10月17日、松本に行った。
最初は妻と一緒に森泰生・恵美子夫妻のところに遊びに行く予定だったが、それを聞いた息子が自分たちも行きたいと言い人数が増えた。さらにそれを聞いた次女も行きたいと言い出した。彼らは子供のころから森夫妻が大好きなのである。
結局3家族の大部隊となり、次女(と夫と乳幼児2人)一家は前日から松本周辺をレンタカーで周り、息子(と妻と乳児)一家、さらに私の妻は7時ちょうどのあずさ1号、私は甲府城を見たかったので当日朝一番(各駅停車)で先発した。
甲府城を急いで見てから後から来たあずさ1号に乗り、息子たちと合流した。
9:35
塩尻を過ぎて松本が近い。
稲刈りの終わった田んぼの向こうにブドウ畑。
北アルプスは残念ながら雲がかかっている。
しかし雨の多かった9月、10月にしては天気に恵まれた。
9:44
松本駅着
改札口に森夫妻が迎えに来てくれた。
話をしているうちにベビーカーでエレベーターに回った息子一家、別の車両にいた私の妻が合流。人見知りする私の孫をみんなでのぞき込んだりして、久しぶりの再会がすこし落ち着いてから駅を出た。
松本城の向こう、開智学校で娘一家と合流することになっている。
松本は2012年3月の日本生理学会以来。
私は好きな街なので歩きたい。ベビーカーの息子たちは松本市内周遊バス「タウンスニーカー」で行くものと思っていたが、一緒に歩くというのでぶらぶらいくことにした。
駅前広場から14年前に3泊したホテル飯田屋が見えた。
森さんは裏道を選んでくれたので、車も少なくおしゃべりしながら歩いた。
9:56
浄林寺
境内にある瘡守稲荷のほうが有名。庶民は寺本体よりご利益あるものを求める。
9:58
女鳥羽川を渡る。
大手門跡(千歳橋)からお城に向かう東の大名町通りのほうはさぞかし観光客が多いだろうが、こちらはひとがいない。
10:05
西総掘土塁公園
2012年3月に来たとき訪ねたことを話したら寄ってくれた。
私は国宝の天守閣よりこういうものが好きだ。
松本城は本丸と二の丸の間が内堀で、二の丸と三の丸の間が外堀。
家臣たちの屋敷のあった三の丸の外が総掘となる。
総掘を掘った土をかき上げたのがこれらの土塁となった。
ちなみに総掘と外堀は、寺院の総門と山門の関係と似ている。外堀が城を包むのに対し、総掘は町人を含めた町全体(総構え)を包む(小田原、山形、江戸など)。ところが松本は三の丸に町人はおらず、また丸馬出が三の丸の外にあったことから、三の丸までが城内とみなせる。だから本当は内堀外堀を合わせて内堀(実際つながっている)とし、土塁のあった松本城総掘を外堀というべきであろう。
『ビジュアルワイド・日本名城百選』2008年小学館
西の土塁から三の丸に入り、北へ歩くと松本城公園の南の端を通る広い通りに出た。
10:11
通りの向こうは整備中の空地になっている。
昔は二の丸と三の丸の間の外堀だったところだ。
10:13
松本市は西の外堀を復活させるらしい。
戦前から昭和の時代は長屋などが並んでいたという。
調べたら、この堀は職を失った旧松本藩士の生活救済を目的に、明治20年(1887)に長野県から「松本斎産土地株式会社」へ払い下げらたもの。
同社は当初、堀での養魚などを目指していたが、大正期から昭和初期にかけて堀を埋め立て、住宅地(宅地)として一般の人々に貸し出す不動産賃貸事業へ転換した。
その後、松本市は外堀を復活させるため土地の取得を試みたが、底地は松本斎産土地が所有し、その上の住民が借地権を所有していたため、難航。しかし長年の交渉でついに2024年、取得が完了した。
近年の観光ブームでお城の復元が各地で盛んだ。しかし多くは櫓、門の再建で、このようにいったん市街地になってしまったところに濠を復元するという例はあまりない。その困難さは容易に想像できる。
しかし明治5年に競売にかけられたお城を買い戻し、明治30年代には大きく傾いた天守を大修理した松本市民だからこそ、可能だったのだろう。
松本市「国宝松本城」公式サイト
薄い水色部分はすべて埋め立てられてしまった堀。
