2025年1月24日金曜日

広島3 比治山、駅、広島城

1月15日、クルーズ船飛鳥IIが広島に入港し、私も市内を観光した。
ひとりで陸軍広島被服支廠、広島大学霞キャンパス(旧陸軍兵器補給廠)を見物した。
さすが軍都広島、陸軍三廠の残る一つ、陸軍糧秣支廠も宇品西海岸沿いにあるが、そちらは行かず、JR広島駅のほうに行ってみようと思った。

広島大学霞キャンパスから広島駅に行くに、路面電車の停留所は比治山の西、だいぶ距離があった。そこで、知らない街ということもあり駅まで歩くことにした。途中、28年前に来たときのことを思い出すかもしれない。
10:47
比治山公園南口交差点
広島大学を出て西に行くとすぐ広い通りに出た。
この広さは軍用鉄道だった宇品線の跡ということもあるか。

正面に比治山が見えた。
中学生のころ広島の比婆山で謎の類人猿?が目撃され「ヒバゴン」話題になったが、そのヒバヤマと混同しやすい。28年前もこの山を見たし、活字でも一、二度は見ていると思うが、名前を憶えていなかった。今度はしっかり「ひじやま」と覚えた。

この独立丘陵は島だったのが、太田川が運ぶ土砂で周辺が埋まり、戦国時代、1500年代後半には本土と完全に陸続きになったという。
毛利元就が太田川河口を本拠地に考えたとき、この山(島)が候補の一つだったという。確かに濠を掘る手間が省ける。(実際に毛利氏が山中の安芸吉田から瀬戸内に面した広島に出てきたのは、元就の孫の毛利輝元の時代である。)

いま広大霞キャンパスとなった陸軍兵器補給廠は原爆爆心から3キロメートル以内にあったが、比治山の陰で被害が軽微だったという。
しかし比治山の標高は71メートルである。8時15分、高度9,640mから投下されたリトルボーイは43秒後、地上600メートルの上空で炸裂した。これで比治山が防護壁になったのだろうか? 作図して考えてはいないが。

比治山には1872年(明治5年)、旧日本陸軍第五師団の前身、広島鎮台(1973)ができるのに合わせ、陸軍墓地の整備が決定した。
さらに、船舶砲兵団司令部(陸軍船舶兵)や電信第2連隊の駐屯地が置かれた。

今回麓に立ち、陸軍墓地など戦前の旧蹟を見たいと思ったが、山登りの元気がなかった。
飛鳥でのダンスは揺れる船内と堅い床とで足が痛くなり、いたわる気持ちもあった。

山には行かずずんずん北に歩いていくと、道路の反対側にリトルマーメイドの店があった。
10:56
リトルマーメイド段原店
アンデルセングループのリトルマーメイドは1974年東京に進出した。学生時代、ちょうど谷中に引っ越した1978年、毎月15日のリトルマーメイドの日が始まり、根津交差点近くの店舗で食器をいくつかもらった。また、2022年定年退職して駒込駅のパン屋で6日間だけアルバイトしたのもリトルマーメイドだった。このように私と縁のあるベーカリーチェーンの1号店は、まだ焼き立てパン屋が珍しかったころ、1972年、広島で誕生した。
ふと、28年前に荻原さんがアルバイトしていたパン屋ってリトルマーメイドだったりして。ひょっとしたら(改築しているだろうが)この店かもしれない。なんて思い、広い道路の向こう側にあっても目にとまった。

さらに歩いていくと川に出た。
11:01 大正橋
太田川から分かれた猿猴川にかかる。なんて読むのかと思ったら単純にエンコウガワだった。猿猴とは、広島を中心に中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種とされるが、姿が毛むくじゃらで猿に似ているらしい。
猿猴川は、太田川が形成する広島デルタの6河川のうち最も東側を流れる。
11:04 くわうじんばし
大正橋の一つ上流の橋の上を路面電車が4台も通った。

11:05
市街地中心部にこういう空間があるのは素晴らしい。
水も大都市にしてはきれいである。

11:05
くわうじんばしを渡りきると「荒神橋」と書いてあった。

11:08
JR広島駅到着
前回私が来た2年後の1999年に、こちらの南口が全面改装され、その後も2012年、2014年に駅舎の改良工事があったようで、現実にも私の記憶にも当時の姿は残っていない。

