2020年1月31日金曜日

旧暦で春の七草を探す

今年は新型肺炎で春節休みがとくに話題となった。
2020年の旧暦の元旦は1月25日。

なお、旧暦は太陰暦ではない。
日は月moonの形で決まるが、月monthは、太陽との関係で決め、必要に応じて閏月を入れる。カレンダーがなくとも日と季節が分かる合理的な暦である。

正月は、雨水(太陽黄経が330度のときで2月19日ごろ)を含む朔望月(30日間)と定義され、その1日(元日)は1月21日ごろから2月19日ごろまでを毎年移動する。
その中間(すなわち例年の平均?ともいえる日)は2月4日の立春(太陽黄経が315度)のころだから初春のめでたさで、ちょうどいい。
というか、そのために立春の15日後の雨水をえらび、それを含む月を正月に設定しているのだろう。

この前置きは七草粥のため。
2020-01-07
大宮駅西口ダイエー 18:12
この時間で100円引き。

だから七草粥の日は、旧暦で数え、(平均して)日差しが明るくなってきた立春から7日ほど後なのである。そうでないと春の野に出て若菜摘むという季節にならない。
今年はわりと早くて新暦の1月31日が旧暦1月7日になる(月齢6.2)
パック用に大根、カブなどは小さいものを入れている。

セリ・ナズナ、ゴギョウ・ハコベラ、ホトケノザ、スズナ・スズシロ、春の七草
と七五調にすると覚えられる。

ハギ・キキョウ クズ・フジバカマ オミナエシ オバナ・ナデシコ、秋の七草
と比べて知名度が高いのはおかゆの効果だ。
正月は見ただけで買わなかった。
葉物は食べきれないほど家にあるし。

旧暦の七草である1月31日、家の庭で探してみる。

まず
1、スズシロ、清白・蘿蔔 
2020-01-31
今年はよくできて、腕が上がったかと思ったが、単に暖冬の影響のようである。

2020-01-27 今年最大の大根
葉を除いて1.8キロあった。佐藤武造『大根』を思いだす。

昔はスズナとどっちが大根だったか分からなくなったが、山口晃「スズシロ日記」で大根のイラストがインプットされて以来間違わない。

2.スズナ、鈴菜・菘

これは千駄木菜園では作っていない。
大根の隣に小松菜がある。

カブの学名は、Brassica rapaで、ここには アブラナ、ミズナ、カブ、ノザワナ、コマツナ、ハクサイ、チンゲンサイなどが含まれる。これらは同じ生物種で、栽培品種として別れた。

キャベツやブロッコリーは同じアブラナ属 Brassicaだが、種が違い、B. oleraceaである。

ダイコンは同じアブラナ科だが、属からして違い、Raphanus sativus。
すなわちスズナとスズシロは見た目が似ているが、生物学的にはうんと離れている。
(名前が似ているのは見た目のせいだと思っていたら、スズの字が違った)

2020-01-07 スズナ
年末もらって来たカブ。長野の弟が作った。


3.セリ、芹

2018年のお盆休みに信州中野の実家に帰省。
田んぼの横の小川から抜いてきて移植した。
2019-05-06 川でなくても大丈夫。
日蔭でも育つが、虫に食われる。
妻は山菜、野草が嫌いだから使ってもらえない。
2020-01-31 冬は葉も少ない。
信州ではこれを日本芹、クレソンを台湾芹といった。
味噌漬けにしたり、クルミであえておやきの餡にしたりした。


4.ハコベラ

ハコベのこと。白菜の間などにいっぱい生えている。
以前食べたら普通の野菜だった。(別ブログ)
2020-01-31

5.ホトケノザ 仏の座

庭にいっぱい生えている。
紫の花をつける。
しかし七草のホトケノザはコオニタビラコ(小鬼田平子)のことらしい。
これもあちこち生えていた。
2020-01-31
確かにこちらのほうが七草の菜っ葉らしい。
黄色い花がついていた。

