2024年7月18日木曜日

スイカが大きくなってきた

(健康で、暇なのに)2週間以上ブログを書かなかった。
自分では文章を書くのが好きだと思っていたのだが、そうでもないようだ。
面倒くさがりのほうが上回る。
今まで書いていたのはスマホで写真を撮ると記録しなくてはいけないという義務感からだった。スマホを見ると数枚写真があったので書く。

7月18日、今年も梅雨が明けた。
2024₋07₋17
この時期、庭は草だらけになっている。
写真には4番畝(左)にゴボウ、オクラ、パプリカ、インゲン、
3番畝(右)に落花生、トウモロコシ、
向こうの2番に枝豆、1番にナスが見える。
2024₋07₋17
5番、6番畝はサツマイモ。
今年は例年より少し早く(6月30日)植え終えたが、芋からの自家製苗のため、発育は他所より遅い。
2024₋06₋25
今年は7番畝で実験的に土饅頭を作り地面の表面積を増やして植えてみた。
2024₋07₋17
しかし、初めて作ったスイカの蔓が土饅頭の上に伸び、サツマイモを覆って実験にならなくなってしまった。

スイカは2株のうち、こちらは3個、5番畝の株は1個生っている。
(写真では手前に1つ、奥に包んだネットの緑が1つみえる)
毎朝人工授粉はまめにやったが、ほとんどの雌花は実にならず、豆粒大の状態で腐る。
人工授粉の有無は関係ない気がする。
2024₋07₋03
この日の収穫、白ナスを初めて作った。

今まで何十年も、都会の狭い庭では旨い野菜、果物は作れないと思っていた。
甘くないスイカ、カボチャ、リンゴ、ミカンほどつまらないものはない。
そこで味がなくてもなんとか食べられる、ナス、キウリ、トマト、白菜、キャベツ、などを作ってきた。

しかし、温州ミカン、イチゴ、柿などの成功から、この地でも甘いものを作れることが分かり、現在、不知火、せとか、イチジクなども育てている。その流れで今年はスイカを作ってみたのである。

6月は美味しいメロンを頂いた。
2024₋06₋30
食べて捨てた生ごみから出たメロン。
茨城県産、イバラキング。
今からだとちょっと遅い。
種を保存してあるので来年はスイカと一緒に春先にまいてみよう。
カボチャも挑戦してみるか。
2024₋07₋08
トウモロコシも、甘くなければ食べる(作る)意味がない野菜である。
しかし、品種改良の結果か、あるいは粒が少なく糖分が集中するからか、千駄木菜園でもそこそこ甘い。
しかし、今年も世間並みには育たなかった。
肥料をケチるからだろうか。
2024₋07₋08
数年前と比べれば、少しはましになっている。
来年は作るかどうか迷っている。
トウモロコシは枝豆同様、栽培期間が短いため、隙間作物として重宝なのだが。


千駄木菜園 (総合)目次


2024年7月2日火曜日

香川9 金比羅と金刀比羅の違いは何か

6月11日、日帰りで香川県に来て、高松、国分、丸亀、善通寺に立ち寄って、最後は琴平に来た。

琴平、金刀比羅、金比羅(金毘羅)の関係が分かればいいなと思いつつ、善通寺から1駅だけ電車に乗った。

16:16
土讃線琴平駅
ここの駅舎も、隣の善通寺駅ほどではないが、古い。
1889年(明治22年)開業、1922年、駅が現在地に移転、1936年現駅舎竣工。
格子天井に市松模様の床は、おしゃれである。団体観光客に合わせたのか中が広い。
16:16
駅から西にまっすぐ道が伸びる。
両側に狛犬と石灯篭がならび、早くも参道のようだ。
正面の山は象頭山(ぞうずさん)、中腹に金刀比羅宮がある。
高松の屋島に似たメサ(火山性の残丘台地)であり、この独立峰の北(右)のふもとは善通寺、西に越えれば三豊市にいく。

