4月22日の朝、備中松山城に上った。
麓の踏切から大手門跡まで1時間以上かかった。
短時間で城内を見て、帰りは別の道を取り、雑木林の細くて急な山道を30分で駆け下りたが、人里に戻ると2時間経っていた。
山から降りてすぐ、登城口の近くの小高下谷川(ここうげだにがわ)のそばに石柱と説明版があった。
10:37
三島中洲旧宅 虎口渓舎跡
本名三島毅(1831-1919)は備中松山藩士ではない。倉敷に生まれ寺子屋で習字をならい、13歳のとき松山藩の儒者山田方谷の私塾牛麓舎に入り、19歳のとき塾長となった。藩務多忙の方谷にかわり舎生の訓育に当たる。26歳のとき松山藩士となった。
文久元年(1861)、30歳のとき藩校・有終館の学頭・吟味役となり、この場所、小高下(ここうげ)に200坪の宅地を賜り、虎口渓舎と名付け漢学塾を開いた。塾の名は目の前の小高下谷川からとったのだろう。弟子の出身地は12藩に及び塾舎は常に60人から70人を越したという。明治政府出仕の命によって東京へいくまで11年間にわたって師弟の教育にあたった。
私は10数年前までこの人を知らなかった。
長野の弟が上京して一人深川の富岡八幡の境内を散歩したとき骨董市をやっていて、三島中州の書(掛け軸)を買った。実家に帰った時、床の間の前で書の文言について蘊蓄を聞かされた。彼はそれ以前から三島を知っていたようだ。
三島は二松学舎を起こしたが、そこで中国文学を学んだ私の妹が結婚するとき長野に送った不要な書籍類の中に三島の著書があったらしく、それも掛け軸の解読に役立ったらしい。
・・・
小高下谷川を渡るとバス停があった。
朝延々と車道を歩いたが、ここまでバスで来て登山道を登るべきだった。
ゴミ一つない美しい川に感心しながら左岸を下るとすぐ、土塀に囲まれた学校があった。
10:42
県立高梁高校 東門
高校敷地にわたる橋が「ぎゅうろくしゃばし」とあるからここに山田方谷の牛麓舎があったのだろうか。
この塾名は背後の山が臥牛山と呼ばれたからだろう。牛が臥した姿の城山は本丸・二の丸・三の丸が階段状に配された小松山のほかに、大松山、天神の丸、前山の4つの峰からなる。
(後で調べたら私塾牛麓舎は川向うの山側でなく、背後の左岸にあったらしい)
10:43
この高梁高校は旧制中学として1895年創立。岡山県では岡山朝日高校に次いで古い。
岡山朝日が1885年各県一校の岡山県尋常中学として創立し、その10年後に津山中学、高梁中学ができたから備前、備中、美作に一つずつ作られたことになる。この小さな谷あいの町が備中一国の学府だったわけだ。
旧制高梁中学は戦後、高梁高等女学校(前身は1885年創立の順心高女)と合併し共学となった。卒業生に石川達三、水野晴郎らがいる。
10:44
御根小屋(おねごや)は、上下二段に造成されており、上段に藩主が日常起居する御殿が設けられていた。
10:44
御根小屋はかなり広く、背後を臥牛山、前を堀のような川で守られ、立派な城郭のようである。
実際、ここは山頂の「山城」に対し、「お城」と呼ばれ、通常藩士の登城といえばここに出仕することであった。
10:46
高梁高校の下の端から川を渡って校地外縁に沿って歩いていく。敷地は川、線路、山裾を三辺とする三角形をしている。
そばの説明版によると、創建年代は不明であるが、天正3年、毛利が三村氏を滅ぼした備中兵乱で焼失した記録があることから、戦国時代まで遡るという。現在の姿は、江戸時代初期、関ヶ原の戦後、毛利を萩に押し込めたあとに派遣された代官の小堀遠州が再建をはかり、その後の藩主水谷勝宗により1683年に完成したとされる。
10:48
下中門跡
ということはこの下に総門、御殿坂があった。
フェンスの向こうはテニスコート。
備中松山藩は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、1744年板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
もっとも有名なのは幕末に第7代藩主となった板倉勝静(1823-1889)である。
