ラベル 第1~107話 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 第1~107話 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年3月18日日曜日

第61 助っ人の要らぬネズミ固定器

最新型「鼠撑器」の紹介
薬学雑誌 1891年度 p61 (明治24年)

医学、生理学の研究に実験動物は不可欠である。
とくに新薬の研究、開発には大量に必要だ。
最近は組換え細胞や、コンピューターシミレーションなどを使うようになったとはいえ,丸ごと動物,とくにげっ歯類の実験は依然盛んである.
有望化合物ならすべて,どんなプロジェクトでもネズミの実験は避けて通れない.
しかし昔はどうだっただろう.
合成者は何でも舐めていたし,薬効は先ずヒトで試されたのではなかろうか.

ちょっと怖いから動物に飲ませてみようと思っても,ネズミではなく,そばに居たネコやイヌが多かったように見える.
華岡青洲の通仙散はネコだった.
N数を増やさねばならないようなナイーブな実験は最初からしない.
実験動物の飼育業者のいなかった頃、ネズミは簡単には捕まえられない.手に入ったとしても、犬猫と比べてあまりにも人間と違いすぎる.小さくて表情もなく,同じ哺乳類だという概念などなかったかもしれない.

それでも数量的科学が西洋から入ってくると,急性毒性を見るにネズミは重宝しただろう.ただ,その取り扱い技術はお粗末だった.南京鼠(マウス)に皮下注射するのに「大概助手をして鼠を保持せしめ,二人掛り」で行っていた.

ところが東京衛生試験所(現・国立医薬品食品衛生研究所)がベルリンの器械商ラウテンシユレゾルに注文,取り寄せた装置は画期的だった.「此の器械は助人に持たしむるより却て便にして,医学校,病院,その他の試験に必要なれば」と紹介したのが下図の鼠撑器である.

当時の東京衛生試験所長は長井の後を受けた田原良純.
彼はこのとき35歳,ドイツに留学中であった.ひょっとしたら「当地には斯くも便利なるもの之あり候」との手紙を受けた所員が注文,輸入したのかもしれない.

2018年3月17日土曜日

第67 炊飯釜のふたの改良

小学生頃まで、信州の農家だった我が家はプロパンガスもあったが、飯はかまどで炊いていた。
羽のついた釜に、木のふたが載り、よく吹きこぼれていた。



「従来本邦において日常慣用する木製釜蓋にありては,飯を炊くにあたり著しく糜粥状の粘液を釜外に沸溢し,飯の栄養成分を損出することは衛生学進歩の今日において世人の常に遺憾とするところなり」

薬学雑誌 1907年度(明治40年) p484-488

5ページの大論文は,こう始まる。
要するに,炊飯釜の吹きこぼれがもったいないから何とかしようとした研究である。
著者,森川釖三郎は五高薬学科(長崎)の教授.

「余は,その予防の方法を攻究せんと明治36年より39年に至る4年間,日々これが研究に従事し,ついに」炊飯釜の蓋を作った.

冷水を入れた洗面器のようなものを木製蓋のかわりに釜にかぶせるだけで,中の水蒸気が蓋で冷やされ,圧力が減る.すると蓋と釜のあいだから粘液が漏れなくなるという.その結果,少しも飯の栄養成分を損失せず,飯の容積と甘味を増し,釜の掃除も大いに楽になるらしい.

使用法は,上部に張った水に「時々指を挿入して温度を注意し,殆ど指を挿入し能はざる温度に達するときは直ちに薪炭をまったく引き取るべし.なお下部にある排出管を開き蒸気を嗅ぎ,焦臭あるを注意せば一層安全なりとす」.
そのあと水の量,炊き方などが続く.

記事がこれで終わったらただの町の発明家だが,薬学者は分析する.
通常の木蓋と改良蓋では100グラム当たり水分(72.48対72.48),でんぷん(24.77対24.17)はあまり変わらない.しかしタンパク質は1.97から2.38に増えた.

「今日本人口を6千万とし,其の3千万人は1日白米5合を要するものと仮定せば,蛋白質の量は1日に2億4千グラム,1ヵ年に876億グラムを現在より増得するに至らん」.
全国民がこの蓋にすれば「国家的少なからざる稗益を与ふるもの」という.

なお,上部の温かくなった水は,「飲料或いは器物,顔面の洗滌」に使うという。
これは賢い。

2018年3月9日金曜日

第59 神様・長井長義に異議を唱えた男

2018年日本薬学会の会頭は奥直人先生である。
それにしても会頭、理事,各種委員はどうやって決まるのだろう.
ほとんどの会員は知らない.私も知らない.しかし,明治の頃は全て総会の出席者全員による直接選挙だったことが分っている.
第23話 岸田吟香と薬学会選挙

以下は、7年前ファルマシア「薬学昔むかし」に書いたものを改変。
(参考)薬学雑誌 1890年度 p69-94 (明治23年,薬学会総会記事)

生の意見が残っているのは珍しいので紹介する。

当時の役員選挙は、明治30年代を見れば,会頭(長井),副会頭(下山),幹事(丹波敬三,山田董)はいつも満票に近い.
ところが10名の常議員を選ぶ段になると,一人が10人を書くため,丹羽,平山,高橋秀,飯盛,田原といった上位は序列を反映するかのように固定しているが,下位は無秩序にばらばらとなる.
得票数二票,一票といった者が多く出た.自分の名前を書く人もいたかもしれない.

ただ,最初からこのような「直接」選挙ではなかったようだ.
その10年前、明治23年1月18日,麹町区富士見町富士見軒での第10回総会のことだ.
長井会頭が開会を宣言.
須田勝三郎による前年の事務報告,福原有信による会計報告のあと,会頭は
「会員からほかに建議ありや」と尋ねた.
すると村上栄太郎が立ち上がる.

「会頭! 会頭に質問あります.昨年11月の薬学雑誌に役員候補者が出ておりましたが,この候補者選定の根拠は何でありますか?」.

出席会員78名の間にたちまち反駁,論弁がおき,喧騒に至る.
講演会を後に控え,到底まとまりそうもなかったため,会頭は予定された選挙も延期して後日臨時総会を開くとしてその場を収めた.

そして1月27日夕方5時から,東大薬学教室で臨時総会が開かれる.

村上「いかなる精神をもって斯様な名簿を作ったか?役員の説明をお願いする」
長井「地方会員は総会出席が難しいから人物が分らない.従って誰が適任か分からないと察する.故に,名簿はひとえに地方会員の便利を図るものだ」
平野一貫「候補者は名誉ある役員と同格なれば,ただ便利というだけで定めてはならないだろう」
村上「候補者を決めておいて,そのうえ,その他の人も選んでよいとするなら,そもそも最初から候補者名簿など要らない」
長井「村上君は役員の精神を分かっていない.手段は稚拙であったかもしれないが,便利と親切を考えたものであるから,会員から非難されるものではない」

長井のライバル、下山副会頭が間に入ってとりなす.
「名簿を作った役員の老婆心にも一理あるが,人として名誉を重んじないものはないから,候補者に漏れたる会員の不愉快にも納得する.
しかし過ぎたことの過失を問うことは無益であるので,今後候補者名簿を作るか作らないかの問題を討議したい」.
薬学会のナンバー3、丹波もこの意見に同調した.

こうして議論は候補者選定をするかどうかに向かう.
村上「役員と被選人の全員の名を掲げて,次の総会の節に一般投票者の参考にすればよいのではないか」
細井修吾「私は候補者選定に賛成だ.しかし今回は承諾も得ていない.むしろ承諾を得てから,これを「候補者」ではなく「役員承諾人」とすればよい」
下山「候補者の資格を定めるのは難しいから,これは廃したほうがよい」
須田「余も候補者に漏れた一人であるが,これは己の至らぬところと覚悟し,あえて不平は言わない.むしろ候補者選定に賛成だ.しかし会員に不平の者がいては,薬学会の不幸である.だから村上君の説がよい」
このあと村上説,細井説(候補者名簿維持),下山説(全廃)について挙手により決をとり,村上説に決まった.

続いて,この日出席した21人で選挙を行った.
長井下山丹波は不動だが,資生堂福原がもう一人の幹事として入っている.
この年より5人から10人に増えた常議員は,田原,丹羽,柴田,山田,古川,嶋田,柴山,細井,平野,高橋順だった.

