2023年3月23日木曜日

小田原城と北条、大久保、外郎薬

 

14年前の2009年8月21日、箱根宮の下でファルマシア委員会が一泊二日であった。
その日の会議は15時ころだったので朝埼玉を出発して、途中、小田原城を歩いた。

その後、各地の城もいくつか見てきた。
そのうえで小田原城の大きさが忘れられず、ブログに残そうと思って先月、2月26日に再訪した。
新宿から小田急の快速急行で1時間35分、891円。
この手軽さで関東一(江戸城除いて)の城が見られるのはありがたい。
2023‐02‐26 12:10
小田原駅は新しい橋上駅だった。
あれ? こんなに立派な駅だっただろうか?
完成は2003年というが、2009年来たときはこの駅舎だったか記憶がない。

もともと中央から関東への出入り口であったから交通の要衝だったはずだが、小田原ー熱海間の地形が険しかったため、東海道本線(国府津ー浜松)が1889年(明治22)開業するにあたり、小田原の東、酒匂川の対岸にあった国府津から大きく北に迂回、いまの御殿場線のルートを取り、小田原は取り残された。
その後、1920年(大正9)に熱海線国府津駅 - 小田原駅間が開業、国鉄の駅ができた。
昭和に入り、小田急電鉄小田原線が開業、
さらに丹那トンネルの開通で熱海線が東海道本線に昇格、
ようやく、戦国時代関東一円を支配した北条氏の本拠地、江戸時代は大久保氏の城下町、宿110軒を数えた大宿場町の小田原が、東西大動脈の筋道に戻った。

さて、駅からお城を目指して歩く。
小田原城のいいところは駅から近いこと。
東口というか、南東口に出て、錦通りと駅前通りが作る三角形のスペースを左手に見て、右折、真南に進むのはお堀端通り。
日曜の日帰り観光客が両側の店を見ながらのんびり歩いている。
西湘の中心都市で、駅に近くオフィス、住宅も多いから、銀行やOdakyu-OXなどもあって、観光客相手の店ばかりでもない。
12:23
三の丸土塁跡
完全に町に飲み込まれ、14年前歩いたときは気づかなかった。
ここは北から三の丸に入る幸田口である。
この南、東海道が東から三の丸にぶつかるところには大手口があった。

道路は、お堀端通りという名のとおり、まもなく右(西)側は濠となる。
12:26 お堀端
関東の城は、江戸城を除いてほとんどが空堀と土塁でできている。
関東は、戦国時代が終わってから配置された小さな譜代大名が多かったせいか、あるいは石材のある山が遠かったせいか、とにかく関東の城は小さい。
しかし小田原は西の軍勢から関東、江戸を守るための、唯一石垣、水濠を持つ巨大な城である。

写真の道路沿いの濠は、藩主の屋敷や政庁があった二の丸と武家屋敷のあった三の丸を分ける。
説明版を読めば、昔はもっと濠が広く、また石垣も高かったらしい。関東大震災で石垣が崩れた時、濠を埋めたてる計画もあったらしいが保存運動が起きて残された。しかし濠は小さくなったという。

修復工事中だった学橋(まなびばし)をわたり、二の丸に入る。
12:28
二の丸広場
昭和4(1929)年、市立城内小学校が二の丸に移転したとき、架けられた橋だからこの名がある。小学校はつい最近1992年までここにあったという。
ここには藩主の住む二の丸御殿があった。
12:30
二の丸から本丸に入る橋。
二の丸、三の丸は市街と同じ平地だが、本丸は少し高い。

さて、谷中の瑞輪寺のところで少し書いたが、小田原藩といえば三河以来の譜代大名、大久保氏。しかし、ずっと大久保氏だったわけではない。

1590年、家康江戸入府の年、かつての関東の覇者・北条氏の本拠地で、関東防御の重要地点、小田原の守りとして、三河以来信頼の篤い大久保忠世(1532‐1594)を城主とした(4万石)。後を継いだ嫡男・忠隣は6万石となり、さらに老中として幕閣に入ったが1614年改易され、以後、番城、阿部家一代、番城、稲葉家3代の城となった。
(渡ってきた二の丸の大きな濠を含め、大々的な工事で近代城郭としたのは春日局の息子・稲葉正勝の時代とされる)