とりあえず、駅からまっすぐ歩く。
16:21
旗を持ったガイドに連れられた行列とすれ違う。
今時珍しい。
向こうはJR琴平駅。

公園があって子どもたちがボール遊びをしていた。
高い灯籠がある。
16:22
金刀比羅宮北神苑。
名前は立派だが、地元の子供たちにはただの広場。

高灯籠は、幕末の1860年に完成、高さ27メートルは日本一。光は丸亀沖まで届き、船上から海の守り神、金比羅山を拝むとき目印になったという。
他に高い建造物もなく、夜は灯りもなかった当時は見えたかもしれないが、本当かと思って地図を確認すると、西は象頭山、東は小さいが如意山があって、瀬戸内海は割と狭い範囲からしか見えなかったと思う。しかし彼らは見える範囲が分かっていて、船がその場にさしかかると手を合わせたのだろう。

高灯籠のすぐ隣は琴電・琴平駅。
16:22
琴電・琴平駅
こじんまりとした終着駅。
「琴電」は高松琴平電気鉄道株式会社の略。
「ことでん」と略称しうる電鉄会社は、ほかに琴平参宮電鉄(琴参)、琴平急行電鉄(琴急)があり、かつて善通寺の陸軍第11師団のそばまで行っていた路線は琴参である。

琴平は、今では考えられないが、昔は四国の玄関口高松と同じくらい重要な場所だったようだ。
1.国鉄土讃線の琴平駅は1889年讃岐鉄道の駅として開業した。
しかし、2.琴参が、1922年に丸亀―善通寺間を開通させ、翌年琴平まで延伸した。
3.現存する「ことでん」高松琴平電鉄は、その前身のひとつ、琴平電鉄が1927年、高松栗林公園から琴平まで開通。
4.琴急は一番遅く1930年に参入した。しかしすでに過当競争であり、1944年鉄道路線を廃止、琴急は琴参に吸収合併された。そして琴参も1963年に鉄道事業から撤退、現在はバス路線のみ維持している。
16:23
大宮橋。下は金倉川。

橋を渡り、突き当りまで行き、左折、南に歩くとだんだん土産物屋や食堂が増えてくる。
16:29
一の橋西詰めまでくると、西に琴平宮まで向かう表参道の一番下にでる。
骨付き鳥、中野うどん学校など讃岐名物の看板が並ぶが、平日夕方のせいか観光客はあまりいない。こういうところはもう少し賑やかなほうが雰囲気ある。

「日本最後のご当地ラーメン」という讃岐ラーメンの看板があるが、どういう差別化を図っているのだろう? 麺がうどんだったりして。
16:30
右の西野金陵本店は1789年創業、金刀比羅宮のお神酒を作っている。
その隣の御宿・敷島館は、2019年共立リゾートがかつて国の登録有形文化財に指定された「敷島館」の古材を用い、中は現代的に、外は老舗のホテルを再現したもの。
しかし琴平は全体的に外部資本が入らず、小さな土産物店まで長い歴史を持っているような(要するに古い)町である。
16:32
歩く人の多くが杖を持っていたので記念に買ったのかと思ったら、レンタル杖。
一本100円。
持てば荷物(邪魔)になるかと思うが、雰囲気は出る。
石段は785段あるらしい。
16:33
石段が始まると両側の店も近くなってこんぴら参道の雰囲気が出てくる。

さて、金毘羅さんとは何か?

金比羅さんを初めて聞いたのは小学校のころ。
ふるさと信州中野の岩船には部落名ともなった岩船地蔵があり、その横に浄清寺という曹洞宗の寺がある。この寺と地蔵堂の間に、神仏習合の時代を思わせる、「金毘羅大権現」と彫った石柱と鳥居をもつお堂があった。

ひとびとは、その一帯を、「お地蔵さん」とも言わず、もちろん浄清寺ともいわず、「こんぴらさん」と呼んでいた。
そのせいかどうか、小学生のころ、部落の氏神・岩水神社の御柱祭で、「岩水神社の歌」、「中野小唄」に加え、「金比羅ふねふね」を歌った。一日中、柱を引っ張って部落内を練り歩き、その間何度も繰り返し歌ったものだから、今でも歌詞を覚えている。

金比羅船船
追い手に帆かけてシュラシュシュシュ
回れば四国は讃州那珂の郡、象頭山
金比羅大権現
一度回れば
(以下最初に戻り、永遠に終わらない)

