2023年12月10日日曜日

臥竜公園、須坂高校と園芸高校

12月2日(土曜日)、信州中野の実家に帰る途中、長野から電車でちょうど中間の須坂で途中下車した。すぐ隣の市なのに通過するばかりで、歩くのは48年ぶり。

蔵造りの家が並ぶ中央通りを歩き、旧上高井郡役所に入り、さらにすぐ南の奥田神社、須坂藩の陣屋跡を訪ねた。
9:11に須坂駅から歩き始め、泉寿院を出たのが10:02
信州中野への電車が10:52発だからあと50分ある。
駅に戻る途中、遠回りだが寄りたいところがあった。
近年須坂には、新しく観光客相手の、かつての製糸業の繁栄にちなむ小さな博物館などできていたが、新しいものを見るより懐かしいものを見たい年齢になっている。
臥竜公園。
高校を卒業、上京して以来、須坂は全く用がなかったが、一度だけ35年前にここへ来た。
1988年5月2日、帰省しているとき1才9か月の長女を連れて臥竜公園の動物園にきた。

泉寿院から800メートル、11分。
10:14
臥竜公園入口
はて、池に橋などかかっていたっけ?

35年前の写真が1枚ある。
1988₋05₋02
桜並木を南のほうから見た写真。
何を見たか全く記憶にないのだが確かに橋はある。
10:15
入り口で覗いただけで良く整備されていることが分かる。
須坂市民の憩いの場というが、池もあり山もあり動物園もあって、なるほど、いい公園だ。

昭和6年の築造だから老舗の公園である。明治神宮や日比谷公園、小諸懐古園などを設計した日本初の林学博士、東京帝大教授の本多静六(1866~1952)の作である。昭和初頭の世界恐慌で須坂の製糸工場で働いていた多くのものが失業した。その失業者対策でもあったという。

ここには1988年以前にも、たぶん中学生のころ2,3回来ている。

はっきりしているのは、中学1年生の時。
中学では2年、3年は剣道部だったが、1年のときだけ美術部だった。日曜だったのだろう、クラブのみんなと(たぶん13キロ離れた中野から自転車で)写生に来た。私はフラミンゴを描いたことを覚えている。
顧問は美術の教諭の山岸逞(琢磨?)先生だった。私の絵を風景画でも人物画でも気に入ってくれて恥ずかしくなるほど褒めてくれた。授業では小学校から高校まで常に水彩だったが、たった一枚だけの油彩の経験は、このクラブに入っていたことによる。

池の東にある臥竜山は平地に突然盛り上がっている小山で、松代の山々と似ている。
実際、須坂も松代も北西に開いた扇状地で、大本営を松代に移すとき、鎌田山(須坂陣屋の裏)には送信施設が計画された。戦争が長引いていたら公園をつぶし臥竜山にも防空壕が掘られ首都機能の一部が入っただろう。

臥竜山は岩山で、その記憶は、池から上がっていく坂道の崖で石を拾ったこと。
チャートに似た褐色の堆積岩が片状に細かくなっていた。
それが写生のときだったのか、別のときだったのか記憶がない。

公園入口に新しい建物があった。
10:16
須坂市博物館
近年は地方の小さな自治体にこういう博物館を作ろうという発想がある。
勝善寺本堂に使用されていた鬼瓦というが、よく知らない。

私はどこへ行っても現地に来たというだけで、ちらりと見ただけで満足する。
須坂で覚えている数少ない場所をさらに訪ねるため、臥竜公園には入らず、足を急いだ。
10:23
須坂高校
校内は何にも覚えていないが、場所だけは覚えていた。
たぶん一度だけ、高校のとき文化祭に来たのだろう。
りんどう祭という優しい名前だった。校章がリンドウの花である。(長野高校は金鵄の校章で金鵄祭といった)。なぜリンドウか? 菅平に咲くミヤマリンドウというが、リンドウは漢字で竜胆とかく。近くの臥竜山との関連もあるだろう。実際、一帯は臥竜が丘とも呼ばれ、初代岩崎長思校長が「起てよ臥龍の健児」と生徒に熱く語りかけ、校歌も「雄志臥龍に よそへつつ」と歌っている。

