2026年7月26日日曜日

上野公園19 科博3 パンダと貝の化石。ヒトの進化

アルバイトしていた湯島の会社で、4月から正社員になってしまい、毎日出かけるようになった。

しばしば午前中、北千住あるいは葛飾の畑のアルバイトに行き、午後から出社するが、上野公園を通過することが多い。
そんなことで、このところ無料の西洋美術館と科学博物館に立ち寄っている。

6月5日 科博(1か月ぶり。前のブログ)
6月19日 科博 (散髪したので歩いただけ)。
6月24日 西美 (科博休館だったので2年ぶり)
7月1日 西美 (ゴッホ展は入らず)
7月8日 西美 (レンブラント展は入らず)
7月10日 科博 (1か月ぶり)
7月17日 科博 ゲリラ豪雨で雨宿り

2026-06-19
6月5日に来たときここで免許証を落とし、無事戻ってきたが、この日、持ってくるのを忘れた。
(上野警察署で返却されるとき、身分証明書が必要ということであったが、免許証の顔は私ですと言って、それでOKだった)
2026-06-19
年齢証明すれば無料ということに慣れてしまうとお金を払って入るのがもったいなくなる。
この日は入場しなかった。

その後、何度も上野公園に来たが、3週続けて西洋美術館のほうに行っていた。

7月10日、1か月ぶりに科学博物館・地球館に入る。
人生4回目だが、2013年は忘れてしまったし、5月は日本館のみだったから、地球館は実質2回目ということになる。

前回同様、一階の入口から最初の展示室に入ればアロサウルスがいる。
一瞥しただけで裏に回ったところ、パンダがいた。
ここは一度回っただけでは見逃すものがいっぱいある。
2026-07-10 11:58
1980年から上野にいたホァンホァンだった。
1997年に死亡、科博に寄付された。
ホァンホァンは歓歓。
教養学部時代、選択自由科目の第3外国語で中国語をとった。教科書に「欢迎、欢迎(ようこそ、huān yíng、huān yíng)とあって何度も口にしたから、昔から読めた。

上野動物園のパンダは1972年10月に贈られたランラン、カンカンが最初である。
東京芸大の学生が動物園側の窓の下に「熱烈歓迎」と書いた幕を掲げ、その写真を載せた週刊誌を高校の図書室で見た記憶がある。当時はパンダが熊と猫のあいの子だと思っている人もいた。

蘭蘭が1979年に死亡、1980年1月に来日したのが、この歓歓である。
1980年6月には康康も死亡、4頭目として1982年、飛飛(Fei Fei)が来た。
以後上野は13頭のパンダがいたが、2026年1月にシャオシャオ、レイレイが中国に返還された。空になって半年のパンダ舎は先日、解体されることが決まったらしい。

現在、パンダはレンタルだから、遺体も自由にできないみたいだが、昔は寄贈されたものだから、はく製は日本に残された。学生だった1979年か80年ころ、ランラン、カンカンのどちらかだったか分からないが、研究室の先輩、大塚英昭さんが上野までパンダの血液をもらいに行った話を聞いた。当時、大塚さんは医学部生化学教室の助手をされていて、そこの山川民夫教授は赤血球表面の糖鎖の研究で有名だったから、パンダの血液型でも調べるつもりだったのか?

パンダのとなりは植物のヤツデ。
葉っぱの重なり具合をみせていた。
相変わらずここはゾーンのテーマというか、陳列の方針がわからない。
(後で見たら「地球の多様な生き物たち」だった)

その並びに先日見たライオンと牛の腸の長さの比較があった。
その横にキリンの舌があった。 木の枝のよう。
12:01 舌3種
左から
ウシ(牛タン)
ジャワマメジカ(最小の偶蹄類)
キリン

1階だけでもいろいろ発見があり、なかなか進まないので地下の展示室に向かうべく、入口付近の階段を下りた。

途中のエスカレーターロビーに大きな平らな石があった。
12:04
淡水魚化石 米国ワイオミング州産
魚がいっぱいいる。しかし黒色である。
黒というのは有機物が残っていることを意味すると思うが、あり得ない。
相変わらず何の説明もない。
おそらく化石が分かるように塗ったのではないか?