広島駅の開業は1894年(明治27年)6月。山陽鉄道の終点だった。翌7月には日清戦争が始まり、大本営が広島城に置かれ、前年に完成した宇品港とを結ぶ宇品線が突貫工事で同年8月に開通した。
広島駅南東の一角
1997年に泊ったビジネスホテルはあのあたりにあったと思うが、ホテル名も分からないし、探すこともせずに先を急いだ。
11:11
駅前大橋から手前の猿猴橋(旧西国街道)とその一つ下流の荒神橋をみる。

城南通りを西に歩き、京橋川を上柳橋でわたる。
11:17 上柳橋
京橋川と猿猴橋の分岐点がみえる。
その向こうは駅前のエールエールA館とビッグフロント広島(計画中はエールエールB館と呼ばれた)のタワービル。

広島城を目指し、城南通りを西へ歩く。
11:21
藤棚が歩道の上にかかっていた。地図を見れば、フェンスの向こうは広島女学院中学・高校。1886年創立の伝統あるミッションスクールで、岸田文雄元総理の夫人の出身校でもある。
フジの根っこは学校敷地内なのか公道の一部(植え込み)なのか分からないが、少なくとも広島女学院の生徒さんたちが歩道を清掃してくれているらしい。
11:23
左上の出汐倉庫(陸軍被服支廠)、広大医学部から大分歩いてきた。
このところクルーズ船が帰港するたびに歩く横浜と比べ、同じ観光都市として路上地図が少ない気がした。

11:28
内堀に出て広島城到着、二の丸太鼓櫓を望む。
11:32
内堀の向こうに二の丸表御門を望む。
水色は実際の濠であるが、画面いっぱいに広がった形とその広さによって、どうしても余白の類に見えてしまう。濠の外にも何か描いたほうが良い。
11:34
二の丸から本丸へ入る途中、西にエディオンピースウィングが見える。
2024年完成したばかりのサンフレッチェ広島の本拠地サッカー場である。

11:36
広島護国神社
本丸で一番人が集まっているのがここだった。
市民としては、天守閣などより一年の無病息災と発展を願う初詣のほうが大事だ。

11:37
「明治二十七八年戦役廣島大本営」

日清戦争は7月25日に開戦、8月1日に宣戦布告した後、9月に大本営が移ってきた。
城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所となり、天皇は9月15日から翌年4月27日まで7か月も滞在した。天皇が神となった昭和の戦争では考えられない。
行在所建物は日清戦争後も保存されたが、原爆で消滅、礎石のみが残った。

11:39
広島城天守閣
広島城は毛利輝元が1589年築城を開始し、城の構造は大坂城を参考として、本丸と小さな二の丸を内堀が囲むという縄張は秀吉が京都に作った聚楽第に範を取ったといわれる。
1590年末、堀と城塁が竣工、1591年1月輝元が入城。1599年に全工事が完了した。しかし翌年関ヶ原が起き、西軍大将に担がれた毛利氏は広島を去ることになる。

完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模だったといわれるが、1600年代わって城主となった福島正則による改築があり、築城当時の姿は不明である。
福島正則は城の修繕を咎められ、1619年安芸50万石から信州高井郡4万石に改易され、5年後高山村で死去した。
代わって浅野長晟が38万石の和歌山から42万石で加増入封し、この家は明治まで続く。
11:40
壁板など一見古そうに見えるが、原爆が落ちたのだから古い木造建築が残るはずはない。
戦後復元した鉄筋コンクリート製である。
例によって中には入らなかった。
原爆以前は1592年に建てられた大天守が残っており、国宝に指定されていた。
別名、鯉城。一帯は昔、己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたことに由来するという。
虎とかライオンと比べるとカープは小さくて弱そうだ。
11:43
本丸の東側に多数の車が駐車していた。
白線も引いてないし、管理人もいないし、ちゃんとした駐車場でもない。見ていれば全く自由に止めて、出ていく。
ちょうど入ってきた車の人に聞くと、デパートのように護国神社から参拝したというハンコをもらえば無料だという。
こんな一等地の、しかも名城の本丸が駐車自由というのは、さすが広島だと思った。
平城で、かつ城内が広大で、まわりの三の丸などにも公用地、駐車場がふんだんにあるという条件が重なったこともあろう。

二の丸を経て表御門から内堀を出て、城南通りに出た。
11:48 城南通り
この通りは二の丸の南、内堀のすぐ外側を東西に走る。
28年前、荻原さんの車はこの道を東から西に通った。右側に二の丸の櫓だったか、本丸天守閣だったか、運転席越しに見たことを思い出す。

広島は道路が広い。
城南通りは広すぎるからか横断歩道はなく地下道だった。
11:49 北が左
城南通りをくぐって南の平和公園に向かうも両側は依然として公園のよう。
この広さはどういう訳だろう?

