2025年7月8日火曜日

豊島園の跡と練馬城の丘

 6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来て石神井城址を見た。(前のブログ)

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
当時、豊島氏は練馬城、平塚城(北区上中里)も持っていた。
その練馬城に行ってみる。

石神井城址の西武線・石神井公園駅から池袋行きの各駅停車で練馬高野台、富士見台、中村橋、と3駅挟んで練馬駅についた。8分、4.6kmというのは、二つの城の距離のヒントになる。

練馬城のある豊島園駅は練馬駅で乗り換え一駅。
電車の本数が少なく、若いころだったら歩いてしまっただろうが、ベンチに座ってぼんやり待った。
ようやく、池袋から豊島園行き電車が到着。
2025₋06₋22 12:09
電車がハリーポッターである。
中は若者ばかり。
そうか、豊島園廃園のあと、ハリーポッターのテーマパークができたのだった。
12:14
豊島園駅到着
ロンドンの町を模したのか、赤い電話ボックスまで置いてある。
覗いたら「この電話は使えません」と書いてあった。
(ロンドンではなくてホグズミート駅らしい)

駅から出ると人々はみなまっすぐ歩いていく。
12:15
駅前広場か公園入口か

広場の案内地図をみれば一帯は練馬城址公園というらしい。
しかし奇妙である。
駅名には残っている「豊島園」の文字はいっさいない。
代わりに以前は誰も気づかなかった「練馬城址」の文字。
南東(現在地)と北西の隅のだけが小さく赤色、それが赤い糸で結ばれている。
北のほうに「スタジオツアー東京」。
それを含め「練馬城址公園」は真っ白である。
12:17
フェンスが張り巡らされ、地図の赤色部分以外は立入禁止になっている。
豊島園の跡地は入れない。

申し訳程度に小さく、豊島園の記念展示があった。
12:18
ジェットコースター「サイクロン」のレールの一部。
横に「この土地の歴史と思い出」というパネル。

「この土地の歴史」は室町時代から始まる。
「この場所には、中世に石神井川沿いに勢力を広げた豊島氏が石神井城の支城として築いた練馬城がありました。練馬城は1477年に扇ガ谷上杉氏の重臣太田道灌に攻められ落城しました。」

その後は雑木林か畑か、何の歴史もなかったのか、次は中世から一気に500年近く飛んで大正時代。 樺太工業(のちの王子製紙)専務であった藤田好三郎が1916年(大正6年) 自身の静養地として、石神井川南側の高台12,000坪を入手。さらに北側などを買い足したが、個人で独占するのはやめて景勝地として一般開放することにした。1926年「練馬城址 豊島園」として部分開園している。

ところで、藤田好三郎は名前だけよく知っている。
家の近所に東京都指定名勝・安田楠雄邸がある。千駄木駅への途中にあり、13年前から見続け、いま週に3日は立派な門前を過ぎるが一度も入ったことがない。この家こそ藤田が1919~1920年に本邸(自宅)として建てたもの。しかし関東大震災(1923)のあと藤田は中野に転居し、同年日本橋小網町の自宅を焼失した安田善四郎(安田財閥創業者・善次郎の女婿)が、藤田邸を“居抜き”で購入し、その後は安田家の邸宅として受け継がれた。

さて、豊島園は1931年 競売にかけられ、この後、経営者が転々とする。
1941年武蔵野鉄道(のちの西武)のものとなる。戦後は回転木馬やサイクロンなどが設置され、人気を博した。

豊島園は一度だけ来た。
就職して2年目の1982年10月3日、会社の運動会だったが、グラウンドだけ借りて遊園地で遊んだわけではないので、何の記憶もない。(その前年の運動会は井の頭公園の近くの日産グラウンドだったが、埼玉戸田事業所の自社グラウンドをなぜ使わなかったか不明)
12:20
石神井川を渡る

しかし豊島園は2020年閉園した。
向ケ丘遊園、横浜ドリームランドとおなじく経営不振だった。(2019,2020は黒字だったものの2018年は赤字で、薄利が続き、遊具の老朽化も顕著であった)
さらに大きな理由があった。
以前から東京都の防災避難公園化の都市計画があり、2011年の東日本大震災で具体化、西武に対して土地買収の交渉を始めた。2019年にワーナー・ブラザースが交渉に加わり、ハリー・ポッターのテーマパーク建設案も浮上し、西武は東京都からの土地買収および閉園要請の回答期限が2020年度であったことなどから、同年8月末で閉園した。
最初に見た真っ白で何もない「練馬城址公園」の地図の意味はこれだった。

石神井川の橋を渡るとハリポタテーマパーク。中国人観光客も多い。
12:21
Warner Bros Studio Tour Tokyo
The Making of Harry Potter
なるほど、テーマパークのことをスタジオ・ツアーというのか。
The Makingは製作過程という意味か。

子どもたちが小さいころ、英語の勉強をさせるために学会出張のたびにビデオや本を買ってきた。ハリーポッターもよく買ったが、私は見なかった。長女はよく見ていたが下の二人はどうだったか記憶にない。

