2026年8月6日木曜日

上野公園20 科博4 モル、カンデラなど7つの基本単位

6月以降、無料の西洋美術館と科学博物館にしばしば立ち寄っている。

7月10日にも何回目かの科学博物館に入り、恐竜や人類の化石について前のブログに書いた。
そのとき、ほかにもいろいろ写真を撮っておいたので書いておく。

地球館の地下2階で生物の進化、ヒトの進化についてみたあと、地下3階に降りた。
ここは「自然の仕組みを探る」と、ようやく生物標本を離れた。
このフロアは日本の科学者、自然法則、宇宙、物質を展示する。
地球館マップ

地下3階の展示室に入ると Alfred Nobelの遺言、日本のノーベル賞学者の写真と説明が所せましとパネルになっていた。
2026-07-10 12:24
福井謙一(1981年)、白川英樹(2000年)と受賞順に並んでいる。
12:25
化学賞は
北川進(2025年):金属有機構造体(MOF)の開発
吉野彰(2019年):リチウムイオン電池の開発
根岸英一・鈴木章(2010年):パラジウム触媒クロスカップリング
下村脩(2008年):緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見
田中耕一(2002年):生体高分子の構造解析手法の開発
野依良治(2001年):不斉触媒による水素化反応の研究
の全部で9人
12:26
この長い年表のようなパネルは化学賞9人、
物理学賞12人(米国籍の南部、中村、真鍋氏を含む)
医学生理学賞6人
というノーベル賞受賞者だけでなく、日本が誇る科学者の生きた時代を示している。
12:27
長井長義、高峰譲吉、鈴木梅太郎
長井は日本で最初の理学博士5人のうちの一人で、東大がお雇い外国人教師から日本人教授に切り替えるとき薬学と理学で奪い合ったが、薬学の教授となって後進を育てた。高峰(アドレナリンの発見)、鈴木(ビタミンの発見)はその業績からしてノーベル賞をもらっておかしくない。

近年日本は、産業が空洞化し新興国に押され、ただ通貨が安いというだけの国になってしまった。安い国というのは本来貧しい国である。尊敬されるにはやはり科学(ノーベル賞)しかないだろう。

一人ひとり見ていては時間がかかるので、奥は何があるのだろうと歩を進めていく。

このフロアはこれまでの生物標本とちがって自然法則、宇宙、物質を展示する。
法則を発見するには現象を定量的に記録しなければならず、そのためには単位が必要である。
国際単位系(SI, International System of Units)における7つの基本単位は、時間、長さ、重さ、電流、温度、物質量、光度を表すもので、それぞれ秒s、メートルm、キログラム㎏、アンペアA、ケルビンK、モルmol、カンデラcdである。
12:31
それらの単位を実感するための展示があった。
sは指を置くと脈拍の間隔を秒で表してくれる。
私はもともと速いのだが、この時は荷物を持って歩きまわっていたせいか0.55秒だった。1分あたり109である。今書いている時はほぼ60だった。

となりのkgは7つの基本単位で唯一、1000倍を表すkがついている。もともとグラムは1センチメートル立方の水の重さで定義したものだが、実生活に使いやすいよう、10センチ立方の水の重さであるkgが基本単位になったのだと思われる。
そういえば、高校の物理でCGS系とMKS系を習ったな。力の単位は前者だとダイン(1 g⋅cm/s2 )、後者だとニュートン (1 kg⋅m/s2)と、この年になると昔が懐かしい。

前者はcm、後者はkgと、それぞれ基本単位メートル、グラムの100分の1、1000倍という単位を含むため美しさに劣ることでは同じである。CGSは卓上実験のとき便利だから科学者に好まれ、MKSは人間の大きさに近いので技術者に好まれた。しかし結局後者のほうが実生活の大きさに近いため、SIに組み込まれた。10のべき乗を含まないなら1メートル立方の水の重さ、トンを使うMTS系が考えられるが、重すぎてだめだ。
栄養学で実生活に言いやすいように、キロカロリーをカロリーと言っているより、ずっとまともな議論だが。
12:30
その重さを実感する展示装置は、「調整中」で使えなくなっていた。
いくつかある重りをのせて1kgの重りを当てるようだったが、乱暴に扱われて故障したのだろうか。
となりの「m」長さの装置は、レバーをレールの上で動かし、1メートルの長さを推定で作ってみるというものだった。しかしほとんどがアジア人観光客で日本語が読めず、みんなレバーを乱暴にガーガー滑らせているだけだった。これも故障するかもしれない。

