2026年2月11日水曜日

ヒヨドリが冬のミカン、アブラナ科を食う

 

2026-01-03
大根はダイソーの一袋60円、宮重総太りの種がよい。
毎年失敗はない。
前日の夜、雪が降ったが融けた。
2026-01-03
36センチ、1.2キログラム

2026-01-04
翌日は子供たちが来て新年会
庭でとれたものはサトイモ(煮物)、大根(刺身のツマ)、カブ(お吸い物)くらい。
かつて中心だった蒲鉾や昆布巻き、ハゼ佃煮、田作りなどはない。
そのころなら庭の野菜ももう少し活躍できただろう。

1月は冬が進んで食べ物が不足するのか、ヒヨドリが来る。
遅く種まきしたロマネスコの苗などが食われたので、移植してネットをかぶせた。

ある朝、洗濯物を干しに庭に出た妻が、急いで私を呼びに来た。
2026-02-05
飛び回るヒヨドリ(中央)

温州ミカンのネットにヒヨドリが入って出られなくなっていた。
入るときは注意ぶかく見て小さな隙間から入ったのに、人が来るとパニックになって、ただただネットにぶつかっては飛び回っている。落ち着いて周りを見ることができなくなっている。
「慌ててパニック、思考停止」というのは人間だけじゃないんだな。
疲れてネットに止まったところをパチリ。
くちばしと脚が黄色でないからムクドリでない。
眉毛部分が白くないからツグミでもない。
今までじっくり見られなかったから確信なかったが、ミカン数個の犠牲で確認できたから良しとする。

さて、ヒヨドリを捕まえる滅多にないチャンスである。
どう懲らしめてやろうか、捕まえて暴力をふるおうか、それとも閉じ込めて恐怖を味わすか、でも閉じ込めたらもっと食い荒らされるな、なあんて思っているうちに逃げられた。
2026-02-05
改めてネットの中に入ると被害甚大
2026-02-05
この日は食われた3個と目立つところにある20個を収穫。
もちろん食べきれない。しかし食われるのは癪だから。

3日後の2月8日、雪が降った。
いよいよ食べるものがなくなったか、ヒヨドリが再び来襲。
先日の怖い思いを忘れたのか、あるいは飢えが上回ったのか。
2026-02-09
前日の雪がまだ残っている。
この日は17個と食われたもの4個とる。

ミカンを取って暖かい部屋に戻る。
2026-02-09
最近鍋料理が多いので、下3センチほどを植えている。
泥ネギでなくとも、下に根の痕跡、ぶつぶつがあれば、根が出る。
外は寒いので室内で発根、育成してから地植えする。

2月11日、またもやミカンが食われていた。
残っていたものをすべて取った。
今期は全部で158個とった。一昨年の217個には及ばないが、昨年の51個より多い。

ミカンが一つもなくなって、奴らはどうするだろう?
他に向かうか?
2026-02-11
大根はミカンより早くから食われていたが、ミカンを知ってからあまり食っていない。
2026-02-11
ネットに入れなかったロマネスコは無残な姿。
種まきが遅れて小さいのに、これでは再起不能か。
ふと隣のレタスが全く食べられていないことに気づいた。
2026-02-11
春菊(キク科)、ほうれん草(ヒユ科)も全く食われていない。
春菊は好き嫌いあるだろうが、ほうれん草は大根の葉っぱより柔らかくおいしいのに。
(ちなみにほうれん草はアカザ科だったが、2000年以降、DNA解析の結果からアカザ科がヒユ科に統合された。)

冬の千駄木菜園でヒヨドリが食うのは
白菜、キャベツ、大根、カブ、ノラボウ菜、ロマネスコであり、
食わないのはニンニク、ネギ、レタス、ニンジン、ジャガイモ(葉)、春菊、ほうれん草である。

