉県伊奈町もメンバーだからだ。
バラを市町村の花にしている自治体を中心に、29自治体が加盟している。

ちなみに埼玉県北足立郡伊奈町、茨城県筑波郡伊奈町(2006年、つくばみらい市)とも、1792年に改易されるまで江戸幕府の関東代官頭を務めた伊奈家にちなむ。伊奈家は足利氏の庶流といわれ室町時代に信濃国伊那郡の一部を与えられたが、のち三河に出て松平家に仕えた譜代大名(のち減封され旗本)。
6:40 小沢川
北に歩くと小さな川にぶつかった。
『あの水この水の天竜となる水音』 山頭火の句碑。
それよりも橋の向こうに「伊那名物 ソースかつ丼」の看板が見えて嬉しかった。

小沢川に沿って下る。
「非常ボタン。エンストしたらボタンを押す」と大きく親切な案内板。
しかも2本!

6:42
たまや 「韓国餅・大福餅・あんころ餅・大福餅・赤飯 受け承ります」
餅なら何でも頼めそうだ。
「大福餅、切り餅、おやき ¥150 アラレ ¥500」
わざわざ看板を作らなくとも商品前に紙片を置くだけでいいと思うが。

6:43
すぐ天竜川に出た。
東海道新幹線で浜松の東、水のない広大な河川敷は何度も見たが、本物の天竜は初めて。
これが途中下車の目的。
諏訪湖の釜口水門から海まで213km(全国9位)。でも諏訪湖に入る八ヶ岳の川から測ればもっと長いだろう。

明治以前、川の名前というのは地域によって違う。古代は静岡と伊那谷では別の川と認識されていただろう。天竜はどこでいつから言われたのだろう?などと考えながら駅に戻りはじめる。
6:46
駅から大分離れているのにスナック、バーが密集。
伊那市は人口1000人当たりの飲み屋の数が全国トップクラスらしい。

飯田線の辰野方面。田舎なのに建物が線路に迫っている。
辰野方面は東京方面だが下りになり、豊橋方面が上りになる。
木曽を走る中央本線も東京方面の塩尻行きが下り。JR東海だからかな?

6:48
看板建築のような昭和レトロな建物が普通に並ぶ。
意識的に残しているのか、今や珍しいのではないか?

6:49
「レトロ伊那 芸能・音楽界有名人」
出身だけでなく疎開した人も含む。高木東六、三沢あけみ、本間千代子、みんな古いな。
私には芸能人じゃない井沢修二(高遠)、伊藤国光、向山光昭のほうがピンとくる。
「レトロ伊那」は商店街のキャッチフレーズかもしれない。

6:52
唯一の現代的ビル「いなっせ」
上伊那郡の役所やホール、生涯学習センターが入っている。

6:54
市の方針に従わずバラを並べない商店もある。もちろん自由だ。
歩行者だってバラ以外の花も見たいだろう。

7:04
駅に戻る。駅前の4階建てビルは空き家、パチンコ屋は廃業していた。
レトロを売りにしても市外、県外から観光客が来るとも思えない。
しかし古い店舗の保存といいバラの鉢を並べるといい、市民は素直に当局の音頭にこたえている。

飯田市と伊那市は、伊那平を南北に分けてそれぞれの中心となっているが、飯田の文化の高さが圧倒的である。城下町として士族がいたことが今に至るまで影響しているのだろうか? 伊那市も平成大合併で内藤3万3千石の城下町高遠を併合したが、離れた高遠町は鉄道が通らなかったため文化は溶けるように消えてしまった。信越本線が通らず発展しなかった松代を併合した長野市に城下町の文化が残らなかったのと似ている。
文化都市になるには士族階級と明治の産業化が必要だったようだ。

7:08 飯田から来た長野行き直通快速「みすず」にのる。

7:36 箕輪町、JR沢駅付近
大正2年、中箕輪高等小学校で教育県長野らしく先進的に行った宿泊登山で学童、教員38人が遭難、11人が死亡した。この事件は名著「聖職の碑」(新田次郎)で知ったが、車窓の外は彼らの地元である。子供たちの目的地だった木曽駒ケ岳は、稜線をたどって大分南にある。

7:47 辰野駅着
辰野は新宿から松本方面に向かう中央線特急「あずさ」から飯田線への乗換駅で、私の高校生のころは重要な駅だった。しかし、1983年以降、中央東線は岡谷-塩尻間で塩嶺トンネルを通るようになり、辰野は素通り。小さな地方駅になった。

辰野といえば、人口2万人に満たない小さな町だが、最後の戦艦大和艦長、有賀幸作と、戦艦武蔵の艦長だった古村啓藏の出身地である。二人とも諏訪中学(現・諏訪青陵高校)から海軍兵学校に入った。古村のほうが1年上だが病のため兵学校は同期である。当時兵学校の定員は100名(卒業89名)、日比谷中や神戸一中など全国の秀才があこがれた超難関であったが、山国から合格、同期で大和、武蔵の艦長を務めた二人とも辰野という山村(町になったのは戦後)出身なのは面白い。
あ、確か薬学の赤羽浩一氏も辰野ではなかったか?
7:54 
辰野を過ぎ、川岸駅付近
家の向こうの天竜川は、諏訪湖を出たばかりでそこらにある小川のよう。

7:59 岡谷駅に到着、
8:08 スイッチバックし塩尻に向かう。

8:16
塩尻、松本あたりでも電車は空いたまま。
8:19 塩尻着
8:40 松本
9:30 姥捨

9:31 姥捨駅
この景色を見るのは生理学会(2012年松本)の帰り以来。
電車を待つベンチは、線路に背を向け外を向いて作ってある。

電車はスイッチバックして並行する下の線路に降り、標高差を稼いで善光寺平に降りていく。左から右の向こうに千曲川が流れ、今朝見た伊那谷を思い出す。

県歌『信濃の国』一番の後半は、
「~松本、伊那、佐久、善光寺 
 四つの平は肥沃の地 
 海こそなけれ物沢(ものさわ)に 」
信州の4つの盆地はそれぞれ他県のほうが近いほど離れていて、文化風習も違っている。しかし、やはり他県よりもお互い似ているのである。