2026年11月1日日曜日

松本4 街中散歩、外堀の復元、入城料の値上げ

10月17日、松本に行った。

最初は妻と一緒に森泰生・恵美子夫妻のところに遊びに行く予定だったが、それを聞いた息子が自分たちも行きたいと言い人数が増えた。さらにそれを聞いた次女も行きたいと言い出した。彼らは子供のころから森夫妻が大好きなのである。
結局3家族の大部隊となり、次女(と夫と乳幼児2人)一家は前日から松本周辺をレンタカーで周り、息子(と妻と乳児)一家、さらに私の妻は7時ちょうどのあずさ1号、私は甲府城を見たかったので当日朝一番(各駅停車)で先発した。

甲府城を急いで見てから後から来たあずさ1号に乗り、息子たちと合流した。
9:35
塩尻を過ぎて松本が近い。
稲刈りの終わった田んぼの向こうにブドウ畑。
北アルプスは残念ながら雲がかかっている。
しかし雨の多かった9月、10月にしては天気に恵まれた。
9:44
松本駅着
改札口に森夫妻が迎えに来てくれた。
話をしているうちにベビーカーでエレベーターに回った息子一家、別の車両にいた私の妻が合流。人見知りする私の孫をみんなでのぞき込んだりして、久しぶりの再会がすこし落ち着いてから駅を出た。

松本城の向こう、開智学校で娘一家と合流することになっている。
松本は2012年3月の日本生理学会以来。
私は好きな街なので歩きたい。ベビーカーの息子たちは松本市内周遊バス「タウンスニーカー」で行くものと思っていたが、一緒に歩くというのでぶらぶらいくことにした。
駅前広場から14年前に3泊したホテル飯田屋が見えた。

森さんは裏道を選んでくれたので、車も少なくおしゃべりしながら歩いた。
9:56
浄林寺
境内にある瘡守稲荷のほうが有名。庶民は寺本体よりご利益あるものを求める。

9:58
女鳥羽川を渡る。
大手門跡(千歳橋)からお城に向かう東の大名町通りのほうはさぞかし観光客が多いだろうが、こちらはひとがいない。
10:05
西総掘土塁公園
2012年3月に来たとき訪ねたことを話したら寄ってくれた。
私は国宝の天守閣よりこういうものが好きだ。

松本城は本丸と二の丸の間が内堀で、二の丸と三の丸の間が外堀。
家臣たちの屋敷のあった三の丸の外が総掘となる。
総掘を掘った土をかき上げたのがこれらの土塁となった。

ちなみに総掘と外堀は、寺院の総門と山門の関係と似ている。外堀が城を包むのに対し、総掘は町人を含めた町全体(総構え)を包む(小田原、山形、江戸など)。ところが松本は三の丸に町人はおらず、また丸馬出が三の丸の外にあったことから、三の丸までが城内とみなせる。だから本当は内堀外堀を合わせて内堀(実際つながっている)とし、土塁のあった松本城総掘を外堀というべきであろう。
『ビジュアルワイド・日本名城百選』2008年小学館

西の土塁から三の丸に入り、北へ歩くと松本城公園の南の端を通る広い通りに出た。
10:11
通りの向こうは整備中の空地になっている。
昔は二の丸と三の丸の間の外堀だったところだ。
10:13
松本市は西の外堀を復活させるらしい。
戦前から昭和の時代は長屋などが並んでいたという。

調べたら、この堀は職を失った旧松本藩士の生活救済を目的に、明治20年(1887)に長野県から「松本斎産土地株式会社」へ払い下げらたもの。
同社は当初、堀での養魚などを目指していたが、大正期から昭和初期にかけて堀を埋め立て、住宅地(宅地)として一般の人々に貸し出す不動産賃貸事業へ転換した。   

その後、松本市は外堀を復活させるため土地の取得を試みたが、底地は松本斎産土地が所有し、その上の住民が借地権を所有していたため、難航。しかし長年の交渉でついに2024年、取得が完了した。

