2026年5月7日木曜日

痙攣しても備中国分寺と古墳群をまわる

4月22日、急遽岡山県に来て、伯備線に乗って山間部に入り、山城の備中松山城をみた。

そのあと岡山県らしい平野部に戻ってきて、
総社駅に下車。11:50。
ここでレンタサイクルを借りた。

備中国分寺や古墳を結ぶサイクリング道路が整備されているが、その前にふつうの街中を走って、市名、駅名にもなっている備中総社宮を訪ねた。(前のブログ)

そのあと12:20に総社宮を出て、地図を見ながら県道272号線を南下すると両側が田んぼになった。
やがてサイクリング道路の標識があった。
左折して入っていく。
要するに農道である。

よく見るパンフレットなどは光あふれる緑の田園地帯だが、この日は曇り。
しかし暑くもなく寒くもなく自転車日和といえる。
12:30
久しぶりにレンゲソウをみた。
この道を東に向かう。
古代の山陽道はこのあたりを通っていた。
12:34
水田だったところにナスの苗が植わっている。
しかしマルチ張りがずさんではげている。

このあと突然、右脚のすねが攣った。
脛というのは骨が出ていて痙攣する筋肉などないと思っていたが、はじめて経験した。
自転車は足首を曲げたままペダルを踏み続けるから、その形を維持するためには脛にわずかにある筋肉を縮める。それを長時間(といっても20分程度)続けて痙攣したらしい。
総社駅から総社宮まで1.7km、総社宮から痙攣地点まで2.5km、あわせて4.2kmしか乗っていない。ふだんならありえないことだ。
しかし朝から急いだ倉敷見物に、続く備中松山城見物の2時間(うち登りが1時間)が効いたか。
このまま治らなかったらどうしよう。
自転車を押して元のレンタサイクル店まで戻るのは不可能である。

安土、近江八幡とのきは自転車を返した後、夕方に太ももが痙攣して歩けなくなったが、今回はこれからというときである。

幸い、しばらく休んだら何とか痛みは消えた。

ちょうど作山古墳の横だった。

地図では作山古墳だが、なぜか道の両側に墳丘らしき森がある。
よくわからず右脚をいたわりながら大きなほうの裾をまわる。
12:41
左:古墳? 右:?
「滑りやすいので足元に気をつけてください」
脚のことを考えると登って確かめることもできない。

作山(つくりやま)古墳は5世紀中ごろ築造。長さ282メートル、岡山県では第2位、全国では第10位の規模になる。あとで調べたら上の写真の右側は古代に独立丘陵を削って造成したときの残りの部分らしい。

古墳の南側に集落があり、ぐるりと回るようにそちらの道を行く。

「つくりやま」とはいかにも地元の人が古くから呼んでいた名前に思える。古墳という教科書的単語をつけて屋上屋のようになっている。
12:45
案内板がなく、まだ古墳かどうかよく分からず。
簡単に先まで行って戻ってくるという自転車のありがたみを感じるが、やはり大きすぎると全体像が分からない。
そのまま離れた。
12:47
離れると確かに前方後円墳のように見える。
なおも農道をすすむ。

広い道に出た。
この平野は古代の吉備王国、さらには律令時代の国府のあったところである。
12:54
周りの低い丘丘を眺め、あっちのほうも古墳がありそうだな、と思う。

