2021年4月30日金曜日

神田川2 柳森の狸と藤堂和泉守上屋敷跡の三井病院、衛生試験所

 4月25日、秋葉原にきた。

2021‐04‐25 10:58
ホームから万世橋が見えないかな、と南端まできたら橋の北詰がみえた。
手前の「大人のデパート・エムズ」はすっきりとした看板。
「選ばれて20年。皆様のエロをもっと応援します」という。
6階建てのデパートにはどんなものがあるのだろう?

秋葉原は3週間前の4月4日にも来た。
その時は万世橋から神田川を西に遡りお茶の水に行ったので、(別ブログ)
今回は川を東に下って墨田川まで行く。

電気街南口改札から出て大人のデパートを横に見ながら駅前南通りを渡る。
JRのガードをくぐって東側に出るとすぐ細い路地がある。

11:05
JRの東を通る歩行者専用の橋。
南岸に柳森神社(柳森稲荷)がみえた。
江戸時代、烏森神社・椙森神社とともに江戸三森の一つとして崇敬された。
1457年、太田道灌による江戸城築城の際、鬼門除けとして旧神田川のほとりに京都伏見稲荷を勧請し、土堤に柳の木を多数植えたことから柳森の名ができたという。
1659年、仙台藩がいまの神田川を掘削して、現在地へ遷座した。絵図を見れば当時も土手と川の間にあった。
東の川下を見ると和泉橋
国道4号と首都高1号線が通っている。流れはほとんどないが、汚いわけではない。

渡り切って親柱を見ると神田ふれあい橋と書いてあった。

11:08 道から見下ろす柳森神社
さして広くない境内には冨士信仰の浅間神社(写真右)、金比羅宮(正面)、明徳稲荷神社など摂社、末社が多い。
一番有名なのは「おたぬさん」の呼び名で親しまれている福寿神。
本来は、桂昌院が江戸城内にまつった福寿稲荷が起源らしいが、こちらに来てからは彼女を祭っているようである。

桂昌院は八百屋の娘であったが春日局に見込まれ、家光の側室になり綱吉を産んだ。彼女はお玉という名前であったことから玉の輿という言葉が生まれたとか。
しかしふつうは金銀宝石で飾った高価な輿をさすと思う。

他を抜いて(たぬき)出世したことから、タヌキの石像が作られ桂昌院の幸運にあやかりたいと大奥の女中たちはこぞってお狸様を崇拝したと言われる。これはいかにも江戸っ子らしいしゃれだ。

ここはお稲荷さんの狐像もあるが、タヌキ像が目立つ。上の写真の左に見える石像は、たぬきが巨大な睾丸を抱えているように見える。
玉に乗っているから玉の輿を表しているというのは考えすぎか。

11:11 和泉橋
この橋を北に渡ると東側に伊勢の津藩30万石、藤堂和泉守の上屋敷があった。

和泉橋を渡った西側は秋葉原駅の東口。
ここもだいぶきれいになった。

和泉守の上屋敷は橋の名前にもなったが、この土地は明治時代我が国医学の中心地であったことで有名。
1868年討幕軍が江戸に入り、戦線が会津、東北に移ると討幕軍に属していたウィリアム・ウィリスの軍陣病院(横浜野毛山にあった)が藤堂家上屋敷に進出し、「大病院」と称した。
また、幕府直轄の西洋医学校「医学所」は明治政府に接収され、改元後の翌年2月、「医学校」と改称、下谷御徒町から大病院のあるこの和泉守上屋敷に移転、統合され、大学東校と称した。東大医学部の前身である。

ちなみに、種痘所が作られた神田お玉が池は、和泉橋の南、岩本町2丁目5番地辺りである。しかし池は江戸期に埋め立てられて幕末にはほんの小さな水面とお玉イナリが切絵図にある。