6.ゴギョウ、オギョウ、御形

別名ハハコグサ。
茎葉全体に白く軟らかい毛が密生し、花の冠毛も起毛状にほおけ(ははけ)立つことから、別名ホオケグサ、ハハケグサとよばれ、当て字で母子草に転訛したとされる。葉が地面を這うようにして広がることから「這う子草」という説もある。しかし御形の由来は不明。

庭になかったので、パジャマのジャージ姿のまま外に出る。
前の道にあった。

2020-01-31
すぐ前の空き地にもある。
ここは2018年9月まで古家があったから、そのあと種が飛んできて繁殖したらしい。

ところで、同じ場所に葉っぱが広くて裏が白、ロゼットが広がっている草がいっぱいある。花は黄色で似ている。
これをハハコグサという人もいる。
どちらが正しいか不明だが、片方がハハコグサなら、もう片方はなんていう草だろう?

庭に戻ってきたら九条ネギの苗の間にハコベと一緒に生えていた。

つくづく七草とは7つの雑草と思う。
スズナスズシロも万葉の時代は小さいものがあちこち生えていたのであろう。
品種改良によって他の2つとは別格になってしまった。


7.ナズナ、薺(ぺんぺん草)

七草のうち子供のころから名前と実物が一致しているのは、セリとナズナだけ。
すぐ見つかると思ったが、見つからない。
子どもころ振って鳴らした、逆三角形の実がならぶ特徴的な穂がなければ分からない。
ネットでみるとこの季節は葉っぱが地面に広がってロゼットで越冬するらしい。
葉っぱはホトケノザつまりコオニタビラコに似ている。
ネットにあるナズナの葉っぱに似ているが・・・・

千駄木小学校
これも似ているがタンポポにも似ている。
春、夏にどこで見たか思い出そうとするが・・・

あきらめて職場に向かう。
しかし京浜東北線が人身事故で遅れ、志久駅に9時過ぎてしまった。
2020-01-31
どうせ遅刻だからと、のんびり改札を出たら、暖冬のせいだろうか、花が咲き実のついたナズナがいた。花柄(かえい)についている葉は、タンポポのような切れ込みがなかった。

正月の七草がゆは食べ損ねたから旧暦で食べようとしたのに、よく考えると本来七草粥は6日に摘んで7日の朝に食べるもの。だから昨日のうちに摘まねばいけなかったのである。


20190227 アブラナ科とは何か
20190310 啓蟄すぎてハコベを食べてみ
20180911 スベリヒユ食べて、秋の種まき


千駄木菜園 総目次

2020年1月29日水曜日

本郷、山崎薬局に先生を訪ねる

1月23日、午後、湯島で仕事が終わる。
東大に立ち寄って歩いて帰ろう。
2020-01-23
表鳥居とあるので、湯島天神はここが正門のようだ。
銅製で、寛文7年(1667)に寄進されたらしい。

麟祥院前のブロンズ像に驚き、初めてこの寺に入った。(別ブログ)

医学書出版社の南山堂がすぐ西隣にあり、道路の向かいに南江堂がある。
医療機器メーカーの集積はもっと顕著だ。
つくづく徒歩の時代は文学青年から中小企業まで東大の周りによく集まったものだと思う。

南江堂の近くに行こうと春日通を再び渡った。
渡ったついでに少し歩くと山崎薬局のビル。
40年前来たことがある。
今見ると思ったより大きい。
一階に薬局が入り、7階以上が山崎幹夫先生のご自宅となっているが、メゾンルグラン本郷(9階建て、竣工1980年7月)というマンションである。


1980年11月25日、研究室の数人で西武球場の横、狭山の人工スキー場に行くことになった。深夜オールナイトの安い時間帯だったので、終電近くまで時間をつぶさねばならない。このとき参加メンバーで秘書をされていた山崎麻美さんが我々を夕食に呼んでくださった。

