2026年10月25日日曜日

三島大社と水路と、大山祇神社

 10月4日、沼津を見物した後、隣の三島に来た。

江戸時代は三島大社の鳥居前町と東海道の箱根前の宿場町として栄えた。
しかし明治になって東海道線が通らなかった。取り残される恐れがあったため、町の有力者たちは1889年に北方に開通した東海道線(現・御殿場線)に、1898年新駅を設置してもらい、それを三島駅とし、南方の三島町駅から豆相鉄道線(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)を延伸し接続するために努力した。

1934年に小田原、熱海経由の新線が三島にきて町の中心に(二代目)三島駅ができ、ようやく東海道における江戸期並みの地位に戻った。
そして新幹線の駅も沼津でなく三島となり、利便性はさらに上がった。
(しかし、静岡県東部の中心は相変わらず沼津である)
12:56
三島駅東海道線ホーム
新幹線は右の高いところ

12:58
三島駅 駅前広場
相変わらずどこもインバウンド客が多い。

三島は一度だけ来たことがある。
1990年11月、薬理部門の社内旅行で伊豆に来た。下田などをバスでまわって帰路三島から新幹線で帰ることになった。予定より早く三島に着いてしまったのか、待ち時間があり、喫茶店などに入るものもいたが、私は山本達郎氏を誘って、三島駅周辺を歩いた。
水量豊富な川だけ覚えている。
そこにいってみたい。
13:03
楽寿園
駅前広場のすぐ向こう側にある。
ふるくは浅間神社や愛染院などが立っていたが、1890年、小松宮彰仁親王(1846–1903)の別邸が造営された。戦後三島市の所有となった。
宮様の別邸のほか、小さな動物園や三島市郷土資料館などもあり、入場料300円は安いけれども、入らず。

街を歩きたい。
駅前から南東への坂を下りていく。
13:08
ゆうゆうホール
三島市民文化センターである。
通りに面した階段広場で弁当を食べたりおしゃべりしたりたむろしている。いい感じ。
ホールの裏は楽寿園である。
36年前に見た川を見たかった。
東のほうにいくとあった。
13:12
藤岡武雄については知識がない。

昔見た川はもっと大きかった。
地図を見たら上流に湧き水のところがあったのでいってみる。
13:15
菰池公園
記憶の水はここでもない。
下流に行く。
13:17
三島は海岸そばの沼津と違って内陸で、南に向かった斜面にあり、駅の南で水が湧いている。むかし富士が噴火して溶岩が流れてきたとき三島のあたりで止まった。それが冷えたとき、板状節理として内部に血管のように空間(ひび割れ)ができ、そこを富士の雨水が通ってここに顔を出すという。
13:18
白滝公園
水はきれいだが、36年前の記憶とは違う。
その景色を求めて川に沿った道を歩いていく。
13:20
鴨がいた。
13:21
太宰治の文学碑
流ればかり見ていたため、多くは気づかなかったが、グーグル地図を見れば、白滝公園から川沿いに、正岡子規、十返舎一九、松尾芭蕉、司馬遼太郎、若山牧水、窪田空穂、小出正吾、井上靖と文学碑があったらしい。
13:23
川に沿って歩いていたら三島大社にぶつかった。
13:25
伊豆国一宮 三嶋大社
西の鳥居
立派な本鳥居は南の旧東海道沿いに面しているが行かない。
伊豆国総社。旧社格は最高の官幣大社(65社あった)。
西の鳥居から入ると総門の前に出る。
13:27
総門
三島市制85周年記念、竜王戦第2局 10/22,23
という立て看板があった。
将棋のタイトル戦はホテルとか高級旅館のほかにも仁和寺とか羽田空港とかいろんなところで行われる。いろんなところというのは会場候補は無数にあるということで、それで選ばれるというのは、その会場に熱烈な将棋ファンがいて誘致合戦でもあったのだろうか。
13:27
神池
むこう岸に厳島神社の他に縄が回されたクスノキがあり、女性がお参りしていた。
った。
行くと女性とすれ違った。
13:29
大楠
13:30
神門
現在の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)である。ただし事代主神のほうは江戸時代末期からで、もとは大山祇命だけだった。

