2026年6月2日火曜日

上野公園14 科学博物館の旧本館、韻松亭


5月2日、次女が「母の日」が近いので我々に食事をご馳走してくれるという。
上野公園の韻松亭になったが、12時まで葛飾で畑のバイトがあるから少し遅くしてくれ、と頼んだら14:00からになった。
時間が空きすぎてしまったので妻と国立科学博物館で暇つぶしをすることにした。
12:44
上野駅公園口からまっすぐの西洋美術館の交差点。

連休の真ん中で混雑するかな、と思ったが実は平気。
なぜなら、65歳以上は西洋美術館と同様、入場無料だからだ。
タダならどんな状況でも不満はない。
12:45
木々の間にクジラのモニュメントが見える。

5月というのは若葉が一番きれいなときだ。
私が18歳で上京した年、初めて上野公園に来たのもこの時期だった。
畑さんに会ったのが東京で初めてのデートだった。
12:46
1930年竣工の本館(日本館)とクジラの模型

子連れの家族をみて、自分は3人の子供を動物園もディズニーランドも科学博物館もつれてこなかったことに気が付く。子育てはすべて妻に任せてしまい、子供たちは私の妹か弟の家族と一緒にここへ来たと思う。

私自身は千駄木に引っ越した年、2013年12月、栗山さんと来た。
12:47
入口は地階。

一般・大学生 630円
小・中・高校生 無料
開館時間 9:00 ~17:00
※最終入場は終了の30分前です。
休館日
毎週月曜(月曜が祝休日の場合は火曜)
年末年始 (12月28日~1月1日)

混雑するのはチケット売り場だが、65歳以上は素通りして入口で身分証明書を見せるだけだから並ぶこともない。
12:48
地下1階。入口を入ると左がラウンジ・カフェ、右がミュージアムショップ。
この階に展示はない

12:49
重要文化財の重厚な建物をみながら1階に上がる。

ちなみに、博物館法でいう「博物館」は公立、私立とも、所管地域の教育委員会の登録を受けなければならない。その意味で上野は「博物館法上の博物館」ではない。ここは「独立行政法人国立科学博物館法」で定められた施設である。
12:49
科学博物館は1872年湯島聖堂に設置された「文部省博物館」を起源とするが、このときは書画、骨董も含まれ、のちの国立東京博物館の起源にもなっている。

1875年、「文部省博物館」は「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。このとき一部が小石川植物園と一緒に文部省管轄となり、1877年上野(西四軒寺跡、現東京芸大の位置)に移転、「教育博物館」と改称、このときが科博の創立年となっている。

(ちなみに大きなほうの国立博物館の所轄官庁は、1881年に農商務省、1886年に宮内省へと変わり、名前も帝国博物館、帝室博物館と改称した)

さて、教育博物館のほうは1889年、 高等師範学校の附属施設となり、敷地を東京美術学校に明け渡して高等師範に隣接する湯島聖堂構内に移転した。1914年、高等師範から独立し、文部省所轄の独立した「東京教育博物館」となった。

1924〜1926年、東京帝室博物館の自然科学系部門であった天産部から動物・植物・鉱物9万4000点の資料譲渡を受ける。
1927年、上野別館竣工(東京帝室博物館が管理していた竹の台陳列館を移築したもの)
1930年、上野新館(現・日本館)竣工。
翌年、東京科学博物館と改称し、いまにつながる。



地階の入り口から一階に上がる。北翼は企画展示室で絵本展のようなものをしていた。
常設展は南翼から始まる。
12:50
最初の展示室・日本館1階南翼に入って最初の展示
田中久重の万年時計である。(別名・万年自鳴鐘、重文、機械遺産)
入場者がワクワクしながら一番最初に出会う展示であるが、これは2013年初めて来た時と変わっていない気がする。

国立科博の500万点以上の資料のうち、常設展では1~2万点が飾られている。その中で一番いい場所に長年置かれているというのは意味があるだろう。

田中(1799-1881)は久留米のべっこう細工職人の子に生まれ、15才の時久留米かすりの幾何学模様を布に織り込む機械を考案。さらには当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となった。
20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。

