2026年5月12日火曜日

備中高松城、水攻めと中国大返しの現場にて

 4月22日、早朝岡山についた後、備中高梁の松山城を見て、午後からはレンタサイクルで総社宮、備中国分寺や巨大古墳をめぐり、備中高松まで来たが、時間的に余裕があった(と思った)ので岡山平野の端ともいえる足守までいった。

そして足守藩陣屋から備中高松城までひたすらママチャリ自転車をこいで戻ってきた。
いま地図と写真の撮影時刻をみると6.5kmを25分で戻ってきたようだ。しかし、往復プラス見物で1時間15分かかっていた。
その結果、高松城跡についたときは自転車を返却する17時まであと1時間くらいしかなかった。しかも返却場所はずっと先の備前一宮である。ところが、この時、そういう計算はまったくしなかった。疲れていたのか頭が働かなかったのかもしれない。
15:47
到着した駐車場には何本もの幟が立っている。
しかし、その文言がなんと、「高松城水攻め」である。これはないだろう。
確かに秀吉側から見ればそうかもしれないが、ここの城主は清水宗治である。「難攻不落・高松城」とか「籠城50日、天下の名城」あるいは「悲劇の名将・清水宗治」などといった文言にするべきだろう。

天正10年3月(1582)、秀吉は毛利と対決するため姫路から2万の軍勢を率いて出陣、岡山の宇喜多軍1万と合流した。
ちなみに、宇喜多直家は備中兵乱で毛利と同盟し備中松山の三村氏を滅ぼし備前岡山を手に入れた。しかし、その後信長についた。天正9年に直家が病没したとき、嫡男・秀家は11歳で、宇喜多の家は秀家の叔父、宇喜多忠家らの集団指導体制だった。(のちに秀家は秀吉の養女・豪姫の娘婿となり、秀吉一門として扱われた)

4月15日、秀吉は毛利の東の防衛ラインである境目七城の主力・備中高松城を包囲し、城を見下ろすことができる竜王山(北方の最上稲荷の山)に布陣した。
高松城にこもる兵は3,000ほどであったが、周りが沼であったため秀吉の大軍も攻められず膠着状態となった。秀吉は城を渡せば備中、備後を与えるという信長の誓紙を送ったが、「中国者の律儀」と言われるほど義理に篤い毛利に対し、残虐かつ平気で裏切る信長は信用ならず、宗治は拒否した。

5月1日、秀吉は水攻めを決定し、8日、足守川の水をひくべく堤防を作り始め、また陣もその近く、南東の石井山に移動した。土の俵を一つ運んでくれば銭百文と米一升与えるという破格の条件を出すと、うわさを聞いて近隣から百姓・町民、老婆・子供まで競うように集まってきて、堤防はわずか12日で完成してしまった。

いっぽう、救援要請を受けた毛利方は5万の大軍を送った。この数字は1万とも8万ともいわれ幅があるが、輝元を総大将に毛利の両川といわれる叔父の吉川元春、小早川隆景も出陣したから毛利の総軍といってよい。

犬を連れて散歩中のご婦人二人の横に、中に入れる円形ジオラマのような水攻め図案内盤があった。
15:49
高松城をめぐる両軍の布陣
北に津田与左衛門、加藤清正、西に吉川元春、小早川隆景、南東に大鳥居、羽柴秀吉の陣がレリーフになっている。
毛利軍が来たときはすでに堤防が完成し、高松城の周りは湖になっていた。
とても城跡には見えない。
水田跡を利用した花菖蒲公園といわれても納得する。
15:50
備中高松城址資料館
入場無料だが15:00まで
15:51
毛利軍が手を出せなかったのは、毛利水軍として活躍した瀬戸内の来島村上氏などが秀吉の調略によって離反し、兵糧の輸送が困難だったからと言われる。また水に浮かぶ高松城に物資を救援しようにもその船が手に入らなかったらしい。

