2026年10月8日木曜日

沼津へ小田急、松田から御殿場線でいく

 沼津にいく。

上野東京ライン、湘南新宿ラインの終点の一つとして駅の表示でよく見ていたが、初めていく。
三島の次の隣駅とは知らなかった。
御殿場線の終点というのも知らなかった。

御殿場線は北の下土狩から降りてきて、東海道線と並行になって沼津に向かっている。
鉄道が近くに二本あるというこの不自然さは、当初の東海道線が国府津から大きく迂回する御殿場経由であり、1934年丹那トンネルの開通によりより直線的な小田原、熱海、三島経由の新線ができて沼津にこれら2本が入ったことによる。
その後、真っすぐな新線が東海道本線になり、御殿場線三島駅は下土狩駅と改称し、三島駅の名を三島大社の近く(=町の中心)にできた新線の駅に譲った。

御殿場線に乗ってみよう。

千駄木または西日暮里から沼津まで運賃と時間をネット検索すると
地下鉄・小田急・御殿場線 1855円 3時間30分
地下鉄・小田急・東海道線 1890円 3時間
横浜/熱海経由・東海道線 2420円 2時間30分

小田急・御殿場線経由は一番時間がかかるが、一番安かった。
朝、5:09、6:04に乗れば、8:37、9:29につく。

10月4日、目が覚めたら5:50だった。
目覚まし時計をかけなかったが(ここ数十年かけたことがない)早く起きようとは一応思っていた。しかしそれほど体は都合よくできていない。いつも目覚める時間だった。

急いで家を出たが、千駄木駅が6:10。
6:15の千代田線に乗った。
小田急・代々木上原で来た最初の急行は藤沢行き。とりあえず乗ったが、新百合ヶ丘でおり、急行小田原行きを待った。10分遅れただけで、ずいぶん乗り継ぎが悪い。

乗客に登山姿のシニアが多かった。
高尾へ行く中央線、京王線ほどではないが、かなり目立つ。
2026-10-04 8:03
本厚木から各駅停車になり、鶴巻温泉、東海大学前、秦野、渋沢のつぎが新松田。
これらの駅で登山姿の人々は降りていくが、近くに山はない。バスに乗るのか、車の友人と待ち合わせなのか。

新松田で降りた。
改札を出ると駅前広場の向こうに戦前のような雰囲気の小さな駅が見えた。
8:18
御殿場線の松田駅である。驚くほど近い。
オレンジ色のJRのマークが見えた。
そう、御殿場線は沼津から国府津までJR東海なのだ。
(東海道本線は丹那トンネルの手前、熱海までJR東日本だから、JR東海としては関東地方に入る唯一の路線である)

振り返って小田急の新松田駅を見ると、こちらのほうはそこそこ立派である。
8:18 小田急線・新松田駅
同じ電車で降りた人はバスを待っている人が多い。

いままで小田急に乗ると路線図で新松田という駅に気づいていたが、改めて「新」の意味が強く感じられた。

JR松田駅は御殿場線(当初は東海道本線)が開通した1889年(明治22年)に開業した。いっぽう小田急小田原線は1927年(昭和2年)に開業、新駅を新松田とした。(小田急はこの年、新宿―小田原を一気に開業した)

松田は矢倉沢往還(赤坂御門から沼津に至る大山街道)の宿場町として栄えたが、明治に入って衰退、しかし駅の開業で町は再び活気づいた。
ところが駅自体は新松田駅ができると、東海道本線より速く東京へ行けるために利用者は新駅に流れた。さらに丹那トンネルが開削され、1934年(昭和9年)に沼津 - 熱海 - 国府津間が全通すると東海道本線は新線経由に変更され、松田駅から東京へ向かう直通列車がほとんどなくなった。いっぽう、神奈川県西部の中心・東海道線小田原駅と新宿に直通する小田急の新松田駅はさらに利用者が増えた。
新松田駅、松田駅、乗り入れ用の連絡線

太平洋大戦中、東海道本線は根府川駅近くなど艦砲射撃を受けて不通になる恐れがあった。そのため、小田原線と御殿場線によってその代替ルートを作ろうという案が陸軍から出され、この松田に連絡線を設けることにした。それに伴って用地の確保と連絡線の橋脚が完成したが、まもなく終戦となり工事は中止された。

戦後の1955年、小田急が連絡線を完成させ小田急と国鉄の直通運転が開始。1968年には御殿場線の電化により直通列車も電車化されロマンスカー「あさぎり」が走った。2018年からは直通列車の愛称が「ふじさん」になった。

ここまで書いて、41年前に御殿場線に乗っていることを思い出した。
1985年9月7日、新宿からロマンスカー「あさぎり」に乗った。ロマンスカーも御殿場線もこの一度きり。結婚した翌年、まだ子供はおらず、妻と並んで車内販売のアイスクリームを食べた。終点御殿場で義姉一家と合流した1泊旅行、そのアイスクリームと富士サファリパークしか覚えていない。

上の航空写真を見ると新松田駅と松田駅の間の道はロマンス通りという。田舎っぽい寂れた道だった。ロマンスカーに乗る人はこの通りを歩くはずはないが、それ以外にこの名前の由来は分からない。
8:26
駅付近をぶらぶらしたが何もなく松田駅に戻ってきた。
千代田線に6分遅れただけで非常に接続が悪い。
ここにいても仕方がないので改札に入った。
8:32
松田駅ホーム
人がいない割にはホームは異常に長い。
西のほうに歩いて行くとホームは3本ある。よく見ればかつてはホームが4本あったようだ。
さきの航空写真を見れば西のほうにも改札があり、今入った改札は小田急との連絡口のようだ。
ベンチがあったので座ってコンビニパンを食べた。