100年後の我々薬学会会員にとって,長井長義は大恩人である.
御子孫による青山の屋敷地,軽井沢の土地を含む莫大な資産の薬学会への寄付は尋常でない。それ以前に,理科大学の最初の博士5人のうちの一人であり、本来なら理学部の中心にいたはずが、薬学の有機化学発展のため、丹羽らが強引に引っ張ってきた。第一人者として薬学の学問レベル、地位を押し上げ,初代会頭に就任すると亡くなるまで42年間その職を務めた.

だから彼が現役会頭のころは,会員から神様のように崇められていたのではないかと想像していた.
しかし(少なくとも初期は)村上,平野氏のように長井会頭に異議を申し立てる人がおり,会頭もまたごく普通に対応していたようだ.


千駄木菜園 総目次

2018年2月22日木曜日

第56 19世紀末、世界のコレラ事情

明治25年、虎列刺(コレラ)の解説記事
薬学雑誌 1892年、p1150-1154

明治に怖れられた伝染病としてペストとコレラが思い浮かぶ。
同じカタカナ3文字。両方とも細菌が媒介するが、両者はかなり違う。

ペストは、6世紀のローマ、ユスチニアヌスの疫病や、14世紀の黒死病(ヨーロッパ人口の3分の1が死んだという)はじめ、常に文明社会とともにあり、人類を脅かしてきた。ペストを表す英語、pestilence あるいは plague には、疫病という意味もある。つまり疫病・イコール・ペストであった。
ところが日本では1899年に初めて入って以来、ペストは最終患者の出た1926年までわずか2420人しか死亡していない。島国であることに加え、患者が出れば徹底してネズミを駆除したというのが大きいだろう。東大病院で弱ったネズミが発見されただけで校舎を焼却した話を以前書いた。

一方、コレラは意外と新しい。
ガンジス川デルタの風土病だったものが、世界的疫病になったのは、19世紀になってからだ。1854年にはイギリスのスノウが、コレラの犯人として、瘴気ではなく飲み水を指摘した。それでもコレラは、患者の下痢便からどんどんうつった。
明治の日本は、2、3年間隔で数万人単位の患者が出て、1879年と1886年には死者が10万人を超えた。コッホによるコレラ菌発見は1884年である。もちろん治療法の発見はずっと後だ。

世界史の上ではペストのほうが圧倒的だが、日本だけに限ればコレラのほうが猛威を振るった。

明治25年11月号の薬誌は、各国のコレラ事情を紹介している。
それによると、この1892年は9月までにロシアで16万人、欧州ではハンブルクの7000人を含む4万人が死亡したらしい。アメリカは「コレラバチルス」の汚染が心配ということでチーズや甘草などの生薬の輸入を禁止した。

ワクチンの研究も始まっている。
1885年のスペインの研究は失敗したが、本記事でも加熱(40.5度3日間または70度2時間)した菌が動物を免疫したという報告を紹介している。

さらに、過去の「奇なる虎列刺療法」という記述もある。
1832年の世界流行のとき、米国の医師は患者の肛門にコルクを栓し、英国の医師は、1分間に80-100回のシーソーをさせたという。
笑うなかれ。真相は不明だが、これらは肛門を閉め、米のとぎ汁のような下痢を防ごうとしたのではあるまいか。

コレラは脱水が直接の死因である。
抗生物質を与えなくとも水分補給がかなり有効で、1970年代に開発された経口水分補給療法(ただの水、糖、塩)は発展途上国での患者死亡率を50%から1%以下に変えた。
つまり水分補給さえしっかり行い静かにしていれば、あの虎の化け物のような恐ろしい病でも死ななかったのである。
エーザイ薬博物館所蔵

2018年2月21日水曜日

第55 松脂(まつやに)の水蒸気蒸留

松やにからテレピン油を製造する法
薬学雑誌 1889(明治22)年、p345-352

電気も器具もなかった明治初期、どんな装置で実験していたのだろう?
意外とわからない。
当然のことながら論文というのは簡潔を善しとするため、自明のことは書かない。合成法も試薬の量、反応時間、温度で事足りる。それゆえ、薬学雑誌の文章から当時の実験室を想像するのは難しい。しかし本論文は、珍しく図が何枚かあり、往時が偲ばれた。

内容は的列並(テレピン)油の製造法だが、出来は松脂の採集にかかっているという。
精油製造のためなら松幹への切り口は四角、華爾斯(ワニス)の採集のためなら逆三角形に切り込め、
と屏風絵にあるような立派な松の木が3本描いてある。
四角か三角かを言うだけなのに、松は地にしっかり根を張り、幹は自然に傾き、樹皮もごつごつしている。なおこの論文のタイトルは、テレピン油の製造法ではなく、「松幹の説」である。

得られた華爾斯は、焼酎製造用の容器(下図)にいれ、水を加えて下から火を焚く。

水蒸気蒸留である。冷却して得られる油は水に混じらず、27%あるという。石油もない頃だから、有機溶剤、医薬品成分としても重宝された。


ちなみに、戦時中航空機燃料にしようとした松根油は、伐採後の古根を掘り起こして乾留したものだ。(すなわち水を使わない)。
松根油は全国から集められたが、精製を待つ間に終戦となった。だから根っこ堀りの思い出としては多いが、航空機には使われていない。

さて、著者村上栄太郎はさらに松幹におけるワニス流出の経路を究めんと欲し、黒松の若芽の横断面を顕微鏡的に観察した。ワニス管は13個ある新生細胞組織の外側に対になるよう配列されていると詳細な図を書いた。
コピー機のない昔の人は絵が上手かった。

2018年2月18日日曜日

第54 病気の牛の肉は食べられるか?

「平成口蹄疫と明治の結核牛」というタイトルでファルマシアにコラムを書いたのは、2010年5月頃で、9月1日号に掲載された。

もうすっかり忘れてしまったが、2010年の春から夏にかけて、宮崎県南部を中心に口蹄疫が大流行した。 今あらためてWikiを見ると、すさまじい事件だった。

3月頃発生し、7月4日の終息確認まで、(健康家畜まで含めて)29万7,808頭を殺処分。全26市町村のうち5市6町におよび、発生農場数292、牛の殺処分頭数6万8,266頭(県全体の22%)、豚の殺処分頭数22万34頭(県全体の24%)、ヤギや猪などその他343頭、自衛隊が動員され、埋却地251箇所(面積は約142万m²)、中止されたイベントは226、封鎖された施設は約400施設。

鳩山内閣の赤松農林大臣が外遊(国費による海外旅行)をキャンセルせずに行って批判されたり、農相代理の福島みずほが何もできなかったり、東国原知事が連日危機を訴えていたりしたのだが、今どれだけの人が覚えているだろう?

さて、その最中に私が明治時代の薬学雑誌から記事を見つけてきて書いたエッセイである。
「平成口蹄疫と明治の結核牛」
薬学雑誌 1904年度 236頁,327頁から

神戸牛が有名なのは味ではなくて,明治初めに外国人が多く,圧倒的な生産量を誇っていたからだ.
ちなみに兵庫県で明治36年の1年間に屠殺したのは
牛 21,216頭,
馬 170,
羊 889,
豚 3817,
以上、計26,092頭。

当時はまだ薬学会も有機化学が盛んでなく、むしろ衛生、裁判化学などが研究対象だったから薬学雑誌にはこういう記事も多い。

この年,畜牛結核予防法が施行され,11月,神戸市では1ヶ月かけてツベルクリンによる初めての結核検査をした.その結果,1005頭中,
 健牛595,
 病牛376,
 疑似66,
 猶予59.
驚くべき高率である.
ヒト型結核菌とウシ型結核菌は,人畜共に感染するから口蹄疫より怖い.しかし,薬誌の認識は「若し家畜結核菌が人類に病毒を伝ふるものとすれば厳密なる取締を要すべきものとす」という程度だった.

この後どうしたか? 
今なら全1005頭を殺廃棄だが、病牛だけでも処分しただろうか? 
処分や騒動の記事は見つからない。そもそも牛結核は突然発生したものではないから,少なくともこの年までは結核牛を普通に食べていたわけだ。
このあとも具体的対処法が通達されるまでは,衰弱牛でもない限り流通していたのではあるまいか。

その代わり,兵庫県はこの検査の結果から牛乳の規制に乗り出した.
健牛と結核牛の乳汁を混ぜて売るだろうから、消毒したものに非ざれば販売してはいけないとする.しかし加熱滅菌すると不快臭が生じたらしく外国人などから苦情が出た.それに対し,薬誌翌月号は,「当局が規則を改正し,従来の飲食品の性質を改むるには,一般需要者をして満足を与ふることを肝要なりとす」と,これまた長閑である.

