2017年2月26日日曜日

長野のふきのとう

フキノトウが出ている。
1月28日は土から出かけている程度だった。
2月26日、トウは立っていないのだが花は満開である。
蕗は地下茎で増えるから、花芽はとっても影響はないのだが、まだ食べていない。

二軒隣のお宅にも蕗があるのだが、まだ花芽は出ていない。
我が家のものは、昨年長野の実家から地下茎を持ってきて植えたものだから、信州のと東京のものでは少し遺伝子が違うのかもしれない。同じ蕗と言っても、大根と同じように、少しずつ地域によって違うのだろうか。

ところが、よく考えたら、我が家の他の場所の蕗は花芽が出ていない。それは20年ほど前に長野の実家から埼玉にもってきたものだ。ということは我が家の2種のフキは、恐らくクローンであり、同じ遺伝情報を持っていながら、環境によって性質が変わっていくのだろうか。

昨年持ち込んだフキは葉が大きかった。
たぶん信州の最適な条件で根茎が太くなり、移植した年の夏の地上部も大きく成長し、その結果、栄養が蓄えられた地下茎も太く、フキノトウが出たのではないか。

しかし、年々関東の風土に適合して小さくなり、フキノトウの出も遅れるのかもしれない。このとき遺伝子の変化は、エピジェネティクスも含めて、ないとしても説明はつく。なぜなら前年の育ち具合で決まるからだ。

競技ダンス・目次

競技ダンス 目次へ


20220108 十条富士塚の破壊。懐かしのダンス富士学院

葉の広がった白菜を縛ってみる。

千駄木菜園 総目次


我が家の白菜は、9月に蒔いたのだが日当たりが悪かったのか、育ちが悪くて結球せず、小さいまま冬に突入した。
葉が巻かないのは、少ない日光を集めるため目いっぱい広げているのかなと思った。
白菜ならぬ緑菜である。

しかし、このところ春の日差しが強くなるにつれ大きくなり、この分なら虫さえつかなければ、遅れただけで、ちゃんと白菜になるのではと期待していた。
ところが今日よく見たら、中心部に花芽が出来ている。このままだと葉が巻くどころが、トウが立って食べられなくなってしまう。



そこで葉をまいて縛ってみることにした。
こうすれば中心部に日が当たらす成長が抑えられるし、うまく行けば「白菜」になるのではないか? これは良い実験になる。

ところが、広がった葉をまくのは難しい。
よく冬にひもで縛ってあるのを見るが、あれは既に結球している白菜を寒さ、凍結から守るために縛るのであり、最初から満開のものを縛ったわけではない。


手が二本では全く葉っぱを集められない。左右から寄せれば前後の葉が持てない。前後の葉も集めようと手を動かせば、左右の葉が逃げる。当然ひもで縛ることなんてできるわけがない。

部屋にいた妻を呼び、手伝ってもらった。

彼女は家でとれる野菜より土がついていないスーパーの野菜を好む。
「全く、自分の趣味に私を巻き込まないでよ。」
と文句を言いながら、4本の手で葉っぱを集め、私が押さえている間に彼女が縛った。
彼女と並んで一つのことをするのは久しぶりである。
ふと結婚式のケーキカットを思い出した。

「そんなに紐が緩くちゃダメだ」

「だって葉っぱが切れちゃうじゃない」
農家の夫婦は(もちろん白菜以外に)毎日二人でこんな共同作業をしているのだろうか。喧嘩はしないのだろうか。
両親の顔が浮かんだ。


千駄木菜園 総目次

田端の高台、与楽寺坂と上の坂、波山

千駄木菜園 総目次


50歳を過ぎたころ、田端に住みたいと思った。
電車が便利だし、坂道、崖には木々が残っているし、文士村というくらい戦前は文化人が多く住み散歩するには楽しいし。
しかし縁がなかったのか、結局千駄木に引っ越した。
それでも田端はしばしば歩く。

