2026年3月19日木曜日

バーナリゼーション(春化)とキャベツ、ロマネスコ


2026-03-11
7番畝、第二次大根にトウがたってきた。
ダイソーで種を買った宮重総太り大根は、第一次9本、第二次8本。第三次は紅三太2本、トウ立ちの遅い三太郎を8本、合計27本。
人にあげても消費しきれない。

大根はトウ立ちから1週間くらいすると外皮のすぐ内側で輪状にめぐる網目状の筋(すじ)が太く硬くなる。ヘチマの網のようになって口に残り、可食部が減るだけでなく料理が面倒になる。

そこで例年この時期になると庭から抜いて冷蔵庫に入れたり、土に埋めたりして成長を止めてきた。

庭のほかのアブラナ科もトウ立ち真っ盛り。
2026-03-16
トウ立ちに続いて花が咲く。
もちろんこれは観賞用ではなく食べるために育てたものだが。
迷わず廃棄処分。
菜の花の美しさは、本体よりも周りの景色が大事ということがわかる。

秋に種をまいた野菜すなわち大根、白菜、小松菜などのアブラナ科、レタス、春菊などのキク科、ホウレンソウなどは秋に成長し、冬にいったん成長を止めるが、春になると活動を再開する。ところが、それまで次々と葉っぱが出ていた生長点からは花芽がでてくる。

専門語としては抽苔(ちゅうだい)という言葉がある。(苔はコケではなく薹の代わりの字で、花の付く茎を表す)。
ネットを見ればどのサイトも抽苔は「トウ立ち」という現象を表すようだが、日本語では後ろの苔が中心となるため、伸びた薹すなわち「トウ」を表す言葉だと思う。

また、バーナリゼーション(Vernalization)という言葉もある。
verはラテン語の春だからそのまま訳して「春化」というが、「春になっておこる植物の変化」という意味ではない。(変化するのは当り前で広範にわたるから言葉は作れない)。
バーナリゼーションとは低温処理、あるいはその結果起こる現象(トウ立ち)のことを言う。
2026-03-16
カブのトウ立ち
カブは大根と同じアブラナ科でも、属がちがう。
ダイコン属ではなくキャベツ、小松菜と同じアブラナ属である。
しかしトウ立ちすると大根とそっくりの場所にそっくりな網目状の筋が出てくる。

白菜、大根など秋冬作物の多くは葉物野菜だから春になってトウが立って花が咲く現象は、生産者にとっては厄介者でしかない。しかし、秋にまく冬小麦はバーナリゼーションがなければ結実しない。

バーナリゼーションはソ連の1920年代から30年代にかけて活躍した農学者ルイセンコが発見した。
冬小麦は冬が厳しすぎると枯れてしまう。かといって春まき小麦(別種)は収量が少ない。そこで人々は冬小麦を春にまいたが、育つばかりで実がならなかった。
ところが彼は種を(冬を経験させたような)低温処理すると春にまいても結実することを発見した。

だからバーナリゼーション(春化)は春の状態にする変化というより、秋冬品種を春品種に変えるという意味の言葉だったのかもしれない。
(そして彼は温度という環境が品種を変える、すなわち獲得形質の遺伝という結論に至った。まだDNAが遺伝子だと知られていなかった時代である)。

2026-03-16
3番畝、紅三太もトウ立ち。
ネット内にある三太郎8本はまだトウ立ちしない。

生物には個体の成長と子孫を残す複製という二つの機能がある。
これらは同時にできない。植物なら、葉っぱ、茎の増量と、続く開花、結実という二つの現象のことだ。
動けない植物の場合、これらは季節にリンクせざるを得ない。秋に発芽、成長した植物は冬の間、低温のため成長が鈍化する。そして春になって成長を再開するが今度は開花、結実に専念する。
この切り替えが低温である。一過性の低温がないと開花に向けたスイッチが入らない。
これは植物が進化の末に獲得した生存戦略である。
この仕組みは近年、分子的にかなり良くわかってきた。

多くの植物は、はじめは個体成長に専念させるため、FLC(Flowering Locus C)遺伝子産物が開花を抑制している。それが低温にあうとFLCの働き(ブレーキ)がなくなる。エピジェネティクス、すなわち環境の遺伝子発現に対する作用である。するとそれまでFLCによって抑えられていたFT遺伝子(Flowering locus T)が動き出す。