大山祇命は伊勢原市の大山の山頂にある大山阿夫利神社の祭神でもある。阿夫利は雨降り(あふり)で古くから雨乞い・五穀豊穣のご利益があるとされた(大山信仰)。大山は相模のふもとから見て大きな山容から言うのかと思ったが、大山祇命が由来かもしれない。

しかし、なんといっても大山祇命といえば伊予、大三島の大山祇神社である。
以前飛鳥IIでそばを通ったときのブログに書いたが、ここも瀬戸内に浮かぶ島なのに伊予の国一之宮、旧社格は国幣大社である。主祭神の大山祇命は大山積神、あるいは「三島大明神」とも称された。伊予の大三島は周りの島の名前からみて大きな御島からきたのかもしれない。では伊豆の三島は伊予の大三島からきているのではないかと考えるのは自然である。

伊豆の三島は伊豆諸島の美称、御島からきているとされ、祭神も伊豆諸島の開拓神であるとしている。しかし鎌倉時代から伊豆の三島は伊予の三島社を由来としているとされてきて、神社名、祭神名の一致からこちらのほうが正しいように思える。もちろん今の三島の地名は三島大社あるいは三島神から来たものだろう。
13:31
舞殿
本殿は工事中だった。

13:33
天然記念物・金木犀。
樹齢1200年というが、はて、千駄木で伐採した金木犀のほうが大きかった。
と思ったら、左の木は原木の新芽を苗木とした後継樹で、本体は正面奥の枯れた骨のような細い老木だった。根元が3つに分かれていて、しめ縄が張ってある。しかし木は樹齢ではなく、絶対的な太さ大きさがないと、崇拝されないと思った。
13:34
「白蛇革財布ございます」
13:35
白蛇は色素を作れない突然変異体だから群生することはありうる。三島大社あるいは三島にも岩国のようにアルビノの群生地があるか、養殖でもしているのかと思ったが、そうでもないようで、皮はどこかから持ってくるようだ。大山信仰で分かるように雨降り=水の神として蛇が使いとされ、白いという貴重性から金運アップとかの文句をつけて財布にされたのだろう。
13:47
三島駅に戻ってきた。
それにしても隣の沼津駅との違いが甚だしい。
向こうは2階建てビルの橋上駅だったのに対し、こちらは三島大社のような平屋である。駅前広場の景色も全然違う。
沼津は城下町をもとに明治22年、駅ができたが、三島の場合、駅ができたのは丹那トンネルが開通して新線ができた昭和9年(1934)である。それまで豆相鉄道が唯一の路線で、その沿線で町が発展した。

三島は沼津と市街地がつながっている。静岡、浜松は政令指定都市になり、3番目の沼津も静岡県東部の中心地として政令指定都市を目指したい。それには三島、御殿場、裾野、また伊豆方面の市町村などとの合併が不可欠で、とくに沼津と三島が中心となる。
沼津の人口18.6万に対し三島は人口10.5万だが、沼津は合併を繰り返して大きくなったのに対し、三島はそれほどでなく、市街地はまとまっている。
三島は新幹線の駅と伊豆箱根鉄道の起点があり交通の要衝であるのに対し、沼津は県の東部出張事務所がある。まるで大宮と浦和のようで、これは合併しないだろう。両市とも人口は減少傾向にあり、政令指定都市は難しい。

それにしても36年前の川を探しに行ったが、見つからなかった。
楽寿園の南の宮さんの川、あるいは源兵衛川かもしれない。
しかしまた歩く元気はなく、来た電車に乗った。
14:02
丹那トンネル走行中。
地上に出たら熱海である。

関連ブログ

(この日の足跡)
(大三島神社のこと)