1834年には大阪に上り、折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、1847年に天文学を学び、1850年には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。この頃に蘭学塾に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。1851年には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う当時の不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動く「万年自鳴鐘」を完成させた。これが今上野でみる万年時計である。

その後、西下して1853年、蘭学狂いといわれた閑叟鍋島直正の肥前佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造、また、反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。

明治になって73歳の1873年、東京に移る。明治8年京橋区に電信機関係の店舗兼工場を設立。明治14年82歳で死去。
久重の死後、養子の田中大吉(田中久重の2代目を襲名)が引き継いで芝浦に「田中製造所」を設立。後に株式会社芝浦製作所となり、東京電気株式会社と合併し、東京芝浦電気となった。のちの東芝である。

若いころからの独創と工夫。最初の展示物にふさわしいと思った。
このあたりは江戸時代の天文関係の展示物が多く、当時の暦もあった。
12:52
貞享暦(1685施行)とその版木
読めない文字が多かったが、逆に自分の暦に関する知識から文字を推定したりするのも楽しい。
しかし、その細かくとも毛筆のような文字をきれいに再現する版木の精巧さに一番驚いた。職人の器用さに加え、硬い板材にも注目される。
12:56
こういうものはこちらに知識がないと面白くない。

近くには天文のほかに関東大震災(1923)の資料が並んでいる。

そういえば、湯島時代の科学博物館はこの地震ですべての建物、資料を失った。1924年3月、関東大震災に関する資料などを調査、収集した物を湯島聖堂構内に建てられた仮建物で公開した。
13:00
今村式2倍強震計
地面の東西、南北、上下の振動3成分を2倍に拡大して同時に煤紙に記録したもの。
今村明恒は東大助教授時代に関東では周期的に大地震が起こると予想し、それが雑誌、新聞に大々的に取り上げられたことから教授・大森房吉らから「世間を不安に与える浮説」として批判された。しかし、実際に地震が起きたことで一気に彼の名声は高まり、この年に死去した大森の後を継いで東大地震学教室の教授となった。私のこの知識は吉村昭の小説「関東大震災」による。
12:53
地震動軌跡模型
これは関東大震災ではないが、関谷清景(東大地震学教室初代教授)が明治20年東京での地震の円盤地震計の記録を基に、地面の動きを再現したもの。時間の次元が入った空間の動きを静止した立体であらわすのは、映像がなかった時代、独創的だったのではあるまいか?
地震学というのは予知という点で無力だが、記録することはできる。

二階に上がる。
生物標本がいっぱいある。
13:03
各地のイノシシ
近年クマとともにテレビでニュースになっているイノシシの大きさが分かって良かった。
しかし、地域によるばらつきなのか個体差なのか、統計的な数字も欲しかった。
13:08
地震の大きさと震源の深さ
分厚いアクリル板の中に点を置くことで二次元での地震帯だけでなく、三次元的な帯も表現されている。
13:09
1600まで年輪を数えてある屋久杉。
13:10
年輪は外側の樹皮の形成層が細胞分裂してできるから外が新しい。
だから年輪は内側から数えるのが理にかなっている。それが1600あったら「1600年前に生まれた」というより「1600回目の年輪をつくった」と解釈するべきである。同じことだけれども。
13:11
ヒグマ、タンチョウツル、キタナキウサギ、アカギツネ
いずれも北海道。
日本の狐はアカギツネというらしい。北海道のはキタキツネ、本州のはホンドキツネという亜種だとか。