歌詞など渡されなかったから「追い手に帆かけて」のところは「お池に帆かけて」と歌っていた。もちろん「讃州那珂の郡、象頭山」も何であるか知らず、象頭山(ぞうずさん)は「ゴゾサン」と歌った気がする。

ちなみに今、那珂郡は存在せず、海側の多度津、善通寺があった多度郡と合併し、仲多度郡となった。つまり琴平駅、金刀比羅宮は、仲多度郡琴平町である。
16:34
石段は785段のうち、ここで22段目。

今から登る神社の公式名称は「金刀比羅宮」である。
琴平町は、江戸時代、那珂郡金毘羅村といい、明治6年に琴平村と改称した。
つまり琴平は金刀比羅の簡略表記のようであり、金刀比羅と金毘羅がそれぞれ何であるか分かればよい。
16:35
「手荷物預かります」という幟。
このあたりで荷物が重く感じる人がいるのだろう。

16:37
100段目にある松浦百段堂という土産物店。

16:38
105段目に鳥居と地図があった。
鳥居の文字は「世界平和」と「四海平穏」
16:38
御本宮まで「あと685段」とある。
その先に白峰神社と奥社がある。

さて、金刀比羅と金比羅。
さきに琴平は金刀比羅の新表記ではないかと書いたが、逆かもしれない。
こんぴらさんの正式名称「金刀比羅宮」の由緒によれば、象頭山(琴平山)の中腹に大物主命をまつったコトヒラ神社が建てられたのが始まりとする。表記は万葉仮名のような「金刀比羅」と簡単な「琴平」の両方あったのではないか?
(コトヒラが何かは不明だが)

仏教、特にこの地域に縁のある空海が持ちかえった真言密教には、もともとインドの様々な民間信仰、神々が取り込まれている。その中にクンビーラという、ガンジス川のワニを神格化した守護神があった。その宮殿がインドの象頭山(ガヤーシールシャ、伽耶山とも)にあったせいか、クンビーラは、象頭に似た琴平山のコトヒラ宮境内にあった真言宗松尾寺の本尊・釈迦如来の守護神となったという。

つまり、金刀比羅(コトヒラ)と金比羅(クンビーラ、のち金比羅大権現)は、金、比(毘)、羅と共通文字は多いが、偶然の一致にすぎず、両者は由来からして全く違うものだろう。

一方は地名・神社名、他方は神ということである。
16:39
168段。
神社と仏教神が一緒になるのは、当時は普通のことで(神仏習合)、コトヒラ宮は祭神の大物主命より、松尾寺守護神だった金毘羅大権現のほうが有名となった。
そして、ワニや蛇は水に関する神で、海神、水神として、海上安全、海難救助、また農業では雨乞(あまご)い祈願をされるようになったわけである。

(航海の神・港の神としては、住吉大社が有名であるが、こちらは海を越えて三韓征伐をした神功皇后と海の神である筒男三神をまつり、また遣唐使船などが出発した難波津にあったことで海・港の神となった。)

室町以降、瀬戸内の海上交通の発達、また塩飽水軍などの活動とともに、金比羅信仰は広く航海、漁労関係者の間に広がった。祈祷で大きな木札を賜った漁師たちの中で難破した際に、船に祀っていた木札につかまって命拾いしたという話も信仰を強めた。

江戸時代に入ってからは、廻船の発達で、全国に金比羅権現が勧請され、さらに伊勢参りのように、金比羅講を組織しての琴平詣でが全盛を極めるに至った。先に書いた民謡の「金比羅船船」は、元禄のころから、彼らが道中で歌ったという。リズムと言いメロディといい、今聞いても新しいから、当時は流行っただろう。

琴平山を望みながら航行する船が賽銭などを樽に入れて流し、発見した人、船が金刀比羅宮に届ける(代参)という風習「流し樽」は、現在も(儀式的に)行われているらしい。

・・・
石段を登り続けると土産物店が切れた右手に掃海殉職者顕彰碑の案内板があった。
16:42
掃海殉職者顕彰碑の由来「ああ、航路啓開隊」。
第二次世界大戦では、瀬戸内海はじめ日本近海、港湾に各種機雷が7万6千個も敷設された。終戦時には主要な港、水路80か所以上がことごとく閉鎖されていて、戦後は旧海軍関係者が風浪寒暑に耐えながら掃海に従事した。しかし掃海完了までの6年間で79人が殉職したという。