昔から、葉が春になって日照時間や温度などを感じて開花へのスイッチを入れる物質としてフロリゲン(花成ホルモン)というものが想定されてきたが、2000年代に入り、FT遺伝子の産物こそがフロリゲンだと分かった。

ちなみに現在、冬小麦と春小麦の違いは、主に開花抑制遺伝子(FLC)とFLC抑制遺伝子(VRN1, VRN2 など)のプロモーター領域の変異によるものだと判明している。
2026-03-16
2026-03-16
4番畝 白菜も花芽がでてきた。

千駄木菜園でこれが大きく関わっているのがキャベツである。
最初に種をまいたのは2016年5月。ダイソーで買った2袋100円の種である。順調に生育したが無残なまでにコナガにやられ、収穫まで至らなかった。
そこで、以後、同じ種を虫の少なくなる秋にまくことにした。越冬させ翌年5~6月に収穫するのである。

このとき早くまくと、バーナリゼーションで春先にトウが立ってキャベツにならない。
そこで本葉数枚の幼い苗で越冬させる。すると春になってもトウが立たず、温度が上がることで葉の成長が進み、この間全くトウ立ちはない。

これはどういうことかというと
幼若段階では、FLC遺伝子に対する低温依存的なエピジェネティック抑制(ヒストン修飾)が十分に確立・維持されない。そのため、低温によって一時的に発現が低下(ブレーキ解除)しても、温度上昇後にFLC発現(ブレーキ)は再び回復してしまう。
また、FLCブレーキをはずすVRN1, VRN2, VIN3 といった春化関連遺伝子はある程度成長していないと発現しない。

いっぽう、成長して越冬すると、ブレーキをはずす春化関連遺伝子が低温によって発現し、FLCというブレーキがはずれる。具体的にはFLCが巻き付いているヒストンをメチル化し、FLC(=ブレーキ)を永続的に働かなくする。

さて、バーナリゼーションを回避しながら2016年秋から千駄木で毎年作ってきたキャベツである。
今年は10年目にして初めて種が発芽しなかった。
何が悪かったか分からず、もちろんダイソーに文句を言うわけにもいかない。

キャベツ用に使う予定だった6番畝がそっくり空いてしまった。そこで同時に気まぐれで種まきしていたロマネスコとのらぼう菜の苗を植えた。
2026-03-16
6番畝 ノラボウナとロマネスコ

キャベツとロマネスコは生物種としては同一(Brassica oleracea )である。

冬に入るとき苗は非常に小さく、キャベツならばバーナリゼーションは起きない大きさだった。しかしキャベツと違ってロマネスコは、ブロッコリー、カリフラワー(これらもキャベツと同一種)と同様、最初から花芽(頂花蕾)が出てくる栽培品種なのである。
トウ立ちなどの心配はまったくなく、むしろ期待して楽しみにしていた。
2026-03-16
ロマネスコの抽苔。
しかしロマネスコとは全く異なる花茎が出て、見たこともない植物になった。
通常のロマネスコと違う大きさで冬を越したせいで遺伝子の発現が狂ったのだろうか?
あるいはF1という商品作物から自家採種のF2になってロマネスコの性質が消えてしまったのか?
あるいは昨年まわりのキャベツ類(同じ生物種)と交配してしまったか?

2026-03-18
カブはトウ立ちして妻は使わないが一応洗った。
キャベツは冬にこの大きさだったが、中でトウが伸びているのか尖ってきた。

野菜つくりは奥が深い。

この近所は相続があると敷地が分割され庭がなくなっていく。
まだ庭がのこっている家も植木や花を植えている。しかしパンジーや菊、梅、桜は、花が咲いている時だけ見られ、植物全体を1年じゅう見ている人はあまりいない。
野菜を何度も(毎年)作り、何ごとかを考えないと、こうした変化の後ろにある植物の進化とか生存戦略に思いが向かわないものだ。

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2026年3月17日火曜日

野田3 興風会、千秋社、豪邸巡り(1)