アンペアのところはハンドルをぐるぐる回して1Aを発電してみようということだった。
12:33
元素周期律表
この辺りは人がいない。
12:34
平日だから個人の学生、生徒もおらず、ほとんど観光客。日本人そっくりでも聞こえるのはすべて外国語だった。

7つの基本単位のうち、物質量 (mol)、温度(K) 、光度(cd)も一か所に並んでいた。
12:36
モルのところは1モルの分量の物質が4種類展示されている。

モルというのは物質の量と書いたが、肉や野菜の「量」は重さでも体積でも表される。しかしモルで表す「量」とは粒子(原子、分子、イオン、電子など)の個数のことである。

普通の化学で扱う固まり、液体、粉を構成する微粒子の量は何億個、何兆個にもなるからアボガドロ定数6.02×10^23の何倍かという表現をする。
すなわち
 モル数 = 粒子の個数/アボガドロ定数
である。
アボガドロ数の2倍の数の粒子の量は2モルである。
つまり1モルの物質に含まれる粒子の個数は、鉄であろうが水であろうが空気であろうが、粒子が何であっても一定(=アボガドロ数)である。

歴史的には微粒子の中で普通に化学で扱えるものは分子moleculeだったから、ここからmolという単位記号ができた。ケルビン(温度)やパスカル(圧力)のように人名を使ってAv(アボ)でも良かったけどね。
その後NaClや金属原子などにも適応され、分子だけでなくイオン他の微粒子の個数の単位に広がった。

長年、酸素分子 32 g に含まれる分子の数を 1 モル としてきたが、同位体が存在することもあり、1960年に炭素12Cに原子量 12 (整数!)の値を与えることにして、その12グラム分の原子数を1モルとした。つまり重量で決めた。
ところが、2019年、アボガドロ数のほうを正確に6.02214076×10^23 /molとすることで再定義し(重量でなくなった)、1モルの炭素12の質量は、12 gではなくなり、11.9999999958(36) gという実験値となったらしい。

それにしても、よく考えるとモルというのは変な単位である。
他の単位が連続量なのに対し、これは1つ2つと数えられる粒子数の単位なのである。また比であるから無次元である。1円2円と数えられるお金の、万、億、などという単位と同じである。
12:28
展示されているのは炭素C、 アルミニウムAl、銅Cu、タングステンWの1モル分の固体である。単体であるから(炭素の単体はダイヤを展示するわけにいかないから黒鉛だろう)、1モルの重さは原子量にグラムをつけたものに等しい。

それぞれ元素番号は、6,13、29、74で、陽子だけならこの値が質量になるが、中性子があり、また同位体があるため原子量は12.01,  26.98,  63.55,  183.84  であり、これが実際の質量(=地球上での重さ)になる。
シーソーの一端を指で押して重さの違いを感じるようになっている。
ここにあるタングステンと炭素とは原子の総個数は同じで(=1モル)、体積はそれほど変わらなくても重さが15倍ほど違う。

となりの温度ケルビンKの展示は掌の温度を測るだけだった。

その隣の明るさの単位、カンデラ、cdは筒の中で光を発している。
覗くと思ったよりまぶしかった。
1カンデラは、ほぼろうそくの明るさに等しいという。実際、歴史的には決まった量のろうそくや脂を燃やしてその明るさを単位とした。カンデラは candleと同じ語源である。
しかしろうそくでは各自、各国バラバラなので現在は「周波数540×10^12 Hz (波長555 nm)の緑の単色放射を放出し、所定の方向におけるその放射強度が「1/683ワット毎ステラジアン」である光源の、その方向における光度」と定義されるらしい。