松田駅の駅番号はCB04
関東のJRはJY、JKなどすべてJと路線名の頭文字だが、CBとは何だろう? JR、Tokai、Gotemba、いずれも入っていない。
JR東海の英名はCentral Japan Railway Companyで、そのC。 路線コードは東のほうから割り当てていて、A:東海道、B:御殿場、C:身延、D:飯田、などである。
(全国各社のエリアコードは北海道:H、東日本:J、東海:C、西日本:地域によってK,O,H,S、四国:なし(路線記号はある)、九州:Jである。)
御殿場線の駅番号は国府津をCB00とする。

電車が来て乗った。
やがて酒匂川の谷を山深く入っていく。
箱根八里は馬でも越すが汽車は越えられず、なだらかな御殿場回りとなったわけだが、こちらもなかなか険しい。
8:59
普通名詞のような駅名、山北を過ぎる。箱根の北という意味だろうか。しかし四方が山だ。
ここからは蛇行する谷川の右に行ったり左に行ったりして走る。

写真がなぜか緑色になってしまった。
夕焼けと同じく緑の光が強いと画面全体にハレーションを起こすのだろうか。
9:03
谷峨(やが)
テレビに出てくる秘境駅のよう。
たった今書くまで、すっかり谷「蛾」だと思っていた。
峨という文字は京都の嵯峨野にあるが、意味を知らなかった。山が険しいさま。
緑のハレーションは続く。

08:47 松田 出発
08:51 東山北
08:56 山北
09:05 谷峨
09:10 駿河小山
09:16 足柄

とてもかつて日本一の路線だったとは思えない。
ここで鉄道唱歌(東海道編)をかいておく。
大和田建樹作詞。1900年だから御殿場線が東海道線だったころである。
汽笛一声新橋を早わが汽車は離れたり、で始まり、12番から今の御殿場線に入っていく。

12.國府津おるれば電車あり 酒匂小田原とほからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より。13.いでゝはくゞるトンネルの 前後は山北小山駅 今もわすれぬ鉄橋の 下ゆく水のおもしろさ。
14.はるかにみえし富士の嶺は はや我がそばに來たりたり 雪の冠雲の帯 いつもけだかき姿にて。
15.こゝぞ御殿場ば夏ならば われも登山をこゝろみん 高さは一萬數千尺 十三州もたゞ一目。16.三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち 驛には此の地の名をえたる 官幣大社の宮居あり。

この歌から谷峨駅は当初なかったことがわかる。
山北と駿河小山の間は確かに鉄橋とトンネルがいくつもある。
明治の初め、人力でトンネルを掘るのは相当困難だったはずで、今では短いトンネルも当時は歌になった。

ちなみに駿河小山(おやま)は当初歌の通り小山駅であった。
1906年日本鉄道を国有化すると栃木に小山駅があった(1885年奥州線の駅として開業)。鉄道院では御殿場線のほうを変えようとしたが地元(六合村と菅沼村)が反対、改名は延期された。その後、静岡県知事が両村の合併と新町名を駿河町にすることを諮問、それを受けて鉄道院は1912年駿河駅とした。ところが地元は駿河町という町名も反対、小山町となった。そして戦後、1952年、今の駿河小山に改称されたという。
9:16 足柄駅
新しい駅舎の前にクマと金太郎の像があった。
全国でクマ出没の騒ぎは、童謡やこういうのどかな像と全く正反対である。
昔の熊が今より優しかったことはないだろう。
むかしは人里にいなかったから相撲や、またがってお馬の稽古というあり得ない話も成立したのである。

ちなみに足柄は相模・神奈川県の古くからの郡名だが、足柄駅、東名足柄SAとも静岡県にある。この足柄は巡洋艦の名前にもなった足柄山地による。最高峰の金時山は神奈川県南足柄市、箱根町と静岡県駿東郡小山町の境にある。

足柄駅は小田急線にもある(1927年開業)。こちら御殿場線の足柄駅は戦後1947年だが、1903年に開設された足柄信号所を前身とする。

足柄の次は終点、御殿場駅 09:23着
ここで列車を乗り換えた。もう山は遠い。
9:24 御殿場駅
駅番号はCB10。

御殿場市は人口 8.5万
標高が高く冷涼多雨から霧がでる。これが以前のロマンスカーの名前「あさぎり」になったのだろう。ちなみに今のロマンスカーの名前は行き先によって、ふじさん、はこね、さがみ(小田原止まり)、えのしま、である。
御殿場は1912年に陸軍が演習場を開設、いまも陸上自衛隊の3つの駐屯地と東富士演習場があり、市域の3分の1が防衛関連で占めている。

09:28 御殿場 発
09:32 南御殿場
09:35 富士岡
09:41 岩波
09:47 裾野
09:51 長泉なめり
09:55 下土狩
09:58 大岡
10:02 沼津 
御殿場線の運賃は860円
9:36 富士岡駅
雲に隠れた右のすそ野は富士山だろうか。

9:54 下土狩駅
昔の三島駅である。鉄道唱歌にある豆相線路も宮居もみえない。
1898年ここから伊豆長岡まで豆相鉄道が開通したが、1934年丹奈トンネル開通で新駅ができ、その現三島駅が発着駅となり、線路は撤去された。会社は豆相鉄道から駿豆電鉄、駿豆鉄道となり、1957年、今の伊豆箱根鉄道(西武鉄道の子会社)になった。この会社は1923年から堤康次郎の箱根土地の傘下にあった。