もしそうならひどい。
せめて半分を発掘したままの色(たぶん跡だけ残り、岩石と同じ色だろう)にしておくべきではなかったか?
地下1階は子供が大好きな恐竜。

12:06
始祖鳥とヒトの骨格
脊椎動物というのは1億年以上も変わっていないことが分かる。
骨格が変わっていないということは内臓、筋肉も同じということだ。
進化とは何か? 脳だけだろうか。

12:07
何体もの恐竜の骨格標本は迫力あり、インバウント観光客は大人も子供も喜んでいる。

12:09
地層の年代測定
恐竜化石の発掘ではなかった。

地下1階は3分の1が恐竜で、残りは特別展のスペースになっている。

地下2階に降りた。
1階が生物の多様性だったのに対し、地下2階は地球環境の変動と生物の進化を展示している。
12:15
化石いろいろ。貝が多い。

ふと、家にある化石を思い出した。
家の化石
二枚貝だけでなくウミユリのような筒状の物もある。
1994年、シンシナチの高速道路の切通しで通行車が少なかったので路肩に停止して採取した。
我が家は骨董品がないので、家伝としてこれくらいしか残せないが、だれも興味を示さない。
12:16
絶滅した大型哺乳類
12:17
絶滅した人類の頭骨
現在の地球人は Homo sapiensの1種類であるが、過去には色々いた。
一番近いのはネアンデルタール人。Homo neanderthalensis
ジャワ原人、北京原人は初期の直立したHomo属ということで、H. erectusであり、亜種名として erectus, pekinesisが種名の後につく。

学名というのは属名と種名を合わせたもので、これが異なれば種が違うということだ。定義からして、種は代を重ねてもその生物学的特性は維持できるものである。つまり、その種内だけで交配する。言い換えれば、交配できるものは同じ種であり、種が違えば交配しない。

だから種が違う現世人類とネアンデルタール人は交配できない。ところが実際のDNA比較では全体の1~2%がネアンデルタール人由来だという。ネアンデルタール人のいなかったアフリカの現代人には存在していないことから、この混入遺伝子は進化の途中で残った(共通祖先から来た)のではなく、現代人がアフリカを出て、ヨーロッパを経てアジアに行く間に混血したと結論された。犬と狼のように学名が違っても交配できるものはあり、分離したばかりのころは、交尾すると低い確率でも出産、繁殖力のある子孫も残せるらしい。

ホモ属ではあるが今の人類とは別種であるネアンデルタール人、デニソワ人は、3~4万年前に種としては滅び、その間にH.sapienceと交配したらしい。

デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈の洞窟から発見され、チベット、東南アジアからオーストラリアに広く分布していたとされる。メラネシア人の遺伝子には4ー6%、日本人の遺伝子には1%程度混入しているらしい。

これら旧人はコミュニケーション、組織力に優れたサピエンスに生息域を押され、ついには滅亡した。しかしサピエンスが進出しなかったニューギニアの密林などではデニソワ人が1~2万年(日本は縄文時代)までいたのではないかと言われている。
12:20
マンモスの骨を利用した住居・復元
ウクライナ・メシリチ遺跡
東欧など寒冷地の平原は風雪を避ける洞窟もなく、こうした骨を利用した住居の工夫が必然であった。これが西洋の石造り住居につながるのかもしれない。
12:21
さまざまなヒト。
ルーシー、トゥルカナ・ボーイ

約400 - 200万年前にアフリカで生まれた初期の人類は、サルに似ていて猿人という。属名のAustralopithecusは、南の意味のラテン語australisとサルの意味のギリシャ語pithēkosから。身長は120 - 140センチメートルくらいで、脳容積は現生人類の約35%程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立していたとされる。
その中の一種、330万年前のAustralopithecus afarensisの女性の個体骨格がエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた。

トゥルカナ・ボーイはケニア出土、ずっとのちの時代で現代人と同じホモ属である。
(Homo ergasterあるいはHomo erectus)

ここでヒト科ヒト属、ヒトとサルの関係を見ておこう。

ヒト属 Homo
ホモ・ルドルフェンシス H. rudolfensis 
ホモ・ハビリス H. habilis 
ホモ・エルガステル H. ergaster (トゥルカナボーイ)
ホモ・エレクトス H. erectus (ジャワ原人、北京原人)
ホモ・アンテセッサー H. antecessor 
ホモ・ハイデルベルゲンシス H. heidelbergensis (ハイデルベルク人、大型)
ホモ・ネアンデルターレンシス H. neanderthalensis 
ホモ・フローレシエンシス H. floresiensis (小人)
ホモ・サピエンス H. sapiens

