2017年8月27日日曜日

トマトのネット片づけ。夏野菜総決算

今年の野菜はひどかった。
・短い日照時間、
・買うのは安い苗、
・化学肥料を使わない、
という悪条件だが、千駄木で5年目、少しは期待していた。

しかし、7月のヒョウでめちゃくちゃにやられ、
そのあと自分の病気で庭に出られず放置、
さらに、長雨と日照不足。

体調回復した今、庭に降りてみると、野菜にまったく見込みなし。
先週の大豆抜根に引き続き、今週はトマトの処分。

日よけグリーンカーテン用のネット(3800円くらい)を二つ並べて、キウリ4本、トマト4本植えていたが、キウリはうどんこ病か、あまり取れず。早々に枯れた。

ミニトマトも、今や、赤い実が少なく、なっても高くて手が届かなかったりするので、ネットを解体した。蚊の温床にもなっているしね。

すっきり。
ここまで2時間かかった。

夏野菜まとめ
途中から忘れたり、(とくに病気になった7月末からは)収穫しなかったり、書くのが面倒になったり、で真面目に記入できなかった。

ナス、ピーマンの実生がほとんど取れなかったのは、成長遅いことに加え、夏の長雨による。

ミニトマトの結論

1.千果(75円)、
  超スイートミニレッド(267円)、
  シュガーミニ(298円)、
 3種類の苗を植えたが、収量、味に大差なし。

2.グリーンカーテン用のネットは高すぎて手が届かなくなる。これを使う場合は、途中で終わった弦(茎)を下せるよう育てたほうが良い。

しかし、夏野菜の終わった地面をどうしよう?
病気をしてから、ダンスもやめ、庭いじりも興味がなくなってしまった・・・


千駄木菜園 総目次

自転車で旧街道4・中山道

ダンスの練習がないと休日がそっくり空く。
きょうは自転車で板橋宿へ行く。

白山上あたりから行こうかと思ったが、前回、本郷追分から中山道を日本橋まで行ったので、
  自転車で旧街道3・円通寺、小塚原から北千住
  自転車で旧街道2・日本橋から吉原へ
  自転車で旧街道1・中山道を日本橋へ
空白区間が生じないように、本郷追分から下る(上るというべきか?)ことにする。
家を出発 12:44
動坂通りから岩槻街道(本郷通り)に出て南下。
本郷追分 12:53
中山道と岩槻街道の分岐点。本郷通りを行く都道455号はここが起点。
高崎屋酒店は有名。
日本橋から最初の一里塚があったというから4㎞か。

家~本郷追分~巣鴨
(クリックすれば拡大される)

さあ、ようやく出発、本郷追分から中山道を北上する。
12:56 本郷税務署

ここは毎年2月、確定申告に来た。
翻訳本印税などの収入ではなく、埼玉の家の売却損を申告するためだった。
16年住んだ家は4割以下に下落、莫大な譲渡損失のおかげで千駄木に引っ越して4年間は所得税を払わずに済んだ。

このあたり、左が西片、右が向ヶ丘である。
かつては左は福山藩阿部家の屋敷と、道路側に武家の家が並び、町がなかった。右側だけ町人が住んでいたから駒込片町といった。
それが明治になって両側が町となったため、左の新しい町が駒込西片町、右には東がついて駒込東片町となった。
しかし1964年の住所変更で東片町は向ヶ丘と一緒になり、町名消失。西片だけ残るという、歴史を無視した奇妙な現象が起きた。

12:59 ようやく白山上
年に数回、都営地下鉄に乗るときはここまで歩いてくる。
本当は、ここか巣鴨駅あたりから中山道に入ろうと思っていたが遠回りした。

ここから少し下り坂。街道は基本的に尾根道なんだから、中山道をつくるとき、今の本郷通りの六義園あたりから北上する道を開けばいいのに、ここを通ったというのは、白山神社があったからだろうか?