車窓から見ると豆相線路も宮居もない代わりに、駅前には「ながいずみ美術展開催中」という文化会館があった。
下土狩駅は三島市でも沼津市でもなく、静岡県駿東郡長泉町下土狩である。

三島でないのになぜ三島となったか?
東海道の宿場町、三島大社のお膝元として三島の知名度は抜群だが、鉄道が来なかったことに彼らは大きな危機感を持った。鉄道側としても「行政上の正確な所在地」でなく「広域の利便性や付近のもっとも著名な地名」を駅名にする方針であった(東京の目白や目黒もそう)。このことから、三島の政財界が豆相鉄道を作るなどして強力に運動、ついに駅名にして三島の玄関口にした。
長泉村としては、それらの動きを拒むほど力がなかったということだ。

1934年「三島」が東海道線に去った後、駅は村名の長泉とはならず、その大字、下土狩を駅名とした。
となりの「長泉なめり」は2002年、静岡がんセンターの最寄り駅として開業した。なめりは大字の納米里である。

沼津到着。
10:11 沼津駅前(南口)
レオのマークの伊豆箱根鉄道のバスが出て行った。

ちなみにロマンスカー「ふじさん1号」にのれば新宿 6:40発、御殿場 8:13着。
乗り換えて沼津に9:03につく。特急料金は1560円。西日暮里からの運賃総額は3523円。
しかしロマンスカーなど考えてもみなかった。
まあ、西日暮里を 6:13発だから寝坊してどっちみち間に合わなかったし、各駅停車でも悪くはなかった。

(続く)

2026年9月28日月曜日

利己的な遺伝子(続)脳と宗教

前のブログで個体(我々の本体)は遺伝子の乗り物にすぎず、遺伝子こそが永続を目的としている生命(種)の本質であることを書いた。

今読み返すと言葉足らずだったので書き足しておく。

自然界では生存競争に勝つ個体が生き残り、子孫を残す(自然淘汰)。それが進化につながる。しかし自然界にはグループ全体に奉仕する個体が多くいる。たとえば仲間に危険を知らせる鳥とか、群全体に奉仕するミツバチなどの存在である。こうした奉仕、自己犠牲する個体は生存競争に劣るのになぜ存在するか?

そこでコンラート・ローレンツは群同士の競争を考え、自己犠牲の個体を含む群が競争に勝ち、群こそ自然淘汰の単位とした。
(ローレンツは1973年動物行動学、社会生物学でノーベル生理学賞を受賞し、日本でも多くの著書が出版された。1975年に大学に入ったわれわれもそれらを読み、教養、薬学時代を通して友人だった成田恵一氏は動物行動学から生態学をやりたいと言って、対象のスケールの点で薬学と全く正反対のエコロジーに興味を持ち、留学して文筆業に進んでしまった。)

群選択は自己犠牲のある動物行動をうまく説明したが、少し問題があった。それは仲間に危険を知らせる鳥と、黙っている鳥がいた場合、黙っている鳥のほうが子孫を残し、群全体では自己犠牲する鳥がどんどん減っていってしまい、群全体の競争力が減ってしまうことである。

そこで、ドーキンスは自己犠牲は肉親のためであるとし、兄弟、子供が残れば自己の遺伝子コピーを守れるとした。すなわち自然淘汰の単位が群ではなく遺伝子としたのである。

先日99歳で亡くなった妻の母が、娘や孫をかわいがり、また用が済んだとしてこの世から退場したのもすべて遺伝子のなせる業である。
2026-09-22
終了したスイカネットに落花生が登っている。

人間、肉体、個人は永続していく遺伝子の乗り物、外套であり、遺伝子の表現型にすぎない。

ところが、現実世界では目に見えない遺伝子より個体、個人のほうが重要である。
葬式ではそれがはっきりする。

今回、9月の100歳と99歳の葬儀の読経中に思ったのは、なぜ、ヒトでは遺伝子より個体が重要になったかということだ。

考えたことを書いて整理しておく。

1.個体が優位になったのは脳が巨大化したからである。
実際、自然を見れば多くの生物は(特に下等になるほど)個体より遺伝子のほうが重い。微生物の走化性、走光性などは遺伝子のみのなせる業で、そこに個体の意思はない。植物はいくら高等になっても遺伝子だけで生きている。魚のような脊椎動物となり個体として進化しても脳が不十分なら学習、思考がなく、本能(=遺伝子)で動く。そこに自我はない。

ところがヒトは脳を大きく発達させた。遺伝子では動かず、自我、社会規範で動く。
それだけでなく自己を潜在的に支配している主(あるじ)というべき遺伝子の本体を明らかにしてしまった。DNAという化学物質と分かればそこに神秘性はなく、神の領域であったはずの生物改変すら厭わない。
現代人は出産・誕生、成長、病気、死などの面では遺伝子の支配下にあるが、日常生活は完全に個体(脳)が遺伝子を支配している。

戦時中の特攻隊はもちろん、政治家秘書の自殺では完全に脳が遺伝子を無視している。避妊などは脳による遺伝子への反抗である。無駄に放出される精子よりも、傷ついて流れる血のほうを惜しむ。

2.ほぼ同じ遺伝子、細胞、肉体を持つサルと比べ、なぜヒトだけ脳が巨大化したか?