実際の顕彰碑は林の奥にあるらしく、その手前に掃海母艦「はやせ」主錨が展示されている(写真奥)。
16:43
大門(おおもん)到達。365段。
大門を過ぎると束の間、なだらかな道が続く。
桜の馬場という。春は桜が咲く。馬場は道の意味でも使うと何かで読んだが、ここはどうか?
16:45
桜の馬場の参道脇の石の柵(玉垣?)には寄進者の名前が彫ってある。大きな石には石州益田・右田源右衛門とあった。信仰は瀬戸内海だけでなく全国に広がっていたことが分かる。だいたい海に関係ない信州中野にも金毘羅さんがあったのだから。

ちなみに、ここの金刀比羅宮を総本宮とする神社は全国に存在し、
ウィキペディアに乗っているものは、
・金刀比羅神社、金刀比羅宮が34社
・琴平神社が12社
・金比羅宮・金比羅神社が7社。
実際はもっとあるだろう。例えば信州中野岩船の金比羅大権現や、文京区の金刀比羅宮東京分社(別ブログ)は、この数に入っていない。


さて、玉垣の後ろには、「金弐百萬圓」という寄進者の住所氏名を彫った石柱が並んでいる。
16:45
反対の右側は「金壹百萬圓」という石柱。
伏見稲荷の寄進鳥居を思わせる。
この石柱を建てる費用はいくらだろう? 
百万円とは別に払うのだろうか、それとも込々だろうか?
などと下らないことを考える。

漁業協同組合や水産会社が多いが農協もあった。
昭和46年奉納で「大阪府堺市 美木多金刀比羅講」というのが目についた。今も講が現存するのだろうか?
16:46
竹中工務店は「金壹封」だったが、百万の柱の間にある。
百万なのかそれ以上なのか分からない。

16:49
神馬舎、高橋由一館などのある平地に到達。431段目。
本宮まであと354段、奥宮まで950段くらいか。

高橋由一は、江戸時代生まれの洋画家で、名前を知らなくとも「鮭」の絵を見た人は多いかもしれない。岸田劉生と絵の感じが似ている。金刀比羅宮は彼の油絵27点を所蔵する。
16:50
今治造船(株)奉納のプロペラ
16:51
プロペラの前にクスノキの巨木。何の説明もない。
比較の為にA4の紙をおく。
16:52
こちらはイチョウの大木。
高橋由一館の前にある。白いのはA4。

ここから本宮まであと354段。
朝から歩き続けた。
私は、戦前と同じ生活をする自信がある。タクシーなど乗らずに歩き、冷房やエスカレーターも不要だと思っているし、テレビのニュース番組で熱中症を大げさに言うのに腹を立てている。マスコミが軟弱な日本人を作っている。私は粗食にも耐えられるし、カビが生えても食べちゃうし、ケガで出血しても、消毒も手当てもしない。自分の胃酸と免疫機構のみを信用し、テレビや本が言う健康情報のほとんどは、もっともらしい嘘だと思っている。
つまり生命力に自信があり、普通の人が登る石段など、何の問題もないと思っていた。