東洋大学13:01
ずいぶん立派になった気がする。
少子化、生徒集めで苦労しているから、どこも見栄えはよい。

向かい(写真右側)は浜寿司。
息子が就職したとき、「家賃も食費もかからないんだから、たまには親に食事をおごれ」と言うと、初回は奮発して湯島の江知勝をごちそうしてくれたが、二回目はここの回転ずしだった。でも家からの往復、夜道を歩いて楽しかった。
その息子も一人暮らしをしたいと、白山下の谷を越え、植物園の向こうへ引っ越してしまった。もうおごってもらえない。

13:02同じく東洋大学
まだ千駄木に引っ越してくる前、写真中央に小さく見える井上円了像をみたことがある。
それが目的ではなかった。では、なんでここに来たのだろう・・・

写真にもあるが、秋祭りを告げる紫ののぼりが並んでいた。
そうかここは簸川神社が氏神か。植物園の隣にある。ちなみに私のところは駒込天祖神社。二軒隣からは根津神社になる。その境界は今の住所区分と少しずつ違って面白い。

緩やかな坂を上りきると水道橋からくる白山通りと合流、広くなる。
13:11巣鴨駅


13:12 山手線、湘南新宿ライン

ダンスのパートナーの実家が巣鴨駅から近く、よくここで遊んだという。
皆で下に降りて線路わき側溝のザリガニを捕っていたというのだ。
昭和32年生まれ、東京ものどかな時代だったようだ。

13:15 巣鴨駅すぎて旧道と新道(右)の分岐点
家から4.8㎞走ったが、本郷追分からの中山道分は2.9㎞

旧道は巣鴨地蔵通り商店街となって、毎日繁盛している。
写真左に切れてしまったが、真正寺がある。

13:16 とげぬき地蔵の高岩寺
ここは明治24年に移転してきたから、古い地図にはない。


13:19 帽子のタムラ
先週「ウチくる?」で加藤ヒフミンが食レポのテストをやらされた。
甘味をパクパク食べたはいいが、店(写真左側)から出てきて帽子が目に入り、自分の買い物を始めてしまい、怒られていた。



13:24都電・庚申塚駅

13:26 東京種苗株式会社
というガラス戸の文字は消えかかっている。

真正寺脇にあった案内版によれば、この道筋、種屋が多かったという。
江戸の珍しい野菜の種を土産にしたらしい。
何軒もあったというが、今そんな商売は成立しないから、早々に建物は壊されたと思われ、この家は貴重である。

13:27 大正大学
すがも鴨台観音堂(通称さざえ堂)
なかに千住博の滝がある。
緩やかな階段は二重らせんなので、上りと下りが交わらない。
今日は通過。

13:28 千川上水の古地図
明治通りとの交差点、淑徳巣鴨高校手前の千川上水公園
写真撮るためだけに寄る

13:32 亀の子束子西尾商店
タワシでできた大きな蝉が木にとまっている。

13:37谷端小学校上
通ってきた道の南に平行する道がある。
こちらのほうが少し高く蛇行しているので旧道のように見えるが、商店がなく、古い家の裏口のようなところもあるので、千川上水のあとかもしれない。

13:39近藤勇の墓
街道から南に降りて、板橋駅東口の前。

ここに初めてきたのは、三十代のころ。
あのころは都内あちこちの古本屋めぐりが趣味だった。
巣鴨駅からぶらぶら、今日と同じ道を、今と違って何軒もあった古本屋を覗きながら歩いてきた。古書店巡りは足腰が疲れるもので、やっと板橋駅に着いたと思ったら、墓が目に入り、休んだ覚えがある。

13:40 
板橋宿の手前、平尾一里塚付近で斬首されたらしい。そこは常設の刑場でなく、馬捨て場だったという話もある。


埼京線の踏切をこえて街道をいくと、巣鴨で別れた新道(17号)と合流する。
上を首都高が通っている。旧道は新道と斜めに交差し、なおも続く。
ここは平尾追分といって、川越街道との分岐点だった。
川越街道は左の高速道路の下をとおって、東武線大山駅前の商店街につながる。
13:47 平尾追分
アーチというか、鴨居というか、板橋宿の看板

ここも商店街が元気である。
コンビニとスーパー少ししかない千駄木あたりより暮らしやすそう。
(谷中銀座、よみせ通りは観光客相手で住民は使えない)


13:50観明寺
板橋宿というのは細長く3つに分かれていて、この寺あたりまでが平尾宿(下宿とも云う)、ここから石神井川の橋までが仲宿、その先(今の板橋本町あたり)が(京都に近い方だから)上宿といった。