指先の発達や二足歩行への移行はダーウィンの突然変異、自然選択による進化の結果であろう。サルなどと同じである。しかし脳の発達は違う。まず、サルの社会に少々頭が良い個体が表れても、手先の器用さ、直立の仕組みなどと比べたら、生存競争には大して影響しない。また、脳の発達の速さはある時点から指数関数的に急激である。

すなわち、脳の発達は、自然淘汰による進化ではなく、それがもつ自己増殖性、自己発展性の結果であろう。
自己増殖性とは少し発達すると、さらに発達することだ。
例えば、産業革命は工作機械を生み出し、その機械はさまざまな機械を作り、産業は爆発的に発展した。近年ではコンピューター、半導体である。コンピューターの利用によってソフト、ハード両面の設計が加速され、さらなる高性能コンピューターを作り出した。
2026-09-22
落花生は子房柄を潜らせる土を探すうちにネットを地面の土と反対方向に登ってしまった。

3.サルの脳もヒトとまったく同じ部品でできているのだから自己増殖するはずである。
なぜヒトの祖先だけが発展させえたか?
それは猿になかった、ほんの小さなきっかけであろう。
多分考えられるのは、火の利用とか直立歩行などではなく、(身振り手振りを含む)言語だろう。
言語(ジェスチャー)によって、親が子に知識を与え、それを子の脳が刺激としてさらに知識を得ようとして脳内の爆発が始まり、その爆発が単語を生み、やがて文字を生んだ。文字ができると親以外の知らない人や過去の人の知識も得られるようになり、さらには印刷術でひろく広まり、指数関数的に脳が巨大化した。現代人でも生まれてすぐ文明と離れたオオカミの世界で育てられたら、脳は発達せず、男女でオオカミ社会で暮らすことで子孫を残しても、何代続いても、脳はそのままかもしれない。

(ドーキンスは、サルと違って脳が巨大化したきっかけは、言語のほかに想像力と道具と考えた。想像力というのは、例えばたまたま木が川に倒れて、サルがそれを渡った時、ほかの場所に橋を作ろうと思うかどうかである。初期のほんの幼弱な想像力でも自己増殖性の前では大きな力を発揮する。道具もそれを使えば新たな道具を産むという自己増殖性を持つ。これら3種はお互いに補って交じり合って自己増殖していく。)

4.自己増殖性というのは恐ろしい。
いまはAIである。AIの改良にはAIを使っている。AIは自らを驚異的な速さで発展させうる。その次はロボットであろう。AIを搭載したロボットは人間と同じように社会を作るかもしれない。そしてダーウィン的進化と生身の神経細胞で制限されたヒトとちがって、あっという間に進化するだろう。その前では何億年も生物を支配、発展させてきた遺伝子は無力である。ウィルスと同じように、しかしDNAによらない自己増殖性を持つ点では、まったく新たな地球の支配者になるだろう。

2026-09-23
雨が続いてナスは大きくならず、肥大を待っていたら腐ってしまった(左の3つ)。
東京都心は8月28日から途中太陽が2回出ただけで本日(9/28)まで連続33日雨が降っている。

(宗教と進化、遺伝子)

さて、話を戻すというか、今回書きたかったことは、脳すなわち自我が巨大化すると何が起こるかということだ。脳は何を考えるか?
一つは神である。

自分の力が及ばない自然のまえに、人間は災害や疫病を神のせいにした。
また、万物は神が作ったとした。
しかしダーウィンは、そのようなキリスト教の教えに対し、神などいなくてもヒトはサルから進化でできることを示し、さらにドーキンスによって宗教が妄想とされ、完全否定された。
(ドーキンスは、遺伝子と似たように自己複製して世代を越えて伝わる文化的な情報単位を考え、meme(ミーム)と名付けた。ミームの例として、歌、言葉、習慣、宗教的信念をあげた。
つまり、偉大な先人が万人を救う素晴らしい思想を産んだというのではなく、宗教という情報が、人間の脳を「媒体」にして複製・伝播しているとした。)

宗教は悩みから生まれたものだろう。
我々の悩みは脳が生み出す。恋愛、学業、健康、仕事、近所づきあい、すべて個体(脳)の悩みである。
しかし、生物の本体は遺伝子の流れであるという考え方は、我々の思考を大きく変える可能性を持つ。

遺伝子を中心にすれば、個人が病にかかり、死んでいくのは当然ことであり、むしろ何億年も続いてきた生物にとっても、5万年程度しか続いていないホモ・サピエンスにとっても、正しいことであり、少しも悲しむことではない。むしろ遺伝子を新しい乗り物に無事運んで役目を終えたという、めでたいことなのである。

これは現世の悩みと死の恐怖から人間を救うことを目的とした、宗教としては最も優れたものではないか?

今まですべての宗教はごく狭い範囲、一部の人が信じているものだった。違う家庭、違う国に生まれれば成立しない「ウソ」「迷信」である。
(よく、欧米人は無宗教の日本人を「信じられない」と野蛮人のようにいうが、なんでも自分こそが正しいという傲慢な無知である)

一方、遺伝子が生命の本質であるというのは科学である。
悠久の大河のように種族全体に流れる遺伝子の群れは、神と言ってもよい。
もし、遺伝子の前では苦しみも死も、悩んだり悲しんだりすることはない、という思想が生まれれば、最も優れた宗教になるだろう。その教えは無理やり天国や極楽を想定して押し付ける必要はないし、個人の悩み(利他による損失、老い、死)も、むしろ遺伝子を守るものとして正当化され、心の安らぎが得られる。

脳の肥大化は安らぎをもとめて迷信と言える宗教を無数に育ててきた。しかし、ここへ来て脳(個体)が遺伝子を外から眺めることによって、科学的に安らぎを産みうる思想の芽を作れるのではないか?