一方,平成口蹄疫の対処法はすさまじい.
しかし感染力は強いといっても大抵回復する。ましてやヒトにはうつらないという.つまり、症状自体の怖さと感染防止の厳格さとは、別問題なのだ。あの厳しさは「清浄国」へのこだわり(とそのための法令順守)による.
しかし周辺に非清浄国があるのだから,また発生するだろう.そのたびに半径10km以内の健康家畜を大殺戮して埋めていいのだろうか.
経済的にも動物倫理的にも異常である.

口蹄疫を国際協約や国内法の対象疾患からはずすことは不可能だろうか.明治の鈍感さは問題だが,発生しても健康牛豚なら食べるという常識が生きる対策はないものか.
・・・・

以上が8年前のエッセイである。

その後の8年で追加するとすれば、
2015年ごろの「新潮45」で連載されていた、『わたくし大阪』である。被差別部落で生まれた上原義広が、自分の父親が食肉卸売業で成功していく様子を描いた小説?ノンフィクション?である。
その中で若いころの父親が闇で手に入れた病牛を夜明け前の河原に引っ張り出して密かに殺し、まだ熱い内臓を手で取り出す場面がある。生臭い血の臭いにむせそうになるほどの臨場感。問題はこの肉が、大阪の安いホルモン酒場で飛ぶように売れるのだ。
おそらくたいていの病牛、病死の肉でも食べて大丈夫なのだろう。
しかし病牛はやはり、食べられない。
法律上の問題もあるが、気分の問題が大きい。

しかし、健康な家畜なら、口蹄疫が近くで発生していても(杓子定規に埋めるのではなく)何とか食べてほしかった。
国は全て買い上げ、「宮崎産、健康牛」と表示し半額で売る。口蹄疫から回復したものは7割引きで売る。私は積極的に買う。供給過剰で他産地に迷惑がかからないよう、価格調査と冷凍設備の確保は必要だろう。そして国民がいつもより肉を多めに食べて宮崎を応援すべきでなかったか?
昔、厚生大臣がカイワレ大根を食べてアピールしたではないか。

2018年2月7日水曜日

第99 点滴のしずくの大きさ

薬学昔むかし
薬学雑誌1899年度(明治32年)p901-905
 
今まで何人か、病室に見舞ってきた。
たいてい親戚である。
何人かは点滴を受けていた。
2010年2月、食べられなくなった父親の最後は自宅で、ほとんど血管に針がさせなくなっていた。
2017年1月、肺炎で入院した叔父は、もともとワーファリンを飲んでいたこともあり、いつも血だらけだった。

看護師は点滴バッグをセットすると、落ちる滴を数えながら注入速度を調節する。
見ていると、滴下口の先の滴はだんだん大きくなって、それが重力に耐えられなくなると落ちる。つまり水滴の大きさは、滴下口の縁と水との間に働く引力と、水滴の重さで決まるように見える。

日本薬局方では
「滴数を量るには、20℃において精製水20滴を滴下するとき、その重量が0.90~1.10gになるような器具を用いること」らしい。
濡れ易ければ滴下口の外径(縁の厚さ)、濡れにくければ内径が重要なことは容易に想像がつく。難しい式は分からないけど、濡れ易さには、器具(滴下口)の材質と溶液の表面張力(水同士の引力)が関係するだろう。

溶液の表面張力が関係するなら、薬液によって水滴の大きさは違うのだろうか。
藤本理が外国文献Pharmac. Central.17, 265, 1899を薬誌で紹介している。

「液体の滴量は如何の状況に関係あるものなりやの問題は、吾人の大に必要とするところにして、プロフェッソル・ハルナック氏は専ら之が正解に力(つと)めたり(略)」。

Harnackは、自作ビウレットから1滴1秒で落としながら100種類ほどの溶液を調べた。
蒸留水1gは13滴(1滴0.077ml)であった。しかし、新しく調製した液が古い液の滴数と大いに異なったり、さらに器具が変われば、例えば0.5%モルヒネ水溶液が、8滴から27滴まで変わるというのだ。患者に点滴するときは注意を要する、とのこと。最小滴はアルコールで、1gが42滴、最大滴は一半塩化鉄液の11滴だった。
この記事、本当だろうか?
夏休み、子供(孫)にさせたいような研究である。

さて、41年前の1977年、薬学に進学して最初の実習は分析だった。
滴定用の液を作る日だったか、先生から全体説明があった。
そこで
・薬包紙1枚は 0.3g、
・1滴は 0.05ml(50 μL)
という「目安」を教わった。
最先端を学ぼうとしているのに、最初に教わったのはこんな原始的なことであった。しかし、以後何十年も世話になる便利な数字であった。

ついでに言うと、まぶたの裏、結膜嚢に保持できる液量は 20~30 μLだが、既に約 7 μL の涙が入っている。目薬は二階から差さない限り、1滴(50 μL) で十分だ。

2018年2月5日月曜日

第89 米沢のはっか栽培史

置賜郡(山形米沢地方)のハッカ
薬学雑誌1897年度(明治30年)p798-801

薄荷の栽培について、皆どれだけ知っているだろう?
小学校だか中学の社会で、北海道の北見では、テンサイとはっかの栽培が行われていると習った記憶がある。

薬学雑誌に日本におけるはっかの栽培史があった。
「薄荷に就いて 置賜郡に於ける薄荷の沿革」と題する4頁の論文である。

まず上杉鷹山が出てくる。
彼は童門冬二の同名本(1983)で一躍有名になったが、それ以前はあまり聞いたことがなかった。まして明治のころは誰にも知られていないと思っていたが、こんなところで出会うとは。

「旧米沢藩主、上杉鷹山公が殖産事業について深く鼓舞奨励せられたることは洽く世の知るところなるが、薬品に関してもまた幾多の遺功を垂れ給へり。
 公は薬草に経験ある士を江戸表より招聘し吾妻山中の植物を調査せしめたるに、数多くの薬草を発見せり。
 次に会津より人参の種を取り寄せ(略)」。

この論文に寄れば、薄荷(ミント)は換金作物として安政年間に岡山や広島で始まったらしい。
しかし明治初期にかけて主産地は山形に移った。山形南部が盛んになったのは、このように鷹山以来、薬草栽培が盛んであったからである。

論文には歴史、栽培法、成分(油・脳)の製造法が書かれている。
著者は肥料が大事だという。山形東村山郡の薄荷が苦く香り乏しいのは荏粕を使っているため、岡山県産に異臭がするのは魚を肥料に使っているため、と推理する。置賜郡は人尿を使っているから良いのだと。

水蒸気蒸留によって薄荷油を抽出し、ここから薄荷脳とよばれる複合結晶を得る。
食品、生活用品だけでなく、現在も薬局方にあるように医薬品としても重要であった。当時は欧米でメントールの需要が高かった。しかし外国産薄荷油はメントール含量少なく、また英独仏では日本から苗を取り寄せても年々その成分含量が低下し栽培断念、日本から薄荷脳を輸入せざるを得なかった。当時イギリス産が最上とされたが、著者は明治26年に米国博覧会に出品、優等賞を得たという。

その後、山形県人などの移住により明治時代に主産地は北見、網走地方に移る。
(ここから我々の知る社会の教科書に載るのだ)
戦前にホクレンが北見工場を建設し、一時世界生産量の7割を占めた。戦後も朝鮮戦争の影響でアメリカ向け輸出が増え、作付面積、生産が拡大したが、1960年代以降は外国産の安価な薄荷(インド、ブラジル産や合成品)に押され、輸入自由化のあと80年代に工場を閉鎖した。現在は数軒が栽培するのみという。

TRPM8というメントールの受容体が発見され、これは同時に低温を感知することが分かった。はっかがスース―するのは、気のせいではなかったのである。
この受容体と頻尿(寒さによる膀胱過活動)や痛覚異常(糖尿病などで痛覚過敏)の関係が研究されているが、メントール類の新しい適応症、利用法が見つかっても、日本で薄荷の栽培が復活することはないだろう。

2018年1月28日日曜日

第77 長井長義、静岡での講演録

薬物工業学に就いて:理学博士長井長義君述
薬学雑誌1897年度10月号別冊

時代劇を観ていて,ホントはどんな言葉をしゃべっていたのかな,なんて思うことがある.明治の頃はどうだったか? 
幸いなことに薬誌には講演録がいくつか載っている.
これが本当に話された言葉かどうか?
講演録は、繰り返しが多かったり,余計な接続語なども書いてあるから,比較的忠実に話し言葉を文章にしてあると思われる.テープレコーダーのない時代は有能な速記者が多くいた。言文不一致の時代の話し言葉をある程度推測できる.