前にブログを書いた2019年には鉛が検出されたため水を張った濠は諦め公園化するということだったが、その後、法改正?があったのか、濠も可能になったらしい。堀が復活すると城としてだいぶ立派になる。
10:17
外堀だった場所から二の丸、内堀をへだててみる天守閣
お城から離れもう一つの国宝である開智学校に向かってのろのろ歩く。
国宝も刀剣や骨董より建造物が素人には良い。
10:23
妻のもっとも仲の良い友人だったゾウさん(渡辺真理子さん)の父上の実家。
今はだれも住んでいないように見えた。
父上は確か東工大を出られた企業研究者だった。
10:24
恵美子さんの母校、開智小学校
もともとこの地は市立病院があった。
開智小学校は女鳥羽川沿いにあった。
1963年開智小学校と田町小学校が統合し、1964年にかけて旧開智小学校本館(旧開智学校)を教育資料館としてここに移築、隣に新校舎を建てた。
1960年早生まれの恵美子さんは旧開智学校は隣にあったけれど中で学んだわけではなく、彼女が学んだ新しい小学校も1998年、元の形を残しつつ建て替えられた。
10:30
旧開智学校
明治9年(1876)地元の大工棟梁、立石清重が設計施工した。私が池袋でラテンダンスを習っている立石啓先生は彼の子孫である。今回「立石家伝来の建築図面」が展示された。彼は「家伝来と言っても家にはないんですよね」とおっしゃった。2019年に国宝になったとき、併せてこれらの建築関係資料(文書56点、図面7枚)が国宝の附(つけたり)として指定された。前日美ヶ原に泊まったという娘と孫が散歩していた。
隣接地が市立図書館だからそこに車を止めればいい、と森さんに聞いていた。
彼は京大を定年退官した後、中学の同級生だった恵美子さんと高校時代まで過ごした松本にひっこんだ。友人と会社を作ったが特に仕事はなく、毎日散歩しながら今は北欧の小説を図書館で借りてきて読んでいるという。こちらは北欧小説など全く知らないので、長尾拓先生が亡くなったことやイオンチャネル関連の共通の友人の消息を語ったり、座りながら見える美ヶ原の山々や常念岳などの話を聞いたりした。
そうこうするうちにみんな出てきたので今回の目的だった森家訪問に向かった。
再び市立開智小学校の前を通る。
11:12
開智小学校の木立
薪を背負った二宮尊徳像があった。私の子供のころはまだこういう姿を想像できたが(もちろん農作業は手伝うが勉強する子などいない。歩きながら漫画を読むくらい)、今の子供にはどう映るのだろう。その子供たちが教員になったとき、どう説明するのだろう。
・・・
森家は平屋の、使いやすさとセンスの良さを両立させた家だった。
なんといっても開智学校(隣が市立図書館)も松本城も落ち着いた道をゆったり歩いて数分の距離。
松本は文化度の高い土地で、おしゃれなレストランがいっぱいあるのだが、乳幼児のことを考えて美味しいとんかつ屋の焼き魚なども加えた豪華弁当をとって、ごちそうしてくれた。
13:29
食後、散歩に出発した。
2歳の娘は玄関わきの姫リンゴを一つもいでもらって嬉しそうに握っていた。
すぐ二軒さきの道路(わたる手前の角が浅井洌邸跡)を渡ると北馬場柳の井戸、葵の井戸があるからもう城内である。
13:35
二の丸裏御門橋から東をみる
13:36
二の丸裏御門橋から西を見る
渡れば二の丸だが、松本城は南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲む。お城の北側は二の丸がなく、また三の丸も薄い。つまり、北から入ると、本丸が近く、この濠は本丸のすぐ北の濠でもある。
13:37
二の丸御殿の跡のようだ。
「かまど」など各部屋の名を書いた石がおかれている。
13:43
二の丸に立って、内堀を挟んで本丸への正面入り口をみる。
桝形になっていて、高麗門の奥の黒門はみえない。
高麗門の向こうに天守が見える。
ここで長野県人ならだれもが知っている牛乳パンの話になった。散歩がてらに、彼らが子供のころからあるパン屋さんに行くことにした。
13:59
松本山賊焼き応援団(居酒屋)、どぶろく醸造所、信濃毎日新聞専売所、東門磯村(和菓子)など古い店が並ぶ。右手側は三代沢酒店。すぐ先が東門馬出跡であるが、その手前で右折、みどり町という狭い石畳の通りに入った。
