2026年8月22日土曜日

佐久市の合併前の町と小海線の路線名

8月15日、信州の実家に帰省した。今年、叔母、叔父がなくなったが葬儀に行かなかったので新盆に線香をあげようと思った。
日帰りだが、途中、佐久に寄ってみようと思い、朝一番の新幹線に乗った。

最寄りJR駅は西日暮里だが、ふだん新幹線は大宮から乗っている。
退職前は大宮まで定期券をもっていたし、定期がなくなってからもそう。長野まで乗車券、特急券とも西日暮里を起点とすると大幅に上がる。片道8130円。一方大宮からなら6580円。1550円も違う。大宮までの運賃を普通の乗り越しで払っても1150円違うのだ(2025年)。そのうえ、上野から乗るときはいったん逆方向に行くのと、上野ー大宮間は速度も大して上げていないのか、時間はほとんど変わらない。
それに今でもダンスのレッスンを受けに大宮まで通っているので、大宮まで行くのに慣れている。

ところが今回指定席をとらなかったので、座れる確率が高い上野から乗ることにした。
6:32
東京駅から来たはくたか551号はガラガラ
15日の早朝ということもあるだろうが、これなら大宮から乗ってもよかった。

日暮里駅のあたりで地上に出た。
いつも通る田端、王子、赤羽などは少し高いところから見るだけで景色は新鮮だった。
写真を撮ろうとしたが、どれも過ぎてしまい、大宮についてしまった。
6:52
大宮駅
1981年から2013年まで大宮周辺の3か所に住んだからここは通過、乗換、買い物駅としてずいぶん世話になった。千駄木に引っ越してからも勤務先は大宮の先だった。
1982年に東北新幹線の始発駅となり、埼京線が開業した時は東日本最大の駅といわれ、大宮はどんどん発展するかと思ったが、そうでもなかった。

はくたかは大宮を出ると熊谷、本庄早稲田、安中榛名をとばし、高崎、軽井沢に止まって佐久平についた。ここで小海線に乗り換える。

佐久は国道18号、信越本線という軽井沢、小諸、上田を経て長野に向かう主軸から外れている。これらは北佐久郡を通っているが南の佐久市は通らない。だから今まで行ったことがなかった。上信越自動車道、北陸新幹線が佐久市を通るようになっても素通りするだけだった。
7:50
佐久平の駅舎から浅間の裾野が見える。
小海線の発車は8:02だが、外は古い街がなく駅から出たいと思わなかった。
あとで調べたらショッピングモールとか新しい商業施設ができているらしい。

佐久は東信の中心である。「信濃の国」にも一番後半で「松本伊那佐久善光寺、四つの平は肥沃の地~」とうたわれた。しかし、長野県の他の市すなわち松本上田飯田などが中心となる町を核に大きくなったのに対し、佐久はそうではなかった。市の名前も他が核となった町の名であるのに対し、佐久はもっと広い、ぼんやりした郡、地方の名である。
千葉や仙台などではなく、相模原市のようである。

もともと南北の佐久郡すなわち千曲川沿いには岩村田、野沢、中込、臼田といった古くからの町があり、前3者が1961年に合併して佐久市が誕生した。日本の多くの市ができた昭和の大合併は1953年から始まり信州中野、須坂、飯山、小諸など多くは1954年にできたから、佐久市というのは比較的遅い。
おそらく3つの町がまとまらなかったのだろう。
岩村田は岩村田藩(内藤15,000石)の陣屋町、中山道の宿場町で明治22年の町村制施行と同時に町となった。野沢は明治30年には町制をしき、1901年には上田中学分校として旧制中学が設立された(のちの野沢北高)。1911年には町立野沢実科高等女学校(のちの野沢南高)もできた。
中込は町となったのは1919年だが、明治8年(1875年)に完成した旧中込学校(県宝、国の重要文化財)がある。国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物である。
この佐久市に、2005年平成の大合併で、北西の望月町、浅科村と南の臼田町が吸収され、人口は飯田を抜いて長野県4位となった。望月町は中山道の宿場があったし、臼田町は1893年には町制をしき、農村医療で有名な佐久総合病院(本院)がある。
要するに佐久市は核が一つではない。
だから佐久市を見ようと思ってもどこに行ったらいいか分からない。

小海線乗り場のほうに通路を歩いていくと、改札もなくいきなりホームがあった。
無人駅と考えれば当然なのだが、新幹線の駅舎の新しさから意外性がある。
7:59
小海線の佐久平駅は1997年新幹線が交差することで地元負担によって新設された。
普通、在来線と新幹線が交差するときは新幹線が上を通るのだが、ここは在来線が上である。
幅広2本の線路を高く作るより単線を高架にするほうが簡単なのかと思ったが、ちゃんと理由があったらしい。新幹線はこの駅の東も西も地下トンネルに入るため勾配関係から地上にしたほうが良かったのだという。
8:01
新幹線の駅だが小海線のほうはプラットホームが一つだけ。
二本あれば電車が来る方向がわかるが(左側通行)、これだとどっちから来るかわからない。
殺風景な景色に浅間がないから右から来るかな、と思ったら当たった。

列車に乗り込んでから切符がないことに気が付いた。
新幹線改札を出てから落としたらしい。降りて探そうか、いや、そんな時間はないだろう、と思っているうちにドアが閉まった。
小海線はワンマンカーと無人駅だから降りるときにごたごたすると迷惑になると思い、次の駅で停車中に運転手に申し出た。
「新幹線を降りるとき2枚のうち1枚とらなかったんですかね?」と言われた。確かに1枚とったのだが、いいえ取りましたといっても意味がないので、そうかもしれませんといった。
「途中で運転手が変わるので申し送りしておきましょう」といってくれた。

先日も地下鉄24時間券(700円)を買ったらすぐなくしたばかり。年だろうか?
8:15
列車ドアの上の駅名一覧は絵地図になっている。
小海線は小諸と小淵沢を結び、八ヶ岳高原線という別名もあるらしい。

