2018年6月18日月曜日

千鳥ヶ淵と牛が淵

6月10日、競技ダンスの日本インター大会を見に武道館へ来た。
南北線飯田橋から歩いて、靖国神社前の歩道橋を上がる。
2018-06-10

田安門の前から西側の千鳥ヶ淵を見る。
ボートはいない。雨だから少ないというより一隻もいないから雨天休業であろう。

こちらは反対側の牛が淵。
千鳥ヶ淵より水位は低い。

左の昭和館のとなり、中央に九段会館が見える(→)
昭和9(1934)竣工。かつては一番高かったのにずいぶん小さく見える。
東日本大震災以来閉鎖されたていたが、昨年2017年9月、東急不動産が落札、購入した。地上17階建て(高さ約75m)の複合ビルに建て替え、2022年に開業するという。
何でもかんでも壊して高層化して良いのだろうか。これが日本人の標準的な考えだとすると、残念である。

維持、すなわち耐震補強に金がかかる、とか理由はあるかもしれないが、そのくらいの金はあるだろう。あれが倒れるほどの地震なら、首都のビル、家々は軒並み倒れる。
昭和館の中身を九段会館にうつして、変なデザインの昭和館を売却すれば良かったのではないか?

北の丸公園の南、旧近衛師団司令部の前を通って代官町通り沿いの土手を歩く。
戦時中の高射砲の台座がある。

その堤から見た千鳥ヶ淵。
なんでこんなところに高速道路を作ったのか。
この貴重な景観遺産はこれ以上悪化させてはならない。
それにしても広い。まるでダムだ。
よく考えれば千鳥ヶ淵は、桜田濠、日比谷濠などの堀や濠ではなく、淵である。
淵というのは掘ったのではなく、川をせき止めたもの。

では、どういう川だったか?
江戸城築城前の地形はどうだったか?


(国土地理院HPから)
神田山(駿河台)から続く、銀座の陸地と西部丘陵(皇居)の間に平川(日本橋川)と日比谷入江の跡が見える。

千鳥ヶ淵に流れ込んでいた川は、上の地形からは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の南に2筋、北(靖国神社の南)に一筋あったことが分かる。これらの川はどこに流れていたか。

西の丸は吹上御所と同じく、四谷から麹町に来る大地(甲州街道から半蔵門に来る尾根)とつながっていた。一方、北の丸は靖国神社の大地とつながり、本丸に伸びていたことが分かっている。すなわち、千鳥ヶ淵を作った川(局沢川)は、北の丸の南を通って本丸の西、乾濠、蓮池濠、宮内庁の前を通って日比谷入江に流れ込んでいたらしい。
代官町通りの高速道路を掘るときに、地下16メートルの深さに谷川の跡(竹やぶや木立が生えていた)が発見されたという(千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性について - 環境省)。

一方、牛が淵は難しい。
前述、環境省の解説文には、日本橋川(平川)の河岸段丘と武蔵野台地東麓部の湧水線との間の低地に水をためたという。
これは千鳥ヶ淵のような川ではないだろう。
そもそも、日本橋川と近接、並行して、清水門のあたりで堰き止められるような川は、地形的にありえない。この地域で川は1本で十分であろう。
しかし等高線の地図を見れば確かに、日本橋川の西岸は少し高くなっているようにも見え、この河岸段丘の西に、北の丸など西の台地から湧き出る湧水を貯めることはできる。

家康入府当初、神田山(現駿河台)あたりの家臣団のために、飲料水確保のための小さなダムをつくった(このとき北東防御の堀は日本橋川1本だった?)。そしてのちに防御を二重とするため深く広く掘ったのかもしれない。つまり「淵」の名前が付いた後に掘った? 
そして濠にしては少なすぎる水は、水量抱負な千鳥ヶ淵から田安門の下を通して回せばよい。一橋家の屋敷などがあった地帯が日本橋川と牛が淵に挟まれ、異常に狭い説明はこれでつく。

今も田安門に入る橋の下には水門があって千鳥ヶ淵の水を牛が淵に落とせるようになっている。そうでなければ、大水のときに高速道路が浸水する。

たしかに等高線を見れば、近接した二地点、つまり内陸の谷であった千鳥ヶ淵と、海(日比谷入江)に面した牛が淵の標高はかなり違う。

このことは、田端から上野に続く尾根の、両側の低地の関係に似ている。
つまり、西日暮里駅の切通し(ガード下)からみると、西の不忍通りの谷(根津)より、京浜東北線の東がうんと低いことが分かるのである。

話しがそれたが、局沢川の存在は、江戸築城以前が分かって面白い。
太田道灌は今の江戸城本丸、二の丸あたりに築城したという。これは西の局沢川と東の平川に挟まれ、靖国神社の方から伸びる台地の先端である。南は日比谷入江である。
本丸、二の丸の北を掘削し、濠とすれば四方が水の、防御に適した城になる。

しかし、これではいかにも徳川将軍家の城として狭い。


(Goo辞書「江戸城門」から拝借)

幕府は西側、今の西の丸、吹上の台地に巨大な城を造った。
こちらは四谷から伸びてくる別の台地である。そして吹上の西に千鳥ヶ淵と半蔵濠をつくって内堀とした。つまり新旧二つの城を結合したことになる。

局沢川の跡は本丸の西側の堀となり、西の丸と吹上の間の堀(道灌濠。なぜこの名前?)、新たな半蔵濠などの内堀、外堀、と4重の堀で、西からの攻撃を防ごうとしている。

東の海側に町人、西(麹町、番町)に家臣団を配置したのも、西からの攻撃を最も警戒したのだろう。


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