1923年(大正12) 長野県上高井中学校として開校。
1925年(大正14) 長野県須坂中学校に改称。
というから
女子の須坂東高校が
1918年(大正7年)町立須坂実科高等女学校として創立。
1922年長野県須坂高等女学校と改称
より少し遅い。

戦後の1948年、須坂西高と改称したのは須坂東と同時である。
しかし1965年、須坂高校と改称した。
(ちなみに長野北高が長野高校と改称したのは1957年)

北信地方では長野高校に次ぐ進学校で、とくに信州大学と明治大学は全国的にみても多数の合格者を出していた。中学の同級生でも何人か進学した。高見沢(秀)、竹内、藤川、丸谷(女)などを思い出す。

私が高校に入学した2年後の1974年、長野県は12学区に分かれた。中野や須坂は長野市とは別学区となり、須坂高校はこの地域で一番の進学校となった。それまで中野や須坂から長野高校を経て東大に進学していたものは多く、地域人口をみても、新たな須坂高校から東大に数人から10人近くは合格すると期待された。しかしふたを開けると、せいぜい一人か二人しか入らなかった。 
(一方で長野高校も、12学区になる直前の3年間は毎年35名程度東大に行っていたが、学区制を敷いたら10人前後に減ってしまった)
須坂高校に期待された躍進がなかったということから、東大への進学は基礎学力というより、クラブの先輩とか同級生とか身近に何人もいるという雰囲気こそ大事であることがわかる。

・・・・
須坂高校は姿の良い正門からの写真を1枚だけとって次の記憶の場所に向かった。

5分ほど駅のほうへ歩いていくと住宅地の中に広い畑にぶつかった。
10:28
農場内に止まっている作業用車両に須坂園芸高校と書いてある。
目的地である。

中学2年の秋、文化祭(園芸祭)にきた。
なぜ2年生と断定できるかというと、その年、下手投げの牧野投手を擁した野球部が甲子園に初出場し(1回戦で平安に0-13で大敗)、今調べたらそれが1970年(昭和45)だったからだ。教室の一つに優勝旗(たぶん長野大会)と甲子園の土が展示されていた。土はワイングラスだったか、県予選の優勝カップだったか、何かの器に入っていた。いつも畑などで見ている土よりも砂に近かったことを覚えている。

中学2年と言えば、母の実家の柳沢へ行くとき以外、それまで電車に乗った経験は遠足のときくらいだった。それなのになぜわざわざ来たかというと、甲子園の土を見に来たわけではなく、植木の苗やサボテンの展示販売があると聞いたからである。

子どものころ、趣味というか集めていたものは、最初は水晶やメノウなどの石。つぎに錦鯉や金魚、サボテン。中学に入ると植木や盆栽に興味がわき、畑の一角をもらい山から取ってきた苗を植え、NHK「趣味の園芸」を見たり、すべての苗について根の形までノートに記録していた。中野の商店街が大売り出しをする7月の祇園祭、11月の恵比寿講の植木市を楽しみにし、人の家に行くと必ず盆栽や草花などの鉢植えに目が行く中学生だった。だから須坂園芸の文化祭はとても魅力あるものに思えた。

また専業農家の長男だったから、当時は何の疑問もなく須坂園芸高校に進学するものと思っていた。
10:29
ビニールハウスの西に青い芽が出た麦畑、その向こうにブドウが栽培されていた。
定年退職した時こういうところでアルバイトできれば良かったのだが。

1912年(明治45年)上高井郡立乙種農学校として開校。
須坂高校、須坂東高校より創立は古い。
1920年(大正9年)上高井農学校。
1927年(昭和2年)上高井蚕業学校に改称。
1940年(昭和15年)上高井農学校。
1942年(昭和17年)県立に移管。
1948年(昭和23年)長野県須坂農業高校。
1958年 須坂園芸高校と改称

農場のまわりをぐるっと回って正門前に来た。
10:32
須坂創成高校とある。
農業以外の学科を増やして校名変更したのかな?
学科が反対側の壁に書いてあった。
園芸農学科、食品化学科、環境造園科、創造工学科、商業科と5つある。
ん?商業科?

