2026年2月27日金曜日

横須賀6 駅舎と横須賀線、湘南新宿ライン

 1月18日、京急の横須賀中央駅に降りて記念艦三笠から米軍基地ゲート、どぶ板横丁、そして海岸沿いのヴェルニー公園を歩き、軍艦などを右手に見てきた。

公園が尽きたところがJRの横須賀駅である。

12:26
JR横須賀駅

ずいぶん変わった駅である。
駅舎が1940年建築(改築、3代目駅舎)という古さではない。
雰囲気である。
まず商店街あるいは住宅街がない。駅前の華やかさ、猥雑さがまったくない。
さらにふつうは駅舎が線路に平行、すなわち玄関が線路を背に垂直に向かって作られるが、ここは45度である。
どこを向いているかというと、海である。岸壁はすぐ近く。
明らかに帝国海軍の本拠地、軍港のために作られた。
JR横須賀駅
下り(写真左方面)は踏切を超えるとすぐトンネル。

横須賀駅は明治22年(1889)6月、官設鉄道が大船駅から開通、その終着駅として開業した。東海鎮守府が横浜から移って横須賀鎮守府となって5年後である。
三浦半島には陸軍の東京湾要塞の一つである観音崎砲台、敵の上陸想定地点の一つである長井があったから鉄道開設は海軍だけでなく陸軍からの要請もあった。

横浜駅(初代)-国府津間が延伸開通したのが、明治20年(1887)だからすぐである。
横須賀鉄道の建設はこの年(1887)の3月の閣議で可決され、翌4月から測量が開始、5月には45万円の予算を東海道線建設費から流用することとなり、7月には東海道線からの分岐点予定地に大船信号場を設置、翌1888年1月に着工、1年半で完成させた。

三浦半島は山が海のそばまで来て平地が少ないから用地取得は大変だっただろう。いまの北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り白鷺池の半分を埋立てた(以前円覚寺の参道に踏切があってびっくりした)。また鎌倉では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設されるなど、かなり強引につくられた。
(ちなみに横須賀鉄道もあわせ、新橋ー神戸間が「東海道線」という名前になったのは明治28年である)
駅舎はシンプルで、改札と玄関の間のがらんとした空間に屋根が乗っかっているだけ。
商業施設や駅ビルなどない。

普通の駅のように住民に供されるものなら、もう少し南まで延伸すべきであるが、予算も限られ鉄道用地の捻出も困難であったことから、現駅舎のある海軍用地が終着駅になった。

市民のための駅、京急の横須賀中央駅が湘南電気鉄道の駅として開業したのが1930年。
国鉄(省線)が横須賀から延伸して久里浜まで開通したのが1944年である。

駅舎の中から外の駅前広場を見れば海が見える。
12:26
広場の向こうは軍港横須賀の岸壁である。
戦前、連合艦隊司令長官のような高官の着任のときは、ここから岸壁まで赤いカーペットが敷かれたとか、どこかで読んだ気がするが、本当かどうか知らない。しかしこの近さなら、簡単に敷けるだろう。
岸壁から内火艇あるいは水雷艇にのり、兵員が舷門に並んで出迎える旗艦に乗り移ったのかもしれない。

さて、横須賀駅は構内に階段がない。
いまどき、これはかなり珍しい。
12:27
改札を通った景色
行きどまりの(右、海側から)1番線、2番線。
終着駅だった名残り。
大船から横須賀までは戦前から複線だが、下りの久里浜方面は単線である。
現在使われているのは3番線のみ。これを上りと下りが半々に使う。

かつては海軍基地への物資輸送のため、海側にも山側にも貨物線、貨物駅があったらしいが多くが撤去され、山側には、ウェルシティ横須賀として市の公共施設や超高層住宅「天空の街」(2000年、31階)などが建てられた。しかし当時の名残で山側、海側に数本の側線がいまも残っている。

