3月19日、2泊3日で京都に来た。
初日、肌寒い中、同志社、御所、京都大学をみた。(別ブログ)
2022-03-19
京大吉田キャンパスの東に吉田神社がある。
初めてきたのは2000年4月。
明治22年(1889)、まだ東大路通もないころ、第三高等中学校は農村の真ん中、吉田神社に隣接して作られた。だから京大本部構内、正門から東を見れば吉田神社はほぼ隣。
京大はキャンパスだけでも広大だが、薬学部のすぐ西は鴨川だし、本部構内のすぐ東は吉田山。すなわちこれらもキャンパスの一部になっている。
学生たちはデートする場所に事欠かないと思うが、彼らは町中のカフェなどに行くのだろう。実際吉田山にはほとんど人がいない。
15:58 本殿
世界的なイオンチャネル研究者である森泰生氏は、今は桂におられるが、学生時代を吉田山の東に住まわれ本部構内の工学部で学ばれた。ゴルゴ13と吉田神社がお好きで、ご自宅には今でも吉田神社のお札がある(たぶん)。
神社は藤原山蔭が859年、平安京における一門の氏神として春日大社(奈良での一門の氏神)四座の神を勧請したのに始まる。鎌倉時代になると卜部氏が神官を務めるようになった。
卜部氏は、古代の祭祀貴族であるが、ここの神官家は鎌倉時代に吉田山にちなんで吉田姓となった。江戸時代の公家は、堂上家と地下家に分かれるが、吉田家の家格は公卿となれる堂上家(137家)の一番下の半家(特殊技術をもって朝廷に仕えた26家)の一つである。
つれづれ草の吉田兼好はこの家の出身だが、吉田姓になったのは彼の後なので、卜部兼好が正しい。
15:58 さざれ石
22年前初めてきたとき、最も印象に残ったものが境内のこれだった。
君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで
私が子供のころ、長野県は卒業式、入学式で「君が代」の代わりに「信濃の国」を歌っていた。のちに(1970年代?)学校での君が代が問題になったとき、新聞で都道府県別の歌っている比率が出ていた。面白いことに、ほぼゼロ%か、100%で、そのゼロというのが沖縄、京都、長野の3府県だった。
とはいえ、長野県の子供であっても君が代は音楽の時間?などにちゃんと歌っていて、私も何百回、何千回とうたってきた。そのさざれ石である。先生は説明してくれたはずだが、ちゃんと聞いていなかった。
祖母は「さざれ」という葬式や婚礼の引き出物に入っている巨大な菓子が好きだった。小麦粉と砂糖を固め、色で蓮の花や鶴亀など絵が描いてあり、中には餡子が詰まっている。その外側の白い粉っぽいざらざらした感じが「さざれ石」のイメージだった。
吉田神社さざれ石の説明によれば、
第55代文徳天皇(827- 858)の皇子、惟喬親王に仕えた藤原定勝が近江に近い美濃の春日村君が畑と京都を往復するとき、渓流で珍しい石をみつけた。
この石をもとに彼の詠んだものが「君が代」で、元の歌は「君が代は」でなく「わが君は」で始まる。(以下は同じ)
石灰岩が少しずつ溶け、その液が周囲の小石を結合させて固め、それが大きくなって、さらに苔が生えるまでの悠久の時間を歌ったもの。
しかし悠久の時間がたてばまた崩壊して小石に戻ってしまうのではなかろうか。
なんて思いながら雨の中、山を越えた。
時間がなかったので三高寮歌の「紅もゆる」の歌碑は探さず。
16:03
社域から道路に出ると宗忠神社
看板には黒住教が併記されている。
黒住教というのは、いまの岡山市、今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つ。天理教、金光教と共に幕末三大新宗教である。
宗忠の死後、安政3年に吉田家から宗忠大明神の神号を与えられ、文久2年、この地(神楽岡)に宗忠神社が創建された。明治9年、神道黒住派として神道事務局(全国の神道諸派を結集させた団体)から独立した。
黒住神社にするか宗忠教にすれば神社と宗派の名が一致するのに。
いや、分かれているからこそ、黒住宗忠の姓名を覚えられるか。
神楽が岡から東をみる。
京都は何でもないところが美しい。
2000年のときはここまで来なかったが、2006年は早朝、金戒光明寺の山を下りて、向こうからこの坂を上がってきた。
16:05 後一条天皇陵
吉田山の東麓にある。
第68代(在位1016~36)
母も后も藤原道長の娘である。
16:12 陽成天皇陵
第57代(在位:876- 884)
長命で没年は949年。上皇歴65年は歴代1位。
このあたり吉田山の裏、二つの小山に挟まれた谷に当たる。
静かな住宅地の中にこういう天皇陵がさりげなくある京都はすごい。
16:14 真如堂
正式には鈴聲山真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺。
真如ということばはいろんなところで出てくる。
東本願寺第17代法主や、戦後の在家仏教教団の名前でもある。真の如来という良い字面だが、本来は「あるがままであること」という意味で、真理を指すらしい。
三重塔の脇、寒中残っている紅葉に朝日が輝き、銀杏の黄色も鮮やかで、本格的なカメラで撮っている人が二、三人いた。
ずいぶん紅葉がいっぱいあったような気がしたのだが、葉っぱのない今は殺風景だった。
長いブログを6本書いてもまだ1日分が終わらないくらいだ。
もともとじっくり仏像や壷を見るより、あるいはグルメより、地形を感じながら町を歩くのが好きだ。吉田神社は上ったから10分くらいいたが、真如堂は2,3分しかいない。たぶんほとんどの人は強行軍に加え、慌ただしい見物で一緒に歩けないだろう。
(続く)
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