佐久平を出ると岩村田、北中込、滑津、中込、太田部、龍岡城、臼田と続き、その先は主な駅として八千穂、小海、信濃川上、野辺山、清里などを経て小淵沢までいく。

中山道岩村田宿と甲州街道韮崎宿を結ぶ佐久往還(信州では甲州往還)は野沢(中込の西)から南はずっと千曲川の左岸(西)を通っていたのに対し、小海線は小海まで人家の少ない右岸(東)を通る。

野辺山は日本の駅で最高地点(1345m)で、その清里側に1375メートルの線路最高地点がある。全国の駅の標高の高さ1位から9位までが小海線という高原鉄道である。また小海と臼田の中間にある海瀬駅は海岸から一番遠い駅らしい。
8:18
中込駅で運転手が交代した。

小海線は一度だけ乗ったことがある。
大学2年の1976年暮れ、山梨県回りで実家に帰る途中、信濃川上に降りて由井克之君の家に泊めてもらった。一緒に訪ねた高倉仁史君と由井の兄上と4人で夜遅くまでポーカーをやった。
彼は剣道班の同級生で信大医学部に進学、根っからの学者肌で、ペンシルバニア大で研究室を持ち、のち長崎大医学部の教授になった。
高校時代の彼は実家(信濃川上)から東京へ行くときは、北回りの小諸経由でも南回りの小淵沢経由でも変わらない(運賃同額)から、円を描くような切符を買った。そうすれば東京で乗り降り自由となる。

そんなことを思い出しているうちに降りるべき龍岡城駅に着いた。
さて、私は切符がない。
田舎だが駅間が狭く、佐久平から6駅なのに220円である。
前の運転手さんが「あ、そうですか」といったのは払わなくてもいいとも取れたが、払う気でいたら代わった運転手さんも「あ、いいです」と言ってくれた。
8:27
お言葉に甘えて、お礼を言った。
そして南に去っていく電車に(運転手さんからは見えないだろうが)最敬礼した。

龍岡城駅は近年はやりの観光地風の駅名だが、1915年大奈良停車場として開業、戦時中に廃止され、1952年新設の形で営業再開された時から龍岡城駅である。

ちなみに小海線の小海は平安時代に八ヶ岳の噴火で千曲川がせき止められ湖ができたことからの地名(小海町役場HP)というが、沿線でも小さな目立たぬ町である。
そんな町がなんで路線名になったか?

もとは佐久鉄道だった。
1915年 、小諸駅 ー 臼田駅間(21.08 km)開業
1919年、臼田ー小海 延伸開業
つまり終点だった。

いっぽう、1932年鉄道省が小海から南の佐久海ノ口まで鉄道を敷き、その部分を小海線とした。当然の路線名である。
さらに、1934年鉄道省は南のほう、小淵沢ー清里間を開業(小海南線)、また佐久鉄道線を買収し(小海北線)、1935年、清里ー佐久海ノ口が延伸開業、小諸から全通して、小海線と改称した。
国は当初から中央本線と信越本線をつなぐということが国家的利益になると思ったのだろう。佐久鉄道を買収する前は、小淵沢から小海までの路線だから、小海線という名前は不自然ではない
8:28
龍岡城駅
佐久市に合併前は南佐久郡臼田町
ホームの観光地図は龍岡城ではなく「星のまち・うすだ」
夜空がきれいというのはどこでもあるが、JAXAの臼田宇宙空間観測所が設置されている。
1986年に来るハレー彗星の観測のため、1970年代から日本も惑星間宇宙探査機を打ち上げる計画があった。
当時、人工衛星を打ち上げる技術はあったが、探査機を地上から操作する通信設備がなかった。その建設を目指し国内10地点を調査し、標高が高く湿気が少ない、また電波雑音も少ないということで臼田の国有林が選ばれ、1980年現地調査、1984年開所した。
一般見学施設もあるらしいが、駅に看板を作るほど、利用者はここで降りないだろう。

また近くの野辺山(南佐久郡南牧村)にあるのは電波天文学の聖地といわれる国立天文台の野辺山宇宙電波観測所である。

時間がないのでさっさと出発。
緩い上り坂を東に歩いていく。
8:36
左の畑は獣害除けのネット
右は大豆のように見えたが、別の畑でインゲンが生っていた。(背丈が短いインゲンは初めて見た)
このあたり、有名な佐久の高原野菜、すなわち広大なレタス、キャベツ畑は見えない。
足早に通り過ぎる。
8:39
目的地 龍岡城址に到着
しかし道路のわきに石垣があるだけで着いた感じがしない。
地図を見れば「桝形跡」とある。城の端だったのだろう。
しかし回りは普通の農村。
さらにまっすぐ歩き、右折すると五稜郭の稜の一つについた。

8:44
龍岡城の北の稜
五稜郭・龍岡城と城主大給家のことは別のブログで書く。

小海線の列車は9:20発で、それを逃すと11:43までない。
城に滞在できる時間は15分。
大手門跡の前の資料館の見物もあわただしく9時過ぎには城を後にし、駅から真っすぐ来た道に戻った。

正面に立派な寺がある。
9:05
蕃松院
このお城と寺の間の道は江戸時代からあったようだ。

道路標識をみれば右(東の山のほう)へ行くと新海三社神社という。
ん? 新海?
アニメ「君の名は」「天気の子」などを監督した新海誠は佐久の出身、野沢北高卒である。
この神社と関係あるのかと思ったら、彼の本名は新津誠で、出身地の南佐久郡小海町から海の字を入れたようだ。

さらに東へ行くと日本で最も海から離れた場所があるらしい。
〒384-0412 長野県佐久市田口 字榊山209-1
群馬県甘楽郡南牧村との境界付近。
最寄りの海岸からの距離: 114.86 km
1996年、国土地理院の調査で決定した。