2026年10月23日金曜日

イラガに腫れた手と芋虫、秋ジャガ、大根

9月末、長雨がやんでようやく秋らしい過ごしやすい季節となった。

(しかし実際は9月は東京で毎日少しでも雨が降り、完全に晴れたのは10月3日という。37日間連続雨というのは、1886年の統計開始以来、過去最長を大幅に更新した。

その間の千駄木菜園のことを書いておく。

2026-09-30
この写真のころは秋ジャガはまだ全部発芽していない。
日差しが弱かったからひょろひょろ伸びてしまった。

それから3週間たってだいぶ伸びた。
2026-10-20
1番畝、秋ジャガ
みな太陽に向かって伸びているのがおもしろい。

この間、9月29日、レッドロビンの生垣のそばで作業していたらまた右手に激痛、見ればイラガが1匹、落ちていた。
さらに10月1日、今度は左手が刺された。
2026-10-03
右手の腫れはひいたが、左手がふくれてきた。
いつもどおり何の処置もしなかったが、毒のトゲ(繊毛)が付着していたかもしれないから、ガムテープで手の甲をぱたぱたするべきだったかもしれない。

今回は気持ち悪い写真を何枚か出す。
2026-10-04
翌日はさらに左手がふくれ、指が曲がらなくなった。
この日、千駄木駅から沼津見物に行った。

翌日、大和芋の葉っぱが全部落ちていて、不思議に思っていたら巨大な芋虫がいた。
2026-10-05
葉を食べつくす芋虫
エビガラスズメの幼虫である。
後ろのブロック塀、210センチ支柱の太さと比べるとその大きさが分かる。
わたしの指より大きい。
2026-10-05
こちらにも2匹いた。
芋虫とはよく言ったもので、わたしはこれをサツマイモ、山芋、里芋以外の植物でみたことがない。(ジャガイモにはいない。)
これだけ大きいとつぶせない。
乾燥死させようと鍋状容器にいれた。
2026-10-05
4匹の芋虫
ちょうどイラガもいたので入れる(左下の緑)
左上は普通の毛虫。

芋虫は無害なのに見るからに恐ろしい。
ふつうの人よりも自然の造形とみなせる理性はあるつもりだが、やはり本能が恐れるのだろうか。
2026-10-05
サツマ芋はだいぶ虫に食われた。
エビガラスズメだけでなくナカジロシタバの幼虫もいる。
2,3本試し掘りしたが非常に小さかった。
2026-10-21
玉ねぎ、春菊
サツマイモ、里芋、落花生、と遅くまで畑を占拠するものを作ってしまったため、育苗は移動できる箱や鉢で。
2026-10-21
大根(宮重総太り)2次
10月6日に種まき

これもまた場所がなくイチジクを抜いた場所(12番畝)に種をまいたら日照不足でひょろひょろ。夏のナスは何とか育ったが、太陽が低くなると生垣の陰になってしまう。

8月29日に播いた大根1次は順調。
種から育てる野菜では、ニンジン、レタスなどと比較すると大根が一番簡単な気がする。
他の物は発芽はするが大きくなる前に何者かに食べられてしまう。
2026-10-23
手前2番畝、左:ラッカセイ、右:大根1次
向こう、3番畝:ラッカセイ、4番畝サトイモ
サトイモの向こうの生垣の手前に12番畝のネットがかすかにみえる。

現在、物干しの前は北(左)から3番、4番、通路、12番、生垣、と並んでいる。12番を少しでも生垣から離すために、4番の里芋、12番の大根がなくなったら、通路と12番を入れ替える予定。通路の下にある石も移動せねばならないから結構大仕事。

こういう計画はとても楽しいが、自分の健康を考える年齢になってしまった。

イラガに刺された手はまだ少し跡があるが、前回のように水疱はできなかった。


2026年10月19日月曜日

シルバーパスで期待すること。舎人ライナーと大江戸線

この夏、70歳になり東京都シルバーパスが買えるようになった。
都内のバスと都営地下鉄などが年間12,000円で乗れる。
(非課税者などは年間1000円、ほぼ無料である。)