Homo属は、アウストラロピテクス属などとともにヒト亜族Homininaを形成し、チンパンジー亜族(ボノボ含む)とともにヒト族を形成する。
ヒト族 Homininiはゴリラ族とともにヒト亜科を形成し、これがオラウータン亜科とともにヒト科を形成している。

・・・・

今になって、どんな仕事が良かっただろうと考えることがある。
目に見えない有機化学や細胞生理学より、人類学というのは面白そうだ。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
ゴーギャンの絵画のタイトルでもあるが、古来から人類が最も興味を持ってきた問題の一つでもある。
教養学部から進学するとき、薬学を選んでしまったが、生物学科人類学教室というものがあった。定員4人であったため、平凡な点数だった私は志望できなかった。 

駒場の寮で短期間だが一緒だった坂井眞樹君は成績が良くそこへ進学した。西国分寺が実家でバドミントン部だった。そのあと全く消息を知らなかったが、50代になって私の上司(グループリーダー)の、さらにその上の部長研究員がY氏になった。彼は生物化学科から三菱化成に入った人で、私と同じ年であったが、身分が違ったためほとんど話をする必要も機会もなかった。しかしあるとき、彼は教駒時代に坂井君と同級生であったことが分かり、連絡先として名刺のコピーをくれた。坂井君は人類学科を出てどんな仕事についたのだろう、と興味を持ったが、名刺には
農林水産省・大臣官房政策評価審議官とあった。そのあとすぐ私は転職し、連絡するチャンスを逃した。

彼は人類学を職業としなかったことなど後悔しなかっただろうな、なんて思いながら、15年前の名刺をみつめた。


2026年7月20日月曜日

上野公園18 科博2 地球館ができる前と噴水の縮小


5月2日に国立科学博物館に来たときは時間がなくて日本館しか見られなかった。
そこで1か月後の6月5日に再訪した。

2026-06-05   12:47
平日だからすいていると思ったが、団体の学校生徒たちが多くて連休中とあまり変わらなかった。

この日は日本館の一部をさっとみて新館のほうに向かった。
12:56
新館入り口
12:58
新館は本館・日本館の対の意味か、地球館と言う。
地上3階、地下3階。

この場所はかつて、「むらさき館」「おれんじ館」「みどり館」と呼ばれる古い展示館(旧新館・旧理工学館など)が建っていた。

これらは、戦後、昭和6年開館の本館が手狭になったために建てたもので、
1953年 、理工学館(旧2,3号館、→たんけん館・むらさき館)起工。
1972年、自然史館(4号館→みどり館)起工。
1979年、 航空宇宙館(旧5号館、→おれんじ館)開館。
これらは戦前に建てられた本館に対して新しい建物であったが、科博全体の狭さから、文化財的価値のある本館を残し、これら「新館」群を建て替えることになった。

1994年 たんけん館閉館。
1999年 むらさき館、おれんじ館閉館。地球館一部(南側)完成、公開。
2003年 みどり館閉館。
と順に閉館、建て替えしながら、2004年、北側も完成、南とつながり今の地球館ができた。
グーグル2026(撮影は2025?)
飛行機の形をした旧本館(現・日本館)と四角いビルの新館(現・地球館)。

まず入口のある一階を見る。
12:58
一階の展示はアロサウルスから入る。
本館は「日本館」だから国産のフタバスズキリュウであったが、地球館はそういう制限はない。ユタ州産。
アメリカでホテルを経営していた小川勇吉がホテルを売却して購入、国立科学博物館に寄贈し1964年日本で初めて公開された恐竜の全身骨格となった。
12:59
マッコウクジラ
特徴的な頭の形から知能が高そうに見えるが、よく知らない。
13:01
クジラの裏に回ると内部が見られるようになっている。
脳の大きさは比較がないからよく分からない。
頭部には油が大量にあるらしい。これは海水を取り入れて冷やすと固まり比重が増える。それでも水より軽いが、クジラ全体としては重りとして役立ち、潜るときに都合良いらしい。
(以上、科博は説明がないから帰宅後に知った)
13:02
ダイオウイカ
手前はオオアナコンダの骨格。
科博は実物を強調したいのだろう、これらもタイトル以外説明文がない。
ダイオウイカは島根県沖産らしいことを帰宅後に知る。
13:04
腸の長さ
左:ライオン、右:牛
牛はどんな牛か不明。
ところで肉食の西洋人と草食の日本人は腸の長さが違うと聞いたことがあるが本当かどうか。
製薬会社にいたころ、病理の友人が腸管でのグルコース吸収を抑える糖尿病薬を研究していた。長期連続投与するとラットの腸がうんと伸びたというから、ヒトの腸管の長さは食生活によって違うというのはありうる。