それ以前は海から遠い場所がどこかはっきりせず、北海道の内陸という話も聞いたことがある。ちなみに、北海道で海から一番遠い地点は、美瑛岳から東へ約7 km離れた山中で、最寄りの海岸から 108.2 kmである。

新海三社は遠いから行けないが、蕃松院はすぐそばだから寄ってもよかった。しかし列車に遅れるのが怖かった。真っすぐの道をずんずん歩いて龍岡城駅に戻ってきた。

9:20
やがて左から小諸行きの列車がやってきた。
列車が止まると超満員。こんな田舎でなぜだ?!と思うほどの満員。
乗ると南アジア系の外国人ばかり。
インド人のような顔もあるし、中国人に似た顔もいる。共通するのは皆あどけないほど若くて日に焼けていること。

話しかけるほうが自然なくらいぎゅうぎゅうに彼らに囲まれた。
どこから来たのか? インドネシア。(多民族国家だから納得)
どこへ行くのか? 佐久平。
新幹線に乗って東京へ行くのか? ノー
じゃあどこへ行くのか? 佐久平。
ファームで働いているのか? そうだ。
 
後で思ったが、彼らは佐久平のショッピングモールに行くのだろう。

川上村などの高原野菜の産地ではかなり前から外国人が働いている。
2023年の数字だが、人口4000人の川上村は農家の約8割(400戸)が外国人技能実習生を受け入れていて、農繁期の在村実習生は1,100〜1,200人という。(NBS長野放送)
最低賃金や有給休暇、深夜割増賃金の遵守も当局から指導されている。
8月15日、土曜だかお盆休みだか、彼らはその休暇で遊びに行くものと思われる。

9:42 
無事佐久平についたが、混雑のため50年ぶりの小海線の景色は見られなかった。

(続く)


昔のブログ

2026年8月20日木曜日

カミキリムシのイチジクを伐採、運転免許更新せず

 いつの間にか1年の半分が過ぎたと思ったら立秋をすぎ、8月が終われば残り4か月である。

千駄木菜園の7月からここ1か月を書いておく。

2026-07-18
5番畝のスイカが生ったが枯れてしまった。
メロンはもっと前に枯れた。
根が腐ったか線虫にやられたか?
2026-07-18
サツマ芋に大きな虫の糞
巨大な芋虫(エビガラスズメ)だと思うが見つからず。
2026-07-18 8:12
この朝の収穫

定年退職してから非常に忙しい。
昔は休んでも、誰も組織も困らなかったが、今は休むと穴が空く。人手不足のためこちらが空いているとシフトに入れられてしまう。さらに4月からアルバイト先の一つが正社員にしてくれた。
お金に困っているわけでもないのだが、頼まれて応じると暇がなくなってしまう。その結果休日も仕事している。
まあ、もともと農家で育ったから過労死というのはあまり信じず、また幸いなことに、今までずっと仕事と趣味の区別があいまいな人生だから苦にはならない。

7月20日、海の日祝日、珍しく何もない。
ぼんやり庭に出る。
2026-07-20 9:41
イチジクにカミキリムシがいた。
下のほうも穴が開いている。
これは幼虫が出した木くずだと思うのだが、すると捕まえた成虫は親ではないのだろうか?
木くずの親は昨年の成虫なのだろうか?
そもそも卵から成虫までどのくらいかかるか?
よく分からない。

イチジクにあこがれ、今まで4本育ててきたが、すべてカミキリムシにやられた。最後の一本であったが、このまま回復を期待して温存すると他の果樹もやられるかもしれない。伐採することにした。
9:44
伐採前
イチジクの木はバニラに近い匂いがする。
今までカミキリムシが数ある千駄木果樹の中でイチジクだけ狙ってきた、その理由だろうか。
9:53
伐採後
2026-07-23
トウモロコシ収穫
キウリやナスと違い、市販品のようなものが取れない。
草丈が大きくなれば実入りも良さそうだが、相変わらず難しい。

7月25日、古希を迎えた。
運転免許証を返上することにした。
誕生日の3か月前くらいから通知が来ていて迷っていた。というのは今年から手続きの前に自動車教習所に行かねばならず、面倒になった。返上するのでなく「更新しない」が正しい。
数年前に数年ぶりに一度乗っただけだから免許がなくてもよいのだが、迷ったのは寂しかったから。

高校3年の冬に自動車学校で学科受講(内職で受験勉強)から始め、大学入試後に本格的に実技実習を受けたが、途中で入学手続きなどに何度か上京したこともあり、春休みで終わらなかった。免許取得は7月になったが、これでも友人より早く、叔父から車を借りて友人を乗せたりデートしたこともあった。
家族ができて毎年長野や取手の実家に行くときは、叔父の車を借りたり、レンタカーを使った。留学中はアメリカ車で通勤に、家族と買い物、旅行に毎日運転したが、結局この時以外は車を持たなかった。それでも長野では家族で野尻湖、木崎湖でキャンプしたり、小川村、菅平、志賀高原を回った。子供たちは小さかった。
夫婦と子供が車で旅行すると家族5人が一つになった気がした。車があると無しでは家族の在り方、関係、人生が全く違うものになるだろうと思ったものだった。

免許証には50年の人生の思い出が詰まっている気がした。この運転免許を捨てるというのは、今後運転できないというだけでなく、終活のような、人生の区切りをしたように思えた。

古希を迎えたことより免許更新をやめたことのほうが、はるかに人生の節目に思えた。
2026-07-26
1番畝トウモロコシ終了
2026-07-26
毎年不作で、来年はどうしよう、という出来。

2026-07-30
3番畝のスイカも枯れてきた。

2025-07-30
枯れていないのもある。育つだろうか。
(8月20日、まだ枯れていないが収穫にはあと数日かな。)

