2026年5月2日土曜日

高梁2 三島中州、御根小屋の名門校、山田方谷、板倉勝静

4月22日の朝、備中松山城に上った。
麓の踏切から大手門跡まで1時間以上かかった。
短時間で城内を見て、帰りは別の道を取り、雑木林の細くて急な山道を30分で駆け下りたが、人里に戻ると2時間経っていた。
山から降りてすぐ、登城口の近くの小高下谷川(ここうげだにがわ)のそばに石柱と説明版があった。
10:37
三島中洲旧宅 虎口渓舎跡

本名三島毅(1831-1919)は備中松山藩士ではない。倉敷に生まれ寺子屋で習字をならい、13歳のとき松山藩の儒者山田方谷の私塾牛麓舎に入り、19歳のとき塾長となった。藩務多忙の方谷にかわり舎生の訓育に当たる。26歳のとき松山藩士となった。

文久元年(1861)、30歳のとき藩校・有終館の学頭・吟味役となり、この場所、小高下(ここうげ)に200坪の宅地を賜り、虎口渓舎と名付け漢学塾を開いた。塾の名は目の前の小高下谷川からとったのだろう。弟子の出身地は12藩に及び塾舎は常に60人から70人を越したという。明治政府出仕の命によって東京へいくまで11年間にわたって師弟の教育にあたった。

私は10数年前までこの人を知らなかった。
長野の弟が上京して一人深川の富岡八幡の境内を散歩したとき骨董市をやっていて、三島中州の書(掛け軸)を買った。実家に帰った時、床の間の前で書の文言について蘊蓄を聞かされた。彼はそれ以前から三島を知っていたようだ。
三島は二松学舎を起こしたが、そこで中国文学を学んだ私の妹が結婚するとき長野に送った不要な書籍類の中に三島の著書があったらしく、それも掛け軸の解読に役立ったらしい。

・・・
小高下谷川を渡るとバス停があった。
朝延々と車道を歩いたが、ここまでバスで来て登山道を登るべきだった。

ゴミ一つない美しい川に感心しながら左岸を下るとすぐ、土塀に囲まれた学校があった。
10:42
県立高梁高校 東門
高校敷地にわたる橋が「ぎゅうろくしゃばし」とあるからここに山田方谷の牛麓舎があったのだろうか。
この塾名は背後の山が臥牛山と呼ばれたからだろう。牛が臥した姿の城山は本丸・二の丸・三の丸が階段状に配された小松山のほかに、大松山、天神の丸、前山の4つの峰からなる。
(後で調べたら私塾牛麓舎は川向うの山側でなく、背後の左岸にあったらしい)
10:43
この高梁高校は旧制中学として1895年創立。岡山県では岡山朝日高校に次いで古い。
岡山朝日が1885年各県一校の岡山県尋常中学として創立し、その10年後に津山中学、高梁中学ができたから備前、備中、美作に一つずつ作られたことになる。この小さな谷あいの町が備中一国の学府だったわけだ。

城下町の旧制中学はよく城内に作られるが、高梁のお城は険阻で不便な山上にあって使えない。しかし麓に「御根小屋」という藩の政庁の跡地があり、そこに作られた。

旧制高梁中学は戦後、高梁高等女学校(前身は1885年創立の順心高女)と合併し共学となった。卒業生に石川達三、水野晴郎らがいる。
10:44
御根小屋(おねごや)は、上下二段に造成されており、上段に藩主が日常起居する御殿が設けられていた。
10:44
御根小屋はかなり広く、背後を臥牛山、前を堀のような川で守られ、立派な城郭のようである。
実際、ここは山頂の「山城」に対し、「お城」と呼ばれ、通常藩士の登城といえばここに出仕することであった。
10:46
高梁高校の下の端から川を渡って校地外縁に沿って歩いていく。

10:48
まさに近世城郭である。
この場所はかつて完全な城内であったが、今の高校は広い敷地を使いきれず正門はこの坂の上にある。
敷地は川、線路、山裾を三辺とする三角形をしている。
そばの説明版によると、創建年代は不明であるが、天正3年、毛利が三村氏を滅ぼした備中兵乱で焼失した記録があることから、戦国時代まで遡るという。現在の姿は、江戸時代初期、関ヶ原の戦後、毛利を萩に押し込めたあとに派遣された代官の小堀遠州が再建をはかり、その後の藩主水谷勝宗により1683年に完成したとされる。
10:48
下中門跡
ということはこの下に総門、御殿坂があった。
フェンスの向こうはテニスコート。