資料館の後ろのほうに二の丸跡という看板があった。
15:52
これを見てちょっと驚いた。
こんな城址があるだろうか。
今みてきた菖蒲園のような城址公園や資料館の場所は沼すなわち水の中であり、当時の二の丸はいま畑や道路になっている。駐車場は三の丸だったようだ。そして城地でも高さは沼とあまり変わらない。
15:54
本丸跡
かろうじて陸地である。

城らしい石垣や堀など遺構が全くないのに続日本100名城に選ばれているのは、その物語性によるとしか考えられない。たしかに歴史の上で重要な舞台になった。

5月15日、膠着状態にあった秀吉は安土の信長に援軍を乞う手紙を書いた。
17日、信長は家康の接待をしていた光秀に秀吉の応援に向かうよう命じる。光秀は出陣のため居城丹波亀山に向かった。
29日、信長も自ら大軍を率いて出陣するため本能寺に入り、軍勢の終結を待った。

織田勢の大軍が来ることを知った毛利方は危機感を募らせた。
さらには雨が続き、戦端を開いて戦っても、その間に城は水没してしまう。
毛利は、清水宗治と兵、その家族を救うため五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲を申し出た。毛利領国の半分近い。ところが、秀吉は城主清水宗治の切腹も要求した。やがて来る信長への気配りである。
毛利方としては最後まで忠義を尽くしてくれる宗治を救うための五国割譲であるため、交渉は物別れに終わった。
しかし6月1日、それを聞いた宗治は毛利、城兵を救うため自刃することを決意する。翌2日、4日に自刃するという書状を秀吉に送った。

一方、京都では6月2日早朝、本能寺で信長が襲われる。
6月3日夜、その急報が秀吉の陣に届いた。そのあと光秀の毛利方への密使が秀吉方にとらえられた。秀吉はその事実を毛利方に漏れないようにする最大限の努力をする一方で、一刻も早い和睦を急ぐことになる。

4日正午、変化を悟られまいとする秀吉の見る前で、白装束の宗治は小舟に乗って水面に乗り出した。同乗者は僧になっていた実兄、介錯人ら4人である。秀吉方からも堀尾茂助の検使船が出て、贈り物である酒・肴を宗治の船に移し、堀尾が酌をして最後の宴が開かれた。宗治は舞を踊った後、船上で自害した。他3人も次々と自害を遂げた。
このあとすぐ秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割譲を先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩し、毛利方はこの条件を受け入れ、和睦が成立した。

駐車場から道を挟んで近くに高松山妙玄寺がある。周りは田んぼである。宗治自刃の地という絵が描かれた案内板が立っていた。旧二の丸の端であるが、すでに水没していたのだろう。
16:04
説明板を見れば慶長5年(1600)、高松知行所の領主・花房職之により花房家の菩提寺として建立されたという。(花房は宇喜多の家臣であったがのち離れ、関ヶ原のあと家康の旗本になった)
右の森はごうやぶ遺跡。

向こうの山は秀吉本陣の石井山である。
秀吉はじめ周りの山々の兵が見守る中、宗治は見事に自刃した。
ただ、毛利方の陣からは見えなかったようで、一人自刃するごとに上がる秀吉軍の鬨の声でそれを察したという。
16:04
清水宗治公自刃之址
妙玄寺境内にある。お墓のように見える。ただの石柱1本のほうが良い。
16:06
ごうやぶ遺跡
宗治を追って家臣が次々と自刃した場所という。
ちょっと不気味な場所だが、近くに行ってみた。
フジが何かの木にからまっていた。

宗治の首は秀吉の陣に送られ、船上の胴だけ本丸に戻ってきた。
それを埋めた塚が近くにあるらしいので行ってみた。
16:11
城内の者は皆嗚咽し、胴体は本丸の北にあった池の下丸、ここに手厚く葬られた。
船上で4人の介錯を行った国府市佑もここで自刃したという。
しかし、いまこの地は民家の庭先のようであった。
 花は新しかった。
宗治を慕うものにとっては、胴が埋められたといっても薄気味悪いものではない。