広島城付近 1930年ころ

戦前の地図を見れば、本丸に第五師団司令部があり、内堀の外、三の丸は西側に野砲兵第5連隊、東側に歩兵11連隊、南外郭に西練兵場、憲兵隊、西外郭に輜重兵第5大隊、北外郭に衛戍病院、火薬庫や衛戍監獄。外郭を含めた広大な広島城がそっくり陸軍施設になっていた。

現在濠として残っているのは本丸、二の丸を囲む内堀だけである。
三の丸を囲む中堀は、戦前までだいぶ残っていたようだが、戦後の都市化によって埋められた。その外側、外郭を囲む外堀はもっと早く、日露戦争後の人口急増による水質悪化、道路建設などにより明治のころから埋められ始めた。原爆ドームの北を東西に通る現在の相生通り(国道183号)が南の外堀にあたる。

民有地とならず軍用地であったことが、この広大な官庁街、都市公園、運動・文化施設の、ほかでは見られないほどの集積を可能にした。

(続く)

2025年1月22日水曜日

広島2 陸軍被服支厰跡、広大霞キャンパスと荻原氏

1月15日、クルーズ船「飛鳥II」が広島に入港し、軽く観光しようと下船した。
クルーズターミナルから広島電鉄(路面電車)の海岸通という駅まで歩いて電車に乗った。運賃は220円
9:53
「広大附属学校前」で下車
9:55
停留所の名前通り、広島大学付属の小学校、中学校、高等学校が一つの敷地にある。

ここは戦前、旧制広島高校だった。
広島は中国四国地方の中心都市でありながら、早くから官立(=国立)の広島高等師範学校、広島高等工業学校があったため、近隣の山口、松江、岡山(第六高校)、松山などに旧制高等学校ができても広島だけなかった。設立は1923年、姫路とともに最後の旧制高等学校になる。

敷地内には寄宿舎があったが、戦時中、学生は勤労動員され、運動場の一角に航空輸送隊、寮の一部には数人の通信兵が駐屯していた。昭和20年8月6日は、学生が20人ばかりいただけという。
原爆炸裂で爆心地から2.7キロの木造の建物は大きく損傷したが、1927年竣工・鉄筋コンクリートの講堂は、被害軽微であり、戦後広大教養部となった後も使われ、また校地交換で付属小、中、高校がこの皆実(みなみ)校地に移ってきた後も使われている。

校地には入れないようで、正門から講堂の写真を撮った。
1994年に広島市により被爆建物に指定された。被曝が軽微だからこそ(解体を免れ)指定される矛盾がある。1998年には登録有形文化財になった。

・・・・・

ここまで来ると広島陸軍被服支廠はすぐである。
広大附属の正門から北東のほうへ歩いて950メートル、13分。
10:07
陸軍被服支廠址、南西の角
南のフェンスの隙間から覗く。

旧広島陸軍被服支廠は、現在、出汐(でしお)倉庫とも呼ばれる。
かつては兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

被服廠が取り扱っていた品目はほかに、下着、靴下、帽子、手袋、マント、背嚢や飯盒・水筒、ふとん・毛布、石鹸、鋏・小刀、軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和になると、防寒服・防暑服、航空隊用、落下傘部隊・挺身隊用の被服、防毒服なども取り扱うようになった。
しかし被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主であり、その他については民間工場に依託し、被服廠では発注、品質管理、貯蔵、配給などの業務を行っていた。また、中国、四国、九州における民間工場の管理指導も行った。
10:09
西の壁に沿って北へ歩いていく。

