2021年9月26日日曜日

さだまさしの中川中学、白鬚神社と水道路の今

9月8日、墨田区の白鬚神社に来たときさだまさしを思い出した。

帰宅後調べたら、さだが歌ったのは葛飾区のほうの白鬚神社だという。
墨田、葛飾方面はまったく土地勘がないから、「木根川橋」(1979)の歌詞も大して関心がなかった。

木根川橋から水道路ぬけた
白鬚神社の縁日は
アセチレンたいてあんずうめ売っていますか
(略)
木下川薬師の植木市の日には
今でも必ず雨が降りますか
もんじゃ焼きのコツ忘れちゃいませんよ
(略)
あの頃チャリンコ転がしていった
曳舟、押上、浅草の不思議な胸の高鳴りと
荒川土手の忘れちゃいけない毎度毎度の草野球

9月11日、自転車で木根川橋まで来た。
国土地理院1963‐06‐26撮影
上から四ツ木橋(国道6号)、京成線、旧四ツ木橋、水道橋

木根川橋の竣工はこの写真のあと、1969年(昭和44年)2月。

ウィキペディアによれば、さだまさし(1952年4月生まれ)はバイオリン修行のため、長崎の小学校を卒業した1965年、単身で上京した。
葛飾区にすみ、この木根川橋近くの中川中学に通った。
そのあと中学3年から市川市にうつったが、卒業までは京成で四ツ木まで越境通学した。
高校は市川から国学院に行ったため、葛飾から離れた。
すると彼がここを去った1968年3月はまだ木根川橋はなく、歌のモデルになったのは旧四ツ木橋ということになる。(前のブログ)


2021-09-11 17:10 木根川橋

文京区からはるばるママチャリで墨田区北部をうろうろしたあと、せっかくだから、と荒川の木根川橋を少しだけ見ようとした。しかし幸か不幸か、新四ツ木橋の西側、すなわち墨田区側では堤防道に降りられない。仕方なく長い橋を渡り切り、葛飾区側の堤防を走らざるを得なかった。
その結果、さだの「木根川橋」の舞台、橋の東側まで来てしまった。

もう夕方5時過ぎ、一人帰ることを思うと心細くなってきた。
しかし、せっかくここまで来たのだ。
まっすぐ橋を渡って帰宅することはせず、さだまさしの過ごした街をみてみよう。
堤防を葛飾区側におりた。

17:13
いきなり目についたのは、
浸水時は3メートルになるという電柱の表示

ちょっと住宅地に入ってみる。
道は狭く、まったく区画整理されていない。
江東の各区は都心から離れているのに緑がない。坂と寺社が少ないからだろうか。
(ただし河川敷などもあり、公園は23区平均より広い)
17:17
珍しく住宅街の緑、というより放置された藪。

17:20
左に何やらゆかし、小さなお堂。
この道こそ歌われた水道路(すいどうみち)だろうか、と思うも少し曲がっている。
自転車で少し走るも木根川中央公園のところで引き返す。

再び住宅街に入ると石柱に出くわした。
「やくしみち」と読める。その方向に自転車を走らせたらまた堤防のほうに戻ってきた。

17:27
木下川薬師 (きねがわやくし)
写真右上は荒川東岸の首都高中央環状線(ということは王子のほうへ行く)。
薬王院浄光寺は夕方で門が閉まっていた。
どっちみち見る暇はないからいいけど。

なんでこんな町はずれの川のそばに寺が?と思うが、本来は西北約600mのところにあった。それが荒川放水路の流路にあたっていたため、大正8年(1919)5月、現在地に曳屋されてきたのである。ということは、あの「やくしみち」の石柱もどこかから移設したのだろうか。

木下川、木根川は木下川薬師から今葛飾の地名に思えるが、墨田区側にも(別ブログで述べたように)木下川小学校があった。すなわち、荒川放水路で木下川村(上、下)が両区に分断されたのである。
ちなみに木下川は昔木毛川と書いたらしい。きげがわの音がいつしか木下川となり、きねがわと訛って、木根川となったのであろう。