突然お邪魔し、厚い豚ステーキでご飯を頂いているとき、山崎幹夫先生がガウンの帯を締めながら入ってこられ、一言二言で出ていかれた。検見川のテニスコートで三川潮先生を「
三ちゃん、三ちゃん」と呼んでいらっしゃる雰囲気のまんまだった。

先生は、薬と毒に関して多くの著書があり、千葉大を定年退官されたあと2004年、新潟薬科大の学長になられた。その間、多くの書籍、また医薬、化学系の雑誌などに連載エッセイを残されている。たびたび読ませていただいていたが、お会いする機会はなかった。

それが2010年4月、3冊目の翻訳書「セレンディピティと近代医学・独創、偶然、発見の100年」に対し、書評を書いてくださったのである。日経サイエンスのA4まるまる1ページ、月に1冊という栄えある欄である。
とても嬉しかったが先生は私のことなどご存じないだろうと考えそのままにした・・・と思っていたら違った。昔のメールを探して読んだら、どうも迷いながらもお礼の手紙を書いていたようだ。

6年勤められた新潟薬科大学長を辞められ連絡先が分からなかったので、山崎薬局宛に書いたみたい。どういう書き出しで何を書いたか不明だが、すぐメールでお返事を頂いた。
メールのタイトルは「驚きました」で、私が生薬学教室の後輩であることを喜んでくださった。さらにご自身の初めての著書「毒の文化史」を出版されたとき、柴田承二先生がたまたま書評を頼まれ、著者が自分の研究室の教え子、山崎先生であり驚かれたというエピソードも添えられていた。

そして先生は2012年1月、5冊目「スパイス、爆薬、医薬品・世界史を変えた17の化学物質」についても日経サイエンスの本欄に取り上げてくださった。
このときはメールを二往復している。化学構造式に対する一般人のアレルギーや、先生のご友人・宮田親平氏(石館守三研出身、元文芸春秋編集委員、週刊文春編集長)の著書、人柄についてとか、おしゃべりした。
先生のメールは長文でも段落がない。PC画面では一見読みにくいが中身が濃くてさすがであった。

2020-01-23
ビルの前でしばらく迷ったが、店舗が開いていて奥さまの姿が見え、客がいなかったこと、今回お会いしないと二度と会えないと思われることから思い切って入った。
薬局は人を雇うこともせず、奥さまの老後の趣味であるのか、静かな空間であった。
40年前のこと、夕食をご馳走になったことなど話すと喜ばれ、上の階から山崎先生を呼んでくださった。
麻美さんはハワイの方と結婚、移住されたが、たびたび帰っていらっしゃるとのこと。
突然の訪問を詫びて退出した。
思い切って入ってよかったと思った。

雨はまだ続いている。
元富士警察署前の三つ角の関電工は駐車場になっていた。
文京総合体育館 
明治8年創立の本郷小学校が昭和20年3月の空襲で全焼、翌年廃校。
跡地に区立4中ができるも少子化で1998年廃校となった。
中学の廃校から2013年の完成まで15年も空いているのは、跡地の使い道に困っていたからだろうか。なんせ既にすぐ東の岩崎邸の隣に、我々も使った区立体育館があったのだから(現文京区教育センター)。

東大建築学科に立ち寄り、西片門から出る。

本郷弥生の北西角が更地になっていた。
各官庁御用・かばんのお医者さん・吉田屋があった。
マンションになるのだろうか。

農学部から鴎外「青年」の道にはいると区立の駐輪場。
角に西教寺と公衆便所、
すぐに更新館という看板がある。
本郷に多い下宿屋兼旅館のような名前だが、旅館のようである。
昔から気になっていたので奥まで入ってみた。