脳は何億年も支配してきた遺伝子を越えた。
脳はもう遺伝子に支配されることはないが、遺伝子を神として尊重することによって、自己の精神の安定と万物が生きる自然環境の永続を目指せるのではないか?
そこにAIは必要ない。
2026-09-23
バジルはみんな葉っぱが落ちてしまった。
サトイモは日光を求めて巨大化し周りを日陰にした。
これらは遺伝子を残し続けてきた成功者である。

結局、借りてきた「利己的な遺伝子」はそのぶ厚さに恐れをなし読むことなく返却した。

前のブログ


2026年9月17日木曜日

縞なしスイカ。ヒトの長寿はおめでたいか?利己的な遺伝子の観点から

2026-09-01
2番畝、手前はエダマメとバジル。ネットは種まきしたばかりの大根。
4番畝、里芋は初めてのセレベス種だが巨大化し私の背丈ほどある。

9月は雨ばかり。
8月27日から続く雨は9月もやまない。各地で豪雨被害が出た。東京でも晴れたのは9月14日だけ。

この間に、妻の姉の嫁ぎ先の義父がなくなった。
9月3日、つくばの葬儀場へ通夜にいく。
100才だから悲しい葬儀ではなかった。みんなで俳句の好きだった故人を褒めるような会だった。私自身は法事で2,3度会った(見た)だけだからなんの感慨もなく、他人の死であり義理の出席である。

長いお経の間に思ったことは、どんな健康な人でも必ず死ぬということ。
死ぬようにできている。死は進化の過程で生まれた仕組みである。生物の種が存続するというのは、その遺伝子が存続するということ。遺伝子を大事にくるんでいるのが個体であり、個体は遺伝子の乗り物に過ぎない。生物が生存、繁殖しやすいように進化してきた理由はすべて遺伝子の永続のためである。100歳の彼はとっくに遺伝子を次代に送ったにもかかわらず、個体が頑健すぎて、主(あるじ)である遺伝子が想定していた以上に長生きした。

遺伝子としては新しい住まいである次の個体が十分な食料を得て生存していくために、抜け殻のような古い個体には消えてもらわねばならない。伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮により、古い社殿を壊すことによってご神体が1300年以上も常に新しい住まいに安置されてきたように、遺伝子も外殻を新しくすることで自らの不変を保つ。
2026-09-01
例年のごとく5番6番7番はサツマイモが繁茂。

この雨の時期に、妻の母も危なくなってきた。
こちらは1927年7月生まれの99歳。ずっと自宅で暮らし、頭はしっかりしていて塗り絵をしたり心情を書き綴っていたりしていた。1週間ほど前に入院した。熱が出て心臓も弱ってきたのか足がむくみ息も苦しくなって酸素吸入になった。妻を含めた3人の娘(といっても婆さんだが)は、見舞いに行っていたが、3人の婿さんにも会いたいと言ったそうだ。しかし私はまだ大丈夫だと思い、妻がそれ以上言わなかったので行かなかった。今までのようにじきに退院して100才を迎えられればいいなと思っていた。ところがみるみる弱り、話すこともできなくなり、最後のあいさつのように目をつぶったまま指でバッテンをしたという。
9月10日、それを聞いて次の日曜に行こうと決めた。
ところが夜になって危ないとなった。

9月11日、金曜の午後、雨の中、取手医師会病院に見舞いに行った。
もう目をつむったままで意識がない。呼びかけても反応はなかった。しばらくいたが意識が戻ることはなく、私は息子一家(彼女の孫にあたる)と一緒に帰った。
妻は夕方千駄木に帰宅したが、虫の知らせか、夜になってふたたび茨城の病院に向かった。
夜中、熟睡中に妻からの電話で起こされた。すわわち日付が変わった12日の0:10、亡くなったという。
12日、土曜。午後妻が帰宅。
聞けば娘3人だけで母を看取ったという。他の人は誰もおらず、故人が最も愛してきた3人だけに送られるというのは最高の最後ではないか。
2026-09-01
3番畝東の空きスペースにニンジンをまいた。
しかし里芋が巨大化し日陰になってしまう。
ミカン(右)も大きくなってきた。

帰宅した妻は睡眠不足なのか、持病のめまいなのかソファでぐったりしている。彼女は私の何千、何万、何億倍も故人との思い出がある。なんせ生まれた瞬間からずっと一緒だったわけだから他人の私に悲しみは理解できるはずはない。

なにも言葉はかけず、ただ夕飯は私が作ることにした。
千駄木産の野菜(枝豆、トマト、ナス、甘長唐辛子)のみそ炒めに、株主優待の冷凍から揚げを解凍した。うまくできだが、彼女はあまり食べなかった。
2026-09-13
保存中に発芽した春ジャガ

13日、日曜、妻と二人、何もせず家でぼーっとしていた。私は他人だし人はみな死ぬものだと思っているから悲しくもない。しかし、6日後に迫ったダンス競技会の練習に行くわけにいかない。小雨があがったすきに庭に出て秋じゃがを植えた。

夕飯は味噌炒めの各野菜の比率が変わっただけで昨日と同じ。庭のスイカをとったが彼女は食べず、梨をむいたら食べた。
2026-09-01
3番畝の西は枯れなかったスイカ