気持ちよく走り続け、現在地をスマホで確認して仰天した。
作山古墳の周りを走ったため方向感覚が90度ずれて、国道429号を北に向かっていた。
東に行くつもりだった。
来た道を引き返した。再び農道に入り、田んぼの中を信州中野の篠井川のような川に沿って走ると何かがバシャバシャと水に飛び込んだ。それこそ篠井川のようだった。カエルには季節が早い。ネズミか?
13:03
すこし離れてカメがいた。
飛び込んだのは日向ぼっこをしていたカメの群れか? この日は曇りだし、亀もあれほど俊敏とは思えないが。
13:04
東方に備中国分寺の五重塔がみえた。
山の中でもなく街の中でもないことが、昔らしい風景で良い。
しかし行く道がない。
13:06
さらに南にいくと東への自転車道路にぶつかった。
平日だからほとんど人がいないが、ランニングしている人がいた。
13:09
備中国分寺
自転車の欧米カップルがいた。
13:10
真言宗である。
讃岐国分寺を思い出した。
国分寺はもともと聖武天皇(701-756)の時代、諸国の国府の近くに建立した無宗派の寺院だった。平安後期以降いったん荒廃し、中世に復興するにあたり、もともと国分寺は国家鎮護(国家安泰・災厄除け)が目的だったから、加持祈祷をする真言密教と相性が良い。結果として再興時に真言宗に取り込まれやすかったという構造がある。
13:10
城と同じく立地には興味があるが、建物、仏像にはあまり関心がないので早々に退出した。

なおも田園の自転車道(農道)を東に行くと古墳らしき森があった。
13:15
こうもり塚古墳
これもこうもり塚と呼ばれていたのだろう。
全長96メートルの前方後円墳。
13:17
前方部に穴が開口している。
作山古墳よりあと、6世紀後半とされる。仁徳天皇の側室黒媛(くろひめ、吉備出身)の墓とされるが時代は合わない。古墳は時代が下がると小さくなる。
13:18
花崗岩を組み合わせた石室になっている。
なかに家型石棺が見えた。

ここが面白いのは5,6世紀の古墳群と8世紀以降律令制時代の国府(国分寺、国分尼寺、総社)の場所が完全に一致していることである。よほど暮らしやすいところだったのだろうか。

律令制になったとき地方豪族は国造として国司と併存したが、古墳の主と国造は連続していたのかどうか? 吉備王国は筑紫、出雲、大和とならんで4大先進地域だった。
山陰、中国山地の鉄が当時の国家の交通主軸であった瀬戸内海に出てくる場所にあたり、弥生時代からの製塩(昔は海がもっと内陸まで入っていた)もあって、4つの中では一番豊かになる条件を備えてる。しかし神話(記紀)では大和政権に滅ぼされたことになっていて、古墳の主は豪族として残らなかっただろう。
13:25
備中国分尼寺跡
国分尼寺は国分寺とセットで全国に置かれたが、国分寺と違って現在残っているものはまったくない。
尼寺は経済基盤が国分寺より弱く、また女性僧の組織は弱かった。

さらにサイクリングを続けた。
次は造山古墳に行く。
道を間違えて、路傍で草取りしていた女性に聞くと田んぼの向こうを指さされた。
13:36
造山古墳全景
道を間違えたおかげで全景が見られた。
これもツクリヤマといわれてきた。
おそらく備中平野には無数のツクリヤマがあり、古墳の名前というより大川とか丸池と同じような普通名詞だったのだろう。
先に見たツクリヤマ(作山)古墳と区別するため、サクザン古墳、ゾウザン古墳ともいうらしい。
13:38
造山古墳
墳丘長は約360メートル、大仙陵古墳(堺市、486メートル、伝16代・仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(羽曳野市、420メートル。伝15代応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(堺市、365メートル、伝17代履中天皇陵)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。

大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が2019年、ユネスコによって世界文化遺産として登録されたことに対し、こちらは1923件(2026年)ある国の史跡の一つに過ぎない。
13:38
左:造山古墳の前方部
右:陪塚(1号、2号)

13:39
2つの陪塚。
左:榊山古墳(造山第1号墳)、右:造山第2号墳

13:42
近畿にこれだけ巨大な古墳があれば天皇陵とされ宮内庁の管轄になり、研究者ですら立ち入りできない。しかし、ここはなんと自由に登れる。

13:45
上に神社があった。

思ったより高い。
平地に土を盛ったとすれば大変な土木事業である。
土を取った跡(堀)などないことから、自然の丘を利用したのだろうか。

13:46
前方部から後円部を見る。

13:47
秦の始皇帝の陵と同じくらいの大きさ。
登れる古墳としては日本で(世界で)最大という。
前方部には阿蘇山の溶岩でできた石棺があり、後円部には讃岐の安山岩でできた板石が発見されたという。石などどこにでもあると思うが、もし実際に運んできたものなら、ここの大王は相当力があったのだろう。