陸軍被服廠は、1890年(明治23年)東京本所に設置された。
1904年(明治37年)大阪に支廠ができ、さらに1905年広島にも支廠ができた。1944年札幌、仙台、東京(朝霞支廠)、名古屋、福岡に支廠ができるまで、当時は全国に3か所しかなかったから、広島の存在は大きかった。宇品線からの引き込み線もあった。

(ちなみに、本所の本廠は 1919年、王子区赤羽台に移転した。もともと赤羽には1891年から被服倉庫があり一体化する目的もあった。本所区の跡地は1922年に逓信省と東京市に払い下げられ、運動公園や学校が整備される予定で空き地となった。
しかし1923年9月、関東大震災で住民が避難したところに火災旋風が襲った。敷地内にいた人々は四方から火に囲まれ、逃げられず約4万人のうち約3万8千人が焼け死んだ。これは大震災全体の犠牲者の約1/3にも達する。「陸軍被服廠」という一般人にとって地味な単語は、本来の業務でなく跡地で起きたこの惨事のみで知っている人が多いのではないか?)

過去のブログ

鉄扉
倉庫の扉はガラスでなく鉄製である。
歪んで閉じられず、下のほうは錆びている。
鉄扉は閉じたら真っ暗になるが、ふつうの工場でこんな鉄扉は必要だろうか?

1945年8月6日に投下された原爆が落ちた時、被服支廠は爆心地から約2.7km離れていて、外壁の厚みが60cmと厚かったこともあり焼失や倒壊は免れた。ゆえに救護所として使用され、避難してきた多くの被爆者がここで息を引き取ったという。
10:10
戦後、被服支厰の建物は、1947年以降、一時、広島大学・広島高等師範学校の校舎、大蔵省中国財務局庁舎が入り、7万坪の敷地は現在、公務員宿舎、個人住宅、県立皆実高校、県立広島工業高校、国道2号線拡張用地、その他事業用地(テレビ新広島本社社屋など)などに転用されている。
その過程で建物は現在残されている4棟を残してすべて解体された。

その後、残った4棟のうち1棟が広島大学の学生寮「薫風寮」として使用され(広大キャンパスの東広島市移転で廃寮)、のこり3棟は日本通運に所有が移り倉庫として使用された。1995年日通も使用しなくなり、施設は県へ譲渡され、1997年以降は4棟とも完全に使われなくなった。
広島市は「旧日本通運出汐倉庫1-4号棟」として被爆建物台帳に登録した。

10:11
割れたガラスの窓があった。この外側に鉄扉があったのかもしれない。
安全対策工事は清水建設と共立の共同事業、発注者は広島県。

10:13
30年も使用しないと朽ち果てる一方である。
有名な原爆ドームはウクライナの通常爆弾での被害建物にも見られそうだが、むしろ歪んだ鉄製扉以外、建物が無事なこういう施設のほうが、中で多数の被爆者が息を引き取った物語を持っていて、被爆記念建物として貴重かもしれない。
10:15
倉庫の間の白いフェンスが開いていて、中をのぞこうと入っていくと、突然、軽自動車から警備の人が出てこられた。入ってはダメだという。一時雪がぱらついた寒い日で、誰も来ないから彼も車の中で休んでいたのだろう。私が来てからは車から出てずっと入り口で真面目に立っておられた。
広島市 1930年ころ

この陸軍被服支厰の東には軍用鉄道の宇品線が通っていて、それを挟んで東(斜め向かい)には広島兵器支廠があった。宇品線、宇品港を使って陸軍の武器弾薬の集積・補給を行っていた。
現在その敷地は広島大学霞キャンパスとなり、医療系学部が集まっている。
行ってみた。
10:25
広島大学霞キャンパス

1887年(明治30年)大阪砲兵工廠広島派出所が設置される。
1905年、広島陸軍兵器支廠に昇格。翌年、この現在地(霞町)移転。
1940年、広島陸軍兵器補給廠に改称。

比治山の陰になり原爆の被害は軽微であったため、救護所として被災者が集まり、戦後は1946年から1956年まで広島県庁舎として利用された(旧庁舎は中の島で壊滅した)。
そして1957年から広島大学医学部となった。