2026年5月11日月曜日

自転車で洪庵と木下家の足守は遠かった

4月22日、岡山県の内陸平野を自転車で周っている。
約2時間で備中総社宮、作山古墳、備中国分寺、こうもり塚古墳、造山古墳をみた。
まだ古墳はいっぱいあるが、もういい。
先を急ぐ。

いつの間にか住所は総社市から岡山市北区になっている。
本来の岡山市は備前であるが、北区は備中、美作の一部を含む。

造山古墳のふもとの家々が面白かった。
13:53
家の壁板が焼いてある。
防腐、防虫のためだと思うが、安価な化学製品の新建材を使わず伝統を守るところが偉い。
13:55
田舎なのになぜこんなに狭いだろう、と思ったが、車社会になる前ならこの広さで十分だ。

それにしても村の家々の見物に自転車はちょうどいい。
車では入れない、あるいは通りすぎてしまうし、徒歩だと見られる総量が圧倒的に少ない。

さて、どこに行くか?
レンタサイクルは吉備津彦神社の備前一宮駅で返すが17時まであと3時間。
地図を見れば、備中国府跡、総社市埋蔵文化財学習の館、吉備路文化館、は西方になり戻る形になる。雪舟生誕の地、鯉喰神社は知識がないので体力、時間の心配のほうが大きくなる。

ぜひ見たかった備中高松城跡に行くことにした。
吉備路自転車道から外れていたので農道を通った。途中から無舗装になった。
田植えに備えて耕運機が前を走っていた。運転者が乗る大型のもので、私に気が付くと端に寄って道を開けてくれた。

脚に不安を感じながらもなんとか走っている。
川にぶつかった。
14:09
足守川
上流方向をみる。ほとんど流れはない。
このあたりは傾斜がまったくなく、古代は海が入り込んでいたらしい(吉備の穴海)。
岡山平野南部の児島半島は文字通り海に浮かぶ島だったという。

この川は高松城の水攻めに関係したかどうか。
足守川を渡って岡山自動車道(E73、岡山米子線)をくぐる。
(高速道路は並行する国道から番号を取ることが多いが、幹線といえる二桁国道は南西諸島沖縄の58号までで59~100は欠番になっている)

しばらく行くと国道180号にぶつかった。岡山市から吉備路を通って高梁、新見の山間部を過ぎ米子、松江まで行く。
そこを少し南にいって備中高松駅のそばの踏切をわたった。
14:32
備中高松駅が見えた。
駅前の商店街などはなさそうだ。

ここから高松城はすぐそばである。思ったより早く着いた。
高松城をみたらあとは吉備津神社、吉備津彦神社しかない。道も迷うことはない。

ここまでだいぶ走った。

JR総社駅から総社宮まで1.7km、
総社宮から痙攣地点(作山古墳)まで2.5km
作山古墳から道を間違え国分寺、造山古墳まで6.5km
(直線距離なら3.3km)
造山古墳から備中高松駅北踏切まで2.9km

合計、2時間30分で13.7km走った。

脚は心配だが、時間はあるので北方の足守に行ってみようと思った。
今日行かなければ二度と行かないから。

足守は緒方洪庵の出身地であることだけ知っていた。
このブログでは彼の子孫について書いている。
墓は子息たちが住んだ大阪のほかに、東京にもある。千駄木の家から最寄り駅の本駒込駅に行く途中の高林寺にある。石碑の撰文は鴎外森林太郎。


足守は岡山県のどこにあるか知らなかった。
備中高松駅から足守へ行くため国道180号を北にこぎ、右折して国道429号に入る。
この国道は倉敷から山間部を通って京都府福知山まで行く。
とちゅう岡山空港にも行けるらしい。