 3月12日、野田市に来た。

キッコーマンの工場に囲まれた野田市駅から真っすぐ西へ歩き、キッコーマン創業家の一つである高梨本家と、醤油を積みだした江戸川の河岸問屋の遺構をみた。

10時から高校で薬物乱用防止講演を頼まれていて、9:45までに会場に行かねばならないため、江戸川から急いで市の中心部まで戻ってきた。

もう時間がないが次々と魅力ある建物が目に入る。
9:28
興風会館
昭和4年(1929)の竣工当時は、千葉県庁に次ぐ大建築であったといわれ、最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、現在は市内の文化、体育関係の事務局がおかれているらしい。国の登録有形文化財。
設計者の大森茂は、神田駿河台の明治大学旧校舎を設計した人で、あちらは1996年に解体され、私の記憶も薄れてきて似ているかどうか論じる眼力はない。
9:29
興風会は、ご大典(昭和天皇の即位)を記念して昭和3年に、千秋社(後述)の寄付により設立された(現在の価値で27億円)。その事業の拠点となるべく建てられたのがこの会館である。
以来、野田における教化、厚生、図書館事業などに貢献してきたが、戦後は図書館事業は市に移管、いまは育英(奨学金)、市内学校設備への助成、教育・文化活動に貢献した人への表彰、また生涯学習活動の支援などを行っている。
9:30
興風会館の隣はキッコーマン本社
というか、本社の敷地の一角に会館が建っている。

9:31
本社の隣の道路はキッコーマンの敷地内私道なのか、公道なのかよく分からない。
地図を見れば本社と研究所の間の道である。

すぐそばに、これまた時代がかった建物があった。
9:32
表札には株式会社千秋社とある。
興風会に巨額の資金を提供した千秋社である。

大正6年(1917)に茂木・高梨8家によって野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立された際、これを支援する両家の組織として1925年5月、合名会社千秋社が設立された。
以来、茂木、高梨、中野、石川、堀切の5家によって所有される。
1944年、野田商誘銀行(しょうゆにかけた)と合併し株式会社千秋社に改組した。

ちなみに市内の清水公園は、アスレチックで有名、入園無料のため埼玉千葉の幼稚園小学校の遠足でも人気があるが、ここは明治時代に茂木家が開園したもので、現在この千秋社が所有、管理・運営していることはあまり知られていない。

さて、この建物はかつて存在した醤油業者による銀行、旧野田商誘銀行でありその後、一時、千葉銀行野田支店となったが、1970年、しょうゆう銀行ゆかりの千秋社となった。

地図を見れば、千秋社の後ろ一帯は茂木七郎右衛門家の敷地のようである。

約束の時間が迫ってきたので足を速め、その敷地の角を東に回った。
9:34
キッコーマン社員駐車場
門と塀の様子からかつての工場のように思える。
市内の一等地なのにこの広さ。

講演場所は初めて行くところなのに約束の時間まであと10分。
道を急ぐが、平日の午前の静寂の中、竹刀の音とメーンとかいう声が聞こえてきた。
つい、立ち止まってしまった。
9:36
 野田市春風館道場
かつてはキッコーマンの福利厚生施設だったらしい。2008年に市に寄付され、耐震補強などの改修工事を行ない、2010年にオープンした。

ふと振り向くと道場の向かいは豪邸。
表札を見ると中野とある。
9:37
左:中野邸 右:春風館
千秋社からずっと歩いてきた道の右側は茂木七郎右衛門家の敷地であるが、ここの5代茂木七郎右衛門の子、6代目の弟が1873年、中野長兵衛として分家独立した。長兵衛は兄・6代七郎右衛門の二男を養子にとって中野栄三郎とした。

栄三郎はキッコーマンの野田醤油(株)時代に社長になった(1946 - 1958)。中野家からは中野孝三郎(1985 - 1995)、中野祥三郎(2021- 現職)の3人が歴代社長の14人の中に入っている。

敷地は七郎右衛門家と地続きだから、その中野に間違いないだろう。
しかしなぜ茂木でなく中野なのかは知らない。ちなみに江戸川ぞいの河岸問屋・戸辺家やキッコーマンフードテックのあたりは中野台という。

急ぎ足を再開したが、春風館道場の北側の道路を挟んで向かいに大きな門があった。
よく見れば市の施設である。
9:38
野田市郷土博物館、野田市民会館
火曜休館日だった。
入館無料だが他の日にこの門が開いて、自由に入れるとは信じられないほど立派な門である。
ここは旧茂木佐平治邸である。ネットを見れば博物館は門を入った左手の建物で、醸造関係の資料は国内屈指らしい。敷地の大部分は広大な日本庭園(千葉県初の国登録記念物)
と大正13年建築、国登録有形文化財の旧茂木佐平治本邸である。