帰宅して調べてたら、2015年に須坂商業と合併して新校名になったらしい。
ただでさえ少子化で中学卒業者が減っているのに、職業系の高校は人気がない。

中野でも中野実業高校(1906年、下高井郡立乙種農蚕学校として創立)と中野高校(1911年創立、1923年下高井郡立中野高等女学校)が知らぬ間に(2007年)統合され、中野立志舘という藩校のような名前になった。
(ちなみに飯山ではかつて旧制中学と旧制女学校であった飯山北と飯山南が2014年統合し、飯山高校になっている)
10:37
駅のそばに来ると隣が倉庫になっている豪邸あり。
製糸業に関連していた家だろうか?

駅に着いて、電車発車まで時間があったので駅前の複合ビル(シルキーという)に入ってみた。そもそも電車の本数も利用者も少ないから、駅周辺に人がいない。駅改札や駅前デッキと同じレベルの2階に入ると観光案内所や市の出張所、ケーブルテレビ会社、プロ野球選手のサイン入りユニフォームを展示していた市民ギャラリーなどもあったが、土曜というのに誰も客がいなかった。観光案内所は4人の職員がいて、観光パンフレットを見ていたら声をかけられた。そこで須坂の語源は墨坂ですか?と伺ったら、4人のうち2人がかりで親切に調べてくださった。
10:39
シルキーから須坂駅の車両基地を見る。
須坂から若穂、松代を経て屋代にいたる長野電鉄屋代線は2012年廃止になった。

1975年に通っていた須坂自動車学校、1987年8月13日に小田切健自さんを訪ねた農村工業研究所は行く時間がなかった。
それでも、何十年にもわたりいつも素通りしていた須坂に立ち寄ったことは良かった。
まったく用がなくとも行ってみるものだと思った。

再び須坂園芸高校のことを思う。
私は農家の長男だったし、中学を卒業して高校に行くなら、漠然とこの高校だと思っていた。ところが勉強ができたため、たまたま担任がもったいないと親に話して、須坂よりずっと遠く離れた長野高校に進んだ。そこはほぼ全員が大学に進学する高校で、回りに流されるように東京に出た。

須坂自動車学校の卒業(路上)試験の直前の仕上げ教習は、最後の2コマを使って松代までの往復ドライブであった。松代真田宝物館の駐車場だったか、休憩中に助手席の教官が私の進学先を聞いて、もう戻ってこないな、親父さんは困るかもしれないな、と言われた。実際そうなった。

父は若い時は好きなことをすればいいと言ったし、跡を継いで百姓をするとしても農業高校や農業大学、農学部などで専門教育は受けずに後で父親に教わればいいと自分に言い聞かせた。そして普通科高校に進み、大学教養課程が終わると薬学部を選んでしまった。

もし、中学3年のときの、あの偶然がなく須坂園芸に進学していたら、全く違った人生になっていた。土日祝日もなく毎日畑に出ている生活だっただろう。そして恐らく、自分より勉強できなかった同級生が東京の大学に行って、私の知らない世界を経験している様子をみれば、きっと羨み、田んぼや畑で(とくに百姓仕事がつらいと思った日など)私は悔しく思ったに違いない。そういう人生は自分にも周囲にも良くない。だから長野、東京に進学したのは間違っていなかったと思う。

しかしその偶然が、4つ下の弟の人生まで変えてしまうとは、高校進学、大学進学のときの私は気づかなかった。彼はちゃんと須坂高校に入ったし性格も良かったからその後の選択肢は広かったはずだが、私の代わりに実家を継いだ。
11:10
信州中野行の電車はガラガラ。
高校時代の車内広告はどうだっただろうな、
と見ていたら老人の多い田舎らしく「フレイル川柳・標語」が出ていた。
テレビの体操 やればいいのに 寝て見てる
自分のことのようで苦笑いした。
 