紹介するのは,長井会頭が明治30年8月,静岡で行ったもの.
薬物展覧会出席のため,平山常議員,西崎,永井,大島各学士とともに熊本に行く途中立ち寄った.当時は,長井会頭らが出張すると聞けば,各地の関係者が歓迎の宴席を設け,講演を依頼した.

「満堂の諸君,不肖長義はじめ今回,日本薬学会を代表して一同九州に参る途次,昨日ご当地に到着いたしまして以来,ご当地の学芸に関係ある文武の貴顕紳士医師薬業家その他有志諸君より望外の御待遇に与り,且つ今日は我が薬学の発達を計るがため,公会演説を設けられましたるに付き,この大暑の砌(みぎり),またご多用にも拘わらず,如此(かくのごと)き御大勢ご出席下さりまして,我が薬学の発達にご賛同下されたるご好意に対し,失礼でございますが此の席より御礼申し上げます」.

こう始まった講演は,日清戦争の大勝利を引用し,維新以後30年で日本が東洋の強国になったのは,西洋諸国の文物を輸入したことによって成し遂げたからだと説く.
しかし,小銃や軍艦,大砲を買うために,我が同胞の農,商,工で儲けた金を外国に出さねばならなかったと彼は述べた.

「旧きを廃するとともに新規なことを輸入するには,それに連帯して輸入するものが年々多くなってくる(略).
そこで何を日本で輸出するかと云ふのに,そのうち金額の主座を占めておりますものは、申すまでもなく,当県で製せらるる処のもの,すなわち茶または絹,これが主座を占めまして (略),私は静岡を通過するごとに茶業の発達を喜ぶのです」.

「薬業家も御当県下の茶業者諸君の如く,薬草を培養し,あるいは薬品を製造して新国産を興さねばならぬ.ところが日本はドウ云ふ訳でございましたか,大学薬学科の内には薬品を工業的に製造する方法を教授する道がございませぬ.大学の内には工業化学の部門がございまして,これには化学に関するところの工芸を教えております.それでもって薬品製造のことを教えておることと思っておりましたが,これは丸で別なのである」.

意外と現代語に近い.
博士はこのとき会頭に就任して10年目,52歳であった.肖像画を思い浮かべれば,肉声が聞こえてくるようである.

北海道の安い魚油魚臘を輸出して,代わりに高価なろうそくを輸入している現状を嘆き,今後は天産物に学理を応用し人工を加えたものを輸出しなければならないと話を継ぐ.
明治28年の医薬品輸入高は460万円だった.

「この考えを薬物の工業にも応用されましたならば,現に460万円のうちの大部分は日本に残ることになり,後にはまたわが国から外国に輸出するようになりますれば,彼方の金を此方に取ることができる訳合いになるのでございます.」
と,薬物工業学なるものが国家の利益になる学問であると訴える.

当時,大学の薬学は、
「ただ医薬に使ひまする処の薬物の良否を鑑別し,あるいは調剤する技術あるいは飲食物の分析を教ふると云ふことのみに」留まっており,学生少なく,就職先もあまりなかったが,
「繰り返して申せば,薬学も工業化学と同様に,直接営利的の効力のある学科でございますから,子弟に学問を修めさせるに当たり,その方へ御奨励になっても決してご心配ないことでございまする」.

1897年は19世紀末,エールリヒのサルバルサンやバイエル社のサルファ剤が登場する前である.つまり,医薬品とは新規有機化合物ではなく,海草からとるヨード剤など無機化合物,コールタールからとる石炭酸,あるいはキニーネなど植物抽出物が多かった.
この種の医薬品の国産化はまもなく可能となり,長井博士の期待通りにはなった.

しかし第二次大戦後から,世界はサルファ剤など新規有機化合物の医薬品を作り始める.
日本は再び引き離されたが,皮肉なことに,日本の薬学における有機合成化学は大発展した.特許は物質でなく製法であったから外国医薬品の新合成法を探すためだ.

そして今日では,国産の優れた医薬品も増えてきた.
今長井博士が存命なら,どのような講演をされるだろう.
お褒めになるだろうか,ご苦言を呈されるだろうか.

2018年1月20日土曜日

第45 明治時代、中毒の統計

明治19年の中毒、半年報
薬学雑誌1887年度202頁(5月号)

内務省衛生局発表,昨年7月より12月にいたる中毒患者の統計は下記の如し.

1.河豚23人(治7,死16).治というのは危篤になったが命をとりとめたという意味.
2.菌96人(治71,死25).当時キノコはこの字を使っている.真菌(かび)と山に生えるキノコに同じ字をあてるのは英語fungusと同じ.
3.樒(治2,死3)はシキミと読む。
我々が習ったシキミ酸経路のシキミはこの成分。毒性物質はアニサチンなど。類縁トウシキミが香辛料になるので誤ったか。この実は植物としては唯一劇物に指定されている.
4.蘇鉄(治5,死1)は,種子にでんぷんを多く含むため飢饉の時など食用にすることがあったが,サイカシンからホルムアルデヒドが生ずるらしい.別に神経毒の存在も言われる.
5.蔓陀羅華(治5)はチョウセンアサガオ。
アトロピンなどムスカリン受容体拮抗物質を含む。華岡青洲の通仙散にも入っていた.
6.銀杏(死1)はメチルピリドキシンがVB6に拮抗し大量摂取すると痙攣を起こす.
幼児なら体調次第で数粒から危ないという.ギンナンは食品栄養標準成分表が2000年に改訂されるまでVB6の豊富な食品として載っていたが,誤ってメチルピリドキシンを測っていたらしい.
7.木本黄精葉鈎吻(死1)はドクウツギのこと.
赤い実は甘いので子供がよく誤って食べた.

また俗称ヲバシラゴなる海草(治1,死1)に加えて,
海老(治2),蟹(死6),雑魚(死1).同誌9月号にも川エビ(シラサ)を食べた11人に中毒,1人死亡とあるが,普段よく食べるエビやカニに毒性物質があったとは思えない。
おそらく細菌性食中毒であろう。

続く炭酸(死5),酸化銅(治5),昇汞(死2),阿片(死2) ,石炭酸(治3) ,青酸(死1),駆鼠散(治3)は良いとして,蔓兒比涅(治1,死5),亜爾固保兒(死3),斯篤利幾尼涅(死1),重格魯謨酸加里(死1)も読めれば分かる.

しかし今わからないものもある。
白砒石(死1)は外用薬,
莫青(治4,死1),
榮實(死1)は説明なく、ということは当時常識だったようだが私には分からない.

以上、半年の合計189人(治109,死80).

当時明治19年の薬誌は毎月中毒の記事あり.
4月号の雑報欄には,
 朱と緑青で着色した餅を食べて治5,
 疥癬の妙薬といわれた山萬年青で治1,
 樒で死1.
6月号は
 きのこ治3,
 梅の種で死1,
 「蛇のダイバチ」と呼ばれる根塊を山芋と間違えて治1
....