14日、月曜、久しぶりの晴れ。午後納棺。
15日、火曜、大雨の午前中に告別式。
家族葬だから皆顔見知り。
死の数日前に書いて死後発見された「お礼の手紙」が額に入ってあった。たどたどしくも長文であり、苦労して書いたのだろう。読んでいるうちに涙が出た。
「感謝」という言葉が何度も出てきた。3人の婿さんに会いたいと言ったのは、娘たちと一緒に良い家庭を作ってくれてありがとう、と伝えたかったのかもしれない。お礼を言うのはこちらである。
写真も飾ってあった。多くは孫やひ孫と一緒であったが、中に、若き日の義母と小学生の3人の娘(文字通り)が一緒の一枚があった。その写真の娘たちがその後の各人の娘とそっくりなことに驚いた。遺伝子というのは不思議である。同じようでいて少しずつ違い、それが顔の違いになるのだが、顔を見れば確かに遺伝子が中で生きていることが分かる。

焼香が終わり、最後に皆で棺に花を入れた。
後から少し大きな花が追加されてきた。前にいた妻を含む3人の娘が入れ始めたとき皆は遠慮して、3人だけが最後のお別れをする形になって、涙を誘っていた。

あらためて祭壇を見る。故人の遺影と供花に添えられた木札の名前。
彼女はこの世から退出したが、3人の子供と8人の孫、7人のひ孫に遺伝子を残した。遺伝子の保護者、中継者として十分な働きをし、悲しむよりたたえるべきものだが、個体である我々は、やはり遺伝子よりその外側の乗り物のほうを大事に思ってしまう。
2026-09-08
今年は雨が多いからか、
ここまで3つ収穫、2つ食べたが今一つ。

遺伝子こそが生命の本質で、それが永続するように、乗り物、外套を進化させていくという考え方はリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」で有名になった。もともとこういう考え方は複数の研究者が述べていたのだが、「利己的な遺伝子」というタイトルや個体を「生存機械」「乗り物 Vihicle]という分かりやすい比喩を使ったことで爆発的に広まった。

原著 The selfish gene が出たのは私が大学2年の1976年。日本語版の初版は1980年。「生物=生存機械論」というタイトルだった。
駒場の最後、2年生の終わり、薬学に進学が決まった70人で自己紹介文集を作った。私は代々木オリンピックプールのスケート場に行ったくだらない話を書いたのだが、渋谷雅明氏が、利己的な遺伝子のことを書いていた。彼は原著を読んだのだろうか?

名著でありすぎたため、その内容はあちこちで取り上げられたから、かえって読んだような気分になり実際に読んだことのない人が多いのではないか。
私もその一人である。今回近くの図書館にあるかと思って検索したら初版のほか、増補第2版、30周年記念版、40周年記念版があった。「利己的な遺伝子」という原著の直訳タイトルは第2版からである。

借りてきたものの、その分厚さに、読むのを躊躇している。多分読まずに返すだろう。
2026-09-08
利己的な遺伝子の代わりに利己的な個体を考えるとどうなるか?
生物は突然変異と自然淘汰で進化してきたと考えられてきた。しかし生物には自己犠牲によって種族全体を生かすものが多くいる。群れを守るために敵を引きつけるように鳴くサルや鳥などである。これは生存競争に勝つ個体が生き残るという自然淘汰では説明できない。なぜなら自己犠牲の個体は遺伝子を残せず、利己的な個体ばかりになってしまうからだ。

この現象は遺伝子こそが自然淘汰と進化の主役だと考えると矛盾しない。なぜなら自己犠牲の個体の遺伝子のコピーは、生き残った群れの中の子供や兄弟に残るからだ。利己的な遺伝子は、利己的な個体も自己犠牲となるような個体も、両方生じさせるよう進化しているのだ。

大量に卵を産む魚類なども、遺伝子を残すために犠牲となる個体を余分に作る。これらの仕組みは遺伝子で決まっており、各個体が考えて大量に産むわけではない。
2026-09-08
スイカは6個なった。
同じ種(ピノガール)をまいたと思うのだが、縞のある実とない実の2種類ができた。
同じ株にできているのか調べようとしたが、つるがこんがらかっていて分からない。

植物ももちろん遺伝子が自分のコピーを広くばらまくように進化した。鳥などが食べてくれるように実を大きく、甘くしてきた。ところが農耕時代になると遺伝子のゆっくりした変異が進化の主体ではなくなり、ヒトが代わりに作物として実を大きく甘くした。
2026-09-08
板幅は18センチ
縞がない小玉スイカ。

個体が自己犠牲になるのは人類でもみられるか?
戦時中、国を守ろうとした特攻隊は、社会が強いたもので、個体が内蔵する遺伝子のせいではないだろう。
しかし、子供や孫のために自己犠牲になるのはどうだろう。DNAという物質である遺伝子に意志などあるわけではないのだが、自己のコピーを残すことを大原則のように進化してきたのなら、自己犠牲は合理的である。
しかし人類は脳(=個体)が大きくなりすぎて、見えない遺伝子よりも今ある個体を優先する。
極限状態でない限り自己犠牲はない。

自己犠牲の代わりに残ったのが、肉親に対する愛情であろう。
故人は妻や孫をかわいがった。その心(=現象)は、ずっと代々、遺伝子の形で続いていく。

2026年8月26日水曜日

佐久の五稜郭・龍岡城と大給氏

8月15日、信州の実家に日帰り帰省する途中、佐久に寄った。

五稜郭・龍岡城を見るのが目的だった。

佐久平で降りて小海線に乗り換え、のどかなワンマンカーに乗って最寄り駅につく。

8:28
龍岡城駅
佐久平に戻る列車は9:20発。
それまで52分あるが、駅から城までは1.6キロ、23分。往復46分。計算上は6分しか滞在できない。その列車を逃すと次は11:47までない。
急いで歩かねばならない。
6分のために、私はしばしばこのような遠出をする。
8:36
何の変哲もない田舎道。
中世の山城でもないのに城下町がないというのはどういうことか?

