2026年5月20日水曜日

岡山城の縄張りと後楽園、岡山朝日高校、池田氏

4月22日、早朝岡山について美作など山間部や瀬戸内方面を除いて、中央部を回って夕方、17:35 岡山駅に戻ってきた。

岡山は思ったよりおしゃれな都会で、そのことは前のブログで書いた。

そこに書かなかったこと、すなわちタイトルのことなどを書く。

17:41
上が南。左が東。
一番見たいのは日本百名城の一つ岡山城だった。

桃太郎通りという駅前の広い通りをまっすぐ東に向かった。
途中、朝からの強行軍が祟ったのだろう、なんと脚(太もも)がつったが、何とか収まったので再び歩き始めた。

桃太郎通りは城下筋(しろしたすじ)までで、そこから烏城道(うじょうみち)をいくと石山公園という小さな公園があり昔の地図があった。
17:58
地名由来碑案内図
岡山城の縄張りがわかって見入った。
この碑がある石山公園一帯は西之丸の北の堀だったようだ。石山自体は西之丸になり、その南に家老屋敷などがあった広い二之丸があり、本丸と合わせてこの3曲輪が内堀に包まれた内城だった。
これらの西に三之曲輪(町人地)、中堀、三之外曲輪(武家地)、二十日掘(外堀)があり、その外に寺社、武家地、町人地があったようだ。
すなわち本丸を一番奥にして西に広がる梯郭式である。

西国街道が書いてあった。
京都羅城門(東寺口)から長崎まで五街道に次ぐ街道として幕府が整備した街道である。東からきて備前一宮に行くには城の北を通ったほうが近いが、わざわざ南を通して城下町を通過させた。すなわち、岡山城の南をきて、旭川をわたり、二の丸の南にあった大手門の前を通り、北に曲がり三之曲輪を北上した。(これが三之曲輪が町人地である理由だろう)
西国街道は今の桃太郎通りのあたりを西に曲がって二十日掘を越えて再び北上、西に曲がり、いまの岡山駅の北を通って、備中一宮、備中国分寺のほうに向かった。

石山公園を抜けると旭川に出て東に岡山城が見えた。
17:59
左:後楽園 右:岡山城天守

旭川は吉井川、高梁川と並び岡山三大河川の一つで、河口付近は高低差がないためデルタ地帯を形成した。そのなかの一つの中州に築かれたのが岡山城である。
ちなみに今の後楽園は中州ではなく、堀の役目をさせるために旭川を引き込んだ結果らしい。
岡山城周辺の地形
大島原と呼ばれた中州には西北から天神山、石山、岡山と小さな丘がつながっていて、これらは南北朝時代から要害として使用されていたという。
戦国時代になって宇喜多直家(1529-1581)が1570年この地にいた金光宗高を謀殺し、中央の石山にあった石山城に入城・改築した。後に子の宇喜多秀家(1572‐1655)が東の岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が作られた。
(天神山は、のち鴨方支藩屋敷や社倉米の蔵がつくられ、現在は美術館などが並ぶカルチャー地区になっている)

岡山城には東に回りこんで裏から本丸に入る形になった。
18:02
岡山城天守と廊下門
さて、宇喜多直家は浦上宗景の家臣であったが、最初は信長、のち毛利と組んで浦上宗景を駆逐した。
1575年さらに、備中松山城のところで書いたが、毛利の力を借りて三村元親を滅ぼし、備前のほか、備中美作の一部まで手に入れた。

羽柴秀吉の中国侵入には当初は毛利方として対抗した。しかし、
1579年、毛利を離れ信長・秀吉方についた。毛利-織田の対立のさなか、直家は死去し、子の秀家が幼くして跡を継ぎ叔父・忠家らが後見した。

1582年、羽柴・宇喜多軍による高松城水攻めのあと、中国大返しの秀吉が岡山城に立ち寄り、養女・豪姫(前田利家の娘)と秀家の婚約が成立した。
宇喜多秀家(八郎)は元服すると秀の字をもらって、豊臣家の一門として遇され、57万石、五大老の一人となった。

関ケ原の合戦では西軍主力として健闘したが、ねねの甥で同じく秀吉一門として遇されてきた小早川秀秋の裏切りで総崩れとなった。その後、敗軍の将として薩摩でかくまわれた後、徳川方に引き渡され、命は助けられたが八丈島に流され、そこで関ケ原の武将の中ではもっとも長命した。
18:03
左:廊下門の一部、右:月見櫓