本邸は昭和32年から野田市民会館として市民に開放された。この貴重な、贅を尽くした歴史的豪華建造物を、6畳から10畳までの各部屋は1時間100円から240円で、茶室は710円で市民が文化活動に利用できる。
箱モノの代表のような市民会館の概念をぶち壊す。
9:38
門の前の駐車場に市内の地図があり、しょうゆ関連施設が塗り分けられていた。色が薄いな、と思ったら「むらさき」だった。

紫の部分は市中心部の大半を占めている。さらに、塗られていない茂木左公園は名前からして茂木家から市に寄贈されたのだろうし、市立野田中央小学校は明治9年に茂木家が校舎を(多分土地も)寄付したことから茂木学校が正式名称で、明治12年には市内の上花輪、吉春、岩名、横内、山崎に分校が置かれた。明治32年に野田高等小学校と改称したが、これらも紫色でおかしくない。

あわただしく門の前を過ぎ、3分前に目的地に到着。
ふと道路を挟んで向かいに豪邸あり。
9:43
写真だと分かりにくいが、黒い四角は表札で「茂木佐平治」とあった。
博物館・市民会館となった旧本邸の敷地と地続きであり、市民に開放した後、こちらに平屋の豪邸を建てたのだろう。

時間がなく、写真を撮っただけであわただしく道路を渡った。
(続く)

2026年3月16日月曜日

野田2 高梨家と醤油組合、江戸川の川岸問屋

3月12日、野田市を初めて歩く。

人口規模(15万人)、知名度とも千葉県北西部の普通の市と思っていたが、駅のまわりに商店住宅が全くなく、キッコーマンしかないという、ずいぶん特殊なところだと分かった。(前のブログ)

雨に雪が混じるなか、
駅から真っすぐ、県道を西へ、かつて醤油輸送に使われた江戸川を目指す。
途中から外れて旧道を南に歩くと長い黒塀にぶつかった。
8:49
高梨本家旧宅
この四つ角というより四辻を右側に行くと塀と道を挟んで新しい大邸宅がある。
(写真を取り損ねたがGoogleストリートビューで見られる)
その表札を見れば「高梨兵左衛門」とある。

野田の醤油は戦国時代の飯田市郎兵衛にはじまるといわれるが、近世に大発展した野田の醤油づくりは、1661年に上花輪村名主であった19代髙梨兵左衛門を始めとする。翌1662年に茂木七左衛門が味噌製造を開始。(茂木家はその後1764年に醤油製造も始めた)。
その高梨である。

高梨というと信州中野の国人で戦国時代に上杉側について家臣となり会津、米沢までいった家を思い浮かべるが、この野田の高梨家も信州から来たらしい。平安末期、八幡太郎義家の時代で、醤油を始めたときは19代目、すでにこの地の名主であった。

醤油というのは樽の中の味噌の凹みにたまった汁がうまい、ということが始まりだったのではないか? 味噌は豆を煮て塩を混ぜ発酵すればいいから誰でも作れる。しかし醤油はどろどろの味噌用発酵汁をろ過せねばならないから、商業生産するならかなりの製造設備を要する。すなわち代々名主をつとめる高梨家のような財力がないと作れない。

高梨家の旧本邸の長い塀に沿って歩くと大きな門があった。
二重になっている。
すなわち柵のあいだから長屋門が見える。長い塀のラインからだいぶ引っ込んでいる。

8:50
上花輪歴史館として1994年一般公開された。
本日は、火曜、休館
庭園は国指定名勝。
名勝としては、屋敷内全体が文化財という分野で、千葉県で最初の、そして昭和の作庭としては全国で初めてという。確かに多くの名園は明治より前に作られたから、醸造業者の富と当主の趣味、美意識が現代まで続いたというのは珍しい。

傘を持つ手が冷え、メモしようにも手指がかじかんで書けない。
8:52
高梨家の前(道を挟んだ南東側)は刈り込まれた生垣と芝生と瀟洒な建物。
かつては高梨の醤油工場だったのだろうが、今は西洋の牧場みたいになっている。