備中松山藩は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、1744年板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
もっとも有名なのは幕末に第7代藩主となった板倉勝静(1823-1889)である。
山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。勝静は井伊直弼が桜田門外で暗殺された翌々年の文久2年(1862)老中に抜擢され、徳川慶喜の代に老中首座となり、難局に直面する幕府を切り盛りした。

藩政改革にみられた彼の優れた能力はもちろんのことだが、血筋も見られたかもしれない。
すなわち彼は奥州白河から桑名に国替えされた松平定永の八男で、備中松山・板倉家の婿養子になった。すなわち寛政の改革の松平定信の孫である。つまり将軍吉宗の孫の孫であった。

さて戊辰戦争では勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には備中松山藩追討令が朝廷から出された。執政であった山田方谷の決断で無血開城し、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収した。
京都にいた勝静は徳川慶喜に従って会津の松平公らととも江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦した。
10:49
総門と中門の間の城内を伯備線が横断した。
車道でもないのにこれだけ広いのは、石段や石垣をふくめ昔の登城口のままなのだろう。
江戸期には両側に松並木があり、その外は白壁であったという。
10:50
特急「やくも」が通過した。
名前から分かるように山陰本線に乗り入れ松江、出雲までいく。

山陽と山陰を結ぶ戦略上の重要地点ということが、この小さな谷というか盆地を備中国の中心にした。

踏切のすぐ下に山田方谷の真新しい石碑と幟「知行合一」がたっていた。
10:51
高梁駅についたとき、「大河ドラマの主人公に」と訴える「ほうこくん」に出迎えられたように、市は大々的に彼を売り出している。市内各地に彼の言葉を彫った石碑を建て、それらを結ぶ「方谷の道」という散策コースを作っている。

方谷を知ったのはいつだろう。
司馬遼太郎「峠」かもしれない。主人公・河井継之助が藩政改革にあたり、はるばる越後長岡から備中まで山田の教えを乞いに訪ねるほど、日本中に名を知られていた。

山田方谷(1805-1877)は、三島同様、松山藩士ではない。家は農業と菜種油の製造・販売をして生計をたてていた。5歳で親戚の寺に預けられ藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始め、神童と言われた。
20歳の時、家業と学問にはげむ方谷の評判を聞いた藩主の板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられ、24歳で藩士に取り立てられ、藩校の教授に任じられた。

方谷の学問は儒教の中でも幕府の官学であった朱子学ではなく、陽明学である。
朱子学は大義名分や形式を重要視したのに対し、陽明学はより実践的な知行一致を主要思想とした。方谷は幼少期から朱子学を学んできたが、その形骸化した思想に満足できず、陽明学を学ぶため3年江戸に遊学した。
昌平黌で塾長を務めていた佐藤一斎の私塾に入門し、陽明学では佐久間象山と並び「佐門の二傑」と並び称せられた。

方谷は松山に帰国後、牛麓舎をひらき、身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中にはのちに片腕となった三島中州もいた。
(陽明学を信奉するものは朱子学を批判する革命思想家が多く、それを危険と見た方谷は朱子学を十分に習得した上で、なお疑問を持って陽明学を学ぶことを希望した者にだけ陽明学を講義した)

しかし彼を有名にしたのは学問ではなく、藩政改革である。藩主板倉勝静のもと、財務状況の公開、役人と商人の癒着の禁止、債権者の大阪商人の協力、倹約、そして殖産興業で多くの特産品をつくり10万両の借金を返済した。
私が信州にいた子供のころ、親たちが畑で使っていた三本刃の鍬は「備中鍬」といったが、方谷の時代に松山の特産となったものである。

彼の改革は経済だけでなく洋式への軍制改革にも及んだ。戦国以来の旧弊に拘る藩士たちは改革を渋るため、代わって人口の8割を占める農民を軍の主体とする農兵制を導入した。その訓練を見学に来た長州の久坂玄瑞は感心して、のち高杉晋作の奇兵隊の誕生に影響した。
さらには困窮する下級武士を山間の未開地に移住させ、開墾させて収穫物は無税とし、国境防衛と貧民対策をかねる、のちの明治政府の屯田兵制度のようなものも発案、実行した。