宇喜多家が改易された後、岡山城には備前・美作52万石で小早川秀秋が入城した。
しかし2年後の1602年、秀秋は急死し、跡継ぎのいなかった小早川家は断絶した。

かわって岡山城は、姫路52万石(徳川政権で8番目)の池田輝政の次男(実際は五男)忠継に備前28万石の居城として与えられた。しかし忠継は5歳であったため、長兄の利隆(輝政嫡男)が岡山城に入り代わって統治した。利隆は石山城を西之丸として整備したと言われている。
(ちなみに池田輝政は秀吉政権の外様大名であったが、五男・忠継の備前岡山藩28万石、六男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。家康の娘(督姫)婿でもあり、家格は大いにあがり、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤を築いた。)

池田忠継は16歳になって姫路から岡山城にお国入りしたが、翌年急死し、元和元年(1615年)、忠継の弟・忠雄(輝政の六男)が淡路より31万5千石で入封した。その忠雄も31歳で亡くなった。長男の光仲が継いだが、幼少だったため山陽道の要衝岡山は荷が重いと因幡鳥取藩に移封され、代わりに鳥取から池田光政が入った。光政は利隆長男、すなわち輝政の嫡孫であり姫路42万石を継いだが、彼もまた幼少であったため姫路は荷が重いと鳥取32万石に減転封されていた。すなわち輝政を祖父とするいとこ同士の交換であった。
以後、光政すなわち輝政の直系が明治まで岡山城の主となった。
岡山城本丸
廊下門から中に入った。
本丸は岡山の上に作られたから本段、中の段、下の段の3段になっている。
下の段から中の段に入ったわけだ。

本丸は明治23年(1890)、旧藩主池田章政に払い下げられたたが、池田家は岡山県に提供し、明治29年(1896)には本丸趾に県立岡山尋常中学校が建てられた。のちの岡山朝日高校である。空襲で焼失したが、戦後も本丸中の段、下の段に校舎が再建され、六高跡地に移転するまでここにあった。

ちなみに、本校は1921年第二岡山中学ができて第一岡山中学となった。戦後1948年岡山一高となり、岡山第二女子高等学校と合併して岡山朝日高校となった。そして第二岡山中学は第一女子高(もと岡山高女)とたすき掛けのように合併して操山となった。すぐの1950年朝日・操山は総合選抜となり(このあたり教育県・岡山らしい)、この年から朝日は城内から六高跡地に移転を開始した。校地は市電で旭川を東にわたった終点にある。
18:05
不明門
廊下門から中の段(ここ)を歩いてきて、不明門から天守のある本段に上がる。

本丸だけでこれだけ広いのだから天下の名城、日本百名城の一つというのもうなづける。
18:06
本丸、本段の天守
おしゃれに並べられた提灯には池田家の家紋、蝶が描かれている。アゲハ蝶だが、蝶紋は横から見たものも多く、鎧風の、標本のように羽を広げて伏せた形は池田家の家紋として備前蝶と呼ばれる。
18:07
戦前の国宝だった岡山城天守は空襲で焼失。
戦後1966年、鉄筋コンクリート造で外観復元した。
中は博物館のようである。

もう夕方だから人もほとんどいない。
18:09
岡山城天守閣礎石
再建は元の場所に鉄筋コンクリートだったから礎石が余った。
この場所に移し、元の寸法で並べた。
外国人夫婦がみていた。説明板をスマホで通過させて翻訳されたものを読んでいた。
今まで説明板に日本語、英語ときに中国語と同じ内容を3回も書いてスペースの関係で情報量がわずかしかないことがよくあった。今後はそんなこともなくなるだろう。

不明門から本段を出て中の段に戻った。
18:11
左:不明門 右:本丸下の段
下の段の右側に本丸南の堀がある。

18:12
中の段から西側の内堀をみる。
来るとき通ったカラフルな岡山シンフォニーホールの丸ビルが見えた。
18:14
中の段、初期の石垣
岡山城は宇喜多秀家の時代から何度も拡張、修築されてきた。
中の段は岡山一高のあった場所だが、移転後とくに90年代になってから発掘が行われ、初期の石垣が出てきた。

アジア系外国人のグループとすれ違うように本丸を出た。
旭川を渡って後楽園に行く。
18:17 月見橋
本丸は東の端にあったからこれを防備するため、旭川の水を引き込んで内堀とした。
本流との間に中州ができ後楽園となったが、非常時は城郭の一部となるのだろう。

旭川を大きく湾曲させたため、城下がしばしば水につかったらしい。江戸時代初期に鳥取から来た池田光政の命により東に百間川という放水路を作った。幅百間とは180メートルである。
18:21
川に沿って遊歩道は、後楽園が閉まっていても歩ける。