それ以前に、五稜郭というのは連郭式、輪郭式などと同じような城の形を示す普通名詞のはずだが、函館のそれを表すような固有名詞になっているのはどういうことか?
これはひとえに佐久の五稜郭が無名であることに尽きる。
しかしなぜ無名なのか?
これは書くと長いので後回し。
8:39
龍岡城址という石碑あり
しかし道路のわきに少し石垣があるだけで相変わらず畑と住宅。
城址に着いた感じがしない。
通り過ぎてそのまま歩き、右折すると五稜郭についた。
航空写真でも中央に五角形が見える。

函館の五稜郭は1983年10月3日、札幌での学会帰りに立ち寄ったことがある。
佐久の五稜郭も昔から知っていたが、いつか行こうと思っているうちに危ない年齢になってしまった。
8:44
五稜郭の北の稜に到着。
駅から23分というところを健脚は16分。
9:00には帰路につきたいから見学時間は15分。
8:45
説明板のわきの木のテーブルが使用禁止。
苔が生えて朽ちている。
8:47
黒門から入城
堀の幅は平均7.2メートルというが、それほどあるように思えない。

龍岡城五稜郭は幕末、三河以来の譜代大名・松平(大給)乗謨(のりかた、1839-1910)が築いた。
もともと、松平乗謨は父祖の地、三河奥殿に藩庁(陣屋)を置いていた。しかし領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)はここ信濃国佐久郡にあり、佐久25か村を支配していた。藩庁の信州への移転はかねてからの念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て、文久3年(1863)佐久での陣屋の新築を許可された。(奥殿藩は城持ち大名でなく、陣屋格の大名だった)

乗謨は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでおり、新たな陣屋として星形要塞・すなわち五稜郭を設計した。元治元年(1864年)3月にここ田野口村で建設を開始。幕末の動乱の中、慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが完成した。

しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任、公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる。工事は簡略化され、堀も南西、西の2つの稜角を囲む200メートルは未完のまま明治維新となった。全国に知られることなく、「幻の城」といってもよい。
これが龍岡城(=田野口藩陣屋)が函館五稜郭と比べ無名であり、また城下町がない理由である。
8:48
城の西側、黒門跡。
外壁、土塁は高くない。
入るとすぐだだっ広いグラウンド、しかし草ぼうぼう。
8:49
国の史跡なのに小学校がある。
夏休みだから子供はいない。
校舎には「ありがとう田口小学校」の幕が。
8:49
グラウンドに向かうような古い建物は「台所」という。
当初五稜郭の真ん中にあったのを移築したらしい。
明治4年の廃藩置県で兵部省は全国の城郭の破却を命じたが、この台所だけは小学校に転用されたため残された。
8:50
野球のバックネットの裏の林に何かある。

8:51
神社だった。
ここも草が生えている。
8:51
神社のわきにウサギ小屋かな? 五角形なのが良い。
止まり木があるから鳥小屋だろうか?
しかし網が破れ、中は何もいない。

そのまま通り過ぎたのだが、後で調べたら、田口小学校は2023年3月31日をもって佐久市立臼田小学校へ統合され閉校したという。壊れた鳥小屋も草だらけのグラウンドも、ありがとうの幕もこれで説明がついた。

参道を逆に歩き正面から出た。
8:52
神社は田口招魂社だった。
田野口藩の田野口村は明治9年、上中込村と合併したとき、野がとれて田口村となった。これが小学校、神社の名前になっている。
招魂社というのは、ふつう明治維新後に戦没した人の霊を祭るところだが、ここの案内板はなぜか殿さま、大給松平氏の一つ三河奥殿藩のことがメインに書いてある。大給氏は家康の4代前に安祥松平家(のちの松平宗家、徳川家)から分かれ、さらに4家に分かれた。

とにかく時間がないので素通りするように郭内から出た。
8:53
北に向いた大手門から出る。

8:53
佐久の五稜郭は函館五稜郭と比べ、一辺が半分ほど。すなわち面積が4分の1しかない。
同時期の建設だが、あちらは開港したばかりの函館奉行所を入れるため幕府が作ったもので、こちらは弱小大名が作った陣屋だから仕方がない。

もともと陣屋(藩主の住まいと政庁)の外側に堀をつくるにあたり、藩主の好みから西洋で考案された五稜形にしてみたというのが真相ではないか?

五稜郭は見晴らしの良い各稜に砲台を置けば広角に撃て、稜の間にくる攻め手には挟む辺から十字砲火を浴びせられる。18世紀半ばにフランスのルイ・ド・コルモンテーニュが考案したとされるが、1650年ころ作られた赤穂城も各辺がギザギザになっているから、それ以前からこういう築城思想はあったのだろう。

赤穂城は十字砲火が可能な銃砲戦を意識した設計だが、まだ二の丸、三の丸をもち安土桃山時代からの城郭の形である。しかし函館にしろ佐久にしろ、五稜郭は全く違い、装飾的な櫓などもなく完全に実戦だけを意識している。

