2022年7月29日金曜日

京都16 ねねの道、月真院の記憶、祇園から二寧坂

退職を控えた3月19日、仕事でなくプライベートで京都に来た。

2日目。
平安神宮、琵琶湖疎水記念館、蹴上インクライン跡、南禅寺、知恩院などをみて北から円山公園に入った。
(別ブログ)

祇園枝垂桜をみながら円山公園を通り抜け、南のねねの道に入る。
八坂神社から二年坂、三年坂を経て清水寺に至るコースは石畳で最も人気のある道、私も何度となく歩いた。

名勝庭園 北政所御殿跡 円徳院
「ねねのみち」の由来となった場所。

秀吉の正室だった北政所(ねね)は、秀吉没後、1603年朝廷から高台院の号を賜った。そして秀吉の菩提を弔おうと、1605年この地に新しい寺を建立、高台寺とし、1624年に死ぬまでここに住んだ。
彼女が住んだ圓徳院も、向かいの月真院も高台寺の塔頭である。

12:27 月真院
人気通り、ねねの道に面して長い塀を持ち、多くの観光客が立ち止まり見て行くにもかかわらず、一般公開されていない。
ここは新撰組を脱退した伊東甲子太郎が御陵衛士隊を作り、近藤勇に殺される(油小路事件)まで屯所を置いていた寺である。御陵とは崩御したばかりの孝明天皇(1831- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)のこと。伊東は1867年12月に暗殺された。

みな通り過ぎていくが、昔ここに泊まったことがある。

2004年5月25日、宿泊予約してあったこの日、先斗町で細胞シミレーション野間プロジェクトの飲み会があった。一般に宿坊はチェックイン、門限などが早い。
飲み会が終わってからでは手続きが間に合わないので乾杯に先立つ18時、立ち寄った。

しかし正門は閉じられ、脇の古くなった勝手口もなかなか開かない。正門脇には京都市が作った案内板や、史跡指定の札などがあり、それを読んでいる観光客に奇異な眼で見られた。南の駐車場のようなところに回ってようやく塀の中に入れた。

荒れた庭を通って、犬がいた戸口で声をかけると、Tシャツ、ジャージの若い太った人が出てきて、にこりともせずに、部屋に案内してくれた。途中、本堂をぐるっと囲む縁側を歩きながら軒下に干してあったタオルケットやゆかたを一つずつ取り込んで、そのまま私に手渡してくれる。部屋は本堂の2階に当たり、天井が斜めになっていて、あまりきれいとは言えず、この管理人(?)の無愛想な様子からも、ちょっと失敗したかな、と思った。

飲み会中も管理人の機嫌が気になったので、早めに帰ってきた。
ものすごい散らかっている居間は、昼は誰もいなかったのだが、4、5人の若者がいて、一人は美人。男は坊主頭、みんな作務衣を着て、ここで寝泊りしているようだった。脇を通って風呂(薄暗くて木製、とても清潔とは言えない)をもらったが、行きかえりとも声もかけられなかったので部屋に帰って寝た。もちろんテレビなどはない。窓の外は池と、竹やぶ、墓石。カーテンもなく、少し気味悪かったが寝てしまった。

朝はまあ掃除されている本堂に朝食が4人分用意してあって、パン、コーヒー、牛乳、ヨーグルト、果物(スイカ、グレープフルーツ、りんご、バナナ)。
ほかにジュース、紅茶もおいてあり、ジャムも6種類くらいあった。私のほかは、退職して横浜から京都移住を決めたというOL、休暇をとってきた東京のOL、オーストラリアからの旅行男性、だった。

ネットをみると住職は失踪し、代理人と称する人が、無断で木を伐採したり、土塀を一部撤去したりして、今住んでる若者たちともめているようだった。場所がいいので、敷地の一部にレストランなど、いくらでも金儲けができそうだとその時は思った。