このあたりは、どういうテーマで並んでいるのか、いろんな珍しいものが陳列されている。
13:05
ミンククジラの胃の中
(たぶん切開して裏返しにしたようだが、そういう説明は必要だと思う)
寄生虫がびっしり。胃酸でやられないのだろうか?
液はどのくらいの頻度で入れ替えるのだろう?
13:05
同じくミンククジラの腸(これも切開)
これだけ寄生虫がびっしりだと、共生が自然なのかもしれない。
13:07
他の階には行かず、一階だけで十分。
再びアロサウルスをみて科博を出た。
あまり多いと見るのも疲れる。
これから何度でも来ればよいと思った。
13:10
外に出ると子供たちがいっぱい。
この日は金曜。
学校の先生は苦労なことである。大人数の引率は大変だろう。むしろ、こういうものは個人で来たほうがちゃんと見る。興味がない人に見せることもないと思う。

13:12
隣の西洋美術館も生徒がいっぱい。
私は彼らの年の頃、こういうものに全く興味がなかった。

噴水広場(竹の台広場)ではフィリピンエキスポ2026をやっていた。
要するに屋台が大量に並ぶイベントである。

帰宅後、かつて地球館の場所にあったオレンジ館など旧新館群の航空写真を見た。
(国土地理院 1979-11-06撮影)
本館の飛行機型は今よりはっきりしていて、地球館の場所には旧2~5号館だろう、いろいろある。

1979年というと私が大学院1年生の秋。
1978年1月から谷中に住み始め、上野が地元になって2年近くたっている。
公園の中心は池だった。
ベンチにカップルが座り噴水を眺め、そのうち水際まで歩いて行って談笑する光景が浮かぶ。相本久美子が写真撮影していたのも見た。
ここは何度も来たが、科学博物館は特に興味がなく、入らなかった。
国土地理院(2019-08-08 撮影)
戦後建てられた展示館はすべて壊され、直方体の地球館ができている。

ここで、それより目立つのは噴水池の縮小とイベントスペースの創設。

グーグル2026
現在(2026-7-18閲覧)のグーグル航空写真で噴水広場を見れば、いつの撮影か知らないが(秋のようだ)、イベントをやっている。
最初、イベントは偶然かと思ったが、必然だった。

すなわち、例えば
この噴水広場の今年7月のスケジュールをみれば、毎週やっている。
 ・ふるさと東京応援祭 第三回ビールと浴衣de盆踊り 7/3(金)〜7/5(日)
 ・台湾フェスティバル2026   7/9(木)~7/12(日)
 ・タイ・サマーフェスティバル 7/17(金)~7/20(月祝)
 ・3×3 JAPAN TOUR 2026    7/25(土)〜7/26(日)
その前後に準備片付けがあるからほぼ休みなしである。

それ以外の日は灼熱の広いコンクリート地面となる。

公園というのは静かに緑と水に親しむところではないか?

ビールとソーセージ、騒音と匂い。

五輪や万博など事業をやる目的として「経済効果」が一番に出る。
何事も金儲けである。製造業がだめになってから観光立国を目指し、官民一体となってインバウンド客を呼び込もうとした。上野公園は東京観光地図を広げれば、皇居の次に目に入る。山手線駅の前の立地と言い、規模面積と言い、最も魅力的な東京の観光資源だが、押し寄せるインバウンド客を全部受け入れるキャパはなかった。

そこで木を伐り、池をつぶした。
そして毎日のように騒々しいイベントをやっている。
こんな乱暴なことをしていいのだろうか?
金儲けのためなら何をしてもいいのか?
私の好きな上野公園が消えてしまった。

2026年7月13日月曜日

イラガ幼虫のセロトニンによる痛み

2026-07-03 10:44
梅雨の合間の曇り空。今年二回目の生垣の剪定をした。
突然、右手親指の背中(指紋が無いほう)に痛みを感じた。とげが刺さったかと思ってみたが何もない。