大学東校が本郷に移転したあとも和泉橋の病院は東大第二病院として機能していたが、明治34年の火災で全焼し、その後は東大の運動場として使われていた。

以前このブログ(薬学昔々)にも書いたが、
明治中頃以降、南と北の鉄道起点であった新橋と上野を結び、途中に中央停車場(のちの東京駅)をつくる計画が進んでいた。
駅の建設にあたり、予定地にあった永楽病院を移転させる必要がある。移転先候補地は東大第二病院がなくなって空き地になった、ここ神田和泉町。
ところが、戊辰戦争以来、我が国の最先端の西洋医学病院が置かれてきたこの地に、三井財閥は慈善病院を作ろうとした。明治40年、三井は小石川区雑司ヶ谷の土地を無償で提供、建物も寄付し、永楽病院は移転、のち東大分院となった。(別ブログ)
2021‐04‐25 11:20 三井記念病院
明治42(1909)年、三井総領家である北家第8代当主(三井八郎右衞門としては15代目)三井高棟は三井従業員の福利厚生のためではなく、貧困者のための無料慈善病院を建てた。
診療は我が国最高と言われた東大病院の医師が担当したため、金持ちもぼろ着をまとって来院したという。

初めて見物に来たのは11年前の2010年6月2日。
このときは5年間にわたる全面建て替えの最中だったが、医療活動を続けながらであり、工事現場という記憶はない。工事終了は2011年。19階建て、482床。
前回は公園に面したこの入り口から病院に入り廊下を通りぬけられたが、この日は日曜だからか、閉まっていた。

明治40年
三井記念病院ができる直前の秋葉原駅周辺。
藤堂家上屋敷の西半分は一般私有地となり、東半分は東大第二病院が閉鎖された後、東京衛生試験所だけ残っている。
明治の初め、粗悪な輸入医薬品を検査、取り締まるための機関であった。

東京衛生試験所は、戦災にあって1946年世田谷に移転した。
1949年、国立衛生試験所と改称。
1997年、改組され、国立医薬品食品衛生研究所というらしい。昔は国立衛試と略せたが、今は何と呼ぶのだろう?

前身の東京司薬場所長の長井長義、次の田原良純(東京衛生試験所初代所長)は我が国最初の薬学博士である。
古い所長は名前を見てもわからないが、21世紀になってからの歴代所長をみると

 首藤紘一 2000年4月~2002年3月
 長尾拓 2002年4月~2006年6月
 外口崇 2006年7月~2006年8月
 西島正弘 2006年9月~2011年3月
 大野泰雄 2011年4月~2013年3月
 川西徹 2013年4月~?
 奥田晴宏 ~2020年3月
 合田幸広 2020年4月~
      (wikiから)
外口崇氏以外は東大薬学部。
官庁というのは面白い。民間と比べ伝統、前例を大事にするところかもしれない。
11:26
11年前、藤堂家上屋敷地の東の通り、清洲橋通りに東京衛生試験所跡の標柱が1本あったことを思い出した。行ってみると、きちんとした説明パネルになっていた。

長らく用賀にあった国立衛生試験所は、2018年川崎市、多摩川河口に移転したことを今、書き終わってから知った。


別ブログ

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2021年4月26日月曜日

ほうろく地蔵と高島秋帆、斎藤緑雨

ランチで本郷通に出た。
ついでに都立向丘高校の脇を入り大圓寺にいく。
2021‐04‐24 向丘大円寺
本堂と墓地の間の細い道は舗装された公道?になったが、昔のまま曲がりくねって本郷の寺町らしい雰囲気。税務署の行き帰りなど何度も通っているが(別ブログ)、墓を訪ねたことがなかった。

谷中の寺と比べ墓がゆったりしている。

齋藤緑雨(1868年1月24日、慶応3年12月30日 - 1904年・明治37年)
漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨が慶応3年生まれ。

緑雨は丸山福山町にいた一葉を何度も訪ねた。鴎外、露伴とともに『めさまし草』の匿名文芸批評「三人冗語」でたけくらべを激賞している。千駄木鴎外邸の庭の石の前で写した三人の写真を見ると、緑雨はなかなかかっこいい。一葉の4歳年上、異性としてみることもあっただろう。彼も結核、36歳で没した。

奥へ行くと花畑のようなものもある。
都心の墓地としては珍しい。
高島秋帆(1798-1866)の墓は一番奥にあった。
手前には丸太のベンチがあるが朽ちている。
毎日誰かが座っていればもう少し長持ちしただろうが。

秋帆はアヘン戦争で清が敗れたことを知り、幕府に洋式砲術の採用を建議した。
1841、武州徳丸が原で洋式砲術の演習を行った。
伊豆韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)は、彼の弟子である。
しかし翌年、長崎でとらえられた。
岡部藩に幽閉されるも、諸藩は秘密裏に接触し洋式兵学教わった。

