2022年8月19日金曜日

飯田1 高速バス、長姫の光沢毅氏

 13日の迎え盆。日帰りで長野の実家に行く予定だったが、ふと、前日に発ちどこかに泊まってみようと思った。

頭に浮かんだのが伊那谷。
思い立ったのが2日前。
定年退職老人の一人旅は楽だ。
その日の朝になって面倒になったらやめてもいいし。

人生で一度くらい野宿もしてみたいな。
しかし伊那谷と言えど今どき、軒下で寝られるお寺などもないだろう。お盆の前日で宿が取れないと困るので飯田の民宿素泊まりを予約。
これで当日になってやめることはできなくなった。
自由老人にはこういう縛りも必要。

ところが12日はパートタイムの家庭菜園の仕事が入っていた。
朝8時から11時。終了後、汗と泥の服のまま出発しなければならない。

東京から飯田に行くのに、時間、料金とも一番便利なのは高速バス。
片道4400円。これも予約。

11:31京成高砂出発、途中日暮里駅エキュートで実家への手土産を買う。
2022-08-12 12:18
新宿南口改札を出ると目の前にバスタができていた。初めて見る。

甲州街道、西の方向
ずいぶん景色が変わった。

バスタは広い券売所と待合室がある。
案内もしっかりしていて富士五湖方面への外国人旅行者もこれなら迷わない。
12:40
お盆前の一番混んでいるときでも、エアコンの中でゆったり座っていられる。
コンビニで買ったパンで昼食を済ませる。
2006年山中湖へ行った時は西口ヨドバシカメラの横の道路から出発した気がするから、ずいぶん便利になった。

12:44
出発ロビーは4階。JR新宿駅と甲州街道が見下ろせる。

13:05発、伊那、飯田方面は3号車まであった。
バスの中は帰省する若者ばかり。
この日は台風8号が近づいていて八王子あたりから雨となる。
景色があまり見えないので眠ってしまい、休憩のアナウンスで目が覚めた。
双葉サービスエリアというが、甲州らしくない地名にどこだか分からず。
スマホで確認すると甲府をすぎていた。

中央道はほとんど初めてなのに雨のせいもあり景色が楽しめず、昔読んだ文庫本「月山」(森敦)に目を落とすがすぐ疲れる。
16:03
諏訪湖が見えてようやく旅に来た実感がでる。

16:05
諏訪湖の西の端、岡谷の街が見えた。天竜川の始まりはどうなっているのだろう。
ここから伊那谷の始まり。

伊那谷の中心都市、飯田に行こうと思ったのは、信州なのに行ったことがなかったから。
長野県人は長野県が好きで、私も大好きなのだが、伊那、飯田は今まで行ったことがなかった。一度は行くべきだろう。理由はこれに尽きる。

長野県は南北に長くて長野から飯田まで164km、直通の快速で4時間13分、松本まで特急を使っても3時間49分かかる。実家の中野からならさらに1時間余計にかかる。一方、長野から大宮まで新幹線ならあさまで1時間25分、かがやきなら56分。信州中野から見ると南の伊那谷は、東京よりはるかに遥かな地。
憧れみたいなものも少しあった。

16:35 駒ケ根IC付近
晴れていれば中央アルプス(木曽山脈)が見えたはずだが。

17:24 飯田駅到着
ほぼ定刻(17:21)通り到着。
東京葛飾のパート先から急いで直行したのは、まだ明るいうちに少しでも街を歩きたかったから。

それにしても、飯田藩城下町、南信州の中心、人口は10万を超え県内5位の飯田市の駅前にしては、少し寂しい。大きなビルなどもなく、まっすぐな中央通りが東に伸びているだけ。

南が上
これは下の古地図に合わせたためだろう。

飯田城、飯田市街は、天竜川の河岸段丘が南の松川、北の野底川によって区切られた舌状台地に発展した。さらに間を流れる谷川(固有名詞、一級河川)によって、橋北5町、橋南13町に別れ、前者が三州街道の宿場町で、お城は後者にあった。武家屋敷、町家は両方にある。

飯田城は、鎌倉時代の13世紀に築かれた。長姫城とも呼ばれ、戦国時代は武田、織田、徳川の支配下にあったが、江戸時代は小笠原氏1代、脇坂家2代・5万5千石、堀家12代・2万石の城下町として明治維新を迎えた。

17:32 太宰春台邸址
駅を背に東へ歩き始めてすぐに出くわした。
県歌「信濃の国」5番で「しゅんだいだーざい先生も~」と長野県人は全員うたったはずだが、どういう人か誰も知らないという偉人である。
私のブログ内で「春台」と検索を掛けると2つヒットする。
松代2で佐久間象山と並べたときと、墓のある谷中天現寺を訪ねた時のもの。