 観明寺の裏は、加賀前田家の下屋敷である。中を石神井川が流れていた。

13:52 王子新道との交差点
仲宿の文字が見える。
王子新道と言っても、いつできたのだろうか、一方通行一車線である。

交差点わたって右に石柱あり。
  中山道板橋宿
  蕨宿二里十町
ここを越えると緩やかな下り坂。
橋が近いことを思わせるが、坂が長いと帰りが不安。

13:55

13:57 板橋到着
さすがに木製ではない。
グーグル地図では、本郷追分―巣鴨地蔵通り商店街入り口(2.9㎞)ー埼京線踏切(2.0km)-板橋(1.7㎞)で、合計6.6km 。 日本橋~本郷追分は4.0㎞

13:58
日本橋から2里25町23間
1里=3.9㎞=36町
1町=109m=60間
1間=1.8m

間は間口の単位、それが集まると町(街)、その集まりが里、なんとなく言葉と大きさが丁度いい。里は町の集まりというより、1時間で歩ける距離から決めたというが。

標柱の数字を計算すると日本橋から板橋まで10.6㎞。
グーグル地図の距離と一致した。
と、写真をよく見たら十粁六百四十二米と書いてあった・・・・

朝出発すれば江戸まで2時間で行くな。
橋は昭和7年にコンクリート製になったという。
思ったより最近まで板だったんだ、とも思ったが、幹線道路だったため付け替えは早いほうだったらしい。

14:00 石神井川はきれい
昔の流れは安藤広重の絵で想像できるかもしれない。

正面に見えるビルは帝京大学病院


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2017年8月22日火曜日

1977年の長雨記録とピンクレディー

今年の東京は8月に入って連続21日雨が降ったという。
お盆あたりから長雨がニュースになり始めた。
過去の記録は40年前、1977年8月の連続22日、ということが連日テレビで言われた。
初めて知った。

おかげで思い出した。
1977年の夏。
確かに雨ばかりだった。
今まで61年も生きて、ほかの年は覚えていないのに、1977年だけなぜ夏の天気を覚えているかというと、夏休みにすることがなく、確かに雨の中、歩いて2分(200m)の本駒込図書館へ通っていたからだ。

本駒込に住んでいたのは、1977年4月から12月までわずか9か月。
駒場寮を出て初めて一人で暮らし、初めて自炊した日々であった。
その後3年3か月過ごした谷中時代とあわせ、その思い出は、56歳になって、不可能とも思えた、埼玉から文京区千駄木への引っ越しの原動力となった。

1977年8月、大学3年。
長野に帰って高校の剣道部の合宿に顔を出したら、マネージャーがかわいかった。
チームはお盆の14日に松本の県大会に出るというので、やはり合宿に来ていた元同級生の由井克之を誘って応援に行った。
その晩は彼の信大医学部の芙岳寮に泊めてもらい、翌15日東京に戻った。松本からは実家の信州中野に戻るより東京に出るほうが簡単だったからだ。
 マネージャーは4歳下、NYさんといった。
写真を送るから、と住所を聞いてきたので、さっそく送ったが、まったく発展しなかった。
(すっかり忘れていたのだが、昔の手紙の束を探したら、彼女の礼状があった。次の新年会にでも出れば違った展開になったかもしれないが・・・)

とにかく、下心から、全く興味のなかった後輩たちの試合を無理して見に行ったおかげで、予定より早く帰京し、いつもより長い夏を過ごすことになった。

3年生というのは休み明けに大した試験もなく、学校の勉強をする必要がない。研究室にも配属されていないし、アパートに電話がなく友人にも会えない。暇で暇で、全くやることがなかったので、文庫本をもって近くの六義園に行ったり(当時は入場無料)、本駒込図書館で本を読んだりした。

バイトとか旅行とか、もう少しうまい時間の使い方がなかったのか、とも思うが、今の性格の一部は、この夏休み後半の、雨降り、部屋引きこもりの退屈な時間で作られたような気がする。
図書館から帰るとき、土砂降りの中を走ったこともあった。
連続雨天の新記録の年だったとは、40年間知らなかったが・・・・

図書館では、あのころは司馬遼太郎も吉村昭も興味がなく、『偶然と必然』とか『自然界における左と右』とか、科学哲学みたいな本を読んでいた。恋愛小説やまんがも読んだ。

1977年12月号

そして、本に飽きると、部屋でギターを弾いて歌っていた。
さだまさし、チューリップ、かぐや姫、荒井由実、中島みゆき、井上陽水、
窓の外は雨。
このころ月刊平凡、月刊明星を買っていた。歌本が欲しかっただけなので、新曲の出るサイクルにあわせ3か月に一回だけだったが。
1977年2月、5月、12月号付録