いまの板橋区徳丸は東上線と高島平の間あたり。
昔、城北の坂道の家を探していて、そのあたりの物件を何回かネットで見て徳丸という地名を覚えている。
高島平の地名は不自然であるが、彼の名前からきているとすれば納得する。
しかしいつ地名になったか? 
明治から昭和戦前まで、地元の農家の人々が幕末一時的に来たの人の名を地名にするとは思えない。
実際、昭和30年の地図を見れば広々した田んぼで何の地名もない。
たぶんマンモス団地の開発に伴い人工的につけられたのだろう。
今調べたら昭和44年の板橋区住居表示の実施時らしい。
この時前年開通した都営地下鉄志村駅が高島平駅に変更された。

風化で高島秋帆の字が読めなくなるというより、石片がごっそり崩落して文字面そのものが失われようとしている。ん?だれか信者が縁起物として小片をかち割って盗んだのだろうか? 城官寺の多紀家墓石、念即寺の美機女墓のように、ケースで覆うこともないから近いうちに石の塊になるだろう。高だけでも見えてよかった。

空いている場所はあるが、小さい墓石を過密に並べてほしくないな。

道をはさんだ大圓寺本堂のほうものぞく。
ほうろく地蔵
いまどき焙烙なんて使う人もいないだろう。どこに売っているのだろう? 
お寺が売っているのかな?
すぐ隣は向丘高校。

西善寺の南まで回って本郷通りにもどる。
浩妙寺
1628年掛川藩太田家邸内の持仏堂として創建というが、当時から太田家の屋敷が千駄木にあったかどうかは知らない。

浄土宗浄心寺
巨大な布袋尊像が本郷通を見下ろしている。いつも自転車で通過してしまうが、よく見るとちょっと不気味である。

ここから少し西に離れて旧中山道から白山下に降りる坂を浄心寺坂という。
昔は坂上に浄心寺という寺があった。それがこちらに移ったなら話は簡単なのだが、ここは湯島嬬恋坂から振袖火事の後うつってきた(湯島山常光院と号す)。明治11年の地図には、それほど離れずに二つの浄心寺が書いてある。
本堂は二階
本堂への階段から下を見ると古い墓地と、その向こう本郷通り沿いの新しい墓地が見えた。
浄心寺には立川談志、橋田邦彦の墓があるらしいが、探さなかった。

浄心寺の北隣、本郷通に沿う塀は高耀山長元寺
加賀藩前田家の江戸の菩提寺として栄えたというが、中は入らず。
本郷通から東に入る道は長元寺の木陰と蓬莱町公衆便所があってタクシーの休憩場所として最適。
北側は異国風の本堂が目立つ専西寺。

曹洞宗大林寺
長元寺の東隣である。
郵便のバイクが中に入っていって出てくるのに時間がかかった。境内は奥に広いようだ。

海蔵寺の門前を通りながら、すぐ近くにあった末村耕二、高倉仁史両氏のアパートを思い出す。
日蓮宗法照山顕本寺
きれいに掃き清められ構えにすきがないお寺へは、用もない見物人としては入れない。

20191117 曙坂、浄心寺坂など、一葉、円乗寺、大圓寺
20191019 海蔵寺、身禄行者と向丘のアパート

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2021年4月25日日曜日

落花生発芽、トウモロコシ、大豆の種は腐りやすい

4月も下旬、連日暖かく苗を植えなくてはならない。

毎朝5時起き、作業も楽しい。
とりあえずサツマイモの畝を作るため、1か月前に地中に埋めた大根を掘り出す。
2021‐04‐21 5:35
保存はできるが、まずい(甘くもなく、辛くもない)。

大根を出して畝を二本つくり、30センチ間隔で
サツマイモ苗 21本植える。(別ブログ)

2021‐04‐21 7:30
キウリ 夏秋節成 3
ミニトマト ミニキャロル 1
トマト ホーム桃太郎EX 1
ナス 千両二号 2

ナスを2本しか買ってこなかったのは種から苗を育てているから。

2021‐04‐23
パプリカ・2年前食べた後の種、
シシトウ・2021年購入種
ナス・2017年購入種
ナス・2021年購入種
いずれも発芽率良好、しかし収穫できるかどうかわからない。
2015年以来毎年まいているが、育つ前に梅雨入り、成長遅れ実があまりならない。
今年は暖かくて早く発芽したので、ひょっとしたらとれるかもしれないと思い、ナス苗を観察用の2本しか買わなかった。