ところで、ここに来た目的の練馬城に行きたい。
石神井川の南の丘にあるはずだが、渡る橋がない。というか、橋はいくつもあるが、すべてフェンスでふさがっていて、どこまで行っても川を渡れない。
12:23
延々と続く石神井川沿いの道
右は倉庫のように大きいハリポタスタジオの壁。
この道は例の地図の赤い線(現在入場できる公園部分)に当たる。

結局諦めて入口まで戻り、いったん公園から出て外から練馬城への入口を探すことにした。
12:40
南側の住宅地にまわっても豊島園側はフェンスが延々と続く。
閉園して5年、東京都はいつまでこの状態を続けるのだろう。何かを作るわけではないのだから、遊園地のアトラクションの危険なものだけ撤去すれば、立入禁止のフェンスはもっと小さくて済むのではないか?

12:46
とうとう南西の隅まで来てしまった。
フェンスに切れ目はなかった。

石神井城のとき少し触れた豊島氏のことを書いておこう。
室町時代の15世紀、1455年、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、戦乱は関東一円に拡大。足利成氏は下総古河に移り古河公方と称された。
ほぼ利根川を境に東は古河公方、西は上杉方が支配し、乱は28年も続いた。

上杉方は扇谷上杉家家宰の太田道真・道灌父子に岩槻城、河越城、江戸城を築かせた。江戸城は豊島氏の本拠の石神井城に近く、その後、豊島氏と太田氏が対立するようになっていく。
さらに1476年上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰)になれなかった不満のため、上杉家に反旗を翻し鉢形城にて挙兵した。豊島氏は景春に加担して上杉家と対立した。
1477年4月13日、上杉方の太田道灌が江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄の豊島泰経に連絡を取り全軍で出撃。道灌もこれを引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原・沼袋原でぶつかった。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と兵は石神井城へと敗走した。
しかし4月21日には石神井城も落城、豊島泰経は王子の平塚城を経て足立方面に逃亡、武蔵東部の名族豊島氏は滅んだ。
12:53
坂を下り石神井川をわたり旧豊島園の北西まできた。
ここが「練馬城址公園」の唯一公開部分である。
皮肉にも城ではなかったところが公開されている。
むこうにハリポタスタジオがみえた。
疲れたけれど、現状はどうやっても練馬城址に行けないということだけは分かった。

石神井川に沿って練馬駅まで歩いたほうが近いけれど、地形を見るため来た道を戻った。
13:03
左(北)が豊島園址。
道の先に谷が見える。
このあたりは右(南)から川が石神井川に流れ込み、いくつかの浸食谷があったようだ。
練馬城はそれらを東西の濠とし、北の石神井川と合わせて3方の守りとした。

13:05
練馬城の南側は平たん、現在は大きな住宅が並ぶ。
当時はこちらに大手門が開いていたのだろう。

さらに東に戻ると、再び谷になった。
坂はどんぶり坂という。
13:06
左:区立向山庭園、右:どんぶり坂。
先ほどの谷と合わせ、練馬城の堀としたのだろう。
区立庭園には池もあり、豊島園址に入れない現在、これが唯一練馬城を思わせる景色かもしれない。


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2025年7月2日水曜日

石神井城址は山城のよう。豊島氏と豊島郡

2000城余りある城の一覧表を作ったことは書いた。
「日本100名城」には42城に、「続100名城」には12城に行った。天守現存12城に関しても8城をみてきた。
しかし、2000余城を分母にすればまだ90城くらいしか行っておらず、5%にも満たない。
少しでも率を上げるべく、一番近い石神井城と練馬城を訪ねることにした。

6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来た。

2025₋06₋22 11:03
公園には着いたけれど、よくあるように入口がなかなか見つからない。
北西の隅から東に芝生広場などを見ながら西縁を南下すると西にも森が出てきた。
芝生広場などは区立、森や池などは都立の石神井公園のようだ。

ようやく入れるとすぐ下に池が見える。
11:05
三宝寺池
この池の南に石神井城の鎮守として豊島氏が大宮の氷川神社から勧請し石神井氷川神社、さらにその南にこの池の名にもなった三宝寺がある。1394年、豊島氏の祈願寺として、石神井城とともに創建されたとされる。

三宝寺には家光が鷹狩りで立ち寄ったことにちなむ御成門、また赤坂・勝海舟邸から練馬兎月園をへて移築された長屋門などもあるらしい。それらは帰宅後に知った。
ぼんやり、ゆっくり何度も散策するなら別だが、パッと行ってパッと帰ってくる私の訪問では、ちゃんと調べていくべきであった。北側の練馬区立石神井松の風文化公園(日銀の運動場跡地) にあるふるさと文化館も練馬の歴史を展示しているというし。
11:07
園内は都心の公園と違い自然が良く残されている。
井の頭公園と同じくらい知名度はあるが、訪問する人はあちらが圧倒的に多いのではないか?井の頭はアクセスがよく若者に人気の吉祥寺と隣接するのに対し、こちらはやはり近隣の人がゆったり訪れている感じがした。
私も井の頭は何度か行ったが、こちらはずっと気になっていたまま今回初めてだった。
11:08
水がこんこんと湧き出ている。
神田川の井の頭池、善福寺川の善福寺池、妙正寺川の妙正寺池のように、石神井川の水源かと思ったが、よく考えると南のほうにすでに石神井川は流れている。この川は小平の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、練馬区、板橋区を流れ北区王子駅をくぐって隅田川に入る。

