退職まであと10日あまり。3連休で京都に来た。
埼玉、東京、長野以外でいちばん土地勘のある場所。
1973 高校修学旅行
1978 武田、藤沢薬品見学旅行の帰り
(薬学部の行事だったが、現地集合・解散、希望者のみの自由参加、大覚寺京大など)
1981 大阪で新入社員研修のとき、北川、佐々木と八坂神社いずうなど
1981 長野の親と京都見物、清水金閣など
1984 結婚した年、ゾウさん夫妻と旅行、大原嵯峨野
1990-1210,12 神経科学学術集会 京都国際会館
1995-0709-12 IBRO国際神経科学会 京都国際会館
1998-0324-26 薬理学会年会 京都国際会館
2000-0409-13 国際精神神経学会(第5回日本精神神経学会)京都国際会館
2001-0329-31 生理学会年会 京都・同志社大
2006-1204,5 細胞・生体機能シミレーション国際シンポ 京大・芝蘭会館
2009-0326-28 薬学会年会 京都国際会館 金子研
2009-0802-4 国際生理学会シンポジウム ロテル・ド比叡、白川通今出川
2017-05-17 薬剤師国家試験問題検討会、めるぱるく
これだけではない。
とくに京都に詳しくなったのは、2003年から2年間、丹波口、京都リサーチパークの野間プロジェクトに参加したから。
月に2回ほど、2泊3日くらいで45回ほど来たから、その2年間は半分住んでいたようなもの。
全部で120泊くらいしているだろう。
市内はほぼ歩き回ったから記憶もいっぱいある。
2022-03‐19 9:36
京都タワーは上がったことないし思い出もないが。
まず地下鉄で北上、同志社大学に行った。
9:59
烏丸通の西門から入る。
良心館というらしい。経済学部、文学部が入る。
10:01
どの建物もきれい
土曜、春休み、コロナ、でほとんど人はいない。
すなわち、2月の早慶につぎ4月に明治、日本、中央、法政、国学院とともに同志社(それまで名前は大学でも法的には専門学校)も大学となった。現在は14学部・16研究科(大学院)、学生およそ3万人を擁する。
ハリス理化学館
1890年、J. N.ハリスの理科教育寄付金10万ドルにより理化学館が竣工、
同志社波理須理化学校が開校した。
ハリス理化学校はのちの同志社大学理工学部の前身である。
しかし1894年(明治27)の広告を見ると波里須理化学校ではなく、波里須理科学校とある。
1892年に薬学科を新設した。
このことは以前薬学昔々に書いた。
10:06
今出川キャンパスでもっとも有名なクラーク記念館(旧神学館)
1890年新島襄死去。翌1891年、ニューヨーク、ブルックリンのB.W.クラーク夫妻から、神学館の建築費として10,000ドルの寄付が同志社になされた。23歳で早逝した息子を記念して贈られたもの。1894年献堂されたという。
今出川キャンパスは初めて入ったが、西のほうの新町キャンパスは昔行ったことがある。
21年前の2001年3月、日本生理学会の会場となった。
近年大きな学会はほとんど大都市の国際会議場で行われるが、今では懐かしいほど生理学会らしい地味な学会だった。普通の小さな教室で口演があり、階段や廊下にポスターが貼られた記憶がある。
2001年の年会で最も印象深かったのは慶応理工学部の富田勝教授の特別講演だった。
有名なE-Cellである。酵素反応にフィードバックがあると、代謝産物濃度に振動が起こる場合があるらしく、それは実際に複雑な計算してみないと分からない。どうせ計算するなら、とコンピューター内で動く仮想細胞を作ってしまったのである。
すなわち、125の遺伝子の発現、酵素反応を数式で表し、それぞれが相関しながら時々刻々と変わる速度定数、基質、産物の濃度をコンピュータで計算させる。あたかも生きているかのような仮想細胞は遺伝子KOもクリック1つですむ。細胞外のグルコースを瞬間的に0にしたあと1秒後の細胞内ATPなど、実験では求められないことも計算で予測できる。