2021-04-23
トウモロコシは27粒まいて15粒発芽、しかし成長したのは10本のみ。
ほじくってみると腐っていた。自家採種のあまりいい種でないせいか。
昨年はハクビシンにやられたが、今年はどうか、と思いながら地植えする。

発芽率が悪く、トウモロコシ用はまだスペースあるので、追加で21粒まいている。

落花生、右12粒はほとんど発芽。
左12粒は食べないような小さな豆を試しにまいてみたが、まったく発芽しない。

違いは子葉の大きさ、栄養分の多さだけで、ゲノムは同じ。
だから小さい種でも発芽して育ちが悪いだけだと思っていた。
しかし栄養が少ないと発芽すらできないようだ。
抗菌物質の生合成も不十分となれば発芽前に腐りやすいかもしれない。

オクラ(2019年購入種)は8粒まいて3本だけ育っている。

大豆(枝豆)
自家採種を30粒まいて7粒発芽。
出なかった種は腐っていた。まいた直後の大雨のせいかもしれない。
豆は栄養があるから腐敗させる菌や虫が集まりやすい。
20粒追加でまく。

こうして朝作業しているといい匂いがする。
2021‐04‐25 5:52 温州みかん
ワープロの能力を考慮してオンシュウと入れたら変換されず、ウンシュウで一発だった。
余計な気遣いだった。

ここ3年、毎年花が咲くも、ほとんど落ちてしまう。
今年は花を摘んでみた。
摘花(長野のリンゴ)とは言わず、摘蕾というらしい。



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2021年4月21日水曜日

サツマイモの冬越し、芽出し

昨年11月3日、初めてサツマイモを収穫した。

2020-11-03
春4月28日に芽が出ている芋を1つ買ってきて、先端を切ってわきから延びる枝を順次植えた。6月10日から7月7日まで13本の枝つるを取って植えたが、時間がかかり収穫が遅れた。

そこで次は
1.早めに芋のつる(苗)を買ってきて植える。あるいは
2.早めに自分で芋から発芽させる。
を決めた。

つるは5本で398円と高いので2をやってみる。
うまくいかなければつるを買えばよい。

とりあえず種芋を保存した。
サツマイモは熱帯の植物なので、10度以下にすると腐るらしい。
我が家は朝8度くらいになる。
一つずつ新聞紙にくるみ、発泡スチロールの箱に入れて居間のプリンターの上に置いていた。

発芽温度は25℃〜30℃と言われる。
8度以下になると芽が出ても腐るらしい。

サツマイモの芽出しは水耕もあるが、土埋めは
1.藁の上に糠などを混ぜた土で発酵させ、室内の温床で芽だし。3月上旬
2.室内で普通の土 3月下旬
3.畑に芋を埋める 4月

簡単そうな2番で行く。
収穫してから4か月たった3月12日、最低8度、天気予報によれば最高17度
明日以降の最低気温は、10,9,7,8,7,9,8
まだ早いが室内で日光に当てれば25度になるかもしれない。
2021-03-12
取り出してみると、少ししなびているが腐ってはいない。
収穫量が少なかったので、食べないような小さい芋だけしか残さなかった。
種は良いものを、という原則は無視。
太い根っこも保存したが、乾燥して曲げようとするとポキンと折れた。

3等分して
実験1.土に3割ほど埋め、室内の窓辺に置く
実験2.水に1割ほど浸し炬燵に入れる
実験3.乾いた状態でコタツに入れる
の予定で、発芽を試みる。
2021-03-12 実験1

実験1
発泡スチロールの箱で下3分の1くらい埋める。
翌13日夜、48度のお湯に40分入れるということをネットで見て、掘り出す。
面倒なので40度の風呂水につけたのだが、忘れて1時間20分もつける。芽出し促進のほか殺菌を兼ねるというのに風呂水というのもひどい話。

14日朝、天気予報での東京最低気温は9度、7時半の外は11.5度、室内は12.2度 

実験2.
発泡スチロールに古布をしき、水をいれる。
40度40分風呂水につけた芋をならべ、水が漏れないようビニール袋に入れてピンチコックで口を閉じ、こたつに入れる。
2021‐03‐15
こたつの中は33度
24時間後、3月16日夜、もやっとした毛状のカビが生えていた。
実験中断、日光殺菌の後、1と同様土に埋める。
土には防カビ作用がある気がする。