ま、とにかく「植木市の木下川薬師」は見つけた。
さあ先を急ぐ。

実は例の石柱からここへ来る途中、白鬚神社参道という案内板を目ざとく見つけていた。
急いで戻り、細い道を入っていく。
17:28 王子白鬚神社
しかし、「アセチレンたいてあんずうめ売っていた縁日」など開けないほど狭い。
これも荒川掘削で移転してきたのだろうか?
白鬚神社は近江の大社だが、末社は各地にあり、墨田区白鬚橋東詰めのほか、葛飾区にも王子白鬚、渋江白鬚、四ツ木白鬚と、3社ある。
さだまさしの神社は「木根川橋から水道路ぬけた白鬚神社」である。

参道を戻ろうとすると神社の隣の木根川小学校で作業されている70歳くらいの男性(用務員さん?)がいた。フェンス越しに、

「すみません、水道路の近くの白鬚神社ってご存じですか?」
「ああ、渋江白鬚神社だ。こちらは木下川村の鎮守、あちらは渋江村の鎮守」
「どうやって行くんですかね?」
半袖下着シャツの彼は蚊をパチンとたたきながら
「うーん、水道路まっすぐ行って、○○って葬儀屋知ってる? その裏なんだけど」

そんな葬儀屋知ってるくらいなら、道を聞きません・・・・

「その水道路って、このすぐ裏の、入り口にお堂があって木根川中央公園のあるまっすぐな道ですかね?」
「あれは昔、どぶ川があって、それを埋めた跡だ。水道路はもっと向こう。」

この方、地元のいろんなことをご存じのようだが、時間がないのでお礼を言って自転車にまたがった。

そうだ、水道路に行く前に中川中学に行ってみよう。
木下川薬師・浄光寺の向こうに学校らしきものが見えていたから。
17:33葛飾区立中川中学校 
堤防に面して裏口のようだ。

17:35
浄光寺のやくし幼稚園のほうを回り、路地に入ると、こちらが正門らしい。
屋上の看板は多分左から読むんだろうな。右は浄光寺の墓地。

さだまさしの通った60年代は木造だったようだが、曲を作った1979年には
「先生、俺たちの木造校舎すっかりなくなっちまったんですねぇ」
と歌の中のセリフにしている。
「あの暑い夏にローラー転がしてならしたテニスコートの上にプールなんかできちまって」
は確認する暇もなく、ここも自転車にまたがったまま写真だけ取ってUターン。
中川中学の木造校舎 1963
十字の印のところにプールができた。

17:38
急いで水道路に行く途中、京成タウンバス新小岩駅行きの停留所「水道橋」を発見。
しかし今や水道橋はない。
国土地理院1975‐01‐20撮影
1970年代になって、荒川を越える水道橋が撤去された。(河川敷に跡がある)
送水管は荒川の下をくぐっているのだろうか?


さて水道橋バス停のそばにまっすぐな道があった。

17:39
東京都水道局の管理地あり。水道路に間違いない。

帰宅後、グーグルで水道路をみてみた。
きれいに町に割れ目ができている。

google2021
下の川は荒川に沿って並行する綾瀬川。
左下が木根川橋、右は河川敷まで渡る東四ツ木避難橋である。
遠くのほうから右上にかけて中川の蛇行が見える。

ちなみに水道路は中川(写真手前)を越え、その先は住吉小学校の北西などを通って、江戸川べり、柴又帝釈天の金町浄水場(上)まで続いている。
金町浄水場から墨田区、江東区に浄水を運んでいた。
世田谷区の荒玉水道道路を思い出す(別ブログ)

とにかく急いで水道路を自転車でゆく。
あった。東四ツ木セレモニーホール。
ここで左折

17:42 渋江白鬚神社

境内は誰もいない

17:43
今でも縁日が開かれるのかな?
さだまさしの詩にはアセチレンの香りがよく出てくる。
「ほおづき」が思い浮かぶ。

見るべきものを見たので、後はひたすら自転車をこぎ文京区まで帰る。
水道路は、まっすぐ(これは当たり前)わき目もふらず過ぎた。
17:50
きねがわばしに戻る。
写真の時間で分かるように1分刻みの忙しさであったが、40分経っていた。
正面にスカイツリー。
いつも東に見るのが西にあるとは、はるばる来たもんだ。

17:51 橋の上から
中川中学から一番近い河川敷グラウンド。
彼は野球が好きなことは間違いないが、どのくらい遊んでいたのだろう?
バイオリンの修行で上京し、吹奏楽部にも入ったから忙しかっただろう。
しかし途中でバイオリンで生きていくのは諦めたようだから、友人たちとここで泥と汗にまみれたのかな。
さだまさし 時のほとりで(新潮文庫 1980)