ふつう光は見る人の方向だけでなく全方位に光が行く。全方位の立体角は4πステラジアンだから、光源の強さの単位、ルーメンは 1ルーメン=4πカンデラという関係がある。

また、照度(ルクス)は受け取る側の明るさである。光は同じ立体角でも離れれば離れるほど広がって薄まる。球の表面積は半径の二乗に比例するから、光度を距離の二乗で割ったものが照度の目安になる。実際、ルクスはカンデラを距離(m)の二乗で割ったものと定義される。これは1ルーメンの光源が1平米を照らした時の明るさと同義である。

ちなみに、カンデラ cd やモル mol は人名でなく普通名詞由来だからA、Kのような大文字でなく小文字で書く。

ここで外に出た。
12:44
この日は科博の前、木々の向こうに噴水が見えるところでお昼を食べた。

食べた後不忍池に降りると観光客が増えた。
13:11
骨董市、がらくた市
日本人から見たらごみであっても、外国人は喜ぶだろう。
13:15
風鈴下の休憩所

単位というのは面白い。
モノを測るときに重要であるだけでなく、それを決めていった過程が科学の発展の歴史と直結している。

アボガドロ(1776-1856、イタリア・トリノ)が1811年に
『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法』という論文で、同じ温度、圧力、体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるという法則(彼の死後アボガドロの法則と名付けられた)を発表したが、国外では無名であったこと、論文が難解であったことから学会の相手にされなかったという。

実際どういう実験をしたのか、ボケ防止のために高校のころ勉強したことを思い出してみる。
真空はだいぶ前に(1643)発見されているから、彼らの時代には気体は粒子の集まりということは知られていただろう。すると同じ気体で体積が2倍あれば気体の粒子数も2倍になると考えるのは自然の流れである。つまり体積が粒子数を表す。
ただ、種類の違う気体の体積を比較したときはどうか?
すなわちアボガドロの法則にどうつながるか?

ここで水素と酸素を反応させ水蒸気ができる実験をすればよい。
  2H2+O2=2H2O
このとき反応前後の体積比を測れば
  2:1:2となるだろう。
また、塩素と水素で塩酸ができるときは
  Cl2+H2=2HCl
  1:1:2であろう。

このように化学反応の時の体積比が1:1、あるいは簡単な整数比になる。
1対1で反応する気体の体積比が1:1であることから、同じ体積の中には気体の種類が変わっても同数の粒子が含まれていることがわかる。体積が半分なら粒子も半分である。

ここで解決したと思って念のためネットで調べたら少し事情が違っていた。
当時は大混乱したらしい。
二原子分子の存在が知られておらず、当時主流の原子説では
 H+Cl=HCl  (1:1:1)
 H+O=HO  (1:1:1)
にならなければいけなかった。

ちなみに気体反応における体積の整数比を発見(1808)したのはアボガドロでなく、フランスのゲイ・リュサックであり、原子説(1803)はイギリスのドルトン。両方とも画期的発見である。
アボガドロは、原子が結合した分子という粒子を初めて想定して(1811)、原子説と整数比の矛盾を解決しようとした。
分子は moleculeであり、アボガドロ数のアボガドロと mol はここでつながる。


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2026年8月3日月曜日

柏の葉のラグビースクール、千葉大園芸学部と高等農学校

7月14日、千葉県立柏の葉高校に行った。

ちょうど1年ぶり2回目。
前回は柏の葉キャンパス駅から広い公道を歩いたのだが、高校生たちが千葉大の敷地を通り抜けて登校するのを見たので、今回は彼らについていった。
つくばエクスプレス「柏の葉キャンパス駅」周辺

かつてこのあたりは陸軍の飛行場があり、戦後アメリカ軍に接収され、返還されてから大学や公園になったことは1年前のブログに書いた。
8:16
「千葉大学柏の葉キャンパス」という表札のある入り口から入る。
守衛所などはない。入っていくのは大学関係者ではなく全員通り抜けの高校生である。