実験3.
3月25日、乾いたままコタツに入れる。
妻に邪魔にされ、私もしょっちゅう蹴飛ばした。
乾燥しているからカビも生えず。

4月16日、
ビバホームさいたま新都心にサツマイモの苗(つる)が入荷したという。

4月19日
しかし変化ない我が家の芋にはしびれをきたす。
2021‐04‐19
左:実験1 右:実験2 上:実験3
1か月前とまったく変化なし。
苗を自前で作るという計画は失敗した。

しかし掘ってみると、実験1の2つの芋から芽が出ていた。
芋のどちらが茎側か分からなかったので横に寝せていたのだが、「裏目に出た。」
(つまり芋の下に出ていた)

2021‐04‐19
2つ発芽しただけでも少しうれしい。
苗はビバホームで買うことに決めたので、発芽した2つも含め9つの芋は観察用として地面に植えておく。

4月20日
苗を買う。
実験用に苗5本、苗とり用親芋1鉢買う予定が、苗は20本セットなので芋は買わず。
翌朝植えようと寝る。

4月21日
不思議なことに5時に目が覚めた。
ワクワクしながら耕し、高畝を2列作る。
2021‐04‐21 6:02
30センチ間隔で植える。

サツマイモの栽培品種について近年流行しているものを書いておく。
(価格はビバホームさいたま新都心)

1.シルクスイーツ
2012年 カネコ種苗が育成、「春こがね」×「べにまさり」
昨年、作った。きめが細かいという評判通り。甘さについては我が家の菜園で同時比較していないので何とも言えない。
昨年、苗とり用親芋1つ398円

2.紅あずま
1984年 農業研究センター育成
栽培面積第1位(全国の約24%)茨城・千葉など関東中心
苗20本 638円
ビバホームで他より安かった。

3.紅はるか
2007年 農研機構九州沖縄農業研究センター育成
九州121号(母)× 春こがね(父)
いまや韓国の芋の40%はこれ。無断栽培されて問題になった。
苗20本 858円

4.安納芋
1988年種子島で作られていた芋を集め、鹿児島県農業開発総合センター熊毛支場で個体選抜、1998年に「安納紅」と「安納こがね」として品種登録された。
苗20本 858円

カタカナあり漢字あり、名前の付け方が違うのは由来を知れば分かる。


別ブログ


2021年4月19日月曜日

御茶ノ水5 明大駿河台キャンパスの拡大

 4月4日、秋葉原から淡路坂を上がってお茶の水まで来た。

丸善の前をとおって、14:16御茶ノ水橋のスクランブル交差点にでる。

(別ブログ)
14:18
御茶ノ水橋から駿河台下交差点へ下る道は明大通りという。

法政大学発祥の地
通りの西側は明大12号館(写真左)とアカデミーコモン(右)。
地下の明大博物館は以前入った。

写真に法政大学発祥の地とあるが、明治大学発祥の地は、写真に写る今の明大駿河台キャンパスではない。
明治法律学校は1881年有楽町で始まり、1886(明治19)年、駿河台南甲賀町11番地にきた。明大通りの東、最近新築された日大病院の東側部分あたり。
すなわち、駿河台は説明板の法政大(明治13年東京法学社)より後である。(もっとも東京法学社は1年も経たないうちに神田錦町に移転)。また中央大学は1926年に神田錦町(跡地は東京電機大)から駿河台に来た。

専門学校令により、明治大学と改称したのが、1903(明治36年)。法政大も同じ。
ちなみに中央大学は1905年に中央大学と改称、
3者とも、大学令により名実ともに大学となったのが1920(大正9)である。

明大公式サイトから

いまのキャンパス、すなわち明大通りの西に初めて校舎を建てたのは1910年(明治43)のことだ。旧小松宮邸跡である。
その後、学生数の増加とともに周辺の土地を購入し、校舎を建てていく。

学生時代1975年から80年、古書店街に来るたびに明大の前を歩いた。
学生運動の立て看板で雑然とした汚い低層ビル校舎と、樹木の奥に古色蒼然とした明大記念館を覚えている。