人間以上に好き嫌いが激しいと同時に、アブラナ科はほとんど全て好きなことが分かった。


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2026年2月2日月曜日

横須賀2 日米ネイビー友好協会、キティーホークの記憶

1月18日の朝、記念艦三笠を見て、神奈川歯科大と同附属病院の間の道を行くとすぐ、米軍基地の前に出た。
立っている道路はNimitz Blvd ニミッツ通りという。
太平洋戦争のときのアメリカ太平洋艦隊司令長官Chester W Nimitzである。
9:56
先のほうにあった検問所に気を取られ、足元の道路面に青い線(帯)が引いてあるのに気付かず中に入ってしまった。線には「米国政府管理地 US GOVERNMENT PROPERTY 」と書いてある。関係者以外立ち入り禁止の看板もあった。
青い線の外に出て道路の反対側に渡った。
9:58
青い線の端が見えるだろうか。
壁のような大きな表札の文字は
 UNITED STATES NAVY
FLEET ACTIVITIES YOKOSUKA 
である。
Yokosuka Navy Baseではない。
fleet activities は艦隊の活動。

米軍では伝統的に、活動(activities)機能(functions)任務(operations)といった抽象名詞を、それを統括、実施する司令部や拠点の名前に転用する。この場合も艦隊活動全体を支援する拠点の名前にしている。
すなわちbase(基地)、station(駐屯地)、facility(施設)よりも格上の、すなわちそれらを統括する部署の名称となっている。

そんなことを考えながら写真を撮っていたら、検問所のほうから大きな声で何か言われた。
写真を撮るな、といっているのだろう。確かに撮影禁止の看板もあった。

しかし、こちらは青線の外にいるし、グーグルストリートビューでもっと鮮明な写真がネットにある。それでも公道に面したものを「写すな」というのは肖像権のようなものかもしれない。秘密でも何でもないんだから撮らせれば好感度も増すのに。

とはいえ、小心者としては怖いので、追っかけてくることはないだろうが、いったんすぐそばを通る国道16号に出た。少し歩いて右を見ると空き地の向こうに米軍基地が金網越しに見えた。
10:00
この通りも Nimitz Blvd の続きである。
こちらのほうは検問所や表札ではなく内部そのものが見えるのに撮影自由である。注意書きも何もないし、誰もいない。

ところで、今から27年前の1998年11月、この中に入ったことがある。

1995年日本海軍の勉強をしようと、水交会、東郷会に入会し、さらには陸軍の偕行会にも入った。(日本国防協会は会報誌があるがたぶん入っていない。)いま多くの時間とお金をかけているダンスも野菜栽培もしていなかったのだから、その分のリソースはすべてこの方面に向かっていた。
さらに1998年2月、日米ネイビー友好協会(JANAFA)に入会した。
JANAFAの事務局は赤坂9-7-45海上幕僚監部総務課気付
とあるから旧防衛庁、現六本木ミッドタウンである。

JANAFAは年会費10,000円だが会報誌は年2回しかなく、記事にも水交会のような面白さがない。しかし艦艇研修というものがあった。
そして、この年、横須賀に配備されたばかりの航空母艦キティーホークに見学乗艦したのである。

米軍空母というのは世界中でその半径1000キロメートルをアメリカの勢力下におくことができるもので、世界情勢が緊迫したとき大統領がまず口にするのは「一番近い空母はどこにいるか」ということらしい。
米軍空母全12隻のうち、海外基地を母港とするのは横須賀配備の空母だけである。アジアで異変が起きたら、アメリカ本土の空母より10₋12日早く現場に行ける(1998年の話では16日)。横須賀に司令部をおく第7艦隊の重要性が分かる。

ここで横須賀配備の空母を配備年月とともに列挙しておく。

1.USS Midway (CV-41) 通常空母1973年10月
1943年に着工、戦後初めて就役した空母。排水量70,000トン。ベトナム戦争中に初代の横須賀母港の空母となる。

2.USS Independence (CV-62) 通常空母、80,643トン 1991年8月
フォレスタル級空母の4番艦。Midway後継、インディーとして親しまれた。

3.USS Kitty Hawk (CV-63) 通常空母、83,301トン 1998年8月 Independence後継

4.USS George Washington (CVN-73) 原子力空母 2008年9月 横須賀初の原子力空母
5.USS Ronald Reagan (CVN-76) 原子力空母 2015年10月 GWの後継
6.USS George Washington (CVN-73) 原子力空母 2024年11月 再配備(2度目)