足守まではずっと一本道である。
吉備路サイクリング道とは違って車道だから景色がいいわけでもなく、のんびり見物というわけにもいかず、時間を気にしながらひたすらこぐ。
14:48
「歴史と文化財の町あしもり」
「うどん・和そば・お餅 洪庵茶屋」
という看板。
いったい足守はどのくらい遠いのか分からず不安なまま自転車をこいでいたが、この看板でようやく緒方洪庵の出身地、足守に入ったことを知る。

足守は備中の吉備郡足守町であったが、1971年、備前の岡山市に吸収合併された。
14:53
左の「あしもりクリニック」。偏平足や外反母趾の治療専門だと面白い。

右前方は冠山城址。もとは高松城などとともに毛利の境目七城のひとつであった。天正10年、羽柴秀吉の高松城攻めの前哨戦で攻められ、織田勢2万、宇喜多勢1万に囲まれ、加藤清正の一番槍など激戦により、守将の毛利氏家臣・林重真が自害して陥落した。
立ち寄る元気なし。

やがて「近水園・侍屋敷」という案内板があり、国道からわき道に入り足守川に出た。
ちなみに近水園(おみずえん)とは藩主家の庭園である。
14:58
あおい橋を渡ると時間が止まったような街並みだった。
静かだから自転車屋さんから話し声が聞こえる。
AIやロボットが出てきてこれから大変だ、なんて話だった。
15:00
橋からの道は町一番の中心通りなのに、「足守歴史ふれあい通り」というほど古風な町である。
足守藩の陣屋跡に行きたい。
すぐ近水観光振興会お休処があった。そこで町の観光地図を見たが、武家屋敷とか陣屋町という場所は書いてあるが、肝心の陣屋跡という文字がどこにもない。

仕方がないのでそのまま陣屋町のほうに自転車を走らす。
途中武家屋敷があった。
15:07
足守藩家老・杉原家の居宅
子孫が昭和まで住んでいたが、1973年岡山市に寄付された。
無料だが中には入らず。

それにしても陣屋はどこだろう?
と自転車を走らすと道を掃いていた女性がいた。聞くと目の前を示された。
15:10
よく見ると水路のように狭いが、石垣を組まれた水堀が見える。
恥ずかしながら足守は緒方洪庵しか知らず、藩主が誰だか来るまで知らなかった。
秀吉の正室ねね(北政所)の実家、木下家と聞いて、「たしか大分にもありましたね」というと「よくご存じで」とそばの家の壁のところに連れて行ってくれた。
15:11
壁一面に説明資料が貼ってある。
「ちょうどこの場所は図ではここになります」

「大分・日出藩は足守の利房の弟、延俊ですね」

秀吉は一代で武将になったから信長や家康などと違って家代々の家来がなかった。自分の肉親の秀長のほかにねねの実家も頼らざるを得なかった。ねねの実家は杉原家といい、ねねの兄、杉原家定に自分の木下姓と姫路城2万5千石を与え、その5男秀俊を毛利の一門、小早川隆景の養子に押し込んだ。皮肉にも彼こそ関ヶ原で家康側に寝返った小早川秀秋である。
(先ほど見た武家屋敷の家老の姓は杉原だったから藩主家の縁戚だろうか?)

(ちなみにのちに安芸の大大名になる浅野家はねねが秀吉と結婚する前、杉原家から養女として入った関係で浅野長政(彼も浅野長勝の養子)が秀吉政権の五奉行の一人になった)

杉原家定すなわち木下家定は関ヶ原で中立だったから石高は安堵されたが、要衝の姫路からここ足守に所領替えになり、足守藩が成立した。戦国時代は終わったから城は作られず陣屋となった。慶長13年(1608)に家定が死ぬと幕府は遺領を長男勝俊と二男利房に分与するよう指示したが、勝俊がこれを独占したことからそれを理由に翌年改易された。しかし利房が大坂の陣で功を上げ、再び足守を与えられ、以後、明治まで木下家12代が続いた。歌人の木下利玄は最後の藩主木下利恭の弟・利永の二男として生まれたが(利は通字)、木下子爵家の養嗣子となり家督を継いだ。