2017-02-25
南改札口はとても山手線の駅とは思えない。


駅を背すると(つまり上の写真の反対側)、正面に斎場がある。これも意外な景色だろう。
以前は塾があった気がする。
少子高齢化か。

そしていきなり石段がある(不動坂)。
それを上って振り返ると電車がよく見える。


谷中からずっと続く尾根道には古地図の忠敬堂があった。



初めてきたのは1995年。
昔小学校の社会の時間、黒板の横に大きな地図がかけられたが、この店にもその種のものが何本かあって、20万、30万円くらいだったかな。戦前の満州、朝鮮を含む大型日本地図もあった。飾ってあるものを見るだけで楽しかった。ご主人は静かに古地図の修復をされていた。折れ目のところなど色がはげた箇所に、岩絵の具と墨で慎重に筆を置いていく。一日中これをされているようで、楽しいだろうなと思った。拝見しているといろんな話をしてくださった。古地図で有名な人文社なども、ここに地図を借りに来るそうだ。

それからあっという間に15年たち、2010911日。

近くに家を探しに来たときお邪魔して、ご主人と店の中を写真に撮らせてもらった。
その後、翌年だったか翌々年だったか、再訪すると店が閉まっていた。
ネットで調べたら、なんと私が記念写真を撮らせてもらった3日後の9月14日に急逝されたらしい。(之潮さんのブログhttp://collegio.jp/?p=366

、古地図の看板だけ残り、鉄道マニアの店になっている。

せっかく埼玉から近くに引っ越してきたのに残念に思う。


さて道を少し戻る。

田端の高台はほんとに静かである。






この家は以前いい感じの大きな和風邸宅であったが、半分リフォームされて標札も新しくなっていた。
持ち主が変わったのだろうか。でも昔の部分が残っていてうれしかった。
 
次の四つ角から与楽寺坂の下り。

この家も素敵。坂に合っている。
与楽寺坂 下から


この坂は江戸切絵図にもある。
2010年9月、この坂の途中の家を買おうとした。
家の前が崖で、駅から歩いて3分とは思えないほど緑が多くて見晴らしがよかった。
家の場所を聞かれた時に「与楽寺坂です」なんて「明神下の平次」みたいでかっこいいではないか。
しかし迷い続けて、よし買おう、と決断した時はタッチの差で他の方が先に手付金を払っていた。



与楽寺坂の一つ北(西)の坂は上の坂と云う。 

坂の上に芥川龍之介が住んでいた。
2011年4月、この坂の途中に緑に包まれた素敵な家があった。
家の乗っている石垣には祠があって、西向子育地蔵という石仏が祀られていた。雨の日など今にも芥川が石段の上から降りてくるようで、山手線の駅から3分にこんな環境とは信じられなかった。
2011.4
 

2011.4
しかし、家が古く、それを建て替えるとなるとセットバックで石垣(祠)を壊さねばならない。また道が狭くて重機が入りにくく、斜面にたつ基礎をやり直すには相当金がかかることで購入を断念した。


この日2/25行ってみると、その家は壊されアパートが作られている最中だった。
当時2011年の写真と、2017年この日の写真を合せて載せる。

坂の上から 
2011.4

2017.2
ずいぶん緑が減ってしまった。下から見ると

2011

 
2017

祠は破壊されていた。

素敵な家だったのにな~ 

「東京23区の坂道」というサイトの写真は、そんなに古くはないのだが、2011年よりもっと道が狭い。左側の家が建て替えられたときにセットバックしたのだろうか。



http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/
(転載お願いしようとメールしましたが音信不通でした)。


かつての田端文士村も赤紙仁王から北側は、ずいぶんと乱暴な区画整理で全く面影がなくなってしまった。


2011年4月に行ったとき、驚きと無念さを感じて撮った写真を1枚載せる。

板谷波山のご子孫の家が破壊されている最中で、大きな切り株と敷地の基礎だけ写っている。今から40年前、よく田端からこの前を歩いて本駒込まで帰った。あの頃の風景はもう記憶の中にしかない。
2011.4 板谷邸破壊中
向こうはポプラクラブ跡にできた保育園