最上階の3階は鉱物標本がある。
剥製よりこういうものが好きな子供は多いだろう。
小学生のころ、箱山の石英や、桜沢の水晶を自転車でとりに行ったころを思い出す。
数年前、車で現地を訪ねたが、もうどこだったか分からなくなっていた。
13:15
石英(煙(けむり)水晶)
甲府産
「ふつうのガラスとは違う石英の「ひんやり」した感触が分かるだろうか。また本当の結晶面は完全に「つるつる」ではなく、結晶が成長していくときに作る細かい縞模様や凹凸があることにも気づくだろう」
でも、みんなでなでていたら「つるつる」にならないのかな?
ひんやり感は同じ大きさのガラス塊を隣においてくれないと分からない。
13:15
あられ石 島根県産
こちらはケースに入っている。
成分はCaCO3だからSiO2の石英とは全く違い、石灰岩、大理石と同じである。

13:19
葉っぱ(シダ類?)の化石
こういう有機物がなぜ石になるのかまだ分からない。
葉っぱは水分とセルロースでできていて、セルロースは微生物で水と二酸化炭素になる。
微生物がいないとセルロースが炭化して残るのか、あるいはセルロースが消えても接触していた泥の面が跡として残っただけなのか、後者のような気がする。

13:23
アンモナイト
骨や貝殻はCaCO3などだから酸性でなければ残る。
アンモナイトを北海道などで専門に(趣味で)採集し続けている人がいることを知った。

13:27
3階、南翼と北翼の間
13:29
1930年竣工の日本館(旧本館)は上から見ると飛行機の形をしている。
当時の科学の粋を集めた象徴だったのだろう。
南翼、北翼の呼称もここで生きてくる。

13:33
このあたり、日本人の祖先の暮らしの展示。
人形が生きているようにリアルである。
写真が実物を忠実に再現したように、近年の技術は立体像をも限りなく実体と近づけるだろう。
13:33
30年以上昔、アメリカの博物館で動物や人物の写実性に感心し、その制作に携わる美術関係者の技術に思いをはせたが、いまはコンピュータがある。

一角に人混みがあった。
13:33
近づくと江戸時代のミイラだった。
谷中三崎坂の遺跡というから、家のすぐそば、千駄木団子坂の向かいである。

ごく短時間に覗いたくらいだったが日本館を見終わり、入口のある地下1階に降りた。
13:39
クジラカフェ
五月の連休である。
大人はこういう混んでいるところは食べたくないが、子供は何でも食べたい。

地球館のほうに歩いて南側の外に出て、レストランのほうもいってみる。
前回、2013年に初めて入ったときの記憶を呼び出したかったからだ。
13:45
レストラン・ムセイオン
「待ち時間の目安:60分」とあった。

券売機またはwebで受付を済ませて、また展示を見に行ってもいいようだ。
しかし何分後に案内されるか、正確な時間は分かるのだろうか?
スマホにお知らせでも来るのかな?
13:45
「お呼び出し済みの受付番号」が16組もいる。
それらのテーブルは空けて待っているのだろうか?
かはくカレーライス 1000円 
牛フィレ肉ステーキ丼 1800円
ローストビーフプレート 2300円

13年前はカレーを食べたことを覚えている。

こちらは14:00に韻松亭なので、見学を切り上げることにした。
13:46
出口に急ぐ途中、地球館がちらりと見えた。

一部しか見られなかったが割と面白かった。
近いうちにまた来よう。

家族連れのにぎやかな上野公園イベント広場から中央通りを通って韻松亭にきた。
13:58
まだ次女一家は来ていなかった。

私は2013年8月以来2度目だが、妻はママ友のランチ会で何度も来ているらしい。

トイレに立った時、少し写真を撮った。
湯島の江知勝など、記録する前にいつのまにか閉店、壊してしまったからである。
15:26
外を見ながら並んで食事できる席がある。
15:27
階下の帳場
15:27
斜面に建つから庭のあるところが二階になる。
15:27
よく考えたら、ここは江知勝とちがって、閉店したり建て替えたりしないかもしれない。
なぜなら、明治8年開園と同時に創業のため、特例として東京都から営業を許されているはずであり、建て替えは許可されないだろう。雨漏りの修理すら不自由だと以前、新鶯亭だったか茶店の人に聞いたことがある。だから、建て替えたら営業許可の更新はなく、古いままの店舗で営業しているのだろう。
春日通りに面してマンション用地として売却してしまった江知勝とは事情が違う。
15:27
16:17
ごちそうさまでした。

