1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通り、海沿いのヴェルニー公園を歩いてきた。
横須賀は書くことがいっぱいある。
休憩しながら図書を見ていたヴェルニー記念館は、JR横須賀駅の近く、公園の敷地が終わる北西の隅にある。記念館の建物の裏に回ると、そこは公園の端のフェンスで区切られているが、「かが」が最も近くで見えるスポットである。
この日の朝、入港した自衛隊初の空母を見ようとマニアがカメラを持って集まったらしい。
フェンスと海の向こう、巨大で優美な「かが」と対照的なしょぼい建物がある。
海上自衛隊横須賀地方総監部である。
ここの長は横須賀地方総監という。旧海軍の横須賀鎮守府司令長官と似たようなものか。
階級も海将だから昔の中将で、旧軍と同じである。(ちなみに、海将は最高位であり、幕僚長に就任した海将のみ大将扱い、そのほかの海将は中将になる)
同じ海将の地方総監でも俸給の面で横須賀、佐世保、呉、舞鶴の順の序列がある。(大湊は昨年(2025)から横須賀の傘下となり地方総監から地区総監になった)
地方総監部の建物を見ていて観艦式を思い出した。
横須賀には過去3回来ている。
1.1993年3月27日 記念艦・三笠と「なだしお」を見た。
私が乗艦した護衛艦はるなはDDH-141。
2.1998年11月19日 米軍巨大空母 USS KittyHawk 乗艦
そして
3.2000年10月27日 海上自衛隊の観艦式である。
あの地方総監部の横を通って、逸見岸壁、吉倉桟橋から護衛艦に乗艦した。
25年ぶりに近くまで行ってみよう。
ヴェルニー公園の表に戻り、線路わきの自衛隊専用道路のような通りをすすむ。
上は県道の高架が走っている。
11:49
横須賀地方総監部
Headquarters Yokosuka District
その下に横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀システム通信隊など6つの部署が書いてある。Headquartersのsはこの7つを示すのかと思ったが、どうも違うようで、基地業務隊、衛生隊は地方総監部の隷下にあるらしい。システム通信隊はまた別のようだ。
11:51
入口から地方総監部庁舎と逸見岸壁のかががみえた。
25年前の観艦式の時はこの門から入ったのは明らかだが、どこから乗ったのだろう。
記憶がうすい。
自衛隊の観艦式は昭和32年(1957)から毎年実施されていたが、オイルショックで一時中断、昭和56年(1981)に再開後は節目の年に行われるようになった。さらに平成8年(1996)から空海陸の順で持ち回りで実施されるようになり、97年から2015年まで3年に一度実施された。
2018年は東京五輪のために朝霞が使えなくなるとのことで2019年予定の陸自主体の中央観閲式と入れ替えたものの東日本台風19号災害のため中止、2022年に7年ぶりに開催した。
しかし2025年内外の情勢が緊迫する中、部隊運用に余裕がなくなり、防衛省は今後、観閲式、観艦式は基本的に行わないと発表、観閲式は第30回の2022年が最後となった。
私が見物した観艦式は平成12年度(2000)、最初から数えると22回目だった。
当時の乗艦券などがとってあった。
12.10.27(金)はるな乗艦券
午前9時00分までに吉倉桟橋の受付においで下さい。
退艦は午後4時45分の予定です。
と書いてある。
吉倉桟橋は「かが」のいる逸見岸壁のむこうである。
1973年就役、日本初のヘリ搭載護衛艦であった。
それまで護衛艦の艦種記号はDDであったが、ここで初めてヘリコプターのHがついた。