貧しく自給自足であった時代,色んな物を食べた。
報じられたものは極一部であろう。
保健所も病院もなく、大部分は村の噂で終わったであろう。

第44 ジャガイモで作った象牙

『馬鈴薯製象牙』
薬学雑誌 第13号 (1883年)677頁

明治16年と言えば、まだ江戸時代を引きずっている。
タイトルを見て、袴姿の男がジャガイモを大量に茹で、粘土のようにこねている場面を想像した。
長屋の畳の上で、長くて太い棒を作り、それを湾曲させ途中で折れないようにそーっと乾かしたあと、先を尖らして磨く。内職として骨董品屋に売るのだろうか。しかし当時いくら本物の象を知らない人ばかりでもすぐ偽物とばれるだろう。

記事は、タイトル『馬鈴薯製象牙』のあと著者名もなく、いきなり本文に入る。
薬学雑誌は1年半前の明治14年11月に創刊されたばかりで、雑誌、論文の形式がまだ定まっていない。

「その製造たるや、先づ馬鈴薯の皮を剥き、その疣目(芽)を去り、注意して海綿状の部分および着色したる部分を削除す」と料理の本のよう。
要するに希硫酸で煮るのだが、濃度や時間は発明者の秘密であって(論文なのに)、
「各人自ら試験することあらば或いは秘訳を会得することあらん」。
「最も注意すべきは馬鈴薯の種類および生育の度」と詳しく教えてくれない。

煮ていてだんだん固くなってきたら温水、冷水の順で洗い、ゆっくりと乾燥させる。
「体面は多いに平滑で、展転しやすく、日光にさらすも破裂することなし。帯青白色、堅硬にして耐久の性あり、その性弾力を有するが故に能く玉突きの球に充つべし」。
著者はこれを擬象牙と呼んでいる。
つまり象牙は形ではなく、材質のことだったのである。

プラスチックのない時代は、珊瑚、鼈甲とともに象牙の需要は非常に高く、ビリヤードの球だけでなく、日本では三味線、箏のバチや爪、ピアノ鍵盤、もちろん細工が容易であるから工芸品などに引っ張りだこだった。しかし圧倒的に使われたのは印鑑である(朱肉がなじみやすい)。

最初の可塑性樹脂セルロイド(1856年)をはじめプラスチックは、もともと人工象牙を目指していたほどだ。それでも手触りなどなかなか本物に近い素材は作れなかった。

だからワシントン条約で1989年から象牙の輸入が止まったとき、業者は困った。
今、人工象牙は牛乳カゼイン蛋白などに酸化チタンを混ぜて作られている。しかし明治の誰か、この薬誌の「論文」を読んでジャガイモを茹でた人はいないだろうか。

2018年1月18日木曜日

第43 リンからヒ素ができた??

燐を砒素に変化せると云ふは誤謬なり
薬学雑誌1900年度1116頁(明治33年)

“元素”物語といった本には、リンが1669年、その同族ヒ素が1250年に発見されたと書いてある.錬金術のおかげか意外と古い.

しかしこれは恐らく、この“元素”を含む単体が最初に得られた年代であろう。
そのカタマリの存在を知った人であっても、元素の概念はなく、彼らの化学水準は分子どころか、純物質、混合物の区別さえ危うかったと思われる。
つまり、今当たり前となっている「元素とは化学反応では変化しないもの。原子。」という概念などまったく存在しなかった。

では、いつ頃、元素は変化しないものと考えられるようになったのだろう。
この記事を読む限り、意外と最近までそれは常識ではなかったようである。

1900年、F.Fitticaは、リンを硝酸アンモニアと加熱したら一部で亜ヒ酸As2O3ができたことを堂々と発表した。さらに、

2P + 5NH4NO3 = (PN2O)2O3 + 10H2O + 3N2 
 であるから
 (PN2O)2O3 ≡ As2O3

つまり、ヒ素AsはPN2Oだとした。
ヒ素は元素でないと言っているのだ。
しかしC.Winklerは、すぐに(1900年)同操作でヒ素の生成は確かに認めるものの、

2P + 5NH4NO3 = 2H3PO4 + 7H2O + 10N

という反応式を出し、ヒ素の出る余地はないという。
リンを他の方法で酸化しても同じ濃度(2%)でヒ素(!)を得ることから、ヒ素は、リン酸カルシウムからリンを製するときに用いる硫酸に含まれていた不純物だと反論した。
(ドイツ化学会誌 Berichte der Deutschen Chemischen Gesellschaft, 1891)
薬学雑誌の記事はこれを紹介したものである。

メンデレーエフの周期律表は、明治維新の翌年1869年に発表されているが、まじめに論文上で議論になっているところを見ると、30年たっても元素が変化すると考える科学者がいたのだ。
見えないものを見る化学というものは、考えてみれば魔法のようであり、昔はいろんな説が出たのも当然か。

リン化合物へ同族体のヒ素が不純物として混入していたといえば50年前の森永粉ミルク事件がある。これは純度の低い工業用Na2HPO4を食品製造に使ったことによる悲劇である。昔はしばしば話題になったが最近は忘れられている。

2017年12月5日火曜日

第100 極量とは何か

第100話 多少毒性を有する新薬の極量(表)
薬学雑誌 1890年度 p132-134

極量という言葉がある.
大人に対する一日または一回に投与できる最大限の量のことだ.
効果の著しい薬について,危険防止のために定めたものであるが,1991年の 改正日本薬局方で極量の項目が削除され,今は死語になりつつある。若い人は知らないだろう。

ふつう、薬ができたら動物実験でおおよその効果と毒性を調べた後、健常人に低用量から慎重に投与して体の反応を見ながら投与量の目安を調べる(臨床第1相試験)。そのあと第2相、第3相の患者を対象にした試験で治療するときの投与量を決める。
すなわち現在は薬物の投与量は発売開始から決まっている。

ところが昔は薬の投与量が決まっていなかった。
そもそも戦前は医薬品の承認制度すらなく、野放し状態の薬を医師がさじ加減で投与量を決めていた。投与して効かなければ、増量していく。
ここで重要なのはどこまで増量していいか、である。これが極量であり、これがなければ治療はできない。

明治25年薬学雑誌の記事の極量表は,外国文献紹介の欄にある。
  石炭酸水銀  0.03,0.10
  過オスミウム酸 0.015,0.05
  ストロファンチン及其塩 0.0005,0.003
などとテキスト文がなく,1回分,1日分の数字だけ並んでいるところを見ると,説明不要の有用な情報だったのだろう.

載っている「新薬」は無機塩と天然物に限られている.(アスピリンの発売は1899年).
長い間,薬というのは,材料,調合とも秘伝の,得体の知れないものが多かった.信じる者だけに効く.植物そのものを用いることもあり,投与量も文字通りさじ加減だった.
(アボットが「計量医学法」に基づきアルカロイドを抽出,顆粒などにして成功したのは,1888年)。要するに、薬効も毒性も大したことなかった.

明治になると,西洋から効き目(毒性?)著しい「新薬」が入ってきたが,危険なものも多数含まれていた。純度も不明だし,偽物も多い.薬剤師,医師は分析化学の知識のほかに,慎重なさじ加減と注意深い観察力が要求された.
(膨大な,細かい知識の暗記を求められる現代の薬剤師とは,全く違う能力である).最適投与量もはっきり分かっていないのだから,極量というのは唯一の目安だったといえる.

合成化学と動物実験によって生まれる近代医薬品は,1933年のサルファ剤が始まりである.もちろん投与量は決まっていなかった.医薬品の審査,承認制度は,サルファ剤が関係したマッセンギル事件に慌てたFDAが1938年に制定したものだ.それが戦後各国に広がるまで規制は存在しなかった.

なお,この極量表は,撒里矢爾(サリチル)酸水銀,貌羅謨(ブロム)水素酸ヒヨスチン,硝基倔里説林(ニトログリセリン)、古加乙涅(コカイン)といった,当時の表記法を知るにも役立つ。

第98 コレラ菌を飲んだペッテンコーファー

薬学雑誌 1893年度(明治26年) p200-201

ガンジスデルタでの伝染性風土病であったコレラが世界的に大流行するようになったのは,19世紀に入ってからである。意外に新しい。

1854年,まだ瘴気説が主流のころ,イギリスのジョン・スノウは悪臭ではなく飲み水から(肺ではなく腸から)うつることを示した.1883年にはロベルト・コッホ率いるドイツチームが流行地エジプトで患者の小腸内容物からコンマ型の細菌を発見,翌年にはガンジスデルタの患者からも発見した.

ところが動物に感染しなかったことなどから,これを病原菌と信じない人々もいた.有名なのはミュンヘン大学の衛生学者マックス・フォン・ペッテンコーファー(1818– 1901)である.東大初代衛生学教授の緒方正規や、鴎外森林太郎、坪井次郎、緒方銈次郎(洪庵の孫)も留学,師事した世界的権威である.