先を急ぐので早々に下山した。
13:50
前方部の斜面は畑になっていて、柿の木が植わっていた。
私有地なのだろうか?
段々は古墳の構造なのか、畑にするために削ったのか良くわからず。

古墳は3つ見たのでもういい。先を急ぐ。

(続く)


2026年5月5日火曜日

レンタサイクルで備中国総社宮にゆく


4月22日、急遽岡山県に来て、備中松山城をみた。
前回三重県のときは出発前に訪問すべき都市を決め、各駅の到着、出発時刻まで調べてから訪ねた。しかし今回は突然のことで計画を立てる暇がなかったこともあるが、訪問先を決められなかった。

駅から離れたところが多く、どのくらい時間がかかるか分からないから計画など立てようがない。行ってみて、夕方までの時間を計算しながら行き先を決める旅になった。
一人だと便利だ。

朝、岡山、倉敷を通って、一番の目的地だった備中松山城をみて備中高梁駅に戻ると11:25になっていた。急いで乗った列車は高梁川に沿って山間部を南下するとやがて岡山らしい広い平野に出た。

総社駅に下車。11:50。
この駅の東側にいわゆる吉備路が広がるはずだ。
田んぼの中に五重塔が浮かぶ、美しい風景はよく写真になっている。
ここからレンタサイクルであちこち回ろうと思った。
12:06
JR総社駅と借りた自転車

荒木レンタサイクル(JR総社駅前)
・軽快車(ママチャリ):1,500円
・スポーツ車:2,200円
・電動自転車:2,800円
・乗り捨て:+500円(借りた場所とは別の以下の2店舗へ返却)
JR備前一宮駅:ウエドレンタサイクル 
備中国分寺近く:高谷レンタサイクル
営業時間:9時から17時

備中高梁からの電車の中でずっと迷っていたことは、鬼ノ城(きのじょう)に行くかどうか。
この城はどの文献にも出てこない謎の山城でありながら日本100名城に選定されている。
写真を見ればアニメ「もののけ姫」のたたら場のモデルとなったような山城である。
行ってみたいが、すでに備中松山城で2時間の登山をした脚が再び山道に耐えられるかどうか。途中で痙攣するのではなかろうか。
電動自転車ならいけるかもしれないが、長い上り坂で電池がなくなることはないか? かなり離れた鬼ノ城に行ったら他の名所に行く時間はなくなるのではないか? などと大いに迷った。

ところが、荒木レンタサイクルのにいちゃんが、こちらは何も言ってないのに
「鬼ノ城へ電動自転車で行く場合、○○から先へは行かないでください。行ったら罰金5,000円いただきます」
といわれた。モーターが焼き切れるのかな?
ま、これで鬼ノ城は行かないと決断できた。

行かないと決めると吉備路サイクリングの行き先選びに余裕ができ、時間的にも体力的にも楽になった。
標準サイクリングコースには入っていないが、まず以前から気になっていた総社宮にいくことにした。
のどかな吉備路でなく、街中の道を走った。
予定はないといえど、あとで時間が無くなると困るので飛ばした。

最近レンタサイクルをよく借りるようになったが、どこでも自宅の自転車と違ってよく整備されていて気持ちがいい。

8分で到着。
12:14
石柱は「県社総社神社」
その最初の「社」の字が消されている。社を3つも使っているから減らした?(冗談)。
県社というのは明治以降、戦前までの近代社格制度で官社(官幣・国幣、大・中・小)218社の下に位置し、諸社(県、郷、村)の一番上だが、全国約11万社のうち最終的な府県社は1,148社もあった。(郷社は3,633社、村社は44,934社、残りは無格社)