さて、1998年11月のキティーホークの見学会のことである。
平成11年度総会資料
1998年度活動報告

この年は5月に自衛隊の掃海母艦、掃海艇の見学会があり、136名が参加したが私は行かなかった。

そして11月19日、JR横須賀駅前に集合、バスで米軍基地に入っていった。
空母が着岸する埠頭は山や基地内の建物に隠れ、基地の外からは見えない。
バスがキティーホークの前に到着するとその大きさに圧倒された。高さ(水面上)61メートルの壁である。
その2年前、1996年3月、佐世保基地で4万トンのタラワ級強襲揚陸艦(ヘリ空母)ベロー・ウッド (USS Belleau Wood, LHA-3) をみてその大きさに驚いたが、83,301トンは2倍以上である。
太平洋戦争の正規空母、飛竜蒼龍が20,250トン、翔鶴瑞鶴が32,105トンだったことを思うと巨大さがわかる。

タラップを上がっていくと水兵がぴしっと2列に並んでいた。登舷礼である。高校生のように頬に赤みの残る兵が全員正面を見たまま微動だにしない。その間を通っていく。よく総理大臣が海外で軍(儀じょう隊)の前をその国の元首と並んでゆっくり歩いていくシーン(巡閲)があるが、びしっとした水兵との距離が近い分だけ我々のほうが緊張度は高い。
ネクタイをしてきてよかった。
普通の基地開放日の見学会ではないのである。
1998.11 格納庫とガラガラヘビ

最初に通されたのは甲板の下の格納庫だった。港内では艦載機の発着はできないから、入港する前の房総沖で最大85機のジェット機は厚木基地に飛び立ってしまう。出動するときは東京湾の外で艦載機を収容するのである。
そのため広い格納庫は空っぽで、椅子が並べてあった。

正面には独立十三州を示す13本の紅白の縞模様の地にガラガラヘビが斜めに這っている旗が掲げられていた。私を踏み付けるな("Don't tread on me")という言葉が書かれている。
翌日、ここで現役最古艦艦首旗の継承式があったらしい。

1775年、アメリカ海軍が英国に対し戦闘態勢に入ったとき、エセックス・ポプキンス准将は艦隊通信信号を発令。 交戦開始の信号は「縞の艦首旗と海軍旗を揚げよ」であった。それがこの旗であり、現在もアメリカ海軍の現役最古参の軍艦に掲揚することが定められている。その軍艦が退役する時には、次に古い軍艦に適宜儀式を挙行し、その旗を引き渡すこととなっている。

この年、9月30日まで現役最古参だった横須賀の前任艦USS Independence (CV-62)がブレマートンで退役したため、この旗が空輸され、現在最古参となったUSS Kitty Hawk (CV-63)に引き継がれたのである。
1998.11 戦闘機の前にて
艦載機が厚木に行っても一機だけ、展示用なのか、残っていた。

格納庫の舷側側が解放されていて、そこに歩いていくと、広い床が一気に上昇した。甲板まで艦載機を上げる開放型エレベーターだったのである。壁はないが広いため怖さはなかった。
1998.11
全長324メートル、幅83メートルの甲板は広かった。
床面の材質を見たり、艦載機を係留するフックなど初めて見た。
1998.11

1998.11 甲板の端
甲板の上からミサイル駆逐艦を見下ろした。56と書いてある。
DDG-56、USS John S. McCainである。
2008年の米大統領選、共和党候補だったジョン・マケイン上院議員(1936–2018)の祖父ジョン・S・マケイン・Sr(太平洋艦隊の全航空戦力を統括、1945年大将)、その息子ジョン・S・マケイン・Jr(ベトナム戦争時の太平洋艦隊司令長官、大将)の二代にちなんで命名された。しかしマケイン上院議員も海軍の退役大佐であり、彼の死後、2018年にアメリカ海軍は正式にマケイン家3代を称える艦とした。

写真の甲板の端を見てほしい。
空母の甲板は何もないから端は怖そうだが、実際に行くとすぐ下にネットが張ってあり、間違っても海に落ちないようになっている。また非常時に甲板下の格納庫などに飛び降りられるよう滑り台のようなものもあった。

水兵が備え付けの望遠鏡を見るように勧めてくれて、覗くと大きな富士山が見えた。横須賀の地上からは見えないから船の高さがわかる。富士を背景に鳥が3,4羽飛んでいて、双眼鏡の性能に驚いた。かつては来襲する敵機を必死に見たものだが、いまは肉眼より先にレーダーなどで全容を把握してしまうのだろう。