戦後、帝国海軍は消滅したが三浦半島はベッドタウン化し、横須賀、逗子、鎌倉から東京への直通電車が出た。しかし熱海・小田原方面からも東京への電車があり(1950年から湘南電車と呼ばれた)、大船ー東京間は過密となった。

その混雑緩和のため1980年、貨物線を利用して旅客線を複々線化し、東海道線、横須賀線の列車が分離された。すなわち東京 - 品川間ではトンネルを掘削して地下別線をつくり、品川 - 鶴見間は貨物線だった品鶴線を使って、ここを横須賀線が通った(このとき新川崎駅ができ、その後、1986年に西大井、2010年に武蔵小杉の駅ができた)。
また、横須賀線は東京駅の地下に1976年から来ていた総武線快速とつながり千葉方面まで直通運転するようになった。


1988年7月には東海道線もここを通って新宿まで行くようになった(湘南新宿ライナー)。一方、この年3月、東北線、高崎線も田端、貨物線経由で池袋に行くようになり、2001年、これがつながって湘南新宿ラインとなった。すなわち、新宿、品鶴線経由で宇都宮線が横須賀線に、高崎線が東海道線に乗り入れるようになった。

当時を含め32年も埼玉に住んでいたから馴染みがある。
個人的には何とも思わないが、それにしても関東北部に広がる路線なのに、なぜこの名前なのか、名付けた人は埼玉の人を何とも思わなかったのか。あるいは路線名は地方より都会の名前を付けたがるものだが、それほど湘南・新宿がハイカラなのか、不思議だったことを思い出す。
こうして横須賀線は東京駅地下を経て総武線快速へ、また湘南新宿ラインを経て宇都宮線へつながった。
いっぽう東海道線は上野東京ラインで高崎線・宇都宮線へ、また湘南新宿ラインで高崎に向かうようになった。

(ちなみに神奈川の私鉄は地下鉄を通して軒並み北関東へ直通運転するようになった。
京急と(都営浅草)京成、小田急と(千代田線)常磐線は昔からだが、近年、田園都市が(半蔵門線)東武線に、相鉄・東急が(副都心線)西武・東上線に入っている。)
12:28
上りも下りも同じホームから出るというのは、首都圏近郊区間の駅では珍しい。
単線区間でも駅だけはすれ違いができるよう線路が2本あるものだ。

次の上り電車は4両編成、東京方面に行くかと思ったら3つ先の逗子どまりだった。
すなわち、2001年に始まった横須賀駅、久里浜駅始発の湘南新宿ラインは、2004年から逗子、大船始発に一本化され、横須賀から東京方面の直通は総武線に入る横須賀線だけになった。

大正時代は全国21位、関東地方では東京、横浜に次いで第3位の人口を誇った横須賀市の駅も、いまや田舎のような駅で、2016年には業務委託駅となった。

がらがらの電車がきた。
9:17に京急の横須賀中央駅に着いたから3時間余りの見物であった。
それでも多くの記憶が呼び覚まされ、もう行くことはないと思うので、6本もブログを書いてしまった。

先日、独立して久しい息子が自分の部屋の片づけに来て、いろんなものを捨てていた。その中に横須賀、呉、舞鶴の地図や資料館のパンフレットがあった。軍港巡りは今は2200円だが、彼が行ったときは1200円だったようだ。
彼は工学部機械科出身で職業柄、兵器、装備に興味があり、歴史、人物に関心のある私とはほとんど会話しなかったから、横須賀に行っていたことを知らなかった。