方谷の石碑の向かい、すなわち線路を挟んで高梁高校の下に学校があった。
10:51
方谷學舎高等学校
明治37年(1904)設立の岡山県有漢准教員養成所にさかのぼる。
戦前の財団法人高梁学園が設置した高梁農林学校と高梁女子商業学校が戦後合併し、高梁実業高校になり、また高梁日新高校に校名変更した。そして町おこしのようになった方谷プロモーション運動に乗ったのか、2023年方谷學舎高校に校名変更した。つまり設立などに山田方谷は関係ない。

話は変わるが、明治時代、岡山というのは長野と並ぶ教育県として知られた。
岡山藩池田家の藩校は全国に先駆けてつくられたし、閑谷学校は庶民のための学校としては世界最古とされる。明治時代の小学校就学率も高く、大都市でもないのに旧制第六高等学校や第三高等学校医学部を誘致することに成功した。1950年から1998年まで続いた岡山五校(市内の朝日、操山など)の一括総合選抜制も、その裏返しと思えなくもない。
そして、備中高梁という谷あいの小さな町に、私立大学(実際は高梁市が出資する第三セクターの順正学園が運営)、県立高校2、市立高校2、私立高校1が存在することに、改めて岡山の教育を思った。(岡山県と高梁は違うかもしれないが)

・・・
さて、御根小屋跡地を離れるとすぐ市街地である。
高梁の町は小さい。
10:53
このまま古い家々をみながら駅のほうに行く前に、備中松山という谷底の町の中心を流れる高梁川に行ってみる。
10:57
方谷橋
旧橋が1934年の室戸台風で流されて1937年にかけられた。
土木学会により土木遺産に選定されている。
私はそれより橋の名前が気になった。近年の方谷ブームによって改名したのかと思ったのである。
しかし、少し北の伯備線方谷駅(1928年開業)同様、旧橋のころからこの名前だったらしい。ちなみに駅のほうは鉄道省が人名を駅名にするのは前例がないと難色を示したが住民の熱意が押し切った。彼は大正時代でもなおこの地で神のように思われていたのである。
10:58
川底が低いので高い堤防はない。
その代り岸に瓦屋根を乗せた土塀が作られている。

山田方谷は、老中首座として幕末の難局に当たった主君板倉勝静に何度も京・江戸に呼ばれ、顧問の任についた。最後、京都から備中に帰国したとき鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜と行動を共にしていた板倉勝静は行方不明となった。のち、主君が蝦夷地にいることを知った方谷は、ひそかに使者を送り新政府への自首をすすめたが、拒まれたため、プロシア人に大金を払って救出を頼み、江戸まで連れ戻した。
維新後は、能力を高く評価する新政府から出仕を何度も求められたが、岡山の私塾で門弟を教えて一生を終えた。
10:59
土塀の内側を歩いていく。
このまま川に沿って駅まで行くのもつまらないので町に戻った。

11:03
紺屋川の通りを上がる。
橋に祠がある。
高梁七恵比寿の一つらしい。
11:05
朝、角を曲がった高梁キリスト教会堂がみえた。

結局、武家屋敷のあるほうへは行かず朝歩いた道を駅に向かった。
電車は11:26である。
途中、山田方谷記念館があった。入らず、だれもいない庭の藤棚の下でコンビニパンを食べた。そして山田方谷が果たして大河ドラマになるかどうか考えた。時代、登場人物は申し分ないが。

電車は高梁を出ると高梁川に沿って走った。
11:31備中広瀬
11:38美袋
11:42日羽
11:46豪渓
11:50総社
11:33
広瀬と美袋(みなぎ)の間。
古代はこの川を使って山陰から大陸からの文化、中国山地の鉄などが国家の主軸であった山陽道にもたらされたことだろう。

(続く)

ところで2017年、板倉勝静の墓が千駄木の近く、本郷通の吉祥寺にあることを知った弟が長野から上京し、私もついて行って初めてこの寺に入った。彼は三島中州書・顕彰文の大きな石碑を見つけて喜んでいた。