この日、実家を訪ねたのは母の見舞だった。
フレイル状態を何十年も前に通り越して寝たきりになっている。


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2023年12月7日木曜日

須坂藩、陣屋跡と堀家、奥田神社

12月2日、信州中野の実家に帰る途中、長野から電車でちょうど中間の須坂で途中下車した。すぐ隣の市なのに通過するばかりで、歩くのは48年ぶり。

蔵造りの家が並ぶ中央通りを歩き、旧上高井郡役所に入り、東隣の須坂東高校も正門からみた。
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須坂東高校から旧郡役所のほうに少し戻り南に行くと、市立須坂図書館、須坂小学校。
小学校の向かいが常盤中学校、市民体育館。
駅から1.3キロも離れ、鎌田山が迫り、市街地のはずれなのに須坂の中心地のようだ。昔は駅も線路も町はずれにつくったから駅から離れているのは不思議でないとはいえ、郡役所や上高井教育会館まで集中している。
なぜか?

このあたりは須坂藩の陣屋があったところで、周りには家臣たちの屋敷地もあったことだろう。それが明治後に公共施設が多く建てられた理由かと思われる。
大笹街道と谷街道も近くで交わり、鉄道がなかった時代は交通の要衝だったと言える。
9:45
須坂小学校北東の隅
陣屋時代の石垣が残る。

須坂藩は堀直重に始まる。1600年の関ヶ原の軍功で下総国香取郡に2千石の知行を与えられ、同年信濃高井郡(須坂)において6千石加増された。さらに大坂の陣の働きにより4千石加増され、1615年、1万2千石の大名となった。

もともと城のない土地の小藩であり、江戸時代になっては築城する理由もなく 、政庁は陣屋であった。

第2代堀直升は下総国矢作2千石を弟3人に分知したため、須坂藩は1万石となった。そしてそのまま第14代堀直明で明治を迎えた。
9:46
須坂小学校の北辺
このあたりの石垣が古い。
飯山や松代と違い城がなかったから須坂は城下町という気がしない。陣屋町という言葉はあることはあるが、少なくとも近隣の中野の子供たちは陣屋も須坂藩も殿様も意識、話題になかった。
9:47
石垣の下は狭くも堀があったかどうか、せいぜい水路程度だろう。
石垣の上は須坂小学校の体育館かと思ったが、地図を見れば須坂市剣道場・空手道場とある。

一角を北から西のほうに回り込むと神社があった。
9:48
奥田神社
先に述べた初代藩主・堀直重の父は、堀直政。
堀直政は、もと奥田直政といった。堀秀政のいとこで彼の家老となり支えた。このとき堀姓を与えられたのだが、明治になって堀家は奥田姓に戻った。
つまり、奥田神社は明治になって藩主家の祖先を祀るために建てられた。

(ちなみに、堀秀政は信長の家臣だったが、本能寺のあと秀吉につき、柴田勝家、丹羽長秀の遺領の一部、越前北ノ庄18万石を与えられ、その嫡男秀治は、上杉会津転封のあとの越後高田30万石(45万石とも)に封ぜられた。しかしその嫡男忠俊の代にお家騒動で改易された。いっぽう、家老として支えた堀直政の三男・直寄は越後坂戸5万石(のち飯山、長岡、村上に転封)、四男・直之は越後椎谷で9500石、五男・直重は須坂藩祖となり、直政の子孫は主家よりも栄えた)
9:49
説明を読めば陣屋は須坂東高校の前の通りまで占めていたようだ。
そのあたりまで図書館など公共施設が集まっている理由が分かる。
むこうに旧須坂町役場跡地という碑がみえた。
9:49
祭神は藩祖・直重かと思ったら、二柱祀っていて、幕末の13代藩主・堀直虎(1836₋1868)も祭神だった。
直虎は藩政を改革、疲弊した領内に仁政を施したという。洋学を学び甲冑弓槍を売って軍制を洋式に変えた。32歳の若さで幕府の若年寄兼外国惣奉行の要職に就く。将軍慶喜に尊王恭順を進言するも容れられず、江戸城内で自刃した。その遺徳をしのび明治13年に神社は建立されたようだ。
須坂藩主は代々聡明で、文芸にも秀でたことで知られる。

