2026年8月3日月曜日

柏の葉のラグビースクール、千葉大園芸学部と高等農学校

7月14日、千葉県立柏の葉高校に行った。

ちょうど1年ぶり2回目。
前回は柏の葉キャンパス駅から広い公道を歩いたのだが、高校生たちが千葉大の敷地を通り抜けて登校するのを見たので、今回は彼らについていった。
つくばエクスプレス「柏の葉キャンパス駅」周辺

かつてこのあたりは陸軍の飛行場があり、戦後アメリカ軍に接収され、返還されてから大学や公園になったことは1年前のブログに書いた。
8:16
「千葉大学柏の葉キャンパス」という表札のある入り口から入る。
守衛所などはない。入っていくのは大学関係者ではなく全員通り抜けの高校生である。

すぐ左にラグビースクールジャパン というインターナショナル・スクールがあるがフェンスがないので境界がわからない。

地図には千葉大の「環境健康フィールドセンター」と「バイオヘルスオープンイノベーションハブ」が書いてあるが、見たところ大部分は畑(果樹園)である。

歩いていくと左に芝生のグラウンドがあった。
8:16
2本の高いポール。これはひょっとしてラグビー場ではないか?
千葉大キャンパスの西に隣接するRugby School Japanというのは近年できたイギリスの名門校の日本支校だ。
えっ? スポーツのラグビーは、このラグビー校と関係あるのか?
あとで調べよう。

右側は千葉大の畑である。
松戸キャンパスにある園芸学部の付属農場らしい。
8:17
梨だろうか。
(実家でも)作ったことがないので姿からは分からない。

千葉大は農学部でなく園芸学部である。
両者の違いは前者が林学から畜産、水産まで含むのに対し、後者は野菜、果物など作物栽培に限ること。私立の場合は畜産、水産などが独立することはあるが、明治以来の伝統の用語としてはそういう区別である。

では戦後、千葉大園芸学部となる前、戦前の名前を見てみよう。
1909年 千葉県立園芸専門学校として出発。
1929年、県から文部省に移管され、官立の千葉高等園芸学校となった。
最初から園芸に限ったのである。

戦前、官立高等農学校として設立されたは7つあった。
もともと農業に関する高等教育は、明治前期に札幌農学校(のち北海道帝大)、駒場農学校(のち東京帝大)、私立の東京農学校(のち東京農大)があったが、これでは不足である。

明治後期になって、
1902年盛岡高等農林
1908年鹿児島高等農林
1910ー1914、上田、東京(西ヶ原)、京都の3高等蚕糸学校ができ、これらは1903年制定の専門学校令の適用を受けた。すなわち旧制中学を出て入学する学校となった。これらは戦後それぞれ信州大、東京農工大、京都工繊大の設立母体(大学内の最古の学部)となった。

第一次世界大戦後、高等教育機関拡充の動きの中で各地の誘致もあり、さらに鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎の官立5農高が1920年-1924年に設立され7つとなり、1929年には千葉県立園芸学校が文部省に移管され官立高等園芸学校となった。
またその上位校となる帝国大学においては、これ以前から農学部が設置されていた東京帝大に加えて1920年-1923年には九州・京都でも農学部が新設された。

しかし戦前における専門学校の単科大学昇格という点で言えば、官立2校・公立1校が昇格した高等商業学校(一橋の東京商科大、神戸、市立大阪)、また官立2校が昇格した高等工業学校(蔵前の東京工大、大阪工大)と異なり、高等農学校の場合は私立の1校が東京農業大学として大学昇格を果たすにとどまった。

残りの官立農学校7,官立蚕糸3,県立から官立となった千葉の11校は、戦前には大学にならなかったが戦後各地の国立大学の一学部となった。

国立大学農学部のほうから見れば、名門といえる官立11校のほかに、県立農林専門学校(新潟、信州、静岡、愛媛、香川、など)、帯広畜産学校、農業学校の教員養成をしていた東京農業教育専門学校(のち東京教育大から筑波大)なども戦後大学になった農業関連学校である。
8:17
柿の実が生っている。