20171231 吉祥寺3 経蔵、赤松家墓地、板倉勝静

2026年4月30日木曜日

高梁、吉備国際大学と備中松山城

急に思い立って夜行高速バスにのり、翌4月22日朝、岡山に来た。倉敷に途中下車して30分だけ見物して備中高梁に来た。

目的は現存12天守の一つ、備中松山城を見ること。
8:20
備中高梁駅ホーム
高梁をタカハシと読むことは知っていても常に頭で梁の字を思い浮かべるため、ついタカハリと読んでしまう。
高梁はここしかないのに駅名に備中がつくのは、1926年の開業時、佐賀のほうの佐世保線に1923年開業の高橋駅があったからだろうか。
8:23
駅舎は2017年にできた駅ビルで、改札を出るとすぐ同じフロアに市立図書館、蔦屋書店、観光案内所がある。
8:27
ほうこくん神社という鳥居の下にマスコットキャラクターが
「山田方谷大河ドラマ化実現を!!」。
そう、ここは幕末の経世家、山田方谷がいたところである。
彼の名は知っていたが、まさか地元で大河ドラマ化の運動をしているとは知らなかった。

駅ビル(図書館)の1階部分がバスターミナルになっている。
山城である松山城まで3.0km、途中までバスがあるが、終点の登山口から1.7㎞は歩かねばならない。迷ったが駅から歩くことにした。

線路に平行に城に向かって北へゆく。
城見通りというらしいが、城山が正面に見えた。
標高430メートルの臥牛山(松山)である。
8:30
高梁市役所
「祝全国優勝・岡山県選抜・主将・高梁市立落合小学校6年・佐々木太誠選手」という垂れ幕があった。

さて、高梁という地名。
もともと備中松山藩といったが、明治維新で久松氏の伊予松山藩が親藩・御家門 でありながら早くに薩長土肥に恭順したため、そちらの松山藩を残し、備中松山藩は高梁藩と改名させられた。

タカハシ藩だから本来は「高橋」藩だろうが、学問が盛んだった城下町では知識人たちが世俗で頻繁に使われる「橋」を嫌い「梁」をあてたらしい。
(鎌倉時代末期に備後三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康がここを支配したから、高橋という地名はそこから来たのかと思ったが、実際はその前から高橋と呼ばれていたらしい。ところが高橋氏が自分の名字を呼ばれるのを嫌い、松山と呼ばせたという。だから明治維新後のタカハシは松山の前に戻したことになる)

さて、明治4年の廃藩置県で高梁藩は高梁県となったがやがて統合され明治8年に岡山県となった。

・・・
高校生らしき若者が数人同じ方向に歩いていく。
彼らは細い道との交差点で車が来る気配すらなくても歩行者信号を守った。
眠ったような街で古い建物が残っている。
8:36
木造の高梁市郷土資料館、右のコンクリート造りは山田方谷記念館。
相変わらず人がいない。
8:38
紺屋川と高梁キリスト教会堂。
城下町を歩くと古い教会がよくある。
知識人が多かったからだろう。

松山城への案内矢印があったので紺屋川に沿って登っていく。
伯備線の踏切を渡ったところで大学生のような若者がいたので松山城への道をきいた。
この道をまっすぐ行けば、吉備国際大学があるからそれを越えるといったん下ってトンネルがあり、それをくぐって道なりに行けば着くという。
案内標識と同じなのでその通りに上っていく。
(しかしこれが間違いだった)
8:40
石垣の上は吉備国際大学・順正記念館(旧順正寮跡)
何だか知らないが、通過。
8:42
再び紺屋川を渡り左岸に出る。少し行ってまた右岸にわたる。
8:45
吉備国際大学
ようやく人に会った。職員だろうか、女性二人が道路を掃きながら挨拶してくださった。
8:46
吉備国際大学は、のちに加計学園の総長となる加計勉(1923 - 2008)が、1967年、高梁市より要請と支援を受け、学校法人高梁学園(現・順正学園)を設立。順正短期大学の学長に就任したことに始まる。この短大を核に1990年、順正高等看護専門学校を併合して設立された。

しかし周りがすべて山、一番近い総社市でも電車で30分、その間に市街地がまったくないという孤立地。過疎地といってよく、人口も1950年から減り続け、周辺を大いに合併して広くなっても今、24,700人(2026年3月推計値)。
ここに大学を作ったのは、城下町という知識人の多さからだろうか。しかし生徒が集まるわけがなく留学生が多いらしい。高齢化率が県下15市中3番目に高いにもかかわらず(65歳以上が42%)、下宿する留学生の多さ(外国人割合が県内27市町村中 1位)から、19歳から23歳まで異常に突出したピークがある、見たこともない人口ピラミッドができている。