2026-08-08
久しぶりに作ったトマトが良い。
年齢を考えると、あと何回も作られない。


20241105 素人にイチジク栽培は無理

2026年8月18日火曜日

上野公園23 科博7 哺乳類の分類・クジラは牛、アシカは虎の仲間

7月17日、科博にきてフーコーの振り子、新館(地球館)2階の豊田自動織機、最初の電子計算機、人工衛星おおすみなどを見た(前のブログ)。

2階の廊下に出るとゲリラ雷雨はますます激しくなっていた。

ここ数回にわたり科博にきて、いよいよ最後の3階に上がる。
3階は手前の3分の1が「親子の探検広場・コンパス」になっている。小学生以下(主に4歳から6歳まで)と保護者が対象で、塗り絵や工作をする。しかしそういうものは他の施設に譲って、科博は高学年以上を対象にした展示に徹したほうがいいと思った。

その奥は迫力あるステージがある。
12:40
哺乳類のはく製の群れ

テーマは「大地を駆ける生命」
壁側には鳥もいる。

このあたりはシカ類が多い。牛のようなものもいる。
向こうにはラクダも見える。

シカもウシも偶蹄目(ウシ目)。文字通りひずめが2つに割れている。
この目には、ウシ科、シカ科、ラクダ科だけでなく、イノシシ科(ブタ)、カバ科、クジラ科もはいる。

一方、奇蹄目(ウマ目)はウマ科、サイ科、バク科がある。指は1本か3本の奇数である(バクの前足は4指)。
科の上の目という大きな分類が指の数で決まっていいのだろうか、もっと大きな違いはないのかと思わないでもない。
ちなみに偶蹄目猪豚亜目は反芻せず、偶蹄目反芻亜目(牛、ラクダ、シカ)は反芻する。亜目の分類が胃の状態で分類されるのも不思議な感じだ。

さて、奇蹄目は新生代に繁栄し、特に漸新世(約3000万年前)には陸上哺乳類史上最大級の種(パラケラテリウム)が現れた。
ところがその後、地球の寒冷化によって森林、草原が減少し、多くの種が絶滅した。さらに偶蹄目・反芻亜目(シカ、ウシ類)の進化に押されて衰退を始める(反芻は消化能力が高い?)。地質時代には240属を数えた奇蹄目も、現在はわずかに3科6属20種しか生き残っていない。
12:41
ここは一頭一頭に名前や説明はない。
あってもいいかと思うが無くてもよい。地球はいろんな動物がいるとわかる。
12:42
パンダがいた。剥製になると大して可愛くない。
帰宅後に調べたら上野で死んだフェイフェイ(飛飛・オス)とその子・トントン(童童・メス)の親子だった。トントンの母、つまりフェイフェイの妻は1階にいるホァンホァン(歓歓)である。

パンダは食肉目クマ科に入る。ジャイアントパンダ属
右のトラは食肉目ネコ科ヒョウ属

ちなみにイヌは食肉目イヌ科イヌ属
アシカも食肉目。


犬と猫、熊は科が違うだけだが、馬と牛は目から違うのが実感としてピンとこない。
奇蹄目、偶蹄目、食肉目はローラシア獣上目を形成する。

いっぽう、ウサギ目、齧歯目(ネズミ目)、霊長目(ヒト科が入る)は真主齧上目も形成する。
これらの分類は何によるか? 実際に目で見た区分ではない。
大局的なゲノムの文字配列も読みつつ、さらに差が出やすいレトロトランスポゾンの位置情報も合わせてダブルチェックした分類という。

ローラシア獣上目と真主齧上目を合わせて北方真獣類を形成し、この外側にゾウ(長鼻目)、ジュゴン(海牛目)などのアフリカ獣類がいる。そしてさらに外側にカンガルーなどの有袋類がいる。

改めて系統図をみると、ジュゴンとクジラ(イルカ)は相当離れている。ネズミと蝙蝠も遠い。科どころか目どころか、上目すら違うのである。

ちなみに生物の分類は、界(動物)、門(脊椎動物)、綱(哺乳類)、目(食肉目)、科(ネコ、イヌ)、属、種という階層がある。それぞれ巨、上、中、下、亜といった接頭辞でさらに細分されている。

最近昔の蔵書を読んでいる。
本川達雄「ゾウの時間ネズミの時間」
1993年3月5日に購入した日付が書いてあり3月4日のスキーリフト券がしおりとして挟んであった。
行動範囲、エネルギー消費量などを体重に対して両対数プロットするとほとんどの動物が一直線に並ぶ。ところがヒトだけは乗り物、石油を使い、この直線から大きく外れる。先に示した系統樹だと間違いなく哺乳類の一つなのに化け物のようになっている。

この日、ゲリラ雷雨は止まず、はく製を見るのも疲れ、
休憩スペースのソファーで居眠りした。

2026年8月12日水曜日

上野公園22 科博6 豊田自動織機と初期の計算機

7月17日に科博にきてフーコーの振り子について前のブログを書いた。
この日はゲリラ雷雨だった。
公園を歩いているときは大丈夫だったが、科博に入るとき降り始め、フーコーの振り子を過ぎて新館に入るため外に出ると土砂降りになった。
新館はこれまで何度か来て1階と地下は見たので2階、3階にあがった。

2階は「科学と技術の歩み」として過去の画期的(時代を画した)装置が並んでいる。
12:35
豊田自動織機
機械の名前でもあり、会社名でもある。

 豊田佐吉は1867(慶応3)年に現在の静岡県湖西市に生まれ、1887(明治20)年ごろに西欧から伝わったバッタンと呼ばれる「飛び杼(とびひ。織物の横糸を入れる器具)」を備えた機織り機を製作した。

はたおりを機織りとかくのは機械の中の機械ということか。

機織りは縦糸をはって、その一本おきに横糸を通していく。
バッタンバッタンという場面がテレビでちらりと映ることがあっても装置そのものを写したものではないので、原理が良く分からなかった。
コトバンク「織物」から