それにしても、忍野八海とはいかずとも見事な湧き水だと思ったが、調べたら湧いているのではなかった。三宝寺池は井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵野台地の3大湧水池として知られ、かつては石神井川の主水源であった。しかし湧水が減少したため、1971年に190mの深井戸が掘られ、いまは地下水をポンプで揚水しているらしい。
11:09
23区内の公園とは思えない。

11:10
城は南の石神井川と北の三宝寺池の間の高台に築かれたはずだから、城址は池の南である。
しかし、池が大きくなかなか南に渡れない。

11:11
ようやく橋があって渡れた。
11:12
石神井城址の記念碑

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。

豊島氏というのは、桓武平氏良文流の秩父氏から分かれた。すなわち、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などに並ぶ坂東八平氏のひとつ、秩父氏を祖とする。秩父氏は畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれた。
武家というのはすべて地方の開墾地主が始まりである。諸氏の領地を見ると、斜面が多い秩父から、湿地帯の多かった関東平野に進出していくのがわかる。稲作は雨季と乾季を人工的に作らねばならないから、はじめは給水排水が容易な山裾で発達し、のち大規模土木工事が可能になってから湿地帯を含む平地で新田が開発されていった。

豊島氏は前九年の役(1050)のころ秩父氏から分かれたようである。
北区豊島という武蔵野台地が東に尽きたところが発祥の地とされ、上中里の平塚神社あたりに館があったらしい。

鎌倉時代は幕府の御家人として家は続き、南北朝時代(1349)に石神井郷一帯の支配をはじめ、石神井城を築き、本拠を移したのは14世紀終わりとされる。
室町時代になって古河公方の足利成氏と鎌倉の関東管領上杉家が対立したとき、扇ガ谷上杉家の家宰だった太田道灌が岩槻城、河越城、江戸城を築き、平塚、練馬、石神井を根拠地とする豊島氏と対立するようになる。1476年長尾景春の乱で豊島氏が長尾方についたことから道灌が攻め、1477年、両者は江古田原・沼袋の合戦でぶつかり、豊島氏は滅んだ。

1477年というのは応仁の乱が終わった年で戦国時代の始まりと言われる年である。
東京都というのは太田道灌が大好きで、あちこちに銅像やら山吹やらの歌碑がある。
しかし太田道灌は江戸の発展にまったく貢献しなかった。これが他の都市だったら文句なしに徳川家康か慶喜を顕彰するであろう。
おそらく明治政府が徳川を嫌ったのであろう。家康が立つべき江戸城前の広場に楠木正成というのは明らかに尊王攘夷・維新政府の意向である。

太田道灌に滅ぼされた豊島氏は、しかし太田道灌と違って名を残した。
北区豊島、豊島園、豊島区などである。
(一方道灌はどうか。もちろん大田区は道灌と関係ない。日暮里の道灌山だって怪しい)

かつて豊島はもっと大きな地名だった。
墨田川から西つまり東京23区都心部の大部分は豊島郡だった。湯島や麻布、赤坂、芝も、日本橋のあたりも豊島郡だった。
明治11年の郡区町村法により、豊島郡の南東部は東京の中心として東京15区となり、残った周辺は南北二つの郡となった。明治22年15区が東京市になったとき、南豊島郡は、内藤新宿町、淀橋町、渋谷村、千駄ヶ谷村など2町6村。北豊島郡は巣鴨町、高田町、日暮里村から石神井村、下練馬村など4町15村。
(江戸周辺の郡は川で分けられ短冊のように長い。明治になって郡が南北に分かれるとき足立、葛飾は東京府の部分を南、埼玉部分を北にしたが、豊島郡の分け方はよく分からない。)

ちなみに南豊島郡のほうは明治29年(1896)すぐ西の東多摩郡(いまの中野、杉並)と合併し豊多摩郡となり、消滅した。北豊島郡のほうは昭和7年の東京市拡大で荒川、滝野川、王子、豊島、板橋(練馬含む)の区となるまで存続した。日暮里、中里など千駄木のすぐそばでも戦前の住所を見ると北豊島郡がよく出てくる。

さて、石神井城に戻る。
石神井城は南の石神井川と北の三法寺池(かつては川?)の間の台地に築かれた。南北の水系は東で合流するから東に向かった舌状台地である。普通は3方向が崖となる先端部に築城するが、中央部で東西を空堀でくぎって、築城してある。東は偵察用などの出丸とすればいいだろうし、北の三法寺池の広いところが防御の点で良いと思ったのであろう。

11:15
内郭西側の空堀址。
左(東)側が内郭跡で、フェンスによって立入禁止、保護されている。
東京23区の城址とは思えない景色である。練馬の田舎さというか偉大さというか。