すぐ左にラグビースクールジャパン というインターナショナル・スクールがあるがフェンスがないので境界がわからない。

地図には千葉大の「環境健康フィールドセンター」と「バイオヘルスオープンイノベーションハブ」が書いてあるが、見たところ大部分は畑(果樹園)である。

歩いていくと左に芝生のグラウンドがあった。
8:16
2本の高いポール。これはひょっとしてラグビー場ではないか?
千葉大キャンパスの西に隣接するRugby School Japanというのは近年できたイギリスの名門校の日本支校だ。
えっ? スポーツのラグビーは、このラグビー校と関係あるのか?
あとで調べよう。

右側は千葉大の畑である。
松戸キャンパスにある園芸学部の付属農場らしい。
8:17
梨だろうか。
(実家でも)作ったことがないので姿からは分からない。

千葉大は農学部でなく園芸学部である。
両者の違いは前者が林学から畜産、水産まで含むのに対し、後者は野菜、果物など作物栽培に限ること。私立の場合は畜産、水産などが独立することはあるが、明治以来の伝統の用語としてはそういう区別である。

では戦後、千葉大園芸学部となる前、戦前の名前を見てみよう。
1909年 千葉県立園芸専門学校として出発。
1929年、県から文部省に移管され、官立の千葉高等園芸学校となった。
最初から園芸に限ったのである。

戦前、官立高等農学校として設立されたは7つあった。
もともと農業に関する高等教育は、明治前期に札幌農学校(のち北海道帝大)、駒場農学校(のち東京帝大)、私立の東京農学校(のち東京農大)があったが、これでは不足である。

明治後期になって、
1902年盛岡高等農林
1908年鹿児島高等農林
1910ー1914、上田、東京(西ヶ原)、京都の3高等蚕糸学校ができ、これらは1903年制定の専門学校令の適用を受けた。すなわち旧制中学を出て入学する学校となった。これらは戦後それぞれ信州大、東京農工大、京都工繊大の設立母体(大学内の最古の学部)となった。

第一次世界大戦後、高等教育機関拡充の動きの中で各地の誘致もあり、さらに鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎の官立5農高が1920年-1924年に設立され7つとなり、1929年には千葉県立園芸学校が文部省に移管され官立高等園芸学校となった。
またその上位校となる帝国大学においては、これ以前から農学部が設置されていた東京帝大に加えて1920年-1923年には九州・京都でも農学部が新設された。

しかし戦前における専門学校の単科大学昇格という点で言えば、官立2校・公立1校が昇格した高等商業学校(一橋の東京商科大、神戸、市立大阪)、また官立2校が昇格した高等工業学校(蔵前の東京工大、大阪工大)と異なり、高等農学校の場合は私立の1校が東京農業大学として大学昇格を果たすにとどまった。

残りの官立農学校7,官立蚕糸3,県立から官立となった千葉の11校は、戦前には大学にならなかったが戦後各地の国立大学の一学部となった。

国立大学農学部のほうから見れば、名門といえる官立11校のほかに、県立農林専門学校(新潟、信州、静岡、愛媛、香川、など)、帯広畜産学校、農業学校の教員養成をしていた東京農業教育専門学校(のち東京教育大から筑波大)なども戦後大学になった農業関連学校である。
8:17
柿の実が生っている。

千葉大園芸学部に話を戻すと、園芸という単語が野菜、果樹、庭木、花卉などの栽培またはそのための技術であると分かっていても、NHK「趣味の園芸」の影響からか、ガーデニングとか草花の栽培のイメージが強い。

しかし通路から目に入る範囲には、ほとんど果樹であった。
品種改良など日本の農業技術の発展に果たした役割は、各県の農業試験場ほど目立たない。
8:18
ブドウ畑か。
8:18
左はラグビー校を過ぎ、目的地の県立柏の葉高校の敷地になった。

回廊といえる通路をとおって、県立柏の葉公園の前の通りに出た。
8:21
動植物、土の採取、畑、建物への立ち入りを禁じているだけで、通行はOKである。
千葉大の敷地は途中からこの通路部分だけになっていて、裏の通りへ出るためだけの校地である。