(DDは米軍に倣って自衛隊発足時からつけた。駆逐艦DestroyerのDである。米軍は1920年以来空母のCVなどを除き頭文字を重ねて二文字にする。用途に応じて3文字以降が付加された。海自では1965年就役のあまつかぜ型がGuided missile搭載のDDGとなった。)
自衛隊では発足当初から対潜哨戒、掃討を目的に洋上航空兵力の復活を志向した。当初は軽空母の建造を目指したが、時期尚早とされ、70年代のはるなになって初めて実現した。ヘリを3機搭載できたが発着艦は一機ずつだった。
それでも期待は大きく、それまで護衛艦はむらさめ型、はつゆき型など気象から艦名を取り、およそ戦、武、軍などとかけ離れた優しい名前であったが、初めて山岳名にした。
はるなは、戦艦「榛名」の名を継いでいる。霧島などともに巡洋戦艦として作られたから航続力、速力に優れ、改装後は戦艦並みの攻撃力をもった。終戦直前、燃料のないまま呉軍港で空襲を受け大破着底するまで、大和、武蔵などと違って太平洋戦争ではほとんどの主要作戦に参加し、大型艦としては開戦からもっとも活躍した船である。期待の一番艦の名前にふさわしい。ひらがなだから重厚さはないけど。
帝国海軍は同型艦を二隻以上合わせて運用し、戦隊とした。
太平洋戦争開戦時は第一航空艦隊の第2航空戦隊が飛竜、蒼龍、また第5航空戦隊が翔鶴、瑞鶴、といったぐあいである。同型艦は同時期に完成するから名前もセットでつけられ、対となった。主力決戦用に第二艦隊第三戦隊に属した4隻の戦艦(もと巡洋戦艦だから山岳名)は、金剛・比叡は宗教的歴史的な山で、榛名・霧島は、堂々とした火山である。
護衛艦はるなDDH-141から2年遅れて建造された同型艦DDH-142はひえいだった。
続くDDHはひえいから5年遅れて新型艦として建造された。当然こんごう、きりしまだと思ったが、DDH-143はしらねになった。当時防衛庁長官だった金丸信が選挙区の南アルプス白峰(しらね)三山からとったという(ウィキペディア)。しかし金丸でもそんな子供じみたことをするだろうか? DDH-144はくらまである。
結局置き去りにされた、こんごう・きりしまは1993年から順に就役した4隻のイージス艦(DDG-173~176 )に使われた。残りの2隻はみょうこう、ちょうかいである。
ヘリコプタ搭載護衛艦はひゅうが型に引き継がれ、ここから全通甲板になり、護衛艦というより空母のような外見に大きく変わった。DDHの艦種記号は同じだが、番号は181、182となって、はるな、しらね型との連続性はない。(次のいずも、かがはひゅうが型と連続してDDH-183、DDH-184である。)
私は27のほうに乗艦できた。
それに先立ち、27と29以外は、5か所の桟橋で艦艇の一般公開があったり、岸壁での音楽隊演奏などがあったようだ。
メモも写真も取らなかったのでほとんど忘れてしまったが、幸い観艦式特集号の新聞が残っていたので、それを見ながら書く。
ヘリ空母ひゅうが型が登場する前、空母様の全通甲板の輸送艦おおすみが自衛隊最大の艦艇であり、それが目玉として右ページに紹介されている。
海上自衛新聞(毎週金曜発行)
平成12年10月29日(臨時増刊)観艦式特集号
参加艦艇63隻(観閲部隊17隻、受閲部隊33隻)20万トン、航空機61機。
海上自衛隊全体で144隻38万トンだから、力の入れ方がわかる。
さて、岸壁の音楽隊が勇ましく軍艦マーチを奏でる中、私たちが乗ったはるなは出港した。
天気は曇り。10月末は肌寒い。
陸上の観閲式は観閲官(国家元首など)が見ている前を、歩兵部隊や最新兵器などが行進、通過していく。しかし観艦式では船の間を空けねばならないため、式典面積が広くなるだけでなく、間延びしてしまう。そのため、ふつう整列、碇泊した軍艦群の前を観閲艦が通過していく。
帝国海軍最後、最大の観艦式、昭和15年(1940、紀元2600年)の観艦式は、横浜沖で98隻、60万トン、航空機527機が参加した壮大なものだったが、指揮官山本五十六連合艦隊司令長官座上の旗艦長門はじめ軍艦は5列に整列し、昭和天皇が乗った御召艦・比叡は、その間を練り進んだ。