1. しかし疲れた。
2. 私は同時に、世間の人と行動が少しずれていて、神社仏閣のご利益というのに興味がない。本殿に行ってもお参りしない。

という2点で、もう石段を登らないことにした。
よく考えたら、自分が登ることに全く意味がないことに気づいたのである。
要するに、歩くのに飽きた。

簡単に予定を変更できるのは一人旅のいいところで、これが誰かと一緒だと、登り続けても、途中でやめても、どちらかが面白くない。
16:53
桜の馬場を下っていく。
登るときに追い越していった陸上部の学生が追い越していった。
彼らは自分を疲れさせるのが目的なのだろうか?
彼らが上り下りするのと、人々がお参りするのも、どちらも意義がある。
私は疲れさせるのもお参りするのも意義が見いだせないから、途中で降りている。
16:55
ところどころで登ってきた平地をみる。
讃岐平野というのは、小さな独立峰(残丘、ビュート)の他は水平である。大昔はこの象頭山を含めた多くのビュートが瀬戸内の島々で、それらが浮かぶ海が隆起して讃岐平野になったのだろうか?
16:56
土産物店は続々と店を閉めていた。
17時までのようだ。
17:06
参道からまっすぐの一の橋を渡る。
17:09
50分前に通過した大宮橋と琴電琴平駅
17:10
向こうにJR琴平駅が見える。
予定より早く下山してしまったので、来るとき通り過ぎた坂出に立ち寄ることもできた。
しかし面倒になった。

琴電は高松方面が30分ごとに、すなわち毎時12分と42分に発車する。(香川県の主要都市、善通寺、丸亀、坂出、高松を結んでいるJRより本数が多い)
予定よりだいぶ早く琴平を切り上げたのに、なぜか反射的にダッシュして改札を通った。
17:10
乗客は高校生が多い。
この日の朝、「ことでん-JRくるり~んきっぷ」(2200円)を買っていた。JRの志度~高松~琴平と琴電全線がのれる。高松から一番遠い琴平までJRで980円、琴電なら730円。だから2200円というのはそれほど安いわけでもないが、スイカが使えない四国で切符をいちいち買わなくてよい。

初めて乗ることでんが発車してから途中下車してみたい駅を探したが、とくになかった。
ほんとに参拝客を運ぶための線路のようだ。

ぼーっと車窓を見ていたら、栗熊と羽床の間で、右(南)を見るときれいな円錐形の山があった。
17:27
堤山(羽床富士)

このあたりは、新幹線から見る南近江に似ていると思った。小さな独立峰と瀬戸内・琵琶湖につながる低地というのが共通点だが、両者の地形の形成については知らない。

ちなみに、讃岐七富士というのがあって、数多い円錐型独立峰の中から7つの美しい山を選んでいる。この堤山(羽床富士)、丸亀の飯野山(讃岐富士)、そばを通った六ツ目山(御厩富士)のほか、残り4つは東讃の白山(三木富士)、西讃にある爺神山(高瀬富士)と江甫草山(有明富士)、南部の高鉢山(綾上富士)である。

陶(すえ)駅を過ぎ、畑田駅が近づくころ、左(北)を見ると、また円錐形の山があった。
17:38
十瓶山。 右は「火ノ山」の裾
こんなきれいな形でも七富士には入れてもらえない。

琴平と高松とのあいだは何もなかった。
しかし最後も讃岐平野らしい景色が見られて良かった。

終点、高松築港駅の手前、高松市の繁華街、瓦町で琴電を降りてみた。
スマホの時計を見れば18:10。まだ空は明るい。
帰りの夜行バスは20:30発。
だいぶ時間があるが、もう見たいものはない。
今すぐ帰って庭の野菜を見たくなってきた。
飽きっぽいのか、たった1日でこれでは、何日も旅を続けるのは性に合わないようだ。

(香川見物、終わり)


香川シリーズのブログ


2024年6月28日金曜日

香川8 善通寺の乃木館は旧11師団司令部

6月11日、日帰りで香川県に来て、あちこち見たあと善通寺に来た。

善通寺は地名でもあるが寺の名前でもある。空海誕生の地に建てられた真言宗の名刹で四国霊場八十八か所の75番札所である。この寺の名は、JRの駅名にも、市の名前にもなっている。
私がこの地名を知ったのはお寺ではなく、旧陸軍第11師団の編成地であったからだ。

戦後、陸軍がなくなったあと、敷地の多くは公共施設や公園、学校などになったが、一部は陸上自衛隊第14旅団が使っている。
広い道路で3つの営舎地区に分かれ、第3地区に乃木館というものがあった。
(第1地区は旅団司令部など、第2は明治期の兵器倉庫などがある)
15:05
県道(大日線)わきに旧陸軍第十一師団司令部之跡という石碑。
乃木館は、陸上自衛隊善通寺駐屯地資料館の通称。