稲葉家が越後高田に転封し、1686年、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で先祖の故地に入封。彼は小田原藩初代・大久忠世から5代目にあたる。
改易された忠隣は流罪となったが、大久保家の功績が大きかったことから孫の忠職が騎西2万石で許され、のち唐津8万石まで加増された。忠朝も忠隣の孫であったが小姓、小姓組番頭をつとめたあと、従兄である忠職の養子となって大久保家を継いだ。そして唐津から佐倉に国替えされたあと1681年老中首座となった。以後、幕末まで大久保家10代の城となっている。
12:31
本丸に入る常盤木門
12:33
この、天守閣に入るのに斜面のように作られた石段は建物とのバランス上あまり美しくない。2009年に初めて見た時はピラミッドの工事現場のようで、強く印象に残った。
しかし、越前丸岡城など、この形は各地にある。
12:37
本丸と二の丸の間の濠は花菖蒲が植わっている。
ちょうどこの5日前に葛飾・堀切菖蒲園に行ったばかりだったから、興味深く見た。
あちらは池に植えてあるが、こちらは鉢を並べている。
シーズンになったら水を張ればいいし、入れ替えも簡単である。

12:44
星崎記念館(=小田原市立図書館)
「令和2年3月31日に閉館しました。60年間のご利用ありがとうございました。図書館の機能と伝統は中央図書館と駅東口図書館に引き継ぎます」

思えば、2009年夏に来たときは、2冊目の翻訳書「Diseases」のゲラを待ちながら3冊目の「セレンディピティと近代医学」の翻訳が最終段階まで来たときだった。城の見物が終わったあと、この図書館の庭に出ていたテーブルに座り、箱根に行くまでの時間つぶしに翻訳の続きをしていた。芝生の庭には他に誰もいなかった。
12:44
本来はお知らせ掲示板だったところに小田原市立図書館の歴史が貼ってあった。
1916年足柄下郡図書館設立、
1933年小田原町図書館開館、
1959年城内に星崎記念館完成、小田原市立図書館ここに移転、、、

小田原は城下町であり、足柄県の県庁所在地、文化度が高く、1900年(明治33)神奈川県で横浜に次いで二番目に旧制中学(現小田原高校)が設立された町である。(以後は厚木、横須賀、横浜第二、湘南の順)
12:46
旧図書館の前、関東大震災で崩れたという本丸の石垣
東京下町の大火災による被害ばかりに目が行くが、震源はこの近くだった。

旧図書館の東は小田原市郷土文化館で、こちらは今もあった。
14年前に来たときは北条時代の小田原城の地図などをもらって帰った。
捨てずにとってあった。
小田原城全体図(2009年郷土文化館でもらったもの)
現在の市街図と重ねてあるから見やすい。

しかしこの小田原城は北条時代と江戸時代の城が混在している。
北条時代は今の本丸、二の丸あたりに居館があり、駅の西側、小田原高校などのある山側が本曲輪として詰の城となっていた。江戸時代は北条氏の居館部分を大改修して近世城郭とし、山側は放置された。
地図は山側の郭が描いてあると同時に、江戸時代(=現在のお城)の本丸、二の丸が濠の形も正確に描いてある。この図の通りの時代はなかったはずだが、北条時代の巨大城郭の範囲を知る上では分かりやすい。

小田原城は南西が早川、西北が箱根から続く山地、北東が山王川、東南が相模湾で四方を囲まれている。日本最大の城郭で、上杉謙信、武田信玄の攻撃にも耐え、秀吉の小田原征伐でも落城しなかった。秀吉は関東一円の支城を落としながら、3か月包囲を続け、結局無血で開城させた。

一番外側の、町をすっぽり包むのが総構(そうがまえ)。総延長9キロメートルに及び、防御線が長くなる欠点はあるが、籠城しても食料不足になることはない。明治期に小田原が町制を敷いたときの範囲は、この総構えとほぼ一致するという。総構えは土塁と空堀であり、江戸期に破壊されたが遺構は今でも残っているようだ。

小田原北条氏は今川氏親の家臣として伊豆を本拠地とした伊勢新九郎入道宗瑞(北条早雲)を初代とする。小田原駅西口には北条早雲の像があり、小田原と言えば北条早雲である。しかし、彼は大森氏を討ち小田原城を奪ったが、死ぬまで韮山城を本拠地とし、小田原城に移ったのは二代目の氏綱からである。早雲、氏綱、氏康と関東で領土を広げた。そして4代・氏政、5代・氏直の親子のとき秀吉に攻められ、氏政切腹、氏直は助命されたが病死、戦国大名としての北条氏はほろんだ。(分流の北条氏が河内国狭山藩1万石を領する外様大名として明治まで存続した)

小田原は関東地方の端の端。
江戸幕府が関東を西からの侵入者から守る重要拠点としたのは分かるが、常陸(佐竹)などを除きほとんど関東一円を支配した北条氏が、こんな隅っこにいたのはなぜか。伊豆から関東に出たとき、太田道灌など関東管領上杉氏、古河公方を中心に諸侯が割拠し、小田原から動けなかったのか(広い場所を恐れるネズミが隅っこから、こっそり外を覗いているように)。あるいは、その後、領土拡大が急で本拠地を関東中央(鎌倉とか江戸とか)に移す暇がなかったのか。
13:08
二の丸の銅(あかがね)門をくぐり住吉橋で濠を渡り、二の丸の出島のような馬屋曲輪に出る。
13:09
馬屋曲輪から銅門桝形内仕切り門を振り返る。
北条時代はこのあたりにも居館はあっただろうが、江戸期の大改修で全く遺構はない。