あれから18年。
ちょっとのぞくと、塀や庭はすっかりきれいになっていた。
12:27
ちょうど住職のかたが自転車を出し外出されるところだったので、18年前に泊めていただいたとご挨拶した。彼は昔のことはあまり知らないようだが、住職の不在期間があったこと、自分は建仁寺から派遣されたことなど話してくださった。

12:35 月真院本堂
ここで朝食を食べた。
ひと気はなくもちろん宿泊営業はしていない。

ねねの道は月真院で引き返し、円山公園に戻り八坂神社におりた。

12:46 八坂神社 
舞殿と本殿

9世紀ころ南都の僧・円如が当地にお堂を建立したのが起源らしい。
鎌倉時代には祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としたことから、祇園神社とも呼ばれたが、明治の神仏分離で八坂神社になったという。牛頭天王は薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされているが、よく知らない。

八坂は東山一帯の山城国愛宕郡の八坂郷からだろう。
八つの坂か? 弥栄からか?
京都観光地と地元神社の中間?

12:50
西楼門から四条通りをみる

ところで京都祇園の範囲はどこか。
祇園という言葉が八坂神社から生まれたということは、ここが中心となろう。すなわち、鴨川の東、八坂神社の門前を中心に、北は写真右手の白川あたり、南は左手、花見小路から建仁寺あたりであろうか。


12:56
祇園 花見小路
ランチは侘家古暦堂
ここは人気店らしく予約客のみ。滞在時間も60分一定で一斉に入れ替える。

石焼親子丼1650円が有名

昼食後は四条通の北側を歩く。
ここも祇園。
14:16
有名な撮影スポット 白川の巽橋 

14:20 祇をん新門荘
ここも泊まったことがある。
2004年4月20日。当時はあちこち泊まっていたが祇園という場所にひかれた。今ネットを見ると1泊2食で26,400円~という料理旅館だが、18年前はたまたまキャンペーンでもやっていたのか、朝食付きで6~7千円くらいだったと思う。記録はないが、私の金銭感覚で泊ったのだからこの程度だったと推定する。
朝食のごはんがおひつで出てきたので食べ過ぎてしまったことだけ覚えている。

再び四条通を南に越え、花見小路から横の路地に入る。
14:31

14:34
解体現場があり、近づいて表札を見ると
八坂女紅場学園とある。

女紅場(にょこうば)は、明治初期、女子に裁縫・料理・読み書きなどを教えるため全国にできた施設だった。同志社女子大学も最初は「同志社分校女紅場」といわれたほど。全国の女紅場は閉鎖され、のちにこの言葉は用いられなくなった。
しかし八坂女紅場だけは祗園甲部の芸事の研修所として残った。八坂女紅場学園は学校法人の名前で、舞妓・芸妓のための教育施設である祇園女子技芸学校をこの敷地内で経営している。都をどりの会場として知られる祇園甲部歌舞練場もこの敷地にある。
花見小路が歴史的景観を保っていられるのは一帯を女紅場学園が所有しているためらしい。
ちなみに祇園乙部は四条通北の白川あたりの組合で今は祇園東という。

このあたり少し東山が張り出し高台になっているな、と思ったら崇徳天皇御廟にでくわした。

東大路通を渡ると、ねねの道、二年坂などからあふれてきた人々がいっぱい。
14:54
八坂の塔
「味いちもんめ」の舞台はもっと離れたところだろう。

この日の夕食は森泰生夫妻と一緒に取ることになっていた。
昼過ぎからラインでやり取りして夕食前に大人だけでお茶でも飲もうとなった。
子どもたちはその間、二年坂から清水寺へ行くとのことなので、ここで別れる。

双方、八坂の塔の近くまで来てラインを持っているのですぐ出会うだろうと思ったが、同じ道を行ったり来たりした。どの店も混雑していて、泰生氏が席を取り、恵美子夫人が外で立って待っていてくれた。
私は学会で会っているけど、妻は4年前の結婚式で立ち話をしたくらいだったので、退職後の人生設計とか信州松本のご両親のことか、久しぶりにおしゃべりした。
16:46
店は三年坂から二年坂に降りる石段のわき。
フルーツジュースを飲んだ。