奥田神社社殿の南にもう一棟、社殿が並んでいる。
9:50
日支事変記念と書いてあった。
(ところでシナと入れても支那と変換されない。こういう規制の意義が分からない)
9:51
隣の社殿は上高井招魂社のようだ。
戊辰戦争で戦死した7名の霊を祭るため、旧藩主奥田直明氏に具申、旧藩士から浄財を集め、ここ藩主邸跡に拝殿を建てた。その後、西南の役、日清日露、太平洋線戦争まで戦死者を祀っている。
写真の奥に、復元された鐘楼が見える。

ところで、昭和48年11月4日、田中角栄首相が須坂に来て、ここ奥田神社を参拝、境内で演説したという。
「須坂市民の皆様。私と須坂市民の方々はいわば親戚なのですよ!!」
田中の地元、新潟県刈羽郡は須坂藩祖・直重の兄、堀直之の知行地である(のち椎谷藩を立藩)。また彼の目白御殿は須坂藩の江戸藩邸であったという(未確認。幕末は志摩鳥羽藩の下屋敷だったが・・・)。角さん、(原稿は秘書が作ったかもしれないが)さすが人の心をつかむ天才である。ファンになった須坂市民は多かっただろう。
9:53
奥田神社の向かいは中央公民館だが、門柱に味がある。

奥田神社、招魂社の南は須坂小学校の西口だった。
9:54
神社の境内と一体となったような雑然とした感じが良い。
昨今、都内の小学校はフェンスで囲まれているが、ここは昔のようにそのまま入って行ける。歌碑のようなものがあった。
9:55
須坂小学校の校歌かと思って近づくと県歌「信濃の国」だった。
私の子供のころ、学校で君が代を歌っているかどうか全国調査があり、結果が新聞に載った。3府県を除くすべての都道府県がほぼ100%歌っているのに対し、沖縄県と蜷川革新知事の京都、それから長野県だけはゼロ%だった。長野県は左翼的な思想はなく、ただ、代わりに大好きな信濃の国を歌っていたのである。

奥田神社の南に3代藩主・堀直輝の菩提寺だった寿泉院がある。
(4代藩主堀直佑は1キロほど離れた臥龍山の興国寺を堀家の菩提寺にした)
9:58
寿泉院。小さなお寺である。
説明板を読めば、ここの地番が須坂1番地で、旧須坂村内の地番はここが起点となったという。本当かなと調べたら、いまここは須坂上町4番地だった。

さして広くない境内に石碑があった。
9:57
福島正則公遺蹟碑
福島正則は、加藤清正とともに石田三成が嫌いということで家康の味方をして、戦後安芸広島49万石の大名となった。しかし家康から見たら豊臣恩顧の大名は目障り。難癖をつけて信州川中島4万石に改易してしまった。正則がこの地に流され、屋敷ができるまでこの寿泉院に仮寓していたらしい。ここから北東の高井野(高山村)に住んでからもたびたび来遊したという。碑は明治期に建てられた。

9:58
南のほうに何か堂があったが、近づかず。
墓地のある裏に回る。
10:00
墓地の奥、正面が堀直輝公霊廟
うしろは鎌田山。
有事のときはこの小山にこもるため、陣屋を麓に置いたのだろう。
広域農道「北信濃くだもの街道」は、この山をトンネルでくぐっている。
何度もくぐって菅平を経て東京に向かったが、すぐ近くに須坂藩の陣屋があったとは全く知らなかった。

奥田神社(赤印)と鎌田山

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20231205 須坂東高校と旧上高井郡役所

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2023年12月5日火曜日

須坂東高校と旧上高井郡役所

12月2日、信州中野の実家に帰る途中、長野からちょうど中間の須坂で途中下車した。

須坂は小布施を挟んで中野の隣の市。
長野へ行くとき、東京へ行くときは必ず通過するのだが、つねに素通りしていた。街の記憶もない。

ただし高校3年の冬、車の免許を取るのに地元の中野でなく、須坂自動車学校に通った。高校の最後は出席日が少なくなったので定期券を買わず、無料送迎バスを通学にも使おうという魂胆で、学科の講義中は受験勉強の内職をしていた。