そのまま作業を続けていると、毛虫がいた。
ウミウシのような形と鮮やかな色は、以前も見たような気もするが思い出せない。
10:59
AIに聞いたらヒロヘリアオイラガ(学名: Parasa lepida)という。
漢字で書くと広縁青毒棘蛾、チョウ目イラガ科の昆虫。

イラガという蛾がいるのか。
漢字を見るとイラガは毒棘蛾である。つまり毒棘がイラとなる。

イラとは何か?
数年前まで薬理の講義を担当し、皮膚疾患のところで蕁麻疹について毎年話した。
私は教科書というものは教科の方針と概略を示すもので、試験の前に復習するには良いと思う。しかし教科書を暗記するという勉強は少なくとも大学生はするべきではない。だから講義ではなるべく教科書に書かれていないことを話すようにしていた。
たいてい病名から話し始めた。

すなわち、なぜ蕁麻疹というか、と講義を始めたものだった。
大人数が相手だと一方的に自分で答えなくてはならない。
蕁麻疹の「蕁」はクサカンムリだから植物である。蕁を調べるとイラクサ。
イラクサにはヒスタミン、アセチルコリンを含むとげがある。スタミンは肥満細胞や好塩基球で産生され、アレルギー、アトピー性皮膚炎などの原因物質となる。これが健常人の皮膚内に注入されれば痒みや発赤、腫れを引き起こす。奈良公園のシカはこれを避けるため、イラクサが増えたという。
千駄木菜園に戻れば、イラガのイラは「毒棘」だが、国語的にはイラは「刺」「苛」とかく。

もとは草木のとげや刺激の強さに関わることから、きびしい・むごい・責めるなどの意味に発展したとされる。いらいらするというのもここからだろう。

イラガ幼虫の棘には
・ヒスタミン
・セロトニン
・タンパク質・ペプチド
・低分子の炎症惹起物質
・酵素類
などが含まれるという。

あとの3者は「そりゃ、何にだってあるだろう」という、書かれても意味のない成分だが、セロトニンが重要。

もともと生理的にはセロトニンは遠心性神経の伝達物質で、脊髄シナプスの5-HT1Rにはたらき求心性の痛覚伝達を抑制している。その意味では痛覚抑制物質といえる。(中枢のセロトニンやノルアドレナリンを増やす抗うつ薬が痛みにも効くというメカニズムはこれだといわれる)

しかし組織が損傷したり炎症を起こせば、集まってきた血小板が活性化され、それがセロトニンを放出し、これが求心性の痛覚神経の受容体(5-HT2/3R)に作用して痛みを引き起こす(いっぽう同時に肥満細胞などから出るヒスタミンはかゆみを引き起こす)。

こういう仕組みになっているところに皮膚の外からセロトニンを注入されたら、まず第一に痛みを引き起こすだろう。私が感じた「激痛」はこれだと思う。
11:12
剪定して道路に落ちた葉っぱにもイラガ。
無防備で集めていたら、そりゃ、つかんだり触れたりするだろう。
11:16
びっしり集まっている葉っぱもあった。

激痛はやがて鈍い痛みに代わり、腫れは2,3日続いた。
後ろのほうの反応はヒスタミンやペプチド性の炎症物質が関与しているのだろう。
10:44
家の前は数年前に空地となった。このあたりは地主さんが一族で共同所有していて、その複雑さから売却も住宅建設もなされず、空き地のままである。その隣は独身の初老の男性が住み、手入れもなされずツタでおおわれているが、そのうちここも空き地となったら大きなアパートでも立つのだろうか。
10:43
メロンは全滅した。
食べたあと保管していた種から育てていたが、梅雨の間に枯れてしまった。
接ぎ木の市販苗と比べ、根が弱く、梅雨で腐ったか、センチュウにやられたか。
同様に自家採種のスイカ苗も枯れてきた。

2026-07-07
1番畝のトウモロコシ。
今年も丈が小さい。肥料をけちるからか、直播きにせずポットに播くせいか。
2026-07-09
3番はスイカ、落花生、4番はナス、サトイモ。
この日とったフキはいつもより1か月遅い。
職場の人が食べるというからとった。フキは調理が面倒だから我が家でも年に1回しか食べず、大部分は放置されて枯れていく。