各部屋にエアコンがあることからまだ営業しているのだろうか。
ネットを見たら2016年の宿泊書き込みがあった。

願行寺
鴎外が調べて有名になった細木香以の墓がある。

不動堂


本堂
根津神社裏門坂から藪下道に入る。
両側の日本医大の校舎をつなげていた陸橋は外されていた。
左側の校舎建て替えは本格的に始まっている。

解剖坂
壊す前の写真は以前ブログに乗せた。

汐見坂はすっかり40年前の面影が亡くなった。

朝倉響子邸も壊され、マンションになる。
石垣も上部は撤去されるのかな。


遠路はるばる歩いて帰宅。
山崎先生の奥さまが「(娘は)ボート大会なども楽しんだみたいですね」と話されたのを思い出し、ひさしぶりにアルバムを開いてみた。
1980-11-07
うちの研究室はナックルフォアを4チーム出した。
私が総監督で戸田で一度しっかり練習し、1軍(ショーケン号)が3位入賞した。二軍(がんばれ博士号)、三軍(みつぐ丸)は予選敗退したが女子チームは女子の部で優勝した。
麻美さんの隣に池田万里子さんがいる。

麻美さんはみんなのアイドルだった。
服装から修論発表会のあとだろう。
左から飯島洋、藤井勲、木内文之、渋谷雅明の各氏、
みんな教授だけどそろそろ退職年齢。
後ろはタイから留学されていた?さん(名前忘れた)
メモがあって1981年3月10日。このあと湯島に出てお祝い、慰労会。
二次会はバニーガールのいる店だった。

別ブログ
 20200125 麟祥院の立像と稲葉家、堀田家
 20200126 東大14 化学館と工学部1号館(建築)
 20191218 上野・本郷、全126坂道の一覧、ランキング
 20181014 拡大する日本医大、解剖坂、猫の家
 20190804 朝倉響子邸などが消えた
  
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2020年1月27日月曜日

西日暮里、道灌山通りの変わりよう

不忍通りの道灌山交差点の三つ角から西日暮里駅へいたる道灌山通り。
2020-01-26 日曜くもり

サイクルスポットという自転車屋がある。
7年前に引っ越してきたときは妻も子どもたちも自転車で通ったから4台は必要で、ここで買ったり修理したりした。空気入れも買ったが、無料のポンプで空気を入れさせてもらった。
その並びはカラキモーターズという自動車屋、麻雀クラブぽん太(空いているのは見たことがない)、散髪(昨年?閉店)、もがみ(おにぎり)、岩崎青果(生花)店と続く。
岩崎青果店まで来たら、荷物を出している。
聞けば、マンションが建つので閉店するという。
えーっ、また、景色が変わってしまうのか・・・
写真を撮ってもいいか聞いて、撮らせてもらった。

今月いっぱいで立ち退くという。
マンションは1年前から話があり、12階建て、サイクルスポットまでの敷地に建つらしい。
隣のもがみのシャッターに張り紙。
読めば、マンション建設が決まり、12/14を最後に移転するという。
数日前に閉まっているのに気づき、? と思ったがそんな前から閉店していたのか。
この景色がなくなってしまうというので、ぐるっと回って写真を撮った。

道灌山通りの一本裏は古い家が並ぶ。

車も入れないような路地
この左側が壊されマンションになる。

岩崎青果店だけでなく他の家も窓を開けて引越しの片付けをしていた。

この辺りは都道・補助92号線の建設に合わせ再開発が予定されていたが、道灌山通りの南、西日暮里3丁目から谷中、上野に至る部分は計画が白紙になった。

しかし、荒川区はまだ区画整理だけでもやりたいらしい。
北区(田端)は補助92号線に合わせて区画整理した。荒川区も対抗意識があるのかな?
住民が反対していたら、不便なのは住民だから区画整理などやらなければいいのに、お役所というのはとにかく仕事を作りたがる。