2026年2月23日月曜日

横須賀5 地方総監部と「はるな」観艦式の記憶

1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通り、海沿いのヴェルニー公園を歩いてきた。

横須賀は書くことがいっぱいある。

休憩しながら図書を見ていたヴェルニー記念館は、JR横須賀駅の近く、公園の敷地が終わる北西の隅にある。記念館の建物の裏に回ると、そこは公園の端のフェンスで区切られているが、「かが」が最も近くで見えるスポットである。
この日の朝、入港した自衛隊初の空母を見ようとマニアがカメラを持って集まったらしい。
11:48
フェンスと海の向こう、巨大で優美な「かが」と対照的なしょぼい建物がある。
海上自衛隊横須賀地方総監部である。
ここの長は横須賀地方総監という。旧海軍の横須賀鎮守府司令長官と似たようなものか。
階級も海将だから昔の中将で、旧軍と同じである。(ちなみに、海将は最高位であり、幕僚長に就任した海将のみ大将扱い、そのほかの海将は中将になる)
同じ海将の地方総監でも俸給の面で横須賀、佐世保、呉、舞鶴の順の序列がある。(大湊は昨年(2025)から横須賀の傘下となり地方総監から地区総監になった)

地方総監部の建物を見ていて観艦式を思い出した。

横須賀には過去3回来ている。
1.1993年3月27日 記念艦・三笠と「なだしお」を見た。
2.1998年11月19日 米軍巨大空母  USS KittyHawk 乗艦
そして
3.2000年10月27日 海上自衛隊の観艦式である。

あの地方総監部の横を通って、逸見岸壁、吉倉桟橋から護衛艦に乗艦した。

25年ぶりに近くまで行ってみよう。
ヴェルニー公園の表に戻り、線路わきの自衛隊専用道路のような通りをすすむ。
上は県道の高架が走っている。
11:49
横須賀地方総監部
Headquarters Yokosuka District
その下に横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀システム通信隊など6つの部署が書いてある。Headquartersのsはこの7つを示すのかと思ったが、どうも違うようで、基地業務隊、衛生隊は地方総監部の隷下にあるらしい。システム通信隊はまた別のようだ。

11:51
入口から地方総監部庁舎と逸見岸壁のかががみえた。
25年前の観艦式の時はこの門から入ったのは明らかだが、どこから乗ったのだろう。
記憶がうすい。

自衛隊の観艦式は昭和32年(1957)から毎年実施されていたが、オイルショックで一時中断、昭和56年(1981)に再開後は節目の年に行われるようになった。さらに平成8年(1996)から空海陸の順で持ち回りで実施されるようになり、97年から2015年まで3年に一度実施された。

2018年は東京五輪のために朝霞が使えなくなるとのことで2019年予定の陸自主体の中央観閲式と入れ替えたものの東日本台風19号災害のため中止、2022年に7年ぶりに開催した。

しかし2025年内外の情勢が緊迫する中、部隊運用に余裕がなくなり、防衛省は今後、観閲式、観艦式は基本的に行わないと発表、観閲式は第30回の2022年が最後となった。

私が見物した観艦式は平成12年度(2000)、最初から数えると22回目だった。

当時の乗艦券などがとってあった。
12.10.27(金)はるな乗艦券

午前9時00分までに吉倉桟橋の受付においで下さい。
退艦は午後4時45分の予定です。

と書いてある。
吉倉桟橋は「かが」のいる逸見岸壁のむこうである。

私が乗艦した護衛艦はるなはDDH-141。
1973年就役、日本初のヘリ搭載護衛艦であった。
それまで護衛艦の艦種記号はDDであったが、ここで初めてヘリコプターのHがついた。

(DDは米軍に倣って自衛隊発足時からつけた。駆逐艦DestroyerのDである。米軍は1920年以来空母のCVなどを除き頭文字を重ねて二文字にする。用途に応じて3文字以降が付加された。海自では1965年就役のあまつかぜ型がGuided missile搭載のDDGとなった。)

自衛隊では発足当初から対潜哨戒、掃討を目的に洋上航空兵力の復活を志向した。当初は軽空母の建造を目指したが、時期尚早とされ、70年代のはるなになって初めて実現した。ヘリを3機搭載できたが発着艦は一機ずつだった。
それでも期待は大きく、それまで護衛艦はむらさめ型、はつゆき型など気象から艦名を取り、およそ戦、武、軍などとかけ離れた優しい名前であったが、初めて山岳名にした。