図を見れば「なあんだ」と思うだろうが、これを発明した人はすごいと思う。

布というのは古くからあり、起源ははっきりしないらしい。
おそらく石器時代の毛皮に続く、次の時代であろう。
当初は線維を撚(よ)って糸にし(紡ぐという)、それを各自工夫して編んだ蓆(むしろ)などの編み物のほうが先行しただろう。しかし4大文明の時代には布はあるから、この時、機織り機はあったのだろう。

その後、ゆっくりだが織機は、さまざまな民族の間で様々な形で進化を続けた。
上の装置でいえば、偶数番の縦糸と奇数番の縦糸を交互に上下さすのは人力(ペダル)であるが、18世紀にイギリスのカートライトが動力織機を発明した。

ちなみに「産業革命」という誰もが知る有名な言葉も多くの人は「蒸気機関の発明」「イギリス」「家内制手工業から工場制機械工業への変革」という程度の知識で止まっている。しかし実際の変革は、機関車や蒸気船ではなく、この動力織機による織物工業だったのである。

その結果、衣服は暑さ寒さを防ぐために各自1つだったものが、布製品の大量生産によって、各自何着も持てるようになり、さらには海外に売りつける帝国主義のもとになった。また綿織物は無色であったから人工染料の発明を促し、そうするとお洒落で服を買うという時代をもたらした。人工染料の開発は化学産業、製薬産業、医学の発展につながる(サルファ剤・忘れられた奇跡)。

さて、豊田佐吉に話を戻すと、彼は研究を続け、1890(明治23)年に「豊田式木製人力織機」を開発し、さらに1896(明治29)年に日本最初の動力織機「豊田式汽力織機」を発明した。

1924(大正13)年には、当時世界最高性能の「無停止杼替式豊田自動織機」を完成させた。
当時、自動織機(よこ糸が無くなった時に自動的に補充し、たて糸が切れた時に自動的に停止する)はすでに欧米で製作されていたが、故障が多く、しかも操作が複雑なため十分に使われていなかった。その技術は、当時世界のトップメーカーであった英国プラット社に特許権を譲渡するほどだった。

1926年、愛知県刈谷(豊田市の南、知多半島の付け根)に株式会社豊田自動織機製作所を設立した。
もちろん、紡績業、織物業ではなく、機械業であるから、さまざまな機械を作った。
1933年には自動車部を設置し、1935年には乗用車、トラックを発表した。この自動車部が1937年分離しトヨタ自動車工業となる。

すなわち、豊田自動織機はトヨタグループの本家本流にあたる。

現在、産業車両が64%、自動車部品が30%で、繊維関係の機械生産はわずか3%である。
しかし本家の誇りからか、2001年に社名から「製作所」をとっただけで、いまも「株式会社・豊田自動織機」である。本社は刈谷市豊田町2-1となっていた。

ところで、たまにトヨタ・ウーブンシティがテレビCMで出る。
富士山麓に建設した未来実験都市である。
最初何も思わなかったが、ウーブンはwoven、 weave(織る、編む) の過去分詞である。
ここにも本家の「織機」が顔を出す。

ちなみに社交ダンスのワルツやスローフォックストロットの人気フィガーにナチュラルウィーブ、リバースウィーブがあり、競技選手はほぼ全員ルーテンに入れている。男女が動きながら入れ替わり、縫うような動きである。

日本の機械産業の原点といえる豊田G型自動織機は、科博に展示するにふさわしい。
この装置は豊田佐吉が最初の営業試験用に製作したものの1台である。部品の取り替えや改造を加えながら愛知県の織物工場で昭和40年代まで使用されていた。豊田自動織機で製作当初の姿に復元され、1976年、科博に寄贈されたという。

自動織機の背中側にはまたまた古めかしいものがあった。
12:35
九元連立方程式求解機
木造の大型人力機織り機みたいな風貌だが、計算機という。

真鍮製のバーの角度を変えることによってベルトの長さを変化させ、複雑な連立方程式を解くという。もちろん九元連立など代数で解けないから近似値である。

アメリカのJ.ウィルバーが、1936年に土木の構造解析や経済学上の計算を行える計算機械を考案、製作した。本機はその情報を元に、東京帝大航空研究所の佐々木達治郎、志賀亮、三井田らが1944年に製作した国内初の大型計算機械である。
原理は、見ただけではわからないが、ねっとにある。
https://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN500914.pdf
この種のものはMITはじめ数台作られたが、現存するのは本機だけらしい。

その隣も計算機だが、こちらは電気で動く。
12:36
真空管式計数型電子計算機FUJIC

FUJICだから富士通だと思ったら、作ったのは富士フィルムだった。
(富士フィルムは1934年大日本セルロイドから分離独立。富士通は1923年古河電機と独シーメンス社が共同出資して設立。)

1956年、富士写真フイルムの岡崎文次がレンズの設計計算のために、7年の歳月をかけ日本初のコンピュータを完成させた。
真空管を1700本使用。
1+1=10 すなわち
on とonが入力されたらon offと出力されるような回路を作り、足し算は0.1 ms、割り算は2.1 msで計算した。論理回路のクロックは30 kHzで、今のスマホCPUは2.5GHz〜3.4GHzだから10万倍遅い。
いっぽう消費電力は7000W。スマホは数百mW〜1W前後はもとより、電子レンジは500~800Wよりはるかに熱くなる。

当時は、レンズの設計には何千回もの計算が必要で、女性が対数表を片手に二人一組で手回し計算機を使って行っていたらしい。FUJICは平均して人手の2000倍の速さで計算した。