しかし動坂~田端駅の大通りから南側は(与楽寺坂、上の坂を含め)まだ昔の雰囲気が残っている。
2017年のこの日撮った写真を次に3枚示す。
下の写真は上の坂近く、芥川龍之介が結婚披露宴をしたという天然自笑軒跡。
今は田端の地主さんと同じ苗字の表札がかかっている。



与楽寺付近は坂がとくにいい。

私道かもしれないが、こんな素敵なところが山手線の駅から3,4分にある。


ずっと残ってほしい。





千駄木菜園 総目次

2017年2月22日水曜日

武田、ミレニアムのデボラ・ダンサイア

千駄木菜園 総目次


“『新薬誕生』のあとがき“ に最もふさわしい話。

原著(2007年3月発売)の第6章、p358-359で、

”デボラ・ダンシアは、一般開業医であったが1988年に(サンドに)入社し、(ノバルティスで)臨床研究業務に携わった。その後、専門セールス部門に行き・・・アメリカでがん領域のセールス部隊を組織するのに貢献した。
「・・・・グリベックを医師にプレゼンする日に備えてセールス部隊を準備しているとき、CML患者を50人社内のミーティングに招待しました。・・・そうすればセールスの人間が医師を訪問した時、患者の様子を話すことができます」
2005年7月、彼女はノバルティスを去り、ミレニアム社に移った。”

今読むと、あんまりこなれた訳ではない。だって素人が初めて訳したんだもの。
でも翻訳するに当たっては、彼女のことも含めて、他の翻訳者にはまずできないほど調べた。(たんに興味があっただけだけど)。だから奇しくも日本語版が出たあと(2008年7月)すぐに武田が買収したときに彼女の名前が出て、驚いたことを思い出す。本当にこの本は実在人物がリアルタイムで出てきていた。

さて、先月、武田が湘南研究所を縮小、分社化する話が出た。
工場などの分社化は聞いても、製薬会社の命ともいえる研究所を切り捨てるとは、思い切ったものだ。
長らく王者として君臨してきたが、大丈夫だろうか。

長谷川会長がウェーバー社長を連れてきて、多数の外国人取締役を採用し、不満を感じる社員も中に入るようだ。上層部の任期が短く給料だけ高ければ、確かに愛社精神はなくなるだろうし、一般社員にはビジョンも見えないだろう。

消化管潰瘍薬タケプロン、高血圧薬ブロプレス、糖尿病薬アクトス、前立腺がん薬リュープリンといったブロックバスターの特許が切れたあと、自社から出た大型新薬はない。

先日、武田の第3四半期決算情報がでた。(2017年2月1日発表)
これをみて、デボラ・ダンサイアを思い出したのである。
その発表された直近9か月(2016年4月-12月)の全世界での売り上げベスト5を見ると(億円)

1.ベルケイド(Bortezomib)多発性骨髄腫 1036
2.エンティビオ(vedolizumab) 潰瘍性大腸炎 1028
3.リュープリン(Leuprorelin)前立腺がん 881
4.パントプラゾール(Pantoprazole)消化性潰瘍 567
5.アジルバ (Azilsartan)高血圧 519
である。

このうち、リュープリン、パントプラゾールは2004年、2010年に特許が切れ、アメリカでの売り上げはそれぞれ144億円、77億円であり、日本や新興国で頑張っているが、毎年減少している。
アジルバはカンデサルタンの後継品として日本では売れているが、7番目のARBとしてグローバル展開はしていない。

つまり、今の武田はベルケイドとエンティビオでもっている。ベルケイドは2017年に特許が切れるが、2015年に投入した後継品ニンテーロが成功し、この9か月、前年度5倍増の207億円売れている。

ここで特筆すべきは、ベルケイド、エンティビオ、ニンテーロは全て子会社ミレニアムで作られたこととである。ダンサイアのミレニアムがなかったら武田は空中分解していた。
ミレニアムは武田にとって最初の大型買収、2008年に88億ドルで取得した。

そのミレニアム社のCEO Deborah Dunsireは、武田の取締役も務め、まだ50歳で2013年退任した。湘南研究所の託児所開設に尽力し、女性の幹部昇進を促したとか。