広島大学医学部は大戦末期、昭和20年3月設立の広島県立医学専門学校(広島市皆実町)を起源とする。
戦後呉市から市立病院、旧海軍徴用工員宿舎を移譲され、昭和23年、広島県立医科大学(旧制)が呉で開学した。
昭和27年、広島医科大学(新制、県立)が単科大学として開学したが、翌年広島大学(医学部)に合併されることになった。順次移管が始まり、昭和31年広島医大は閉鎖された。そして1957年2月、呉から現在地への移転も完了した。
10:26
広大医学部 医学資料館
入場無料。写真撮影は不可。

霞キャンパスの医学部、附属病院は陸軍兵器支廠(陸軍兵器補給廠)の赤レンガの建物を使っていたが、戦後次々と取り壊された。
そこで1978年医学部30周年記念事業として医学資料館を設置するにあたり、最後まで残った大正4年建築の11号館(旧第11兵器庫)を保存使用した。

その後1998年、附属病院建て替えのため、新築移転することになる。原爆被爆建物でもあり、被災者の臨時救護所となった歴史的意義から、旧資料館の外観を尊重し、痛みの少なかった東外壁を中心にできるだけ旧材を再利用したという。

実は1997年11月ここ霞キャンパスに来た。
第8回脳高次機能障害シンポジウムを聴講するためだった。
しかし当時は医学資料館にも気づかず、陸軍兵器補給廠の跡地であることも知らなかった。
10:32
歯学部
ここは医学部、附属病院のほか、歯学部、薬学部もある。

広大歯学部は1965年設立。
薬学部は国立大学としては遅く、1969年、医学部薬学科として発足した。当時すでに多くの医学部薬学科が薬学部として独立していたが、広大は2006年ようやく薬学部として独立した。だから、医療系学部が霞地区に集まったというより、ここで生まれたといったほうが良い。

歯学部前の地図をみながら、1997年のシンポジウムはどこだったのだろう?
ホワイエとか階段とか覚えているのだが、どの建物だったか分からない。

10:32
薬学部
シンポジウム会場はここでもなかった。
当時、ここにいらした代謝教室出身の太田茂さんがシンポジウムの世話人をされていた。彼は3年上で、のちに薬学会会頭になられた。
田辺三菱時代に数年同じ組織となった西尾さんもここの出身だった。
10:33
薬学部の南の霞会館
高いビル校舎に囲まれて古い二階建ての大学生協。
これは覚えている。

シンポジウム初日の1997年11月27日、前もって連絡しておいた荻原英雄さんが会いに来てくれ、この二階の生協食堂でお昼を食べた。
10:34
二階の生協食堂。
学内wifiはパスワードが分からないと使えなかった。

現在窓際は横一列に並んだ一人席であるが、1997年当時はファミレスのようなテーブル席だった。そこに座って11年ぶりの再会を喜んだ。

荻原さんはシンポジウムの要旨集をパラパラめくって、シンポジストの一人であった京大薬学部の赤池昭紀教授の名前に目を止めた。神奈川・栄光学園時代の同級生?同学年生?だったという。彼ら(栄光学園18期生)は東大紛争で入試(1969年3月)がなかったため、赤池先生は京大薬学部に、荻原さんは京大農学部に進学した。
校内のマラソン大会で荻原さんが1位、赤池さんが2位だった(順位の記憶あいまい)と話して、要旨集を閉じた。少し寂しそうだった。

彼は車で来ていて、午後も暇だというので、私もシンポジウムはさぼった。彼は原爆資料館などを案内してくれたあと、私のたっての希望で、市街から遠く離れた安佐北区、可部東の自宅(兼実験室)も見せてくれた。庭先の柿を土産にとってくれ、再びはるばる市の中止部まで送ってくれた。

彼とは田辺製薬の同年の入社(1981)である。
大学院は京大医学部生化学教室(早石修)にすすみ、のち群馬大医学部に転じた。修士課程修了の私よりさらに5歳上であった。
今まで私が出会った人の中で優秀さでは3本の指に入る。しかし知識、発想と実験の集中度をみてノーベル賞を取るのはこういう人かと思ったのは彼だけである。ところが彼に対してそう思う人は少なく(ほとんどおらず)、田辺の研究所では全く評価されなかった(田辺では平均より悪いマイナス評価だったのでないか?)。在籍した5年の間、入社したときの病理部門から生化学部門(高脂血症薬)に移動した後、失意のまま退職した。残念だったとしか言いようがない。