近年の観光ブームでお城の復元が各地で盛んだ。しかし多くは櫓、門の再建で、このようにいったん市街地になってしまったところに濠を復元するという例はあまりない。その困難さは容易に想像できる。
しかし明治5年に競売にかけられたお城を買い戻し、明治30年代には大きく傾いた天守を大修理した松本市民だからこそ、可能だったのだろう。
松本市「国宝松本城」公式サイト
薄い水色部分はすべて埋め立てられてしまった堀。

前にブログを書いた2019年には鉛が検出されたため水を張った濠は諦め公園化するということだったが、その後、法改正?があったのか、濠も可能になったらしい。堀が復活すると城としてだいぶ立派になる。
10:17
外堀だった場所から二の丸、内堀をへだててみる天守閣

お城から離れもう一つの国宝である開智学校に向かってのろのろ歩く。
国宝も刀剣や骨董より建造物が素人には良い。
10:23
妻のもっとも仲の良い友人だったゾウさん(渡辺真理子さん)の父上の実家。
今はだれも住んでいないように見えた。
父上は確か東工大を出られた企業研究者だった。

10:24
恵美子さんの母校、開智小学校
もともとこの地は市立病院があった。
開智小学校は女鳥羽川沿いにあった。
1963年開智小学校と田町小学校が統合し、1964年にかけて旧開智小学校本館(旧開智学校)を教育資料館としてここに移築、隣に新校舎を建てた。
1960年早生まれの恵美子さんは旧開智学校は隣にあったけれど中で学んだわけではなく、彼女が学んだ新しい小学校も1998年、元の形を残しつつ建て替えられた。
10:30
旧開智学校
明治9年(1876)地元の大工棟梁、立石清重が設計施工した。私が池袋でラテンダンスを習っている立石啓先生は彼の子孫である。今回「立石家伝来の建築図面」が展示された。彼は「家伝来と言っても家にはないんですよね」とおっしゃった。2019年に国宝になったとき、併せてこれらの建築関係資料(文書56点、図面7枚)が国宝の附(つけたり)として指定された。
前日美ヶ原に泊まったという娘と孫が散歩していた。
隣接地が市立図書館だからそこに車を止めればいい、と森さんに聞いていた。

総勢7人プラス乳幼児3人であるが、妻がまとめてチケットを買いに行った。自治体運営の資料館のチケットなど普通値上がりするものではないと思うのだが、14年前は300円くらいだったのが700円になっていてびっくり。私と森さんは入らず藤棚の下でおしゃべりして待つことにした。

彼は京大を定年退官した後、中学の同級生だった恵美子さんと高校時代まで過ごした松本にひっこんだ。友人と会社を作ったが特に仕事はなく、毎日散歩しながら今は北欧の小説を図書館で借りてきて読んでいるという。こちらは北欧小説など全く知らないので、長尾拓先生が亡くなったことやイオンチャネル関連の共通の友人の消息を語ったり、座りながら見える美ヶ原の山々や常念岳などの話を聞いたりした。

そうこうするうちにみんな出てきたので今回の目的だった森家訪問に向かった。
再び市立開智小学校の前を通る。
11:12
開智小学校の木立
薪を背負った二宮尊徳像があった。私の子供のころはまだこういう姿を想像できたが(もちろん農作業は手伝うが勉強する子などいない。歩きながら漫画を読むくらい)、今の子供にはどう映るのだろう。その子供たちが教員になったとき、どう説明するのだろう。

・・・
森家は平屋の、使いやすさとセンスの良さを両立させた家だった。
なんといっても開智学校(隣が市立図書館)も松本城も落ち着いた道をゆったり歩いて数分の距離。

松本は文化度の高い土地で、おしゃれなレストランがいっぱいあるのだが、乳幼児のことを考えて美味しいとんかつ屋の焼き魚なども加えた豪華弁当をとって、ごちそうしてくれた。
13:29
食後、散歩に出発した。
2歳の娘は玄関わきの姫リンゴを一つもいでもらって嬉しそうに握っていた。