営門に隊員が立っておられ、見学者と分かると名簿に住所氏名入門時間を記入するよう求められ、私が書いている間に、来客者が来たことを資料館に電話されていた。
(今調べたら、ほんとは事前予約が必要だったらしいが、特に何の問題もなく入れてもらえた)
15:07
営門からまっすぐ続くカイヅカイブキの並木。
最初は日露戦争の戦勝を記念して植樹されたとか。
その奥に古いが立派な建物。
右は芝生の広場に戦車などが並んでいて、そちらも見たかったが、案内の人が資料館のところで待っているとのことなので急ぐ。
15:08
旧第11師団司令部庁舎。
明治31年、師団開設と同時に竣工。
戦後、郵政省簡易保険局が使用したが、1961年陸上自衛隊に移管され、京都から移転してきた第2教育団本部が約20年間使用した。前のブログで書いたように1981年、広島の第13師団から四国警備隊区の防衛・警備を引継いだ第2混成団が編成されると(その後第14旅団となる)、その司令部がこの建物を2006年まで使用した。

15:08
正面玄関から入る。
1階は第14音楽隊が使用し、2階が資料館のようだ。
赤字の室名は11師団当時のもの。

階段を上がると女性隊員の方が待っていらした。
中は自由に見ていいという。
時間がないので、付きっ切りで説明してくださるより、ありがたかった。
15:10
「乃木記念室」
代々の師団長の執務室であるが、こういう室名になっている。
それにしても、乃木希典の説明には、やたらと「軍神」という単語が使われ、この資料館にも名を冠し、ちょっと持ち上げ過ぎではないか?

乃木が初代師団長に就任したのは、たまたま創立時に師団長相当階級だった中将で、台湾総督のあと休職中であったからに過ぎない(明治天皇と長州閥の桂太郎首相の意思があったことも大きい)。その後、日露戦争の旅順攻略でも大きな損害を出し、褒められるような戦功があったとは思えない。
しかし、二人の息子をこの戦闘で亡くし、自己に厳しい行動とその清廉潔白な性格とが世間に広まり、最後は明治天皇に殉死したことで、その生涯は劇的なものになり、一気に(世間が)軍神と崇めた。

このように軍神とされるのは本人も望むところではなかっただろうが、後世の人々が資料館の通称に知名度の高い乃木の名を使いたいのも分からないでもない。
15:11
代々の師団長が使った執務机と椅子。
右の小さいほうが乃木から五代目までの椅子。
その後、陸軍が肥大したのか、椅子も大きくなった。

どの部屋も入ると感知して説明音声が流れる。
時間がないので、声を無視してどんどん進んだ。
15:13
隣の部屋は各師団長の写真と経歴。
15:14
歴代師団長。
全国各地に多くの資料館(平和記念館)があるが、これだけ充実しているのは珍しい。左翼的な人が見たら軍国主義、戦争の賛美というかもしれない。25人の肖像写真の額縁の下には幼児のころなど5枚の写真と略歴が記されている。

乃木だけ神様のように別格になったが、伊地知(日露戦争のとき乃木が率いた第3軍の参謀長)、白川義則(上海駅で爆弾を投げられ、それがもとで死亡)、松井石根(南京攻略)、牛島満(太平洋戦争のとき沖縄第32軍司令官として自決)なども別紙で説明されていた。

第14代の松井はここの師団長を終えたあと、台湾軍司令官など経て大将に昇進、予備役となった。しかし日中戦争が始まると召喚され、二個師団を任され南京攻略を命じられる。彼は長らく蒋介石と親交があり親中派であったが、南京大虐殺の責任者として、A級戦犯、死刑となったことで知られる。しかしここでは「南京を攻略した軍司令官です」とだけしか記されていなかった。
15:14

次の部屋に一番見たかったものがあった。
15:16
戦前の善通寺の地図
いまの自衛隊14旅団司令部がある第一営舎地区は、砲兵11連隊、
古い倉庫が残る第2営舎地区は、護国神社のほうまで含め歩兵43連隊、
その東の四国学院大学から郵便局あたりは、騎兵11連隊、
その東は石碑だけ見てきた輜重11大隊、
師団司令部の西には工兵11大隊と陸軍病院があった。
また善通寺(お寺)の北に練兵場があった。
当時は琴平参宮電鉄も来ている。
15:19
11師団各施設を現在の地図に当てはめたもの。
帰宅後調べたら師団開設前後の善通寺について、地元の四国学院大学・柴田久氏の論文が出ていた。
https://www.tec.fukuoka-u.ac.jp/tc/labo/keikan/shibataPDF/sidan.pdf

