4月22日、急遽岡山県に来て、伯備線に乗って山間部に入り、山城の備中松山城をみた。
そのあと岡山県らしい平野部に戻ってきて、
総社駅に下車。11:50。
ここでレンタサイクルを借りた。
備中国分寺や古墳を結ぶサイクリング道路が整備されているが、その前にふつうの街中を走って、市名、駅名にもなっている備中総社宮を訪ねた。(前のブログ)
やがてサイクリング道路の標識があった。
左折して入っていく。
要するに農道である。
よく見るパンフレットなどは光あふれる緑の田園地帯だが、この日は曇り。
しかし暑くもなく寒くもなく自転車日和といえる。
12:30
久しぶりにレンゲソウをみた。
この道を東に向かう。
古代の山陽道はこのあたりを通っていた。
12:34
水田だったところにナスの苗が植わっている。
しかしマルチ張りがずさんではげている。
このあと突然、右脚のすねが攣った。
脛というのは骨が出ていて痙攣する筋肉などないと思っていたが、はじめて経験した。
自転車は足首を曲げたままペダルを踏み続けるから、その形を維持するためには脛にわずかにある筋肉を縮める。それを長時間(といっても20分程度)続けて痙攣したらしい。
総社駅から総社宮まで1.7km、総社宮から痙攣地点まで2.5km、あわせて4.2kmしか乗っていない。ふだんならありえないことだ。
しかし朝から急いだ倉敷見物に、続く備中松山城見物の2時間(うち登りが1時間)が効いたか。
このまま治らなかったらどうしよう。
自転車を押して元のレンタサイクル店まで戻るのは不可能である。
安土、近江八幡とのきは自転車を返した後、夕方に太ももが痙攣して歩けなくなったが、今回はこれからというときである。
幸い、しばらく休んだら何とか痛みは消えた。
ちょうど作山古墳の横だった。
地図では作山古墳だが、なぜか道の両側に墳丘らしき森がある。
よくわからず右脚をいたわりながら大きなほうの裾をまわる。
広い道に出た。
なおも田園の自転車道(農道)を東に行くと古墳らしき森があった。
ここが面白いのは5,6世紀の古墳群と8世紀以降律令制時代の国府(国分寺、国分尼寺、総社)の場所が完全に一致していることである。よほど暮らしやすいところだったのだろうか。
12:41
左:古墳? 右:?
「滑りやすいので足元に気をつけてください」
脚のことを考えると登って確かめることもできない。
作山(つくりやま)古墳は5世紀中ごろ築造。長さ282メートル、岡山県では第2位、全国では第10位の規模になる。あとで調べたら上の写真の右側は古代に独立丘陵を削って造成したときの残りの部分らしい。
古墳の南側に集落があり、ぐるりと回るようにそちらの道を行く。
「つくりやま」とはいかにも地元の人が古くから呼んでいた名前に思える。古墳という教科書的単語をつけて屋上屋のようになっている。
12:45
案内板がなく、まだ古墳かどうかよく分からず。
簡単に先まで行って戻ってくるという自転車のありがたみを感じるが、やはり大きすぎると全体像が分からない。
そのまま離れた。
12:47
離れると確かに前方後円墳のように見える。
なおも農道をすすむ。
この平野は古代の吉備王国、さらには律令時代の国府のあったところである。
12:54
周りの低い丘丘を眺め、あっちのほうも古墳がありそうだな、と思う。
気持ちよく走り続け、現在地をスマホで確認して仰天した。
作山古墳の周りを走ったため方向感覚が90度ずれて、国道429号を北に向かっていた。
東に行くつもりだった。来た道を引き返した。再び農道に入り、田んぼの中を信州中野の篠井川のような川に沿って走ると何かがバシャバシャと水に飛び込んだ。それこそ篠井川のようだった。カエルには季節が早い。ネズミか?