すぐ二軒さきの道路(わたる手前の角が浅井洌邸跡)を渡ると北馬場柳の井戸、葵の井戸があるからもう城内である。
13:35
二の丸裏御門橋から東をみる
13:36
二の丸裏御門橋から西を見る
渡れば二の丸だが、松本城は南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲む。お城の北側は二の丸がなく、また三の丸も薄い。つまり、北から入ると、本丸が近く、この濠は本丸のすぐ北の濠でもある。
13:37
二の丸御殿の跡のようだ。
「かまど」など各部屋の名を書いた石がおかれている。
13:43
二の丸に立って、内堀を挟んで本丸への正面入り口をみる。
桝形になっていて、高麗門の奥の黒門はみえない。
高麗門の向こうに天守が見える。
13:44
ここで長野県人ならだれもが知っている牛乳パンの話になった。
散歩がてらに、彼らが子供のころからあるパン屋さんに行くことにした。
13:59
松本山賊焼き応援団(居酒屋)、どぶろく醸造所、信濃毎日新聞専売所、東門磯村(和菓子)など古い店が並ぶ。右手側は三代沢酒店。すぐ先が東門馬出跡であるが、その手前で右折、みどり町という狭い石畳の通りに入った。
14:01
小松パン店。
牛乳パンは売り切れだった。外観は古いが中に入ると棚に今どきのパンが並んでいた。
彼らには当たり前だから何も説明がなかったが、帰宅後調べたら大正11年創業、当時はハイカラだっただろう。
14:05
車の来ない古い通りを歩いていく。
とくに観光用の保存地区ということもないようだが、懐かしい町並みが残っている。
14:06
なわて通り商店街
女鳥羽川と総掘りにはさまれた土手のようなところが道になった。
2012年、小雨の朝、ここを歩いた。
だいぶ観光地化された。
14:07

女鳥羽川を渡り、左岸の中町通を西にあるいた。
ここは残っているというより景観に配慮して和風にした建物が並ぶ観光道路と化している。

大手門から南下している広い道路(本町通り)にぶつかり、北上した。
千歳橋手前のパントリーマルナカも老舗だが牛乳パンは売り切れていた。

千歳橋を渡ると、大手門桝形口跡。右はなわて通り入口。
大名小路(大名町通り)を北上、すぐ松本市博物館があった。
真新しい。二の丸にあったものが2023年新築移転してきた。
トイレを借りた。

松本城に戻ってきた。
以前は建物内に入らなければ本丸内は自由に歩けたのだが、いまは内堀を本丸にわたった高麗門、黒門の枡形の中に受付があり、ただでは入れない。
14:38
入場料は1, 300円もしてびっくり。
調べたら、2019年まで410円、2020年から700円、そして2025年4月から現在の1,300円となった(Web購入は1200円)。
松本市も城の復元に金をかけるがしっかりその予算の心配もしているようだ。

当初、家族はみんな中に入るのかな? 入っても面白くないと思うが・・・、乳幼児3人、ベビーカー2台、中の階段は狭く急で、子供を抱いて入るのは大変だろう。まあ、第一は私が全員分払うとして、もったいないということだった。森夫妻、私、たぶん息子夫婦は入っているから感動することもないし・・と思っていた。
ところが現場に来たら待ち時間が40分とあり、もう時間的に無理だった。
というより、最初から登城は計画に入っていなかったようだ。

すなわち今夜は湯田中温泉で泊まる。
息子一家は松本駅まで歩いて特急しなので長野にいき、そこから長野電鉄特急で1時間以上はかかる。もう解散の時間だった。
14:39
ここでベビーカーを押す息子一家といったん別れた。
14:47
松本神社
森さんもここの氏子であり、先日祭礼をやったとか。

