2022年7月28日木曜日

京都15 粟田口、知恩院、いもぼう平野屋

退職を控えた3月19日、仕事でなくプライベートで京都に来た。

2日目。
この日は、妙心寺ちかくのJR花園駅前からバスで平安神宮に来た。
琵琶湖疎水記念館に立ち寄り、蹴上インクライン跡を橋の上から見て、南禅寺にいった。
(別ブログ)

このあと知恩院、八坂神社を通って祇園でランチの行程。

南禅寺から蹴上インクラインまで戻ったあと、来るとき通ったお濠(白川)沿いの仁王門通りは歩かず、無鄰菴の裏(南)の細い道をとる。
無鄰菴は山県有朋の別荘として建てられその日本庭園は有名。2003年からその前を何度も歩いているが入ったことはない。

無鄰菴の裏を過ぎてすぐ、黄色い横断幕があった。
2022-03-20 11:47
右の門はふふ京都の裏口。

「東京・ヒューリック(株)による景観を壊し周辺宅地の安全も確保していないホテル(ふふ京都)に異議あり」という横断幕。

このホテルはお濠端の表通りを通ったとき、おしゃれなホテルにみえた。
この裏口も瓦屋根の門で、真四角なホテルと比べたら十分景観に配慮(それがデザイン?)していると思われるが、初期に住民ともめてしまったのだろう。
住民としては、いくら景観に配慮しても、ないほうが良い。

少し南に歩くと南禅寺総門があった。
こんなとこまで南禅寺の敷地なのだろうかと少し驚く。
11:51
写真でも南禅寺総門が小さく見える。
2003年11月、知恩院から南禅寺へ、この道を逆に歩いたことを思い出す。

このあたり粟田口という(現住所で粟田口は総門の南一帯)。
京の七口の一つ。
山科から東海道、中山道が蹴上をおり、三条大橋に向かった交通の要衝だった。
この地点から少し南に三条通りと地下鉄東西線が通っている。

ちなみに国道1号線は、ここではなく、清水寺の南の谷から京都に入り、五条大橋をわたる。
そこも京の七口の一つで五条口といった。橋の東で伏見街道と合流するから伏見口ともいった。

その三条通に出て、神宮通り(平安神宮大鳥居からきている)にそって南に歩くと左の山側が青蓮院。青は呉音のショウと読む。天台宗三門跡寺院として皇族が門主(住職)となってきた。
先を急いだので寄らず。
12:04 知恩院到着(黒門)
ここからは入らず門前のベンチで休憩のみ。
さらに南に歩いて山門からはいる。

12:08 知恩院山門
知恩院では山門を三門とかく。三門とは空、無相、無作の三解脱門から、あるいは中央、両脇の3つあったことからいうらしい。
要するに山門と同じく正門のこと。

一緒に歩いてきた妻は、平安神宮から南禅寺と歩いてきて疲れ、道路から三門まであがるのがやっと。興味がないらしく、ここで待っているという。
よく考えたら、私も知恩院に来たということだけで十分。特に見たいものがあるわけではない。でも境内だけでもさっと見てこよう。

男坂をあがって山門を振り返る

12:09
浄土宗総本山。
ここは何回か来ている。1978年、2003年。
知恩院に来た目的は、昔のことを思い出すため。
2003年11月、一緒に来た京都出身の寺岡さんは「ちおいんさん」と言った。
12:11
ここは無料で広い境内が見られる。
靴を脱いで本堂に上がれたと思うが、急いで山門に戻らねばならない。

拝観無料のいい点は、すぐ立ち去れること。
雰囲気を見るだけで、できるだけ多くの名所を回りたい私には最高。
これが有料だと特に興味もない仏像、寺宝などまで見てしまう。

12:12 女阪
同行者の待つ山門に急いでおりる。

知恩院の南隣は円山公園
江戸時代までは隣接する西の八坂神社、東の安養寺、南の双林寺などの境内だったらしいが、明治政府に没収され、明治20年には京都市初の市民公園となった。

1981年春、修士を終えて就職、工場研修で大阪に2か月住んだ。
同時に研究室を出た2年下の北川祥賢、佐々木千草氏が藤沢薬品、日本新薬に就職したので、5月17日、再会した。3人とも関西に暮らし始めて2か月目。
ランチは円山公園内の茶店のようなところで懐石弁当を食べたことを覚えている。
そのような店は今も何軒かあるが、どこだったか不明。
12:17 
いもぼう平野屋本店。
2003年11月7日、寺岡さんと少し遅めの昼食はここだった。

19年前、午後の日差しが入ってくる店内は土間の通路が奥まで続いていた。小上がりの席で、柱や壁は古く、通路も土だった気がする。ガイドブックにものる名物の芋棒定食は京懐石よりずっと安かった。
しかしあまりおいしかったとは言えない。

江戸時代、乾物の棒鱈を戻すのに海老芋と抱き合わせで炊くとうまかったのが始まりとか。

たしかに文化人が高く評価した昭和の戦前くらいまではうまかったのかもしれない。しかし、いまや世界各国の美味が集まり、それらが切磋琢磨して次々と美味しいものがあふれる時代。300年の伝統を固く守っていたら、金沢の伝統菓子、伝統料理と同様、今の人には受けないだろうと思った。
と同時に、人間の体格や容姿は変わらないが、味覚というのは簡単に進化するものだとしみじみ感じたのが2003年だった。人間が作るもので、音楽や絵画は昔からうんと進化したとは思えないが、料理というのは科学と同じくらい速く変わっていく。

2022年のこの日は祇園にランチの店を予約しているので、懐かしいここには入らず。

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