山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。勝静は井伊直弼が桜田門外で暗殺された翌々年の文久2年(1862)老中に抜擢され、徳川慶喜の代に老中首座となり、難局に直面する幕府を切り盛りした。
藩政改革にみられた彼の優れた能力はもちろんのことだが、血筋も見られたかもしれない。
すなわち彼は奥州白河から桑名に国替えされた松平定永の八男で、備中松山・板倉家の婿養子になった。すなわち寛政の改革の松平定信の孫である。つまり将軍吉宗の孫の孫であった。
さて戊辰戦争では勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には備中松山藩追討令が朝廷から出された。執政であった山田方谷の決断で無血開城し、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収した。
京都にいた勝静は徳川慶喜に従って会津の松平公らととも江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦した。
10:49
総門と中門の間の城内を伯備線が横断した。
車道でもないのにこれだけ広いのは、石段や石垣をふくめ昔の登城口のままなのだろう。
江戸期には両側に松並木があり、その外は白壁であったという。
10:50
特急「やくも」が通過した。
名前から分かるように山陰本線に乗り入れ松江、出雲までいく。
踏切のすぐ下に山田方谷の真新しい石碑と幟「知行合一」がたっていた。
10:51
高梁駅についたとき、「大河ドラマの主人公に」と訴える「ほうこくん」に出迎えられたように、市は大々的に彼を売り出している。市内各地に彼の言葉を彫った石碑を建て、それらを結ぶ「方谷の道」という散策コースを作っている。
方谷を知ったのはいつだろう。
司馬遼太郎「峠」かもしれない。主人公・河井継之助が藩政改革にあたり、はるばる越後長岡から備中まで山田の教えを乞いに訪ねるほど、日本中に名を知られていた。
山田方谷(1805-1877)は、三島同様、松山藩士ではない。家は農業と菜種油の製造・販売をして生計をたてていた。5歳で親戚の寺に預けられ藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始め、神童と言われた。
20歳の時、家業と学問にはげむ方谷の評判を聞いた藩主の板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられ、24歳で藩士に取り立てられ、藩校の教授に任じられた。
方谷の学問は儒教の中でも幕府の官学であった朱子学ではなく、陽明学である。
朱子学は大義名分や形式を重要視したのに対し、陽明学はより実践的な知行一致を主要思想とした。方谷は幼少期から朱子学を学んできたが、その形骸化した思想に満足できず、陽明学を学ぶため3年江戸に遊学した。
昌平黌で塾長を務めていた佐藤一斎の私塾に入門し、陽明学では佐久間象山と並び「佐門の二傑」と並び称せられた。
方谷は松山に帰国後、牛麓舎をひらき、身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中にはのちに片腕となった三島中州もいた。
(陽明学を信奉するものは朱子学を批判する革命思想家が多く、それを危険と見た方谷は朱子学を十分に習得した上で、なお疑問を持って陽明学を学ぶことを希望した者にだけ陽明学を講義した)
しかし彼を有名にしたのは学問ではなく、藩政改革である。藩主板倉勝静のもと、財務状況の公開、役人と商人の癒着の禁止、債権者の大阪商人の協力、倹約、そして殖産興業で多くの特産品をつくり10万両の借金を返済した。
私が信州にいた子供のころ、親たちが畑で使っていた三本刃の鍬は「備中鍬」といったが、方谷の時代に松山の特産となったものである。