有機化学が未発達で抗生物質もなかった時代,伝染病にかかったら終わりであるから、予防につながる衛生学は医学の最も重要な分野の一つであった.
ペッテンコーファーは、1892年10月、コッホの用意したコレラ菌培養液を飲んで発症しなかったことで反論した。

このあたり、よく雑学本には,面白おかしく書いてある.
当時はどのように書かれたのだろう。薬学雑誌の記事を見つけた.

「仏国のボセフォンテーンは,さきに許多のコムマバチルスを含むコレラ患者下瀉物を丸として服用するもコレラに罹ることなかりしか,今またミュンヘンのフォン・ペッテンコーフェルは10月7日コレラ菌の純培養液を嚥下し(胃液を中和したるも発症せず,略),x(病菌),y(時と所の素因),z(人の感受性)中,yを最も大切と論決せり」.

一流の科学者らしく,実験は綿密に計画されている.
発症量をはるかに超える生菌を確認し,胃酸の影響をなくすため重曹を飲み,期間中の糞便は細菌検査に回された.
彼は水様の下痢を起こしたものの脱水症状(これこそコレラの特徴とされた)を起こさなかった.

ペッテンコーファーはもともと,疫学調査の結果からコレラはヒトの糞便を通して広まり,病原体は腸管内部に存在するという仮説をもっていた.ただしそれ単独では発症せず,土壌に存在している何らかの腐敗物質と混ざり合うことで,発病すると考えた。
この学説は瘴気説に近く,伝染性粒子の存在を認めた上で環境汚染こそが病因とする「複合病因説」と呼ばれた.薬誌にある「yを最も大切」としたのは,こういうことである.そして衛生学の権威らしく,下水道の整備を説いた.

彼は,感染防止には下水より上水の整備が重要としたスノウ,コレラ菌を発見したコッホとの論争に相次いで敗れ,教科書的には知名度がいまひとつ高くない.しかし抗生物質登場以前に,疫病の流行を最小限に食い止める衛生学を確立した功績は大きい.

このエピソードは Mary Dobson著 Diseases (小林力訳)にも書いてある。



2017年12月4日月曜日

第101 伊予紋楼、岡埜、伊香保

第101話 明治の薬学人が使った宴会場
薬学雑誌1903(明治36)年度1313頁,1910年11月号B2など

第87話で明治時代の薬学会年会の懇親会に使われた会場をいくつか紹介した.
神田明神開花楼,不忍池長蛇亭,神田三河町三河屋,神田淡路町万代軒,麹町区富士見軒,上野精養軒である.
今回は,他に宴会で使われた会場をみてみる.

明治32年4月,医科大学薬学科の学生ら若者20人が,初の薬学博士誕生を祝い長井下山丹波田原の四博士を招待したのは,上野・伊豫紋楼。第25話では宴会の様子(余興)を書いたので、店そのものについて書いておく。

ここは伊予大洲の6万石、加藤家が上京する時ついてきた家来(料理人?) が始めたという.非常に格式高い料理屋で,横山大観らお大尽が芸者を連れていったとか.場所は下谷同朋町。
国会図書館デジタルライブラリ―
大正元年。右のほうにある。

今の御徒町駅の西側,松坂屋の南館と立体駐車場になっているあたりで,当時の面影は全くない.大学からは徒歩15分くらいか.

明治36年12月,東大薬化学教室の送別会は根岸・岡埜で開かれた(第25話).
根岸は今の鶯谷駅の東一帯で,当時は上野の山の向こう側,風流な場所だった.正岡子規,中村不折,陸奥宗光や薬学科第一講座教授下山順一郎も住んでいる.
庭園が広い料亭で,本店が近くの根岸坂本町にあり,こちらは甘味で有名だった.

羽二重団子の6世澤野庄五郎氏の話によると(ネット)
このはな園といい、庭の見える座敷で汁粉をすすり、料理を食べて句会、その他集会に利用されたとある。

ここと和菓子の岡埜栄泉との関係はどうなっているのか.
明治初めに浅草駒形から上野,根岸,本郷三丁目,森川,竹早町の5軒に分かれたが(みな親戚筋、岡野姓),上野店以外は廃業したとある.
その根岸店だろうか。

すると現在、谷中や小石川にある岡埜栄泉はすべて上野からのれん分けしたものだろうか。あるいは根岸や竹早が廃業する前にのれん分けしたものだろうか。
竹隆庵岡埜(お出かけブログ)でも書いたが、その支店である谷中店で修業しても岡埜栄泉と名乗れたようであるから、店が多いのもうなづける。

最後に上野鶯坂下の伊香保.
明治43年,東京薬学校出身者會(同窓会?)が組織され,10月15日発会式がここで開かれた.参加者130人,規約の制定,幹事・評議員の推薦を終え,丹波博士は専門学校昇格の希望を兼ねた祝詞を,飯盛ドクトルは下山校長代理の祝詞を述べた.さらに薬事新聞記者,会員の演説あり,また落語,講談,丸一太神楽など余興のあと,酒宴に移った.

鶯坂は上野公園から根岸に降りる坂.新坂ともいう。今は途中に鶯谷駅南口がある.
伊香保は敷地3,000坪,木造3階建て,建坪500坪.園内には台地の上より引いた泉水を擁し,上野の山を借景とする中の島に赤橋かかる東洋随一の料亭と言われた.
上野桜木の東京薬学校から近い.
地域雑誌「谷根千」27号から(明治34年)
となりに同じような温泉料亭「志保原」も見える。伊香保と同じように塩原温泉から鉱水を運んできたのだろうか。
しかし志保原のほうが大きい。
前述6世澤野庄五郎氏の話だと、塩原温泉のあたりが伊香保で、塩原は「新坂を挟んで」、「スター東京の前、ワールドのあたり」にあったとあり地図と矛盾する。(このあたり不明)

スター東京は2003年まであった大型キャバレーだそうだ。このころ新坂降りて右(東)のダンスホール「新世紀」に通っていたのだが、スター東京の記憶が全くない。

ちなみに、この坂下の温泉料亭二軒までは根岸でなく上野桜木だった。


千駄木菜園 総目次

第90 緒方病院と緒方ビル、適塾、道修町

「故緒方惟孝君略伝」の続き
薬学雑誌1905年度(明治38年)4月号

第88話で緒方惟孝のことを書いたが、彼の娘たちと結婚し緒方の養子になった大國六治、山本鷺雄はそれぞれ緒方病院の歯科長、内科医長となった。
緒方惟準、惟孝兄弟、六治、鷺雄をはじめ優れた医師たち、多数の緒方一族が集結した緒方病院はどこにあったのだろう?

2013年6月14日、講演で大阪に行く機会があった。
ちょうどファルマシア「薬学昔々」に第88話を書いた後だった。
前夜着いて午前中そっくり空いていたので、地下鉄御堂筋線、淀屋橋でおりて、緒方ビルを訪ねた。

緒方ビルは、明治38年緒方正清が開いた緒方婦人科病院の後身、くりにっくおがたの他に、医院が9つ、薬局が一つ入ったクリニックセンターとなっている。4階に除痘館記念資料室がある。すなわちこのビルは洪庵が同志とともに種痘を西日本に広めるときの拠点となった除痘館の跡地に建っている。

緒方正清は旧姓中村、緒方拙斎(洪庵4女の八千代と結婚した吉雄拙斎)の娘、千重と結婚した。正清もはじめ緒方病院に勤めたが、明治35年独立、明治37(38?)年に今橋に来たという。(緒方惟準伝)
いずれにしろ、ここは緒方病院の場所ではなかった。

そのあたりを調べると
明治20年、惟準らが今の今橋4丁目にあった回春病院(山本信仰経営)を買収、改築、緒方病院設立。
明治26年、西区立売堀、南通4丁目に分院設立。
明治30年、今橋の本院廃止、三菱銀行に売却
明治35年、売堀の病院拡張、1200坪。正清氏独立。
昭和4年、諸般の事情から緒方病院閉鎖。

緒方病院とは関係ないが、ビル4階、除痘館記念資料室にはいってみた。
係員も見学者も誰もいなかった。

すぐ近くの適塾も訪ねた。
1942年緒方家から阪大に寄付されている。

なぜ阪大か?
維新の翌年、1869年、浪華仮病院と仮医学校が設立され、院長は緒方惟準、学校のほうの主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招いた。
適塾の塾生も移籍し、これらが改組・改称を経て現在の大阪大学医学部となっているから、緒方家、適塾と阪大医学部はつながるという。