千葉大園芸学部に話を戻すと、園芸という単語が野菜、果樹、庭木、花卉などの栽培またはそのための技術であると分かっていても、NHK「趣味の園芸」の影響からか、ガーデニングとか草花の栽培のイメージが強い。

しかし通路から目に入る範囲には、ほとんど果樹であった。
品種改良など日本の農業技術の発展に果たした役割は、各県の農業試験場ほど目立たない。
8:18
ブドウ畑か。
8:18
左はラグビー校を過ぎ、目的地の県立柏の葉高校の敷地になった。

回廊といえる通路をとおって、県立柏の葉公園の前の通りに出た。
8:21
動植物、土の採取、畑、建物への立ち入りを禁じているだけで、通行はOKである。
千葉大の敷地は途中からこの通路部分だけになっていて、裏の通りへ出るためだけの校地である。

千葉大の東は東大。
8:24
東京大学インターナショナルロッジ
留学生のための宿泊施設は雑司ヶ谷や巣鴨にもあるのではなかったか?
生活支援金などは中国などからの留学生でなく、日本人の大学院進学者に援助してもらいたい。
8:25
東大の他に、産総研、国立情報学研究所もあるようだ。
はいってみた。
8:25
人がいない。
柏Ⅱキャンパスとあるのは、ずっと広いIキャンパスが東のほうにあるからだ。
そちらは前のブログに書いた。
8:27
広すぎて空地があって草ぼうぼう。
8:28
自転車置き場。
こんなに広いんだから、開放型にすれば建設費も安いのに。

柏の葉高校での待ち合わせは8:40
10分あったので道路を渡って県立公園に入ってみた。
8:30
千葉県立柏の葉公園
戦前の飛行場が米軍に接収され、返還後に国と県で分け合ったことは前のブログで書いた。
国は大学の国立研究所を建て、県は高校と公園を作った。
8:31
広い。
人工の池がある。サッカー場は一時柏レイソルがホームとした。野球場は前年、高校野球の千葉県予選をやっていたが、今年はどうか。
体育館も立派なんだろう。
公園センターや茶室では市民に講習会などもやっている。
茶室の上生和菓子つき抹茶は800円。

8:33
入口からの通路の両側は密林

8:34
キャラボク
香木の沈香(ジンコウ)の中でも最高級として知られる伽羅(キャラ)とは別物。
伽羅と似ていることからキャラボクと名付けられたが、キャラを知らないので香りが似ているのか姿が似ているのか分からない。
目の前のキャラボクの葉っぱはイチイに似た常緑針葉で、実際イチイ科である。
ちなみに子供のころ実家にあったツガ(トガ)は似ているがマツ科である。

時間が迫っていたので、公園案内図の左下のごく一部を覗いただけで戻った。

講演は体育館に空調がないということで生徒は各教室で聞くというリモート講演となった。
各教室すべてにつながっているかどうか確認に時間がとられた。面倒だなと思う教員もいることだろう。マスメディアの熱中症連呼は一般人にもうつり、こういうものは少数意見でも通るから世の声になってしまった。夏は暑いのが当たり前であり、変な声によって地球温暖化はますます進んでしまう。

ま、とにかく話は終わり、駅まで送りますという声を辞退して来た道をもう一度歩いた。
10:02
千葉大圃場の棚はやはりブドウだった。
袋がかかっている。どんな品種かはわからず。

学生たちの姿は見えない。
彼らは1年の時は西千葉キャンパスで、2年以降松戸にくるらしいが、他大学の農場と同じく、実習はしても日ごろの作業は専門職員がするはず。

千葉大の圃場の南のほうまで歩いてくると通路西側にラグビースクールがある。
千葉大の敷地(道路)との間は大した境界もないので近づいてみた。
10:05
Rugby School Japan
全く知らなかったのだが、イギリスの「ザ・ナイン」と呼ばれる最も歴史ある9つの最難関校のパブリックスクール(イートン校やハーロー校など)の1つに数えられる。イングランドのラグビーにある。ここは9世紀ころから集落があり、1567年、学校ができた。校名は創立者の名前でなく地名ということだ。ラグビーは現在人口7万人。