しかし、元が取れるか?
JR田端駅へのバスは頻繁にあるが、最近地下鉄ばかりで田端駅を使わないしJRなら西日暮里まで歩いても良い。
都営地下鉄の白山、千石も遠くて使えない。
社員になってしまった湯島の会社も、朝は不忍通りのバスが使えないことはないが、帰りはダンスの練習とレッスンで大宮、池袋、高田馬場、成増に行くから乗れない。その朝も水、金は別の畑バイトから午後に直行するため乗れない。
何より、バス停が池之端一丁目(横山大観記念館前)か上野松坂屋なので、どちらも職場までけっこう歩かねばならない。いっぽう千代田線なら千駄木から2つ目の湯島駅から歩いて2分である。そして時間正確、本数もふんだんにある。
2026-10-03 
日暮里舎人ライナー定期券売り場
でも買うことにした。
年間12,000円というのは月額1000円である。
毎月1,000円乗ればよい。
仕事とか用事とか関係なく意味なく乗る。
タダなら絶対に行くことのなかったところに行っても良いではないか? 新しい発見があるかもしれない。生活、行動パターンも変わるかもしれない。

ということで10月3日、日暮里駅2階の舎人ライナー定期券売り場でパスを買った。
16:27
先月まではいつ買っても有効期限は9月30日だった。
だから70になってすぐ買っても2か月くらいしか使えなかったのである。
しかし10月1日から変わった。
有効期間は使用開始日の属する月の初日から1年間となった。
また、パス本体はPASMOになった。
だからPASMO発行料500円と発行時チャージ分500円をくわえ、13,000円かかる。

無事購入して、3階の舎人ライナー乗り場に行ってみた。
用もないけどタダだから乗ってみる。
同じ日暮里駅でも乗っている人の雰囲気が違っていた。
他所から来た人と地元の人との違いか。

16:30
日暮里駅東口のながめ
いつも下を歩いているがシルバーパスのおかげで見られた。

16:32
日暮里舎人ライナー
無人運転だから先頭も普通席である。

一度だけ乗ったことを思い出した。
2015年12月17日、足立区の西新井大師に行った。
まだブログを始める前だったから記録を残していない。

帰宅するため、すぐ隣の西日暮里駅で降りた。
乗ってくる人は多かったが、一駅で降りたのは私一人だった。
路線図を見れば埼玉との都県境まで伸びている。今度は舎人公園に行ってみようか。パスを持たなければ決して思わなかったことだ。

10月9日金曜、不忍通りの道灌山下から上野松坂屋前までバスに乗ってみた。
昼ということもあるだろうが、老人ばかりだった。お婆さんに付き添われた老婦人が乗ってきて、これまた老人が席を譲っていた。

10月15日、高田馬場のダンス教室に行く。いつもは湯島から大手町乗り換えのメトロで行くのだが、シルバーパスを使ってみたくて上野御徒町まで歩き都営大江戸線に乗った。飯田橋で東西線に乗り換える。
都営大江戸線・飯田橋駅の連絡通路
出口までの通路がおしゃれだ。
頭の高さにある照明があたかも外から光の入る窓のように見える。天井も高い。
通路はカーブしていて、床が外の道路のように傷んだ風合いに作ってある。捨てたガムの跡のような汚れまで再現されている。
16:17
エスカレーターには天井から緑の枝のようなものが下がっていた。
調べると大江戸線は各駅のデザインを建築家に依頼して個性的なものにしたらしい。
ただコンパクトに機能だけを追求したメトロの大手町駅などとは大違いである。

今度大江戸線の他の駅にもいってみようかな。

同じところに行くにもいつもと違う経路を使うと発見がある。目的地が違えばもっと発見があるだろう。
こんどは東京駅まで行ってみよう。
一番近いバス停の駒込病院前から1時間に2本しかないが、東京駅北口まで走っている。終点まで乗る人はいるだろうか。
途中で乗り換えたらさらに遠くに行ける。

passを持つ前は考えなかったのだが、実際手にすると、どこかへ行くときに、都営地下鉄やバスが使えるかどうか考えるようになった。
頭の中に路線図を浮かべ、料金、時間などを考える。
これはかなり頭の体操となり、ボケ防止になるのではないか?