ノバルティスに17年、ミレニアムCEOで8年。
その後
・FORUM Pharmaceuticals Inc.,2013年7月-2016年5月
・現在、CEO, Southern Cross Biotech Consulting
ネットで見ると美人である。

武田を辞める直前の2012年の役員報酬はゴーンに次いで2位だった。
1 日産自動車  カルロス・ゴーン  9億8800万円
2 武田薬品工業 デボラ・ダンサイア 7億7600万円
3 武田薬品工業 フランク・モリッヒ 7億6200万円
4 武田薬品工業  山田忠孝  7億1200万円
5 ファナック  稲葉善治  5億9000万円
6 信越化学工業  金川千尋  4億6000万円
7 富士フイルムホールディングス  古森重隆 4億1700万円
8 ファーストリテイリング  柳井正  3億5500万円
9 中外製薬    永山治  3億1300万円
10 武田薬品工業  長谷川閑史 3億0100万円
(給料.com https://kyuuryou.com/w2869-2012.htmlから引用)

2017年2月20日月曜日

ザクロ伐採、切り株も抜く

千駄木菜園 総目次



我が家の柘榴は、引っ越してくる2年前、2011年には全く手入れされず、上は二階の屋根を超え、横は「開かずの玄関」にかかるほど、枝が自由に伸び育ち、たくさんの実をつけていた。(写真に黄色い点として見える)



ザクロは枝の先の方に花芽がつき、翌年結実するという。
つまり、引っ越した2013年以降、毎年枝の先端を剪定していると、実が付かないことになる。

実がならないだけでなく、枝に鋭い棘があるため剪定したあと処分が大変だった。ゴミに枝を出すとき、収集作業員がけがしないよう棘だけ除かねばならない。
下の写真は、棘だけ集めたら白い容器一杯になったところ。


もちろん道路の落ち葉掃除も面倒だった。


・実もならない、
・管理も大変、
・自分で植えていないから愛着もない、
ということで昨年秋、伐採を決めた。


決めたら次に植えるものを考えて、土の様子を見るため、たまたま根元を掘った。掘り始めたら、伐採が決まったことでじゃまな根を切りたくなり、そのうち穴が大きくなっていった。しかし、そのまま放置して年を越す。


年が明けて植木屋さんに上部だけ切ってもらったが、これだけでも大仕事だった。

さて残った切り株をどうやって取り除くか。基本的に庭仕事は危険でなければ自分でやるに限る。とは思ってみたものの、抜根は難航した。



これだけの大木となると根っこは広く、深く張り、そして太い。

2方向にブロック塀があるため、複雑に曲がりからまっている。

穴を掘り、根を切る。

土を掘るには根が邪魔。
根を切るには土が邪魔。

横に伸びる根を、力の入らない不自然な体勢で、一本一本切る。切るだけでは根がそのままで穴が掘れないから、離れた二か所で切って根を地中から取り出さねばならない。これが空中の枝切りとの違いだ。


毎週少しずつ切っていったが、何度か諦めかけた。

ちらりと青の洞門の話を思い出した。(大げさ?)
いくら掘っても根は太いまま垂直に伸びている。横に伸びる根は切れても、縦に伸びる根は、身長以上に深く掘らない限り切りようがない。



長く親しく見てきた大木を切るときは、木の精霊を鎮めるため酒などをかけてから伐採するという。
しかしだらだら続く大仕事になってしまい、毎回穴掘りの格闘になると、酒をかけるなどという優雅な余裕はなかった。

鋸を使うには空間が必要だから、穴はある程度の大きさがなくてはならないが、深くなるにつれて自分の体を入れる広さも必要となった。残土置き場も確保したがすぐ一杯になる。


もう限界!これ以上掘れないとなって、倒せないかとゆすってみた。
びくともしなかった。
この時点で、切り株にせず、上部を50センチほど残すべきだったと気が付いた。支点からの距離が長ければ、力を与えやすい。もっとも、倒した後の大木の処置が大変だが。
この日、2/19の日没時間は17:27。18時には真っ暗で作業はあきらめた。