北条時代の遺構は東海道線の西側の丘陵地帯に多くありそうだが、そこまで興味もなく、駅に向かう。
13:17
「ういろう 駅前調剤薬局」
という看板あり。
一般に、ういろうと言えば名古屋の青柳ういろうのような甘い餅を思うだろうが、本来は薬だった。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言われ、中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
14世紀に元が滅亡して、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬が伝えたという。外郎の中国読み、ワイロンが訛ってういろうになったのだろう。

室町時代に京都外郎家が代々製造販売していたが、1504年4代目が分家し北条早雲の招きで小田原にやってきた。小田原外郎家は代々宇野藤右衛門を名乗り、江戸時代には去痰をはじめとする万能薬として東海道・小田原宿の名物となった。京都の本家はその後断絶し、現在外郎薬が売られているのは小田原だけである。

一般にいう餅菓子のういろうは、色が外郎薬に似ていたから、あるいは外郎薬の口直しに添えられた菓子であったから、と語源に諸説ある。
13:18
駅前の土産物屋は干物とかまぼこ

いまや外郎薬は小田原名物はではなくなった。
しかし干物やかまぼこは、おそらく江戸時代から売れているのだろうが、まだ続いている。
なぜ小田原名物か?相模湾の魚が豊富だったからというが、大きな宿場町であったことが大きいだろう。
13:20
歩いてきた道をみる。
お城方面に右折せず、線路と直角にこのまま歩けば海である(1.3キロ、17分)
左手には切腹した氏政・氏照兄弟の墓所があるはずだが、行かなかった。
13:20
右を見れば、こちらは線路に平行な道、お城通り。
その先に天守閣が見えた。
退職する前、学会などで関西に行くとき新幹線が小田原駅を通過するとトンネルへ入る直前、左の車窓に天守閣が見えた。もう見ることはないと思うと少し寂しい。

別ブログ

2023年3月21日火曜日

手賀沼と別荘、志賀直哉邸跡

 3月20日、千葉県立沼南高校に用事があり、常磐線の我孫子駅に初めて降りた。

2023‐03‐20 7:58
南口でバスを待つ間、目の前に周辺観光案内という地図があった。見れば手賀沼の手前(北側)に文化人ゆかりの地がけっこうある。以前から知っていたが、今までわざわざ行く気もなかった。
駅前地図の隣には彼らの集合写真もパネルになっていた。

「我孫子市ゆかりの文化人」
写真は大正6年、武者小路実篤邸にて、柳宗悦、志賀直哉の白樺派3人。
他に柳田国男、岡田武松、嘉納治五郎、杉村楚人冠、バーナート・リーチも紹介されていた。彼らに格別興味はなかったが、天気もいいので用事がすんだら手賀沼周辺を歩いてみようと決める。

用事は10時に終わった。
バスの本数が少ないので教頭先生が駅まで送ってくれるという。手賀沼が見たいので、沼にかかる手賀大橋のたもと、道の駅で降ろしてもらった。

中に入るとゆったりとしたスペースに、柏・安孫子周辺でとれたものだろうか、地元野菜が売っていた。スーパーと比べて格段に安いということもなく、また家には食べきれないほど自家製野菜があるので何も買わずに外に出た。

10:18
道の駅の外の広場から沼を見る。
小さくイトーヨーカ堂のマークが見えるところが我孫子駅らしい。
あそこまで歩こう。

道の駅周辺は高速道路かバイパスのような新しい道で、橋も新しいものと思ったら1964年完成という。
それまで、沼は川のように細長いから両岸の行き来は渡し船に頼っていた。
1944年11月、東葛飾郡教育会主催の研修会に参加する教職員が、午前の部の湖北小学校から午後の手賀東小学校に向かう途中、突風のために渡し船3艘が次々と転覆、50人中18人が溺死する大惨事となった。戦時下で男性がおらず、ほとんどが若い女性だった。どこか東のほうに殉難碑があるはず。
10:22
手賀大橋の上から西をみる。
白鳥ボートがある。まだシーズン前なのか、雑然としている。

手賀沼は1955年ころまではきれいで、ウナギ、コイなど漁業も盛んだった。1952年から1955年までは柏町営水泳場があった。ところが高度成長時代に周辺が都市化され、水質が悪化、化学的酸素要求量 (COD) の年平均で見ると1974年から2001年まで27年連続で全国ワースト1位。その後、下水道の普及などで1979年の最高記録、年平均28mg/L から2020年は10mg/Lまできれいになったが、今でも印旛沼に次いでワースト2位である。そんなことで高校生のころから名前と場所は知っていたが、66歳になって初めて湖面をみられた。
10:24
橋の真ん中から西を見る。
目的地イトーヨーカ堂を確認した。
手賀沼の南(写真左)が柏市で北が我孫子市である。