水戸偕楽園、金沢兼六園と共に日本三名園の一つとされる。
名前は小石川後楽園のほうが早い。今なら同じ名前はつけないが、当時は儒教とくに朱子学が教養として盛んで、後楽、偕楽などは君主の徳を示す言葉として共有文化だったから重複しても付けた。
小石川後楽園は光圀の時代、1629年に着工され、岡山後楽園は池田綱政が1700年に築いた。小石川とか岡山が付いたのは明治以降、双方を区別するためだった。水戸偕楽園は江戸末期斉昭の時代1842年である。

(ちなみに兼六園は6つの景観を兼ね備えているという意味で、駒込の六義園はたしか詩歌の6つの基本形?から来たと思った。)
18:25
岡山後楽園入口
外国人夫婦は本丸天守閣前からずっと一緒。
私と同じペースで歩いている。

後楽園の入場券売り場に向かい合っている県立博物館の北に橋があった。
18:28
鶴見橋(後楽園通り)
これを渡って市街地に戻った。

後楽園通りから城下筋に入って南下する。
右手に岡山県立美術館、RSK山陽放送、岡山市立オリエント美術館が並んでいた。
道に傾斜があり、天神山の出城があったことが分かる。

岡山城の巨大さは姫路城とともに島津、毛利などの西国大名の東進に備えたものだろう。姫路は三河以来の譜代大名を置き、岡山は外様と言えど家康の二女の婿で秀吉死後一貫して徳川についていた池田家に任せた。日本海側の分家の因州池田家とともに西国の抑えを期待された。

岡山、鳥取ともに池田家は国持大名として明治には侯爵に列せられた。岡山の支藩として生坂藩、鴨方藩、福本藩があり、鳥取藩の支藩には鹿奴藩、若桜藩がある。

今に続く話としては、岡山市の池田動物園。
最後の岡山藩主・池田章政のひ孫・池田隆政と昭和天皇の第四皇女・厚子さまが昭和27年(1952)、10月に結婚し、翌年2月、夫妻により池田動物園が開園した。(北海道の池田牧場は関係ない)
鳥取藩池田氏については、東京国立博物館の屋敷門しか思いつかない。

岡山県だけでブログ10本になった。
滞在は一日だけだったが密度は予想以上に濃く、岡山はだいぶ身近になった。


これまでの岡山ブログ

2026年5月16日土曜日

岡山市は中国四国9県の中心都市だ

 4月22日、早朝岡山について倉敷、高梁、総社、備中国分寺、足守、備中高松、吉備津彦神社をまわって夕方、岡山駅に戻ってきた。

17:38
岡山駅の在来線料金表
これを見てちょっと驚いた。姫路(1520円)、尾道(1340)、三原(1520)まであるのは分かるが、南に高松(1660)、伊予三島(2060)、阿波池田(2060)まである。

そう、以前高松駅でも思ったことだが、かつて四国4県の特急列車は高松駅に集まり、そこから宇高連絡船で本州にわたった。ところが1988年瀬戸大橋ができて4県の特急電車はすべて岡山駅に集まり、人はここで新幹線に乗り換えるようになった。(もちろん宇高連絡船の時代も宇野から岡山は通過したが、直通、時間短縮は大きい)
さらには北は新見を経て伯備線の特急やくもで山陰(米子・松江・出雲)と直結しているし、鳥取も(東京からは姫路経由のほうが便利だが)岡山から特急スーパーいなばでつながっている。

岡山は交通の要衝として私が若いころよりはるかに重要になっている。
中国・四国地方9県を管轄する支店などは岡山に置けばよい。岡山は広島よりずっと発展するのではなかろうか、いや、今すでに発展しているのではないかと思って外に出た。
17:40
岡山駅東口
まあ、普通の駅だった。
一番手前が新幹線のはず。

岡山は2005年以降、周辺4町と合併したこともあり、人口は70万人を突破した。2009年には新潟、浜松(2007年移行)に続いて全国で18番目の政令指定都市となり、北・中・東・南の4区が置かれた。北区は駅前、お城などがある市の中心部から、この日訪ねた足守や
空港、さらにその北の山間部にまで広がっている。

(ちなみに、政令指定都市というのは地方自治法で「政令で指定する人口50万人以上の市」と定めている。つまり50万以上あっても十分でなく、「政令で指定する」から政令指定都市なのである。岡山のあと相模原、熊本が続き、現在20ある)