「木根川橋」は、ソロになって4枚目のアルバム「夢供養」に入っていた。

 1st 1976年11月「帰去来」
    線香花火、異邦人、童話作家、絵はがき坂、指定券、胡桃の日、、、、

 2nd 1977年7月風見鶏」
    最終案内、つゆのあとさき、飛梅、きみのふるさと、セロ弾きのゴーシュ、もう一つの雨宿り、吸殻の風景、桃花源、晩鐘

 3rd 1978年3月私花集アンソロジィ」
    檸檬、天文学者になればよかった、案山子、秋桜、加速度、主人公、

 4th 1979年4月夢供養」
    ・・・・タイトル見てもメロディが出てこない。

最初の3枚、「アンソロジィ」まではシングルで出た曲もすべて入り、好きな曲も多かった。友達に頼んでカセットテープにコピーしてもらい、一人アパートで下手糞なギターを弾きながら毎日歌っていた。

しかし、そのあとは、天まで届け、関白宣言、道化師のソネット、防人の詩などヒット曲はシングル盤のみで、LPに入らなかった。だから4枚目のLP「夢供養」には有名な曲が一つもない。カセットへのダビングも頼まなかったこともあり、曲に伴う思い出もない。
その後私は就職し、さだまさしも違う方向に進んだようで、すっかり関心なくなった。

ところが、「木根川橋」の歌詞だけは記憶に残っている。
木根川橋、水道路、白髭神社、木根川薬師、そして曳舟・押上・浅草・荒川土手。
これだけ地名が入る歌は珍しい。
ただ、「無縁坂」の不忍(池)、「檸檬」の湯島聖堂、聖橋のような土地勘がなかった。

©シンコーミュージック 1978

話は変わるが、一時期あれほどさだまさしの歌が好きで、かつ月刊明星、月刊平凡も読んでいたのに、彼が中学時代葛飾区に住んでいたことは知らなかった。昭和50年代は、地元民やごく一部の人以外の一般ファンは皆知らなかったのではないか? 本人も周囲も秘密にしていたわけでもないのに広まらなかった。

それが今やウィキペディアに載っている。
その気になれば相当細かいことまで簡単に調べられる。情報、知識の価値がネットで大きく変わったと感じる。
もはや記憶力より検索力、構成力が大事なのに相変わらず学校のテストが暗記重視なのは教育関係者の怠慢であろう。

 

2021年9月25日土曜日

さだまさしの荒川、木根川橋と四ツ木橋

先日たまたま墨田区の白鬚神社に来たときさだまさしを思い出した。

しかし「木根川橋」という歌に出てくる白鬚神社は、葛飾区らしい。

9月11日午後、自転車で台東区の向こう、墨田区の玉ノ井あたりをうろついたとき、木根川橋まで行ってみようと思った。しかし曳舟の鳩の街で16:40。

久しぶりのママチャリ、かつ遠乗りですっかり疲れた。
尻はサドルで擦れているかもしれない。
高さが合わないから膝が曲げっぱなしで痛くなっていた。 
ここから葛飾区まで行ったら真っ暗になるどころが体が壊れるのではなかろうか。
でも、せっかくここまで来ているのだから、と東に向かってペダルをこいだ。

といっても、このあたりは墨田区南部や江東区などと違い、東西南北に区画整理されていない。まっすぐ東へ行く道が(信じられないことに)一本もないのだ。

狭い道をくねくねしているうちに曳舟川通りに出た。
ここは文字通り、江戸後期から明治にかけて人や荷を乗せた船を岸から引っ張って運んだ。
まっすぐな運河の両側が道になっていたから、埋め立てると広い道になった。

地図がない。
目的地も決めていない。
スマホ検索は電池が残り少ないので使いたくない。

とにかく東のほうにある荒川に出れば何とかなると思ったが、墨田区の北部は国道6号、曳舟川通り、八広中央通り、と、まっすぐな道はすべて北東にむかっている。遠回りだろうな、と思いながらひたすら自転車をこいでいると、ようやく荒川の堤防に上る坂が見えてきた。
その手前に大きな交差点。
2021‐09‐11 16:59 更生橋交差点
橋というのは曳舟川通りが確かに川だったことを示す。しかし更生ってなに?
少年院でもあったのかな?
調べたら、写真左のほうにある八広小学校の場所には平成15年まで墨田区立更生小学校があり、木下川小学校、第五吾嬬小学校と統合され、現校名になったようだ。