千葉大の東は東大。
8:24
東京大学インターナショナルロッジ
留学生のための宿泊施設は雑司ヶ谷や巣鴨にもあるのではなかったか?
生活支援金などは中国などからの留学生でなく、日本人の大学院進学者に援助してもらいたい。
8:25
東大の他に、産総研、国立情報学研究所もあるようだ。
はいってみた。
8:25
人がいない。
柏Ⅱキャンパスとあるのは、ずっと広いIキャンパスが東のほうにあるからだ。
そちらは前のブログに書いた。
8:27
広すぎて空地があって草ぼうぼう。
8:28
自転車置き場。
こんなに広いんだから、開放型にすれば建設費も安いのに。

柏の葉高校での待ち合わせは8:40
10分あったので道路を渡って県立公園に入ってみた。
8:30
千葉県立柏の葉公園
戦前の飛行場が米軍に接収され、返還後に国と県で分け合ったことは前のブログで書いた。
国は大学の国立研究所を建て、県は高校と公園を作った。
8:31
広い。
人工の池がある。サッカー場は一時柏レイソルがホームとした。野球場は前年、高校野球の千葉県予選をやっていたが、今年はどうか。
体育館も立派なんだろう。
公園センターや茶室では市民に講習会などもやっている。
茶室の上生和菓子つき抹茶は800円。

8:33
入口からの通路の両側は密林

8:34
キャラボク
香木の沈香(ジンコウ)の中でも最高級として知られる伽羅(キャラ)とは別物。
伽羅と似ていることからキャラボクと名付けられたが、キャラを知らないので香りが似ているのか姿が似ているのか分からない。
目の前のキャラボクの葉っぱはイチイに似た常緑針葉で、実際イチイ科である。
ちなみに子供のころ実家にあったツガ(トガ)は似ているがマツ科である。

時間が迫っていたので、公園案内図の左下のごく一部を覗いただけで戻った。

講演は体育館に空調がないということで生徒は各教室で聞くというリモート講演となった。
各教室すべてにつながっているかどうか確認に時間がとられた。面倒だなと思う教員もいることだろう。マスメディアの熱中症連呼は一般人にもうつり、こういうものは少数意見でも通るから世の声になってしまった。夏は暑いのが当たり前であり、変な声によって地球温暖化はますます進んでしまう。

ま、とにかく話は終わり、駅まで送りますという声を辞退して来た道をもう一度歩いた。
10:02
千葉大圃場の棚はやはりブドウだった。
袋がかかっている。どんな品種かはわからず。

学生たちの姿は見えない。
彼らは1年の時は西千葉キャンパスで、2年以降松戸にくるらしいが、他大学の農場と同じく、実習はしても日ごろの作業は専門職員がするはず。

千葉大の圃場の南のほうまで歩いてくると通路西側にラグビースクールがある。
千葉大の敷地(道路)との間は大した境界もないので近づいてみた。
10:05
Rugby School Japan
全く知らなかったのだが、イギリスの「ザ・ナイン」と呼ばれる最も歴史ある9つの最難関校のパブリックスクール(イートン校やハーロー校など)の1つに数えられる。イングランドのラグビーにある。ここは9世紀ころから集落があり、1567年、学校ができた。校名は創立者の名前でなく地名ということだ。ラグビーは現在人口7万人。

1823年、ラグビースクールの生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスが、フットボール(サッカー)の試合中に手でボールを持って走り出した というのがラグビー発祥とされる。これには諸説あるが、ラグビーワールドカップの優勝トロフィー「ウェッブ・エリス・カップ」の由来になっている。

目の前の案内図のラグビー場にはWebb Ellisと書いてあった。


この通り抜け道の南門から出る直前に、千葉大側に一本の木があった。
10:08
気になったので近づくとカシワの木だった。
もちろん千葉大柏の葉キャンパスを表す。

カシワというのは枯れた葉は褐色に変わり、その多くは春まで枝についたまま新芽が出るまで落葉せずに残っている。この姿が親が子を見守る、家系が絶えないとして縁起の良い木とされた。

このような樹木は落葉樹でも常緑樹でもなく枯凋性(英:marcescence)という。
本来、枯れて落葉するのは冬季に葉から水分の蒸発を防ぐためとか栄養素の回収とか風雪防止とか、生存に有利なものとして進化したといわれる。
ところが葉が落ちないものが残ったのは、動物による春の新芽の食害を防ぐことなどが理由だろうか。