17:41
上が南。左が東。
駅前から真っすぐ東のお城に向かう通りは「桃太郎通り」という。
前のブログでも書いたがちょっと桃太郎がしつこい。

岡山は倉敷とつながっている。隣接しているだけでなく買い物や仕事も行き来している。平成の大合併以前においても岡山と倉敷(48万人)合わせて優に100万を超す人口を擁していた。合併すれば政令指定都市は容易であったが、備前と備中、外様の城下町と商人自治の天領、規模も同程度といった立場からライバル関係にあり、以前も合併に失敗していた。そこで岡山は他と合併して70万になったのである。
17:45
西川緑道公園筋

道路が広いのは6月29日未明の岡山大空襲のせいか。
市街地の73%が破壊され死者は1737人に及んだ。
西川は外堀ではなかったが、外堀だった二十日堀と並行に流れていた。
17:49
国道180号との柳川交差点
あとで分かったが、岡山城三之外曲輪の西、すなわち外堀の跡である。
南の大雲寺交差点とともに、交差点用地が大きく円形にとられていて、四隅が空いて植栽になっている。

路面電車が通った。
これがある都市は文化が高いという先入観がある。
 西日本では岡山のほかに広島、松山、高知、長崎、熊本、鹿児島だが、行ったことがない松山を除いたら全部乗った。しかし今回は疲れていたせいか面倒くさくて道路を渡る気すら起きず乗らなかった。

再び東に歩き始めたら脚がつった。
吉備路で自転車をこいでいた時は脛が攣ったが、今度は腿だった。夕方自転車を返してから歩きはじめて突然攣るのは昨年3月の近江安土と同じである。
痛くて歩けない。
ここまで来て岡山城は見れないか? 駅まで戻れるだろうか? 路面電車に乗ったほうがいいか?など色々と思った。

じっと立っていたら痛みが治まったので少しずつ東に歩き始めた。
近くに藩校としては一番創立が早かったという岡山藩藩学があったはずだが、立ち寄る余裕はなかった。

17:57
岡山シンフォニーホール
同じ政令都市の千葉やさいたま市よりおしゃれな建物が多いと思う。
桃太郎通りはこの交差点までで、南北は城下筋(しろしたすじ)、東は烏城みちとなる。

岡山城は黒いから烏城と言われる。恥ずかしながらカラスジョウと読んでいたが、ウジョウということが、ここで路上地図のローマ字で分かった。

烏城みちをいくと石山公園という小さな公園があり昔の地図があった。
17:58
地名由来碑案内図
城下と岡山城の縄張りがわかって見入った。

この公園は西の丸の北の内堀だったようだ。今まで外堀から三之外曲輪、三之曲輪を歩いてきたようで、岡山城の巨大さが分かった。

石山公園を抜けると旭川に出て東に岡山城が見えた。
17:59
左:後楽園 右:岡山城天守

大手門でなく北の裏から本丸に入った形になった。
18:02 岡山城本丸
岡山城は本丸、西の丸、二の丸が内堀に囲まれ、その西に三之曲輪、中堀、三之外曲輪、外堀があった。それなのに、本丸だけで3段になっていてこの広さである。岡山城の巨大さが分かる。
18:06
本丸、本段の天守
18:07
戦前の国宝だった岡山城天守は空襲で焼失。
戦後1966年、鉄筋コンクリート造で外観復元した。
中は博物館のようである。
もう夕方だから人はほとんどいなかった。

アジア系外国人のグループとすれ違うように本丸を出た。
旭川を渡って後楽園に行く。
18:17 月見橋
本丸は東の端にあったからこれを防備するため、旭川の水を引き込んで東の内堀とした。
本流との間に中州ができ後楽園となったが、非常時は城郭の一部となるのだろう。
18:21
この時間、後楽園はもちろん閉園しているが、川に沿って遊歩道があった。
岡山城は本丸だけでも広かったが、後楽園はもっと広い。
やがて正面入り口を過ぎて橋があった。
18:28
鶴見橋(後楽園通り)
これを渡って市街地に戻った。

岡山というのは交通の要衝になっていることに驚いたが、お城、旭川、後楽園が一体となった公園の広さにまた驚いた。
県庁所在地というのは城下町が多い。京都奈良は別として、港町の長崎横浜千葉新潟やあえて避けた青森宮崎滋賀などを除けばほとんど江戸時代の城下町である。とくに大藩の城下町は城が大きく、現在も大きな公園となっているところが多い。金沢、広島、熊本、仙台などが浮かぶ。しかし金沢は川がなく、広島は緑が少ない。仙台は少し駅から遠い。歴史を持つ都市公園としては岡山が一番優れていると思うのである。