それよりも備中国総鎮守という肩書がすごい。
家のそばの駒込天祖神社は駒込村総鎮守(村社)である。

入口は期待したほど大きくなかったが、進むと参道が屋根付きになっていた。
12:15
平日だったがお宮参りの家族がいた。

総社というのは全国にあった。
前橋の上越線に群馬総社駅がある。
岡山は伯備線に総社駅、吉備線(桃太郎線)に東総社駅がある。

この神社のすぐ裏に駅があるのに東総社駅となってしまったのは、幹線でもある伯備線の総社駅が先にできて駅名を取ってしまったからだと思っていた。しかし調べたら、そちらは1925年2月「西総社駅」として開業し、いまの東総社駅は1904年総社駅として開業していた。ところが1959年、総社駅が東総社駅、伯備線の西総社駅が総社駅と改称した。そんなことをしないほうが良いと思うが、山陽本線からの乗り入れ列車もある西総社を総社市の代表としたようだ。
大きな木々や背後の山はないが、確かに境内は広い。
12:17
祭神は大国主命(出雲の国造りの神)と妻の須世理姫命の2神に、備中国内大小304社の神々、さらに相殿神として御鎮魂八柱神 、つまり合計314柱の神々、さらに摂末社が12柱である。
この祭神の多さこそが総社である。

律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した国内の定められた神社を順に巡って参拝することであった。しかしその煩雑さから平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。

説明板には備中国内大小304社の神々と書いてあるが、実際は304の神社というべきであろう。大国主の命、素戔嗚尊などは重複しており、神々の数は数十~100程度といわれる。
今年しめ縄を自分で作ったから、大きな注連縄をみるとどうやって作るのだろう、とつい思ってしまう。
12:18
屋根付き参道は本殿から三方に延びている。

総社の多くは国司の派遣がなくなった中世(鎌倉、室町)に廃れたが、後に再興されたものも多い。しかし再興されず、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。

名前については岡山だと美作総社宮(津山市)備前国総社宮(岡山市)、備中国総社宮(ここ)が名前とともに残っている。
しかし、武蔵の総社は府中の(=国府の近くの)大國魂神社であり、下総は市川の六所神社である。(六所の名前自体が6つの神々、あるいは6つの神社を合祀したという意味)。

社格は武蔵府中の大國魂神社が官幣小社に列するが、多くは県社、郷社どまりである。やはり、オリジナルでなく簡略化のため二次的に作った神社の社格は高くはない。
12:19
池は岡山藩池田家が後楽園を作るときに参考にされたとされるが、こちらに作庭の知識がなくよくわからない。

さて、昔から地図を見て気になっていた「岡山の総社」がどういうものか分かったので、次はいよいよ吉備路サイクリングに出発する。

(続く)

2026年5月2日土曜日

高梁2 三島中州、御根小屋の名門校、山田方谷、板倉勝静

4月22日の朝、備中松山城に上った。
麓の踏切から大手門跡まで1時間以上かかった。
短時間で城内を見て、帰りは別の道を取り、雑木林の細くて急な山道を30分で駆け下りたが、人里に戻ると2時間経っていた。
山から降りてすぐ、登城口の近くの小高下谷川(ここうげだにがわ)のそばに石柱と説明版があった。
10:37
三島中洲旧宅 虎口渓舎跡

本名三島毅(1831-1919)は備中松山藩士ではない。倉敷に生まれ寺子屋で習字をならい、13歳のとき松山藩の儒者山田方谷の私塾牛麓舎に入り、19歳のとき塾長となった。藩務多忙の方谷にかわり舎生の訓育に当たる。26歳のとき松山藩士となった。

文久元年(1861)、30歳のとき藩校・有終館の学頭・吟味役となり、この場所、小高下(ここうげ)に200坪の宅地を賜り、虎口渓舎と名付け漢学塾を開いた。塾の名は目の前の小高下谷川からとったのだろう。弟子の出身地は12藩に及び塾舎は常に60人から70人を越したという。明治政府出仕の命によって東京へいくまで11年間にわたって師弟の教育にあたった。