13:03
すこし離れてカメがいた。
飛び込んだのは日向ぼっこをしていたカメの群れか? この日は曇りだし、亀もあれほど俊敏とは思えないが。
13:04
東方に備中国分寺の五重塔がみえた。
山の中でもなく街の中でもないことが、昔らしい風景で良い。
しかし行く道がない。
13:06
さらに南にいくと東への自転車道路にぶつかった。
平日だからほとんど人がいないが、ランニングしている人がいた。
13:09
備中国分寺
自転車の欧米カップルがいた。
13:10
真言宗である。
讃岐国分寺を思い出した。
国分寺はもともと聖武天皇(701-756)の時代、諸国の国府の近くに建立した無宗派の寺院だった。平安後期以降いったん荒廃し、中世に復興するにあたり、もともと国分寺は国家鎮護(国家安泰・災厄除け)が目的だったから、加持祈祷をする真言密教と相性が良い。結果として再興時に真言宗に取り込まれやすかったという構造がある。
13:10
城と同じく立地には興味があるが、建物、仏像にはあまり関心がないので早々に退出した。
13:15
こうもり塚古墳
これもこうもり塚と呼ばれていたのだろう。
全長96メートルの前方後円墳。
13:17
前方部に穴が開口している。
作山古墳よりあと、6世紀後半とされる。仁徳天皇の側室黒媛(くろひめ、吉備出身)の墓とされるが時代は合わない。古墳は時代が下がると小さくなる。
13:18
花崗岩を組み合わせた石室になっている。
なかに家型石棺が見えた。
律令制になったとき地方豪族は国造として国司と併存したが、古墳の主と国造は連続していたのかどうか? 吉備王国は筑紫、出雲、大和とならんで4大先進地域だった。
山陰、中国山地の鉄が当時の国家の交通主軸であった瀬戸内海に出てくる場所にあたり、弥生時代からの製塩(昔は海がもっと内陸まで入っていた)もあって、4つの中では一番豊かになる条件を備えてる。しかし神話(記紀)では大和政権に滅ぼされたことになっていて、古墳の主は豪族として残らなかっただろう。
13:25
備中国分尼寺跡
国分尼寺は国分寺とセットで全国に置かれたが、国分寺と違って現在残っているものはまったくない。
尼寺は経済基盤が国分寺より弱く、また女性僧の組織は弱かった。
さらにサイクリングを続けた。
次は造山古墳に行く。
道を間違えて、路傍で草取りしていた女性に聞くと田んぼの向こうを指さされた。
13:36
造山古墳全景
道を間違えたおかげで全景が見られた。
これもツクリヤマといわれてきた。
おそらく備中平野には無数のツクリヤマがあり、古墳の名前というより大川とか丸池と同じような普通名詞だったのだろう。
先に見たツクリヤマ(作山)古墳と区別するため、サクザン古墳、ゾウザン古墳ともいうらしい。
13:38
造山古墳
墳丘長は約360メートル、大仙陵古墳(堺市、486メートル、伝16代・仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(羽曳野市、420メートル。伝15代応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(堺市、365メートル、伝17代履中天皇陵)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。
大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が2019年、ユネスコによって世界文化遺産として登録されたことに対し、こちらは1923件(2026年)ある国の史跡の一つに過ぎない。
13:38
左:造山古墳の前方部
右:陪塚(1号、2号)
13:39
2つの陪塚。
左:榊山古墳(造山第1号墳)、右:造山第2号墳
13:42
近畿にこれだけ巨大な古墳があれば天皇陵とされ宮内庁の管轄になり、研究者ですら立ち入りできない。しかし、ここはなんと自由に登れる。
13:45
上に神社があった。
思ったより高い。
平地に土を盛ったとすれば大変な土木事業である。
土を取った跡(堀)などないことから、自然の丘を利用したのだろうか。
13:46
前方部から後円部を見る。
13:47
秦の始皇帝の陵と同じくらいの大きさ。
登れる古墳としては日本で(世界で)最大という。
前方部には阿蘇山の溶岩でできた石棺があり、後円部には讃岐の安山岩でできた板石が発見されたという。石などどこにでもあると思うが、もし実際に運んできたものなら、ここの大王は相当力があったのだろう。
先を急ぐので早々に下山した。
13:50
前方部の斜面は畑になっていて、柿の木が植わっていた。
私有地なのだろうか?
段々は古墳の構造なのか、畑にするために削ったのか良くわからず。
古墳は3つ見たのでもういい。先を急ぐ。
(続く)
20260505 レンタサイクルで備中国総社宮にゆく
20260502 高梁2 三島中州、御根小屋の名門校、山田方谷、板倉勝静
20260430 高梁、吉備国際大学と備中松山城
20260427 高速バスで岡山、倉敷へ

























































