1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通った。そして右手に日米の軍艦を見ながらヴェルニー公園を歩いてきた。
11:01
いずも型ほか護衛艦が数隻
11:02
戦艦陸奥主砲
砲身の厚さに驚いた。
1トンもの砲弾を38キロメートル(横須賀から品川、木更津)まで飛ばす大爆発に耐えねばならないといえば当然か。
陸奥は同型艦・長門とともに第一次大戦後の海軍近代化の柱である八八艦隊の最初の艦として1921年竣工した。1943年柱島で謎の爆沈をしたが、戦後引き上げられた。ここに飾られた理由は横須賀海軍工廠で建造され、横須賀を母港としたからだろう。
時代を画したといわれるイギリス海軍の戦艦ドレッドノートは各国海軍の目標となりドレットノート級、略してド級戦艦が次々つくられた。陸奥はそれを超える超ド級戦艦だった。竣工直前の1921年ワシントン軍縮会議があり、一度は廃棄されそうになったが、長門とともに最新鋭艦であることから交渉し、残された。その代わりアメリカはコロラド級3隻の建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認められた。この時残った日米英の超ド級戦艦7隻は1935年第2次ロンドン条約から日本が脱退、無条約時代となり20年後の1940年代に大和級、アイオワ級が登場するまで世界七大戦艦(ビッグ7)といわれた。
ヴェルニー公園はJR横須賀駅の前まで続き、その終点にヴェルニー記念館がある。
入場無料、入ってみた。
横須賀は今も昔も軍港だが、この記念館は近代製鉄の始まりとしての横須賀を展示している。
特にみるものがなかったが図書コーナーの本が良かった。
11:10
終戦時に横須賀にあった旧軍施設
右はアメリカ第7艦隊司令長官一覧
横須賀海軍工廠・歴代工廠長一覧(左)
初期は少将、昭和13年から中将のポストとなった。
機関中将、主計中将の人がいることもあり、有名人は少ない。
私は正木義太と山梨勝之進しか知らない。
正木は司馬遼太郎が坂の上の雲を書くとき、日本海海戦の様子を知るのに、「父上が日露戦争に従軍した海軍士官で、本人も海軍士官であった人ならば当時のナマの話が伝わりやすいだろう」と正木生虎氏を探し多くを取材した。その父上である。
山梨は、帝国海軍の77名の大将のうち艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。ロンドン軍縮会議をまとめたため艦隊派から恨まれ右翼から命を狙われたが長命し、戦後の水交会(何度もブログに書いている)の初代会長となった。
いっぽう右ページは東海鎮守府、横須賀鎮守府・歴代長官一覧。
鎮守府長官は陸軍の師団長、海軍の艦隊司令と同じく中将のポストだったが、大将の人もいる。こちらは左ページと違って連合艦隊司令長官、海軍大臣や総理大臣になったような誰もが知るそうそうたる名前が並ぶ。
その中では無名に近いが、最後の古村啓蔵(代理)・少将に目が留まった。
終戦後の昭和20年11月に最後の横鎮司令長官に就任した。彼は諏訪中学出身、武蔵艦長をつとめたので信州人として記憶に残っている。武蔵を降りて第一航空戦隊司令を経て1945年第二水雷戦隊司令官となったときは日本海軍にほとんど船が残っていなかった。4月、大和を中心とした沖縄特攻のときは旗艦の軽巡矢作にいて、九州坊ノ岬沖でアメリカ軍の空襲により乗艦が沈没、海を漂いながら大和の沈没を見たという。艦とともに沈んだ大和艦長は、同じく信州諏訪中学出身、海軍兵学校同期の有賀幸作だった。同郷だったから有賀の父親が古村の兵学校入学時の保証人だった。有賀は死後二階級特進で大佐から中将になった。
アメリカ海軍横須賀基地
たぶん正門(King St)の上空から。
右上:米海軍司令部庁舎 左下:信濃が建造された6号ドック
11:14
右上:米海軍司令部庁舎(旧横須賀鎮守府庁舎)
関東大震災後に再建された堅固なもので、米軍も戦後使うことを想定して空爆しなかった。
旧海軍病院(左上)、防空壕(右下)も現在使われているようだ。
12:22
大正12年12月の全国の市の人口
円グラフというのが面白い。
呉、佐世保、横須賀などが上位にあり、東京通勤圏の市は70位までに横浜以外入ってこない。地方がまだ元気だった時代であり、いまの東京集中と違って文化の多様性があった。
彼は窓側に静かに座っていた。
たいていこういう人の説明は、当たり前のことばかりなので敬遠しているのだが、彼の話はヴェルニーと関係なく、逆に小さなことばかりなので面白かった。何も思わずに見てきたところを再び写真撮ることになった(以下)。
11:19
左のいずも型護衛艦は「かが」だという。