艦橋に上がった。
1998.11
JANAFAの正会員は海上自衛隊高官OBが主体であり、軍需産業の人や我々は賛助会員という資格だった。この日の参加者は正会員48名、賛助会員69名、合計117名。


1998.11 艦長の椅子
この時の艦長はJ.サマー大佐だが、99年1月にはM.W.デューイ大佐に代わった。
博物館の軍艦の椅子ではなく、現役航空母艦の、普段通りの椅子であるため、割と散らかっていた。当時はコンピュータのあるのが新しい時代を感じさせたが、そのモニターが液晶でないのが、今また時代を感じさせる。

ちなみにこの年、空母が変わっただけでなく、第7艦隊司令官(C7F)がW.F.ドーラン中将に、また傘下の第5空母群司令官(CTF70)がT.J.キーティング准将に代わった。ハワイの太平洋艦隊司令官が大将、艦隊トップが中将、空母群であるTaskForceトップが准将というのは、帝国海軍で連合艦隊トップが大将、第一機動艦隊など艦隊が中将、翔鶴瑞鶴のいた第5戦隊が少将、各空母の艦長が大佐だった日本と同じである。

この後、艦内を見学した。
 Kitty Hawkは乗員2,800人、航空関連2,700人、合計5,500人という大所帯であり、そのため医師4人、歯科医5人、牧師3人、病棟ベッド65床、売店4店もある。
その売店でアメリカのお菓子と子供に英語の勉強をさせようとアニメのビデオを買った。日本円が使えた。
1998.11
航空機用エレベーターは4基ある。
我々が乗ったのとは別のエレベーターには戦闘機が乗っていた。

退艦してバスに乗って基地を出るとき、木立の中の道を抜け、在日米海軍司令部 (CNFJ)の前を通った。これは1926年に建てられた旧横須賀鎮守府の庁舎である。我々へのサービスのつもりだったのだろう。

キティーホークは10年横須賀にいた。
日本人(マスコミ)の核アレルギーは相当なもので、かつて原子力空母CVN65 USS Enterprise が佐世保に寄港することになっただけでも反対運動は激しかったから、原子力空母が国内を母港にするとしたら彼らは気絶してしまうだろう。
それを配慮したアメリカはインデペンスのあとキティーホークを派遣し、その退役をできるだけ引き延ばしたが、キティーホークのあとは通常動力空母が1隻もなかった。そこで原子力空母(CVN)のGeorge Washington (CVN-73)を送ってきたわけだが、この時マスコミは何も言わなかった。
上のほう、横須賀海軍工廠6号ドックというのは大和型戦艦3番艦の信濃が作られたところである。もちろん今は米軍が使っている。
その下の人工湾入部が空母の岸壁である。

さて、2026年1月18日、いろんなことを思い出した米軍基地のフェンスから顔を離し、国道16号を西のほうに歩いていく。
三浦半島は南に延びているから、海に沿って北のほうに歩いている感覚だが、横須賀は横浜と同じように北に海がある。

すぐに再び米軍基地の門があった。
10:03
ここは正門に当たるCarney Gateというようだ。
先ほどのNimitz Blvdの門は、Womble Gate (or Mikasa Gate)という。

ここから基地内にまっすぐ伸びる通りは、King St という。
Ernest J.King。第二次世界大戦中は海軍制服軍人のトップである合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長として戦略指導を行い、太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官であるチェスター・ニミッツの上官だった。StとBlvdはBlvdのほうが広い道だが、横須賀基地の道路では逆になっている。キングは若いころ鎌倉大仏見物で財布をすられ、駅では身分をあかして切符を後払いで買おうとしたが駅員は何としても現金払いを主張し、日露戦争で白人に勝って傲慢になっていると感じ、彼の日本人に対する悪印象は一生続いたという。

基地内の道路にはニミッツ、キングのほかにハルゼーBlvd, スプルーアンスDrなど、太平洋戦争で活躍した敵将の通りがある。
10:04
青い規制線の真上に歩道橋があり、そこは上がってOKだった。
上がっても奥は見えなかった。