しかしバス停や駅が遠いことがしばしば。
足腰の弱ってきたシルバーのためのパスが、余計に歩く距離を増やしている。シルバーはお金を倹約したいから、自発的な運動になって健康にいいだろう。

私の場合、運動は必要ないがタダで乗れるとうれしい。
ダンスのレッスンに高田馬場までいったときは、東西線の部分が短くなったから209円が178円になり、30円安かった。(たいして嬉しくないが)。

シェア畑のアルバイトは千代田線で6分、178円の北千住まで行く。いっぽう家のそばから北千住駅までバスで行くと30分でタダ、しかしバイトの時給は1290円なので余計にかかる24分は 516 円に相当する。つまり同じ時間に家を出て、バスに乗れば178円とくするが500円バイト代が少なくなる。
でも、やりそうである。

得するというのは魔力がある。よく自転車で遠くのスーパーまで買いに行くとか、電車賃をかけて安いものを買いに行くとかあるが、あれは倹約ではなくて、得した(と感じる)ことがうれしいから行くのである。

65歳になって国立西洋美術館や国立科学博物館が無料になったが、70歳のシルバーパスは比べ物にならないくらい老後の生活を変える可能性がある。


2026年10月17日土曜日

沼津4 三枚橋城と狩野川、沼津藩の水野氏

8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。

熱海から丹那トンネルにはいって出てきた三島の次であり、静岡県では西の浜松、中央の静岡とならび、東部の中心都市である。
江戸時代、品川を一つ目とすれば東海道の12番目の宿場町だった。
しかし城下町でもあったことは、あまり知られていない。

すなわち沼津藩の藩庁所在地であった。
なぜ有名でないか?

10:22に駅前でレンタサイクルを借りた。
スマホのアプリで借りるのも、電動自転車に乗るのも初めてだった。
まず有名な千本松原に行こうと駅南口から真っすぐ南下する大通り(さんさん通り)を走った。
すぐに東西に走る旧国一通りと交差し、この、一番繁華な交差点の左角に公園があった。
スマホの地図を見れば中央公園・沼津城址とある。
計画では、駅の近くだから自転車を返してから帰りの電車待ちの間に遺構を見ようと思っていたが、はからずも出くわしてしまった。

素通りするのもナンなので入ってみた。
しかし何もない。
10:37
中央公園と私のレンタサイクル

子供たちがチームでダンスの練習をしていて母親たちが見ていた。
しかし城跡らしき遺物は何もない。
10:36
沼津城本丸址と彫られた石碑だけあった。

沼津城はもともとは天正7年(1579年)に武田勝頼が築いた三枚橋城が前身である。
この三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが北条氏の戸倉城で、両者の間で小競り合いが絶えなかったという。
(今回、当初は沼津御用邸から戸倉城を経て三島のサイクリングスポットに返す予定であったが、朝寝坊したし、自転車も意外と疲れるので断念した。)

沼津は東海道の、しかも箱根の西、すなわち要衝であるから徳川時代は譜代大名が置かれる場所である。関ケ原のあと大久保忠佐が2万石で入った。彼は大久保宗家である小田原藩初代藩主・大久保忠隣の叔父にあたる。嫡子が早世しため、異母弟であった大久保忠教(通称・彦左衛門、天下のご意見番)を養子として継がせようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」と固辞したという。忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。
その後、三枚橋城は火災にあって廃城となり、開墾地となってしまった。