彼は田辺のたいていの人を良く言わなかったが、私のことは褒めてくれて、それが当時よく落ち込んでいた私の支え、励みにもなった。彼は職場の送別会は断ったが、退職の日、私の家に来てくれて夕食を共にした。

その後、三重県で伊藤ハムの子会社で肉の品質検査?をしたあと、広島の医療用具メーカー(手術用縫合糸?)に転じたが、10年ぶりに再会した時点ではパン屋、マツダの子会社、塾教師などのアルバイトをしていた。

じつはこのブログで5人まで書いた「忘れられない人」シリーズで一番目に書きたかった人だが、人間が大きすぎて未だ書けずにいる。しかし山が迫る広島市とは思えない田舎の中古住宅で飼われていたマウスをみた(たぶん唯一の)者として、いつかは書かねばならないと思っている。
天才は今どうされているか、もう連絡先も分からず、ネットにもヒットしない。

28年ぶりに、思いもかけずクルーズ船から陸軍施設の跡の広島大霞キャンパスに来て、いろんなことを思った。


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2025年1月20日月曜日

クルーズ4 名古屋、駿河湾、土佐沖、広島まで

初めてクルーズ船は、私的な旅行ではなく社交ダンスのアテンダントしての業務乗船だった。

横浜発着の飛鳥II、3泊4日の名古屋クルーズ。

1月8日、横浜出航、1月9日朝、目が覚めると名古屋港。

熱田神宮に行った後、船でおいしくて無料のお昼ご飯を食べようと、早めに名古屋観光を切り上げ帰って来た。
2025₋01₋09 12:29
12階デッキからみる名古屋港
名古屋港 金城ふ頭

飛鳥II は、1月9日夜、ダンスパーティをしている21:00に名古屋を出港。
夜、東に走り続けた。
2025₋01₋10 7:38
朝、目覚めると富士山が大きく見えた。
今まで見た中で一番きれい。

来るときは一晩で横浜から名古屋に来たのだから、本来なら朝、横浜についてしまう。
しかしこのクルーズは初春の富士山を見せることを売り物にしている。

10日朝、左舷の陸地から朝日が昇っている。てっきり静岡県の南を通っているから太陽は進行方向から上がると思っていたが、よく考えたら陸上と違って、静岡県の南海岸に沿って東に行けば駿河湾の奥で伊豆半島にぶつかる。だから、船はどうも伊豆半島の西岸を南下しているようで、朝日は伊豆の山から上がったのである。

アスカデイリー1月10日 
この日はどこも寄港しない。一日中、駿河湾と相模湾で富士山を見ながら食事と映画などで過ごす。全員が船にいるから午前と午後に45分ずつダンス講習会があり、夜はパーティ。我々は21時から2時間、お客さんのお相手をする。
それ以外はフリーなので、船内をうろうろした。

2025₋01₋10 9:11
11階 パームコートからの富士山。
ノートパソコンを持ってきたので景色を見ながらブログを書く。

それにしても、この富士は美しい。地上だとどうしても建物があって見える部分は途中から上だけだが、海上からだと海抜ゼロメートルからの稜線が見える。

そのうち、他のところにも座りたくなり、となりのビスタラウンジに引っ越した。
9:41
11階 ビスタラウンジ
ここでもネットをしていると、ウェイターが来てくれて、ホットココアを頼んだ。

飛鳥IIは午前中いっぱい駿河湾を10ノット(時速18キロ)でぐるぐる回り、右舷の人も左舷の人も、部屋にいる人もリドガーデンにいる人も、いながらにして色んな角度から富士山が見えるよう、飛鳥は大いにサービスしてくれた。

急いで目的地にいくのでなく、乗っていることを楽しむ。

そのうち昼には伊豆半島、石廊崎をまわり、今度は少し小さくはなるが、相模湾からの富士山を見せてくれた。午後のダンス講習会(16:00₋16:45)が終わったときも左舷に伊豆の山越しの富士が見えた。

この日は17時過ぎはドレスコードがカジュアルでなくてインフォーマル、すなわちおしゃれする。連日ダンスに来るご婦人をみていても全員がドレスを毎日変えていることが分かる。これでは荷物が増えるわけである。
2025₋01₋10 23:49
部屋のテレビにこの日の航路と現在地が出る。
飛鳥はこの日、南から駿河湾にはいり、左回りで二回転した後、今度は逆回りで1回転し、伊豆の西を南下した。
相模湾でも日付が変わるまでに複雑な運動をしている。