ちなみに大分の木下家は家定の三男・延俊に始まる。父が姫路にいたころ兄二人は秀吉から若狭に所領を与えられ、彼は播磨の三木に2万5千石を与えられた。関ヶ原では最初から東軍につき功を上げたことから豊後に5千石加増され転封、日出藩が成立、ここも明治まで16代続いた。

さて今の足守に話を戻す。
公園は非常に整備されていた。聞けば陣屋跡は長く荒れていたらしい。
しかし、公明党が国交相ポストを長く担った時代には、「まちづくり交付金」などを通じた自治体への景観・公園整備支援が非常に増え、それできれいになったという。
彼女は非常に詳しいので訳けを聞くと、また説明板のところに行き、私はこれを書きました、たぶん足守のことは一番詳しいと思います。よろしければ本が家にありますが。と言われたが遠慮した。

箒を持った彼女に、「こうやって地元の方が掃除されているからきれいに保たれているのですね。」というと「いまはクスノキの葉っぱが落ちるんです。まあ家の前ですから。」という。
15:14
振り向けば立派な家がある。陣屋に面するという場所からして
「ひょっとして足守藩の藩主家に近いお家ですか」と聞けば「家老でしたが」と言われた。

今大河ドラマは豊臣兄弟で初期のころは木下家の祖先もよく出てきた。
秀吉死後のねねは高台院、北政所として1624年まで生きた。豊臣家は大阪城で灰になったが、彼女の兄、甥の木下家には秀吉、ねねの手紙などが多く残った。

大河ドラマは毎回、その年の終わりころ、江戸東京博物館でドラマにちなんだ特別展が開かれるらしい。私が東京から来たというと、11月の特別展には我が家に伝わるものも出るんですよ、よろしかったら見に行ってください。とおっしゃった。

話はいくらでも続きそうだが、帰りが心配(体力、時間)なのでお礼を言って辞去した。
15:22
旧足守藩木下家陣屋跡
最後にこの石柱だけ写真に撮った。

陣屋跡の奥のほうに名園といわれる藩主家の庭園「近水園」や市立歴史資料館足守文庫(無料)があるらしいが、行かなかった。

ここはインバウンド外国人は来そうにない。
富士山や伏見稲荷、嵯峨野の竹林などは知識がなくとも「オー、ワンダフル」だが、ここはほかの観光地と離れているし、何より知識が少しでもないと来る意味がないだろう。
そのぶん、落ち着いた街並みが残っているともいえる。

吉備線に足守駅があるが、そこですら町の中心、陣屋跡から4.3km、59分かかる。山に囲まれ時代に取り残された町である。

帰りはひたすら自転車をこいだ。
道中、面白いものは何もなく、横を通る車に気を付けながら備中高松を目指した。
ふと、足守について唯一知っていた緒方洪庵の生誕地に行かなかったことに気が付いた。

(続く)

2026年5月9日土曜日

三太郎大根とヒキガエル、ネズミ、鉢植えリンゴ

5月の連休が終わり、半そででもいいような季節になってきた。

庭の畑も日に日に変わる。
1か月近く書いてなかった。
2026-04-14
4番畝にトカゲがいた。
冬眠から出てきたのだろうか。
2026-04-17
3番畝
三太郎もさすがにこの時期になるとトウが立つ。
これ以上成長しないように抜いて地面に埋めて保管する。
2本とも葉を除いて1.6キロあったからスーパーの青首大根より重い。
2026-04-18
4つ股、2つ股もあった。
それぞれ2.3キロ、1.7キログラム
2026-04-26
自家製の最後の里芋を食べた。
皮に芽が出ていたので育つかどうか地面に埋めた。

2026-04-29
1番畝
トウモロコシ、スイカ、メロンが発芽している。
これらをどこかに植えなくてはならないが、まだ決まらない。
都会で野菜を作るときもっとも難しいのは場所のやりくり。
作付け管理表(一部)
エクセルで9番畝までの管理表を作り、それぞれの作物の栽培期間、時期を考慮しながらパズルのように植える場所をやりくりする。