当時の炊事場は、乱雑であっただろう。

二階の部屋をみて福翁自伝を思い出した。
夏はみんな裸でごろごろしていたと書いてあった気がする。


さて。
このあたり、町は南北に短い短冊のようになっていて、今橋のすぐ南は平野町、道修町。

32年間務め、つい3か月前まで在籍していた田辺製薬の道修町本社にいってみた。
私の職業人生は、ここでの入社式と1週間の集合研修で始まった。ずっと埼玉の研究所だったから再訪する機会もほとんどなかった。
それでも懐かしい。記憶に引っかかる景色(ほかの製薬メーカー)を探したが、数十年ぶりの道修町と平野町は新しいビルが増えたせいもあり、夏の日差しが真上から来ると東西南北が分からなくなった。

田辺製薬の本社は工事中で、近くに移転していた。
そちらに行くと、受付ロビーで胡散臭そうに見られた。誰に面会か尋ねられ、親しかったものの名前を出したがいないという。大阪といっても彼らは研究所や企画室などのある加島事業所かもしれない。はっきり本社にいるとわかっている知人は偉い人しか知らず、呼ぶのもはばかれ、そのまま退出した。

受付の対応は正当なものであったが、美人なだけに、汚い老人を見るような、ひどく冷たいものに感じた。


千駄木菜園 総目次

2017年12月2日土曜日

第88 緒方惟孝君略伝と緒方一族

薬学雑誌1905年度(明治38年)4月号

「君は我国洋学の祖、緒方洪庵先生の第四子にして、弘化二年七月(1845年)浪華船場に生る。」で始まる溝口恒輔氏の追悼文である。

父に比べてあまり知られていないが、薬学会には大いに貢献した。
惟孝は明治19年7月薬学会に入会、このころ会員は100人足らず。
のち大阪薬剤師会会頭も務め、死の二年前、東京以外で初めて総会が開かれた大阪大会では準備委員になっている。

この追悼記事によれば――史実は未確認だが――数え6歳で漢学を後藤松陰に学び、14歳の春笈を負ふて越前大野の伊藤慎造に蘭書を学んだ。
15歳(1859年)転じて長崎に至り米人スミットから医学を研修す。
そして1861年江戸下谷の西洋医学所(東大医学部の前身)教授に任ぜらる。
1863年開成学校(これも東大の前身)英学教授心得を拝命、
1865年ロシア留学。68年帰国すると時代は明治。
以後、新潟病院兼洋学校取締、北海道開拓使御用掛兼函館露学校教官(この時教材として作ったロシア語の辞書『魯語箋』が有名)、次いで大蔵省御用掛と転々としたのち、
明治8年(1875年)病を得て職を辞す。

しばらく休養していたが明治11年薬舗開業免許を取得するや12年開業、続いて大学付属医院の薬局調剤員となる。
7年務めた明治20年、兄緒方惟準が大阪で病院設立するに当たり、薬剤部長兼事務長となり支えた。

弟たちは若死にしたりして残った収二郎も13歳下、家長の惟準に頼りにされた。
「君、人となり温良恭謙にして義気に富み、ために知人の信用厚く・・」とある。
父洪庵と同じく政治的には立ち回らず、自らの技能を求められるまま公に奉仕したように思える。

素性、経歴、実力から何にでもなれた彼が選んだ職業は普通の薬剤師だった。
当時薬の品質はバラバラであったが、その管理、分析は医師にできなかった。患者のことを考えたら医師より薬剤師の方が重要だ、と惟孝は思ったのかもしれない。

(医科大学教授の三宅秀、大沢謙二、緒方正規、高橋順太郎や北里柴三郎も早くから薬学会会員だった。今、医薬品の品質は極めて良く、薬剤師の日常業務に(医師とは別の) 高度な知識、技能は必要ない。薬が粗悪であった頃の方が薬学の地位が高かったというのは皮肉である。)

「二月卒然肺膿瘍に罹られしが病勢進み」3月20日死去。
享年62歳。

ここまでは明治38年の薬学雑誌追悼文に書いてあった。
その後緒方の子孫はどうなったか。
洪庵のあと緒方家をついだのは兄の惟準である。その子に、銈次郎、病理の緒方知三郎、薬学の緒方章がいる。また血清学の緒方富雄は銈次郎の子。いずれも有名でネットにも情報がある。

ところが、惟孝の子孫が分からなかった。
ファルマシア「薬学昔々」にこの話を書いたのは2013年の春、千駄木に引っ越したころで、団子坂にある本郷図書館の司書の方に相談してみた。すると数日後電話があり、分かったという。
夜9時まで開いているので、仕事帰りの8時半頃伺うと、『緒方系譜考』(1926年)をパソコン画面で見せてくれた。
国会図書館のデジタルライブラリーである。
発行人は惟準の後継ぎ、銈次郎。著者は銈次郎の三男、富雄だが、彼はこの年(大正15年)東大医学部在学中で、緒方洪庵伝を執筆中だった。のち血清学の大家となる。
本書は洪庵以前の緒方家、佐伯家の話から始まるのだが、他書にない多数の人々のことが書いてあり、貴重である。

それによれば、タシ夫人との間に一男二女を授かっている。
長男は早世したが、長女初枝には大國六治が養子に入った。六治はドクトルで米国留学後緒方病院の歯科長となる。次女敏子には山本鷺雄が養子に入った。彼も医学博士でドイツ留学のあと岡山医専教授を経て緒方病院の内科医長となった。

こういう調査を無料でしてくれるとは、さすが東京の図書館だと感心し、千駄木に引っ越してよかったと思った。

この図書館には、緒方惟之/著
『医の系譜  緒方家五代~洪庵・惟準・銈次郎・準一・惟之』
があり、1枚コピーさせてもらった。

もう一冊、中山沃/著『緒方惟準伝  緒方家の人々とその周辺』 で一つ気になった。
重三郎(洪庵13子(8男)、29歳で没)に初枝がいて、惟孝の養女になったという。この本には「惟孝の一人娘、敏」という文もあり、『緒方系譜考』(緒方富雄1925)の「(タシ夫人との間に)一男二女が産まれた」(p92)と矛盾する。

緒方一族の娘と結婚する医師は、多くが養子に入った。
緒方姓の医師が多いのはこういうこともある。


千駄木菜園 総目次

2017年11月3日金曜日

第87 開花楼、長蛇亭、三河屋、精養軒

薬学昔々 第87話 薬学会の総会、懇親会に使われた料理屋
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42

第85話に明治時代の総会、懇親会に使われた会場の一覧表を示した。
その中の料理屋について書く。

開花楼
明治13年1月、在京の30人が集まって毎月親睦会を開こうと決めたのは神田明神境内の開花楼。翌14年1月、会を学術的なものにし、会則、会費も決めようと話したのもここだ。(これが年会の第一回となる)。
明治10年創業、当時としては珍しい木造三階建てだった。海も見えたかもしれない。
数年前、神田明神から東に階段を下りると新開花という高級割烹があった。ご主人は開花楼から数えて4代目である。ランチでもあるかと前を通ったのだが、私など寄せ付けない雰囲気であった。

長蛇亭
明治16年総会に使われたのは、上野不忍池、弁天島の南岸にあった長蛇亭である。この島は維新前にはもっと酒亭があったらしいが、このころは取り払われて1軒だけ営業が許され、さまざまな会合に利用された。もちろん今はない。
私事だが3、40年ほど昔、堂の西側の、傾いたような茶店で蓮の花を見ながらところてんやあんみつを食べた。当時は道の両側に2軒あったのだが、その後、北側の1軒だけになった。今もあるだろうか。

三河亭
明治17年、18年に会場となった三河亭は、神田三河町の三河屋であろうか。
東京初の洋食屋として有名である。牛鍋屋は瞬く間に広がったが、ナイフとフォークを使ってコースに沿って料理を出すような店は、精養軒、三河屋、富士見軒あたりしかなかったという。製薬学科本科生は全寮制で洋食を食べていたらしいから、こういうものに慣れていたのだろうか。三河屋は関東大震災で閉店した。

万代軒
明治20-22年の神田淡路町万代軒も西洋料理で有名だった。各種学会の会合に利用され、二階に玉突台があり、学士会の活動(親睦)はここから始まったとか。

富士見軒
明治23年の麹町区富士見軒も西洋料理で有名。この年の総会は薬学展覧会も併催され、文部大臣榎本武揚ら多数の来賓があった。日本数学会が21年に東大以外で初めて総会をしたのも富士見軒である。

