3月19日、2泊3日で京都に遊んだ。
初日、肌寒い中、同志社、御所、京大、吉田山、金戒光明寺を見た。(別ブログ)
ひとり歩き疲れた夕方、岡崎神社の前からバスに乗って丸太町通りを一直線で西に向かい30分、JR花園駅前で降りた。
雨は上がり五時半近く。
そこから花園、御室の緩い坂道をまっすぐ上って仁和寺についた。
山門(仁王門でなく二王門という)ではなく東の裏門から入る。
17:40
この日の宿は、ここの宿坊、御室会館である。
仁和寺は、18年前に泊まった2004年4月6日、日帰り会議の前に立ち寄った2017年5月17日についで3回目。
御室会館のロビーに入ると、前回と同じように作務衣に坊主頭(定義通り?)の高校生かと思わせるような若い修行僧がてきぱき、丁寧に応対してくださった。こちらも思わず背筋が伸び、言葉使いもきちんとなる。
18時の待ち合わせまでロビーで時間つぶし。
暇なので昔お世話になったことを話した。2004年の部屋は入口に流しがあって学校の宿直室みたいだった記憶がある。しかし京都は他の宿坊含めいろんなところに泊まっていて、感違いかもしれない。すると、若い彼はほかに客がいなかったこともあり、鍵をもって案内してくれた。
そうそう、たぶんこの部屋。
段差がもっとあった気がしたので、ああいう記憶になってしまったのだろう。
ロビーに戻っていると守屋君たちが来た。
18:42
夕飯は仁和寺二王門まん前、京料理・フレンチの「佐近」
19:16
コロナ下、御室住宅地の人通りのないところということもあり、客は誰もいなかった
デザートの出たのが20:03
御馳走を堪能して外に出ると小雨、宿はすぐそこなので傘は差さず。
3月20日。
朝の勤行は6時半から。
6時20分頃にはお座りください と言われていたので境内をゆっくり歩くつもりで6時に出た。寒かった。しかし勤行のお坊さんは薄着だろう。こちらがぬくぬくしていては申し訳ない気がしてこちらもコートを着ないで外に出た。
2022-03-20 6:05 中門
大内山仁和寺は真言宗御室派の総本山。本尊は阿弥陀如来。開基は宇多天皇。
もともと光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、彼は翌年崩御、その子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。延暦寺、寛永寺などともに元号寺である。
宇多天皇は譲位して出家したあと仁和寺伽藍の南西に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住み、仁和寺は「御室御所」とも称された。屋上屋のような言葉だが、御室が地名となってから御所が付いたのだろう。
その後、代々の別当(寺務を統括する長官)や住職は皇子や皇族が務め、門跡寺院の筆頭として知られる。
中門から二王門をみおろす。
2004年の早朝、坊さんが二人、向こうから歩いてきたことを思い出す。
すれ違う時会話の内容を聞くと応仁の乱の話だった。
6:06 中門
6:07 名勝御室桜
つぼみはまだ堅そう。
2004年4月6日は桜の間に緋毛氈を敷いた長椅子が並べられていた。
あれは有料の席だったのかな?
このあたりは地表の土の部分が浅いため樹高が大きくなれないと、そのとき聞いたが、もともと小さい品種なのではなかろうか?
桜もこれくらいなら良かったのに、と来月伐採される千駄木の桜を思った。
白くなっているのは苔だそうだ。
桜のためには取ったほうが良いのだが、手が回らず放置していると、勤行のあとで坊さんが教えてくれた。
6時7分には金堂前に立ったのだけれども誰もおらず、 遠くでお経の声がする。
あれ?ひょっとして場所は金堂ではなかったのだろうか。心配になって確認に戻ろうとすると若い坊さんが一人来て正面階段の柵となっている竹の棒を外し「もう少し経ったら入れますのでお待ちください」と言われた。
西の声の方を見ると橙色の法衣を着た坊さん達が立ってお経をあげている。
いくつもの堂宇を順に回り、朝の挨拶をしているのだろうか。
そのうち金堂の扉が開いて我々が中に入れることになった。
6時半近くになるとどんどん入ってきて4家族13人となった。2004年の時は一人ものばかり4,5人だった気がする。
みんなオーバーを着て完全防備。気遣いはいらなかったか。
最後に入ってきた家族の長男は高校生だろうか。銀髪で、おしゃれなコートに手を突っ込み不貞腐れたように座った。いやなら来なければいいのに。
7,8人の僧が座りお経が始まった。
途中、小学生の子どもがトイレだろうか、突然走って出て行き、そのまま戻ってこなかった。
子どもでなくてもお経は退屈。
いつものように関係ないことを考えていた。
しかし「しんがたころなうぃるす~」とか「おむろかいかんにしゅくはくのぜんなんぜんにょの~」とか時事的な話題が読み込まれている部分もあった。
お経の唱和の中、我々も一人ずつ焼香する。
銀髪の高校生も焼香した。
終わって外に出る。
この勤行の魅力は、国宝の金堂に入れることである。ここは「冬の京都」キャンペーンなどで公開されることもあるが、普段は非公開。
かつては双ヶ岡の向こうまで寺域が広がり多くの堂塔が立っていたと言われる。しかし応仁の乱で全て灰燼に帰し、焼け残った本尊は双ヶ岡西麓の西方寺に移っていた。江戸時代3代将軍家光の時代にすべて再建されたから京都では新しい。それなのになぜ金堂が国宝か?