いずもは横須賀に所属しているが、かがは呉を母港にしており、ここに来るのは珍しいという。今朝入港したばかりで朝はカメラを持ったマニアがいっぱいいたらしい。「どこでこういう情報を知るんでしょうね?」と彼が言った。
写真右の小さく見える駆逐艦?3隻はアメリカ軍のもので半島(楠が浦町)の桟橋のようだ。
正面の陸地は長浦港と本港を分ける吾妻島である。
そのむこう、小さく見える紅白のガントリークレーンは、日産自動車追浜工場のある埋め立て地の突端にある住友重機のクレーンで、その向こうは八景島になるという。
11:23
米軍基地の建物の一つだと思っていた白くて四角いビルは、船だと教えてくださった。
ホテルシップといって、米軍兵の宿舎になっているらしい。
11:26
二隻の日本の潜水艦は高さが違う。
むこうが先月、2025年12月に除籍された「うずしお」で、艦内のものを取り外したから軽くなり、喫水が浅くなっている。こういうことは彼との話で初めて知った。
それにしても「なだしお」とか「うずしお」とか潜水艦の名前はみな似ていて紛らわしい。1954年発足の海上自衛隊は翌年初の国産潜水艦を建造した。
くろしおである。
その後、 → 初代おやしお → はやしお → なつしお → おおしお → あさしお → うずしお → ゆうしお → はるしお → 2代目おやしお → そうりゅう → たいげい、と来た。注目すべきは、これは艦名ではなく、クラス名ということである。その下に何隻もの○○しおがある。
現在はそうりゅう型12隻が主力で、2代目おやしお型は11隻、その前のはるしお型は7隻、 ゆうしお型は10隻。すなわち〇〇しおは何十隻(49隻?名前としては33個?)もある。
初期のくろしお、おやしお、くらいは良いが、なるしお、もちしお、やえしお、くらいになると名前を探すのに苦労しただろうな、と思う。ひらがな2文字という制約に加え、戦後は左翼メディアを意識したのか、少しでも平和、優しさを出そうと艦名はすべて漢字でなくひらがなにした。普段目にしない単語がひらがなになっては意味が分からないからますます艦名が覚えにくくなった。
ようやく2009年から就役したそうりゅう型から○○しおはなくなったが、○○りゅうも12隻あって覚えられない。おうりゅう、とうりゅうなどもひらがなでなく漢字なら良かったのに。
2022年から就役のたいげい型(6隻予定)もじんげい、ちょうげい、そうげい、とひらがなだと意味が分からない。
アメリカ海軍が戦後、海の主役が戦艦から空母や潜水艦に代わったとき、戦艦に使っていた州の名を戦略弾道ミサイル潜水艦SLBMにつけるようになった。オハイオクラスである。
かつて日本海軍は旧国名(戦艦)、山(重巡)、川(軽巡)を主力艦に使った。日本も潜水艦にこういう名前を使ってもいいのではないか?
日本人は山が好きで相撲取りの四股名や酒の名、列車名などにしているが、自衛隊も主力である護衛艦に山の名を使った。ところが念願の一枚甲板のヘリ空母の護衛艦が登場したとき、旧軍の航空戦艦だった日向、伊勢を使って以来、かが、いずもと続いてしまった。しかし護衛艦は山を続け、旧国名は潜水艦に使ってほしかった。旧国名ならひらがなでもわかる。四方の海中で全国土を守るという意味がある。
ところで日本海軍はのちに空母も山の名になった。天城、葛城は完成したが内地で空爆され大破横転したり、燃料がなかったりして出撃できなかった。笠置、阿蘇、生駒は完成まで60~80%の段階で終戦となった。
ちなみに艦番号について。
先月除籍され、この日浮き上がっていたうずしおは、おやしお型潜水艦の3番艦、SS-592 である。二代目であり、初代はうずしお型潜水艦の1番艦、SS-566 であった。潜水艦艦番号は初の国産潜水艦・おやしおの511から始まっている(途中抜けがある)。
しかし自衛隊は2009年のそうりゅう型1番艦から艦番号をリセットし、SS-501から番号を付けている。
いっぽうアメリカ海軍は戦前からずっと番号は継続している。たとえば今横須賀にいる原子力空母ジョージワシントンの「CVN-73」は、1920年給炭艦を空母に改造したラングレー(CV-1)、珊瑚海、ミッドウェーで日本軍に沈められたレキシントン(CV-2)、ヨークタウン(CV-5)などから続く通し番号である。
番号がずっと続いているというのは歴史がずっと続いていることである。
戦前を否定したい日本国民、マスコミとしては、許しがたいことであろう。伊勢、日向の名前の復活でもそういうことを言う人がいた。
幸いなことに自衛隊はゼロからの出発だったし、戦前の海軍はアメリカのように番号をつけていたわけではないから、番号による戦前からの連続性は全くない。
ただ、自衛艦旗(旭日旗)だけは継承した。現在のデザインは旭日がやや左寄り(旗竿寄り)だけれども。
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