再び三宝寺池に降り、北岸を東に歩くと道路(都道444号、井草通り)にぶつかり、道路を越えても公園は広がっていた。池もあり、こちらは石神井池と言い、水生植物が生い茂る三宝寺池と違って開放的でボートも浮かんでいる。野外ステージもある。(あとで地図を見たら墓地まであった)。

このあたりは、もともとは三宝寺池から石神井川に入る三宝寺川と水田だったが、地元の資産家であった豊田銀右衛門が、大正5年(1916)に川の北と南に「第一豊田園」「第二豊田園」を造成した。折しも西武池袋線の前身・武蔵野鉄道の池袋―飯能間が開通した翌年である。
1934年には川をせき止め石神井池が作られ、公園の体裁が整った。 
その後、第一豊田園は宅地化され、第二豊田園の方は都が土地を取得し、昭和53年(1978)に「記念庭園」と名をあらため、都立石神井公園の一部となった。

石神井池の北は高級住宅地である。
11:30
石神井公園駅に向かう道から石神井池を振り返る。
周りは大きな家が並ぶ。
もう引っ越すことはないのに、つい、ここに住んで朝散歩することなど想像してしまう。

2025年6月27日金曜日

牧野富太郎。大泉学園の旧居跡記念庭園と文化勲章

2023年3月1日、練馬区役所に地図をもらいに行ったとき、ロビーに
「牧野富太郎博士 NHK連続テレビ小説のモデルに」
という垂れ幕があった。

山形余目駅に行ったとき
「維新の魁、清河八郎を大河ドラマに」
という幟があったが、「を」という助詞のあるなしでだいぶ意味が違う。
練馬区役所のはお祝いの垂れ幕で、翌月から半年にわたりNHKの朝ドラ「らんまん」が始まった。

その後、谷中墓地で牧野の墓を見たこともあり、練馬の牧野記念庭園に行ってみようかと思ったが、ドラマ放映中は混んでいるから、と行かなかった。
秋にドラマは終わったが、関心もなくなった。

2年後の今年3月に高知に行ったとき地図で高知県立牧野植物園・牧野富太郎記念館というものを見たけれど行かなかった。

ところが先月、大学時代の研究室にいらした恩師のひとり、秋山敏行先生を田園都市線・鷺沼のお宅にお邪魔した。秋山助教授は三川教授とともに柴田承二門下であったが、教授と年が近かったため三共に転出した。卒研を指導していただいた妻と40年近く前に中野区鷺宮のお宅をお邪魔したころは、三共の醗酵研で東南アジアやアマゾンにしばしば植物採集にいっていらした。定年退職後はアメリカで研究費をとって活動され、その後、今度は高知の牧野植物園に移られた。

レストラン茶寮游旬で豪華なフルコースランチをごちそうになっているときに牧野植物園・記念館の話も少し出て、再び練馬にある牧野の旧居跡のことが頭に浮かんできた。
10:01
6月22日、晴れた日曜、大泉学園に来た。
改札を出るとさっそく牧野のパネルが2枚お出迎え。
これは2年前の朝ドラの影響なのか、それ以前からあるのか不明。
10:02
大泉学園駅南口
開放的で、いかにもJR中央線や西武線沿線の駅という感じがする。
駅舎の古い京浜東北線や東上線、あるいは駅前広場の無い京成や京急、また、山や谷が迫る小田急、田園都市線の駅とは違った雰囲気。

ペデストリアンデッキから地上に降りる階段を探していると親切なご老人男性がスーパーの中を通れば降りられると教えてくれた。
10:04
駅前ビルのスーパー
いつも思うのだが、山手線から西に離れた駅というのはスーパーがおしゃれ。ケーキやパンなどもおいしそうで、団子と煎餅しかない谷根千とだいぶ違う。
驚いたのはエスカレーターで一階に降りると、そこも二階と同じようにきれいな食品が豊富に並んでいた。
家々もゆったり、緑も多いし、暮らしやすいだろうな、と思う。

少し歩いたら着いた。
10:10
練馬区立牧野記念庭園

「記念館」の庭ではなく「記念庭園」である。
ボランチアの人なのか練馬区の職員なのか、係の人がとても多く、管理もしっかりしている。

入ると正面にいきなり大きな松が目についた。
ダイオウマツと山桜(右)
この松は北米原産で葉が長い。歩いてくる途中からも見えたほど樹高がある。
こういうものがあるところが普通の偉人宅跡の記念公園と違う。

右手に管理室と講習室。講習室では植物関係のビデオを流していた。左手のキッチンカーでは「ご長寿コーヒー」の幟。訪問者に老人が多いせいか、あるいは94歳まで生きた牧野にあやかっているのか。