再建がちょうど御所の建て替えと重なったからである。 慶長年間、1613年に建立された御所の正殿・紫宸殿が寛永年間(1624年 - 1644年)に皇室と縁の深い仁和寺に下賜され、移築、金堂となった。宮殿から仏堂への変更に伴い、屋根を檜皮葺から瓦葺に変えるなどの改造が行われたものの、現存する最古の紫宸殿として近世の寝殿造遺構として重要で、国宝指定された。
宿でもらったパンフレットのタイトルは「世界遺産・旧御室御所 仁和寺」とある。
世界遺産「古都京都の文化財」は二条城と3つの神社、13の寺院で構成されている。暖かい御室会館に戻る。
京都で3日間、写真をいっぱい取ったのだが、まだ1日分しか書いてない。早く書かないと忘れてしまう。まずい。
7:23
朝食は7:30から
7:28
日中はお食事処にもなる「梵」は畳の上にテーブルが並ぶ。
給仕してくれる人も丁寧。
2004年は湯豆腐とカレイ?の干物がメインだった気がする。
もう来ないと思うので館内の写真を撮った。
客室のある二階に上がるとロビーのような場所があるが、薄暗くて誰もおらず、看板などが端に置いてあり、普通のホテルとは違う。写真の右のほうに畳敷きの大広間があり、研修、会議などで使うのだろうか。
ここを通過して右奥に客室が並ぶ。
8:03
洗面所、トイレ、ふろは共同
8:54
布団をたたんだ部屋から花園駅方面を見る。
右は双ヶ岡。
2017年には雨中に泥の坂を上った。
吉田兼好が晩年過ごしたことでも知られる。
9:01
荷造り、チェックアウトしてから荷物を預かってもらい御所庭園の見学に出た。
この時期、伽藍入山は有料のようだ。
御所庭園は2017年にたまたま来た時も無料で入れたから2回目。
800円だったら入らない。
ほんとは文化財保護のために寄付したほうがいいのだろうが。
二王門わきの小さな御所御殿受付所は檜皮葺
9:04
本坊表門から入るとすぐ、根がどこだろうと探すほど地を這う黒松。
靴を脱いで大玄関から上がる。
続く廊下に土産物が並ぶ。
文化財の保存にはお金がかかるだろう。
9:09
白書院の各部屋に奇抜なオブジェが。
これは何だろう? レンタルスペースで収益になるなら分かるが、ただ飾ったのなら良くないと思う。襖絵をはじめとする、御殿群の雰囲気を乱してしまっている。
宸殿南庭
御所だから右近の橘、左近の桜がある。
建物群の多くは明治時代に焼失、再建されたものらしい。
9:14 黒書院
これもいらないと思う。
9:17
渡り廊下で檜皮葺の構造がよく見える。海外では見られぬ日本独自の屋根だという。
ヒノキの皮は木を殺さぬようにはがすため、10年ほどで再びとれるようになるらしい。
飛鳥時代に瓦が渡来して、寺院の多くは瓦葺となり、檜皮葺きは付属施設のみとなった。
奈良、平安時代は公的建造物が瓦で、私的建物が檜皮となった。たとえば朝廷の公的な儀式の場である大極殿は瓦葺きで、天皇の私邸である紫宸殿や清涼殿は檜皮葺である。貴族の私邸である寝殿造も檜皮葺だった。
伝来当初は瓦葺がより格式の高い屋根であったが、平安時代以降は国風文化の影響もあり、檜皮葺が最も格式高くなった。平安中期以降は、公的儀式の場も瓦葺の大極殿から、檜皮葺の紫宸殿に移動している。もちろん今も職人不足から檜皮葺は普通の家にはない。
御殿群、庭園を見終わって大玄関から出ると、結婚式の前撮りか、新郎新婦と撮影スタッフが歩いていた。
京都は撮影スポットがいくらでもありそうだ。
仁和寺は2回も泊まり大分詳しくなって満足したが、もう来ることはないだろう。
御室会館に戻り荷物をピックアップして御室、花園の緩やかな坂を南に降り、妙心寺に向かった。
(つづく)
20220403 京都10 京大吉田キャンパス、厩舎、時計台、吉田寮
20220402 京都9 京大・西部講堂とノーベル賞
20220331 京都8 鴨川飛び石、京大薬学部、芝蘭会館
20220326 京都7 公家跡地の御苑、紫宸殿、池、猿が辻
20220322 京都6 同志社大学と仮想細胞、鴨沂高校、新島旧宅
20170514 京都2 仁和寺、御室桜、南下軍
お出かけ 目次へ (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ
翻訳本あとがき 目次へ
競技ダンス 目次へ
0 件のコメント:
コメントを投稿