8:53
墓地は高梨一族のものだろうか。
寒いので先を急いだ。

8:54
林のなかを江戸川のほうに向かって下る先に工場のタンクが見える。
左はキッコーマンの野球場。
歴史の違いか、普通の食品会社とはちょっと景色が違う。

野田市駅の向こう(東)から中心部を経て西の江戸川沿いまでキッコーマンの工場が分散というか広がっている理由は何か。

高梨・茂木は野田醤油の中心であったが、親戚でもあった。23代髙梨兵左衛門は1764年に実兄である茂木七郎右衛門と醸造蔵経営の合併を行うが、1771年に再び別れ、1781年に高梨、茂木が中心となって「野田醤油仲間」を結成した。 
高梨兵左衛門、
櫛形屋・茂木七左衛門、
柏屋・茂木七郎右衛門、
亀屋・飯田市郎兵衛、
杉崎市郎兵衛、
竹本五郎兵衛、
大塚弥五兵衛の7家である。

1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木七左衛門家から分家した茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けた。

高梨本家から幕末に分家した高梨周造家、高梨孝右衛門家も醤油醸造を始めたが、明治になって茂木七郎右衛門に工場を譲渡した。

明治20年(1887)、茂木七左衞門・茂木七郎右衛門・茂木佐平治・高梨兵左衛門・山
下平兵衛などの野田、流山の醸造家の17家は、野田醤油醸造組合を結成した(キッコーマン公式サイト)。前のブログでかいた野田に鉄道(現、東武野田線)を持ってきた主体である。

しかし供給過剰などから経営環境が厳しくなり、
大正6年(1917)には山下平兵衛家(現キノエネ醬油)を除き、茂木一族6家、髙梨、堀切(流山)の8家が大同合併し野田醤油株式会社が設立され、これが後に(1964年)キッコーマン株式会社となった。亀甲萬は茂木佐平治家が使っていた商標であるが、新社の製品は徐々にこれに統一され、ついには社名となった。

すなわちキッコーマンの工場が駅の東から西の江戸川沿いまで野田で広く分散している理由は、市内各地の醸造家が組合を経て合併したからといえる。
8:54
野球場の土手の上は欅の巨木が並んでいる。

道は江戸川に向かって下っていく。
江戸川の堤防の前に古い日本家屋があった。
8:59
下河岸・桝田仁左衛門家住宅

桝田家は、1712年、ここ野田下河岸に開業した河岸問屋。
かつての江戸川舟運の面影を伝える遺構である。

今では考えられないが、鉄道も自動車もない時代、江戸川は関東地方の大動脈だった。たとえば利根川との分岐点である関宿は江戸幕府にとって重要拠点であり、関宿藩には信頼の厚い譜代大名が封じられた。花埋み(渡辺淳一)の荻野吟子も熊谷の在から利根川から江戸川にはいって東京に出た。

醤油生産にとっても、利根川流域は関東一円に広がるから江戸川は大豆を集めるのに都合がいいし、下流は行徳の塩田に通じ、大消費地の江戸につながっていた。

桝田家は醤油の積み出しで隆盛を極めたが、明治44年(1911)に千葉県営軽便鉄道(現東武野田線)が開通、さらに関東大震災後には自動車輸送が広がるなどしたため、昭和13年(1938)に営業を終了した。

この母屋は明治4年(1871)建築という。不動尊の祠、土蔵、脇門、レンガ塀が明治から昭和にかけて築造された。母屋は住居に加えて帳場や船宿といった商用の機能を持った。
低いレンガ塀は江戸川増水時に母屋の水防の役割を担っていたらしい。