上野精養軒
明治25年以降は総会が帝大薬学教室、懇親会が上野精養軒というパターンが多かった。ここは今も健在である。明治5年の築地精養軒ホテルから始まり、上野は公園ができた明治9年に支店として開業。明治時代の海外出張や留学前の壮行会、帰朝したときの歓迎会などがよく開かれたので、薬学雑誌によく出てくる。
築地は関東大震災で焼け、上野が本店になった。2009年倒産した洋菓子の神田精養軒は戦後ベーカリー部門が独立したものらしい。

また私事。
学部卒業式の日、私のいた部屋では、教授が四年生に精養軒でご馳走してくれるのが恒例となっていた。しかし1979年、彼は海外出張?していて、助教授の先生がフランス料理のフルコースをご馳走してくれたのは本郷の別の店だった。
初めて入ったのは、学生時代、屋上のビアガーデンである。
当時夕方になると、のちに妻となる女性が帰宅するのにあわせ、公園をよく散歩したのだが、ここには一度も入らなかった。
初めてレストランなど内部をじっくり見たのは、その数年後、結婚式場を探していたときである。丁寧に案内され説明を受けたが、結局ここではやらなかった。
そして33年後、長女の相手の方と初めて会うことになり、いろいろ考えて不忍池が見下ろせる、ここのカフェレストランを指定した。彼らと別れた後、妻と彼の印象について話しながら千駄木まで歩いて帰ったのが、昨年5月。 伊藤若冲展、最終の日曜だったか、公園に人が多かった。


千駄木菜園 総目次

第86 中之島、大阪ホテルでの薬学会総会

初めて地方開催された年会:大阪大会(明治36年)
薬学雑誌1903年度p413-430から

第85話で触れた大阪大会についてもう少し書く。
正式に決まったのは明治35年9月神田福田屋での評議会。
年が明けて1月、在京の岸田吟香(あの劉生の父)ら4名、大阪では道修町薬業界の武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎、小野市兵衛など27名が準備委員に選ばれた。

2月からは委員長辻岡精輔のもと
「すでに学会において期日を広告なりし上は、当市において万一総会に不利なること出来する場合あるといえども、毫も変更せずして挙行すること」と準備に総力を挙げた。
明治の飛行機研究家として知られる二宮忠八はこのとき大日本製薬の社員であったが準備委員会ナンバー2の常務委員として大活躍した。

大会は学術講演会から始まった。
4月3、4の両日で12題。二宮も小学校卒でありながら田原、丹波の博士らに混じって大会講演に選ばれクレオゲストについて発表した。
5日夕方5時、中之島大阪ホテルでの大懇親会の様子が薬誌にある。

「表門に一大緑門、大国旗二旒を交叉し、階上より垂下して第23回薬学会総会宴会場と大書したる票札を掲ぐ。大広間は食卓に無数の挿花を散在し、正面の花瓶には高さ三丈に余る一大桜花を挟み、満室あたかも春野に逍遥するがごとし。(略) 用意の号砲しきりに開会を報ずるや車軸相並びて雲霞のごとく表門に蝟集し陸続として来る。(略)」
午後6時、陸軍軍楽隊の吹奏起こり、それまで別室で茶菓を供せられていた一同は宴席についた。
「光栄ある来賓と、服装態度実に社会の表に起つ親愛なる会員の綺羅たるこの一大光景は何たる盛挙ぞや。」
いったい何事かと宿泊中の西洋人も見物に来た。同ホテル開業以来の盛大な会で、和酒、麦酒、赤酒から料理までホテルの最も精選、吟味したものが供された。

宴会中、淀川中流につないだ煙船はしきりに妙火を大空に放った。しかし河中に仕掛けた長さ30間余の「日本薬学会万歳」と大書したる仕掛け花火は降雨のために、会員が見物席に移動してくるまで待てず、外の市民のみが楽しんだ。

初めて地方で開かれた総会参加者の内訳は、大阪113、東京38、兵庫25、京都15、石川11をはじめ、合計3府27県で273人であった。それまでの総会参加者は100人程度であったから成功と言えよう。

長井会頭はテレーゼ夫人、子息、日野九郎兵衛、溝口恒輔氏とともに8日難波駅を出発、和歌の浦の風景を賞し、続いて高野山に上った。空海大師の偉業を探り11日に帰阪したという。

今ここまで書いて、中之島のホテルが気になった。
国会図書館のレファレンス共同データベースに以下のようにある。

『川口居留地 1』(1988.5)p.23-26 自由亭ホテル/堀田暁生 
『大阪春秋』51(1987.11) p.78-81 写真が語る自由亭ホテルと大阪ホテル/堀田暁生 
この2点の資料によると、自由亭の概略は次のとおり。
明治元年 草野丈吉によって洋食屋として梅本町(現在の西区)に開業
明治14年 中之島に自由亭支店を新築開業
明治17年 自由亭の東隣にあった温泉場と清華楼を購入
明治19年 草野丈吉没
明治28年 草野丈吉の長女 草野錦が洗心館(もと清華楼)を改築して「大阪ホテル東店」を開業
明治29年 「大阪ホテル」(西店)開業
明治31年 11月に行われた陸軍大演習のため来阪した明治天皇の御膳部用命を拝する
明治32年 10月 大阪ホテルを大阪倶楽部に売却、「大阪倶楽部ホテル」
明治34年 火災で全焼
明治36年 大阪倶楽部により再建され、「大阪ホテル」として開業
大正13年 大阪ホテル 全焼

薬学会が行われたのは全焼して明治35年再建されたあとである。
堂島川左岸(淀川は大川といい、中之島の北を堂島川、南を土佐堀川という)、今の中央公会堂の東にあった。

当時、東京帝国ホテル、箱根冨士屋ホテル、京都都ホテル、日光金谷ホテルと並び、日本の5大ホテルと言われたらしい。

第85 薬学会年会の参加者数と会場

明治時代、薬学会総会の場所と会員数の変遷――東京と地方
薬学雑誌1903年度p413-430

薬学会は明治14年帝大薬学科の30人で始まった。
その後、地方会員が増え続け、明治23年7月には大阪支会が発足した。
その10年後、明治24年末には10倍に増えた総員402名のうち、在京170、地方232名と逆転し、翌25年1月の第12回総会決議で東京薬学会から日本薬学会と改称した。
以後、会員の爆発的な伸びは主に地方会員の増加によるものであった。

そして明治36年4月、大阪で第23回総会が開かれた。
開催日が1月から4月に変わって最初の総会であったが、初めて東京以外で開かれた会でもある。ちょうど大博覧会が大阪で開かれ、薬学会会員の中にも来阪するものが多かろうというので大阪開催となったらしいが、増加する地方会員への気配りもあったことが長井会頭の総会演説からうかがえる。

大阪府立医学校講堂で4月3,4日に学術演説会、5日総会、懇親会、6,7日に各所参観、全5日間という盛大なものであった。

しかし地方開催はやはり困難なようで、明治が終わる1912年まで、第30回の熊本以外はすべて東京で開かれた。
たいてい第11回以来の会場すなわち帝大薬学教室で総会、上野精養軒で懇親会を行った。ただし、大阪以前の総会には学術講演会がなく(講演会は月例会で開かれていた)、午後から会務報告などのみであった。しかし大阪大会の次の第24回以来、会期は2日間となり、初日午後と二日目午前に学術講演会、そのあと総会、夕方懇親会というパターンが定着した。

地方会員は月例会に出られないのだから、総会のときに最先端の薬学の話がたっぷり聞けるのはありがたい。
(実は二日間にわたる会合は大阪の前年の臨時大会が始まりである。この時は総会こそなかったが、初日に学術講演8題、二日目に模範薬局、東京衛生試験所、赤十字社病院、東京市水道部、日本麦酒株式会社の見学会、そして懇親会があった。地方会員のためのプログラムであろう。)

さて現在、薬学会は毎年各地で開かれる。
2009年の京都以来、岡山、静岡、札幌、横浜、熊本、神戸、横浜、仙台ときて、2018年3月は金沢である。
半分がパシフィコ横浜で固定されている日本薬理学会の年会よりも楽しい。各地で市民講座を開いて全国で薬学関係者が活躍できればよい。

(日本薬学会沿革史から苦労して作成)