外に出ると外国人を含む観光客がいっぱいいた。
以前来たときは歩いて帰ったのだが、年のせいかその気が起きなかった。
科博がみえる西洋美術館の交差点は相変わらず人で混雑していた。
2歳になる孫は父親の手を引っ張って、あっちへ行ったりこっちへ行ったりなかなか駅につかなかった。


 20210305 上野公園9 韻松亭から精養軒、梅川亭を歩く

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2026年5月20日水曜日

岡山10 烏城の縄張りと後楽園、岡山朝日高校、池田氏

4月22日、早朝岡山について美作など山間部や瀬戸内方面を除いて、中央部を回って夕方、17:35 岡山駅に戻ってきた。

岡山は思ったよりおしゃれな都会で、そのことは前のブログで書いた。

そこに書かなかったこと、すなわちタイトルのことなどを書く。

17:41
上が南。左が東。
一番見たいのは日本百名城の一つ岡山城だった。

桃太郎通りという駅前の広い通りをまっすぐ東に向かった。
途中、朝からの強行軍が祟ったのだろう、なんと脚(太もも)がつったが、何とか収まったので再び歩き始めた。

桃太郎通りは城下筋(しろしたすじ)までで、そこから烏城道(うじょうみち)をいくと石山公園という小さな公園があり昔の地図があった。
17:58
地名由来碑案内図
岡山城の縄張りがわかって見入った。
この碑がある石山公園一帯は西之丸の北の堀だったようだ。石山自体は西之丸になり、その南に家老屋敷などがあった広い二之丸があり、本丸と合わせてこの3曲輪が内堀に包まれた内城だった。
これらの西に三之曲輪(町人地)、中堀、三之外曲輪(武家地)、二十日掘(外堀)があり、その外に寺社、武家地、町人地があったようだ。
すなわち本丸を一番奥にして西に広がる梯郭式である。

西国街道が書いてあった。
京都羅城門(東寺口)から長崎まで五街道に次ぐ街道として幕府が整備した街道である。東からきて備前一宮に行くには城の北を通ったほうが近いが、わざわざ南を通して城下町を通過させた。すなわち、岡山城の南をきて、旭川をわたり、二の丸の南にあった大手門の前を通り、北に曲がり三之曲輪を北上した。(これが三之曲輪が町人地である理由だろう)
西国街道は今の桃太郎通りのあたりを西に曲がって二十日掘を越えて再び北上、西に曲がり、いまの岡山駅の北を通って、備中一宮、備中国分寺のほうに向かった。

石山公園を抜けると旭川に出て東に岡山城が見えた。
17:59
左:後楽園 右:岡山城天守

旭川は吉井川、高梁川と並び岡山三大河川の一つで、河口付近は高低差がないためデルタ地帯を形成した。そのなかの一つの中州に築かれたのが岡山城である。
ちなみに今の後楽園は中州ではなく、堀の役目をさせるために旭川を引き込んだ結果らしい。
岡山城周辺の地形
大島原と呼ばれた中州には西北から天神山、石山、岡山と小さな丘がつながっていて、これらは南北朝時代から要害として使用されていたという。
戦国時代になって宇喜多直家(1529-1581)が1570年この地にいた金光宗高を謀殺し、中央の石山にあった石山城に入城・改築した。後に子の宇喜多秀家(1572‐1655)が東の岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が作られた。
(天神山は、のち鴨方支藩屋敷や社倉米の蔵がつくられ、現在は美術館などが並ぶカルチャー地区になっている)

岡山城には東に回りこんで裏から本丸に入る形になった。
18:02
岡山城天守と廊下門
さて、宇喜多直家は浦上宗景の家臣であったが、最初は信長、のち毛利と組んで浦上宗景を駆逐した。
1575年さらに、備中松山城のところで書いたが、毛利の力を借りて三村元親を滅ぼし、備前のほか、備中美作の一部まで手に入れた。