ところが海上自衛隊の観艦式は珍しい移動式である。波を蹴立てて一列で通過していく受閲艦部隊と観閲艦部隊とが海上で交差する。これは東京湾では無理で、相模湾の沖で行われた。
我々ははるなの後部ヘリコプター甲板に適当に座った。
寒かったが毛布が貸してもらえたかどうか、レジャーシートなど敷いたかどうか記憶にない。海風にあたりながらおにぎりかパンを食べたはずである。
近くに上品なご婦人二人がいらして聞くとご主人が東芝だという。軍需産業関連の人なども伝手で乗船券がもらえるのだろう。
私は水交会で知り合った上林将人さんと一緒だった。彼は写真が趣味で自衛隊の行事のときカメラマンとして活躍していた関係か、どこかから乗船券を入手された。
さて、東京湾を出ると船が揺れた。
われわれ観閲部隊17隻は横須賀(吉倉、船越、新港)、横浜新港、木更津から出港した。相模湾の東で合流、1列となる。いっぽう受閲部隊33隻は全国から集まって相模湾の西側で整列する。これだけの船が等間隔で一列で、東西から近づき、至近距離で交差するのである。高い操艦技術は日露戦争以来の日本海軍の伝統であろう。
すれ違う時は受閲部隊各艦で乗員が甲板に整列し、観閲部隊に対し敬礼する登舷礼を行い、それは壮観だった。
上空には43機が東から飛来して、西でUターンして再び前を通って東へ去った。
海上では双方の部隊がすれ違って東西に離れた後、そこでUターンし、今度は訓練展示である。護衛艦が対潜ロケット弾を発射したり、P-3Cが対潜爆弾を投下したり、4隻の潜水艦がイルカのように浮上、潜水を3回繰り返しながらすれ違う。4隻の護衛艦がヘリコプターを発艦させたりした。
ヘリコプターというと、観閲官である総理大臣・森喜朗は、我々が朝乗艦したのに対し、忙しいのか、11:20に相模湾で観閲艦しらねDDH-143にヘリコプターで着艦し、訓練展示が終わる14:00にしらねから飛び立った。
退艦後、解散となった。
ぞろぞろ出口まで歩いていく途中、背中に「総理大臣」だったか「首相」だったか、ゼッケンのようにつけた自衛官がいた。そう、この日は予行だった。
全く同じタイムスケジュールでリハーサルをするのだが、本番でも首相がこの時間に吉倉にいるのか、「役目」を終えて、本来の業務に戻る途中なのか、その歩き方、雰囲気から分かるはずだが、記憶が薄くなっている。
そうだ、この観艦式の乗船券をもってきてくれた上林将人さんのことも書いておく。
彼は水交会の会員として知り合った。
「水交」の一番最後のページにその月の新入会員の名簿がある。見れば蓮田在住の人がいた。海軍関係者の多い水交会で埼玉、大宮より北に住んでいる人は珍しい(私は当時指扇)。親しみを感じ手紙を書いた(当時はネット時代の前でメールもなかった)。
奇遇にも彼はT製薬の有機合成の研究者だった。
しかし非常にユニークな人で、ご自分が合成した新規Ca拮抗薬が開発中止になった後、諦めずにそれを私的に研究していて、京都薬科大の研究生になり(たぶん会社に内緒)、薬理学会なども自費で参加しているような人だった。熊本でばったり会ったことがあるが、参加費、懇親会、宿泊・飛行機代などは馬鹿にならない。さらに、同業(ライバル?)会社の研究所でCa拮抗薬を扱っていた私に共同研究を持ち掛けたようなエネルギッシュな人だった。
しかし彼のおかげ1998年の米軍空母キティーホークにも一緒に乗れたし、この観艦式も見物できた。お元気だろうか?
観艦式の時、私は不安定な44歳だった。
その後25年、いろんなことがあったが横須賀と関係ない。
もちろん25年、横須賀を訪ねることもなかった。
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