ぐるっと解体予定地をまわって再び岩崎青果店に戻ってきた。
壊す前に、と写真を撮らせてもらっていると奥さんがいろいろ教えてくださった。

78年前、ここで親が青果店を開いたという。1942年か。
以前は三河島の方で戦争中は疎開していたそうだ。

店はもっとずっと広かったのだけど、地下鉄ができるとき(千代田線西日暮里が1969年、山手線の駅が1971年開業)、道灌山通りを二倍に広げたの。南側に広げたから、うちは全部削られて、店だけ残して自宅は富士見坂の上に行った。景色はいいけどね。

(片側3車線もある道灌山通りの中央分離線あたりを指さし)あそこに交番があったの。渡辺町駐在所と言ってね。公園もあって、自動車屋さん(カラキモータース?)の工場もあった。道路の向こう側の渡辺町のほうには風呂屋もあって、そこで盆踊りなんかよくしたわ。
なるほど、大きく削られた結果、間口は店舗3軒分くらいあるが、奥行きがほとんどない。
狭いところは畳1畳くらいしかないのでは。

ほとんどお客はいないような感じだが、ここは六阿弥陀道との角にあり、青雲寺、修性院など近くに寺も多い。年に二回、お彼岸のときだけは花が売れる。
日暮里で練習して夜、前を通ると、そのころだけは21時、22時でも大人数でお墓参りの花束を作っているのに出くわす。
5月は野菜の苗も売っているがホームセンターより高い。
バナナ一皿が安く売っていたこともあったが、買ったことはなかった。

少し西の方、三菱地所ザ・パークハウス谷中道灌山レジデンスあたりにあった花屋さんが5,6年前につぶれたことを思いだし聞いてみた。
「あの、失礼ですけど、ここらで八百屋さんとか花屋さんとかやっていけるんですか?」
「花が好きだからやってるの。家賃を払うんじゃやっていけないけどね」

東京なんて5年も経てばどんどん変わるわよ、
という話をもっと聞きたかったが、ダンスの練習に向かった。
途中、開成の前を通る。
校舎建て替えの工事も進んでいる。
地下鉄ができたころは開成も道路側に小さなグランドがあったから、こんな景色だったのかもしれない。(別ブログ)

・・・・
この日の練習が終わって暗くなり、再び前を通ると、粗大ごみの搬出はまだ続いていた。
お皿など「ご自由にどうぞ」という紙が貼ってあった。
棚をみていると、
「これなんかしっかりしてるわよ」
外の物置に入れれば園芸用品の整理に使えるかもしれない。
昭和20年代、30年代のものだろうか。
すべて消えてしまうなら、せめてこれだけでも、当時のほこりも汚れも落とさず、私が保存してあげようか。

道灌山通り 昭和38年 goo地図から
上に開成、右に前田家墓所(現、西日暮里公園)
道路の拡張はサイクルスポットのすぐ西まで完成している。

今回壊される一角は、家が三列見える。
道路側から二列目の一部まで削られたのが分かる。
岩崎青果店の前は公園のようで木が2本ある。
その向かい渡辺町側(現、西日暮里4丁目)に確かに銭湯の煙突とその影が見える。

翌朝、再び写真を撮ろうと思って来た。
2020-01-27 7:50
今月いっぱいで壊されマンションが建つという一角は、不思議とビルがない。

ちょうど向かいの、通りの北側、中里たばこ店あたりもそこだけビルがない。
補助92号線の計画のため、都がマンション建設を許さなかったのだろうか。通りの南側は計画が白紙になったから建てられるようになったのだろうか?

西日暮里駅の東側、餃子の王将あたりは中国人が買ったよ。ホテルにでもするんじゃないの? 他にあそこの○○あたりも中国人が買った。中国人は皆金持ちだからね・・・
と前日、岩崎青果店の奥さんが言われたことを思いだした。
「東京は5年も経てば変わるからね」

 
20170923 開成の文化祭と校舎の変遷
20181021 道灌山通り、よみせ通り、ヘビ道

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