朝、元気になったところで、さらに周囲の根を切って、ゆすり続ける。
ほんのちょっと動いたとき、やった、と思った。
少しでも動けば根が戻るとき反対方向にもわずかに振れているはずだ。その瞬間、その方向に押す。つまり固有振動数と同じ周期でゆするのである。支点と重心の距離が短いため周期は短い。根っこが自分の重さで少しだけ振れているところへ私が全体重をかけて振動を増幅させる。
そのうち地面が揺らぎはじめ、必死に繰り返して揺れが大きくなったとき、ここぞとばかり全体重を根っこにかけ足をブロック塀に踏ん張ると、バキバキ折れる音がして背中で尻餅をついた。



倒れた根っこはあまりに重く、現時点では穴から出せない。

これをどう処分するか?
これだけ太いと鋸(写真のちゃちなもの)で切って少しずつゴミに出すということはできない。
穴に埋めたらどうかと妻は言うが、それでは何のために半年かけて抜いたのか分からなくなってしまう。


千駄木菜園 総目次

2017年2月18日土曜日

信州中野の岩船地蔵

千駄木菜園 総目次


栃木岩舟の岩船山高勝寺をお出かけブログを書いたので、お出かけ後のことを書く。
私は長野県中野市大字岩船で生まれ、大学入学で上京するまでここに育った。
4年前千駄木に引っ越すまで、各地を転々としながらも、信州への愛着は強く、家族ともども本籍は「~岩船360番地」だった。

その中野市は長野市から北へ20㎞あまり、長野盆地の北の端というか、飯山、野沢、志賀高原を含む奥信濃の入り口にある。

岩船は長野電鉄信州中野駅のすぐ裏にあるため、この数十年で激変、桑畑の後のリンゴ畑がなくなってアパートが乱立した。現在、岩船地区内は400世帯もあるらしいが、本来は、江戸時代から昭和40年代まで、つまり私がいたころまでは、代々の農家ばかり60軒ほどの集落だった。
そして部落の真ん中に岩船地蔵尊がある。


(シルバーパソコン同好会 http://www.geocities.jp/silpcdoukoukai/fulusatoB/iwafunejizou_33..html
から無断で写真拝借しました。今度帰省したらご挨拶に伺おうかな)

子供ころ、岩船という地名は栃木と新潟にもある、と大人に教わった。その後何十年もそれ以上考えなかったが、昨日岩船山に登ったことで、改めて考えた。

信州岩船は夜間瀬川扇状地の平坦な地にあり、岩も船も全く関係ない。だから岩船地蔵は岩船にある地蔵ではなく、岩船地蔵があるから部落名が岩船になったのだろう。

ここでネットを見てみた。
驚いたことに信州中野、栃木岩舟、新潟村上のほかに、千葉、鎌倉、横須賀、尾鷲や鳥取と、全国各地にある。船形の台座に乗っているものが多い。

面白いのは三大岩船地蔵という言葉があることだ。
信州中野は、信濃、越後、下野の3体は同じ材から彫られたとして、この3か所を特別なものにしている。
http://www.geocities.jp/silpcdoukoukai/fulusatoB/iwafunejizou_33..html

一方、公益社団法人千葉県観光物産協会のサイトは、越後、下野と千葉いすみを三大岩船地蔵尊としている。
http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/7397

また、いすみ市産業経済課水産班と関連あるサイトでは、4つを4大岩船地蔵としている。
http://www.gyokou.or.jp/100sen/pdf/03kanto/033.pdf
争っても仕方がないとのことで、4か所の岩船サミットも開かれているらしい。

栃木岩舟は、中心であることの自信からか、三大岩船地蔵などには触れず、日本三大地蔵尊を名乗る。(岩船山高勝寺の他に滋賀県長浜市・木之本地蔵院、山形県舟形町・猿羽根山地蔵尊)

注目の村上は、地蔵が多数あるもののどれが岩船地蔵が特定できていないせいもあるのか、三大がどこか、ということには関心がないようだ。

前置きが長くなったが、さて本題。
岩船地蔵とは何か?