モニターに「フェリーしまんと」と「にっぽん丸」の位置がうつっている。
2025₋01₋11 7:22
夜が明けると横浜のすぐ近くまで来ていた。
にっぽん丸はまだ相模湾にいる。

三井オーシャンクルーズのにっぽん丸は、「新春のオペラクルーズ」と称し、1月10日17:00横浜出航、駿河湾までいき、12日9:00に横浜帰港の2泊3日ツアーである。
初日の飛鳥のように、まっすぐ行ったら駿河湾など簡単に通り過ぎてしまうから、夜通し相模湾でぐるぐる回ったのであろう。
7:24
富士山が見えた。
グーグルで現在地を見れば、根岸湾を過ぎ南本牧ふ頭の沖であった。
まだ横浜港には入っていない。

8:30 横浜入港
部屋の窓からみなとみらい地区が見える。
手前は海上保安庁船のヘリコプター2機搭載の巡視船「あきつしま」

2025₋01₋11 9:22下船

乗客は10階から順に放送で案内され、5階に降りてきて、クルーの笑顔の挨拶を受けながら下船していく。横のピアノバーの前では飛鳥乗船バンドの一つ、ラグーナトリオが音楽を奏でる。
大型モニターでは、オフィサー、マネージャークラスの乗務員が勤務場所でお別れ・乗船御礼のあいさつ文をスケッチブックに書いている姿が映し出されている。
ホテル部門、料理部門だけでなく、営繕、機関など、乗客の目に見えない部門のマネージャーも登場する。
最後に笑顔で掲げた手書きの文章がまた良く、生演奏の音楽と調和し、乗客は下船を忘れてソファで大画面を見入っていたりする。だから下船口が混雑することはなく、最後まで全体が優雅な空気になっている。
9:26
私は乗客全員がおりて、挨拶に並んだスタッフが解散するまで、7階のデッキで下船する乗客を見ながら時間をつぶした。
9:45
下船して桟橋側から飛鳥を見る。
こうして私の最初のクルーズが終わった。
大さん橋は鯨の背中をイメージして設計されたらしい。
10年前ダンス競技会に来たときは1回戦で負け、早く終わったのでここで芝生と板の境に座って(芝生は立入禁止)持参のお昼を食べたことを思い出す。
9:50
この日は横浜市役所で無料Wifiにつなげたり、懐かしいパシフィコ横浜などにいったあと、14時ころ船に戻り、夕方、2回目のクルーズに出発した。
今度は3連休を利用した1/11-13、
2泊3日の駿河湾クルーズ。
17:00出航はいつもと同じ。
天気は今一つで朝起きると曇っていた。
11階に上がると、夜雨が降ったのか、プールサイドの木のデッキが濡れていた。
2025₋01₋12 9:37
11階のパームコートから陸地が見えたが伊豆半島ではなさそう。
モニターを見ると船は相模湾から伊豆大島の東を通って南下していた。
スマホのグーグルマップで現在地を確認したら、右舷に見える陸地は新島だった。

この日は冬の太平洋側としては珍しく天気が悪く、駿河湾に入っても富士山は見えなかった。
19:21
夜のパームコート
我々のダンスパーティにも来てくれる5人組フィリピンバンド「ナマナ」が演奏していた。
しかし夕食時のせいか昼より人が少ない。

2025₋01₋12 23:53
駿河湾クルーズで飛鳥のここまでの航路
1月11日夕方横浜出航、夜通し相模湾で時間をつぶした後、12日朝、相模湾から南下、大島の東で旋回したあとさらに南下、式根島と神津島をとおって北上、駿河湾に入った。

そこで旋回を続けた後、モニターでは伊豆半島の南まで来たところである。

この季節、珍しく富士山が見えず、乗客にとっては残念なクルーズであった。
私はダンスで疲れ、日付が変わってすぐ眠りについた。
2025₋01₋13 7:17
朝目覚めると二回目の横浜入港
みなとみらいのビル群に朝日が当たっていて違和感を感じる。
太平洋側は海が南という先入観がなかなか抜けず、大さん橋やみなとみらいは南に飛び出ている感覚があるが、横浜は海が北東を向いている。