カシワは信州の実家にあって、埼玉で伊奈町から指扇プラザに引っ越した時、親から苗をもらった気がしたが、その後忘れ、少なくとも千駄木には持ってこなかった。

通り抜け道南門の道路を渡れば、駅前のショッピングセンターである。
10:14
ららぽーと柏の葉
おしゃれな店が多い。
ここは暮らしやすそうだ。
10:17
駅前ロータリー

大学、研究所に公園、運動場などの公共施設が駅から遠からぬところにあり、駅には大きな商業施設がある。何もないところに作ったから広々している。
歴史とか猥雑さがないが、そういうものに興味がない人には最高に住みやすい街に思えた。

駅名か開発地区名かどちらが先か知らないが、西柏とか新柏にせず、柏の葉にしたのは良い。柏の木だと意味がない。

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2026年7月26日日曜日

上野公園19 科博3 パンダと貝の化石。ヒトの進化

アルバイトしていた湯島の会社で、4月から正社員になってしまい、毎日出かけるようになった。

しばしば午前中、北千住あるいは葛飾の畑のアルバイトに行き、午後から出社するが、上野公園を通過することが多い。
そんなことで、このところ無料の西洋美術館と科学博物館に立ち寄っている。

6月5日 科博(1か月ぶり。前のブログ)
6月19日 科博 (散髪したので歩いただけ)。
6月24日 西美 (科博休館だったので2年ぶり)
7月1日 西美 (ゴッホ展は入らず)
7月8日 西美 (レンブラント展は入らず)
7月10日 科博 (1か月ぶり)
7月17日 科博 ゲリラ豪雨で雨宿り

2026-06-19
6月5日に来たときここで免許証を落とし、無事戻ってきたが、この日、持ってくるのを忘れた。
(上野警察署で返却されるとき、身分証明書が必要ということであったが、免許証の顔は私ですと言って、それでOKだった)
2026-06-19
年齢証明すれば無料ということに慣れてしまうとお金を払って入るのがもったいなくなる。
この日は入場しなかった。

その後、何度も上野公園に来たが、3週続けて西洋美術館のほうに行っていた。

7月10日、1か月ぶりに科学博物館・地球館に入る。
人生4回目だが、2013年は忘れてしまったし、5月は日本館のみだったから、地球館は実質2回目ということになる。

前回同様、一階の入口から最初の展示室に入ればアロサウルスがいる。
一瞥しただけで裏に回ったところ、パンダがいた。
ここは一度回っただけでは見逃すものがいっぱいある。
2026-07-10 11:58
1980年から上野にいたホァンホァンだった。
1997年に死亡、科博に寄付された。
ホァンホァンは歓歓。
教養学部時代、選択自由科目の第3外国語で中国語をとった。教科書に「欢迎、欢迎(ようこそ、huān yíng、huān yíng)とあって何度も口にしたから、昔から読めた。

上野動物園のパンダは1972年10月に贈られたランラン、カンカンが最初である。
東京芸大の学生が動物園側の窓の下に「熱烈歓迎」と書いた幕を掲げ、その写真を載せた週刊誌を高校の図書室で見た記憶がある。当時はパンダが熊と猫のあいの子だと思っている人もいた。

蘭蘭が1979年に死亡、1980年1月に来日したのが、この歓歓である。
1980年6月には康康も死亡、4頭目として1982年、飛飛(Fei Fei)が来た。
以後上野は13頭のパンダがいたが、2026年1月にシャオシャオ、レイレイが中国に返還された。空になって半年のパンダ舎は先日、解体されることが決まったらしい。

現在、パンダはレンタルだから、遺体も自由にできないみたいだが、昔は寄贈されたものだから、はく製は日本に残された。学生だった1979年か80年ころ、ランラン、カンカンのどちらかだったか分からないが、研究室の先輩、大塚英昭さんが上野までパンダの血液をもらいに行った話を聞いた。当時、大塚さんは医学部生化学教室の助手をされていて、そこの山川民夫教授は赤血球表面の糖鎖の研究で有名だったから、パンダの血液型でも調べるつもりだったのか?