かつて流行のようにつけた各地の「国際大学」は生徒集めのために英語教育を重視して国際人を養成することを(ウソでも)標榜したが、いまや日本での就労・移民を目指す若者が多くなり「真」の「国際大学」になった。
8:48
急な上り坂か続き、両側が大学キャンパス。
降りてくる大学教員らしき人々に挨拶されるのは上のほうに駐車場があるからだろう。

やがて道は谷に下っていく。
8:54
市営高梁運動公園。野球場
大学駐車場のすぐ下だから大学の付属グラウンドだと思ったが違った。
大学の野球部員らしき若者がダイヤモンドをならしていた。授業前に練習したのだろうか。

グラウンドの向こうにトンネルが見えた。
せっかくここまで登ってきたのに下るのは悔しい。
坂を下り切ったところにバス停があった。
ここまでだいぶ体力を消耗し、バスに乗らなかったことを後悔した。

トンネルをくぐるとまた別の谷、川沿いに出た。
高梁高校などがある市街地から来る道に合流する。
ここで遠回りしたことに気が付いた。
おそらく道を教えてくれた大学生?は地元民ではなく、入学した時に大学から車で一度連れて行ってもらっただけなのかもしれない。
後悔先に立たず。

ここから再び上り坂。
9:03
あとで調べたら小高下谷川の上流のようだ。
9:04
車も通らず人もいない。
ウグイスをはじめ鳥の声と、水の音だけ。
川は護岸だけでなく川底まで石をきれいに並べてある。水の音は、石の間を流れるせせらぎと、棚田に送る水路からあふれて落ちる水が作り出したもの。

老いてから、こんな縁のない初めての道をたった一人で歩いている。
人生とは何だろうと、ほんのちょっぴり考える。
9:06
それにしても条件の良くない山間部に、石垣とコンクリートで小さな棚田を作る工事の丁寧さと、その苦労を思う。
「備中松山城方面」という標識があるから間違ってはいないのだろうが、あとどのくらい歩くのだろう。
川に沿って東に歩き続け、今やお城から遠ざかっている。
9:08
「売り物件」の看板
丁寧に使われているきれいな家である。周りの水田も美しい。軽井沢の林の中よりこういう里山と畑のあるところが好きだ。

売り物件を過ぎると右に小さな地蔵堂があり、そこで川を渡ると、道はようやく左折、城のある西方に向かう。城見橋というが城は全く見えない。
9:10
田植えを待つ水田と売り物件

城見橋のヘアピンカーブのところに係員が立っていた。奥のほうに「城まちステーション(登城整理バスのりば)」というものがある。車は上のふいご峠まで登れるが、その駐車場は狭く、また道路も1車線のため、混雑する休日はマイカーはここまで。あとはふいご峠までバスで行くらしい。
ちょうど車が一台上っていった。
係員が「今松本ナンバーの車が上がりました。あと何台空いていますか?」とふいご峠の駐車場だろう、そこへ電話で伝えていた。

ここから先は田畑なく、森林の山道となる。今度は南が谷になる。
9:12
「電気牧柵・きけん」
こういうものを見ると触ってみたくなる。動物に痛い目を合わせるだけで良いから電圧は低いかもしれない。
しかしネットの下のほうがめくれていて動物は簡単にくぐることができる。設置したまでは良かったが維持する人手がないのだろう。ちゃんと電気が来ているのかどうか。
過ぎてきた麓の庭先の畑も柵がしてあったから、二重に害獣を防ごうとしたようだ。
9:19
このあたりは電気柵がない。一部だけならやる意味がないではないか。

道はずっと一車線、かつ上の駐車場も狭いとなれば、マイカーを自由に上がらせたらUターンすらできず大混乱になるだろう。

・・・
道は再びヘアピンカーブがあってしばらく上ると鞴(ふいご)峠に到着。

係員が「いま浜松ナンバーと金沢ナンバーが来ました。あと空きは2台です」と下に電話している。
駐車場は無料で全部でスペースは14台分あった。東京の車はなかった。
これだけのために観光協会だか市の職員だか何人か1日張りつくのはご苦労なことである。車道など閉鎖して全員歩かせればいいのに。