その後1世紀以上たった1777年、水野忠友が三河大浜藩より2万石で転封してきて三枚橋城の跡地に縮小した形で新しい沼津城を築いた。
(ちなみに大久保氏、水野氏とも「忠」を通り字とする)

水野氏は老中、老中首座など出して幕末まで続くのだが、明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい沼津も封地となったため、押し出されて上総菊間に移った。
城主、家臣たちがこぞって菊間にうつり、沼津に関係者が残らなかったことや、東海道線の駅にあまりに近かったことなどから、徹底的に破壊されてしまったのだろう。お城のど真ん中を国道1号線、駅前から南下する大通りが十文字に分断した。
そして全国的にも珍しいほど見事に何もない城址となった。

東のほうは狩野川に向かって下り坂になっていて、何かあるかもしれないと思ったがこれから海のほうに行かねばならない。帰って来てから見ればよいと思い、この公園の探索はしなかった。

南に延びる大通り(さんさん通り)に戻り、自転車で南下するとすぐ、道脇に石垣があった。
ちょうど中央公園の裏にあたる。
10:40
三枚橋城(沼津城)石垣
発掘された石を積み上げたというから城の遺構ではなくモニュメントのようなもの。

さんさん通りを南下、御成橋西詰の交差点を右折した。
10:44
御成橋通りを西に向かう。
江戸時代、このあたりはお城の南西にあたり、沼津宿本陣があった。
幕末には本陣3、脇本陣1、旅籠55、総戸数1234を数えた。
古い街があったはずだが、1945年7月17日未明の沼津大空襲で市街の89%が破壊された。

このあと、ぐるっと風光明媚な千本松原、文学の道、海鮮レストランの多い沼津漁港をみて、沼津御用邸記念公園を見学し、正午を過ぎた。
このあと、まっすぐ国道414号(沼津―下田)をひたすら北に向かって自転車をこぎ、沼津市役所の角を左折して御成橋まで戻ってきた。

橋を渡ると右角にリバーサイドホテルがあり、そこの正面玄関の奥の駐車場にハレノヒサイクルのステーションがあった。

12:33 返却
2時間10分で1080円。
これは便利でお得だ。
無事返却できて一安心。
落ち着いたところでリバーサイドホテルの裏のリバーに行ってみた。
12:38
上土朝日稲荷神社と狩野川

漁港のそば、港大橋で渡ったときは富士が大きく見えた。
しかしここは東北から流れて来るから方向が違う。

狩野川は伊豆半島の雨を集め真ん中を北に向かって流れ、ここ沼津で大きく曲がって海に向かう。
太平洋側の川で北へ向かうのは珍しい。
これは伊豆半島が南からきて本州にぶつかったからか。南からきてヒマラヤにぶつかったインドのデカン高原の川も北へ向かう。プレートが動いてアンデスにぶつかった南米アルゼンチン、ブラジルの川も海と反対の北西に向かう。

伊豆半島は多雨地帯のため、昔からこの川の流域は洪水が多かった。戦後、放水路の建設が計画され、1951年、伊豆長岡あたりから江浦湾に向かう狩野川放水路が着工された。途中の山にトンネルを掘る大工事だった。しかし完成前の1958年、伊豆半島を台風が襲い、1000人を超える死者を出した(狩野川台風)。完成したのは1965年である。

川から離れサンサン通りに戻った。
12:39
5人が手をつないで崖を登っているようなモニュメント

駅に向かって歩いていくと右手に川のほうへ下っていく古い道があった。
12:41
旧東海道 川廓通り
三枚橋城
沼津市公式サイト>文化財>城跡編 から

旧東海道は本丸と狩野川の間を通った。
だから川廓の廓は遊郭の廓ではなく、城郭の廓(曲輪)である。
おそらくこの道は沼津城東側を回り込んでいるから石垣などがあるかもしれないと思ったが、自転車を返してしまったし、疲れていて行かなかった。