それらを素通りして木々の間を進むと蔵のような建物がある。覆堂になっていて中に古い小屋があった。牧野が実際に使っていた書斎と書庫を再現する展示だった。
10:15
1926年(大正15年)、東京から北豊島郡大泉村に来てから最初の書斎は二階だったが、重さで玄関の障子が曲がり、床に穴が開いた。ついで一階に移ったがだんだん家がガタピシし始め部屋の戸がしまらなくなった。そこで戦後になって庭に小屋を建て書斎と書庫を移した。
10:17
「博士はいま・・・」という緑の行き先板に
「庭へベニガクを見に行きました」と書いてある。
広い庭で、しかも植物で見通しがきかないから植込みの場所まで書くのかな、と思ったが、よく考えれば博士はあちこち移動して最初の場所にいるはずはない。
10:18
書斎を覗けば、植物関係以外にもいろんな本がある。
「出スベキ手紙」の箱の下に「万葉集古義」の全集、古事記、盛京通志(満州の地誌)などもある。

明治44(1911)年に中山太陽堂が発売した「クラブ美身クリーム」の空き箱のふたに植物標本が入れられて雑に置かれている。まるで博士が生きていた時そのままのように見えるが、じつは空っぽだった廃屋に中身を詰めて再現し、2023年に公開したのだというから芸が細かい。

ふたたび庭に出た。
10:21
面積2576平米
10:22
銅像の周りの笹はスエコザサ。

昭和2年(1927)発見した新種の笹に、翌年55歳で病没(子宮がん)する妻・寿衛の名をとってスエコザサ(学名:la ramosa var. suwekoana)と名付けた。寿衛は、牧野の下宿先の神田小川町から本郷に通学する途中にあった和菓子屋の娘で、1887年ころ結婚してから下谷根岸の御隠殿跡の家で暮らし始めた。

朝ドラでは牧野を神木隆之介、寿衛を浜辺美波が演じ、牧野の下宿は東大に近い根津。彼女は根津に今でもありそうな、和菓子屋「白梅堂」の看板娘だった。
(それにしても、かつて朝ドラは将来性ある大型新人を発掘してきてヒロインにしたものだが、このころから浜辺をはじめとして、上白石萌音、趣里、橋本環奈、伊藤紗莉、今田美桜など、すでに売れている人を使うようになった。大河ドラマで主役をベテラン俳優よりも松潤、吉沢亮、横浜流星など若者にも人気のある俳優に変えていったのと時期を同じくする)

ひと通り園内を周って、展示のある記念館に入った。

年表がある。
牧野(1862- 1957)は、文久2年、高知県高岡郡佐川町で生まれた。
のち、高知市内の寺田寅彦(1878 - 1935)旧居の石碑の題字を書いているが、寺田より16歳早く生まれ、22歳遅く死んだ。生前互いに尊敬していたという。

牧野の生家は「岸屋」という酒造業を営む裕福な家で名字帯刀も許されたというから郷士身分だったか。
寺子屋や塾で漢学、洋学を学んだため、新しくできた小学校の授業に嫌気がさし不登校、中退。その頃から植物に興味を持ち、独学で学んだ。
19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子ら2人を伴い初めて上京した。

今回、これを書きながら初めて知ったのだが、牧野は最初に上京したころ、いとこで幼馴染、許嫁だった山本猶と祝言をあげた(これが結婚かどうかは不明)。しかし1884年22歳の時、本格的に植物学を学ぶため猶を置いて再び上京。実家の若女将となった猶は岸屋が傾くほど求められるまま金を工面して送ったが、3年後の1887年12月ころ牧野は一目ぼれした壽衛(14歳)と結婚した。
(猶のことは区立記念庭園の年表にあったかどうかは分からない。ああいうところはきれいな話しか残さない)
10:32
牧野式胴乱、竹の標本、ドイツ製顕微鏡

胴乱は、メイクに使う練り白粉(おしろい)・ドーランの当て字であることもあるが、日本古来の小型のかばんの呼び名である。多くは革製で、薬品や弾薬などの携行に用いられた。もちろん牧野は肩から下げて植物標本を入れた。
10:34
牧野の写生図
「明治十四年 我齢二十」
とあるからまだ高知にいたころである。

牧野は天性の画才に恵まれた。
というか、小さいころから大好きだった草花を描き続けたことで得た能力であろう。
標本というのは根から花まで完全なものは少ないから、完全なものを寄せ集めて一本にできる写生図のほうが写真より優れている。

1884年(明治17年)、22歳で上京してから東大の植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭した。そして東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送ると返事が届いた。おそらく牧野の絵が下手だったら、認められなかったのではないか?