17:33
なおも中央通りを東の飯田城址に向かって歩く。
ふつう城は丘の上にあるから、向かえば上り坂になるのだが、下っていく。
これは城が天竜川に向かった河岸段丘の先端部にあるためで、ちょうど浅間山麓の千曲川に向かった断崖に作られた小諸城(別ブログ)と似ている。

こういう洒落た店をみると「さすが飯田」と思う。

17:36 リンゴ並木
飯田でぜったい見るべきものの一つ。飯田大火のあと復興のシンボルとして作られ、遠く離れた北信濃の子供だった私にもこの並木の話は有名だった。

1947年の飯田大火は、碁盤の目に走る通りと古い町並みから小京都と言われた市の中心部の約7割が焼失。焼損面積48万平米、死者行方不明者3名、罹災戸数4,010戸、罹災人員は17,778人という。

復興に当たり、新しい市街は延焼を防ぐため4分割され、町の真ん中を東に流れる谷川を利用しながら、それと直行する広い防火道路が作られた。そして1953年から地元中学生によってここにリンゴの木が植樹されたのである。

りんごの木は思ったより低かった。一般農家でも矮化栽培が進んでいるが、ここも作られて70年、小さい木に置き換わったのかもしれない。先を急いだためしっかり見なかった。


17:39 千劇
なおも中央通りを行くと映画館があった。地元の中高生がデートに使うのかな。

17:40
スナックやバーが並ぶ。駅と飯田城の中間あたり。

17:42
谷川の上に作られた中央公園。手前の「キッチン天竜」は廃業。

17:43
ずんずん中央通りを東に歩いてきたら、家がなくなり谷川の向こうの崖上に役所らしき建物がみえた。あれが飯田城址ではなかろうか。
しかし谷川を渡る橋がない。そのため少し来た道を戻り、城址にあがる。

17:47
長野県飯田合同庁舎。下伊那郡の中心都市だから県の出先機関が入る。
飯田市役所は駅のほうにある。

合同庁舎の裏に回る。
このあたり、二の丸の北、桜丸にあたる。
台地の東の端は高い崖の上から天竜川と伊那谷を望み要害の地であることがよく分かる。

17:49
合同庁舎の南におしゃれな建物
このあたり、二の丸と三の丸の間、出丸にあたる。

近づくと飯田市立追手町小学校

17:50
追手町小学校の北側にガラス張りの建物アリ。
中に人がいっぱいいる。スーパーマーケットだろうか。

17:52
小学校の東は飯田市美術博物館
このあたり旧二の丸であるが、ゆったりとした駐車場。

飯田城二の丸には、1884年(明治17年)に長野県中学校飯田支校が建てられた。本校が長野で、支校が松本、上田、飯田であり、これからも飯田は南信の中心都市だったことがわかる。飯田支校は後に独立、飯田中学校、飯田高校となった。

長野高校で数学を教えられた酒井武寿先生は、飯田高校から転勤されてきた。「計算するときはなるべく小さい字で書け。場所をとらないだけでなく、そのほうが速い」「運動部に入ったからといって根性なんてつくわけがない」など、記憶に残る言葉を残された。
そうだ、飯田高校は、薬学の同級生、牧島房夫氏の母校でもある。

飯田中学は1925年(大正14年)、市街地と野底川を挟んだ対岸の丘、すぐ隣の下伊那郡上郷村(1993年飯田市に編入)に移転した。
その跡地に飯田長姫高校が建つ。この学校は1921年飯田職業学校として創設、その後飯田商業高校と改称、さらに戦後、校地のあった飯田城の別名、長姫城から飯田長姫高校と名を変えた。

飯田長姫と言えば1954年の選抜高校野球、それまで長野県内でも目立たずで全国的にも無名であったが、大会出場校に選ばれた。エース光沢毅は甲子園常連校の強豪をなぎ倒し、4試合で失点わずか1点、3完封という快投をみせ、身長157センチ、体重51キロから小さな大投手と言われた。進学した明大では肩の故障を隠して島岡吉郎監督の命じた1000球ピッチングの練習に耐え、7勝した。卒業後は信州にもどり諏訪の三協精機に入社、外野手に転向、のち監督に就任。NHK高校野球の解説者も長く務めたが、体が小さいせいかスポーツ選手らしからぬ高めの声で、心地よい語りをよく覚えている。

明大で星野仙一や高田繁、鹿取義隆らをスパルタ指導した名物監督、島岡御大は、光沢と同郷(飯田の北隣、下伊那郡高森町)で、体調不良で休養したとき、後任に光沢を指名した。私が大学生の時1977年、78年ころで、信州人としては誇りに思った。
しかし光沢は1987年交通事故で失明、1991年には明大相撲部元監督と共に明大替え玉受験事件の仲介役を務め、逮捕された。

(続く)
 別ブログ


0 件のコメント:

コメントを投稿