しかし、その後は小布施と違い、何十年もまったく来ることがなかった。
このまま隣の市を歩かずに終わるのはまずいと思った。
2023₋12₋02 9:11
長野電鉄須坂駅は、いまも毎年、何回も通過し車窓からホームは見ているが、降りるのは1975年以来。
駅舎はまさかの橋上駅だった。竣工したのは1975年12月というから、まさに高校卒業、上京した年の暮れにガラリと変わったようだ。
9:11
駅前は道路が広くビルは高い。あまりの変わりように50年近く前の景色が思い出せない。
以前は道が狭く、蔵のある古い商家が多かった。

駅前から東に歩き始めるとわずかに上っている。面白いことに、善光寺平は千曲川の東側に扇状地が並び、松代、須坂、小布施、中野、木島平はそれらの上に発達した。

やがて、古い街道に入る。
9:20
中央通り
私の須坂のイメージはこういう街並み。何の変哲もない通りだったが、今は生糸で栄えた蔵の街並みを観光資源として売り出そうとしている。カフェや須坂クラシック美術館(岡信孝コレクション)、まゆぐら(生糸の博物館)、笠鉾会館などが並んでいる。小江戸・川越より車や群衆がいないぶん雰囲気は良い。
しかし、土曜日というのに季節外れなのか観光客は誰もいない。それどころか駅に降りた人もほとんどいなかった。
9:21
この道は私が高校のころメインストリートだった気がする。
観光案内所でもらった地図には中央通り、銀座通りと書いてあるが、グーグルでは谷街道とある。
谷街道は北国西街道最大の宿場町稲荷山から分岐して千曲川を渡り、対岸の北国街道矢代宿(屋代)から松代藩、須坂藩、天領(小布施・中野)を経由して飯山藩に至る。中野では我が家の田んぼのすぐ南を通っていた。今これらは国道403号が結んでいる。

通りを東に歩いていくと、左の奥のほうに鳥居が見えた。
9:26
県社延喜式内墨坂神社
須坂の語源はこの墨坂だろうか?
9:29
やがて中央通りは見覚えのある交差点に出た。
中野から菅平を経て東京に行くとき、小布施方面から国道403号で南下して、須坂駅の手前で左折、この道を向こうから来て、この交差点の少し南(写真手前方向)で長野市から来る国道406号に合流、かつての大笹街道を菅平に上がっていく。

その後、東のほうに広域農道「北信濃くだもの街道」ができてこの交差点は通らなくなった。さらに上信越自動車道ができると菅平を通ることもなくなり、須坂は通り抜けることすらなくなった。

繁華街が途絶えて住宅街に入ると戦前の建物あり。
9:33
旧上高井郡役所
1917(大正6)この地に新築竣工。
しかし1921年の府県制郡制廃止法により、
1926年、郡役所は廃止、上高井郡連合事務所となる。
1935年、長野県経済部出張所
1942年、上高井地方事務所
1986年、須坂保健所
2006年、土地、建物が長野県から須坂市に譲渡。

市は老朽化した建物を解体せず、文化遺産として改修した。
2007年、市民交流施設となる。
9:35
公民館みたいなものだから入場無料

玄関左の事務室でパンフレットをもらう。


信濃国高井郡というのは松代(埴科郡)の北、若穂町から新潟県も近い野沢温泉まで、千曲川東岸の地域をしめる。須坂、小布施、中野、木島平などを含んだ。

そして明治初期の郡町村編成法により、明治12年(1879)に須坂町を中心とする南の上高井郡(1町44村)と中野町を中心とする北の下高井郡(1町56村)に分かれた。
(当時の町村は、我が家のある岩船が50軒ほどの集落で独立した村であったように、今の村よりずっと小さい。)

下高井郡が中野と山之内の間に箱山、中野と木島の間に高社山があるのに対し、南の上高井郡は山もなく郡全域がまとまっていて雪もなく、明るく開けたイメージがある。

その後、上高井郡は長年の合併、編入、離脱で再編され、私が子供のころの記憶では、須坂市のまわりに2町2村となり、若穂町(1966、長野市に編入)、東村(1971、須坂市に編入)が消えて今は小布施町、高山村の1町1村が残る。
須坂と上高井郡を表す「須高」は、須高医師会など多くの名称に残るが、農協のJA須高は2016年にJA長野と合併し消滅した。