はるなは、戦艦「榛名」の名を継いでいる。霧島などともに巡洋戦艦として作られたから航続力、速力に優れ、改装後は戦艦並みの攻撃力をもった。終戦直前、燃料のないまま呉軍港で空襲を受け大破着底するまで、大和、武蔵などと違って太平洋戦争ではほとんどの主要作戦に参加し、大型艦としては開戦からもっとも活躍した船である。期待の一番艦の名前にふさわしい。ひらがなだから重厚さはないけど。

帝国海軍は同型艦を二隻以上合わせて運用し、戦隊とした。
太平洋戦争開戦時は第一航空艦隊の第2航空戦隊が飛竜、蒼龍、また第5航空戦隊が翔鶴、瑞鶴、といったぐあいである。同型艦は同時期に完成するから名前もセットでつけられ、対となった。主力決戦用に第二艦隊第三戦隊に属した4隻の戦艦(もと巡洋戦艦だから山岳名)は、金剛・比叡は宗教的歴史的な山で、榛名・霧島は、堂々とした火山である。

護衛艦はるなDDH-141から2年遅れて建造された同型艦DDH-142はひえいだった。
続くDDHはひえいから5年遅れて新型艦として建造された。当然こんごう、きりしまだと思ったが、DDH-143はしらねになった。当時防衛庁長官だった金丸信が選挙区の南アルプス白峰(しらね)三山からとったという(ウィキペディア)。しかし金丸でもそんな子供じみたことをするだろうか? DDH-144はくらまである。

結局置き去りにされた、こんごう・きりしまは1993年から順に就役した4隻のイージス艦(DDG-173~176 )に使われた。残りの2隻はみょうこう、ちょうかいである。

ヘリコプタ搭載護衛艦はひゅうが型に引き継がれ、ここから全通甲板になり、護衛艦というより空母のような外見に大きく変わった。DDHの艦種記号は同じだが、番号は181、182となって、はるな、しらね型との連続性はない。(次のいずも、かがはひゅうが型と連続してDDH-183、DDH-184である。)

平成12年(2000)の観艦式パンフ

観艦式は10月29日で、その2日前の27日に全くそっくりの予行があった。
私は27のほうに乗艦できた。
それに先立ち、27と29以外は、5か所の桟橋で艦艇の一般公開があったり、岸壁での音楽隊演奏などがあったようだ。

メモも写真も取らなかったのでほとんど忘れてしまったが、幸い観艦式特集号の新聞が残っていたので、それを見ながら書く。
海上自衛新聞(毎週金曜発行)
平成12年10月29日(臨時増刊)観艦式特集号

ヘリ空母ひゅうが型が登場する前、空母様の全通甲板の輸送艦おおすみが自衛隊最大の艦艇であり、それが目玉として右ページに紹介されている。

参加艦艇63隻(観閲部隊17隻、受閲部隊33隻)20万トン、航空機61機。
海上自衛隊全体で144隻38万トンだから、力の入れ方がわかる。

さて、岸壁の音楽隊が勇ましく軍艦マーチを奏でる中、私たちが乗ったはるなは出港した。
天気は曇り。10月末は肌寒い。

陸上の観閲式は観閲官(国家元首など)が見ている前を、歩兵部隊や最新兵器などが行進、通過していく。しかし観艦式では船の間を空けねばならないため、式典面積が広くなるだけでなく、間延びしてしまう。そのため、ふつう整列、碇泊した軍艦群の前を観閲艦が通過していく。
帝国海軍最後、最大の観艦式、昭和15年(1940、紀元2600年)の観艦式は、横浜沖で98隻、60万トン、航空機527機が参加した壮大なものだったが、指揮官山本五十六連合艦隊司令長官座上の旗艦長門はじめ軍艦は5列に整列し、昭和天皇が乗った御召艦・比叡は、その間を練り進んだ。