後楽園通りから城下筋に入って南下した。
道に傾斜があり、天神山の出城があったことが分かる。

右手に岡山県立美術館、RSK山陽放送、岡山市立オリエント美術館が並んでいた。
地図を見れば石山の西之丸には林原美術館とラビットホール(現代美術館)もある。
後楽園の対岸には岡山出身竹久夢二の美術館。
岡山は芸術が盛んなのだろうか。藩政時代から教育・芸術を貴ぶ精神があり、林原一郎など地方実業家の貢献も大きかったことが理由か。

思えば、明治19年に全国を5つの学区に分け、近畿中国四国の第三学区に第三高等中学校を置いた。当時はその下に学部もあった。三高の本部は京都であったが、三高医学部は学区内の京都でも大阪でも広島、松山でもなく、この岡山だった。岡山藩医学館の流れをくむ岡山医学校がその母体となり、秦佐八郎らが卒業した。
高等学校(高等中学を改称)はこのほかに旧藩主の肝いりで地元密着の長州(山口高校)、薩摩(造士館)にも置かれた。しかしこれでは足りなくて全国に増やすとき、最初の第六高等学校は大阪でも名古屋でも福岡でもなく、ここ岡山に置かれた。

それを考えれば政令指定都市・岡山の発展は明治以来の復権ともいえる。
移民が増え東京集中が病的にまで進む中、伝統を大事にする、こういう地方の都市が美しく発展することが望まれる。
18:44
大きなサークルの柳川交差点に戻ってきた。
この近くで腿が攣ってからちょうど1時間経っていた。
脚は何とか持ったがどこにも行く元気はなく、ゆっくりと駅に向かった。

ほんの僅か雨が降ってきたが、傘をさすほどでもない。
一日曇りだった。
山陽地方は塩田があったように雨が少ない。特に岡山市は1989年以降、年間の雨の日(降水量1mm以上)が全国の県庁所在地で最少であり、岡山県のキャッチフレーズ「晴れの国おかやま」はこれに由来する。

帰りのバスは20:40である。
バス乗り場を確認したあと駅の地下の食堂街に入った。
この日は高梁山田方谷記念館前と備中高松城でコンビニパンを食べ、備前一宮駅でも片付けるように食べた。
食べ過ぎたせいか食欲はなかったが、夜腹が減るかもしれないし、なにより時間つぶしで座りたかったので一軒に入った。
19:33
近くに中国人グループがいてうるさかった。
食べ終わった二人が席を立って別の席にいた仲間のところにきて話をしている。
あまりうるさいのでさらに見たら、一人が彼らと同じ場所にいながらスマホで誰かと大声で電話していた。もうめちゃくちゃである。
料理を運んできてくれた娘さんに言うと「すみません、外国の方なので」と答えにならない返事。「席を変わられますか?」といわれたが、そういう問題ではない。
むっとして、もういいです、と言った。

高梁、備中国分寺、古墳群、足守、高松はもちろん、岡山城ですら人のいない静かなところを回ってきて大いに満足したが、最後はまゆをひそめる場面に出くわし旅の終わりとなった。
昔の平凡な、外国人などいない寂れた観光地に戻ってほしい。
景観、雰囲気、歴史は空気のような国民共通の財産であり、それを国・自治体が旗を降って金儲けの材料にしてはいけないと思う。


2026年5月14日木曜日

大鳥居から桃太郎伝説の吉備津神社まで

4月22日、正午に岡山の総社駅でレンタサイクルを借り、あちこち回った。
秀吉による水攻めで有名な備中高松城を出発したのが16:11。
17:00までに自転車を返さなくてはならないが、返却場所は備前一宮駅である。国が違うことに気が付いた。かなり遠いかもしれない。全く余裕がない。

国道180号をひたすら走ることになるわけだが、そこへ出る前にJR備中高松駅の前を通ったら大鳥居が見えた。これは高松城の近くでも見えて気になっていた。
16:17
最上稲荷の大鳥居
最上(さいじょう)稲荷のシンボルで、昭和47年(1972)に建立された。高さ27.5m、柱の直径4.6m、総重量2800トンという。

鳥居ということは参道の入り口だが、その先は「最上稲荷山妙教寺」という日蓮宗寺院である。神社でないのに鳥居とは変だが、明治の廃仏毀釈、神仏分離令の際、特別に神仏習合が許されたらしい。