利根川と並行した細長い沼の形をみれば、大昔は(新旧)利根川や印旛沼などと同様、関東地方に降った雨水の自由な通り道、あるいは三日月湖の一部というか、溜まり場だったんだろうな。

昔は平仮名の「つ」の形をした大きな沼であったが、8代将軍吉宗の時代以降、干拓がすすみ、戦後(1946‐1968)も農水省の直轄事業として機械排水により500ヘクタールの水田が造成され、いまや8割の水域が消滅したという。とくに「つ」の右上から、湾曲する部分が陸地化され、沼は北と南に分離された。「つ」の下(南)のほうはほんのわずか残り、下手賀沼という。
10:27
橋の東側を見る。道路は広すぎて横断できない。
西洋の城のような建物は我孫子市営・手賀沼親水広場の「水の館」。
名前からして手賀沼周辺の水環境保全の啓発施設であろう。

道の駅でもらった簡単な地図を見れば、水の館の向こう、森のあたりに我孫子市・鳥の博物館と山科鳥類研究所があるはず。
山科鳥類研究所は1984年に我孫子に移転してきた。もともとは山階芳麿(旧皇族、山科家のの芳麿王)が、1942年に渋谷・南平台町の自邸に設立したもの。いまの総裁は秋篠宮殿下、理事長は壬生基博。歴代理事長は山科、浅野、島津、壬生、と旧華族の方がたである。1992年から2005年まで紀宮清子内親王(現黒田清子)が非常勤研究員として勤めた。

我孫子市・鳥の博物館は山科鳥類研究所の移転をきっかけに、1988年に設計を開始、隣接地に1990年開館した。山科研究所が上述のように庶民から遠いこともあり、手賀沼で見られる野鳥が市民に身近になるような、学べる施設になっているのだろう。

二度と来ないだろうから立ち寄ろうかとも思ったが行かない(後で調べたら月曜休館だった)。

橋を渡り切り、左手の県立安孫子高校をこえると交差点。
真っすぐな手賀沼ふれあいラインである。このすぐ北に、いかにも旧道らしい狭くて曲がった道がある。二本の道路は、沼の北岸に並行して通っている。
10:33
旧道のほうには文化人の旧跡を記した名所標識版があった。

地図を見ると手賀沼ふれあいラインと沼の間はきれいに区画整理されていて、おそらく近年水田を宅地にしたのだろう。当然その前は干拓された沼の一部だった。

案内板に沿って旧道を西に進む。
歩き始めてすぐ、右手になにやら名所があった。
10:36
旧村川堅固別荘。彼は西洋史の帝大教授。
どこかで聞いた名前だと思ったら3年前、文京区目白台、清戸坂を歩いたとき村川邸(国登録有形文化財)を見ている。(息子の村川堅太郎も西洋史の東大教授)

 関連ブログ 20200814 清戸坂から永楽病院、東大分院

村川堅固は大正4年にこの地を購入、大正10年に旧水戸街道我孫子本陣の離れを買って移築した。
今は我孫子市が所有し無料開放しているが月曜は休館。
10:42
このあたり、右側が崖になっていて高台側にお洒落な家が並ぶ。
昔は庭に出れば眼下の手賀沼の向こうに富士が見えたというから、なるほど別荘地としてすぐれている。風光明媚、気候温暖で魚、野菜が豊富だし、日光、箱根、鎌倉より断然近い。東大なら上野から直通37分(現在)、我孫子駅から崖まで650メートル、歩いて8分である。
10:43
「関東では川岸の崖をハケと呼びました。ハケの下は平たんで安定していたことから、古くから集落と集落を結ぶ「ハケ下の道」ができ、志賀直哉らハケの上に別荘を作った文化人たちはこの道を往来し、友情をはぐくみました」といった内容の説明文と当時の写真、地図がパネルになっていて、湧き水が再現されていた。

地元農家の人だろうか、男性老人が二人、置き石に休んでいたが、私がパネルの文章を読み、写真を撮っていたら、腰を上げ立ち去られた。

再び歩き始めると志賀直哉(1883 - 1971)の屋敷跡があった。
10:49
志賀直哉邸跡(左)
今は前に5階建てマンション「あびこハイマート」ができてしまったが、大正時代は手賀沼がすぐ手が届きそうなところに見えていたことだろう。

こちらは村川邸と違って何もないから24時間オープン。
低い石段を上がっていく。
10:50
志賀直哉邸の跡地
母屋の場所は更地になっているが、離れの書斎は復元されていた。