1823年、ラグビースクールの生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスが、フットボール(サッカー)の試合中に手でボールを持って走り出した というのがラグビー発祥とされる。これには諸説あるが、ラグビーワールドカップの優勝トロフィー「ウェッブ・エリス・カップ」の由来になっている。

目の前の案内図のラグビー場にはWebb Ellisと書いてあった。


この通り抜け道の南門から出る直前に、千葉大側に一本の木があった。
10:08
気になったので近づくとカシワの木だった。
もちろん千葉大柏の葉キャンパスを表す。

カシワというのは枯れた葉は褐色に変わり、その多くは春まで枝についたまま新芽が出るまで落葉せずに残っている。この姿が親が子を見守る、家系が絶えないとして縁起の良い木とされた。

このような樹木は落葉樹でも常緑樹でもなく枯凋性(英:marcescence)という。
本来、枯れて落葉するのは冬季に葉から水分の蒸発を防ぐためとか栄養素の回収とか風雪防止とか、生存に有利なものとして進化したといわれる。
ところが葉が落ちないものが残ったのは、動物による春の新芽の食害を防ぐことなどが理由だろうか。

カシワは信州の実家にあって、埼玉で伊奈町から指扇プラザに引っ越した時、親から苗をもらった気がしたが、その後忘れ、少なくとも千駄木には持ってこなかった。

通り抜け道南門の道路を渡れば、駅前のショッピングセンターである。
10:14
ららぽーと柏の葉
おしゃれな店が多い。
ここは暮らしやすそうだ。
10:17
駅前ロータリー

大学、研究所に公園、運動場などの公共施設が駅から遠からぬところにあり、駅には大きな商業施設がある。何もないところに作ったから広々している。
歴史とか猥雑さがないが、そういうものに興味がない人には最高に住みやすい街に思えた。

駅名か開発地区名かどちらが先か知らないが、西柏とか新柏にせず、柏の葉にしたのは良い。柏の木だと意味がない。

過去のブログ


お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで


2026年7月26日日曜日

上野公園19 科博3 パンダと貝の化石。ヒトの進化

アルバイトしていた湯島の会社で、4月から正社員になってしまい、毎日出かけるようになった。

しばしば午前中、北千住あるいは葛飾の畑のアルバイトに行き、午後から出社するが、上野公園を通過することが多い。
そんなことで、このところ無料の西洋美術館と科学博物館に立ち寄っている。

6月5日 科博(1か月ぶり。前のブログ)
6月19日 科博 (散髪したので歩いただけ)。
6月24日 西美 (科博休館だったので2年ぶり)
7月1日 西美 (ゴッホ展は入らず)
7月8日 西美 (レンブラント展は入らず)
7月10日 科博 (1か月ぶり)
7月17日 科博 ゲリラ豪雨で雨宿り

2026-06-19
6月5日に来たときここで免許証を落とし、無事戻ってきたが、この日、持ってくるのを忘れた。
(上野警察署で返却されるとき、身分証明書が必要ということであったが、免許証の顔は私ですと言って、それでOKだった)
2026-06-19
年齢証明すれば無料ということに慣れてしまうとお金を払って入るのがもったいなくなる。
この日は入場しなかった。

その後、何度も上野公園に来たが、3週続けて西洋美術館のほうに行っていた。

7月10日、1か月ぶりに科学博物館・地球館に入る。
人生4回目だが、2013年は忘れてしまったし、5月は日本館のみだったから、地球館は実質2回目ということになる。

前回同様、一階の入口から最初の展示室に入ればアロサウルスがいる。
一瞥しただけで裏に回ったところ、パンダがいた。
ここは一度回っただけでは見逃すものがいっぱいある。
2026-07-10 11:58
1980年から上野にいたホァンホァンだった。
1997年に死亡、科博に寄付された。
ホァンホァンは歓歓。
教養学部時代、選択自由科目の第3外国語で中国語をとった。教科書に「欢迎、欢迎(ようこそ、huān yíng、huān yíng)とあって何度も口にしたから、昔から読めた。