まだ梅雨は明けない。明けたら猛暑、それが過ぎ里芋、落花生を収穫すれば今年も終わってしまう。

7月11日、NHKスペシャル 「私の往生際 養老孟司が見つめた“生と死”」がん闘病の記録 が放送された。ずっと死を冷静に見つめ、何でも達観していると思われた彼もさすがに従来の威勢のよさがなくなっていた。肉体的なしんどさが頭の活動にも及ぼしているのだろう。

人間はどんな元気な人も死んでいく。千駄木で市販品に負けないほどうまく作れる作物と、何度やっても失敗する作物。今年こそ、と挑戦して毎年失敗しながら老いていく。

(追記 2026-07-20)
2026-07-16
2週間近くたって突然、刺されたところに水疱ができた。
この長い潜伏期間は何だろう?
イラガの媒介するウィルスじゃなければいいな。
真皮と表皮の間のデスモグレインなどが分解される自己免疫疾患に似ている。
とりあえず、安全ピンで水を何回か抜き、7月20日、ほぼ治った。


2026年7月10日金曜日

上野公園17 西洋美術館5 ブリューゲル、モネの破損作品を見て、レンブラント展は入らず。

7月8日、3週続けて西洋美術館に来た。
目的はブリューゲル(父)の版画を見ること。
前のブログを書くときに西洋美術館の「作品検索」で彼の名を入れたとき、27件もヒットし(すべて版画)、そのうちの1件が展示中とあったからだ。
しかし常設展の版画展示室にはなく、係の女性に聞いたら、企画展のほうだという。
いま、レンブラントの版画展をやっていて、影響を与えた作家の作品として出ているのかもしれない。

せっかく入ったので父と同名のフリューゲル(子)の絵を見に行った。
好きな絵だけど4回目にして初めて写真に撮った。

2026-07-08   11:38
「鳥罠のある冬景色」
ピーテル・ブリューゲル(子)(1564-1637)

私の好きな父親の「雪中の狩人」とそっくりだった。
フランドル地方の北方ルネサンスの画家として知られる父は5歳のときに亡くなり、長男の彼は父の作品の多くを模写し、さらには何枚も複製した。実際、父親にも「鳥罠のある冬景色」(1565)がある。

ブリューゲル父の作品は私学共済の組合員誌に連載された「名画物語」で紹介され、ページを破いてとっておいた。
「雪中の狩人」(1565)
Pieter Bruegel the Elder(1525?‐1569)
彼は「バベルの塔」のほうが有名かもしれない。

さて、「鳥罠のある冬景色」に戻す。
親子だからタッチが似たわけではないのである。
2つ前のブログに書いたが、絵というものは実物を写すのは難しいが、絵になったものを写すのはたやすい。画家ならば息子の彼でなくてもそっくりな絵は描けただろう。

となりに彼の弟、すなわちピーテル・ブリューゲル(父)の次男の絵があった。
ヤン・ブリューゲル( 1568 – 1625)
彼の子も同名の画家であり、この一族は何人も有名画家が出ている。

19世紀の作品がある新館に行った。
11:42
「春(ダフニスとクロエ)」(1865)
Jean-François Millet(1814‐1875)
ミレーは落穂ひろい、晩鐘、種をまく人など農民の姿を描いた作品が有名だが、それらより
10年ほど後の作品である。
昔、山梨県立美術館がミレーの絵を購入して話題になった。

モネの部屋を出たところに休憩スペースがあり、ビデオを上映している。
腰を下ろして見ていたら、川崎重工が2023年3月から西洋美術館のオフィシャルパートナーになっているという話をしていた。西洋美術館の核となった松方コレクションの松方幸次郎が川崎造船の社長だった縁による。
11:47
ふと背中の壁を見ると、「寄贈者御芳名」があった。筆頭はもちろん松方幸次郎。つぎの大阪商船というのは三井船舶と合併して今、商船三井になっている。川崎造船からスピンアウトした川崎汽船とはライバル関係にある。船運会社というのは絵画が好きなのだろうか。

ふたたびモネの部屋に戻った。
作品検索によれば、モネの作品は19点ああり、油彩画が16点、そのうち12点が展示中とある。
ほんとにあるのだろうかと数えたら、確かに展示されていた。

2つ前のブログに油彩画が全部で370点、常設展が120~150点と書いたが、16点中12点を展示しているということは、全作品を平等に入れ替えるのではないことを示す。
やはり来館者は有名作品を見たいから、それに応える形で入れ替えているのだろう。

