3月19日、定年退職を前に京都を旅行した。
昨年2月、結婚した次女夫婦が親への記念品として手づくり旅行券をくれた。行き先未記入でどこでも連れて行ってくれるという。
そのままになっていたのだが、そのうち動けなくなってしまうかもしれないので使わせてもらうことにした。
妻は飛行機がダメなので海外など遠くは無理。
しかし個人的に一番面白いところは東京だと思っている。次は京都かな。名所の密度が群を抜いている。
2泊3日で見切れないほどの場所は京都しかなかった。
それにこの年になると新しい場所よりも懐かしい場所がいい。京都は2003年から2005年にかけて二泊三日の出張を50回ほどしたし、ほかに何回も学会で来た。全部合わせたら200日近く歩いているかもしれない。東京、埼玉以外でこういう土地は長野と京都しかない。つまり名所見物のほかに記憶の掘り起こしということで京都にした。
3月19日、新幹線で上洛した初日は御所、鴨川、京大を4人であるき、黒谷の金戒光明寺は単独行動。仁和寺で宿泊。
息子がちょうど大阪出張の帰りで、2日目から合流した。
2日目は平安神宮、南禅寺、知恩院、祇園、二寧坂をあるき森さん夫婦と会食。
(別ブログ)
2日目は妙心寺の花園会館に泊まった。
2003年からあちこち泊まっていたころ、妙心寺に興味があった。
しかし20年前はまだインバウンドや旅行ブームの前、ネット情報も少なく、寺に泊まることは一般的ではなかった。花園会館もまだなく、仁和寺や智積院とちがい、妙心寺は泊まれなかった。
そこで次女夫婦に懐かしい仁和寺とともに妙心寺での宿泊をリクエストしたのである。
伏見など南のほうに行くのでスケジュールがいっぱい。
仁和寺のような朝の勤行(読経)はないので、妙心寺という大寺であっても見物は朝食前の散歩のみ。
6:30
下のロビーで若者3人と待ち合わせ。
妻は2日間の歩きで足が痛くなり、朝寝坊するという。
余り宿泊客はいないようだ。
入口の上人像を除けば、フロント、ロビーは一般ホテルと変わらない。書棚がわずかに仏教色。
6:34
妙心寺花園会館全景
地上6階、81室のほかに教化ホール、伝道室をもつ。
花園会館の西、宗務本所(写真右)のわきからすぐに境内に入っていけるが、やはり正門(南総門)から入ろう。
6:36 南総門
曹洞宗の約15,000寺院が一つの宗派であるのに対し(本山は永平寺と総持寺の2つ)、臨済宗は15の宗派に分かれる。
日本の臨済宗の開祖栄西が1202年開いたのは前日境内を通り抜けた建仁寺である。建仁寺も妙心寺も15ある大本山の一つだが、臨済宗寺院約5,650のうち、約3,350が妙心寺派だから、ここは臨済宗最重要寺院と言ってよい。
開基(創立者)は花園天皇。この地は花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。上皇は、1335年法皇となり、ここを禅寺に改めることを発願、1342年、開山(初代住職)として美濃にいた関山慧玄(無相大師)が招かれた。
さきに妙心寺について興味があったと書いたのは、この無相大師というのが、信州中野出身なのである。
関山慧玄(かんざんえげん、1277 - 1361)は、中野の豪族高梨氏の出身。
子どものころ信州中野の駅前には生誕地として彼の名を書いたトタンの角柱看板が立っていたが、妙心寺も無相大師も子供にはわからない。
今や中山晋平のほかに、ジブリ音楽の久石譲、高野辰之(2005年中野が豊田村と合併)、横浜ベイスターズの牧秀悟と、中野出身有名人は増えてきたが、私が子供のころは無相大師しかおらず、しかも市民はこの人が誰だか誰も知らなかった。
境内は広く、東西500メートル、南北620メートル、9万3千坪の中に山内塔頭37か院が並ぶ。境内の外にも石庭で有名な竜安寺を含め境外塔頭が10院ある。
花園大学、花園中学・高校も妙心寺が経営する。
北総門の外に竜安寺が描いてある。