3番畝の三太郎大根とほうれん草を全部抜いたが、まだ春菊とレタスが残っている。
まだ食べられるので抜くのに忍びなく、ほかに移すことにした。
2026-04-26
3番畝のレタスを移植しようとするとヒキガエルがいた。
もう絶滅したと思っていた。
2026-04-26
しかし非常に小さい。
昨年久しぶりに見た個体とは別である。
3月に斜め前の家が取り壊したのでそこから来たのだろうか。
2026-03-22
ヒキガエルは陸生とはいえ、繁殖には水たまりが必要だから、よく絶滅しなかったなと思う。引っ越してきた2013年には我が家の庭だけで5,6匹いたが、いまや2年に一度、1匹見るかどうか。「良かった、まだ絶滅してなかったのか」と思うほど減ってしまった。

ヒキガエルを草むらに放し、レタス春菊の移植を完了した。
2026-04-29
レタス、春菊は場所がないので4番6番の間の敷石のわきに植えた。
どうせ、2週間程度だろう。
下の4番畝、不織布の下はサトイモを植えてある。
(5月8日、半分くらい発芽していた)

2026-04-29
2番畝の春ジャガは順調
おそらく6月に収穫した後はエダマメになるだろう。
1番畝で育てているトウモロコシ苗は当初、大根レタスのあった3番に定植する予定であったが、洗濯物に花粉が付く恐れがあったので、急遽苗を育てている1番に植えることにした。

そのため、ポットの苗だけでなく、生育中のサツマイモの苗も移さねばならなくなった。
2026-04-29
サツマイモ
越冬した芋づるからの苗と、越冬した種芋。
ところが見てびっくり、一番大きな芋がネズミに掘り出されていた。
2026-05-08
芋の苗を1番から8番畝に移動したが、ここでもネズミにかじられ転がっていた。
2026-05-08
5月3日、苗を移動した1番にトウモロコシを植えた。
25センチ間隔、3 x 11で少し密だが33本。
2026-05-08
スイカ、本葉が1枚でたところ。

2026-05-08
メロン苗。
スイカ同様、一昨年と昨年に食べて保管していた種をまいている。
スイカメロンは当初1番の予定だったが、トウモロコシを植えてしまったので、大根レタスを片付けた3番に植える。
2026-05-08
3番畝にメロン定植
まだ本葉が1枚しかないが、ポットよりも地植えのほうが生育がいいかと思って。
2026-05-08
5番畝玉ねぎは不作だった。
もう葉が倒れているが、まだ緑なのでもう少し玉が大きくなると思って放置。
2026-05-08
30年ほど前に息子がリンゴを食べてその種をまいた。そしたら発芽した。
一度も花が咲かないが、「なつかしさ」のためにここまで維持してきた。
2年前に切ろうとしたが思いどどまって鉢植えにした。
どかそうと持ち上げようとしたら底から根が出て動かなかった。
2026-05-08
底からの根を切って動かした。
陰になっていたナスに日があたった。
いよいよリンゴを廃棄する時期か?
種をまいた息子にラインしたら「切ってもいい」といった。
私が一番「なつかしさ」を感じて踏ん切りがつかない。


20251211 山芋、里芋、大和芋を掘る。ヒキガエル発見

2026年5月7日木曜日

痙攣しても備中国分寺と古墳群をまわる

4月22日、急遽岡山県に来て、伯備線に乗って山間部に入り、山城の備中松山城をみた。

そのあと岡山県らしい平野部に戻ってきて、
総社駅に下車。11:50。
ここでレンタサイクルを借りた。

備中国分寺や古墳を結ぶサイクリング道路が整備されているが、その前にふつうの街中を走って、市名、駅名にもなっている備中総社宮を訪ねた。(前のブログ)

そのあと12:20に総社宮を出て、地図を見ながら県道272号線を南下すると両側が田んぼになった。
やがてサイクリング道路の標識があった。
左折して入っていく。
要するに農道である。