せっかくなので少し歩こうとなり店を出る。

16:46
二年坂は石塔で二寧坂とあった。
書きにくさ、読みにくさからして後者が前者になることはあっても逆はないだろう。
おそらく清水寺の安産信仰から産寧坂が最初にできて、三寧坂となってからその下の坂を二寧坂、また当て字の三年坂から二年坂ができたのではなかろうか。二年坂の下は一念坂というらしいが当然一年坂とも書かれるだろう。
16:50 高台寺
タクシープールになっているような広さ
ねねの道、維新の道、二年坂(一年坂)の交点である。
高台寺は前述したがねね(高台院)が建立、当初は曹洞宗であったが、江戸時代初期に臨済宗建仁寺派の大本山、建仁寺から三江紹益がはいり、臨済宗に改宗した。

ちなみに栄西に始まった臨済宗は、単一宗派の曹洞宗と違い、多くの宗派に分かれている。
建仁寺派のほかに、妙心寺、東福寺、南禅寺、大徳寺、天竜寺、鎌倉の建長寺円覚寺などを各大本山とする15派を数える。

ふたたびねねの道を北上、月真院の前まで来たら絵や皿を売る土産物店があり、のぞいてみる。
17:05 てっさい堂 高台寺店
10枚いくら、の並べ方だが、裏を見たら1枚数千円だった。
どこにもあるような醤油皿に見える。長野の実家の土蔵にもありそう。
外国人あるいは今のマンション住まいの若者には珍しいのかな?

円山公園、八坂神社には入らず路地を抜け、東大路を再び渡った。
4人でぶらぶら歩く。
森さんは松本深志を出てからずっと京都。
お二人とも気に入っているはずだが、あまり京都自慢はしない。

今夜の夕食は、森さんが予約してくれた宮川町の店。
鴨川のそばだが、のんびり歩きながらも月真院そばから狭い路地を最短距離だったようだ。
17:27 建仁寺
途中、建仁寺に出くわした。月真院の現住職はここから来ている。
この裏口?から入り、境内を突っ切る。

俵屋宗達の国宝風神雷神図で有名、開山は日本に臨済宗をいれた栄西禅師、開基は源頼家。
元号を寺号とし、京都五山の三位という名刹であるが、4人とも寺社にそれほど興味がないので、おしゃべりしながら境内をさっと通り過ぎてしまった。一人だったらもう少し印象に残ったかもしれない。
17:29 本堂

店につくと子どもたちも18時ちょうどに合流でき、総勢7人で夕食。
「ごはんや蜃気楼」は町屋を改装した雰囲気のいい店で、繁盛していた。我々は大きな座敷をとってもらっていた。
着物姿のアルバイト店員が工学部三回生、森さんの講義を受けていて、彼女は思わぬところでハンサムな先生と言葉が交わせて喜んでいた。

9時まで歓談し、お開き。
夜風に吹かれながら鴨川沿いを四条通まで歩いて、さてどうしよう。
森さんたちは桂までタクシーだろうか。
この日の宿、妙心寺はJR嵯峨野線からすぐだから京都駅に行けば何とかなるが、鴨川沿いを走る京阪電車は京都駅に行かない。地下鉄は三条だし・・・。一人なら全く問題ないのだが、団体行動だと歩くのが嫌だとか注文が多く実に面倒くさい。

2022‐03‐20 21:15
祇園四条の南座前

若者3人はスマホ操作にたけているが京都の地理にうとい。嵯峨野、御室、竜安寺といったキーワードを伝えてバスを探してもらったら、幸い妙心寺の北を通る終バスがあった。延々と西に走るバスは等持院で降り、5人で真っ暗な花園団地の横を歩いて妙心寺花園会館についた。

別ブログ

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