相模には多くの岩船地蔵があり、船の台座に乗っているらしい。
「屋根のない博物館」ホームページによれば
http://park19.wakwak.com/~hotaru1/funeninotta-ojizousan.html
 「(作られた時期は)今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつに数えられている霊地です。
 熱狂的とも云える布教活動は広い地域に及びました。甲斐の記録では、信濃を経由して、神輿を奉じ、旗、天蓋を立てた「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がやって来て三味線、尺八、鉦、太鼓で念仏を唱え、踊り子には男女の子供をこしらえ、村々を一、二日ずつ練り歩いて、これを祀った、とあります。」

また、
夢野銀次氏ブログによれば、福田アジオ氏の話として
http://kasiwagura20.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-01a1.html
 「念仏踊りをしながらねり歩き、次の村へ送る。こうした村人総出での地蔵送りは亨保4年(1719年)の3月から10月と短期間だけの動きでの流行で」
「村から村へと岩船地蔵送りが行われた地域は、群馬・上野から信濃千曲川に沿って越後へ。信濃から今の小梅線を通って甲斐へ。甲斐からは富士川に添って駿河と相模。別の甲斐から奥多摩を経て武蔵の国へと『地蔵送り』が行われたことが古文書史料で確認できます。また、同じ地域で船を台座にした岩船地蔵尊の存在が確認されています。」
とある。

すなわち、西関東甲信越のほとんどの岩船地蔵は、栃木から出発し、台座の船形は本家の岩船地蔵(すなわち地蔵の名前)からきており、「あの世へ行くとき三途の川をお地蔵さんと船で渡る」という信仰と結びついたのであろう。
本家の「岩船」だけは、地名(すなわち山の形)から来ている。

岩船信仰がこの時期に広まったとすると、わが故郷の信州中野の地蔵は、言い伝えでは、天平のころ行基菩薩がきて、下野、越後の地蔵と一緒に一本の木から三体の地蔵を作ったというが、なんとなく信じがたい。
村外の一般の目から見れば、他所と一緒に江戸時代に岩船信仰がやってきて、たまたま、この地に熱心な信者がいて、お堂を立て今までお守りしてきた、と考えたい。

各地の岩船地蔵の伝承、説明を読むと、千葉いすみの岩船地蔵だけ伝承、立地とも異質に見える。他は全て岩船山高勝寺と関連があるのではないか? 路傍にあるものが多い相模などの岩船地蔵は、越後村上のも併せて江戸時代の下野発祥の地蔵送りによるものにみえる。

一方、信州岩船だけ比較的大きな境内を持っているのは、江戸期の爆発的流行で名前が岩船地蔵となったものの、それ以前から伝承通りの地蔵と堂宇があったのかもしれない。

現在、千曲川は立ヶ花から山間部を縫いながら飯山に出る。
大昔、夜間瀬川扇状地が完成するまで、千曲川は中野平を流れていた。もちろん仏教伝来は千曲が後退した後だが、その名残で延洞湖が長く残り、洪水の時は岩船の近くまで千曲の水が寄せたのではないか? 
妄想すれば、あるとき上田佐久のほうから木製地蔵が流れ着き、それが船に乗った地蔵という伝承とともに祀られ、その後江戸になって例の岩船信仰と結びつき、地名も岩船になったのかもしれない。

別ブログ
20170217  栃木、岩船山高勝寺


千駄木菜園 総目次
お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ 
翻訳本あとがき 目次へ 
競技ダンス 目次へ


2017年2月17日金曜日

栃木の霊場、岩船山高勝寺

千駄木菜園 総目次


栃木の岩舟町。
地元以外で知っている人は少ないだろう。
私は50年前から、長野にいる子どものころから知っていた。
長野県中野市大字「岩船」360番地。
生まれも育ちも、つい最近までは本籍も、ここだった。
このことは後で書く。

栃木岩舟は知っていても実際行くことはないだろうと思っていた。
しかし、たまたまこの駅に用事で来て、ついでに周りを歩いてみた。

駅舎は古く、すぐ後ろが岩船山。



岩舟石の産出で有名、今は採石していないが、昭和30年代には36軒もの石材店が軒を並べ、毎日200台ものダンプカーが東京方面や関東各地に石を運んでいたらしい。
駅のそばに変わった石造りの建物があった。
近づくと岩舟石資料館(左の民家風)で、無人だが自由に入れた。