よく見るパンフレットなどは光あふれる緑の田園地帯だが、この日は曇り。
しかし暑くもなく寒くもなく自転車日和といえる。
12:30
久しぶりにレンゲソウをみた。
この道を東に向かう。
古代の山陽道はこのあたりを通っていた。
12:34
水田だったところにナスの苗が植わっている。
しかしマルチ張りがずさんではげている。

このあと突然、右脚のすねが攣った。
脛というのは骨が出ていて痙攣する筋肉などないと思っていたが、はじめて経験した。
自転車は足首を曲げたままペダルを踏み続けるから、その形を維持するためには脛にわずかにある筋肉を縮める。それを長時間(といっても20分程度)続けて痙攣したらしい。
総社駅から総社宮まで1.7km、総社宮から痙攣地点まで2.5km、あわせて4.2kmしか乗っていない。ふだんならありえないことだ。
しかし朝から急いだ倉敷見物に、続く備中松山城見物の2時間(うち登りが1時間)が効いたか。
このまま治らなかったらどうしよう。
自転車を押して元のレンタサイクル店まで戻るのは不可能である。

安土、近江八幡とのきは自転車を返した後、夕方に太ももが痙攣して歩けなくなったが、今回はこれからというときである。

幸い、しばらく休んだら何とか痛みは消えた。

ちょうど作山古墳の横だった。

地図では作山古墳だが、なぜか道の両側に墳丘らしき森がある。
よくわからず右脚をいたわりながら大きなほうの裾をまわる。
12:41
左:古墳? 右:?
「滑りやすいので足元に気をつけてください」
脚のことを考えると登って確かめることもできない。

作山(つくりやま)古墳は5世紀中ごろ築造。長さ282メートル、岡山県では第2位、全国では第10位の規模になる。あとで調べたら上の写真の右側は古代に独立丘陵を削って造成したときの残りの部分らしい。

古墳の南側に集落があり、ぐるりと回るようにそちらの道を行く。

「つくりやま」とはいかにも地元の人が古くから呼んでいた名前に思える。古墳という教科書的単語をつけて屋上屋のようになっている。
12:45
案内板がなく、まだ古墳かどうかよく分からず。
簡単に先まで行って戻ってくるという自転車のありがたみを感じるが、やはり大きすぎると全体像が分からない。
そのまま離れた。
12:47
離れると確かに前方後円墳のように見える。
なおも農道をすすむ。

広い道に出た。
この平野は古代の吉備王国、さらには律令時代の国府のあったところである。
12:54
周りの低い丘丘を眺め、あっちのほうも古墳がありそうだな、と思う。

気持ちよく走り続け、現在地をスマホで確認して仰天した。
作山古墳の周りを走ったため方向感覚が90度ずれて、国道429号を北に向かっていた。
東に行くつもりだった。
来た道を引き返した。再び農道に入り、田んぼの中を信州中野の篠井川のような川に沿って走ると何かがバシャバシャと水に飛び込んだ。それこそ篠井川のようだった。カエルには季節が早い。ネズミか?
13:03
すこし離れてカメがいた。
飛び込んだのは日向ぼっこをしていたカメの群れか? この日は曇りだし、亀もあれほど俊敏とは思えないが。
13:04
東方に備中国分寺の五重塔がみえた。
山の中でもなく街の中でもないことが、昔らしい風景で良い。
しかし行く道がない。
13:06
さらに南にいくと東への自転車道路にぶつかった。
平日だからほとんど人がいないが、ランニングしている人がいた。
13:09
備中国分寺
自転車の欧米カップルがいた。
13:10
真言宗である。
讃岐国分寺を思い出した。
国分寺はもともと聖武天皇(701-756)の時代、諸国の国府の近くに建立した無宗派の寺院だった。平安後期以降いったん荒廃し、中世に復興するにあたり、もともと国分寺は国家鎮護(国家安泰・災厄除け)が目的だったから、加持祈祷をする真言密教と相性が良い。結果として再興時に真言宗に取り込まれやすかったという構造がある。
13:10
城と同じく立地には興味があるが、建物、仏像にはあまり関心がないので早々に退出した。