我孫子市の女性職員だろうか、箒をもって掃除されており、母屋のことなど、いくつか質問して答えていただいた。
私も若かったら色んなことを考えただろう。しかしこの年齢になると、のんびり掃除しながら、たまに来る観光客と話をするアルバイトはいいなぁ、私も働きたいな、なんて思っただけだった。当然彼女の顔も記憶にない。

さて、志賀は 88年の生涯で23回引っ越したという。ウィキペディアでは20か所確認できる。一か所平均4年だが、我孫子は1915年から1923年まで8年いたから比較的長い。だからここは別荘ではなく本邸だった。
なお、20か所のうち、奈良から東京に戻った1938年から2年住んだ東京市淀橋区諏訪町の旧居跡は、高田馬場のダンススタジオ「アクトレス」に行く途中、毎週見ていた。

志賀の父は相馬藩士、実業界で成功し、彼は学習院に入った。ここで武者小路実篤、細川護立、柳宗悦、里見弴らと知り合い、1910年武者小路とともに「白樺」を創刊、学習院関係者を中心として白樺派が生まれた。
10:51
志賀は柳夫妻に誘われ我孫子に移住。
当時は父との不和に悩み、愛児が夭逝する不幸もあったが、ここで創作意欲を回復させ『城の崎にて』『和解』『小僧の神様』『暗夜行路』(前編)を書いた。

前の3つを含む短編集の文庫本を読んだことがある。志賀直哉は、無駄を省いた文章、小説の神様、写実の名手、などと高く評価されているが、ストーリーのしっかりした作品が氾濫する現代では、あまり印象に残らない。これは他の古典作家の作品でもいえる。ああいう誉め言葉は、書かれた時代においてのみ成立するのではなかろうか。

志賀邸跡を後にして、この道沿いにあるという白樺文学館だけ立ち寄ろうと思ったが、ない。
おかしいなと思って来た道を戻ると、志賀邸の斜め前にあった。
10:55
白樺文学館。左の森が志賀邸跡
あたかも市役所の出張所か郵便局のような地味な建物で、気づかなかった。ここも月曜休館。

他にも文化人ゆかりの地があるが、まっすぐ帰ることにする。
10:59
崖の切れ目に登っていく道がある。
このあたり立派な家が多い。
この地点から我孫子駅まで850メートル、11分。
沼までは400メートル、5分である。
もう千駄木から引っ越すことはないが、つい、住んだらどうだろうと想像してしまう。
11:00
今日はゴミ出しの日だろうか?
坂を上りきったあたりでゴミ袋が行列を作って待っていた。

11:14 我孫子駅到着
対岸の道の駅「しょうなん」から3.0キロ、徒歩38分の距離を54分かけて歩いたことになる。まあ、いい散歩だった。

そういえば、放浪画伯・山下清は若いころ(1940年代前半)、この我孫子駅の弁当屋「弥生軒」で5年間働いていたという。住み込みで働いていたのだが、ふらっと旅に出て、突然戻ってくることを5年間繰り返していたらしい。戦後、列車の高速化とともに、やよい軒は駅弁販売をやめ、いまはホームの立ち食いソバ屋になっている。店先には山下清のパネルもあるらしい。

この話を朝訪問した沼南高校の校長先生に聞いて、立ち寄るつもりだったのだが、すっかり忘れ、思い出したのは帰宅した後だった。
1980年代、「裸の大将」はちゃんと見たわけではないが、ダ・カーポの「野に咲く花のように」が懐かしい。


2023年3月17日金曜日

三太郎大根と宮重の比較

 暖かい日が続く。

14日、東京は全国トップで桜が咲いた。平年より10日早い。
我が家は桜はなくなったが、アブラナ科の野菜はこの暖かさでトウがたち花が咲いた。
大根、白菜のようすについては書いた。

大根の第一次(宮重27本)、第二次(聖護院8本)の残りは数本あり、すべてトウ立ちしたので、全部抜いてしまった。しかし第三次がある。
大根三次はサツマイモの後、11月1日に種まきしたから、成長する前に冬になった。
種まきするとき、もう本数は十分だったので宮重と三太郎大根の比較実験にした。
三太郎のほうが遅くまいても大丈夫だという。
2023‐03‐16
左から、同時にまいたカブ、三太郎大根、宮重大根

三太郎はタキイが開発した品種で、いつ種をまいても大丈夫らしい。
すると遅くまいても冬の間の生育が良いのかな?と思っていたら、やはり厳冬期は宮重同様育たなかった。
しかし、春先、大根一次、二次、カブ、白菜とアブラナ科のトウ立ちが続く中、三太郎はトウ立ちしない。つまり成長が遅い。そういうことか。これは期待できるかもしれない。