駐車場に看板地図があった。
9:29
備中松山城
上ってきた道をみた。
右側の端がトンネルを出たところの小高下谷川の谷で、そこまで紺屋川に沿ってずいぶん坂を上って最後は降りたが、それらは地図の範囲外である。そこから小高下谷川に沿って東にのぼって、次に西に転じて、再び東に転じ、ここふいご峠まで来た。駅から1時間以上、道を聞いた麓の踏切からでも50分も一人歩き続けた。
しかし見れば、ふもとからまっすぐ登山道が二本もあるではないか。
歩いてきた紺屋川沿いの道も、一時は近道だと思った小高下谷川沿いの道も、自動車のための道であり、歩くのならもっと近かった。
調査不足は大きな損失を招く。
9:30
確かに駐車場から左手に降りていく登山道がある。
まあ、気を取り直し、右手の天守閣までの道を最後の登りにつく。

やがて雑木林の山道から石段になっていく。
今まで麓から誰もいなかったのに、駐車場からは途端に観光客が増えた。
9:36
中世以来の山城と違って近世城郭のように石垣が立派である。

ここで人に追い抜かれた。
今までこのような道で追い越された記憶がない。
まあ、彼らは車で来たわけだから、と言い訳する。

石垣の台は中太鼓の丸。
山頂の天守と麓の政庁の間の連絡には太鼓を鳴らしたらしい。
ここは2つあった中継点の一つ。
9:37
中太鼓の丸跡から高梁市内をみる。
ずいぶん上ってきたものだ。

山中に石垣がだんだん増えてくる。
9:41
「登場心得 よくぞまいられた 城主」
ここまでは「あわてずゆっくり歩むべし」「この辺りがちょうど中間地点である しばし休まれよ」などというものだったが、ついに大手門の下に到着。

9:42
ここに大手門があった。
石垣の一部に自然の巨岩が使われている。
9:43
この広い通路は山城とは思えない。
9:43
備中松山は江戸時代の天守が残っていることで有名だが、私にはこの石垣の見事さ、保存状態のよさのほうが嬉しい。
9:45
三の丸から二の丸に上がる。
9:46
二の丸
日本で12しか残っていない天守閣の一つが見えた。
9:47
本丸への登り口に五の平櫓と六の平櫓が並ぶ。
そこに入場口があり、500円。
ここまではるばる来て中に入らないのは私くらいかもしれない。
天守こそ価値があるとされる現存12天守のうち国宝の松本、彦根、犬山、姫路は入ってみたが、どこも同じように見えてしまい、高知、丸岡、弘前、丸亀は入っていない。むしろ博物館になっているコンクリートの熊本などは入る。城郭は堀と石垣の縄張りは素人でも面白いが、内部は木造建築の知識でもないと入る意味がない。
9:49
犬走の下から見る備中松山城天守

ここでトイレを借りるため二の丸から降りた。
そのまま山を下りようかとも思ったが、二度とこないのは明らかなので再び戻った。
二の丸にあった案内板

松山城は鎌倉時代からあったようだが、戦国時代、三村氏の本拠地となった。三村家親は毛利氏を後ろ盾に備中全域を手中にしていたが、さらに美作、備前に侵攻して浦上・宇喜田氏と対立する。三村家親は宇喜田直家に暗殺され、跡を継いだ三村元親が大松山・小松山を範囲とする一大城塞を完成させた。

しかし毛利の山陽道担当の小早川隆景が宇喜田直家と同盟を結んだため(山陰担当の吉川元春は古参の三村をすて新参の宇喜田をとるのは不義であると反対)、三村元親は京・大阪まで進出していた信長についた。その結果1574年、毛利の兵8万を率いる小早川隆景、宇喜田直家に滅ぼされ、備中の大半は毛利領となり、南方の一部が宇喜多氏に与えられた。

秀吉が東の備中高松城を水攻めするのは、ずっとのちの1582年のことである。

ふいご峠売店でもらった歴代城主

江戸時代になると元和3年(1617年)、因幡鳥取藩6万石の池田長幸(輝政の甥)が加増され6万5,000石で入封し、立藩した。

その後、城主は水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、1744年板倉勝澄が5万石で入封し、明治まで板倉氏が8代続いた。

