4月22日、岡山県の内陸平野を自転車で周っている。
約2時間で備中総社宮、作山古墳、備中国分寺、こうもり塚古墳、造山古墳をみた。
まだ古墳はいっぱいあるが、もういい。
先を急ぐ。
いつの間にか住所は総社市から岡山市北区になっている。
本来の岡山市は備前であるが、北区は備中、美作の一部を含む。
造山古墳のふもとの家々が面白かった。
13:53
家の壁板が焼いてある。
防腐、防虫のためだと思うが、安価な化学製品の新建材を使わず伝統を守るところが偉い。
13:55
田舎なのになぜこんなに狭いだろう、と思ったが、車社会になる前ならこの広さで十分だ。
それにしても村の家々の見物に自転車はちょうどいい。
車では入れない、あるいは通りすぎてしまうし、徒歩だと見られる総量が圧倒的に少ない。
さて、どこに行くか?
レンタサイクルは吉備津彦神社の備前一宮駅で返すが17時まであと3時間。
地図を見れば、備中国府跡、総社市埋蔵文化財学習の館、吉備路文化館、は西方になり戻る形になる。雪舟生誕の地、鯉喰神社は知識がないので体力、時間の心配のほうが大きくなる。
ぜひ見たかった備中高松城跡に行くことにした。
吉備路自転車道から外れていたので農道を通った。途中から無舗装になった。
田植えに備えて耕運機が前を走っていた。運転者が乗る大型のもので、私に気が付くと端に寄って道を開けてくれた。
脚に不安を感じながらもなんとか走っている。
川にぶつかった。
14:09
足守川
上流方向をみる。ほとんど流れはない。
このあたりは傾斜がまったくなく、古代は海が入り込んでいたらしい(吉備の穴海)。
岡山平野南部の児島半島は文字通り海に浮かぶ島だったという。
この川は高松城の水攻めに関係したかどうか。
足守川を渡って岡山自動車道(E73、岡山米子線)をくぐる。(高速道路は並行する国道から番号を取ることが多いが、幹線といえる二桁国道は南西諸島沖縄の58号までで59~100は欠番になっている)
しばらく行くと国道180号にぶつかった。岡山市から吉備路を通って高梁、新見の山間部を過ぎ米子、松江まで行く。
そこを少し南にいって備中高松駅のそばの踏切をわたった。
脚は心配だが、時間はあるので北方の足守に行ってみようと思った。
14:32
備中高松駅が見えた。
駅前の商店街などはなさそうだ。
ここから高松城はすぐそばである。思ったより早く着いた。
高松城をみたらあとは吉備津神社、吉備津彦神社しかない。道も迷うことはない。
ここまでだいぶ走った。
JR総社駅から総社宮まで1.7km、
総社宮から痙攣地点(作山古墳)まで2.5km
作山古墳から道を間違え国分寺、造山古墳まで6.5km
(直線距離なら3.3km)
造山古墳から備中高松駅北踏切まで2.9km
合計、2時間30分で13.7km走った。
今日行かなければ二度と行かないから。
足守は緒方洪庵の出身地であることだけ知っていた。
このブログでは彼の子孫について書いている。
墓は子息たちが住んだ大阪のほかに、東京にもある。千駄木の家から最寄り駅の本駒込駅に行く途中の高林寺にある。石碑の撰文は鴎外森林太郎。
20201004 高林寺の洪庵、織田、岡麓、
20171202 洪庵先生第四子、故緒方惟孝君略伝(薬学昔々)
20171204 緒方病院と緒方ビル、適塾
20190808 医学のあゆみ創刊と緒方富雄」
足守は岡山県のどこにあるか知らなかった。
備中高松駅から足守へ行くため国道180号を北にこぎ、右折して国道429号に入る。
この国道は倉敷から山間部を通って京都府福知山まで行く。
とちゅう岡山空港にも行けるらしい。
足守まではずっと一本道である。
吉備路サイクリング道とは違って車道だから景色がいいわけでもなく、のんびり見物というわけにもいかず、時間を気にしながらひたすらこぐ。
足守は備中の吉備郡足守町であったが、1971年、備前の岡山市に吸収合併された。
14:48
「歴史と文化財の町あしもり」
「うどん・和そば・お餅 洪庵茶屋」
という看板。
いったい足守はどのくらい遠いのか分からず不安なまま自転車をこいでいたが、この看板でようやく緒方洪庵の出身地、足守に入ったことを知る。
14:53
左の「あしもりクリニック」。偏平足や外反母趾の治療専門だと面白い。
右前方は冠山城址。もとは高松城などとともに毛利の境目七城のひとつであった。天正10年、羽柴秀吉の高松城攻めの前哨戦で攻められ、織田勢2万、宇喜多勢1万に囲まれ、加藤清正の一番槍など激戦により、守将の毛利氏家臣・林重真が自害して陥落した。
立ち寄る元気なし。
やがて「近水園・侍屋敷」という案内板があり、国道からわき道に入り足守川に出た。
ちなみに近水園(おみずえん)とは藩主家の庭園である。
14:58
あおい橋を渡ると時間が止まったような街並みだった。
静かだから自転車屋さんから話し声が聞こえる。
AIやロボットが出てきてこれから大変だ、なんて話だった。
15:00
橋からの道は町一番の中心通りなのに、「足守歴史ふれあい通り」というほど古風な町である。
足守藩の陣屋跡に行きたい。
すぐ近水観光振興会お休処があった。そこで町の観光地図を見たが、武家屋敷とか陣屋町という場所は書いてあるが、肝心の陣屋跡という文字がどこにもない。
仕方がないのでそのまま陣屋町のほうに自転車を走らす。
途中武家屋敷があった。
15:07
足守藩家老・杉原家の居宅
子孫が昭和まで住んでいたが、1973年岡山市に寄付された。
無料だが中には入らず。
それにしても陣屋はどこだろう?