もう一つの疑問。歩道橋に国道6号水戸街道と書いてある。
6号は西側を並行して走っていたはずだが?
バイパスという意味か。
17:01
更生橋交差点を渡ると堤防への上り坂。
新四ツ木橋。
目的の木根川橋ではなかった。
1973年竣工。上部には何の構造もなくだだっ広い。

17:03
野球をしている。向こうは京成押上線のトラス橋

遊歩道テラスあるいはカミソリ堤防で狭い隅田川と違い、明治期に田園地帯を掘削された荒川(放水路)は広い。金八先生は見ていないが、こんな感じの場所かな。
ちばあきおの墨谷二中、墨谷高校の舞台はここだろう。

堤防に沿って木根川橋まで行くつもりだったが、降りる道がない。
ここまで来たら長い橋を向こうに渡るしかない。
いよいよ千駄木の家が遠くなる。

左は国道6号本線が並行して走る。あちらは四ツ木橋。
1952年竣工。中央部のみアーチがある。
遠くに見える黄色の小さな橋は、火災事に葛飾区民が綾瀬川を渡って荒川河川敷に逃げる堀切避難橋。

17:06
渡り終わるころ綾瀬川が並行している。
橋が終わると国道6号本線と合流する。

埼玉桶川あたりに始まる綾瀬川はかつて東南の中川に流れ込んでいたが(古綾瀬川)、江戸時代、隅田川まで運河が掘られ(新綾瀬川)、隅田川との合流点を鐘ヶ淵といった。
大正時代に荒川放水路が掘られてから、綾瀬川の水はほぼ古綾瀬川の跡、すなわち荒川の東に沿って中川に入っている。
荒川下流河川事務所公式サイトから

明治11年
曳舟川、中井掘、古綾瀬川の直線的な水路が目立つ。
後年、荒川掘削で移転する浄光寺、薬師堂も昔の場所に書いてある。

荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手、三代に及び昭和5年(1930)に完成した。土地買収は1098町歩(東京北区の面積の半分)、ほとんど田畑だったが、それでも1300戸が移転した。

今までの河川と比べ、なぜこんなに広いかというと、岩淵地点における明治40年の洪水での推定流量に基づく。隅田川が今の幅でも氾濫しない流量として毎秒830立米とし、その4倍の毎秒3,340立米を荒川放水路に流そうとしたからである。
17:06
ようやく堤防に降りられる。左・綾瀬川、右・荒川
誰もいない堤防道を猛スピードで下流に向かって飛ばす。
気持ちいい。
向こうに見える京成線はいったん堤防から降りて鉄橋をくぐる。

17:09
ようやく木根川橋
竣工は1969年(昭和44年)2月

ウィキペディアによれば、さだまさし(1952年4月生まれ)はバイオリン修行のため、長崎の小学校を卒業した1965年、単身で上京した。
葛飾区にすみ、この木根川橋近くの中川中学に通った。
そのあと中学3年から市川市菅野にうつったが、卒業までは京成で四ツ木まで越境通学した。
高校は市川から国学院に通ったため、葛飾は遠くなっただろう。
すると彼がここを去った1968年3月はまだ木根川橋はなく、歌のモデルになったのは旧四ツ木橋ということになる。(別ブログ)

国土地理院1963‐06‐26撮影
上から四ツ木橋(国道6号)、京成線、旧四ツ木橋、水道橋

木製だった旧四ツ木橋(1922年、橋脚は鉄筋コンクリート)は1969年に解体され、100メートルほど下流に同年竣工したのが木根川橋である。既に1952年に国道6号の橋ができ、そちらが四ツ木橋の名を継ぎ新四ツ木橋と言っていた。10年以上、新旧の四ツ木橋があったから今さら(新新)四ツ木とも言えず、木根川橋としたのだろう。

国土地理院1975‐01‐20撮影
1970年代になって、金町浄水場から墨田区、江東区に浄水を運んでいた水道橋が撤去された(上の航空写真には河川敷に跡がある)。また国道6号の四ツ木橋のすぐ下流に曳舟川通りからの新四ツ木橋ができた(1973)。

1975年の写真を見れば、4つの橋に関しては今と同じになっている。
左下の空き地は60年代まで工場、倉庫のようなものが見えていた。
戦前、京成向島駅(八広と曳舟のあいだ)から西に延びていた京成白鬚線と京成押上線がつくる三角形にある。ミツワ石鹸があったらしい。
今は八広五丁目アパート、都立支援学校や八広公園がある。