上野動物園のパンダは1972年10月に贈られたランラン、カンカンが最初である。
東京芸大の学生が動物園側の窓の下に「熱烈歓迎」と書いた幕を掲げ、その写真を載せた週刊誌を高校の図書室で見た記憶がある。当時はパンダが熊と猫のあいの子だと思っている人もいた。

蘭蘭が1979年に死亡、1980年1月に来日したのが、この歓歓である。
1980年6月には康康も死亡、4頭目として1982年、飛飛(Fei Fei)が来た。
以後上野は13頭のパンダがいたが、2026年1月にシャオシャオ、レイレイが中国に返還された。空になって半年のパンダ舎は先日、解体されることが決まったらしい。

現在、パンダはレンタルだから、遺体も自由にできないみたいだが、昔は寄贈されたものだから、はく製は日本に残された。学生だった1979年か80年ころ、ランラン、カンカンのどちらかだったか分からないが、研究室の先輩、大塚英昭さんが上野までパンダの血液をもらいに行った話を聞いた。当時、大塚さんは医学部生化学教室の助手をされていて、そこの山川民夫教授は赤血球表面の糖鎖の研究で有名だったから、パンダの血液型でも調べるつもりだったのか?

パンダのとなりは植物のヤツデ。
葉っぱの重なり具合をみせていた。
相変わらずここはゾーンのテーマというか、陳列の方針がわからない。
(後で見たら「地球の多様な生き物たち」だった)

その並びに先日見たライオンと牛の腸の長さの比較があった。
その横にキリンの舌があった。 木の枝のよう。
12:01 舌3種
左から
ウシ(牛タン)
ジャワマメジカ(最小の偶蹄類)
キリン

1階だけでもいろいろ発見があり、なかなか進まないので地下の展示室に向かうべく、入口付近の階段を下りた。

途中のエスカレーターロビーに大きな平らな石があった。
12:04
淡水魚化石 米国ワイオミング州産
魚がいっぱいいる。しかし黒色である。
黒というのは有機物が残っていることを意味すると思うが、あり得ない。
相変わらず何の説明もない。
おそらく化石が分かるように塗ったのではないか?

もしそうならひどい。
せめて半分を発掘したままの色(たぶん跡だけ残り、岩石と同じ色だろう)にしておくべきではなかったか?
地下1階は子供が大好きな恐竜。

12:06
始祖鳥とヒトの骨格
脊椎動物というのは1億年以上も変わっていないことが分かる。
骨格が変わっていないということは内臓、筋肉も同じということだ。
進化とは何か? 脳だけだろうか。

12:07
何体もの恐竜の骨格標本は迫力あり、インバウント観光客は大人も子供も喜んでいる。

12:09
地層の年代測定
恐竜化石の発掘ではなかった。

地下1階は3分の1が恐竜で、残りは特別展のスペースになっている。

地下2階に降りた。
1階が生物の多様性だったのに対し、地下2階は地球環境の変動と生物の進化を展示している。
12:15
化石いろいろ。貝が多い。

ふと、家にある化石を思い出した。
家の化石
二枚貝だけでなくウミユリのような筒状の物もある。
1994年、シンシナチの高速道路の切通しで通行車が少なかったので路肩に停止して採取した。
我が家は骨董品がないので、家伝としてこれくらいしか残せないが、だれも興味を示さない。
12:16
絶滅した大型哺乳類
12:17
絶滅した人類の頭骨
現在の地球人は Homo sapiensの1種類であるが、過去には色々いた。
一番近いのはネアンデルタール人。Homo neanderthalensis
ジャワ原人、北京原人は初期の直立したHomo属ということで、H. erectusであり、亜種名として erectus, pekinesisが種名の後につく。

学名というのは属名と種名を合わせたもので、これが異なれば種が違うということだ。定義からして、種は代を重ねてもその生物学的特性は維持できるものである。つまり、その種内だけで交配する。言い換えれば、交配できるものは同じ種であり、種が違えば交配しない。