25歳で、『植物学雑誌』を創刊。
その後、精力的に研究、発表したが、1890年、28歳のときに教室の書籍を無断で持ち出したとのことで矢田部教授から植物学教室の出入りを禁じられた。朝ドラでは論文に教授の名を入れなかったことが問題になったように語られていたが、実際、研究に夢中で権威に忖度しない態度が嫌われたのであろう。

1893年、31歳。その矢田部教授が失職し、後任教授となった松村任三教授は牧野の能力を必要とし、呼び戻される形で助手となった。しかし学歴がないこと、旺盛な研究、発表で権威者側から妬まれ疎まれ、松村教授からも圧力をかけられた。
1912年、49歳のとき、やっと講師となる。
10:35
91歳のときの書

文化勲章があった。
となりの勲二等旭日重光章より小さいが、こちらのほうが格上である。
文化勲章は天皇から渡される親授だから大綬章勲一等と同格である。

ちなみに、勲等と勲章名称は1対1対応しており、旭日章の場合なら勲一等なら旭日大綬章、勲三等なら旭日中綬章となる。瑞宝章も同様で、勲一等から五等まで大綬章、重光章、中綬章、小綬章、双光章となる(戦前はもっと下まで勲六等とか勲八等まであった)。ただし菊花章、桐花章は別格で等級はなく、大勲位菊花章頸飾と大勲位菊花大綬章、また桐花大綬章のみである。
(勲等を合わせて呼ぶなら、大綬、重光、中綬、などのサブネームは重複しているだけでなく、ややこしいから省けばいいと思うのだが。と思ったら今は勲何等とかは言わず、旭日中綬章という名前になったようだ。)

我が家のお隣の伊藤学東大名誉教授(土木、故人)は2014年5月、瑞宝中綬章を授与され、お祝いの虎屋のどら焼きを頂いた。伊藤先生の父上・伊藤令二氏は勲3等瑞宝章を授与されているから、親子で同じものを受けられたことになる。
ちなみに旭日は業績、瑞宝は官位に長年勤めたことに重きを置く。だから官僚、裁判官、大学教授、医師は瑞宝章で、政治家、実業家、芸能・文化人は旭日章である。

さて、展示の牧野の文化勲章をよくみると日付が1957年1月18日とある。
あれ、文化の日ではないのか? 
法令ではノーベル賞と違って対象者が死んだ後に文化勲章を追贈することを禁じていない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。
(ちなみに中綬章以上の勲章をつけるのは礼服以上に限られるというから、なかなか付けた姿を見せる機会がないんですと伊藤先生は仰っていた)

過去に文化勲章を死後追贈されたのは、歌舞伎六代目尾上菊五郎(1949)と牧野富太郎だけである。
牧野は第一回文化功労者(1951)のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。普通ならもっと早く受賞していても良い。生前、辞退していたとも聞かない。やはり中央から物理的にも社会的にも離れていたからだろう。
大学を辞す
1893年の助手就任から講師を経て1939年、77歳で講師を退官するまで46年東大に籍を置いた。当時は学歴が絶対であり、小学校中退ではどんなに業績を上げても教員にはなれず、助手すら異例だった。特に東大は卒業生でないと教員にはなれなかった。

しかし平成になったころからその権威を維持するためにも業績が必要なことに大学も気づいたか、純血主義が揺らいできた。東大医学部も積極的に他大学から有名医学者を引き抜くし、30年くらい前に薬学部では他学部、他大学出身の教授が半数となり「昔は考えられなかったことであり、現在、東大薬学史上最強の布陣となっている」という某教授の文章があった。
もちろん、建築家の安藤忠雄が大阪府立城東工業高校の最終学歴で東大教授になったことは牧野の時代ではありえないことだった。

隣に練馬区名誉区民称号記が額に入っていた。
称号授与は平成20年11月つまり2008年。だから牧野は見ていない。
朝ドラ「らんまん」よりずっと前だが、それにしても死後だいぶたっている。
なぜ2008年だったか。
調べたら平成20年に区は初めて練馬区名誉区民を選定した。元区長の田畑健介氏と岩波三郎氏、狂言師の野村万作氏、漫画家の松本零士氏と牧野富太郎の5人である。牧野を除いた4人については、他にも同じくらい知名度の高い練馬ゆかりの人は多いから、なぜ彼ら4人なのか不明である。
10:40
練馬での生活の写真

牧野は大正15年(1926)、練馬に移り住んだ。
ずっと、単純に植物標本を保管できる広い家、多種類の植物を育てられる土地を求めて郊外に行ったものと思っていたが、川口や松戸のほうが大学に近いのではないかという疑問もあった。

練馬になったのは理由があった。
上京してから本郷、小石川周辺を中心に30回近くも引っ越したとされ、大正12年(1923)渋谷・円山町付近に住んでいたとき関東大震災に遭った。この経験からスエが郊外への移住を提案したという。

(TDLの近く、浦安市弁天に住む友人Aが東日本大震災で地面の液状化を経験し、東京で一番地盤が固いという練馬に第二の家を購入したが、大正時代から地盤の固さは言われていただろう)

折しも、1924年、震災後の郊外住宅地への需要に応えるべく、箱根土地会社(堤康次郎)が大泉村に大規模な学園都市の開発を始めた。碁盤の目状に土地が整備され、村内を通過していた武蔵野鉄道(現:西武池袋線)にこの年、東大泉駅(1933年大泉学園駅に改称)が開業した。当初目指していた高等教育機関の誘致には失敗するものの、学園都市計画は大泉学園町に名を残している。