第11師団を構成した4つの連隊は、てっきり当初から四国の4県に分かれて存在したと思っていたが、違った。すなわち
歩兵第22連隊は1884年松山、
44連隊は1896年高知で編成、
12連隊は1875年広島鎮台で編成されたが1911年から丸亀に移転、
43連隊は善通寺である。

徳島は連隊がなかったが、1908年、第62連隊が大阪から移転してきた。しかし1925年の宇垣軍縮で廃止され、代わって善通寺の第43連隊が移動した。

遅ればせながら第11師団設置について書いておく。
日本陸軍は当初は国内治安維持のため、1871年(明治4年)、国内を6つの管区に分け、各区の中心都市に「鎮台」という名前で部隊を置いた。西南の役では6つの鎮台兵の他に、北海道の屯田兵、近衛兵が陸軍兵として戦った。
しかし1888年、国内が安定し、大陸派遣も視野に入れると名称を「鎮台」から機動性のある「師団」と変えた。1894年の日清戦争は鎮台から変わった6個師団で戦ったが、戦後ロシアとの対決が決定的になると6つの常設師団を倍増させた。すなわち屯田兵を第7師団(旭川)としたあと、第1師団を除く各師団の2個の旅団を師団に昇格させ、各師管区を二分することにより、8弘前、9金沢、10姫路、11善通寺、12小倉の師団を作った。
15:17
第11師団が善通寺というのは異例だった。
明治維新で各藩の城郭が陸軍省に移管されたこともあり、鎮台(のち師団)と各連隊の兵舎は東京以外は城址に置かれた。すなわち城下町という大都市に置かれた。ところが善通寺というのは真言宗のお寺があるだけで何もない。人口3099人(明治23年)という閑散とした村だった。他の師団設置の例でいえば、第5師団の旅団司令部があった松山か、大隊区のあった丸亀、あるいは城跡がある大都市の高松に置くのが自然であった。

しかし地下水が豊富なこと、五岳山など環境が軍事訓練に適すること、多度津、詫間など港湾が近く、また鉄道が使えて四国4県から兵が集まるのに適するということで、ここに決まった。
15:19
日露戦争の旅順攻撃配置図
第3軍(第1師団、第9師団、第11師団)が参加した。
これだけ詳しく展示しているのは11師団というだけでなく、司令官が乃木大将だったからだろう。
15:21
大正11年の陸軍大演習
陸軍特別大演習は複数の師団が参加するもので、1892年から毎年全国各地で行われた。第21回は1922年、 広島の第5師団と第11師団が対決する形だった。前のブログで書いた善通寺駅の大正時代の改修は、のちの昭和天皇がこの演習を統監するため行啓したことに合わせたものである。

軍服やら備品などの展示もあった。
15:22
白兵戦で威力を発揮した銃剣突撃の銃などが展示されていた。
しかし日露戦争で重機関銃が登場すると、この銃剣を持って勇猛に突撃した兵士はバタバタ倒れた。

ここでまた別の体格の良い女性隊員が現れた。

展示の充実ぶり、建物の保存状態が良いことに感心したことを伝えると、建物はつい2006年まで自衛隊・第14旅団司令部として使われていたから保存が良いのでしょうと言われたが、私は善通寺のひとびとの戦前への愛着のせいではないかと思った。