隣に育てたカブは、根部(カブ)が育たぬまま菜の花が咲き、失敗。柔らかいトウの先端を食べてみただけ。他に葉物がいっぱいあるので全部抜いてしまおう。

2023‐03‐16
ミニキャベツ
アルバイト先で余り苗をごみとして捨てたもの。
すでに萎れているものを試験的に8株持ち帰り植えてみた。
復活し、枯れはしなかったが、全く成長しなかった。
本来は9月に苗を定植、11月に収穫するもの。
ビニールで覆い越冬したが、1株枯れ、4株が小さい球になり、3株はトウ立ちした。
もう少し成長が遅ければすべてトウ立ちせず春キャベツとなったか?
ミニキャベツよりさらに小さいミニだったが、柔らかくておいしかった。

2023‐03‐16
春菊。
落花生の後、11月6日にまいたら成長遅く、ようやく3月になって鍋に入れて食べた。
美味しかったが、もっと早くまかなくてはダメだ。

2023‐03‐16
ホウレンソウは毎年よくできるのだが、アブラムシが大量につき人にあげられない。
二度ほど食べたが、大半は消費しきれず廃棄になるかな?

2023‐03‐16
玉ねぎ。昨年同様種まきから始めたが、失敗。
しかし黒マルチとビニール覆いで、霜柱にはやられなかった。
昨年よりは少しマシ。球になるかどうか。

2023‐03‐16
この冬食べた長ネギの根っこを埋めたもの。
他の場所にもある。食べるときはこのまま葉っぱだけを切り取り、抜かない。
上手くやれば無限にとれるだろう。来年は買わなくて済むかな?

2023‐03‐16
ソラマメは10株植えた。

ソラマメの株間に見える赤いものはサニーレタス。
先日、キャベツ植え付けの場所を作るため、移植してきたもの。
手前はイチゴ。

左の白い覆いは手前から、芽出し中サツマイモ、育苗中キャベツ、定植済みキャベツ(6月収穫予定)。
ナス、パプリカ、シシトウ、トウモロコシ、落花生などの種は先日まいた。
春の庭には楽しみがいっぱいある。

2023年3月14日火曜日

23区の無料地図を集め、人口面積ランキング


2013年に文京区に引っ越してきたとき、区全体の1枚地図をもらった。
もともと地図が好きである。引っ越しと同時期に転職した大学の自分の部屋に、明治11年の東京全図と並べて壁に貼り、毎日眺めていた。
そのうち高校訪問(営業)で豊島区担当になったので、豊島区の1枚地図も池袋の区民センターでもらってきて文京区の隣に貼った。

大学を定年退職してから、先月、ある成人男性の個人教師を頼まれた。
都内を散歩しながら歴史を講義することを計画し、池袋駅東口のとしま区民センターで最新の豊島区地図、また高田馬場の戸塚出張所で新宿区の1枚地図をもらってきた。

文京、豊島、新宿と地図を3枚並べて見ると、ほかの区の無料全体地図はどんなものだろうと興味がわいた。そこで集めようと思ったのである。
区役所や出張所に行くと、区全体の1枚地図が無料でもらえる。
最近、用事がなければ散策することもないので、地図集めで都内を歩いてみようと思った。
そして、先日、3月1日までに、23区を(少しだけだが)歩き、足立区をのぞく22枚の地図を入手した。
訪問順にまとめると
1/24 豊島、新宿
2/13 文京、台東
2/14 渋谷
2/16 北
2/17 板橋
2/21 荒川、葛飾、江戸川、墨田
2/22 世田谷、目黒
2/27 品川、大田
3/1午前(足立)、江東、千代田、中野、杉並、練馬
3/1午後 港、中央

足立区は、北千住の出張所に行ったら、区役所まで行けばある(有料)という。今まで訪ねた場所で「ありません」といわれ、かつ有料であるのは23区でここだけ。区役所は東武線の梅島駅で、しかも離れているので多忙なその日は諦めた。

中野区は、さっと出してもらえたのがとても小さくて、簡単なものだったのでがっかりした。

文京区は、今まで本郷図書館と同居する汐見地域センターで何回か地図をもらっていて、そのたびに違う。更新するたびにスタイルを変えるのか、同時期に何種類も出回っているのか、知らない。

北区は、近くの田端区民センターでは防災地図しかなかった。王子の北とぴあでは北区観光ガイドマップという大型一枚地図をもらったが「ちょっと情報が古いんです」と窓口の人が恐縮されていた。

板橋区は、下赤塚区民センターに行った。ほかの区と違い、大型一枚地図なのだが小さく折りたたまれて、裏表に硬い表紙がついている。つまりポケットに入れて区内を散策できるようになっている。私はその日、そこから近い板橋区立植物園に行った。

2月21日は京成電鉄の都内区間乗り放題という切符を買って、一気に東京東部の4区を周った。京成沿線は古くから住宅が密集してしまったため、埼玉などと違い駅前はどこも広場がない。区民事務所もこじんまりとしたものだった。