沼津城、東海道と現市街地
内堀に囲まれた本丸二の丸のど真ん中を国道一号と駅前大通が貫通し、破壊ぶりがよくわかる。

明治維新なって水野氏が上総に去ってから、残った二の丸御殿に沼津兵学校が作られた。
徳川宗家の駿府藩が明治元年(1868)に開設。創立当初は徳川家兵学校と称した。海があって海軍兵学校と名前が似ているが、フランスに倣った軍隊の養成を目標に掲げたから陸軍である。
そして領内の沼津城、二の丸御殿が使われた。受講資格は徳川家臣で14歳から18歳の者であることが原則であったが、他藩からの留学生もいたといわれる。初代学長は西周であり、教師は優秀な旧幕臣の中から選ばれた。
明治4年に兵部省所管となり、翌年陸軍兵学寮に統合され廃止、明治7年に陸軍士官学校となった。

沼津兵学校の記念碑がどこか近く(二の丸跡?)にあるらしいことは知っていたが、疲れて面倒になり探さなかった。

今回は南口しか回らなかったが、北口には沼津市明治資料館、沼津東高校(旧沼津中)などがあるが、自転車でも遠い。
それよりも自転車を返したらとたんに歩くのがおっくうになり、三島にも行きたいので沼津をあとにした。

・・・・・
ところで、三枚橋城跡地に沼津城を築き、江戸期を通じて駿東郡、富士郡から伊豆までを治めた水野家について書いておく。

水野氏というのは家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたる。
三河の刈谷城主であった。


家康が生まれたころ水野氏は松平氏と同等の勢力であり、於大の方の婚姻も同盟といった、そういう流れであった。しかし水野氏は桶狭間の戦い後に家康に仕えた。信長時代、いったん武田内通を疑われ断絶するが、のち復活し、江戸時代にはいくつかの家が譜代大名となった。

明治時代初期の廃藩置県まで残った大名の水野家には、下総結城藩、上総菊間藩、上総鶴牧藩、近江朝日山藩、それに紀州藩の付家老だった紀伊新宮藩を加えた5家があり、華族令施行後には前者4家の水野家が子爵、付家老の水野家が男爵に列した。

1.結城水野家は宗家筋にあたり、再興を許された忠重の次からは勝を通り文字した。備後福山のときは10万石あったが、いろいろあって幕末結城藩は1万8千石であった。子爵水野家19代当主水野勝邦氏(1904-1988)は文京区大塚に住んでいた。20代水野勝之氏は数年前の文京区主催、藩校サミットに出席されていた。


2.菊間の水野家というのが沼津藩の水野である。
三河刈谷、吉田、信濃松本の後、沼津にきてこの沼津城を築いた。3万石。この家はしばしば老中を出した。明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい、上総菊間に押し出された。

3.鶴牧の水野は当主は、大番頭や若年寄といった役職に就任する機会が多かった。文京区大塚の高台の住宅地の一角はかつて上総鶴牧藩の抱え地だった。


4.朝日山水野家は7万石、岡崎、唐津、浜松と領地を転々とした。天保の改革の老中・水野忠邦はこの家である。忠邦は二度の老中を失脚、5万石となり子の忠精に家督を譲ったが、この家は浜松から山形に左遷させられ、25年後の明治3年、山形から近江朝日山に移された。現当主は数年前の文京区開催藩校サミットにも山形藩として出席された。

5.紀州家付け家老の水野氏は以前、紀州新宮のブログに書いた。


このほかに旗本になった水野氏も多い。

ちなみに水野氏繁栄のもととなった於大の方は、松平氏と離縁して実家に帰った。すなわち1543年家康を生んだ翌年、兄・水野信正が今川氏を離れ織田についたため、今川に気を遣う松平広忠が離縁した。その後、1547年彼女は久松氏に再嫁した。水野、久松は家康の母の家ということで江戸時代譜代大名として優遇された。

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