ところが海上自衛隊の観艦式は珍しい移動式である。波を蹴立てて一列で通過していく受閲艦部隊と観閲艦部隊とが海上で交差する。これは東京湾では無理で、相模湾の沖で行われた。

我々ははるなの後部ヘリコプター甲板に適当に座った。
寒かったが毛布が貸してもらえたかどうか、レジャーシートなど敷いたかどうか記憶にない。海風にあたりながらおにぎりかパンを食べたはずである。
近くに上品なご婦人二人がいらして聞くとご主人が東芝だという。軍需産業関連の人なども伝手で乗船券がもらえるのだろう。
私は水交会で知り合った上林将人さんと一緒だった。彼は写真が趣味で自衛隊の行事のときカメラマンとして活躍していた関係か、どこかから乗船券を入手された。

さて、東京湾を出ると船が揺れた。
われわれ観閲部隊17隻は横須賀(吉倉、船越、新港)、横浜新港、木更津から出港した。相模湾の東で合流、1列となる。いっぽう受閲部隊33隻は全国から集まって相模湾の西側で整列する。これだけの船が等間隔で一列で、東西から近づき、至近距離で交差するのである。高い操艦技術は日露戦争以来の日本海軍の伝統であろう。

すれ違う時は受閲部隊各艦で乗員が甲板に整列し、観閲部隊に対し敬礼する登舷礼を行い、それは壮観だった。
上空には43機が東から飛来して、西でUターンして再び前を通って東へ去った。

海上では双方の部隊がすれ違って東西に離れた後、そこでUターンし、今度は訓練展示である。護衛艦が対潜ロケット弾を発射したり、P-3Cが対潜爆弾を投下したり、4隻の潜水艦がイルカのように浮上、潜水を3回繰り返しながらすれ違う。4隻の護衛艦がヘリコプターを発艦させたりした。

ヘリコプターというと、観閲官である総理大臣・森喜朗は、我々が朝乗艦したのに対し、忙しいのか、11:20に相模湾で観閲艦しらねDDH-143にヘリコプターで着艦し、訓練展示が終わる14:00にしらねから飛び立った。
我々はその後、朝出発した横須賀吉倉桟橋に戻った。
退艦後、解散となった。
ぞろぞろ出口まで歩いていく途中、背中に「総理大臣」だったか「首相」だったか、ゼッケンのようにつけた自衛官がいた。そう、この日は予行だった。
全く同じタイムスケジュールでリハーサルをするのだが、本番でも首相がこの時間に吉倉にいるのか、「役目」を終えて、本来の業務に戻る途中なのか、その歩き方、雰囲気から分かるはずだが、記憶が薄くなっている。

横須賀地方総監部の入り口で、25年前を思いだそうとしたが、これくらいしか出てこない。

そうだ、この観艦式の乗船券をもってきてくれた上林将人さんのことも書いておく。
彼は水交会の会員として知り合った。
「水交」の一番最後のページにその月の新入会員の名簿がある。見れば蓮田在住の人がいた。海軍関係者の多い水交会で埼玉、大宮より北に住んでいる人は珍しい(私は当時指扇)。親しみを感じ手紙を書いた(当時はネット時代の前でメールもなかった)。

奇遇にも彼はT製薬の有機合成の研究者だった。
しかし非常にユニークな人で、ご自分が合成した新規Ca拮抗薬が開発中止になった後、諦めずにそれを私的に研究していて、京都薬科大の研究生になり(たぶん会社に内緒)、薬理学会なども自費で参加しているような人だった。熊本でばったり会ったことがあるが、参加費、懇親会、宿泊・飛行機代などは馬鹿にならない。さらに、同業(ライバル?)会社の研究所でCa拮抗薬を扱っていた私に共同研究を持ち掛けたようなエネルギッシュな人だった。
しかし彼のおかげ1998年の米軍空母キティーホークも見学できたし、この観艦式も見物できた。私が歴史・組織に関心あるのに対し、彼は兵器、装備に興味を持たれ、そういう写真ばかり写されていた。お元気だろうか?