2年前に入ったとき見た「波立つプールヴィルの海」(1897)、「しゃくやくの花園」(1887)は今回なかった。モネの働き者16点は4点ずつ倉庫で休めるのだろう。

今回、3週続けて前を通り過ぎた、ある大型作品を初めてじっくり見た。
12:12
「睡蓮・柳の反映」(1916)
一瞥すると上部に金箔をはった、例えば尾形光琳の屏風絵のように見え、とても睡蓮とは思えず、先々週も先週も通り過ぎていた。
近くに寄ったら、金色の部分は絵の具が剝げた後だった。
要するに大破している。
横の説明を読んだ。
12:16
この作品は松方が購入したあとロダン美術館に預けられ、大戦中地方に疎開されたときに損傷したらしい。戦後、敗戦国資産としてフランス政府に接収されたが、あまりの損壊ぶりに、接収リストや返還リストにも入っていなかった。2016年というから最近だが、ルーブル美術館の中で発見され、2017年、松方家から西洋美術館に寄贈されたという。
この数奇な来歴を知って、もう一度絵の具のはげ具合を見て、この部屋を出た。

1階に降りた。
3週続けて入って、そのたびに気になっていた絵を初めて撮影した。
12:24
「ケイテレ湖」(1906)アクセリ・ガッレン=カッレラ(1865‐1931)
2021年度購入
フィンランドの画家らしいが初めて知った。
フィンランドは人口500万人。1809年までスウェーデン、その後ロシアの支配下にあり、1917年に独立した。反ロシア感情からEU諸国の中では最も親日度が高いらしい。
彼は1904年の日露戦争のニュースを聞いていただろう。

改めて絵を見ると、静かさの中に水面の動きが見えて不思議な絵である。

ここで常設展会場を出た。
地下の企画展ではレンブラントの版画が展示されているらしい。

ポスターを見ると協賛キッコーマンという。
野田の茂木本家美術館がレンブラントを所蔵しているのかと思ったが、そうでもないようだ。
しかし出口近くの特設売り場にキッコーマンがあった。
12:29
醤油さしにレンブラントの自画像が描いてある。660円。
しかし文字は英語。veganとも書いてある。ますますわからなくなった。

調べたら、キッコーマンは1997年、オランダに初のヨーロッパ工場を完成させた。それ以来、社会貢献活動としてレンブラントハウス美術館の改修増設などに寄付を行ってきて、新館にはKikkoman Roomという展示室もあるらしい。その美術館ではヨーロッパ限定の醤油さしを売っているらしく、今回特別に日本でも販売したようだ。

オランダは確かに江戸時代を通じて国交があったが、レンブラント(1606‐1669)が醤油を知っていたかどうかは分からない。

醤油さしの向かいではレンブラント作品の複製品も展示されていた。(版画自体も複製品だが。)
4万円くらいである。見入っていると、係の女性に声をかけられた。
聞けば美術館とは関係なく販売するササキアートの人らしい。
12:32
雑談すると、いまアジア人が非常に多いらしい。
昔は外見、雰囲気から日本人と区別できたのだが、今は全く分からないという。「話してみて日本人じゃなかったらこのカードを出すんです」。見れば英語、中国語、ハングルのカードが置いてあった。手書きだからこの場でスマホを見ながら書いたのだろうか?ハングルを見ながら写すのは大変だ。
読めば40年前、オランダのレンブラントハウス美術館で限定複製され日本に輸入されたもの、というが、本当だろうか?

ここで外に出た。

梅雨も明けるかな、と思う暑さだった。
12:54
この日は野球場の裏、西洋美術館と交番の中間にあるスペースの縁石に座り、相変わらず多い外国人を見ながらサンドイッチを食べた。

不忍池におり、池をぐるっと回って午後の仕事に向かう途中、ギーンという変な音が聞こえた。
13:14
何かイベントの準備をしていて蓮池の中の遊歩道にまでびっしり風鈴がぶら下げられていた。
風鈴というのはたった一つがたまに来る風で鳴るものだ。
無数に並べればひっきりなしの連続音になってしまう。一つ一つを見ればガラス製のきれいなものである。企画した人は「夏」「涼しさ」ということから風鈴を選んだのだろうが、多いほうがいいだろう、と大量に並べた結果、雑音となり、壮観という視覚的なものしか生まれなかった。