線路の近くから参道があり、まっすぐ岩船山の上まで伸びている。
石段が長い。600段あるという。
一気には登れない。
途中、いろいろ見ながら上がっていく。
階段左側、これは自然地形でなく採石跡だろう。

右側にもある。
こちらの採石跡は時に駐車場になるらしい。
平坦地の手前に祠のような地蔵堂があり、真ん中の地蔵が船に乗っていた。

やっと登った。
ときにスカイツリーが見えるらしいが、きょうは春の陽気でかすんでいる。
頂上は平らで曲がると森の中にいきなり寺が現れる。
こんな田舎の、こんな山の頂上に、何と立派な仁王門。



これらを作るには富が要る。
周りに大きな町があるわけでなく、なぜこんな人家まばらな田舎に、こんな立派なものがあるか。
これはこの場所が特殊だから、と考えざるを得ない。 

仏教以前の土着信仰に、岩肌が出ている山には死者の霊魂が集まるというのがあったらしい。
岩船山は採石でこの形(岩の船?)になったのでなく、太古からこの形で、それゆえに、仏教以前の霊場であったところに、天台宗の寺が建ったのではないか?

本堂の横、大量の卒塔婆に、驚くというか、なにか恐ろしさを感じた。
斜面に並ぶ多数のお地蔵さんが服を着せられこちらを見ている。

死の世界である。
平日のせいか、誰もおらず、無数の霊魂に見つめられているようで、晴れているのに寒気がした。
怖くて、写真が取れないほどだった。

本堂の前にはお札が供えられていた。
ここは安産、子授かりの寺としても有名で、こういう生きた人間の営み、現実を形でみると、死の世界の不気味さのあとだけに、ほっとする。
絵馬もあり、平凡な願望、普通の人のぬくもりも感じられて、だんだん元気が出てきた。
さらに上って奥ノ院という場所に行ったら、建物はなく、やはりお地蔵さんだった。
後ろの平坦な林にロープが張ってあった。
またいで枯草を踏んでいくと見事な断崖絶壁、眼下は採石跡だった。

上の写真、右に見える車の小ささから高さが分かるだろうか。

金網フェンスがあって、最初は無粋だと思ったのだが、近づいたら、柵のすぐ外は地面がない。
斜面が全くない。
よくこんな場所に設置できたものだと驚いた。
フェンスという長い構造物の大部分が崖上に乗っかってバランスをとっているだけで、この写真の部分は空中に突き出ているなのではないかと思うくらい、断崖の、端の、端の端っこだった。

2011年東日本大地震でどこか崩れたそうだ。
崩れる寸前までひびの入っている部分が他にもあるのではないか? 
ここも、いつか何の前触れもなく崩れるのではないか。フェンスの2メートル以内に近づけなかったのは、そういう崩れる心配より単なる高所に対する恐怖だった。そのくらい見事な「断崖絶景」だった。

全く違った現実的な怖さを味わって、再び寺まで降りると、霊場としての不気味さが薄らいで、写真を撮る余裕が出てきた。
撮っていいものかと迷ったが、記録のために、卒塔婆の一部を写しておく。

お地蔵さんはセーターやジャンパーを羽織っている。
石段を上がって奥の方を写す勇気はなかった。

仁王門横の賽の河原は、多数の小さな地蔵と大きな地蔵。
大きな地蔵尊は、河原に遊ぶ子供たちを襲う鬼を追い払うためにあるという。
ちいさな無数の地蔵の前には大量のおもちゃ、人形が供えられていた。
こんなにいっぱい子どもたちが亡くなったのか。
さすがに写真は撮れなかった。
記憶を残すための遠景が精いっぱい。

ちょっと忘れられないものをいくつかみて、
1時間半ほど滞在して両毛線に乗った。
車窓から見る岩船山。
両毛線に続き宇都宮線も車中座っていたら、大宮で降りるときに足がこわばっていた。石段上り下りが遅れて効いてきた。

(続)信州中野の岩船地蔵


千駄木菜園 総目次