6:39 三門
一般に三門は本堂に向かう最初の大きな門で、山門とも書けば、正面玄関に当たる。
一方、総門は敷地の一番端にある。
前日歩いた南禅寺は三門からずっと離れた市街地にぽつんと総門があった。これはここまでが境内だったのが町人に土地を貸しているうちに離れ離れになってしまったのだろう。
知恩院も三門の下(西)に塔頭や和順会館があるから、かつてはもっと下(西)に総門があったのかもしれない。
前日泊まった仁和寺は山門と総門が一緒になった形で二王門いうが、これも昔は双ヶ岡のほうまで境内だったというから総門は南にあったのかもしれない。
妙心寺は上皇の御所をそのまま境内にしたから、敷地はまとまっていて、総門、三門が最初からこのように配置されたのだろう。
三門の東となりに浴室という場違いな名前の建物があった。
2022-03-21 6:40
妙心寺 浴室(明智風呂)
本能寺の変のあと、光秀が自刃を覚悟し、伯父にあたる密宗和尚のいた妙心寺に礼拝した。
和尚は自刃を諫め、光秀は山崎の合戦で敗れた。その5年後、密宗和尚は光秀菩提を弔うため、この浴室(蒸し風呂)を建てたという。
この朝、一緒にいた若者3人は最高学府を出たにもかかわらず「自刃」が読めなかった。
ジバとかジトウとか、受験勉強のあと読書せずにスマホばかり見ているとこうなる。刃傷沙汰なんてもちろん読めないだろう。そのうち、いろんな言葉が死語になるのではなかろうか?
6:42
石柱は「名勝史跡 妙心寺庭園」と書いてあるが、庭園は近くに見当たらない。
各塔頭の中だろうか?
6:44
三門の後ろ、仏殿と法堂。奥に見えるのは唐門を備えた大方丈。
方丈とは僧たちの住居だが、確かに人の気配が多く、玄関・拝観受付がある。
その前を通って屋根付き渡り廊下をくぐると鐘楼があった。
6:47
鐘楼の前から北総門まで塔頭が延々と続く
昔、この石畳を歩いて北総門から出た記憶がある。
泊まれなくても一度無相大師の妙心寺というものを見たかったのだろう。
雨の朝だった。
しかし、北総門のほうに学会などで行く用事はない。2004年に近くの仁和寺を訪ねたのは夜だったし。とにかく朝ここを歩いた目的が分からない。通り抜けではなく、単純に境内散策が目的で来たのかもしれない。それにしても北総門を出てどこに向かったのかは記憶にない。
6:48
国旗を掲げる塔頭があった。この日は3月21日、春分の日。
6:49
贈正四位象山佐久間先生墓道 という石柱
地元松代はじめ長野県では県歌「信濃の国」でもうたわれるように「ぞうざん」と呼ばれているが、ほんとうは「しょうざん」らしい。
洋学の第一人者で吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬ら多くの思想家に大きな影響を与えたが、自信家であったため、ほら吹きと陰口を言われ、今もあまり評価が高くない。
1864年に慶喜に招かれ上洛、攘夷派に暗殺された。
6:50
塔頭は延々と続く。
デートの散歩だったら別だろうが、各塔頭に知識がないと歩いてもつまらない。
戻ろうと引き返したらすぐ、遅れて出てきた妻に出くわした。
6:54 本殿裏、方丈入り口
拝観受付にもなっている。百万人写経道場の看板。
6:56
僧たちがぞろぞろ集まり、仏殿に入っていく。
速足の僧、板戸をあけている僧、時間まで立ち話をしている僧。
7時から読経でも始まるのかな?
6:58
こちらも7時から朝食なので花園会館に戻る。
7:05
おいしかった。
仁和寺御室会館でも思ったが、こういうところで給仕する女性、案内する支配人のような男性はみな、物腰が丁寧である。男性はもとは僧侶で還俗して食堂で働いていらっしゃるのかと思うほど、言葉が優しく、それが食事の味にも反映されていた。
(続く)
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