彼の改革は経済だけでなく洋式への軍制改革にも及んだ。戦国以来の旧弊に拘る藩士たちは改革を渋るため、代わって人口の8割を占める農民を軍の主体とする農兵制を導入した。その訓練を見学に来た長州の久坂玄瑞は感心して、のち高杉晋作の奇兵隊の誕生に影響した。
さらには困窮する下級武士を山間の未開地に移住させ、開墾させて収穫物は無税とし、国境防衛と貧民対策をかねる、のちの明治政府の屯田兵制度のようなものも発案、実行した。
方谷の石碑の向かい、すなわち線路を挟んで高梁高校の下に学校があった。
10:51
方谷學舎高等学校
明治37年(1904)設立の岡山県有漢准教員養成所にさかのぼる。
戦前の財団法人高梁学園が設置した高梁農林学校と高梁女子商業学校が戦後合併し、高梁実業高校になり、また高梁日新高校に校名変更した。そして町おこしのようになった方谷プロモーション運動に乗ったのか、2023年方谷學舎高校に校名変更した。つまり設立などに山田方谷は関係ない。
話は変わるが、明治時代、岡山というのは長野と並ぶ教育県として知られた。
岡山藩池田家の藩校は全国に先駆けてつくられたし、閑谷学校は庶民のための学校としては世界最古とされる。明治時代の小学校就学率も高く、大都市でもないのに旧制第六高等学校や第三高等学校医学部を誘致することに成功した。1950年から1998年まで続いた岡山五校(市内の朝日、操山など)の一括総合選抜制も、その裏返しと思えなくもない。
そして、備中高梁という谷あいの小さな町に、私立大学(実際は高梁市が出資する第三セクターの順正学園が運営)、県立高校2、市立高校2、私立高校1が存在することに、改めて岡山の教育を思った。(岡山県と高梁は違うかもしれないが)
・・・
さて、御根小屋跡地を離れるとすぐ市街地である。
高梁の町は小さい。
10:53
このまま古い家々をみながら駅のほうに行く前に、備中松山という谷底の町の中心を流れる高梁川に行ってみる。
10:57
方谷橋
旧橋が1934年の室戸台風で流されて1937年にかけられた。
土木学会により土木遺産に選定されている。
私はそれより橋の名前が気になった。近年の方谷ブームによって改名したのかと思ったのである。
しかし、少し北の伯備線方谷駅(1928年開業)同様、旧橋のころからこの名前だったらしい。ちなみに駅のほうは鉄道省が人名を駅名にするのは前例がないと難色を示したが住民の熱意が押し切った。彼は大正時代でもなおこの地で神のように思われていたのである。
10:58
川底が低いので高い堤防はない。
その代り岸に瓦屋根を乗せた土塀が作られている。
維新後は、能力を高く評価する新政府から出仕を何度も求められたが、岡山の私塾で門弟を教えて一生を終えた。
10:59
土塀の内側を歩いていく。
このまま川に沿って駅まで行くのもつまらないので町に戻った。
11:03
紺屋川の通りを上がる。
橋に祠がある。
高梁七恵比寿の一つらしい。
11:05
朝、角を曲がった高梁キリスト教会堂がみえた。
結局、武家屋敷のあるほうへは行かず朝歩いた道を駅に向かった。
電車は11:26である。
途中、山田方谷記念館があった。入らず、だれもいない庭の藤棚の下でコンビニパンを食べた。そして山田方谷が果たして大河ドラマになるかどうか考えた。時代、登場人物は申し分ないが。
電車は高梁を出ると高梁川に沿って走った。
11:31備中広瀬
11:38美袋
11:42日羽
11:46豪渓
11:50総社
11:33
広瀬と美袋(みなぎ)の間。
古代はこの川を使って山陰から大陸からの文化、中国山地の鉄などが国家の主軸であった山陽道にもたらされたことだろう。
(続く)
20260430 高梁、吉備国際大学と備中松山城
20260427 高速バスで岡山、倉敷へ
ところで2017年、板倉勝静の墓が千駄木の近く、本郷通の吉祥寺にあることを知った弟が長野から上京し、私もついて行って初めてこの寺に入った。彼は三島中州書・顕彰文の大きな石碑を見つけて喜んでいた。
20171231 吉祥寺3 経蔵、赤松家墓地、板倉勝静



























