ところが平原にある函館はまだしも、佐久のは谷であり、すぐ南北に山がある。すでに幕末は雄藩を中心にこぞって大砲を買い入れていた。射程1キロ程度なら100発百中で陣屋に砲弾を落とせる。敵を阻む外壁も低い。戦国、関ヶ原の火縄銃の時代なら威力のある要塞だったが、龍岡城はできたときから堅固な城ではなかった。
聡明な乗謨ならその程度のことは承知であったと思われるが、あえて五稜郭にしたのは、やはり住居と政庁という陣屋(役所)を盗賊などから守るために水堀を作るにあたり、どうせなら洋学で知ったこの形にしたかったというのが真相か。
8:55
昭和9年に龍岡城跡は国の史跡に指定された。その時文部省が設置したと思われる一枚板の木彫りの説明板が屋根付きで立っていた(写真左)。
右は明治維新後に大給恒(おぎゅうゆずる)と改名した乗謨の胸像。

乗謨は大政奉還後、将軍慶喜に「諸大名を含む議会を開き、幕府を含む諸藩の軍備を解体し、全国守備の兵とし、将軍家は総指揮官になり給うべきなり」と言上したが、幕閣内は薩長などの西南雄藩への強硬論が大勢を占め、その意見が聞き入られなかった。

彼は戊辰戦争が始まると老中を辞任し幕府との決別を表明するため松平から大給姓に変え、信州に引っ込んだ。すぐ新政府に恭順することを示したが、乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられた。やがて謹慎を解かれ西軍として北越戦争に出兵した。その時の戦死者が田口招魂社の最初の4柱になっている。

やがて大給乗謨は恒(ゆずる)と改名し明治政府に仕えた。
大給恒は佐賀藩士(1823- 1902)の佐野常民とともに、西南戦争における両軍の傷病者を救護しようとした「博愛社」の副総裁となっている。明治20年に博愛社は日本赤十字社と改称した。
(ちなみに佐野常民と同時代人で、よく間違えるが、開成の前身・共立学校を創立したのは加賀藩士の佐野鼎(1829-1877)である。)

大給恒は、明治17年(1884年)の華族令で子爵(これは旧大名家当主だから普通)に列せられ、明治40年に伯爵に昇った。

大手門を出た目の前に新しい資料館があった。
無料のようだ。
駅に急ぐ前にパンフレットだけでも貰おうと入った。
8:57
入ってすぐのロビー中央に龍岡城の模型
しかし小学校の模型のようにも見える。

後ろに年表らしきものがあり、大給松平氏か竜岡城のことと思ったら、明治8年に城内に設立された田口小学校の歴史だった。
8:58
小学校は1875年から2023年まで148年間ずっと五稜郭の中にあった。

国の史跡・龍岡城は2017年4月、続日本100名城(129番)に選定された。このときすでに田口小学校が2022年度末で閉校することが決まっていて、閉校後に小学校の全施設を解体撤去し、竣工時の龍岡城を復元する整備計画があったらしいが、いまだ進んでないように見える。
8:59
職員の年配の男性に声をかけられた。
どこから来られたかね、と聞かれ東京だと答えると、それはそれは、と歓迎された。
時間がないのでじっくり見られないんです、というと
「それは大変だ、あー、先生、先生、お客さん」と奥に声をかけられた。
するとモップをもった老人が展示の間から出てこられた。なんとなく田口小学校で定年退職した校長先生のような風貌がした。
掃除中の彼は「よくいらっしゃいました」と言いながら、急いで動画視聴コーナーの椅子を片付けようとしていたが、「時間がないのでパネルだけ見させてもらいます」と言って説明を断った。
8:59
なかなか充実した展示内容である。

書き忘れたが、大給氏というのは千駄木の家の近くに大給坂があるから以前から馴染みがある。
9:00
いま大給坂に名前を残す大給家は、三河の西尾藩(本家、6万石)当主の子孫で、明治後千駄木に住んだ。5万石以上は伯爵だが子爵だった。大給松平家は家康の4代前に分かれたと書いたが、その系統は、西尾藩のほかに豊後の府内藩(2万石)、美濃の岩村藩(3万石)、三河の奥殿藩(のち佐久の田野口藩1万6千石)と譜代大名を4家も出した。
9:03
ばたばたと騒がせて恐縮しながら資料館を辞去した。

帰り際、奥の事務室のほうから女性が出てこられた。あまり客が来ないと思われるのに職員が3人もおられた。
資料館でもらったパンフレット
五稜郭の中に政庁があり、五稜の堀の外に家老屋敷、家中住宅、尚友館(藩校?)、米蔵などがあり、その外側が四角く柵で囲まれていた。江戸時代初めなら当然外堀であるところが、犬猫がどこでも自由にくぐれる柵矢来であるのが佐久らしかった。

その北側は「新海明神下屋敷道」が通っており、向かいに蕃松院が書いてある。
その道を西に行くと田野口村入口の土塁、乗馬制止杭があり、この跡こそ来たとき最初に見た「龍岡城址」という石碑の場所だろう。前に載せたグーグル地図でも龍岡城枡形跡と書いてある。
9:05
パンフレットの柵矢来の北にある「新海明神下屋敷道」。
駅からまっすぐ上がってきた道である。江戸時代からの道だとは知らなかった。
目の前の蕃松院は、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃の墓があるというが、見る暇はない。
列車の時刻まであと15分、それに遅れたら2時間半待たねばならない。一瞬立ち止まり遠望することすら許されない。


駅への道は緩い下り坂、健脚だからゆうゆう列車に間に合った。
少し先には千曲川の上流があったはずだがもちろん見に行く時間はなかった。
列車に乗ってから、ふと、あの資料館は9時開館だったのではなかろうか、と考えた。


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