森夫妻は市立開智小学校の前まで見送ってくれた。

私たち夫婦は娘夫婦の車に乗せてもらう。
旧開智学校の裏にある図書館の駐車場に行った。
15:07
松本市立図書館
おむつを替えるのに娘たちが入っていったので私も中を見物した。

中央自動車道に乗って一路湯田中へ。
大きな車を借りたが大人より場所を取るチャイルドシートを2つも入れ、荷物も多く、3列目に入れてもらった妻のところは狭そう。
16:00
途中、麻績村(東筑摩郡)あたりに来ると両側の山がおかしい。見れば木が立ち枯れていた。マツクイムシにより赤松が枯れているのだ。
令和7年度、長野県は全国で2番目に被害が大きい。松本地域(麻績村、筑北村、塩尻市など)は特に深刻なようだ。

突然、小学校の遠足で行った赤松の巨木・飯森松(国天然記念物)のことを思い出した。昭和40年代初めに枯れたのはマツクイムシではなく、中野市の各小学校がみんなで遠足に行き、根元でおにぎりを食べたり、地面を踏み固めてしまったからではないか、と言う人もいる。

私は長野県18年→東京6年→埼玉32年→東京14年、ときた。
終の棲家は関東平野で記憶の密度が一番濃い上野本郷に歩ける場所を探した。
しかし自分の根っこは長野県であり、圧倒的に一番好きだ。

森夫妻は長野県に18年すみ、47年離れた後、長野県に戻った。
歴史を含め高い文化度を保ち、自然と都会の両方を備えた松本は長野県どころか日本で見てもトップクラスであろう。さらに家は松本城のすぐ隣、開智学校、図書館も至近とは、さすがである。


2026年10月29日木曜日

甲府城の縄張りと曲輪名。その巨大さに潜む山梨県の特質

10月17日、土曜、甲府に来た。

家族と松本に旅行するにあたり、甲府城を見ようと一人先発して途中下車した。

朝一番の中央本線だったが各駅停車だったため、あとから家族の乗るあずさが来るまであまり時間がない。

7:43
甲府駅周辺
左が南、右が北。
駅のすぐ南に甲府城がある。

この城は不当なほど知名度が低い。世界遺産の姫路を別格としても、例えば国宝になっている松本や彦根、犬山、松江、全国的大都市のシンボルとなっている大阪、名古屋、金沢、広島、桜の名所の弘前、高遠、小田原、歴史に出てくる安土、熊本、会津若松、岐阜などと比べ、(山梨県民以外には)あまりに地味だ。
そこにいってみる。
7:50
左:甲府駅、右:甲府城
車窓から見える石垣はこれである。
7:50
平山城である。登っていく。
このあたりは甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼(武田信義の嫡男)の居館があり、この山は一条小山と呼ばれた。
そこから甲府城は舞鶴城、一条小山城とも呼ばれる。

ちなみに、板垣郷というと武田信玄の四天王の一人、板垣信方を思い出す。
百円札になった土佐の板垣退助はその子孫といわれる。
7:51
いま舞鶴城公園として残っているのは本丸と二の丸などの一部。
両者は堀で分かれているわけではない。
7:51
左側:稲荷曲輪
2004年に復元された稲荷櫓が見えたが、時間もないのでそちらに行かず、右の坂を上がっていく。
7:53
北の門から上がってきて曲がったところに高い石垣が見えるのは、丸亀城を思い出させる。
かなり立派だ。
7:54
電波塔の左にうっすらと富士が見えた。
400年前、この城の住人達も見ていたものだ。
7:55
天守曲輪から見上げる石垣

これほど立派な城で日本百名城にも選ばれている甲府城が有名でないのは、戦国、江戸時代の物語に登場していないため、ドラマ、小説の舞台にならなかったからである。合戦にも出てこないし江戸期に有名な武将が藩主となっていたわけではない。