私は10数年前までこの人を知らなかった。
長野の弟が上京して一人深川の富岡八幡の境内を散歩したとき骨董市をやっていて、三島中州の書(掛け軸)を買った。実家に帰った時、床の間の前で書の文言について蘊蓄を聞かされた。彼はそれ以前から三島を知っていたようだ。
三島は二松学舎を起こしたが、そこで中国文学を学んだ私の妹が結婚するとき長野に送った不要な書籍類の中に三島の著書があったらしく、それも掛け軸の解読に役立ったらしい。

・・・
小高下谷川を渡るとバス停があった。
朝延々と車道を歩いたが、ここまでバスで来て登山道を登るべきだった。

ゴミ一つない美しい川に感心しながら左岸を下るとすぐ、土塀に囲まれた学校があった。
10:42
県立高梁高校 東門
高校敷地にわたる橋が「ぎゅうろくしゃばし」とあるからここに山田方谷の牛麓舎があったのだろうか。
この塾名は背後の山が臥牛山と呼ばれたからだろう。牛が臥した姿の城山は本丸・二の丸・三の丸が階段状に配された小松山のほかに、大松山、天神の丸、前山の4つの峰からなる。
(後で調べたら私塾牛麓舎は川向うの山側でなく、背後の左岸にあったらしい)
10:43
この高梁高校は旧制中学として1895年創立。岡山県では岡山朝日高校に次いで古い。
岡山朝日が1885年各県一校の岡山県尋常中学として創立し、その10年後に津山中学、高梁中学ができたから備前、備中、美作に一つずつ作られたことになる。この小さな谷あいの町が備中一国の学府だったわけだ。

城下町の旧制中学はよく城内に作られるが、高梁のお城は険阻で不便な山上にあって使えない。しかし麓に「御根小屋」という藩の政庁の跡地があり、そこに作られた。

旧制高梁中学は戦後、高梁高等女学校(前身は1885年創立の順心高女)と合併し共学となった。卒業生に石川達三、水野晴郎らがいる。
10:44
御根小屋(おねごや)は、上下二段に造成されており、上段に藩主が日常起居する御殿が設けられていた。
10:44
御根小屋はかなり広く、背後を臥牛山、前を堀のような川で守られ、立派な城郭のようである。
実際、ここは山頂の「山城」に対し、「お城」と呼ばれ、通常藩士の登城といえばここに出仕することであった。
10:46
高梁高校の下の端から川を渡って校地外縁に沿って歩いていく。

10:48
まさに近世城郭である。
この場所はかつて完全な城内であったが、今の高校は広い敷地を使いきれず正門はこの坂の上にある。
敷地は川、線路、山裾を三辺とする三角形をしている。
そばの説明版によると、創建年代は不明であるが、天正3年、毛利が三村氏を滅ぼした備中兵乱で焼失した記録があることから、戦国時代まで遡るという。現在の姿は、江戸時代初期、関ヶ原の戦後、毛利を萩に押し込めたあとに派遣された代官の小堀遠州が再建をはかり、その後の藩主水谷勝宗により1683年に完成したとされる。
10:48
下中門跡
ということはこの下に総門、御殿坂があった。
フェンスの向こうはテニスコート。

備中松山藩は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、1744年板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
もっとも有名なのは幕末に第7代藩主となった板倉勝静(1823-1889)である。
山田方谷を起用し藩政改革を成功させた。勝静は井伊直弼が桜田門外で暗殺された翌々年の文久2年(1862)老中に抜擢され、徳川慶喜の代に老中首座となり、難局に直面する幕府を切り盛りした。

藩政改革にみられた彼の優れた能力はもちろんのことだが、血筋も見られたかもしれない。
すなわち彼は奥州白河から桑名に国替えされた松平定永の八男で、備中松山・板倉家の婿養子になった。すなわち寛政の改革の松平定信の孫である。つまり将軍吉宗の孫の孫であった。