これで私の2回目のクルーズが終わった。

1月13日は下船して
山下公園の氷川丸(博物館)を見物した後、横浜市役所で無料wifiを使い、14時ころ船に戻った。

3回目のクルーズは、1/13₋18の5泊6日。

3回のクルーズのパンフレット価格を見ると、一番安い部屋で1泊あたり6~7万円(税込み)。高い部屋で1泊あたり31万~35万円のようだ。

13日、17:00横浜出航
14日は太平洋を終日航海。
2025₋01₋14 9:55
12階から。右舷にみえる陸地は紀伊半島

2025₋01₋14 13:23
11階 パームコート
ステージはフィリピンバンドの「ナマナ」
英語の歌はさすがに上手い。
飛鳥は室戸岬の東の沖。

14:14
みえる陸地は室戸岬。尖っている部分を少し過ぎたところ。
パームコートは南国をイメージするようヤシの木が真ん中にある。

その後、飛鳥は足摺岬をまわって豊後水道から瀬戸内海に入った。

2025₋01₋14 18:05
6階 ショーステージ「ギャラクシーラウンジ」
この日は由紀さおりショー
お客様ファーストなので我々は邪魔にならぬよう、最後列で鑑賞する。ウェイターが席のあいだを周り、飲み物をサービスしているが、もちろん我々は手を出さない。

最初の外国の歌2曲はフィリピン人バンドのボーカルのほうがうまいと思った。続く、りんごの唄、ここに幸あり、青い山脈の3曲は、乗客の年齢層を意識したものだろうが、カラオケの普及した現在は、歌の上手い人が増え、特に彼女の優越性は目立たない。

しかし自身のヒット3曲は良かった。懐かしくて口ずさみたくなった。
「手紙」1970:死んでもあなたと暮らしていたいと・・・
「生きがい」1970:今あなたは目ざめ煙草をくわえてる、早く起きてね・・・
「ルームライト」1973:あなたが運転手に道を教え始めたから私の家が近づいてしまった・・・この作詞岡本おさみ、作曲吉田拓郎のコンビは、翌年森進一の襟裳岬もヒットさせた。

そしてデビュー曲の「夜明けのスキャット」は素晴らしかった。
ちなみに、高嶋ちさ子の父、高嶋弘之はビートルズの日本での仕掛人として有名だが、夜明けのスキャットにも関わっていたらしい。この曲は歌の一番がルールールルルばっかりで歌詞がなく、ほとんどのレコード会社がキワモノとして躊躇したが、彼はちょうど、おらは死んじまっただーの「返って来た酔っ払い」をプロデュースしたあとで、面白いと言って、取り上げてくれたと、この日、由紀さおりが話した。タイトルは高嶋の命名という。
しかしまた、由紀は別の機会に、STVラジオディレクター竹田健二が札幌のラジオで連日流して大ヒットにつながったと言っている。

ちなみに、いずみたくのこの曲はサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」の盗作ではないかという騒動があったそうだが、田舎にいた子供はそんなことも知らず、素直にいい曲だと思っていた。

コメディアンとしての活動もあるから話も面白く、45分のコンサートはあっという間に終わった。

豊後水道の通過はいつだったか分からず。
2025₋01₋15 7:44
朝目覚めると(部屋は左舷)大きなホテルのようなビルが見えた。
スマホで確認すると宇品島のグランドプリンスホテル広島のようだ。

7:47
クルーズターミナルの宇品外貿第5バースが近づく
Berthは船が安全に停泊、円滑な操船、荷役が出来る水域を表す。似た意味の桟橋は陸上スペースをさす。
8:29
いつも朝食は5階のフォーシーズンズで和定食を食べていたのだが、この日は11階のリドガーデンに行く。サラダコーナーで椰子の新芽(パルミット)というのが珍しく、写真に撮った。英語でHeart of palmというからヤシの芯という意味か。ホワイトアスパラガスのような味がした。両方とも単子葉類ではあるが。
9:29
下船し、広島の観光に出かける。
港から出るとき、交通整理の係のように見える人から乗船証の提示を求められた。
入出国管理だろうか。
9:32
港ではたいていの建物より飛鳥のほうが大きい。

このあと広電(路面電車)の海岸通という駅まで歩き、広島市内に向かった。

(続く)