10:05
歩道橋の上から。
ほんのわずか、木立の向こうに在日米海軍司令部庁舎すなわち旧帝国海軍横須賀鎮守府庁舎が見えた。知らなければ気づかない。
ちなみに、第7艦隊司令部はここではなく、公式には旗艦である揚陸指揮艦ブルー・リッジUSS Blue Ridge, LCC-19の艦内にある。ちなみに現在、米海軍最古参であり、キティーホークにもあったガラガラヘビのファーストネイビージャックの旗は2014年以来ブルーリッジにある。
10:05
ついでだから艦隊について書いておこう。
私が米海軍に興味を持った1993年ころは
 ・大西洋(のちに第2)
 ・第3(日付変更線から東の太平洋)
 ・第6(地中海)
 ・第7(西太平洋からアフリカ南端喜望峰まで)
の4艦隊しかなかった。

それが1995年、ペルシャ湾、紅海担当に第5艦隊が作られ、2008年には南米(東西)担当の第4艦隊が作られた。2010年には艦船を持たず、サイバー戦・情報戦に対処する第10艦隊が編成された。

アメリカ海軍は最初は偶然かもしれないが、太平洋を奇数、大西洋を偶数にした。
太平洋戦争の時の第3艦隊(ハルゼー)、第5艦隊(スプルーアンス)、第7艦隊(キンケイド)である。第3と第5は独立した戦力でなく、同じ戦力で指揮官が変わると艦隊番号が変わり、所属艦艇を柔軟に編成しなおした。

JANAFAの雑誌を探していたら、むかしのメモが出てきた。
航空母艦一覧
CV-1 USS Rangley (1922 comissioned)から
CVN-72 USS A.Lincoln (1989 comissioned)まで

その後、
ジョージ・ワシントン(CVN-73)
ジョン・C・ステニス(CVN-74)
ハリー・S・トルーマン(CVN-75)
ロナルド・レーガン(CVN-76)
ジョージ・H・W・ブッシュ(CVN-77)
が建造され、現在も就役している。
太平洋戦争の時の機動部隊(左)
戦艦一覧(右)
1990年代前半はアイオワ級の4隻が残っていた。太平洋戦争中に竣工したが戦争終結後はほとんど使い道がなく、現在はすべて退役、博物館となった。

アメリカ海軍の艦種別命名基準
時代によって命名基準は変わる。

当時はインターネットがなく、アメリカで買った本の抜き書きだったから英語メモになっている。
かつて航空母艦は古戦場の地名から動物名まで様々な名前がつけられたが、CV-67 USS J.F.Kennedy以降は大統領か著名な将軍の名がつけられるようになった。

また、最も主力となる艦につけられた州の名は戦前は戦艦だったが、のちに原子力弾道ミサイル潜水艦の名前になった。

ちなみに私が見学したKitty Hawk は1903年、ライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功したノースカロライナ州の町の名である。

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2026年1月28日水曜日

横須賀、神奈川歯科大、三笠、秋山真之

1月18日、横須賀に行った。
行かねばならぬ用もないので普段通りに朝飯を食べていたら7時半を過ぎた。
 7:49 西日暮里発 
 8:26 品川発 京浜急行、特急
 9:17 横須賀中央着 
828円 
9:20
横須賀中央駅
改札を出ると二階のデッキ。
はて、こんな駅だったっけ?

横須賀は4回目。
過去の3回は、
1.1993年3月27日 記念艦・三笠の見学
2.1998年11月19日 USS KittyHawk 乗艦
3.2000年10月27日 海上自衛隊 観艦式
すなわち4半世紀ぶり。
しかし観艦式のときはJR横須賀駅だったから、この駅は27年ぶりか33年ぶりである。
JR横須賀駅にはほとんど住宅、商店がないのに対し、京急の横須賀中央は市役所や商店街がある。
JR横須賀線は三浦半島の西側(鎌倉、逗子)から東側に来ると軍港だった田浦、横須賀だけ海岸に沿うが、横須賀駅を出ると再びトンネルを通って内陸に入り、衣笠を経て久里浜に行く。いっぽう京急はずっと海岸沿いの市街地を結んでいる。