観艦式の時、私は不安定な44歳だった。
その後25年、いろんなことがあったが横須賀と関係ない。
もちろん25年、横須賀を訪ねることもなかった。


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2026年2月20日金曜日

横須賀4 陸奥、鎮守府長官、潜水艦の名前と艦番号

1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通った。そして右手に日米の軍艦を見ながらヴェルニー公園を歩いてきた。

11:01
いずも型ほか護衛艦が数隻

ヴェルニー公園の終わるころ、JR横須賀駅近くに軍艦の砲身と砲弾が展示されていた。
11:02
戦艦陸奥主砲
砲身の厚さに驚いた。
1トンもの砲弾を38キロメートル(横須賀から品川、木更津)まで飛ばす大爆発に耐えねばならないといえば当然か。

陸奥は同型艦・長門とともに第一次大戦後の海軍近代化の柱である八八艦隊の最初の艦として1921年竣工した。1943年柱島で謎の爆沈をしたが、戦後引き上げられた。ここに飾られた理由は横須賀海軍工廠で建造され、横須賀を母港としたからだろう。

時代を画したといわれるイギリス海軍の戦艦ドレッドノートは各国海軍の目標となりドレットノート級、略してド級戦艦が次々つくられた。陸奥はそれを超える超ド級戦艦だった。竣工直前の1921年ワシントン軍縮会議があり、一度は廃棄されそうになったが、長門とともに最新鋭艦であることから交渉し、残された。その代わりアメリカはコロラド級3隻の建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認められた。この時残った日米英の超ド級戦艦7隻は1935年第2次ロンドン条約から日本が脱退、無条約時代となり20年後の1940年代に大和級、アイオワ級が登場するまで世界七大戦艦(ビッグ7)といわれた。

ヴェルニー公園はJR横須賀駅の前まで続き、その終点にヴェルニー記念館がある。
入場無料、入ってみた。
横須賀は今も昔も軍港だが、この記念館は近代製鉄の始まりとしての横須賀を展示している。

特にみるものがなかったが図書コーナーの本が良かった。
11:10
終戦時に横須賀にあった旧軍施設
右はアメリカ第7艦隊司令長官一覧
横須賀海軍工廠・歴代工廠長一覧(左)
初期は少将、昭和13年から中将のポストとなった。
機関中将、主計中将の人がいることもあり、有名人は少ない。
私は正木義太と山梨勝之進しか知らない。

正木は司馬遼太郎が坂の上の雲を書くとき、日本海海戦の様子を知るのに、「父上が日露戦争に従軍した海軍士官で、本人も海軍士官であった人ならば当時のナマの話が伝わりやすいだろう」と正木生虎氏を探し多くを取材した。その父上である。

山梨は、帝国海軍の77名の大将のうち艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。ロンドン軍縮会議をまとめたため艦隊派から恨まれ右翼から命を狙われたが長命し、戦後の水交会(何度もブログに書いている)の初代会長となった。

いっぽう右ページは東海鎮守府、横須賀鎮守府・歴代長官一覧。
鎮守府長官は陸軍の師団長、海軍の艦隊司令と同じく中将のポストだったが、大将の人もいる。こちらは左ページと違って連合艦隊司令長官、海軍大臣や総理大臣になったような誰もが知るそうそうたる名前が並ぶ。