すなわち、1582年3月の武田滅亡に続く6月の本能寺の変のあと、武田領は空白地帯となり、天正壬午の乱が勃発、甲斐は徳川氏と後北条氏が争い、家康が押さえた。家康が東海甲信から関東に移された後、秀吉系の加藤光泰、続いて浅野長政、幸長親子によってここに築城された。関東に接することから家康の抑えの城という意味があった。

関ケ原のあと、浅野氏が紀伊和歌山に転封。家康の支配となる(城代平岩親吉)。
今度は逆に関東を守る城となった。
その後は1704年から24年まで綱吉の側用人であった柳沢吉保とその子の吉里が甲府藩主となっただけで残りの時代は徳川一門もしくは幕府直轄の城となった。
7:56
鉄(くろがね)門
この上が本丸である。
入るとオベリスクのようなお城に似合わない塔があった。
7:56
謝恩碑
元帥公爵山県有朋 とある。
西面に由来が書いてあり、その口語訳が上がる前の東面にある。
明治44年、度重なる水害に苦しんでいた山梨県民のために天皇が御料林を下賜したことに感謝して建てたという。
その結果山梨の県有林は広い。絶対面積では北海道や東北、信越の広大県には劣るが、比率は県全土の35%にのぼり、全国的に見て圧倒的に高い。

謝恩碑が立つ地面はお城で一番高い。
7:57
西方
南アルプスの山は分からないから見てもつまらない。
7:58
富士が見える南東方向
7:59
本丸の東に天守台があった。

幕末、鳥羽伏見で敗れた新選組の近藤勇が江戸に帰ってきて、勝海舟から軍資金をもらい、甲陽鎮撫隊を結成、100~200人で甲府城を目指した。しかし故郷に錦を飾るように甲州街道日野宿などで宴会を重ね進軍は遅れた。そして早くに甲府城を抑えた板垣退助らの西軍により、近藤らは甲府盆地を見下ろせる勝沼で敗れた。
慶喜が恭順、勝海舟も西軍との和解を目指していた幕府崩壊の時期、近藤に甲斐一国100万石を自由にしてよい、といったのは天正壬午の乱と同じく甲斐が幕府直轄地で空白地帯となったことによる。
8:01
黒門からおりる。
黒門の外側すなわち本丸の下は、内堀の内側だが、本丸ではなく、また名前が天守曲輪というのがややこしい。

他の平城は堀などで区切られた曲輪を本丸、二の丸、三の丸などという。
しかし平山城の甲府城は高知、姫路、延岡などと同じように一つの山、すなわち堀の内側すなわち内城部分を石垣と門で区切り、できた平坦地(曲輪)に、それぞれ名前がついていて、それぞれは堀で分かれていない。
その各曲輪の範囲がネットではなかなかはっきりしなかったのだが、山梨県が策定した222ページにわたる「史跡甲府城跡整備基本計画」(2022)にあった。
https://www.pref.yamanashi.jp/documents/103741/shisekikofujo_seibikeikaku2.pdf

一番上:本丸
その下:天守曲輪、人質曲輪、帯曲輪
その下:二の丸(北側を山の井曲輪、南側を台所曲輪ともいう)、鍛冶曲輪、数寄屋曲輪、稲荷曲輪
その下:清水曲輪(甲府駅、その北口)、屋形曲輪(ヨドバシカメラなど)、楽屋曲輪(県庁)
つまり、本丸、二の丸は、空間的(面積、位置)意味では他の曲輪と対等である。

内城だけでこれだけの巨城はあまりない。
さすが、徳川直轄の城である。
グーグル鳥観図

8:03
本丸から天守曲輪を経て鍛冶曲輪に降りて振り返る。
左は恩賜林記念館
8:06
鍛冶曲輪の南の堀だけが残存する。

8:06
右の上が二の丸
左下に堀
正面は道路を隔てて山梨県庁

鍛冶曲輪門から出た。
大きな車道(県道31号、舞鶴通り)を横切って県庁の敷地(かつての楽屋曲輪)に入った。
8:09
山梨県庁別館・かつての本庁舎である。
1930年竣工