さて戊辰戦争では勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には備中松山藩追討令が朝廷から出された。執政であった山田方谷の決断で無血開城し、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収した。
京都にいた勝静は徳川慶喜に従って会津の松平公らととも江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦した。
10:49
総門と中門の間の城内を伯備線が横断した。
車道でもないのにこれだけ広いのは、石段や石垣をふくめ昔の登城口のままなのだろう。
江戸期には両側に松並木があり、その外は白壁であったという。
10:50
特急「やくも」が通過した。
名前から分かるように山陰本線に乗り入れ松江、出雲までいく。

山陽と山陰を結ぶ戦略上の重要地点ということが、この小さな谷というか盆地を備中国の中心にした。

踏切のすぐ下に山田方谷の真新しい石碑と幟「知行合一」がたっていた。
10:51
高梁駅についたとき、「大河ドラマの主人公に」と訴える「ほうこくん」に出迎えられたように、市は大々的に彼を売り出している。市内各地に彼の言葉を彫った石碑を建て、それらを結ぶ「方谷の道」という散策コースを作っている。

方谷を知ったのはいつだろう。
司馬遼太郎「峠」かもしれない。主人公・河井継之助が藩政改革にあたり、はるばる越後長岡から備中まで山田の教えを乞いに訪ねるほど、日本中に名を知られていた。

山田方谷(1805-1877)は、三島同様、松山藩士ではない。家は農業と菜種油の製造・販売をして生計をたてていた。5歳で親戚の寺に預けられ藩儒・丸川松隠の回陽塾で学び始め、神童と言われた。
20歳の時、家業と学問にはげむ方谷の評判を聞いた藩主の板倉勝職から奨学金として二人扶持を与えられ、24歳で藩士に取り立てられ、藩校の教授に任じられた。

方谷の学問は儒教の中でも幕府の官学であった朱子学ではなく、陽明学である。
朱子学は大義名分や形式を重要視したのに対し、陽明学はより実践的な「知行一致」を主要思想とした。方谷は幼少期から朱子学を学んできたが、その形骸化した思想に満足できず、陽明学を学ぶため3年江戸に遊学した。
昌平黌で今でいう総長を務めていた佐藤一斎の私塾に入門し(一斎は表向き朱子学であったが陽明学にも通じていた)、佐久間象山と並び「佐門の二傑」と並び称せられた。

方谷は松山に帰国後、牛麓舎をひらき、身分に関係なく農家・商家の出身者も門人に迎え、その中にはのちに片腕となった三島中州もいた。
(陽明学を信奉するものは朱子学を批判する革命思想家が多く、それを危険と見た方谷は朱子学を十分に習得した上で、なお疑問を持って陽明学を学ぶことを希望した者にだけ陽明学を講義した)

しかし彼を有名にしたのは学問ではなく、藩政改革である。藩主板倉勝静のもと、財務状況の公開、役人と商人の癒着の禁止、債権者の大阪商人の協力、倹約、そして鉱山の藩有化など殖産興業で多くの特産品をつくり10万両の借金を返済した。
私が信州にいた子供のころ、親たちが畑で使っていた三本刃の鍬は「備中鍬」といったが、方谷の時代に松山の特産となったものである。

彼の改革は経済だけでなく洋式への軍制改革にも及んだ。戦国以来の旧弊に拘る藩士たちは改革を渋るため、代わって人口の8割を占める農民を軍の主体とする農兵制を導入した。その訓練を見学に来た長州の久坂玄瑞は感心して、のち高杉晋作の奇兵隊の誕生に影響した。
さらには困窮する下級武士を山間の未開地に移住させ、開墾して得た収穫物は無税とし、国境防衛と貧民対策をかねる、のちの明治政府の屯田兵制度のようなものも発案、実行した。

方谷の石碑の向かい、すなわち線路を挟んで高梁高校の下に学校があった。
10:51
方谷學舎高等学校
明治37年(1904)設立の岡山県有漢准教員養成所にさかのぼる。
戦前の財団法人高梁学園が設置した高梁農林学校と高梁女子商業学校が戦後合併し、高梁実業高校になり、また高梁日新高校に校名変更した。そして町おこしのようになった方谷プロモーション運動に乗ったのか、2023年方谷學舎高校に校名変更した。つまり設立などに山田方谷は関係ない。