1978年、79年はいっぱいある。
大事に40年も保管してきたけど、私が死んだら捨てられちゃうんだろうな。
誰でも、60の爺さんでも、若いころはあったのである。


1977年の二葉荘、4畳半の部屋には、ピンクレディーのポスターと、長野県地図のカレンダーが貼ってあった。
引っ越しでピンクレディーは捨てたが、この長野県カレンダーは、その後、額縁に入れ、32年間埼玉を転々とし、
そして、とうとう元貼ってあった場所、本駒込5丁目のとなり、千駄木にもってきた。
カレンダーに心があるなら戻ってきて喜んでくれるだろうか。

今見ると、1977年8月14日は日曜である。
松本は曇りだったが東京は雨だったのだろう。



2017年8月20日日曜日

染井霊園2・坪井正道先生の一族

今日染井霊園に行ったが、いつも通る坪井家の墓は寄らなかった。

初めて染井霊園に来たのは2001年12月、息子を中学入試の模試会場となった本郷学園に連れてきたときだが、全く記憶がない

はっきり覚えているのは2012年である。
学生時代近くに住んでいた谷中墓地と違い、ここは学生時代はもちろん、その後も来る用事がなかった。
2012年秋は、ちょうど巣鴨駅前のダンス教室で習っていたので、ついでに寄ったのが実質的な最初である。

そのとき撮った写真は2枚だけ。
坪井家である。
箕作家と同じように幕末からの学者一族として知られる。
2012-11-23撮影
(クリックすると拡大する)

左側に並ぶ3墓石のうち、一番右、誠軒とは、坪井信道(1795-1848)の号である。
蘭方医として文政12年江戸深川に蘭学塾安懐堂を、ついでに天保3年、日習堂を開いた。天保9年長州藩医となり、兵事にも関与した。

坪井信良(1823 - 1904)は、信道の娘と結婚、入り婿になった。蘭方医として幕府奥医師となる。(真ん中墓石)

坪井正五郎(1863-1913)は、その信良の子。小金井良精とともに我が国人類学の開祖。
(一番左の墓石)

坪井誠太郎(1893 - 1986)は、正五郎と蘭学者箕作秋坪の長女・直子の子。地質学が専門。地球物理学者の坪井忠二は実弟。

坪井正道(1925 - )は、坪井誠太郎と天文学者・平山信の長女、百合の子、物理化学者。上の写真右の、誠太郎の墓として先祖代々の墓石を建てられたようである。
信道、信良、正五郎、誠太郎、正道、と5代目になる。
 2012-11-23

駒場から薬学に進学して、最初のころの授業に坪井正道先生の物理化学があった。量子化学、分子構造と分光学を講義されたが、面白かった記憶はない。
1つだけ覚えているのは、IR,UV,NMRのスペクトルの形のことである。
吸収波長は量子化されているから、本来はスペクトルは鋭い吸収線の集合、すなわち櫛の葉のようになるはずだが、各分子の環境ひいてはエネルギー準位がそれぞれ微妙に違うから、分子の集合体を観測すれば、線幅が広がってしまう。
すなわち櫛の歯ではなく、波というか山脈のようになると。

同じように、分子の挙動、形は量子化されているが、我々が生活で実感する物質は莫大な分子の集合だから、連続した現象、形になってしまう。当然その中間もある。
当たり前だが省略してはいけない話だ。

先生はこのことについて、たった一言しかおっしゃらなかった。
当時、大学の教授は研究がメインで、今のように学生への講義で懇切丁寧な人はほとんどいなかった。講義が分からなかったら学生の頭が悪い、ということで、各自、苦労しながら勉強したものだ。

初めて染井霊園に行ったとき、ここへ真っ先に行ったのは、かつて教わった人の先祖の墓だったから。
墓地の中で唯一墓石の写真をとったのは、彼の研究室を卒業した友人小林松男君に見せるためであった。


2021-02-02追記
節分の日、坪井先生は2020年7月16日亡くなられたことを知った。
95歳。現役の時のご自宅は文京区本駒込2丁目(学者町として知られる旧曙町)であったが、最後はどちらにいらしたのだろう?