そうした時代に郡役所の建物が残っているとはつい最近まで知らなかった。
9:35
入ってすぐ右の市民交流室は「碁SUZAKA」の本拠地のようだ。
9:37
昔の写真や資料と現代の市の広報など、掲示物が混在している。
「ダンスシューズには必ずヒールカバーを巻いてください」という掲示は、社交ダンスにも使われているということか。
2階に上がってみる。
9:38
多目的ホールは一番広い部屋。ピアノもあった。
社交ダンスはここでやっているのだろう。
床が新しい。2007年の改修工事の前は鹿鳴館のような部屋だったか。
9:39
入り口にある戦前の写真を見れば、窓枠の場所とか同じである。
ここで上高井郡の郡議会が開かれていたようだ。

見学者、利用者は誰もいなくて事務室の人も暇そうだった。
9:41
旧郡役所を出ると、凝った切妻破風の小屋があった。
かつての守衛所だろうかと覗くとただのごみ置き場で、箒や塵取りが入っていた。ペパーミント色の郡役所の景色に合わせている。

おしゃれなゴミ置き小屋のすぐ先に須坂東高校があった。
9:43
高校生の頃、文化祭に一度くらい来たかどうか。
建物は新しくみえる。1973年私が高校2年のときに竣工したようだが記憶にない。

1918年(大正7年)町立須坂実科高等女学校として創立。
1922年長野県須坂高等女学校と改称
北信の女子高では長野西に次ぐ存在で、私の中学からも何人か進学した。
1976年 新1学年より男女共学となったが、今の男女比率はどれくらいか分からない。
2022年は123人卒業で81%が専門学校、大学などに進学しているようだ。

私の高校時代、1973年に制服が自由化されたというが、その変化は記憶にない。依然としてセーラー服の女子が多かったのだろう。そのセーラー服は後ろ襟の白線が普通は3本のところ、2本だったのがかっこよく、電車の中でもすぐ目についた。

(続く)

2023年12月1日金曜日

里芋は名前通り古い作物か

ちょうど1年前、12月に長野の弟から里芋の大きな根株を(食料として)もらった。春になったら植えてみようと、少しとっておいたのだが、腐ったのか干からびたのか、死んでしまった。

6月、里芋の苗を一つ、バイト先の田中さんからもらった。

芽が出ている苗だから失敗はない。初めてサトイモを育ててみる。

2023₋06₋27
もらったのは1つの芋から芽が2つ出ている苗だった。
じっと眺めているうちに分けたくなった。

2023₋06₋27
包丁を入れると思ったより柔らかい。
里芋らしく断面はぬるぬるしている。
こんなに切断面が大きくて大丈夫だろうか?
腐ってこないだろうか?
ま、何事も実験。
1つは元の場所、もう一つはキウリと夏ミカン、アジサイに三方を囲まれた場所に植える。
日当たりは悪いが、サトイモはそれほど日照を必要としないイメージがある。

サトイモは里芋と書く。
生物名よりも普通名詞のようだ。
改めて考えると山芋の対語だ。

山芋も栽培品種としてはヤマトイモ、ナガイモ、自然薯とかいろいろある。
全く手入れされない森の中、山の中に自生する芋を総称して言うのに対し、サトイモは人里で栽培される芋のことを差したのだろう。

現代の「里の芋」の一つ、サツマイモは中南米原産、ヨーロッパ、中国、琉球(薩摩藩)を介して広まった(唐芋)。また、やはり「里の芋」であるジャガイモは南米原産、ヨーロッパからジャワ(ジャカルタ)を介してオランダ船によって江戸時代に伝わった。

これに対しサトイモが里芋という名があるのは古来から日本にあったことを意味する。
原産地は南アジアのようだが、実際、稲の伝来より古い縄文後期には日本にあったとされる。

植物としてはカロリー(でんぷん)があるから、イネ以前は重宝しただろう。

ところで縄文時代は狩猟・採集生活、弥生時代は水田稲作生活とされる。これでは生き方、社会は全く異なるだろう。
大陸から稲作が伝わったからと言って、すぐ水田栽培ができるだろうか。こんなにガラリと人間は変わるものだろうか?