江戸川舟運の遺構がほとんど残っていない中で貴重な文化財であり、平成19年に国の登録有形文化財、また日本近代化産業遺産に指定された。

しかし、改修された江戸川の堤防が庭先まで迫り、当時の雰囲気はない。
少し前までは人が住んでいらしたらしいが、無人だった。

庭先を通っていくと奥の空地は防草シートが張ってあり、歩いていくと堤防わきの道路に出た。この道は堤防工事のため通行止めになっていたが、内側に入ってしまったので、なんとか出られるだろうと歩き続けた。
9:03
堤防のすぐわきに茶色の水をたたえた池があり、水中から空気でも出ているのか、噴水のように水が噴き上がっている。
9:04
堤防に上がってみたが、看板などの文字は見えなかった。
想像するしかないが、醤油工場から出る排水を好気性の微生物で浄化して江戸川に流しているのではなかろうか。
醤油は大豆、小麦などを発酵させて作るから、排水には糖、アミノ酸などの有機物が大量に含まれる。これをそのまま川に流したらBODが一気に上がるから、微生物で水と二酸化炭素まで分解するのである。
この液はしょっぱいのだろうかと、ふと思ったが、「キッコーマンもの知りしょうゆ館」を見学できなかったことが悔やまれた。
9:04
江戸川の下流方向
桝田家住宅がみえた。
流路は変わっただろうし、堤防もこれほど高くはなかったから景色はだいぶ違うだろう。下河岸すなわち(桝田)仁左衛門河岸には明治時代の最盛期、50~60隻の船が停泊していたという。

江戸川という名前からも大消費地との結びつきが分かる。
9:06
江戸川 上流方向
タンクのある工場は、文字やマークがないがキッコーマンだろう。
合併前は高梨家の工場だったか。
現在、地図を見ればキッコーマンフードテック中野台工場とヒゲタ醤油野田工場がこの中にあるようだ。

9:10
無事、だれにも会わず(怒られず)立ち入り禁止区域から出られた。

野田橋を渡る県道に出た。
川から離れるように少し東へ歩き、庚申塔のある角で県道から外れて川に戻るように細い道を入っていく。
9:12
キッコーマン工場の裏口。
造りからして昔は正門だったのかもしれない。
松とお堂が門の古さに似合う。

工場の門に向かうように門構えの家があった。

9:14
上河岸 戸邉五右衛門家住宅
桝田家と同様、江戸川の水運を担い、醤油の輸送に携わった河岸問屋である。こちらは桝田家と違って人が住んでいらっしゃり、表札は戸邉だった。
昭和24年の江戸川の改修に伴い、ここに曳家されたらしい。
主な家屋だけ移しただけだから、昔はもっと大きな邸宅、河岸問屋だったのだろう。

約束の時間まであと30分しかないが、まだ高梨家と河岸問屋しか見ていない。
駅から50分歩いて市の中心部から遠く離れたところに来てしまった。
戻るのに精いっぱいで茂木一族の豪邸を見る時間はなさそうだ。

(続く)

前のブログ

2026年3月12日木曜日

野田 駅名とキッコーマンの存在感

7:59
3月10日、火曜。
3月に入って何日か4月並みの暖かさのあと、真冬に戻る寒さ。
冷たい雨の中、家を7:10分頃出て、日暮里、柏で乗り換え、野田に来た。
柏からの東武野田線は高校生で満員。なぜかみんな女子高校生だった。やがて女性専用車だということに気が付き、次の駅で隣の男子高校生の車両に移動した。
8:23
目的の野田市駅に近づくと線路は高架になり、見晴らしがよくなる。
タンクの並ぶ工場が見えた。
8:23
電車が進むとタンクに赤いマーク。
亀の甲に萬の文字。
元亀天正、亀鶴はキだが、亀の甲はキッと促音になる。

社会科で「野田、銚子は醤油」とは習ったけれど、これだとテストに出るから覚えるというだけになる。野田のキッコーマン、銚子のヤマサ、と習ったほうが楽しい。(どっちがどっちだか分からなくなるかもしれないが)。(ヒゲタは銚子だがキッコーマン傘下)

野田市駅に到着。
高架になったのは最近のようで、ホームも駅舎も新しい。
8:25
改札を出たところで駅の外(東口)をのぞくといきなりキッコーマンの工場。

8:26
駅というのにほとんど人がおらず、観光案内所もないので壁の地図をスマホに撮った。
稲荷蔵とか給水所とか、キッコーマンを冠したものが多い。
8:27
反対側の西口もキッコーマンの工場
電車の中から見たタンクがある。
8:27
駅名の看板はおしゃれ。
小さく「野田市駅」。

こういう駅名の場合、たいてい近くの別路線に「野田駅」があるものだ。(川越、行田、足利などのように)。しかし野田に野田駅はない。大阪にある。(薬理学会などが開かれた大阪国際会議場の最寄り、福島駅の隣)

「野田駅」は、明治29(1896)年に房総鉄道(いまのJR外房線)に設置された。続いて明治31年に西成鉄道(いまのJR大阪環状線)にもつくられた。さらに、明治34年(1901)に入間馬車鉄道(1917年廃線)、明治38年(1905)には阪神電鉄でも「野田駅」が設置された。
野も田も地名によく使われる文字。全国各地に野田はあった。