もともとは桓武天皇の時代、現在の地に龍王山神宮寺として建立された。
 竜王山は備中高松城水攻めの際、秀吉の本陣となったところだが、戦火によって堂宇を焼失した。江戸時代が始まってすぐの慶長6年(1601年)この地を治めた旗本の花房職之が最上稲荷山妙教寺として再興した。

この近くを通りながら鳥居の下までいけないという忙しさ。
自転車に乗ったまま写真を撮った。

JR吉備線(桃太郎線)と並行する国道180号をひたすら南東に走った。
(1907年に開業した吉備線の愛称、桃太郎線は2016年に制定された。)
ちなみにゲームの「桃太郎電鉄」は、すでにあったゲームの「桃太郎伝説」をもじったもので、吉備線とは関係ない。

途中、国道沿いに吉備津神社があった。
というか、国道が神社参道を横断していた。
せっかくなので右折して松並木の参道を走って少し「寄り道」した。
16:32
吉備津神社
備中国一之宮。
東にある吉備津彦神社とともに背後の吉備の中山(標高175m)をご神体とする。
主祭神は大吉備津彦命である。

本来は吉備国の総鎮守であったが、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもって吉備が備前・備中・備後に分割されたことで備中国の一宮となった。

備前・備後の一宮はそれぞれ吉備津彦神社(中山の北東麓)、吉備津神社(福山)であり、主祭神は同じ大吉備津彦命である。
16:33
旧社格は官幣中社である。国幣小社の備後吉備津、備前吉備津彦より社格が高い。
吉備分割前の総鎮守だから「三備一宮」を名乗る。
本殿・拝殿が国宝ということは後で知った。足利義満造営とされ、全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)という。

時間がないので自転車を降りずに写真を二枚だけとって急いで国道にもどった。
ひたすらこぐ。
どこかで備中・備前の国境を越えたはずである。
何とか間に合った。
16:48
備前一宮駅
レンタサイクル店は駅前と書かれていたが、改札の横だったから駅の一部に見え、最初分からなかった。おば(あ)さんが3人、自転車の受け取りをしていた。

自転車を返して一安心。
駅名にもなっている備前一宮・吉備津彦神社に行ってみる。
すぐそばだった。
16:52
三備の一宮の共通祭神である大吉備津彦命は、日本書紀によれば第7代孝霊天皇の皇子。第10代崇神天皇が各地に派遣した四道将軍の1人で、西道を担当し、吉備の国を平定したとされる。(ほかの3人は北陸、東海、丹波で、大和政権の地方征服が神話になったといわれる)
16:53
左上の地図に先ほどちらりと訪ねた備中の吉備津神社が背後の山の向こう側に描かれていた。
それにしても備中、備前、備後は近い。間に山や川があるわけでもない。
吉備を分ける必要があったのだろうか?
先進地域だったのは間違いないけれど、わざわざ分けた理由が分からない。
16:54
亀島亀島神社
島と神社ということが最初分からなかった。
矢印の向きも変わっている。
16:54
鶴島靏島神社
鶴の字が違うのは、島は物体、神社は人格があるかのように扱われているからか。

16:57
吉備津彦神社の拝殿の下

祭神の大吉備津彦命は中央から派遣され吉備を平定したとされる。
彼が平定したのはこの地を治めていた権力者であるが、なぜか彼が温羅という鬼を征伐したという物語が吉備津神社の縁起にある。室町時代にはできあがっていたらしい。
神話の時代なら大和政権の地方征服を正当化するため鬼を出すのは分かるが、中世になれば必要ない。

吉備津神社側としては祭神を英雄化するため、鬼を作る必要があったのかもしれない。
すなわち征服したのが神社の周りの地元民では都合が悪い。悪い鬼が良い。
鬼は、北方の鬼ノ城(きのじょう)を根拠としたらしい。私が自転車で行くのを断念した山城、日本百名城の一つである。
鬼ノ城は謎の廃墟となっていて物語にちょうど良かった。新羅・唐連合軍に敗北したことによる7世紀の対外防衛施設という説もあるが(当時はすぐ近くまで瀬戸内海が入っていたかもしれない)、中世の人々はそんなことは考えない。

大吉備津彦命の温羅退治の物語に合わせて、地元は周辺の神社などを観光スポットにするため作り話を広めているが、ここでは書かない。
16:58
しめ縄はけば立っていて手作り感があってよい。