14:01
小松パン店。
牛乳パンは売り切れだった。外観は古いが中に入ると棚に今どきのパンが並んでいた。
彼らには当たり前だから何も説明がなかったが、帰宅後調べたら大正11年創業、当時はハイカラだっただろう。
14:05
車の来ない古い通りを歩いていく。
とくに観光用の保存地区ということもないようだが、懐かしい町並みが残っている。
14:06
なわて通り商店街
女鳥羽川と総掘りにはさまれた土手のようなところが道になった。
2012年、小雨の朝、ここを歩いた。
だいぶ観光地化された。
14:07
女鳥羽川を渡り、左岸の中町通を西にあるいた。
ここは残っているというより景観に配慮して和風にした建物が並ぶ観光道路と化している。
大手門から南下している広い道路(本町通り)にぶつかり、北上した。
千歳橋手前のパントリーマルナカも老舗だが牛乳パンは売り切れていた。
千歳橋を渡ると、大手門桝形口跡。右はなわて通り入口。
大名小路(大名町通り)を北上、すぐ松本市博物館があった。
真新しい。二の丸にあったものが2023年新築移転してきた。
トイレを借りた。
松本城に戻ってきた。
以前は建物内に入らなければ本丸内は自由に歩けたのだが、いまは内堀を本丸にわたった高麗門、黒門の枡形の中に受付があり、ただでは入れない。
14:38
入場料は1, 300円もしてびっくり。
調べたら、2019年まで410円、2020年から700円、そして2025年4月から現在の1,300円となった(Web購入は1200円)。
松本市も城の復元に金をかけるがしっかりその予算の心配もしているようだ。
当初、家族はみんな中に入るのかな? 入っても面白くないと思うが・・・、乳幼児3人、ベビーカー2台、中の階段は狭く急で、子供を抱いて入るのは大変だろう。まあ、第一は私が全員分払うとして、もったいないということだった。森夫妻、私、たぶん息子夫婦は入っているから感動することもないし・・と思っていた。
ところが現場に来たら待ち時間が40分とあり、もう時間的に無理だった。
というより、最初から登城は計画に入っていなかったようだ。
すなわち今夜は湯田中温泉で泊まる。
息子一家は松本駅まで歩いて特急しなので長野にいき、そこから長野電鉄特急で1時間以上はかかる。もう解散の時間だった。
14:39
ここでベビーカーを押す息子一家といったん別れた。
14:47
松本神社
森さんもここの氏子であり、先日祭礼をやったとか。
森夫妻は市立開智小学校の前まで見送ってくれた。
私たち夫婦は娘夫婦の車に乗せてもらう。
旧開智学校の裏にある図書館の駐車場に行った。
15:07
松本市立図書館
おむつを替えるのに娘たちが入っていったので私も中を見物した。
中央自動車道に乗って一路湯田中へ。
大きな車を借りたが大人より場所を取るチャイルドシートを2つも入れ、荷物も多く、3列目に入れてもらった妻のところは狭そう。
16:00
途中、麻績村(東筑摩郡)あたりに来ると両側の山がおかしい。見れば木が立ち枯れていた。マツクイムシにより赤松が枯れているのだ。
令和7年度、長野県は全国で2番目に被害が大きい。松本地域(麻績村、筑北村、塩尻市など)は特に深刻なようだ。
突然、小学校の遠足で行った赤松の巨木・飯森松(国天然記念物)のことを思い出した。昭和40年代初めに枯れたのはマツクイムシではなく、中野市の各小学校がみんなで遠足に行き、根元でおにぎりを食べたり、地面を踏み固めてしまったからではないか、と言う人もいる。
私は長野県18年→東京6年→埼玉32年→東京14年、ときた。
終の棲家は関東平野で記憶の密度が一番濃い上野本郷に歩ける場所を探した。
しかし自分の根っこは長野県であり、圧倒的に一番好きだ。
森夫妻は長野県に18年すみ、47年離れた後、長野県に戻った。
歴史を含め高い文化度を保ち、自然と都会の両方を備えた松本は長野県どころか日本で見てもトップクラスであろう。さらに家は松本城のすぐ隣、開智学校、図書館も至近とは、さすがである。
























