17:10 きねがわばし(綾瀬川を渡ったところ)

この自転車はライトが点かなかったな~
と思いながらも、せっかくここまで来たのだからさだまさし「木根川橋」に出てくる白鬚神社や水道路をみてみたい。

急いで回ることにした。
(別ブログ)

・・・・
さだまさしの出た中川中学などを見て木根川橋まで戻ってきた。
かなり急いだが40分経っていた。
17:50 きねがわばし
日没した方角にスカイツリーが見える。
文京区からだいぶ東に来てしまった。

17:51
葛飾区側の野球グランド。土曜午後の練習はもう終わったようだ。
写真左には綾瀬川があり、葛飾区側からは東四ツ木避難橋で河川敷まで逃げてこれる。

なお、木根川橋の両側は行き止まりで道がない。
おそらく両岸の墨田区、葛飾区で区画整理を行い橋の完成と同時に広い道を作ろうとしたのだろうが、都市計画はとん挫したようだ。

そのため木根川橋を墨田区側に渡ると、堤防の上で丁字路になる。
  左:平井、亀戸、右:明治通り
とある。
平井亀戸なんて千葉のほうじゃないか。大変だ。
そこで右の堤防の上を少し走り、旧四ツ木橋についていた道路に出た。八広中央通りである。

ふと、1923年の関東大震災のとき旧四ツ木橋のたもとで無実の朝鮮人が虐殺されたことを思い出した。前年までの橋梁工事や、本所、向島の工場に働いていた朝鮮人が多く避難してきた場所である。

ちょうど先月、両国被服廠跡の悲劇をブログに書いた。ついでに震災時の混乱についていくつか読んだばかり。デマを信じた一般日本人が各地で自警団を組織して朝鮮人を虐殺した。
たしか四ツ木橋の土手下に近年慰霊碑が建てられた。

しかし、真っ暗になってきて探す余裕もない。

もうひたすら家を目指して無灯火の自転車をこいだ。
ダイナモを離してペダルを軽くしようと思ったが、ひょっとしたら薄く点いているかもしれないし、回していればお巡りさんにつかまったとき言い訳もできる。

八広中央通りを進むにつれて正面のスカイツリーがどんどん大きくなり、だんだん不安になってくる。スカイツリーになんか行きたくない。家から遠ざかっているのではあるまいか。

やがて明治通りに出た。
90度右折して三ノ輪のほうに向かった。
遠回りかもしれないが、道は分かる。スカイツリーからも離れたかった。
結局上の地図を見れば、正三角形の一辺をいくのに二辺を使っていたことになる。

18:15 白髭橋
延々と明治通りを走り、京成線、東武線、国道6号をこえ、向島百花園の脇を通って、ようやく白鬚橋で墨田区を抜ける。膝が痛い。明日日曜は朝から寝ているとしても、夕方練習があるな。

18:27 明治通りと常磐線ガード

明治通りの台東区側をわき目も降らず自転車こぎ、泪橋、三ノ輪の交差点を過ぎる。
目の前にアーチ橋があらわれ、常磐線の電車が明治通りの上を走っていった。

交番の前に来たら急いで降りて押すつもりだったが、幸い呼び止められることもなかった。

荒川区役所の前を通って宮地の6差路から道灌山通にはいる。
18:39 荒川区西日暮里の貨物線踏切
ここまで来ればご近所の範囲

18:46 狐坂。千駄木小学校入り口。

葛飾区から信号待ちとスマホ撮影以外、一度も止まらなかった。
ずっと座りっぱなしで、ひたすら暗闇の中、西に向かって自転車をこぎ続けた。
しかし、ここで初めて降りた。
家までニ、三百メートルだが、疲れ果て、狐坂はもう押して上るしかなかったからだ。

2021年9月23日木曜日

27年前のアメリカの歯がとれる。

 

2021‐09‐23
今週から後期の講義が始まった。
9月22日、講義が終わりリラックスして一人弁当を食べていたら、何かごろっとした。
今まで取れたかぶせ物より大きくて丸い。
まさか。
ショックを感じつつ口から出したらやはり、あの歯だった。
初めて見た。
金属を土台に、その上をポーセレンが覆っている。
もう27年も経つ。
よく働いた。