約2年間、使用された後、早稲田大学を経由して科博に寄託された。正面左手が算術装置、右手が制御装置。入力はパンチカード。

・・・
宇宙開発の機器も展示されている。
12:38
左奥 人工衛星「おおすみ」(模型) 
右前 宇宙実験・観測フリーフライヤー
大きさに格段の差がある。

フリーフライヤーは1995年、H-IIロケットで打ち上げられ、翌1996年、スペースシャトルで回収され戻ってきたもの。

いっぽう、おすすみは1970年に打ち上げられた日本初の人工衛星。
その結果、日本はソ連、アメリカ、フランスに次いで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。その2ヵ月後に中国が東方紅1号の打ち上げに成功した。これら多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げたのに対して、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功した。

人工衛星などは最先端だったことに間違いないが、豊田自動織機やアナログ方程式解法機、真空管計算機ほどの迫力はない。時代が進むほど技術が肌感覚から離れ、心に訴えないということか。

いま産業革命に匹敵するほど時代を変えてしまった科学技術として、インターネット、AIがあるが、これらは迫力がないどころか展示することすら難しい。

2026年8月10日月曜日

上野公園21 科博5 フーコーの振り子とコリオリ力

7月14日(火曜)朝、柏の葉高校に行った。
帰路、TXの止まる南千住のホームセンター、ロイヤルで暑さ対策の帽子と冷感アームを買って、日比谷線で上野に来た。
2026-07-14 12:17
この日は上野公園の野球場前のベンチでお昼を食べた。
戦後できた球場なのに、正岡子規記念球場という名がついた。
12:21
科学博物館の前に行くとスタッフが冷風機にあたっていた。
夏なんだから暑いのは当たり前なのに、テレビが熱中症、熱中症と騒ぐから、こんな世の中になってしまった。地球温暖化は二酸化炭素よりも、人間による発熱のせいだと思う。
エアコンの室外機を部屋の中に入れたらどうなるか?
写真のスポットクーラーには冷風ダクトと排熱ダクトがついているから結果は分かりやすい。
冷気と合わせプラマイ・ゼロならいいが、冷風と排熱の温風を混ぜたら暑くなるのである。つまりエアコンは使えば使うほど地球を暑くする。これに加えて発電、送電にも熱は出ている。国じゅうでエアコン使って地球を暑くしろと言っているのだから話にならない。

この日、科博に入るのはやめた。

7月17日(金曜)畑バイトの帰り、また科博にきた。
本館の地下から入って新館に向かう途中、いつも素通りしている振り子を何気なくみた。
2026-07-17 12:00
フーコーの振り子
振り子は同じ方向に振れるが、その面がどんどんずれるのは地球の自転の証拠だという。
要するに振り子の振れる面は慣性の法則に従い、外力が加わらなければ変わらない。一方、地球は自転しているから、その相対的位置関係はずれていき、地表に立ってみれば振り子の面が回転しているように見える。

しかし、北極点の上での振り子ならこの現象を考えやすいが、東京でもずれていくとはどういうことか?
展示はなにも説明しないので考えた。

これは温帯での風向きのずれをコリオリの力で説明するのと同じだろう。

これも北極から吹く風は考えやすい。
風が慣性の法則に従ってまっすぐ赤道方向に吹いていくと、地表は東にずれるから、地表で見ると風は西に曲がっていくように見える。あたかも風が力を受けたように見え、これをコリオリの力という。

53年前の物理の時間、先生が白い円盤を回して色チョークを中心から外側にまっすぐ引いたら曲がったという場面を覚えている。

ここまでは誰でもわかる。
しかし、逆方向、赤道から北に向かう場合をイメージできる人は少ないのではないか?
ネットの図を見てもよく分からないものばかり。

これは、北向きの風が慣性によって真っすぐ(曲がらず)動いていくことを考えればよい。
この時地面は自転によって東に向かって動いている。地面が平面のまま平行に東に動いていれば風は北向きのままだが、地面は球面だから北に行くほど東への速度は遅い。いっぽう風は最初の時の慣性によって最初の時の速度で動いているから、地面が遅れてくる。すると地面から見ると風が東に曲がっていくように見える。

これが南から北へ行くときは東へ行く偏西風となり、南へいくときは西に曲がる貿易風となる理由である。

ここでフーコーの振り子に戻る。
すなわち北極点でなく東京においても、振り子が北へ行くときは風と同じように東に曲がり、南に行くときは西に曲がる。このようにして振り子の面は回転していくのだが、コリオリの力によるもので、実際は地球の自転による相対的位置変化によるものだ。

ここで一件落着かと思われたが、ちょっと待て。
振り子の面が静止していて地球のほうが自転しているというのはどういうことか?
振り子は何に対して静止しているのか?
地球だけでなく、太陽系、銀河系も動いているのではないか?

と、だれか聞いてきてほしいな。

振り子は重力以外に外部から力を与えなければ、ずっと同じ面で往復運動を続ける。
一般に、外部から力を与えなければ、静止しているものは静止し、等速運動しているものはそれを続ける。ニュートンの第一法則である。
これが成立する座標系を慣性系という。
つまり定義からして、振り子の面は慣性系に対して静止、重りは一定周期で往復しているのである。

ところが、地球表面の上で振り子を見ると振り子の面が少しずつ回転しているように見える(北極なら24時間で面が一周する)。だから地球上に固定した座標は慣性系ではない。(自転による回転座標系となる)

すると地上ではニュートンの法則が成立しないはずだが、成立しているように見えるのは、日常的な狭い範囲、短い時間では、慣性系とほとんど同じように扱えるからである。そしてフーコーの振り子は、そのわずかな差を検出している。

ちなみにコリオリ力、遠心力などはニュートンの第二法則(F=mα)が慣性系でない地上でも成立するように導入された慣性力である。
つまり、
北半球で北へ飛ぶ物体は、地上から見ると東へ曲がるが、
慣性系:物体は直線運動している。
地上系:物体に東向きのコリオリ力が働いている(ように見える)。
また、机の上で静止している物体は
慣性系:物体は地球の自転により等速円運動している。
地上系:動かない(加速度がゼロ)となるよう、重力と釣り合う遠心力が働いている(ように見える)。