縄文時代後期は、教科書で言われている狩猟生活というよりも農耕生活だったのではないか?つまり定住して村を作り、畑を耕していたのではないか? もちろんサトイモを主食として栽培していたのではないか。不安定な狩猟より安定な芋作りのほうが良い。

あれほど早く稲作が日本全土に広がった理由は、すでに農業社会になっていたから、隣の集落で稲が作られれば、我も我もと喜んで作ったのではないか?

サトイモは水気を好む。
水を必要とするイネと同じ。
縄文時代の村によっては、サトイモ畑がそのまま稲の水田になったかもしれない。

・・・・
さて、秋が過ぎ、冬になって初めて作った里芋を掘ってみた。
2023₋12₋01
左のほうが少し日当たりがマシだったかな。

掘る時期は葉が枯れ始めたころといわれるが、全く枯れていない。
しかし時期的には遅いほうだ。
芋を半分に切ったこと、植えたところが日当たり悪かったこと、肥料を一切上げなかったこと、もろもろの理由から、草丈は小さく、芋も予想通り小さく少なかった。

ちなみに里芋、サトイモは普通名詞に見えるが、栽培品種は多く、
・土垂(どたれ)
・エビイモ、
・セレベス
・ヤツガシラ
などがある。

きょう掘った芋は、種芋として来年春までとっておこうと思う。


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2023年11月25日土曜日

パプリカ折れて大根育ち柿食はる

パプリカは寒い気候が好きなのか、暑い間は眠ったようだったのが、ナスなどの夏野菜が終わる9月以降になってようやく花が付き、やっと実が生った。
2023₋11₋06
しかしピーマン同様茎がもろいうえ、実が大きいため、折れやすい。
風が吹いたり、雨で葉が重くなると実がついた枝ほど折れる。
2023₋11₋08
雨上がりのこの朝は大量に折れていた。ピーマンの代わりに食べよう。
パプリカはあまり熱心に作っていない。収穫まで時間がかかるため来年はやめようと思っているくらいだから、折れてもあまりがっかりしていない。
2023₋11₋08
柿はこの日までに160個とった。
10月11日に色の薄いカキをとって以来、毎日のようにとって人にあげているが、色づきうまそうになったら鳥に食われるようになった。

2023₋11₋23
こちらは温州ミカン
一昨年は64,昨年77個。今年は100個は越えるかな。
2023₋11₋23

2023₋11₋23
大根(宮重総太り)を初めて収穫した(写真中央)。
手前は相変わらず成長遅い白菜。
2023₋11₋23
大根は葉を除いて1100グラム。スーパーのものより大きい。
(市販品は箱の都合もあり、大きさが規格化されているのかもしれない)
宮重は24本育っている。

6個とった柿はこの日までに263個収穫した。300以上生ったのは確実。

2023₋11₋24
こちらはサツマイモの後、11月になって種まきした大根。
成長が遅れるので、春になっても筋が固くならない三太郎大根にした。
この日、防虫ネットをはがす(虫よけでなく、ネコ除けだった)

ふと、三太郎大根の上の柿をみたら、また鳥に食われていた。
2023₋11₋24
鳥は、ヨトウムシなどと違い、一度食べたからといって集中的に食べるわけではない。
近くに飛来した時、目に入ると気まぐれに食べて、普段は生ごみなどを食べているのだろう。
しかし、葉が減って、赤みが増してくるとますます目につくことも多いから、今まで以上に食われるかもしれない。

2023₋11₋24
そこで、三太郎大根から剥がしたばかりの防虫ネットをかぶせてみた。
しかし反対側は大きく開いており、枝葉の中まで入って実を食う鳥には効かないかもしれない。

この日は夜北風が強かったせいか、25日の朝、ネットは剥げ落ちていた。そして新たに1つ柿が食われていた。食われたのはネットの落ちる前だったか後だったか分からないが、ネットは畳んで片付けた。

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