なおも田園の自転車道(農道)を東に行くと古墳らしき森があった。
13:15
こうもり塚古墳
これもこうもり塚と呼ばれていたのだろう。
全長96メートルの前方後円墳。
13:17
前方部に穴が開口している。
作山古墳よりあと、6世紀後半とされる。仁徳天皇の側室黒媛(くろひめ、吉備出身)の墓とされるが時代は合わない。古墳は時代が下がると小さくなる。
13:18
花崗岩を組み合わせた石室になっている。
なかに家型石棺が見えた。

ここが面白いのは5,6世紀の古墳群と8世紀以降律令制時代の国府(国分寺、国分尼寺、総社)の場所が完全に一致していることである。よほど暮らしやすいところだったのだろうか。

律令制になったとき地方豪族は国造として国司と併存したが、古墳の主と国造は連続していたのかどうか? 吉備王国は筑紫、出雲、大和とならんで4大先進地域だった。
山陰、中国山地の鉄が当時の国家の交通主軸であった瀬戸内海に出てくる場所にあたり、弥生時代からの製塩(昔は海がもっと内陸まで入っていた)もあって、4つの中では一番豊かになる条件を備えてる。しかし神話(記紀)では大和政権に滅ぼされたことになっていて、古墳の主は豪族として残らなかっただろう。
13:25
備中国分尼寺跡
国分尼寺は国分寺とセットで全国に置かれたが、国分寺と違って現在残っているものはまったくない。
尼寺は経済基盤が国分寺より弱く、また女性僧の組織は弱かった。

さらにサイクリングを続けた。
次は造山古墳に行く。
道を間違えて、路傍で草取りしていた女性に聞くと田んぼの向こうを指さされた。
13:36
造山古墳全景
道を間違えたおかげで全景が見られた。
これもツクリヤマといわれてきた。
おそらく備中平野には無数のツクリヤマがあり、古墳の名前というより大川とか丸池と同じような普通名詞だったのだろう。
先に見たツクリヤマ(作山)古墳と区別するため、サクザン古墳、ゾウザン古墳ともいうらしい。
13:38
造山古墳
墳丘長は約360メートル、大仙陵古墳(堺市、486メートル、伝16代・仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(羽曳野市、420メートル。伝15代応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(堺市、365メートル、伝17代履中天皇陵)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。

大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が2019年、ユネスコによって世界文化遺産として登録されたことに対し、こちらは1923件(2026年)ある国の史跡の一つに過ぎない。
13:38
左:造山古墳の前方部
右:陪塚(1号、2号)

13:39
2つの陪塚。
左:榊山古墳(造山第1号墳)、右:造山第2号墳

13:42
近畿にこれだけ巨大な古墳があれば天皇陵とされ宮内庁の管轄になり、研究者ですら立ち入りできない。しかし、ここはなんと自由に登れる。

13:45
上に神社があった。

思ったより高い。
平地に土を盛ったとすれば大変な土木事業である。
土を取った跡(堀)などないことから、自然の丘を利用したのだろうか。

13:46
前方部から後円部を見る。

13:47
秦の始皇帝の陵と同じくらいの大きさ。
登れる古墳としては日本で(世界で)最大という。
前方部には阿蘇山の溶岩でできた石棺があり、後円部には讃岐の安山岩でできた板石が発見されたという。石などどこにでもあると思うが、もし実際に運んできたものなら、ここの大王は相当力があったのだろう。

先を急ぐので早々に下山した。
13:50
前方部の斜面は畑になっていて、柿の木が植わっていた。
私有地なのだろうか?
段々は古墳の構造なのか、畑にするために削ったのか良くわからず。

古墳は3つ見たのでもういい。先を急ぐ。

(続く)