その後、通りに面した駿河台ホテルと敷地交換し通りの西側を連続した敷地にしたのは、就職してお茶の水に行かなくなった1982年。

知らないうちに1985年、汚い校舎(4号館)は8階建ての大学会館となり、となりのホテル跡地1994年に12号館、12階のビルとなった。

1998年、明大記念館の場所には23階建てのリバティータワーが建つ。
2004年、通りで一番新しいアカデミーコモンは現代的なデザインの11階建て。
こうして明大通りは、文字通りすべて明大の新しいビルでつながった。
14:31
駿河台下交差点からみる明治大学リバティータワー
16階まで通常の教室、17階が学生食堂という。

しかし、高層ビルに入ってしまうと降りるのが億劫だろう。
かつては昼休みや放課後など学生がわくように出て、食堂や古本屋街にあふれていた。今はどうなんだろう。

神保町の古書店街を歩いてから(別ブログ)
明大駿河台キャンパスの西、リバティタワーの裏側に回る。
15:32 金華公園。
後ろにリバティータワーとアカデミーコモンが見える。
公園南に隣接していた金華小学校は1873(明治6)開校、夏目漱石なども学んだ。
1993年に小川小学校などと統合され、名前は区立お茶の水小学校となった。
この公園自体は小学校の横などに52か所作られた震災復興小公園のひとつ。

錦華坂
右は明治大学研究棟、山の上ホテルの裏口が並ぶ。

15:37
坂を上がると明大10号館
飛び地のようになっているが、旧三輪信次郎邸の敷地である。
14号館への矢印があり、木立の間から見れば崖の下に無人の寮のような感じ。
1995年の地図を見ると東京国税局神田寮である。
明大が買収したようだ。
おそらく10号館と一体化したビルに建て替えるだろう。
ちなみに11号館(現グローバルフロント、2013年17階建て)は医家の三浦謹之助邸跡地。

15:39 日大理工学部2号館
明大10号館とアカデミーコモンの間には日大理工学部2号館と8号館。
このあたり明大と日大理工が入り組んでいる。
駿河台キャンパスを拡大したい明治としては、何としても欲しいところだが、日大としても理工学部は駿河台に残したい。通りの東、飛び地の明大紫紺館と交換するには、あちらは地価は高いが狭い。
明治大学は京王線明大前の和泉(1934、陸軍旧火薬庫跡。文系6学部の1,2年生)、
生田(1951、旧陸軍登戸研究所跡。農学部、理工学部)、
中野(2013、旧陸軍中野学校、警察大学校跡地。高層ビル1棟)、
にもキャンパスはあるが、やはり駿河台が一番。
いくら受験者数日本一と言っても少子化で学生獲得競争が激しくなった。
都心のメリットを最大限に生かしたい。
校舎高層化に加え、近くに売り物件が出れば買っていくのだろう。
そういえば、14号館の先を行ったところにあった付属中、高校は2008年調布に移転させ、明大猿楽町校舎になっている。

15:42
その明大校舎群に囲まれた山の上ホテル。
中西香爾先生が来日した時の定宿だったらしいが、私は入ったことがない。
コロナで経営悪化したら明大が買収するだろうが、外見を残すか建て替えて高層化するかは分からない。

ホテルからまっすぐ明大通りに出る甲賀通りは行かず、明大リバティータワーの裏、研究棟から再び金華坂におり、斜め道(富士見坂)を上がって明大通りに戻った。

明大通りと靖国通りを結ぶ斜めに結ぶ富士見坂
この道は江戸時代からある。明治20年の地図には駿河台下交差点はなく、駿河台から神保町に降りるときはこの道を使った。御茶ノ水橋(1891、明治24年)からまっすぐ駿河台下まで伸びる明大通りはそれ以降である。
1975年からいつ来ても狭くて安くてにぎやかな飲食店が並んでいた。

15:47
明大通りに出ると、明大校舎群の中で唯一通りの東にある紫紺館。
右は内外地図のビル(別ブログ)。

紫紺館は2006年竣工。
明治の色は最初深紫に指定されたが(大正4年)、のち紫紺と呼ぶようになったそうだ。普通に青か紺だと思っていた。
昔の建物(小川町校舎)も北西の角が入り口だった。
当時は大通りも渡りやすかった。
食堂があった気がする。昔は誰でも通りからすっと入れて、こちらも明治だか日大だか気にしなかった。確かに若者の街だった。


 別ブログ 

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