野田市に鉄道がきたのはこれらに遅れて明治44年(1911)。

駅名原案は当然野田駅だった。
しかし、鉄道院へ出願すると、国有鉄道はじめ同名の駅がすでに複数もあったため名称変更を求められ、「野田町駅」として開業した。
大正3(1914)年には、JR外房線の野田駅(いま千葉市緑区)が誉田駅と改称されたが影響なく、ここは野田町駅のまま。1950年の市制施行に伴い駅名も野田市駅になり、現在に至る。

8:31
野田市駅遠景
ふつう駅舎がこの外観なら飲食店など入っているものだが、二階のように見えるところはホームの壁であり、要するに壁だけの看板駅舎といえる。

それにしても駅前は何もない。更地である。
キッコーマン以外何もない。人もいない。

昔はどうだったのだろう、駅前は何だったのだろうと国土地理院の航空写真を見てみた。
国土地理院1995
20年前、駅前が更地になる前も、駅の周りに住宅はなく、すべて工場のようである。
東武野田線から引き込み線のようなものが見える。
いまの駅前広場は二つの線路のあいだ、Yの字のなかにある。
国土地理院1984‐10‐15
40年前はもっと引き込み線ははっきりしている。
醤油の出荷に使われていたのだろう。

ちなみに明治44年の柏ー野田町が開通した鉄道というのは、千葉県営の軽便鉄道である。
設立には野田の醤油醸造組合の強い要望があり、県債をすべて組合が引き受けて建設された。野田町駅は終点だったから、この引き込み線は野田線が北に延びるまで本線だったのかもしれない。

野田線は大正時代に千葉県から民間に払い下げられ(北総鉄道、のち総武鉄道)、昭和に入って1928年春日部、大宮まで延伸する工事が始まり、社長が醤油醸造組合の重鎮、茂木七郎右衛門に交代した。1930年に船橋ー柏ー大宮が全通、そして各地で鉄道の統合が行われた戦時中の1944年に東武鉄道に吸収合併された。
国土地理院2024-04-10
いまでも上空から見れば引き込み線の跡はうっすら見える。

東京は氷雨でも野田は曇りだった。
しかし、こちらも雪交じりの雨が降ってきた。
8:31
繰り返すが駅周辺はキッコーマン以外は空き地である。
ひょっとして空地も全部キッコーマンの土地だろうか?
8:33
駅から見えた工場の正門に近づくと「もの知りしょうゆ館入口」の看板。

野田に来るにあたり、見学したかった。
無料で、昔の地図をはじめ歴史的なものの展示から、現在の製造現場をみてお土産までもらえるという。前日、電話で予約すると9:00開館、見学は1時間かかるという。しかし9:45までに某高校に行かなくてはならない。30分くらいで退出できないか?常設の展示だけでも見られないか?と聞いたが駄目だという。よく手を洗い、無菌服に着替えて工場に入るのだろうか? 一人別行動はできないようだ。
用事が終わってから見学しようとしたが、予約枠で空いているのは14:30といわれ、諦めた。
8:33
正門の外から和風の建物が見えた。見学コースになっている御用蔵であろう。
宮内省(現宮内庁)に納める醤油の専用の醸造所として1939年につくられた。江戸川沿いの敷地のほうにあったが2011年、ここに移築された。

工場見学に未練を残しながら西の江戸川を目指す。
8:35
左:キッコーマンフードテック(株)
右:総武物流(株)
総武物流は1924年、醤油の運送から始まったが、いまは車両のリース、倉庫業などを行う、キッコーマンのグループ企業である。

駅からこのあたりまで県道46号(野田牛久線)はあたかも企業内道路のようだ。

電柱広告にキッコーマンの名が入っている。
町全体がキッコーマンなのだから入れる必要もない。しかし広告費として電柱管理者(電力、NTT?)、看板業者に払い、野田の経済をまわす。寄付しているつもりなのだろう。

全国に企業城下町はあまたあれど、市の中心の駅の周りがすべて企業という、これほど圧倒的な存在感を示す町はみたことがない。

そのキッコーマンの歴史をみるべく、かつて醤油を積みだした江戸川べりまで歩いていく。
(続く)