大吉備津彦命の鬼退治はおとぎ話「桃太郎」の原型になったとされ、岡山では大々的に宣伝している。あちこち像を建て、2016年にJR吉備線を「桃太郎線」にしたほどである。(JRの料金路線図も桃太郎線が主で吉備線はカッコ内)。岡山空港も2018年から岡山桃太郎空港である。
しかし、桃太郎が岡山県と思われるようになったのは1960年以降で、それまでは全国にこの話が伝わっていたこともあり、愛知とか香川のほうがゆかりの地と思われていたらしい。
岡山と結びつけたのは唱歌「桃太郎」の「きびだんご」であろう。というか、これしかない。しかし、これは黍団子であり吉備団子ではない。
私も帰る前に買ったが、岡山駅にはキビ団子(もちろん普通の団子)がいっぱい売っていて、桃太郎=岡山は既成事実になりつつある。

自転車を返して時間的余裕はあった。
しかし疲れていたこともあり吉備津彦神社を早々に退出し、備中一宮駅に戻った。
ホームのベンチに座ってコンビニパンを食べた。
人はほとんどおらず、外国人のファミリーが1組いた。
17:38
「桃太郎線」を通って岡山駅に到着

ちなみに「桃太郎」の物語は全国にあった。いまは流れてきたモモがぱかんと割れて出てくるが(果生型)、江戸時代はモモを食べた老夫婦が若返って子を授かるという話(回春型)が主流だったとか。

(続く)

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2026年5月12日火曜日

備中高松城、水攻めと中国大返しの現場にて

 4月22日、早朝岡山についた後、備中高梁の松山城を見て、午後からはレンタサイクルで総社宮、備中国分寺や巨大古墳をめぐり、備中高松まで来たが、時間的に余裕があった(と思った)ので岡山平野の端ともいえる足守までいった。

そして足守藩陣屋から備中高松城までひたすらママチャリ自転車をこいで戻ってきた。
いま地図と写真の撮影時刻をみると6.5kmを25分で戻ってきたようだ。しかし、往復プラス見物で1時間15分かかっていた。
その結果、高松城跡についたときは自転車を返却する17時まであと1時間くらいしかなかった。しかも返却場所はずっと先の備前一宮である。ところが、この時、そういう計算はまったくしなかった。疲れていたのか頭が働かなかったのかもしれない。
15:47
到着した駐車場には何本もの幟が立っている。
しかし、その文言がなんと、「高松城水攻め」である。これはないだろう。
確かに秀吉側から見ればそうかもしれないが、ここの城主は清水宗治である。「難攻不落・高松城」とか「籠城50日、天下の名城」あるいは「悲劇の名将・清水宗治」などといった文言にするべきだろう。

天正10年3月(1582)、秀吉は毛利と対決するため姫路から2万の軍勢を率いて出陣、岡山の宇喜多軍1万と合流した。
ちなみに、宇喜多直家は備中兵乱で毛利と同盟し備中松山の三村氏を滅ぼし備前岡山を手に入れた。しかし、その後信長についた。天正9年に直家が病没したとき、嫡男・秀家は11歳で、宇喜多の家は秀家の叔父、宇喜多忠家らの集団指導体制だった。(のちに秀家は秀吉の養女・豪姫の娘婿となり、秀吉一門として扱われた)

4月15日、秀吉は毛利の東の防衛ラインである境目七城の主力・備中高松城を包囲し、城を見下ろすことができる竜王山(北方の最上稲荷の山)に布陣した。
高松城にこもる兵は3,000ほどであったが、周りが沼であったため秀吉の大軍も攻められず膠着状態となった。秀吉は城を渡せば備中、備後を与えるという信長の誓紙を送ったが、「中国者の律儀」と言われるほど義理に篤い毛利に対し、残虐かつ平気で裏切る信長は信用ならず、宗治は拒否した。

5月1日、秀吉は水攻めを決定し、8日、足守川の水をひくべく堤防を作り始め、また陣もその近く、南東の石井山に移動した。土の俵を一つ運んでくれば銭百文と米一升与えるという破格の条件を出すと、うわさを聞いて近隣から百姓・町民、老婆・子供まで競うように集まってきて、堤防はわずか12日で完成してしまった。

いっぽう、救援要請を受けた毛利方は5万の大軍を送った。この数字は1万とも8万ともいわれ幅があるが、輝元を総大将に毛利の両川といわれる叔父の吉川元春、小早川隆景も出陣したから毛利の総軍といってよい。