話は変わるが、明治時代、岡山というのは長野と並ぶ教育県として知られた。
岡山藩池田家の藩校は全国に先駆けてつくられたし、閑谷学校は庶民のための学校としては世界最古とされる。明治時代の小学校就学率も高く、大都市でもないのに旧制第六高等学校や第三高等学校医学部を誘致することに成功した。1950年から1998年まで続いた岡山五校(市内の朝日、操山など)の一括総合選抜制も、その裏返しと思えなくもない。
そして、備中高梁という谷あいの小さな町に、私立大学(実際は高梁市が出資する第三セクターの順正学園が運営)、県立高校2、市立高校2、私立高校1が存在することに、改めて岡山の教育を思った。(岡山県と城下町高梁はまた違うかもしれないが)

・・・
さて、御根小屋跡地を離れるとすぐ今の市民の町である。
高梁の町は小さい。
10:53
このまま古い家々をみながら駅のほうに行く前に、備中松山という谷底の町の中心を流れる高梁川に行ってみる。
10:57
方谷橋
旧橋が1934年の室戸台風で流されて1937年にかけられた。
土木学会により土木遺産に選定されている。
私はそれより橋の名前が気になった。近年の方谷ブームによって改名したのかと思ったのである。
しかし、少し北の伯備線方谷駅(1928年開業)同様、旧橋のころからこの名前だったらしい。ちなみに駅のほうは鉄道省が人名を駅名にするのは前例がないと難色を示したが住民の熱意が押し切った。彼は大正時代でもなおこの地で神のように思われていたのである。
10:58
川底が低いので高い堤防はない。
その代り岸に瓦屋根を乗せた土塀が作られている。

山田方谷は、老中首座として幕末の難局に当たった主君板倉勝静に何度も京・江戸に呼ばれ、顧問の任についた。最後、京都から備中に帰国したとき鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜と行動を共にしていた板倉勝静は行方不明となった。のち、主君が蝦夷地にいることを知った方谷は、ひそかに使者を送り新政府への自首をすすめたが、拒まれたため、プロシア人に大金を払って救出を頼み、江戸まで連れ戻した。
維新後は、能力を高く評価する新政府から出仕を何度も求められたが、岡山の私塾で門弟を教えて一生を終えた。
10:59
土塀の内側を歩いていく。
このまま川に沿って駅まで行くのもつまらないので町に戻った。

11:03
紺屋川の通りを上がる。
橋に祠がある。
高梁七恵比寿の一つらしい。
11:05
朝、角を曲がった高梁キリスト教会堂がみえた。

結局、武家屋敷のあるほうへは行かず朝歩いた道を駅に向かった。
電車は11:26である。
途中、山田方谷記念館があった。入らず、だれもいない庭の藤棚の下でコンビニパンを食べた。そして山田方谷が果たして大河ドラマになるかどうか考えた。時代、登場人物は申し分ないが。

電車は高梁を出ると高梁川に沿って走った。
11:31備中広瀬
11:38美袋
11:42日羽
11:46豪渓
11:50総社
11:33
広瀬と美袋(みなぎ)の間。
古代はこの川を使って山陰から大陸からの文化、中国山地の鉄などが国の交通主軸であった山陽道にもたらされたことだろう。

(続く)

ところで2017年、板倉勝静の墓が千駄木の近く、本郷通りの吉祥寺にあることを知った弟が長野から上京し、私もついて行って初めてこの寺に入った。彼は三島中州書・顕彰文の大きな石碑を見つけて喜んでいた。

今回、長野の掛け軸の写真を送ってもらった。

中州三島毅が大正2年84歳の時に、明治3年新春に作った詩を書いたもの。
「満郭曾て埋む 兵馬の塵 哀を祈ぐる士女 蒼旻に泣く・・・」
後ろの小さい字で注釈があり、旧藩主板倉松叟公とか五稜郭の文字がある。「渡島国鷲木」というのは榎本艦隊が上陸したところである。

20171231 吉祥寺3 経蔵、赤松家墓地、板倉勝静