だから種が違う現世人類とネアンデルタール人は交配できない。ところが実際のDNA比較では全体の1~2%がネアンデルタール人由来だという。ネアンデルタール人のいなかったアフリカの現代人には存在していないことから、この混入遺伝子は進化の途中で残った(共通祖先から来た)のではなく、現代人がアフリカを出て、ヨーロッパを経てアジアに行く間に混血したと結論された。犬と狼のように学名が違っても交配できるものはあり、分離したばかりのころは、交尾すると低い確率でも出産、繁殖力のある子孫も残せるらしい。

ホモ属ではあるが今の人類とは別種であるネアンデルタール人、デニソワ人は、3~4万年前に種としては滅び、その間にH.sapienceと交配したらしい。

デニソワ人はシベリア南部のアルタイ山脈の洞窟から発見され、チベット、東南アジアからオーストラリアに広く分布していたとされる。メラネシア人の遺伝子には4ー6%、日本人の遺伝子には1%程度混入しているらしい。

これら旧人はコミュニケーション、組織力に優れたサピエンスに生息域を押され、ついには滅亡した。しかしサピエンスが進出しなかったニューギニアの密林などではデニソワ人が1~2万年(日本は縄文時代)までいたのではないかと言われている。
12:20
マンモスの骨を利用した住居・復元
ウクライナ・メシリチ遺跡
東欧など寒冷地の平原は風雪を避ける洞窟もなく、こうした骨を利用した住居の工夫が必然であった。これが西洋の石造り住居につながるのかもしれない。
12:21
さまざまなヒト。
ルーシー、トゥルカナ・ボーイ

約400 - 200万年前にアフリカで生まれた初期の人類は、サルに似ていて猿人という。属名のAustralopithecusは、南の意味のラテン語australisとサルの意味のギリシャ語pithēkosから。身長は120 - 140センチメートルくらいで、脳容積は現生人類の約35%程度であり、チンパンジーとほとんど変わらないが、骨格から二足歩行で直立していたとされる。
その中の一種、330万年前のAustralopithecus afarensisの女性の個体骨格がエチオピアで発見され、ルーシーと名付けられた。

トゥルカナ・ボーイはケニア出土、ずっとのちの時代で現代人と同じホモ属である。
(Homo ergasterあるいはHomo erectus)

ここでヒト科ヒト属、ヒトとサルの関係を見ておこう。

ヒト属 Homo
ホモ・ルドルフェンシス H. rudolfensis 
ホモ・ハビリス H. habilis 
ホモ・エルガステル H. ergaster (トゥルカナボーイ)
ホモ・エレクトス H. erectus (ジャワ原人、北京原人)
ホモ・アンテセッサー H. antecessor 
ホモ・ハイデルベルゲンシス H. heidelbergensis (ハイデルベルク人、大型)
ホモ・ネアンデルターレンシス H. neanderthalensis 
ホモ・フローレシエンシス H. floresiensis (小人)
ホモ・デニソワ H. denisova(仮名)
ホモ・サピエンス H. sapiens

Homo属は、アウストラロピテクス属などとともにヒト亜族Homininaを形成し、チンパンジー亜族(ボノボ含む)とともにヒト族を形成する。
ヒト族 Homininiはゴリラ族とともにヒト亜科を形成し、これがオラウータン亜科とともにヒト科を形成している。

・・・・

今になって、どんな仕事が良かっただろうと考えることがある。
目に見えない有機化学や細胞生理学より、人類学というのは面白そうだ。
化学、生物学全ての知識を動員し、進化の問題では数学、物理とも関連する総合科学であるだけでなく、人文科学、社会科学とも関連する。
『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』
ゴーギャンの絵画のタイトルでもあるが、古来から人類が最も興味を持ってきた問いの一つすなわち基本的な興味の一つでもある。
教養学部から進学するとき、薬学を選んでしまったが、生物学科人類学教室というものがあった。定員4人であったため、平凡な点数だった私は志望できなかった。大学での専攻は職業だけでなく人生に大きな影響を与える。