と自転車を走らすと道を掃いていた女性がいた。聞くと目の前を示された。
よく見ると水路のように狭いが、石垣を組まれた水堀が見える。
恥ずかしながら足守は緒方洪庵しか知らず、藩主が誰だか来るまで知らなかった。
秀吉の正室ねね(北政所)の実家、木下家と聞いて、「たしか大分にもありましたね」というと「よくご存じで」とそばの家の壁のところに連れて行ってくれた。
15:11
壁一面に説明資料が貼ってある。
「ちょうどこの場所は図ではここになります」
「大分・日出藩は足守の利房の弟、延俊ですね」
秀吉は一代で武将になったから信長や家康などと違って家代々の家来がなかった。自分の肉親の秀長のほかにねねの実家も頼らざるを得なかった。ねねの実家は杉原家といい、ねねの兄、杉原家定に自分の木下姓と姫路城2万5千石を与え、その5男秀俊を毛利の一門、小早川隆景の養子に押し込んだ。皮肉にも彼こそ関ヶ原で家康側に寝返った小早川秀秋である。
(先ほど見た武家屋敷の家老の姓は杉原だったから藩主家の縁戚だろうか?)
(ちなみにのちに安芸の大大名になる浅野家はねねが秀吉と結婚する前、杉原家から養女として入った関係で浅野長政(彼も浅野長勝の養子)が秀吉政権の五奉行の一人になった)
杉原家定すなわち木下家定は関ヶ原で中立だったから石高は安堵されたが、要衝の姫路からここ足守に所領替えになり、足守藩が成立した。戦国時代は終わったから城は作られず陣屋となった。慶長13年(1608)に家定が死ぬと幕府は遺領を長男勝俊と二男利房に分与するよう指示したが、勝俊がこれを独占したことからそれを理由に翌年改易された。しかし利房が大坂の陣で功を上げ、再び足守を与えられ、以後、明治まで木下家12代が続いた。歌人の木下利玄は最後の藩主木下利恭の弟・利永の二男として生まれたが(利は通字)、木下子爵家の養嗣子となり家督を継いだ。
ちなみに大分の木下家は家定の三男・延俊に始まる。父が姫路にいたころ兄二人は秀吉から若狭に所領を与えられ、彼は播磨の三木に2万5千石を与えられた。関ヶ原では最初から東軍につき功を上げたことから豊後に5千石加増され転封、日出藩が成立、ここも明治まで16代続いた。
さて今の足守に話を戻す。
公園は非常に整備されていた。聞けば陣屋跡は長く荒れていたらしい。
しかし、公明党が国交相ポストを長く担った時代には、「まちづくり交付金」などを通じた自治体への景観・公園整備支援が非常に増え、それできれいになったという。
彼女は非常に詳しいので訳けを聞くと、また説明板のところに行き、私はこれを書きました、たぶん足守のことは一番詳しいと思います。よろしければ本が家にありますが。と言われたが遠慮した。
15:14
振り向けば立派な家がある。陣屋に面するという場所からして
「ひょっとして足守藩の藩主家に近いお家ですか」と聞けば「家老でしたが」と言われた。
今大河ドラマは豊臣兄弟で初期のころは木下家の祖先もよく出てきた。
秀吉死後のねねは高台院、北政所として1624年まで生きた。豊臣家は大阪城で灰になったが、彼女の兄、甥の木下家には秀吉、ねねの手紙などが多く残った。
大河ドラマは毎回、その年の終わりころ、江戸東京博物館でドラマにちなんだ特別展が開かれるらしい。私が東京から来たというと、11月の特別展には我が家に伝わるものも出るんですよ、よろしかったら見に行ってください。とおっしゃった。
話はいくらでも続きそうだが、帰りが心配(体力、時間)なのでお礼を言って辞去した。
15:22
旧足守藩木下家陣屋跡
最後にこの石柱だけ写真に撮った。
陣屋跡の奥のほうに名園といわれる藩主家の庭園「近水園」や市立歴史資料館足守文庫(無料)があるらしいが、行かなかった。
ここはインバウンド外国人は来そうにない。
富士山や伏見稲荷、嵯峨野の竹林などは知識がなくとも「オー、ワンダフル」だが、ここはほかの観光地と離れているし、何より知識が少しでもないと来る意味がないだろう。
そのぶん、落ち着いた街並みが残っているともいえる。
吉備線に足守駅があるが、そこですら町の中心、陣屋跡から4.3km、59分かかる。山に囲まれ時代に取り残された町である。
道中、面白いものは何もなく、横を通る車に気を付けながら備中高松を目指した。
ふと、足守について唯一知っていた緒方洪庵の生誕地に行かなかったことに気が付いた。
(続く)
20260507 痙攣しても備中国分寺と古墳群をまわる
20260505 レンタサイクルで備中国総社宮にゆく
20260502 高梁2 三島中州、御根小屋の名門校、山田方谷、板倉勝静
20260430 高梁、吉備国際大学と備中松山城
20260427 高速バスで岡山、倉敷へ





























