彼女は、善通寺地区は軍の施設でありながら空襲に合わなかったことも、建物・物品が多く残った理由でしょうと仰った。空襲に合わなかったのは捕虜収容所があったからだという(後述)。そんなこと米軍は分かったのですか?と聞くと、米軍機はクリスマスの前に、捕虜用にチョコレートなどお菓子を投下していったという。
15:33
陸上自衛隊・旧日本陸軍階級章
15:34
善通寺俘虜収容所
太平洋戦争開戦直後、グアム島を攻略して捉えた捕虜たちを入れるため、国内で最初に開設された収容所。徳島に移転した43連隊の兵舎を使った。ピーク時には600 人ほど収容されていた。将校が多く、他の収容所に比べると待遇が良かったという。日本側からは“模範収容所”、捕虜側からは“プロパガンダ収容所”とみなされていたらしい。
15:35
終戦時の読売報知新聞
15:36
開戦時の大阪毎日新聞
開戦時も終戦時も第1面は古本屋で買って持っているが、第2面が面白い。

時間がないので数枚写真を撮っただけで通過する。
15:37
徴兵制度
15:38
軍旗拝受と軍旗奉焼式

陸上自衛隊関連のブースもあった。
15:39
歴代の善通寺駐屯地司令
旧陸軍の師団長が古武士のような顔なのに対し、我々と同じ普通の顔である。

15:40
廊下の天井に団長(混成団、第14旅団の長)、副団長、高級幕僚と書かれた箱がある。
善通寺自衛隊の司令部だったころ、在室、不在のランプがついたらしい。
旧軍ほどでなくとも在室だと空気が緊張したのだろうか。

電車の時間が気になるので、二人の女性隊員にお礼を言って辞去した。
15:41
1階の様子
第1各奏室、第2各奏室という表札が見える。
各奏室という言葉は初めて聞いた。
現在、第14音楽隊が使用しているという。
(ちなみに第1音楽隊は練馬、第13音楽隊は広島、すなわち師団・旅団番号と一致する)

1996年、原宿の東郷会館で海上自衛隊音楽隊の演奏会を聞いた。聴衆は老人が多く、クラシックよりも、かわいらしい女性隊員が歌う昭和の歌謡曲、特に瀬戸の花嫁で盛り上がった。ここの音楽隊は地元のこの曲を何度も演奏、歌唱してきたことだろう。

外に出て改めて建物を見た。
15:42
明治31年建築・旧第11師団司令部庁舎。
こういうものの修復にお金を使うことを遠慮しているのだろうか?
と思うほど、壁はかなり傷んでいた。

資料館の前は芝生のグラウンドというか練兵場というか前庭広場。
15:42
「棗の樹 仰ぎて偲ぶ 希典忌」
ナツメは旅順水師営の庭から持ち帰ったものという。
15:44
V-107(しらさぎ)
米国バートル社の大型救難ヘリコプター
向こうで隊員たちが何か作業していた。

15:44
15:45
61式戦車
戦後初の国産戦車。1961年(昭和36年)4月に制式採用された。
戦前は陸海軍とも採用した皇紀の下二けたを使ったが(ゼロ戦、97式戦車など)、戦後は西暦になっている。

乃木館は来てよかった。
内容も良かったし隊員も親切だったので、守衛所で十分お礼を言って後にした。

急いで駅に向かう。
途中は、戦後に軍用地を転用したものだから役所、学校が多い。
子ども家庭支援センターと郷土資料館のあいだを入ると偕行社の建物があった。
15:59
善通寺偕行社
偕行社は将校の社交場、厚生施設だったから全国各地にあったが、現存するのは旭川、弘前、金沢、舞鶴、岡山、善通寺の6か所。
弘前はみた。
16:00
偕行社表玄関
向こうの建物は市立図書館。

日露戦争直前の明治36年(1903年)竣工。
戦後は善通寺区検察局、香川県食料事務所支所などのあと、善通寺市役所(1954~)、公民館(1969~)、市立郷土館(1980~)として使われ、2001年に国の重要文化財、2004年から保存復元工事が施され、現在、昔の偕行社と同じく市民が利用できる社交の場となっている。

前(北)は偕行社公園と言って、駅前からまっすぐ歩いた道に面していた。
16:02
どこにも寄り道せず足早に善通寺駅に戻って来た。
乃木館から20分弱か。
16:04
前のブログで駅前に全く商店がないと書いたが、今写真を見れば、たこ焼き、冷やし中華の看板がある。営業していないようだが。

16:07発の電車に乗り、最終訪問地の琴平に向かった。

(続く)

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