その翌日は世田谷区、目黒区の地図を求めて下北沢、駒場、大橋を歩いた。前日とは違い、立派な家の間の道を歩き、区民センターも立派だった。東京西部の人は中央まで、東部の人も中央までしか行かないから、東西が交わることもなく、まるで違う都市のようだった。はっきり言うと、西部のほうが金持ちに見えた。西部のほうにも貧乏な人はいるし東部にもお洒落で金持ちはいるのだが、街並みは明らかに違う。

大田区、品川区は駅に近いところに区民事務所があるという印象。
品川区の地図は墨田区に次いで2つ目の区役所でもらった。どうせなら各区の区役所を見てみようと以後はできるだけ区役所訪問にする。

翌々日の3月1日は地下鉄乗り放題切符で朝から動いた。足立区役所だけは地下鉄が行っていないので北千住の区民事務所で済まそうと思ったが地図がなかったのは前に書いた。しかしそのあとの江東、千代田、中野、杉並、練馬、港、中央はすべて地下鉄駅から歩いて区役所で地図を入手した。当たり前だが区役所は区によって姿が違い、そこには少し区の特徴が表れているような気がした。
ちょうどマイナンバーカード申請のマイナポイント付与締め切りと確定申告の時期でもあり、どの区役所も多くの区民が訪れていた。服装なども少しずつ違っていただろうか。

さて、22区の地図を手にして改めて中を見る。
中野区を除くとどれも精密で美しい。

思えば、1977年春、目黒区駒場の寮から文京区本駒込のアパートに引っ越してきたとき、転入届けを出した日に一枚地図をもらった。
その出張所がどこだったか記憶にないが(多分廃止された)、地図は大きかったけれど今のように情報量が多くてきれいなものではなかったことを覚えている。

22区の地図一覧

22枚の地図は、それぞれ違う。
縮尺をみると千代田、中央、荒川、台東、文京など小さな区は、地図化での縮小はゆるやかでよいが、いっぽう練馬、江戸川、葛飾など大きな区は縮小率が大きい。
そこで面積を調べてみた。東京都の公式サイトにあったので、人口も併せて載せる。

    人   平方キロ 密度
千代田区 66,687 11.66 5719 
中央区 170,475 10.21 16697 
港 区 257,776 20.37 12655 
新宿区 346,028 18.22 18992 
文京区 239,624 11.29 21224 
台東区 212,032 10.11 20973 
墨田区 272,158 13.77 19765 
江東区 523,631 43.01 12175 
品川区 418,658 22.84 18330 
目黒区 284,282 14.67 19378 
大田区 740,312 61.86 11968 
世田谷区 937,615 58.05 16152 
渋谷区 241,998 15.11 16016 
中野区 341,843 15.59 21927 
杉並区 586,102 34.06 17208 
豊島区 297,751 13.01 22886 
北 区 352,925 20.61 17124 
荒川区 216,588 10.16 21318 
板橋区 580,746 32.22 18024 
練馬区 750,075 48.08 15601 
足立区 692,322 53.25 13001 
葛飾区 450,868 34.80 12956 
江戸川区 690,645 49.90 13841 
(合計) 9,671,141  627.53 15411 
令和4年1月1日現在(総務局統計部)

23区あると順位をつけたくなる。

市町村コード 地図縮尺 面積順 人口順 密度順
1 千代田区 1:7,500 19 23 23
2 中央区 1:7,500 21 22 13
3 港 区 1:8,000 12 17 20
4 新宿区 1:10,000 13 12 8
5 文京区 1:8,500 20 19 4
6 台東区 1:8,500 23 21 5
7 墨田区 1:10,000 17 16 6
8 江東区 1:12,000 6 8 21
9 品川区 1:10,000 10 10 9
10 目黒区 1:10,000 16 15 7
11 大田区  なし 1 3 22
12 世田谷区 1:13,000 2 1 14
13 渋谷区 1:10,000 15 18 15
14 中野区  なし 14 13 2
15 杉並区 1:12,000 8 6 11
16 豊島区 1:9,500 18 14 1
17 北 区 1:11,000 11 11 12
18 荒川区 1:8,000 22 20 3
19 板橋区 1:15,000 9 7 10
20 練馬区 1:13,000 5 2 16
21 足立区  なし 3 4 18
22 葛飾区 1:15,000 7 9 19
23 江戸川区 1:15,300 4 5 17

地図の縮小率が一番小さいのは、1/7500の千代田、中央。この2区が一番狭いかと思ったら19位、21位である。23位台東、22位荒川のほうが狭い。文京区も20位で19位の千代田区より狭いのは意外だった。縮尺は区の形、紙の大きさで決まるから、縮尺順位と面積順位は少し異なる。

一番広いのは埋め立てを盛んにしている大田区。内陸の世田谷を抜いた。
3位以下は、足立、江戸川、練馬、江東と続く。戦後23区としたときに田舎だった周辺部か、埋め立て可能な沿岸部である。
へーぇ、大田区は台東区の6倍も広いのか。