地図の左上にある三笠に行ってみる。33年ぶり。
9:23
一階の路上に降りても思い出せず。
9:26
左、二軒目は三笠ビル
上から見ると両端が細長いため船のような形をしている。
1959年完成だが命名者は加藤寛治だという(ウィキペディア)。わざわざ断りなしにこの名を出すからには、日露戦争で三笠の砲術長であった、のちの海軍大将のことだろう。しかし彼は戦前に亡くなっている。ウィキペディアが正しいなら、このビルは二代目ということだろうか?
9:30
市役所前公園から
ザ・タワー横須賀中央(2015年竣工、38階建 143m)。
クルーズ船飛鳥IIが東京湾に帰ってくるのは必ず早朝。いつも部屋は左舷だったから目覚めるとこのタワーが見え、横須賀沖だと知った。横須賀で最も高いビルである。
9:31
横須賀市役所
人口37万人は神奈川県で第5位、全国でも49~51位くらい。
しかし、戦前の1935年は全国47都道府県で17位だった。
現在、南の久里浜から三浦半島の西岸まで市域とする。

きれいな遊歩道のようなところに出た。
9:37
神奈川歯科大。
1910年、神田猿楽町に東京女子歯科医学校として設立。
我が国初の女性歯科医の養成機関だった。
大正時代になると本郷区側にも明華女子歯科医学校が設立され(現・東洋女子短大を経て東洋学園大)、この両校が女性歯科医の養成にあたった。

東京女子歯科医学校は神田から、品川区、大田区に移転。
戦後一旦廃校となったが、歯科衛生士養成の短大部が1963年、東京から横須賀に移転、
翌年、これを母体に神奈川歯科大が開学した。
最初から男女共学であり、現在は男子が6割という。
9:38
神奈川歯科大の前から公園のような遊歩道が続き、ベンチやモニュメントがある。

日本丸の一部の縮小模型
向こうは神奈川歯科大の体育館。

左手に横須賀学院中学、小学校を過ぎると、ぱっと三笠と東郷平八郎の銅像が目に入ってきた。
9:42
銅像の台座に東郷の歌が彫ってある。
「日本海海戦後言志 
日の本乃海にととろく. かちときは. 御陵威かしこむ. 聲とこそしれ  
東郷平八郎 (花押)」

その左の石碑には有名な
「皇国興廃在此一戦」と彫られていた。
このあと、各員一層奮励努力せよ、と続く。
バルチック艦隊がみるみる近づき砲戦直前、旗艦三笠に掲げられたZ旗の文言である。

Z旗というのは、A旗から始まる26のアルファベット信号旗の一つで、もともとこういう意味はない。出動数日前に艦隊司令部から各艦に旗の信号文が信号書の形で渡され、内容は航海長くらいしか知らない。
そしてこの旗が旗艦に掲げられたら、信号が肉声となって伝声管などを通じて、各部署の兵員に伝えられるのである。この文案は連合艦隊司令部先任参謀の秋山真之が書いた。

また海戦前日の5月26日、朝鮮鎮海湾の泊地から連合艦隊が出動するにあたり、東京の大本営に電報を打った。その電文の草稿を飯田参謀(少佐)が秋山(中佐)にもってきた。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出航、之を撃滅せんとす」である。
秋山は、よろしい、と一度はうなづいたが、「待て」といって、「本日天気晴朗なれども波高し」の文言を加えた。一見、装飾のように見えるが、砲戦にとって決定的となる視界の良さと波の揺れを短い文字数で大本営に伝えている。

また、T.ルーズベルトが英訳させてアメリカ海軍の士官に配布したことで世界的にも有名になった名文「連合艦隊解散の辞」も、秋山の作文を東郷が読んだものだ。

敵艦をほんのわずかでもウラジオストックに逃せば、その後の日本海で陸軍の兵員物資の輸送に支障をきたす。味方が半分以上沈んでも敵を全滅させることが必要だった。
一隻たりとも逃さないために三笠以下のT字戦法で敵の主力を弱らせ、残りを七段構えの掃討戦によって壊滅させる日本海海戦のシナリオは秋山真之一人の頭脳が考えた。
早くから天才と言われ、東郷長官以下、すべて作戦は彼一人に任せたほどであるが、この文才も異色である。それを思うと幼馴染の正岡子規との関係に行く。司馬遼太郎「坂の上の雲」である。