パンダのとなりは植物のヤツデ。
葉っぱの重なり具合をみせていた。
相変わらずここはゾーンのテーマというか、陳列の方針がわからない。
(後で見たら「地球の多様な生き物たち」だった)

その並びに先日見たライオンと牛の腸の長さの比較があった。
その横にキリンの舌があった。 木の枝のよう。
12:01 舌3種
左から
ウシ(牛タン)
ジャワマメジカ(最小の偶蹄類)
キリン

1階だけでもいろいろ発見があり、なかなか進まないので地下の展示室に向かうべく、入口付近の階段を下りた。

途中のエスカレーターロビーに大きな平らな石があった。
12:04
淡水魚化石 米国ワイオミング州産
魚がいっぱいいる。しかし黒色である。
黒というのは有機物が残っていることを意味すると思うが、あり得ない。
相変わらず何の説明もない。
おそらく化石が分かるように塗ったのではないか?

もしそうならひどい。
せめて半分を発掘したままの色(たぶん跡だけ残り、岩石と同じ色だろう)にしておくべきではなかったか?
地下1階は子供が大好きな恐竜。

12:06
始祖鳥とヒトの骨格
脊椎動物というのは1億年以上も変わっていないことが分かる。
骨格が変わっていないということは内臓、筋肉も同じということだ。
進化とは何か? 脳だけだろうか。

12:07
何体もの恐竜の骨格標本は迫力あり、インバウント観光客は大人も子供も喜んでいる。

12:09
地層の年代測定
恐竜化石の発掘ではなかった。

地下1階は3分の1が恐竜で、残りは特別展のスペースになっている。

地下2階に降りた。
1階が生物の多様性だったのに対し、地下2階は地球環境の変動と生物の進化を展示している。
12:15
化石いろいろ。貝が多い。

ふと、家にある化石を思い出した。
家の化石
二枚貝だけでなくウミユリのような筒状の物もある。
1994年、シンシナチの高速道路の切通しで通行車が少なかったので路肩に停止して採取した。
我が家は骨董品がないので、家伝としてこれくらいしか残せないが、だれも興味を示さない。
12:16
絶滅した大型哺乳類
12:17
絶滅した人類の頭骨
現在の地球人は Homo sapiensの1種類であるが、過去には色々いた。
一番近いのはネアンデルタール人。Homo neanderthalensis
ジャワ原人、北京原人は初期の直立したHomo属ということで、H. erectusであり、亜種名として erectus, pekinesisが種名の後につく。

学名というのは属名と種名を合わせたもので、これが異なれば種が違うということだ。定義からして、種は代を重ねてもその生物学的特性は維持できるものである。つまり、その種内だけで交配する。言い換えれば、交配できるものは同じ種であり、種が違えば交配しない。

だから種が違う現世人類とネアンデルタール人は交配できない。ところが実際のDNA比較では全体の1~2%がネアンデルタール人由来だという。ネアンデルタール人のいなかったアフリカの現代人には存在していないことから、この混入遺伝子は進化の途中で残った(共通祖先から来た)のではなく、現代人がアフリカを出て、ヨーロッパを経てアジアに行く間に混血したと結論された。犬と狼のように学名が違っても交配できるものはあり、分離したばかりのころは、交尾すると低い確率でも出産、繁殖力のある子孫も残せるらしい。

ホモ属ではあるが今の人類とは別種であるネアンデルタール人、デニソワ人は、3~4万年前に種としては滅び、その間にH.sapienceと交配したらしい。

デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈の洞窟から発見され、チベット、東南アジアからオーストラリアに広く分布していたとされる。メラネシア人の遺伝子には4ー6%、日本人の遺伝子には1%程度混入しているらしい。