人口は世田谷が一番多い。93万人とは政令指定都市と同じくらい。
大正時代1920年は台東区(下谷+浅草)が今より多い44万人だったのに対し、のちに世田谷区となる村々の合計はわずか4万人であった。昭和22年の世田谷区成立のとき台東区の5.7倍の面積だったのは当然だった(台東区は空襲で人口激減、戻らなかった)
世田谷以下は、練馬、大田、足立、江戸川の順。旧東京市の外だったから面積も広くて宅地拡大の余地が大きく、戦後の人口の急増を吸収した。
一番人口が少ないのは皇居や丸の内のある千代田区。世田谷区の14分の1である。

人口密度は千代田区を除けば、あまり差はなく、1平方キロあたり1万人から2万人が多い。23区内は均一に密集していることを示す。
千代田区に次いで人口密度が低いのは、大田区と江東区。前者は羽田空港や大井競馬場など、後者は有明や夢の島など、埋め立て地が多く、人が住んでいないところがある。
逆に密度が高いのは、豊島、中野、荒川、文京、台東、墨田の順で、大きな工場や河川敷公園などのない区である。

集めた地図は壁に貼るわけでもない。
目的が集めることだったから用がない。
しかし額に入れて毎日眺め、月ごとに変えれば、23区それぞれ興味がわいてくるかもしれない。
一周するのに2年か。
残りの人生を考えると長いような短いような。


地図集めブログ

2023年3月12日日曜日

ジャガイモの芽だけ植える画期的方法

12月に次女夫婦と長野へいったとき、車だったので大量の野菜をもらってきた。

それらのうちジャガイモが食べきれず、2月になってふと見ると芽が派手に出ていた。
2023‐02‐15 6:41
これだけ芽が大きいと芋ごと捨てる人もいるだろうが、私は食べる。
しかし早く処理しないと本当に食べられなくなってしまう。

全体の3分の1ほど台所に持ってきて、包丁でえぐるように芽をとり、茹でることにした。
7:11
芽と可食部
よく見ると芽の出た付近は緑色になっている。
青いトマトと同じように、この部分にソラニンが含まれているのだろうか?
するとジャガイモは芽が有毒というより、その周りの緑の部分が良くないのかもしれない。
ステロイドアルカロイドだから加熱しても毒性は消えない。

この芽は普通捨てるだろうが、私は植えてみる。
さて、どこに植えようか。
ちょうどダイコン畑の27本のうち22本収穫したスペースがあった。
そこには、今季鍋で食べたネギの根っこ部分を植えていたが、それらを移動し、30個の芽のため準備した。
15:15
大きさで分けてそれぞれの成長を比較する予定。

2023‐02‐15 15:21
発芽したと言ってもまだ寒い。
そこで芽がすっぽり地中に埋まる深さに(手前2つのように)植えた。
そしてビニールで覆った。

芽がさらに伸びて地中から緑色が出たのはいつだったか記録しなかったが、3月初めにはすべて順調に姿を見せている。
2023‐03‐04
健康そうなジャガイモの発芽
世間ではこの頃に種芋(まだ発芽していない芋)を植え付けるから、わが菜園は大分早い。

さらに暖かい日が続き、すくすく育っていく。
2023‐03‐08
芋部分の大きさと苗の育ちの間には(予想に反して)大して差がなかった。
2023‐03‐08
種芋のを植えた場合とそん色ないのでは?

もしこれで芋がそこそこ取れたら画期的かもしれない。
1.しっかり芋を食べて芽だけ埋めるから無駄がない。
2.世の中より1か月近く早いから、収穫も早いかもしれない。そうすれば後作野菜の選びに自由度が増す。
2023‐03‐10
少し間引きした。
種芋を埋めた場合、芽が多く出るから一株当たり芽を2~4本になるよう芽カキをしなくてはならない。しかし、この方法は一株当たり芋のごく一部、芽の部分しか埋めていないから最初から発芽本数が少なく芽カキの手間があまりない。

芽を捨てずに植えようと思ったのは、毎年生ごみとして畑に捨てていた「皮」から芽が出ていたからである。もちろん小さな芽だから芋にならなかった。

しかし今回は皮のときよりずっと芋の部分が多いから地上の茎が太くて立派。大いに期待できる。

ちなみに上の写真は全体の3分の1ほど(第1次、2/15植え付け)である。
第2次は2/22、半分は露天、半分はビニルハウスにしたところ、露天はまだ葉が出ていないが、ビニールハウスは葉がでている。
第3次は,2/27に植えつけた。ビニールで覆ったがまだ地上に葉は出ていない。

調子に乗ってせっせと芽ばかり植えて夏野菜のスペースがなくなりそうである。

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