話は変わるが、1歳の孫とキャッチボールするのを楽しみにしている。
こちらの体力低下と孫の成長の競争だが、体が動かなかった場合、こういう話ができればいいな。
2026-07-17
孫に食べさせようと育てていたスイカが枯れてきてしまった。


2026年8月6日木曜日

上野公園20 科博4 モル、カンデラなど7つの基本単位

6月以降、無料の西洋美術館と科学博物館にしばしば立ち寄っている。

7月10日にも何回目かの科学博物館に入り、恐竜や人類の化石について前のブログに書いた。
そのとき、ほかにもいろいろ写真を撮っておいたので書いておく。

地球館の地下2階で生物の進化、ヒトの進化についてみたあと、地下3階に降りた。
ここは「自然の仕組みを探る」と、ようやく生物標本を離れた。
このフロアは日本の科学者、自然法則、宇宙、物質を展示する。
地球館マップ

地下3階の展示室に入ると Alfred Nobelの遺言、日本のノーベル賞学者の写真と説明が所せましとパネルになっていた。
2026-07-10 12:24
福井謙一(1981年)、白川英樹(2000年)と受賞順に並んでいる。
12:25
化学賞は
北川進(2025年):金属有機構造体(MOF)の開発
吉野彰(2019年):リチウムイオン電池の開発
根岸英一・鈴木章(2010年):パラジウム触媒クロスカップリング
下村脩(2008年):緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見
田中耕一(2002年):生体高分子の構造解析手法の開発
野依良治(2001年):不斉触媒による水素化反応の研究
の全部で9人
12:26
この長い年表のようなパネルは化学賞9人、
物理学賞12人(米国籍の南部、中村、真鍋氏を含む)
医学生理学賞6人
というノーベル賞受賞者だけでなく、日本が誇る科学者の生きた時代を示している。
12:27
長井長義、高峰譲吉、鈴木梅太郎
長井は日本で最初の理学博士5人のうちの一人で、東大がお雇い外国人教師から日本人教授に切り替えるとき薬学と理学で奪い合ったが、薬学の教授となって後進を育てた。高峰(アドレナリンの発見)、鈴木(ビタミンの発見)はその業績からしてノーベル賞をもらっておかしくない。

近年日本は、産業が空洞化し新興国に押され、ただ通貨が安いというだけの国になってしまった。安い国というのは本来貧しい国である。尊敬されるにはやはり科学(ノーベル賞)しかないだろう。

一人ひとり見ていては時間がかかるので、奥は何があるのだろうと歩を進めていく。

このフロアはこれまでの生物標本とちがって自然法則、宇宙、物質を展示する。
法則を発見するには現象を定量的に記録しなければならず、そのためには単位が必要である。
国際単位系(SI, International System of Units)における7つの基本単位は、時間、長さ、重さ、電流、温度、物質量、光度を表すもので、それぞれ秒s、メートルm、キログラム㎏、アンペアA、ケルビンK、モルmol、カンデラcdである。
12:31
それらの単位を実感するための展示があった。
sは指を置くと脈拍の間隔を秒で表してくれる。
私はもともと速いのだが、この時は荷物を持って歩きまわっていたせいか0.55秒だった。1分あたり109である。今書いている時はほぼ60だった。

となりのkgは7つの基本単位で唯一、1000倍を表すkがついている。もともとグラムは1センチメートル立方の水の重さで定義したものだが、実生活に使いやすいよう、10センチ立方の水の重さであるkgが基本単位になったのだと思われる。
そういえば、高校の物理でCGS系とMKS系を習ったな。力の単位は前者だとダイン(1 g⋅cm/s2 )、後者だとニュートン (1 kg⋅m/s2)と、この年になると昔が懐かしい。

前者はcm、後者はkgと、それぞれ基本単位メートル、グラムの100分の1、1000倍という単位を含むため美しさに劣ることでは同じである。CGSは卓上実験のとき便利だから科学者に好まれ、MKSは人間の大きさに近いので技術者に好まれた。しかし結局後者のほうが実生活の大きさに近いため、SIに組み込まれた。10のべき乗を含まないなら1メートル立方の水の重さ、トンを使うMTS系が考えられるが、重すぎてだめだ。
栄養学で実生活に言いやすいように、キロカロリーをカロリーと言っているより、ずっとまともな議論だが。
12:30
その重さを実感する展示装置は、「調整中」で使えなくなっていた。
いくつかある重りをのせて1kgの重りを当てるようだったが、乱暴に扱われて故障したのだろうか。
となりの「m」長さの装置は、レバーをレールの上で動かし、1メートルの長さを推定で作ってみるというものだった。しかしほとんどがアジア人観光客で日本語が読めず、みんなレバーを乱暴にガーガー滑らせているだけだった。これも故障するかもしれない。

アンペアのところはハンドルをぐるぐる回して1Aを発電してみようということだった。
12:33
元素周期律表
この辺りは人がいない。
12:34
平日だから個人の学生、生徒もおらず、ほとんど観光客。日本人そっくりでも聞こえるのはすべて外国語だった。

7つの基本単位のうち、物質量 (mol)、温度(K) 、光度(cd)も一か所に並んでいた。
12:36
モルのところは1モルの分量の物質が4種類展示されている。

モルというのは物質の量と書いたが、肉や野菜の「量」は重さでも体積でも表される。しかしモルで表す「量」とは粒子(原子、分子、イオン、電子など)の個数のことである。

普通の化学で扱う固まり、液体、粉を構成する微粒子の量は何億個、何兆個にもなるからアボガドロ定数6.02×10^23の何倍かという表現をする。
すなわち
 モル数 = 粒子の個数/アボガドロ定数
である。
アボガドロ数の2倍の数の粒子の量は2モルである。
つまり1モルの物質に含まれる粒子の個数は、鉄であろうが水であろうが空気であろうが、粒子が何であっても一定(=アボガドロ数)である。