羽柴秀吉の中国侵入には当初は毛利方として対抗した。しかし、
1579年、毛利を離れ信長・秀吉方についた。毛利-織田の対立のさなか、直家は死去し、子の秀家が幼くして跡を継ぎ叔父・忠家らが後見した。

1582年、羽柴・宇喜多軍による高松城水攻めのあと、中国大返しの秀吉が岡山城に立ち寄り、養女・豪姫(前田利家の娘)と秀家の婚約が成立した。
宇喜多秀家(八郎)は元服すると秀の字をもらって、豊臣家の一門として遇され、57万石、五大老の一人となった。

関ケ原の合戦では西軍主力として健闘したが、ねねの甥で同じく秀吉一門として遇されてきた小早川秀秋の裏切りで総崩れとなった。その後、敗軍の将として薩摩でかくまわれた後、徳川方に引き渡され、命は助けられたが八丈島に流され、そこで関ケ原の武将の中ではもっとも長命した。
18:03
左:廊下門の一部、右:月見櫓

宇喜多家が改易された後、岡山城には備前・美作52万石で小早川秀秋が入城した。
しかし2年後の1602年、秀秋は急死し、跡継ぎのいなかった小早川家は断絶した。

かわって岡山城は、姫路52万石(徳川政権で8番目)の池田輝政の次男(実際は五男)忠継に備前28万石の居城として与えられた。しかし忠継は5歳であったため、長兄の利隆(輝政嫡男)が岡山城に入り代わって統治した。利隆は石山城を西之丸として整備したと言われている。
(ちなみに池田輝政は秀吉政権の外様大名であったが、五男・忠継の備前岡山藩28万石、六男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。家康の娘(督姫)婿でもあり、家格は大いにあがり、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤を築いた。)

池田忠継は16歳になって姫路から岡山城にお国入りしたが、翌年急死し、元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄(輝政の六男)が淡路より31万5千石で入封した。その忠雄も31歳で亡くなった。長男の光仲が継いだが、幼少だったため山陽道の要衝岡山は荷が重いと因幡鳥取藩に移封され、代わりに鳥取から池田光政が入った。光政は利隆長男、すなわち輝政の嫡孫であり姫路42万石を継いだが、彼もまた幼少であったため姫路は荷が重いと鳥取32万石に減転封されていた。すなわち輝政を祖父とするいとこ同士の交換であった。
以後、光政すなわち輝政の直系が明治まで岡山城の主となった。
岡山城本丸
廊下門から中に入った。
本丸は岡山の上に作られたから本段、中の段、下の段の3段になっている。
下の段から中の段に入ったわけだ。

本丸は明治23年(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられたたが、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896)には本丸趾に県立岡山尋常中学校が建てられた。のちの岡山朝日高校である。空襲で焼失したが、戦後も本丸中の段、下の段に校舎が再建され、六高跡地に移転するまでここにあった。

ちなみに、本校は1921年第二岡山中学ができて第一岡山中学となった。戦後1948年岡山一高となり、岡山第二女子高等学校と合併して岡山朝日高校となった。そして第二岡山中学は第一女子高(もと岡山高女)とたすき掛けのように合併して操山となった。すぐの1950年朝日・操山は総合選抜となり(このあたり教育県・岡山らしい)、この年から朝日は城内から六高跡地に移転を開始した。校地は市電で旭川を東にわたった終点にある。
18:05
不明門
廊下門から中の段(ここ)を歩いてきて、不明門から天守のある本段に上がる。

本丸だけでこれだけ広いのだから天下の名城、日本百名城の一つというのもうなづける。
18:06
本丸、本段の天守
おしゃれに並べられた提灯には池田家の家紋、蝶が描かれている。アゲハ蝶だが、蝶紋は横から見たものも多く、鎧風の、標本のように羽を広げて伏せた形は池田家の家紋として備前蝶と呼ばれる。
18:07
戦前の国宝だった岡山城天守は空襲で焼失。
戦後1966年、鉄筋コンクリート造で外観復元した。
中は博物館のようである。