駒場の寮で短期間だが一緒だった坂井眞樹君は成績が良くそこへ進学した。西国分寺の恋ヶ窪が実家でバドミントン部だった。そのあと全く消息を知らなかったが、50代になって私の上司(グループリーダー)の、さらにその上司の部長研究員がY氏になった。彼は生物化学科から三菱化成に入った人で、私と同じ年であったが、身分が違ったためほとんど話をする機会も(その必要も)なかった。しかしあるとき、彼は高校時代(教駒)に坂井君と同級生であったことが分かり、連絡先として名刺のコピーをくれた。坂井君は人類学教室を出てどんな仕事についたのだろう、と興味を持ったが、名刺には
農林水産省・大臣官房政策評価審議官とあった。そのあとすぐ私は転職しバタバタしたこともあって忘れ、連絡するチャンスを逃し、15年。

今どうしているのだろう、と検索してみたら農水省に入省後、本籍はそこにおいてアメリカ、ミクロネシアに出向し外交官としても活躍したようだ。ところが経歴に1981年経済学部卒業とある。われわれは1979年に学部卒業である。たぶん理学部卒業後、学士入学で文転したようだ。人類学とは早々に縁を切ったらしい。

彼は人類学を職業としなかったことなど後悔しなかっただろうな。
あるいは駐ミクロネシア連邦日本国大使のとき、デニソワ人の遺伝子を持つ現地人と交流し、何か感じただろうか。
なんて思いながら、50年前をいろいろ思い出した。



2026年7月20日月曜日

上野公園18 科博2 地球館ができる前と噴水の縮小


5月2日に国立科学博物館に来たときは時間がなくて日本館しか見られなかった。
そこで1か月後の6月5日に再訪した。

2026-06-05   12:47
平日だからすいていると思ったが、団体の学校生徒たちが多くて連休中とあまり変わらなかった。

この日は日本館の一部をさっとみて新館のほうに向かった。
12:56
新館入り口
12:58
新館は本館・日本館の対の意味か、地球館と言う。
地上3階、地下3階。

この場所はかつて、「むらさき館」「おれんじ館」「みどり館」と呼ばれる古い展示館(旧新館・旧理工学館など)が建っていた。

これらは、戦後、昭和6年開館の本館が手狭になったために建てたもので、
1953年 、理工学館(旧2,3号館、→たんけん館・むらさき館)起工。
1972年、自然史館(4号館→みどり館)起工。
1979年、 航空宇宙館(旧5号館、→おれんじ館)開館。
これらは戦前に建てられた本館に対して新しい建物であったが、科博全体の狭さから、文化財的価値のある本館を残し、これら「新館」群を建て替えることになった。

1994年 たんけん館閉館。
1999年 むらさき館、おれんじ館閉館。地球館一部(南側)完成、公開。
2003年 みどり館閉館。
と順に閉館、建て替えしながら、2004年、北側も完成、南とつながり今の地球館ができた。
グーグル2026(撮影は2025?)
飛行機の形をした旧本館(現・日本館)と四角いビルの新館(現・地球館)。

まず入口のある一階を見る。
12:58
一階の展示はアロサウルスから入る。
本館は「日本館」だから国産のフタバスズキリュウであったが、地球館はそういう制限はない。ユタ州産。
アメリカでホテルを経営していた小川勇吉がホテルを売却して購入、国立科学博物館に寄贈し1964年日本で初めて公開された恐竜の全身骨格となった。
12:59
マッコウクジラ
特徴的な頭の形から知能が高そうに見えるが、よく知らない。
13:01
クジラの裏に回ると内部が見られるようになっている。
脳の大きさは比較がないからよく分からない。
頭部には油が大量にあるらしい。これは海水を取り入れて冷やすと固まり比重が増える。それでも水より軽いが、クジラ全体としては重りとして役立ち、潜るときに都合良いらしい。
(以上、科博は説明がないから帰宅後に知った)
13:02
ダイオウイカ
手前はオオアナコンダの骨格。
科博は実物を強調したいのだろう、これらもタイトル以外説明文がない。
ダイオウイカは島根県沖産らしいことを帰宅後に知る。
13:04
腸の長さ
左:ライオン、右:牛
牛はどんな牛か不明。
ところで肉食の西洋人と草食の日本人は腸の長さが違うと聞いたことがあるが本当かどうか。
製薬会社にいたころ、病理の友人が腸管でのグルコース吸収を抑える糖尿病薬を研究していた。長期連続投与するとラットの腸がうんと伸びたというから、ヒトの腸管の長さは食生活によって違うというのはありうる。