二人は伊予松山の没落士族の出身、近所で仲が良かった。二人とも松山中学を中退、上京し、共立学校(現・開成学園)を経て大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に入学した。秋山は経済的理由から途中で学費のかからない海軍兵学校に転向してしまったが、もともと二人とも文学が好きだったのである。
9:44 歌碑
「軍艦」
守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の~で始まる軍艦マーチである。鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲。日露開戦の4年前、明治33年(1900)に「軍艦行進曲」として誕生した。

9:45 艦尾
ひらがなの「みかさ」という板は余計ではないか?
後から付けたものだろうが、誰でもこの船が三笠だと分かっている。
ちなみに今の自衛艦はすべてひらがな、帝国海軍はすべて漢字が正式艦名である。
9:46
副砲は防御版で覆われていたとは初めて知った。
戦闘中は窓が開くのかな?

平成5年3月(1993)、パシフィコ横浜で薬理学会があった。
一人会場を抜け出し、日の出町から京急に乗って三笠を見に来た。
36歳、日本史に興味を持ち始めたころだったが、研究者としていろんな悩みもあった。
その後、いろんなことがあったが、あの頃が懐かしい。
33年前、内部を見学して覚えているのは、船内に牛小屋があったこと。
司令部はイギリス海軍にならいフルコースの洋食であったから生きた牛を乗せていたのである。さすがに生きた牛は展示されていなかったが、干し草が敷いてあったことを覚えている。
しかし、当時はスマホもなかったから写真、記録はせず、他にはほとんど覚えていない。

33年前、船内見学を終えて売店で箱入りの「図説・東郷平八郎」を見つけて即、買った。
東郷の一生を図説したものだが、明治の日本海軍の歴史と一致していて、地図、写真、絵が素晴らしく、資料としてのデータも豊富で、3000円は安いと思った。見れば販売価格でなく頒布価格と書いてある。(送料500円)
東郷神社創建50周年記念事業として東郷会の機関紙「東郷」の編集部が総力を挙げて3年がかりで作り、出版は営利目的でなかった。
連合艦隊の各艦隊指揮官、幕僚
「図説・東郷平八郎」から。
終活で多くの本を捨てたが、これは最後まで持っているだろう。
連合艦隊解散の辞、全文

薬理学会を抜け出し三笠を見た2か月後、留学が決まり、8月に渡米した。
アメリカの書店は軍事関連のコーナーが充実していてアメリカ海軍、艦艇に関するビジュアル本をしこたま買った。そして、横須賀・三笠に来た2年後の1995年、日本海軍の知識を増やすため水交会と東郷会に入会した。
東郷会機関紙・月刊「東郷」
1995年6月号から1998年8月号まで3年3か月分ある。
当時まだ生存されていた旧海軍関係者の体験がのる、これらも捨てられない。
9:48
公園が工事中で、菊の御紋のある艦首部分には行けなかった。

なお、三笠は戦後すぐの9月佐世保港内で自爆して沈没し、凱旋で大将旗を掲げ東京湾に入ったのは敷島だった。
東郷が上陸して天皇に上奏するとき、海軍は口頭で述べるつもりでいたら、前日だか当日だか陸軍が上奏文を準備したと聞いて、おおいに慌てたときも秋山がすぐ格調高い名文を書いて助かったらしい。

各常備艦隊が戦時編成で集まった連合艦隊は12月、解散する。
この時の旗艦は朝日に代わっていて、その艦上で前述の「解散の辞」が読まれた。
9:49
Z旗と艦尾側の主砲
砲弾は三笠のものかと思ったら、戦艦大和の主砲砲弾という。
それならここに飾ってはダメだろう。
ひねったジョークにもならない。

ちなみに横断幕にある世界三大記念艦というのはイギリスのビクトリー、アメリカのコンスティテューションである。

この日、艦内の見学はせず、三笠を後にした。
9:53
左:神奈川歯科大附属病院、右:神奈川歯科大
病院は歯科だけでなく内科(消化器、糖尿病、腎臓、認知症)もある。

沈没した三笠は引き上げられ、修理されて明治41年現役に復帰した。
ワシントン条約で廃艦が決まった後、大正12年海軍の艦籍から外されたが、鉄くずにするに忍びないと、大正15年、ここに記念艦として定置、保存された。