もう夕方だから人もほとんどいない。
18:09
岡山城天守閣礎石
再建は元の場所に鉄筋コンクリートだったから礎石が余った。
この場所に移し、元の寸法で並べた。
外国人夫婦がみていた。説明板をスマホで通過させて翻訳されたものを読んでいた。
今まで説明板に日本語、英語ときに中国語と同じ内容を3回も書いてスペースの関係で情報量がわずかしかないことがよくあった。今後はそんなこともなくなるだろう。

不明門から本段を出て中の段に戻った。
18:11
左:不明門 右:本丸下の段
下の段の右側に本丸南の堀がある。

18:12
中の段から西側の内堀をみる。
来るとき通ったカラフルな岡山シンフォニーホールの丸ビルが見えた。
18:14
中の段、初期の石垣
岡山城は宇喜多秀家の時代から何度も拡張、修築されてきた。
中の段は岡山一高のあった場所だが、移転後とくに90年代になってから発掘が行われ、初期の石垣が出てきた。

アジア系外国人のグループとすれ違うように本丸を出た。
旭川を渡って後楽園に行く。
18:17 月見橋
本丸は東の端にあったからこれを防備するため、旭川の水を引き込んで内堀とした。
本流との間に中州ができ後楽園となったが、非常時は城郭の一部となるのだろう。

旭川を大きく湾曲させたため、城下がしばしば水につかったらしい。江戸時代初期に鳥取から来た池田光政の命により東に百間川という放水路を作った。幅百間とは180メートルである。
18:21
川に沿って遊歩道は、後楽園が閉まっていても歩ける。

水戸偕楽園、金沢兼六園と共に日本三名園の一つとされる。
名前は小石川後楽園のほうが早い。今なら同じ名前はつけないが、当時は儒教とくに朱子学が教養として盛んで、後楽、偕楽などは君主の徳を示す言葉として共有文化だったから重複しても付けた。
小石川後楽園は光圀の時代、1629年に着工され、岡山後楽園は池田綱政が1700年に築いた。小石川とか岡山が付いたのは明治以降、双方を区別するためだった。水戸偕楽園は江戸末期斉昭の時代1842年である。

(ちなみに兼六園は6つの景観を兼ね備えているという意味で、駒込の六義園はたしか詩歌の6つの基本形?から来たと思った。)
18:25
岡山後楽園入口
外国人夫婦は本丸天守閣前からずっと一緒。
私と同じペースで歩いている。

後楽園の入場券売り場に向かい合っている県立博物館の北に橋があった。
18:28
鶴見橋(後楽園通り)
これを渡って市街地に戻った。

後楽園通りから城下筋に入って南下する。
右手に岡山県立美術館、RSK山陽放送、岡山市立オリエント美術館が並んでいた。
道に傾斜があり、天神山の出城があったことが分かる。

岡山城の巨大さは姫路城とともに島津、毛利などの西国大名の東進に備えたものだろう。姫路は三河以来の譜代大名を置き、岡山は外様と言えど家康の二女の婿で秀吉死後一貫して徳川についていた池田家に任せた。日本海側の分家の因州池田家とともに西国の抑えを期待された。

岡山、鳥取ともに池田家は国持大名として明治には侯爵に列せられた。岡山の支藩として生坂藩、鴨方藩、福本藩があり、鳥取藩の支藩には鹿奴藩、若桜藩がある。

今に続く話としては、岡山市の池田動物園。
最後の岡山藩主・池田章政のひ孫・池田隆政と昭和天皇の第四皇女・厚子さまが昭和27年(1952)、10月に結婚し、翌年2月、夫妻により池田動物園が開園した。(北海道の池田牧場は関係ない)
鳥取藩池田氏については、東京国立博物館の屋敷門しか思いつかない。

岡山県だけでブログ10本になった。
滞在は一日だけだったが密度は予想以上に濃く、岡山はだいぶ身近になった。


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