2017年9月30日土曜日

竹隆庵岡埜と岡埜栄泉

千駄木に引っ越して間もなく、谷中を越え、線路の向こう、根岸で陸奥宗光の家を探していたとき、御行の松(おぎょうのまつ)の碑に出くわした。
江戸時代からの大木で、大正時代に天然記念物に指定されて間もなく枯死、高さ約13.6m、周囲4.9mだったという。

その近く、柳通りに竹隆庵岡埜があった。周辺は住宅地で、なんでこんなところに店があるのだろう、と不思議だった。

それよりも不思議だったのは店名の竹隆庵岡埜である。
あの岡埜栄泉と関係があるのだろうか?
岡埜栄泉自体もあちこちに店があり、名前が同じでも独立しているようであり、相互の関係がよくわからない。分からないうちに、竹隆庵岡埜が出くわし、ますます分からなくなった。

あれから数年。
日暮里駅南口、紅葉橋の階段を下りるとすぐ、竹隆庵岡埜の日暮里店がある。
ダンスの練習場への途中なので最低週2回は通る。
今日初めて菓子を買った。
お客が誰もいなかったので、思い切って聞いてみた。

初代が谷中の岡埜栄泉で修業してのれん分けさせてもらったという。
のれん分けさせてもらった人は皆、岡埜栄泉を名乗るのだが、ここはデパートに入るのに、同じ名前ではまずいから竹隆庵を頭につけたらしい。
なぜ竹隆庵かというと初代の名前、竹田隆。
包み紙などから古い店の印象があるが、随分新しい名前である。




帰宅後調べたら、2013年の上越タイムズに記事があった。
竹田隆氏は、この時会長で80歳。
上越市の網元の家に生まれ、戦後、親戚のやっていた谷中岡野栄泉に弟子入り、修業されたという。
あの、谷中霊園から上野へ行く途中の、交番の向かいの古ぼけた小さな店である。

竹田氏は25歳で独立。
根岸、柳通りの現本店は、ご自宅だったのではないか?

根岸には、上野輪王寺の貫主に大変気に入られたという「こごめ餅」があった。
そこに餡をいれたこごめ大福が大ヒット、三越に出店するまでになった。このとき竹隆庵岡埜の名前が作られたのだろう。



店の紙袋は本店のそばにあった御行の松と、音無川の流れる根岸の里。
いずれも安藤広重である。

音無川は今の日暮里店の前を流れ、根岸は正岡子規や中村不折など、文化人が多く住んだ。
だいぶ前から、店の看板の字が落ちている。
しかも一番大事な会長の名前「隆」ではないか。
もう少し長い伝統の店ならすぐ直すのではなかろうか。
急拡大(現在9店)した割には、のんびりしている様だ。


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