染井霊園1・下瀬雅允、濱尾新

千駄木菜園 総目次


染井霊園は家と同じ本郷台地なので、坂がなくて、自転車の時は谷中霊園より楽だ。
ただダンスで日暮里に行くついでに寄る谷中と違って、こちらは用事がない。それでも近くに用事があるときは必ず通り抜けをして年に1~2回は行く。

駒込駅の南、六義園染井門から斜め北西にまっすぐの染井通りをいくと、左手にプラウド駒込、本郷学園、東京スイミングセンターをみて、墓地入口(管理事務所)にぶつかる。

墓地を散策するときは何も目的がない。
ただ歩いて立派な墓だな、と思ったら名前を見て、知っている人だとちょっと喜ぶくらい。

今日はいつも通らない(通り抜けに使わない)東の端に行ってみた。
いきなりあった。
従四位勲二等工学博士下瀬雅允(まさちか) 明治44年9月6日卒と読める。
日本海海戦で威力を発揮した下瀬火薬を発明。
下瀬火薬は、ピクリン酸(trinitrophenol)であるが、当時は金属と接触すると爆発しやすく、砲弾内に詰められなかった。彼は砲弾の内側に漆を塗って、鉄との接触を防いだ。
成分は既知だから、下瀬火薬というより下瀬爆弾というべきだろう。

下瀬の墓のそばから東(北)を望む。

視界が開け、地形が良くわかる。この先は低地になっていて、墓地の北側あたりからの湧水が水源となり、今の霜降り銀座、田端銀座、谷中よみせ通りを通る谷田川となり、藍染川と名を変え不忍池に流れ込んでいた。

写真左の下のほうに海軍下瀬火薬製造所があった。その後、東京外国語大学となり、今は北区西ヶ原みんなの公園になっているが下瀬坂に名が残る。


管理事務所近くの中央通路に戻って北上すると左に大きな墓が目に付いた。
ここは何回も通っているのに今回初めて気が付いた。
まだ石は新しい。前回は違う景色だったのかもしれない。
水原秋桜子。
東大医学部を出た俳人。東大構内にも句碑がある。虚子に師事したがその写生主義に反発、離反した。

たぶん若槻礼次郎。何回も見ている。

大きいなぁ、と思ったら幣原喜重郎。前は何回も通っているけど記憶していない。


 従一位勲一等子爵濱尾新(あらた)
(写真をクリックすれば拡大、読める)
ここを拝見するのは2013年6月以来二度目。
東大安田講堂前広場と三四郎池の間にある巨大な座像の人である。
東大出身(大学南校)で初めて国務大臣(文部)になった。つまり彼以前の大臣は幕末の志士や華族だった。
濱尾は薬学会の会員でもあったので、薬学昔々にエッセイを書いたことがある。

高村光雲
高村光太郎、智恵子
千駄木の家のすぐ近所なので親しみがある。


千駄木菜園 総目次

枝豆、天候不順で不作、処分

病気をすると何もする気が起きない。
あれだけ楽しかった庭いじり、菜園も、足が不自由なこともあって3週間放置していた。

今日は日曜。ダンスもできないし、庭に降りた。

大豆と黒豆。
もう8月終わりなのに、ほとんど実がなっていない。

鞘が生っていても実が詰まっていないのである。
先月7/18のヒョウで葉っぱがほとんど落ち、ずたずたになって倒れていたものを起こしたら、その後、葉っぱだけが茂った。しかし記録的な長雨(本日東京で連続20日という)、実が育たなかったのだろう。

長雨の影響か、カビが生えている茎もある。


根粒も昨年のものより少ない。
これはヒョウより雨の影響か?
あるいは枝豆が生育しないと根粒も育たないのだろうか。

いずれにしろ、このまま育ててもしょうがないので、すべて引き抜くことにした。
まだ股関節が本調子じゃないけど、リハビリ兼ねて・・・

全部抜いてすっきり。

例年なら、次に植えるものを考えているのだけど、病み上がりは、そういう気分になれず。

一方、こちらは7/18のヒョウのあと、散らばっていた豆をそのまま蒔いたら、4日後に発芽したもの。(大豆の二期作
私が病気中に、妻にポットから地植えしてもらったが、長雨の日照不足か、ひょろひょろしている。
あまり期待はできないが、こちらは鬱陶しくはないので、そのまま放置。