富田教授は、シンセサイザー冨田勲のご子息で、その少し前にアサヒスーパードライのコマーシャルに出演されていたから違う方面でも有名人だった。話も面白かったので彼の自伝的エッセイ本を後日読んだ。
この講演の座長をされたのが京大の野間昭典教授だった。
ふつう座長は演者の紹介をするだけなのだが、野間先生はご自身でスライドを用意して来られ、E-Cellの前座のようにして心筋バーチャル細胞を披露された。
それは一晩中拍動していて、朝起きてちゃんと動いていると自分の心臓のようでホッとすると話された。
その2年半後、野間先生を中心にシミレーションプロジェクトが始まり田辺も参加、私に話が来たとき、すぐ、この同志社大学での学会が思い出された。もう若くなかったので数学やプログラミングに躊躇したのだが、あの仮想細胞がとても興味深く印象に残っていたので、引き受けることにした。
それまで京都は学会で何回も訪れていたが、ここから本格的な京都歩きが始まったから、同志社での生理学会は私の京都の原点ともいえる。
10:08 同志社今出川キャンパス正門から出る
このあと正門の向かい、今出川御門から京都御苑に入り、御所など見物した後、寺町通に出て同志社創立者新島襄の旧宅を見に行った。
確か新島旧宅の近くに冷泉という表札の小さな門構えの家があったと思うが、見つからず。
記憶違いだろうか?
(有名な公家屋敷の冷泉家は今出川通りに面し同志社大学に囲まれている)
11:34
幻の冷泉邸の代わりに目についたのが府立鴨沂(おうき)高校。
1872年に日本最古の官公立の女学校(後の高等女学校)として創立された。
戦後は共学、現校名となり、洛北とともに京大進学者数の多い高校であった。しかし進歩的革新府知事だった蜷川虎三の全国に先駆けた総合選抜制の導入とともに進学実績は落ちていった。
尋常中学というのは5校置かれた国立の高等中学と別に、都道府県に一校ずつ置かれた名門校。
京都の尋常中学は1870年、日本最古の旧制中学校として、二条城北の旧所司代屋敷(のち旧待賢小学校の校地)で京都府中学校として開校。その後、1885年から1888年までこの地(現鴨沂高校)にあり、その間に京都尋常中学に改名した。だから碑の後ろは見なかったが天皇行幸の時期は限られる。
京都尋常中学はその後、府の財政難から東本願寺に経営が移ったり、移転したり府立一中と校名変更したり、さらに移転したりした。
戦後、1948年府立洛北高校と校名変更、再びこの地で鴨沂高校となり、さらに高校再編で廃校、1950年に現校地で洛北高校として再出発した。
京都は先進的と言われる。
1918年には一中、二中、三中で総合選抜、翌年は府内全校に拡大、1923年に単独選抜に戻るが、その後入試が面接のみになったり、1937年には学科試験がなくなったりした。戦後の1950年には本格的な総合選抜が始まる。
しかし、これは先進的というより、理想だけを求めた猪突猛進、現実無視の変更ではなかったかと思ってしまう。
だから以前にも目的なく入った。
展示よりも資料管理、行政事務などがメインなのか、展示室は小さい。
京都市歴史資料館蔵
これを見ると、道路があって家を建てるというのでなく、家(屋敷地)が整然と並んで、その間が道路になったように見える。そのくらい道幅が広い。
11:50
新島襄旧宅
新島は上州安中、板倉家の江戸藩邸で生まれた。いまの神田学士会館のあたりだったことは以前のブログで書いた。
となりは同志社校友会 新島会館
12:32 鴨川たかし
だいぶ食べてしまってから。
食べ終わるとさらに空気は冷え込んでいた。
午後は京都大学の見物。
大学は、お寺より物理的にはるかに広い分だけ、また現在動いている人がはるかに多い分だけ、見るものが多い観光資源だと思う。
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