そして1926年、牧野は北豊島郡大泉村に転居する。
昔の航空写真を見れば駅北側に家が建っているが、南は越中砺波の散村のように家が少ない。

昭和7年(1932)、周辺5郡が東京市に編入され、大泉村も新設の板橋区となった。
戦後の1947年、広大な板橋区から西部が分離し練馬区ができる。
そして1957年、94歳で永眠した。

この日、展示室の隣ではトークイベントがあったようだが、聞かずに外に出た。
10:41
アオギリ
これほど大きな桐の木は見たことがない。
後ろは展示室のある記念館(二代目として平成22年新築開館)

牧野記念庭園をあとにして石神井公園に向かうとすぐ、学校があった。
そもそも大泉学園という駅だが、そういう学校はなく、学園町というわけでもない。
10:45
東京学芸大学大泉小学校
牧野記念館の昔の航空写真ではこの場所に学校らしきものが写っていた。
調べると1938年、この地に東京府大泉師範学校と付属小学校が開校した。この師範学校は国立に移管され、戦後東京学芸大の創立母体の一つとなった。

なおも南に歩くと森に囲まれた広い敷地の施設があった。
10:56
東京都立石神井学園
明治42年設立、児童福祉法にのっとり、保護者のない児童やその他養護を要する児童が生活する施設らしい。合計児童定数130名、職員定数98名に敷地面積31,481平米だから、その広さ緑の多さが分かる。

かつて練馬はその位置(東京の西北)と広大さから東京の満州と言われたそうだが、今でも緑は多い。牧野の時代には遠く及ばないが。


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2025年6月22日日曜日

藤井寺球場跡地から古市古墳群の応神天皇陵まで

2015年6月15日、日本化学品輸出入協会から大阪でセミナーを頼まれた。

講演は午後1時からだったが、指示どおり前日から泊ったので、午前中そっくり空いた。大阪城を34年ぶりに見物したあと(前のブログ)、まだ時間があったので応神天皇陵のある古市古墳群へ行こうと思った。一人だとフットワークが軽い。

急いで大阪城三の丸から出てJR森ノ宮駅から環状線に乗る。

天王寺から藤井寺に行く近鉄の電車が出ている。

10:34 天王寺(大阪阿部野橋駅)発
 準急だと2つ目、13分
 各駅だと10駅目、20分
で藤井寺駅に着く。大阪中心部から思ったより近い。

藤井寺という名前は長野にいた小学生か中学生のころから知っていた。
大阪で知っていた地名は大阪、堺、藤井寺くらいだったか。
プロ野球近鉄のホームグラウンドであったからだ。
私は西鉄のファンだったからパリーグのほうが詳しかったかもしれない。

藤井寺球場は1928年5月に竣工。1924年(干支は甲子)に阪神が建設した甲子園大運動場が全国中等学校野球大会の舞台として人気を博していたことから、大阪鉄道(今の近鉄)が最初から野球場として作った。
ちなみに、翌1929年に阪神は張り合ったのか、甲子園を大運動場から球場へ改修し、外野に芝を張り、アルプススタンドを増設した。
大鉄がプロ野球団を持っていなかったこともあり戦前は主にアマチュア野球で使われた。
大鉄は関急をへて1944年に近鉄となり、1949年の2リーグ分裂時に自前の球団を創設、藤井寺は1950年から近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)の本拠地となった。

しかしナイター設備がなかったため、デーゲームしかできず、平日は日本生命の野球場(日生球場)を借りた。
長野にいたころから、近鉄が主催する3連戦は日生と藤井寺(西鉄は平和台と小倉)となっていたが、その理由が今わかった。
また収容人数も少なく、1979年、80年と優勝したときも日本シリーズ(相手はともに広島)は南海の大阪球場を借りた。

ナイター照明建設は近隣住民の同意が得られず、やっと設置されたのは1984年だった。
しかし1997年に大阪ドームが完成、本拠地はそちらに移転、藤井寺は二軍の本拠地となった。
さらに2004年近鉄はオリックスに吸収合併され、2005年1月、球場は閉鎖。
2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終えた。

さっそく駅について跡地を見に行った。
藤井寺球場は駅から西に歩いてすぐそば。敷地の北半分は四天王寺学園、南側は大型マンションになっていて、駅に近いほうの道路わきに記念碑が立っていた。

大阪のスーパーを覗きながら、駅のほうに戻り、東へ通り過ぎると葛井寺一番街というアーケード商店街があった。
途中でアーケードの破れ目のようなところがあり、お寺があった。
葛井寺とある。
11:09
葛井寺のフジ
クズイデラがなまって藤井寺になった、なんてことはないだろうな。
などと思ったら、葛井寺はずばりフジイデラと読むらしい。
しかし葛と藤は別の植物である。
やはりなまっているうちに字が変わったのだと思いたくなる。

11:11
なかなか立派なお寺で、国宝(乾漆千手観音坐像)もあったことは後で知った。
しかし、このときはどこにもあるようなお寺より、普段目にすることのない古墳へ急いでいた。