歴史的には微粒子の中で普通に化学で扱えるものは分子moleculeだったから、ここからmolという単位記号ができた。ケルビン(温度)やパスカル(圧力)のように人名を使ってAv(アボ)でも良かったけどね。
その後NaClや金属原子などにも適応され、分子だけでなくイオン他の微粒子の個数の単位に広がった。

長年、酸素分子 32 g に含まれる分子の数を 1 モル としてきたが、同位体が存在することもあり、1960年に炭素12Cに原子量 12 (整数!)の値を与えることにして、その12グラム分の原子数を1モルとした。つまり重量で決めた。
ところが、2019年、アボガドロ数のほうを正確に6.02214076×10^23 /molとすることで再定義し(重量でなくなった)、1モルの炭素12の質量は、12 gではなくなり、11.9999999958(36) gという実験値となったらしい。

それにしても、よく考えるとモルというのは変な単位である。
他の単位が連続量なのに対し、これは1つ2つと数えられる粒子数の単位なのである。また比であるから無次元である。1円2円と数えられるお金の、万、億、などという単位と同じである。
12:28
展示されているのは炭素C、 アルミニウムAl、銅Cu、タングステンWの1モル分の固体である。単体であるから(炭素の単体はダイヤを展示するわけにいかないから黒鉛だろう)、1モルの重さは原子量にグラムをつけたものに等しい。

それぞれ元素番号は、6,13、29、74で、陽子だけならこの値が質量になるが、中性子があり、また同位体があるため原子量は12.01,  26.98,  63.55,  183.84  であり、これが実際の質量(=地球上での重さ)になる。
シーソーの一端を指で押して重さの違いを感じるようになっている。
ここにあるタングステンと炭素とは原子の総個数は同じで(=1モル)、体積はそれほど変わらなくても重さが15倍ほど違う。

となりの温度ケルビンKの展示は掌の温度を測るだけだった。

その隣の明るさの単位、カンデラ、cdは筒の中で光を発している。
覗くと思ったよりまぶしかった。
1カンデラは、ほぼろうそくの明るさに等しいという。実際、歴史的には決まった量のろうそくや脂を燃やしてその明るさを単位とした。カンデラは candleと同じ語源である。
しかしろうそくでは各自、各国バラバラなので現在は「周波数540×10^12 Hz (波長555 nm)の緑の単色放射を放出し、所定の方向におけるその放射強度が「1/683ワット毎ステラジアン」である光源の、その方向における光度」と定義されるらしい。

ふつう光は見る人の方向だけでなく全方位に光が行く。全方位の立体角は4πステラジアンだから、光源の強さの単位、ルーメンは 1ルーメン=4πカンデラという関係がある。

また、照度(ルクス)は受け取る側の明るさである。光は同じ立体角でも離れれば離れるほど広がって薄まる。球の表面積は半径の二乗に比例するから、光度を距離の二乗で割ったものが照度の目安になる。実際、ルクスはカンデラを距離(m)の二乗で割ったものと定義される。これは1ルーメンの光源が1平米を照らした時の明るさと同義である。

ちなみに、カンデラ cd やモル mol は人名でなく普通名詞由来だからA、Kのような大文字でなく小文字で書く。

ここで外に出た。
12:44
この日は科博の前、木々の向こうに噴水が見えるところでお昼を食べた。

食べた後不忍池に降りると観光客が増えた。
13:11
骨董市、がらくた市
日本人から見たらごみであっても、外国人は喜ぶだろう。
13:15
風鈴下の休憩所

単位というのは面白い。
モノを測るときに重要であるだけでなく、それを決めていった過程が科学の発展の歴史と直結している。

アボガドロ(1776-1856、イタリア・トリノ)が1811年に
『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法』という論文で、同じ温度、圧力、体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるという法則(彼の死後アボガドロの法則と名付けられた)を発表したが、国外では無名であったこと、論文が難解であったことから学会の相手にされなかったという。

実際どういう実験をしたのか、ボケ防止のために高校のころ勉強したことを思い出してみる。
真空はだいぶ前に(1643)発見されているから、彼らの時代には気体は粒子の集まりということは知られていただろう。すると同じ気体で体積が2倍あれば気体の粒子数も2倍になると考えるのは自然の流れである。つまり体積が粒子数を表す。
ただ、種類の違う気体の体積を比較したときはどうか?
すなわちアボガドロの法則にどうつながるか?

ここで水素と酸素を反応させ水蒸気ができる実験をすればよい。
  2H2+O2=2H2O
このとき反応前後の体積比を測れば
  2:1:2となるだろう。
また、塩素と水素で塩酸ができるときは
  Cl2+H2=2HCl
  1:1:2であろう。

このように化学反応の時の体積比が1:1、あるいは簡単な整数比になる。
1対1で反応する気体の体積比が1:1であることから、同じ体積の中には気体の種類が変わっても同数の粒子が含まれていることがわかる。体積が半分なら粒子も半分である。

ここで解決したと思って念のためネットで調べたら少し事情が違っていた。
当時は大混乱したらしい。
二原子分子の存在が知られておらず、当時主流の原子説では
 H+Cl=HCl  (1:1:1)
 H+O=HO  (1:1:1)
にならなければいけなかった。

ちなみに気体反応における体積の整数比を発見(1808)したのはアボガドロでなく、フランスのゲイ・リュサックであり、原子説(1803)はイギリスのドルトン。両方とも画期的発見である。
アボガドロは、原子が結合した分子という粒子を初めて想定して(1811)、原子説と整数比の矛盾を解決しようとした。
分子は moleculeであり、アボガドロ数のアボガドロと mol はここでつながる。


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