2022年4月6日水曜日

京都12 金戒光明寺と会津墓地

3月19日、2泊3日で京都に来た。

初日、肌寒い中、同志社、御所をみて京都大学から吉田山を越えた。(別ブログ)
真如堂のすぐ南に金戒光明寺の北門がある。
はいると左の山側は墓地、右はフェンス。
2022‐03‐19 16:21
2006年12月は向こうから歩いてきた。
写真でいうと右側、つまり西側に京大医学部の解剖献体に対する慰霊塔があった。
16年後に探しても見つからない。
後で地図を見たら一本西の道だった。

16:23 本堂
光明寺を検索するといっぱい出てくる。
鎌倉にもあるし、モミジで有名なのは長岡京の光明寺。
ここは金戒光明寺と言わねばならない。
正式名は紫雲山金戒光明寺というから、寺号は4文字である。通称「くろ谷さん」
知恩院と並び浄土宗の七大本山の一つである。

何代目かは知らないが、熊谷直実が鎧を架けたという松。
直実は、熊谷を本拠とした平氏だったが、石橋山の戦いから源頼朝に臣従した御家人。
なぜここに来たかは知らない。

16:24
ここは吉田山同様、独立した丘で、市内が一望できる。
それなのになぜ黒谷というか?(住所は左京区黒谷町121番)
そもそも黒谷は比叡山の谷の名前だった。
そこにいた浄土宗開祖法然が下って、ここに草庵を結び、叡山のほうを元黒谷、こちらを新黒谷と呼んだのが始まりという。

2006年、わざわざここを目的に来たのは幕末、会津の本陣があったからである。
幕末の歴史小説には良く「黒谷」が出てくる。

谷だと思っていたが、来てみれば城塞のような小高い要害の地。

政情不安定な時代、幕府の信頼篤い松平容保が新たに作られた京都守護職に任ぜられた。
尊王攘夷の過激派と新選組が争い、テロリストと強盗が跋扈する京にあっては治安に優れ、また多くの塔頭、大きな庫裏は、藩主とともに上洛した会津藩士1000人も駐屯できたという。

16:31
会津墓地に行くため「はすいけ」に架かる極楽橋を渡る

三重塔の前から京都市街を見る。
2006年12月、西の山にも朝日が当たり、
トレーニングでここを駆け上がっている人がいた。

16:36
前回はシンポジウム会場に行く途中だった。
先を急いだため「黒谷」の地形を見ただけで会津墓地には行かなかったから、初めて足を向ける。

平日の雨で誰もいない中、前を男女がゆっくり歩いていた。

16:38 会津藩殉難者墓地

容保と藩士の本陣到着は1862年12月。1864年には配下の新選組による池田屋騒動、また禁門の変の勝利などによって京の治安は回復された。しかし犠牲も大きく、藩士、仲間小者の戦病死が続出。そこでこの地に300坪の墓地が整備され、葬られた。その数は6か年で237人。さらに1868年の鳥羽伏見で倒れた115霊も合祀された。

16:41
前を歩いていた男女は50代と30代くらい。夫婦ではない。
言葉使いからまだ付き合っていないようだが、お互い好意を持っている感じだった。
男は蘊蓄を垂れ、まるで私のようだった。
ずっと前を歩いていたのに、追いつかれ、私が去ってもまだ墓地にいた。
16:51
裏口のような南門からでて、16年前上がってきた道を下る。

16:53
細い坂道を下ると丸太町通り。角の岡崎神社は覚えている。

10時前から歩き始め、もう7時間、
(この日は朝から寝るまでにスマホが3万680歩、23㎞)
さすがに疲れたのか、今夜の宿舎、仁和寺に向かってバスに乗ると居眠りした。
(続く)


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