犬を連れて散歩中のご婦人二人の横に、中に入れる円形ジオラマのような水攻め図案内盤があった。
15:49
高松城をめぐる両軍の布陣
北に津田与左衛門、加藤清正、西に吉川元春、小早川隆景、南東に大鳥居、羽柴秀吉の陣がレリーフになっている。
毛利軍が来たときはすでに堤防が完成し、高松城の周りは湖になっていた。
とても城跡には見えない。
水田跡を利用した花菖蒲公園といわれても納得する。
15:50
備中高松城址資料館
入場無料だが15:00まで
15:51
毛利軍が手を出せなかったのは、毛利水軍として活躍した瀬戸内の来島村上氏などが秀吉の調略によって離反し、兵糧の輸送が困難だったからと言われる。また水に浮かぶ高松城に物資を救援しようにもその船が手に入らなかったらしい。

資料館の後ろのほうに二の丸跡という看板があった。
15:52
これを見てちょっと驚いた。
こんな城址があるだろうか。
今みてきた菖蒲園のような城址公園や資料館の場所は沼すなわち水の中であり、当時の二の丸はいま畑や道路になっている。駐車場は三の丸だったようだ。そして城地でも高さは沼とあまり変わらない。
15:54
本丸跡
かろうじて陸地である。

城らしい石垣や堀など遺構が全くないのに続日本100名城に選ばれているのは、その物語性によるとしか考えられない。たしかに歴史の上で重要な舞台になった。

5月15日、膠着状態にあった秀吉は安土の信長に援軍を乞う手紙を書いた。
17日、信長は家康の接待をしていた光秀に秀吉の応援に向かうよう命じる。光秀は出陣のため居城丹波亀山に向かった。
29日、信長も自ら大軍を率いて出陣するため本能寺に入り、軍勢の終結を待った。

織田勢の大軍が来ることを知った毛利方は危機感を募らせた。
さらには雨が続き、戦端を開いて戦っても、その間に城は水没してしまう。
毛利は、清水宗治と兵、その家族を救うため五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲を申し出た。毛利領国の半分近い。ところが、秀吉は城主清水宗治の切腹も要求した。やがて来る信長への気配りである。
毛利方としては最後まで忠義を尽くしてくれる宗治を救うための五国割譲であるため、交渉は物別れに終わった。
しかし6月1日、それを聞いた宗治は毛利、城兵を救うため自刃することを決意する。翌2日、4日に自刃するという書状を秀吉に送った。

一方、京都では6月2日早朝、本能寺で信長が襲われる。
6月3日夜、その急報が秀吉の陣に届いた。そのあと光秀の毛利方への密使が秀吉方にとらえられた。秀吉はその事実を毛利方に漏れないようにする最大限の努力をする一方で、一刻も早い和睦を急ぐことになる。

4日正午、変化を悟られまいとする秀吉の見る前で、白装束の宗治は小舟に乗って水面に乗り出した。同乗者は僧になっていた実兄、介錯人ら4人である。秀吉方からも堀尾茂助の検使船が出て、贈り物である酒・肴を宗治の船に移し、堀尾が酌をして最後の宴が開かれた。宗治は舞を踊った後、船上で自害した。他3人も次々と自害を遂げた。
このあとすぐ秀吉は安国寺恵瓊を呼び、割譲を先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩し、毛利方はこの条件を受け入れ、和睦が成立した。

駐車場から道を挟んで近くに高松山妙玄寺がある。周りは田んぼである。宗治自刃の地という絵が描かれた案内板が立っていた。旧二の丸の端であるが、すでに水没していたのだろう。
16:04
説明板を見れば慶長5年(1600)、高松知行所の領主・花房職之により花房家の菩提寺として建立されたという。(花房は宇喜多の家臣であったがのち離れ、関ヶ原のあと家康の旗本になった)
右の森はごうやぶ遺跡。

向こうの山は秀吉本陣の石井山である。
秀吉はじめ周りの山々の兵が見守る中、宗治は見事に自刃した。
ただ、毛利方の陣からは見えなかったようで、一人自刃するごとに上がる秀吉軍の鬨の声でそれを察したという。
16:04
清水宗治公自刃之址
妙玄寺境内にある。お墓のように見える。ただの石柱1本のほうが良い。
16:06
ごうやぶ遺跡
宗治を追って家臣が次々と自刃した場所という。
ちょっと不気味な場所だが、近くに行ってみた。
フジが何かの木にからまっていた。

宗治の首は秀吉の陣に送られ、船上の胴だけ本丸に戻ってきた。
それを埋めた塚が近くにあるらしいので行ってみた。
16:11
城内の者は皆嗚咽し、胴体は本丸の北にあった池の下丸、ここに手厚く葬られた。
船上で4人の介錯を行った国府市佑もここで自刃したという。
しかし、いまこの地は民家の庭先のようであった。
 花は新しかった。
宗治を慕うものにとっては、胴が埋められたといっても薄気味悪いものではない。