これら旧人はコミュニケーション、組織力に優れたサピエンスに生息域を押され、ついには滅亡した。しかしサピエンスが進出しなかったニューギニアの密林などではデニソワ人が1~2万年(日本は縄文時代)までいたのではないかと言われている。
12:20
マンモスの骨を利用した住居・復元
ウクライナ・メシリチ遺跡
東欧など寒冷地の平原は風雪を避ける洞窟もなく、こうした骨を利用した住居の工夫が必然であった。これが西洋の石造り住居につながるのかもしれない。
12:21
さまざまなヒト。
ルーシー、トゥルカナ・ボーイ

約400 - 200万年前にアフリカで生まれた初期の人類は、サルに似ていて猿人という。属名のAustralopithecusは、南の意味のラテン語australisとサルの意味のギリシャ語pithēkosから。身長は120 - 140センチメートルくらいで、脳容積は現生人類の約35%程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立していたとされる。
その中の一種、330万年前のAustralopithecus afarensisの女性の個体骨格がエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた。

トゥルカナ・ボーイはケニア出土、ずっとのちの時代で現代人と同じホモ属である。
(Homo ergasterあるいはHomo erectus)

ここでヒト科ヒト属、ヒトとサルの関係を見ておこう。

ヒト属 Homo
ホモ・ルドルフェンシス H. rudolfensis 
ホモ・ハビリス H. habilis 
ホモ・エルガステル H. ergaster (トゥルカナボーイ)
ホモ・エレクトス H. erectus (ジャワ原人、北京原人)
ホモ・アンテセッサー H. antecessor 
ホモ・ハイデルベルゲンシス H. heidelbergensis (ハイデルベルク人、大型)
ホモ・ネアンデルターレンシス H. neanderthalensis 
ホモ・フローレシエンシス H. floresiensis (小人)
ホモ・デニソワ H. denisova(仮名)
ホモ・サピエンス H. sapiens

Homo属は、アウストラロピテクス属などとともにヒト亜族Homininaを形成し、チンパンジー亜族(ボノボ含む)とともにヒト族を形成する。
ヒト族 Homininiはゴリラ族とともにヒト亜科を形成し、これがオラウータン亜科とともにヒト科を形成している。

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今になって、どんな仕事が良かっただろうと考えることがある。
目に見えない有機化学や細胞生理学より、人類学というのは面白そうだ。
化学、生物学全ての知識を動員し、進化の問題では数学、物理とも関連する総合科学であるだけでなく、人文科学、社会科学とも関連する。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
ゴーギャンの絵画のタイトルでもあるが、古来から人類が最も興味を持ってきた問いの一つすなわち基本的な興味の一つでもある。
教養学部から進学するとき、薬学を選んでしまったが、生物学科人類学教室というものがあった。定員4人であったため、平凡な点数だった私は志望できなかった。大学での専攻は職業だけでなく人生に大きな影響を与える。

駒場の寮で短期間だが一緒だった坂井眞樹君は成績が良くそこへ進学した。西国分寺の恋ヶ窪が実家でバドミントン部だった。そのあと全く消息を知らなかったが、50代になって私の上司(グループリーダー)の、さらにその上司の部長研究員がY氏になった。彼は生物化学科から三菱化成に入った人で、私と同じ年であったが、身分が違ったためほとんど話をする機会も(その必要も)なかった。しかしあるとき、彼は高校時代(教駒)に坂井君と同級生であったことが分かり、連絡先として名刺のコピーをくれた。坂井君は人類学教室を出てどんな仕事についたのだろう、と興味を持ったが、名刺には
農林水産省・大臣官房政策評価審議官とあった。そのあとすぐ私は転職しバタバタしたこともあって忘れ、連絡するチャンスを逃し、15年。

今どうしているのだろう、と検索してみたら農水省に入省後、本籍はそこにおいてアメリカ、ミクロネシアに出向し外交官としても活躍したようだ。ところが経歴に1981年経済学部卒業とある。われわれは1979年に学部卒業である。たぶん理学部卒業後、学士入学で文転したようだ。人類学とは早々に縁を切ったらしい。

彼は人類学を職業としなかったことなど後悔しなかっただろうな。
あるいは駐ミクロネシア連邦日本国大使のとき、デニソワ人の遺伝子を持つ現地人と交流し、何か感じただろうか。
なんて思いながら、50年前をいろいろ思い出した。