11:17
藤井寺西幼稚園
通りがかりにたまたま目に入った。園内に古墳が見える。
子どもの遊び場になっているところがすごい。

さらに南に歩くと変わった形の建物があった。
11:19
藤井寺市生涯学習センター
アイセルシュラホールは古代の船の形をしている。
船が浮かんでいるように濠を掘ったたのだろう。
船でなく単純に古代の住居を模したなら、苦労して池など掘らずに済んだのに、とは余計なおせっかいである。

アイセルシュラはActivity、Information、Consultation、Exchange、Learningの頭文字を並べたアイセルと古墳時代の巨石運搬用ソリ「修羅」をくっつけたという。
しかしふつうは、どうしてもシュラを使いたければSYULAのなかにSenior, Young, Utopia, Activity, Learning などをいれるべきだし、船でなくてソリならば池を掘る必要もないではないか。
11:20
アイセルシュラホールの前に古市古墳群の全体の絵地図があった。
藤井寺市、羽曳野市にまたがる古墳群である。

東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、応神天皇陵など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基、うち20基が国の史跡)が点在する。

そのうち、27基が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪冢(15基)に指定されている。

天皇陵とは14仲哀、15応神、19允恭、21雄略、22清寧、23顕宗、24仁賢、27安閑 である。

まずはじめに仲哀天皇陵に行こう。
すぐそばをぐるっと回りたいため、来た道を戻った。
先ほど東側を通った藤井寺西幼稚園の西側にまわると正門から園内古墳がよく見えた。
11:24
藤井寺西幼稚園正門
墳丘は鉢塚古墳という。

幼稚園から少し南に歩くと、大きな古墳というより池に出る。
11:27
仲哀天皇陵の西堀
11:30
仲哀天皇陵 西南角
11:32
天皇陵だから幼稚園の遊び場とは違って、きれいに整備され、ナンビトも近づけない。

しかし、現在、ウィキペディアなどでは仲哀天皇陵ではなく「岡ミサンザイ古墳」と呼ぶらしい。地図でも岡ミサンザイ古墳のあとにカッコ内で(伝・仲哀天皇陵)とある。第14代天皇で応神天皇の父とされるが、神話時代で実在性が乏しいため、仲哀天皇陵と呼ばないことには合理性がある。我々が学校で習った仁徳天皇陵も、いまは大仙陵古墳と呼ばれる。

古墳という実在するものと神話という架空の人物を結合させてはいけない、と学会かどこかで決めたのだろうか。まあ、それもわかる。
でも私が学校で教わったころも、実在性はないと承知しながら○○天皇陵としていた。そのほうが分かりやすかったから。

そんなことを思いながら本命の応神天皇陵に急ぐ。
今は何と呼ばれているか知らないが。
11:45
急ぎ足で住宅街を歩いていくと脇に小山と標柱があった。
まさに犬も歩けば棒に当たる。
今となっては写真を見ても分からないので画像検索した。サンド山古墳、
標柱は「應神天皇恵我藻伏岡陵倍塚 宮内庁」とあるらしい。

さらに先を急ぐと国道170号線(大阪外環状線)という広い道路にぶつかり、渡ると応神天皇陵の濠に出た。

11:49
仲哀天皇陵のように水をたたえてはいなかった。戦時中は水田になったかもしれない。
応神天皇陵は、いま誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)というらしい。
11:52
応神天皇陵 正面
鳥居のそばまで行く時間はなし。
講演に遅れるわけにいかないから一目見て反転、駅に急がねばならない。

ここからは藤井寺駅と東の土師ノ里駅がほぼ等距離にある。
土師ノ里のほうへ行けば途中に応神天皇皇后仲姬・仲津山陵など、大きな古墳が途中にある。しかし、道が分からないし、同じ電車なら藤井寺のほうが2分遅く発車するだろう。電車の本数も急行の止まる藤井寺より少ないかもしれない。

大事をとって藤井寺に戻ることにした。しかし意外と遠く、いまグーグル地図を見れば最短で1.7 km 24分だが、当時はスマホはもっておらず、実際歩いたのは来た道を戻る2.2km 32分のコースだった。この日は太陽は出ていなかったが暑く、急ぎ足だったから大汗かいた。

なんとか藤井寺12:23発の電車に乗ったから、ぎりぎりだった。
天王寺で急いで地下鉄に乗り換え、谷町六丁目12:51着。
講演会場の薬業年金会館は地下鉄駅に隣接したビルだったが、主催者はやきもきしたことであろう。

JCTA講演「世界史を変えた化学物質(3 )~フェノールとプラスチック時代の幕開け~」という話をした。

講演が終わるとまだ明るかったが、もう一度古市古墳群に戻ろうというほど熱心でもなく、
新大阪15:43、始発のこだまで読書しながら、19:46東京駅着。

JCTAの講演は今年で3回目であったが、聴衆の評判がいまいちだったのか、これが最後となった。

ちなみに、古市古墳群といっしょに2019年世界遺産となった百舌鳥古墳群は、数としては古市より少なく現存44基(国史跡として19基)。宮内庁によって3基が天皇陵(16仁徳、17履中、18反正)に、2基が陵墓参考地に、18基が陵墓陪冢に治定されている。


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