当時の記録が残っているので見たら懐かしかった。
終活とは物を捨てることがメインで、それはもちろん一番大事。
しかし昔を思い出して、ささやかな、愛らしい人生を眺めることも終活だろう。

1994年2月13日、アメリカ。
シンシナチのマックで普段通りハンバーガーを食べていたら歯に激痛が走った。
帰宅して調べたら右下6番の歯がタテに割れていた。それまでの虫歯治療で削りすぎ、火山の外輪山のようになり、それが薄くてついに根元まで割れたらしい。そこが少しでも動くと非常に痛い。
これは普通の虫歯治療ではだめだろうとは素人でも分かった。
健康問題というのは落ち込む。
とくに異国では。

歯医者に行かなくてはならない。
ピザの注文とは違い、大事なことだから電話でなく直接予約に行ったのかもしれない。
2日後の2月15日、近所の7615 Kenwood Rd. 
長女が前年11月に虫歯を治したところでもある。

Dr. Robinsonは、「なんとかこの歯をレスキューする」と力強くいったことを覚えている。
応急処置としてレントゲンを撮り、物が当たらないように削った。請求額33ドル。

大学で入っていた健康保険(月額175ドル)は歯をカバーしていないため、歯(月7.76ドル)を追加するよう指示された。
翌16日、変更手続きするが(月183ドルになる)適用は3月1日からという。

左は上から見た歯

その3月1日、いよいよ治療開始。
Dr. Robinsonはレントゲンを撮って割れている歯の小さいほうを引き抜いた。(93ドル)
そのあと、7770 Cooper RoadのDr. Zigorisのところへ今からすぐ行けという。残ったほうの歯と歯茎の治療をするらしい。
シンシナチは軽井沢のような感じで森の中、車を走らす。
Zigorisは、歯茎を切開し、横から歯と骨を削り(periodental and osseous surgery)、
再び歯茎を縫合した(730ドル)
65年生きてきて唯一受けた手術である。

10日ごとに経過観察のため、Zigorisのところへ3/11, 3/22, 3/31, 4/15通った。

もちろんこの間、普通に大学で実験していた。
ちなみにこちらの歯医者はたっぷり余裕をもって予約を取るのか、待合室で一度も他の患者にあったことがなかった。またラバーダムを使って目的の歯以外は覆って治療した。

留学していたシュワルツ研には赤池紀生先生のところから若森実先生も来ていらした。彼は九大歯学部の出身だから、この治療に興味を持たれ、色々聞かれた。

経過も順調であったため、ZigolisはRobinsonに手紙を書いた。

4月5日、一か月ぶりに会ったRobinsonは顎?の型どりをした(58ドル)
4月18日、残っている歯の上半分をさらに削り土台を作って、型どり。
5月3日、ポーセレンの歯を入れた。(全部で495ドル)
こちらは何も言わず(言えず)されるがまま。

かかった費用は総額1449ドル。
保険から500ドル(最高限度額)がおりて自己負担は949ドルだった。

国内で治療すると7割保険、3割自己負担で、その3割も会社の健保から還付されるから実質無料である。しかし海外であること、この治療(ポーセレン)が国内では保険適用外ということで、949ドル(94261円)のうち、44,959円だけ治療費と認められた。
それをもとに37,915円が振り込まれたが、計算方法はよく分からない。

今まで一番高い歯医者だったが、丁寧な治療、最高の歯だったと思う。

・・・・
ひさしぶりにグーグルでシンシナチを見てみた。
7615 Kenwood road (2021)
驚くことに27年経ってもロビンソンのオフィスはあった。
入って右が待合室。

Cooper Square building 2021
看板を見ればZigorisはいないが、いまも歯医者がオフィスを構えているようだ。
長尾拓先生だったか、Prof. Schwartzだったか、シンシナチは20年経っても変わらないSleeping Cityと言ったのを思い出す。

・・・

さて、昨日ポロっととれてすぐ、3軒ほど歯医者に電話したが、翌日は木曜かつ祝日ということで一番早く見てくれるところで明日の金曜になった。
今どんな状態でどんな治療になるか不安になっている。
でもこの歯がそのまま嵌められたら、いろんな意味で嬉しい。

37歳から65歳、人生の大きな部分、生きるための栄養をとってもらった。
研究所での実験、何回かあった成功と失敗、引っ越しや転職、子供たちの成長など、口の中からすべて見ていたかもしれない。彼は奥歯だったけどね。