10:01
犬走から奥(後曲輪)のほうに行ってみる。

10:02
後ろ曲輪から見る二重櫓。
天守閣の後ろ(北東)にある。

・・・
下城する。
二の丸から三の丸に降り、さらに大手門跡を出たあと郭の地図があった。
10:08
このあたりで大河ドラマ真田丸のオープニングに使う映像が撮られたという。CGを駆使するとはいえ、元となる映像がなくてはならない。ここは市街地の城と違って石垣だけは昔のままであり、映像技術者が全国の城から選んだのだろう。

ふいご峠の駐車場まで戻ると、茶屋のような小さな売店が1軒あり、そこのおばさんに下山する登山道などについて聞いた。

ちょうどハイキングのように上がってくる年配の女性が二人いて、すれ違うように細い山道をおりた。
作業員が3人、道を整備していた。
私に気が付くとだいぶ前から手を止めて私が通り過ぎるのを待っていてくれた。急いであいさつしながら通過すると、大きな音を立てエアー噴出機による落ち葉の吹き飛ばしを再開した。そうしないと道が滑るのだろう。
10:21
実際、私はこの後すぐ、大きく滑って股裂きになり手をついた。
幸い股の筋(すじ)が切れることもなく、けがもしなかったが危なかった。
10:23
大石内蔵助の腰掛石
1693年備中松山藩の水谷家が無嗣断絶で改易されたとき、城は播州赤穂浅野氏の預かりとなり、次の藩主家が決まるまでの1年半、家老の大石良雄が松山城を在番管理した。江戸城松の廊下刃傷沙汰の7年前である。
10:26
それほど古くはないのに小屋が朽ちている。石垣しか残らないはずだ。
このあたり臥牛山国有林で、高梁市長が平成11年から5年間、3.88平米だけ休憩所敷として借りるという札が貼りついていた。

このあと下から落ち葉を吹き飛ばしながら上がってくる一人の作業員の男性に会った。
上下から作業する彼らが出会うのは何時だろう、と長い登山道を思う。

ふいご峠から作業員以外誰にも会わず、山道を駆け降りるように麓に到着した。
平地に降りたところに「備中松山城登城口」の看板があった。
「天守まで1500メートル ふいご峠(8合目)まで800メートル」
とある。延々と車道を歩かず、ここから登ればよかったのである。
と思ったが、大手門跡から下り坂を一気に降りて30分かかったから、やっぱりこちらを登っても1時間近くかかるのかもしれない。
本丸まで往復2時間ということになる。
連絡太鼓が必要なはずだ。
いっぱんに山城は、居城としては非常に不便である。
上り下りが大変だし生活水の確保、物資の運搬も難儀だろう。
とうぜん彼らも麓の平地に館をもった。山城は攻められたときに籠城するか、あるいは重要地点を見張るための砦のようなものであっただろう。
それが戦国時代末期になると多数の小領主たちの興亡の末に少数の戦国大名が生き残り、彼らは領国経営が便利なように平地に巨大な居城を作った。防御のための峻険な坂は広大な堀に代わり、山城のほとんどは無用のものとなった。もともと山城は大がかかりな石垣や水堀があったわけではないから、簡単に山林に同化して消えてしまった。

ところが備中松山城は山城としては拡張を重ねた大規模なもので近世城郭に十分匹敵し、備中の5~6万石を治めた松山藩は、この大きな山城を本拠地とした。もっとも藩主らの住まい、領国経営の政庁は麓に置いた。それでも城番が毎日つめ、きちんと管理したのだろう。その結果、山城でありながら往時の姿を今に残している。

明治6年、廃城令が公布され、松山城は新政府によって7円 (現在の約5万円)で商家に売却された。しかし幸か不幸かあまりにも不便な場所にあることから平城のように転用されることはなく、資材の搬出もなく、ただ放置された。
しかし荒廃が進み、崩壊、一部倒壊した。昭和初期、修復の機運が高まり、1930年から10年かけて工事が進められ、二重櫓・天守の順で修理が行われた。こうして残ったのが全国現存12天守の一つであり、また日本百名城のひとつである。

(続く)
次は板倉勝静、山田方谷、三島中州と高梁の町について書く。