ところで明治から戦前にかけて山梨出身の有名人は、隣国の長野県と比べて著しく少ないと思っていた。明治の官僚、軍人、科学者、文化人など本を読んでいてもほとんど出てこない。人口が少ないというのは理由にならないほど差がある。
その時はそう思っただけで理由は考えなかったのだが、今回甲府城と県庁を見て、思い出し、理由はすぐ分かった。

信州が11もの小藩が分立し、その藩校で教育された士族が多数いたのに対し、甲斐はこの巨大な城に表れるように大部分が天領すなわち徳川直轄地で、武士の籍を持つのは甲府城や、石和などの陣屋に配置された少数の幕臣のみだった。
今調べたら、幕末の甲斐全人口 29万人にたいし武士は577人、わずか0.2%である。全国平均の武士は5~6%というから、山梨県の士族の圧倒的少なさが分かる。明治初期の士族は田畑をもたないから立身出世に真剣だった。平民も周りの士族に影響される。

1899年(明治32年)に浅井洌が作詞した県歌「信濃の国」の6番(最後)で「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と励まし、大正3年発表の「ふるさと」(信州中野出身の高野辰之)は「ウサギ追いし~」で始まるが最後の3番では「こころざしを果たして~いつの日にか帰らん」と故郷に錦を飾ることを夢見た。

鉄道も碓井トンネルを通って長野駅まで通じたのが明治21年(1888)、一方甲府まで鉄道が入ったのが明治36年(1903)。遅れたのは幕府直轄地で有力者がおらず優先順位が低かったからではないか? 似たような例は鹿児島と宮崎(大サツマvs小藩分立)でも見られる。

自然環境の非常に似ている長野県と山梨県の大きな差は、信州では考えられない、この巨大な甲府城の存在である。

裏に回るとまた歴史的建造物があった。
8:11
山梨県県会議事堂
こちらも1930年竣工。
県庁一帯は公園化されているからもちろん通り抜けできる。
県庁の西側の駅前通りに出た。
8:12
駅前通り(県道6号)
看板に「ほうとう」の文字や武田菱が見える。
この通りは二の丸の西の堀を埋め立てたもの。

内城部分を鉄道や道路が分断するのは長岡などを思わせる。旧幕時代に冷淡な薩長政権だからとも思われるが、巨城であったため分断されても駅の両側に公園用地が残り、市民の憩いの場になった。
8:15
駅南口の武田信玄公像
彼は駅から2キロほど北方の躑躅が崎の館にいた。当時、このあたりは武田城下町の南の端であった。現在の甲府は江戸時代の甲府城を中心に発展したこともあり、南口を正面とすることは無理がないが、信玄を南口に、しかも甲府城に向かって設置するというのは違和感がある。
江戸時代の甲府城にゆかりのある人物がいなかったことから彼を持ってきたのだろうが、無理に建てることもなかったのではないか?

ちなみに武者行列で有名な信玄公まつりも、彼とは関係ない甲府城跡の舞鶴城公園で行われる。

ところで、さきほどの御料林が下賜されて山梨県の県有林比率が高いと書いたが、もとはと言えば山梨県の山林をことごとく国が取り上げてしまったことによる。これも幕府直轄地であったことが関係しているだろう。

安倍川餅に「桔梗信玄餅」「信玄餅」と名付け観光土産物とし、郷土食のほうとうを信玄の陣中食として売り出すなど、県民も全国民も山梨と言えば武田信玄という一色である。しかし後世の山梨に彼の影響などほとんどない。治水で取り上げられる信玄堤などの類は他の県にもある。今の山梨県は戦国時代よりも甲府城に表される幕府直轄時代の影響を強く受けている。

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