このあたりは、どういうテーマで並んでいるのか、いろんな珍しいものが陳列されている。
13:05
ミンククジラの胃の中
(たぶん切開して裏返しにしたようだが、そういう説明は必要だと思う)
寄生虫がびっしり。胃酸でやられないのだろうか?
液はどのくらいの頻度で入れ替えるのだろう?
13:05
同じくミンククジラの腸(これも切開)
これだけ寄生虫がびっしりだと、共生が自然なのかもしれない。
13:07
他の階には行かず、一階だけで十分。
再びアロサウルスをみて科博を出た。
あまり多いと見るのも疲れる。
これから何度でも来ればよいと思った。
13:10
外に出ると子供たちがいっぱい。
この日は金曜。
学校の先生は苦労なことである。大人数の引率は大変だろう。むしろ、こういうものは個人で来たほうがちゃんと見る。興味がない人に見せることもないと思う。

13:12
隣の西洋美術館も生徒がいっぱい。
私は彼らの年の頃、こういうものに全く興味がなかった。

噴水広場(竹の台広場)ではフィリピンエキスポ2026をやっていた。
要するに屋台が大量に並ぶイベントである。

帰宅後、かつて地球館の場所にあったオレンジ館など旧新館群の航空写真を見た。
(国土地理院 1979-11-06撮影)
本館の飛行機型は今よりはっきりしていて、地球館の場所には旧2~5号館だろう、いろいろある。

1979年というと私が大学院1年生の秋。
1978年1月から谷中に住み始め、上野が地元になって2年近くたっている。
公園の中心は池だった。
ベンチにカップルが座り噴水を眺め、そのうち水際まで歩いて行って談笑する光景が浮かぶ。相本久美子が写真撮影していたのも見た。
ここは何度も来たが、科学博物館は特に興味がなく、入らなかった。
国土地理院(2019-08-08 撮影)
戦後建てられた展示館はすべて壊され、直方体の地球館ができている。

ここで、それより目立つのは噴水池の縮小とイベントスペースの創設。

グーグル2026
現在(2026-7-18閲覧)のグーグル航空写真で噴水広場を見れば、いつの撮影か知らないが(秋のようだ)、イベントをやっている。
最初、イベントは偶然かと思ったが、必然だった。

すなわち、例えば
この噴水広場の今年7月のスケジュールをみれば、毎週やっている。
 ・ふるさと東京応援祭 第三回ビールと浴衣de盆踊り 7/3(金)〜7/5(日)
 ・台湾フェスティバル2026   7/9(木)~7/12(日)
 ・タイ・サマーフェスティバル 7/17(金)~7/20(月祝)
 ・3×3 JAPAN TOUR 2026    7/25(土)〜7/26(日)
その前後に準備片付けがあるからほぼ休みなしである。

それ以外の日は灼熱の広いコンクリート地面となる。

公園というのは静かに緑と水に親しむところではないか?

ビールとソーセージ、騒音と匂い。

五輪や万博など事業をやる目的として「経済効果」が一番に出る。
何事も金儲けである。製造業がだめになってから観光立国を目指し、官民一体となってインバウンド客を呼び込もうとした。上野公園は東京観光地図を広げれば、皇居の次に目に入る。山手線駅の前の立地と言い、規模面積と言い、最も魅力的な東京の観光資源だが、押し寄せるインバウンド客を全部受け入れるキャパはなかった。

そこで木を伐り、池をつぶした。
そして毎日のように騒々しいイベントをやっている。
こんな乱暴なことをしていいのだろうか?
金儲けのためなら何をしてもいいのか?
私の好きな上野公園が消えてしまった。