その中では無名に近いが、最後の古村啓蔵(代理)・少将に目が留まった。
終戦後の昭和20年11月に最後の横鎮司令長官に就任した。彼は諏訪中学出身、武蔵艦長をつとめたので信州人として記憶に残っている。武蔵を降りて第一航空戦隊司令を経て1945年第二水雷戦隊司令官となったときは日本海軍にほとんど船が残っていなかった。4月、大和を中心とした沖縄特攻のときは旗艦の軽巡矢作にいて、九州坊ノ岬沖でアメリカ軍の空襲により乗艦が沈没、海を漂いながら大和の沈没を見たという。艦とともに沈んだ大和艦長は、同じく信州諏訪中学出身、海軍兵学校同期の有賀幸作だった。同郷だったから有賀の父親が古村の兵学校入学時の保証人だった。有賀は死後二階級特進で大佐から中将になった。
アメリカ海軍横須賀基地
たぶん正門(King St)の上空から。
右上:米海軍司令部庁舎 左下:信濃が建造された6号ドック

11:14
右上:米海軍司令部庁舎(旧横須賀鎮守府庁舎)
関東大震災後に再建された堅固なもので、米軍も戦後使うことを想定して空爆しなかった。
旧海軍病院(左上)、防空壕(右下)も現在使われているようだ。
12:22
大正12年12月の全国の市の人口
円グラフというのが面白い。
呉、佐世保、横須賀などが上位にあり、東京通勤圏の市は70位までに横浜以外入ってこない。地方がまだ元気だった時代であり、いまの東京集中と違って文化の多様性があった。

実は図書コーナーに来たのはボランチア学芸員の人に「横須賀の旧海軍施設がどこにあったか、地図はありますか」と聞いたからである。

彼は窓側に静かに座っていた。
たいていこういう人の説明は、当たり前のことばかりなので敬遠しているのだが、彼の話はヴェルニーと関係なく、逆に小さなことばかりなので面白かった。何も思わずに見てきたところを再び写真撮ることになった(以下)。
11:19
左のいずも型護衛艦は「かが」だという。
いずもは横須賀に所属しているが、かがは呉を母港にしており、ここに来るのは珍しいという。今朝入港したばかりで朝はカメラを持ったマニアがいっぱいいたらしい。「どこでこういう情報を知るんでしょうね?」と彼が言った。

写真右の小さく見える駆逐艦?3隻はアメリカ軍のもので半島(楠が浦町)の桟橋のようだ。
正面の陸地は長浦港と本港を分ける吾妻島である。
そのむこう、小さく見える紅白のガントリークレーンは、日産自動車追浜工場のある埋め立て地の突端にある住友重機のクレーンで、その向こうは八景島になるという。
右下が米軍横須賀基地
ヴェルニー記念館は中央の一番下。湾の奥で、左から右から半島、桟橋が錯綜し海の水平線は見えない。
中央の上が住友重機。船そのものは作っていないらしい。

歩いてきた右方向に目を転ずると
11:23
米軍基地の建物の一つだと思っていた白くて四角いビルは、船だと教えてくださった。
ホテルシップといって、米軍兵の宿舎になっているらしい。

11:26
二隻の日本の潜水艦は高さが違う。
むこうが先月、2025年12月に除籍された「うずしお」で、艦内のものを取り外したから軽くなり、喫水が浅くなっている。こういうことは彼との話で初めて知った。

それにしても「なだしお」とか「うずしお」とか潜水艦の名前はみな似ていて紛らわしい。1954年発足の海上自衛隊は翌年初の国産潜水艦を建造した。
くろしおである。
その後、 → 初代おやしお → はやしお → なつしお → おおしお → あさしお → うずしお → ゆうしお → はるしお → 2代目おやしお → そうりゅう → たいげい、と来た。注目すべきは、これは艦名ではなく、クラス名ということである。その下に何隻もの○○しおがある。
現在はそうりゅう型12隻が主力で、2代目おやしお型は11隻、その前のはるしお型は7隻、 ゆうしお型は10隻。すなわち〇〇しおは何十隻(49隻?名前としては33個?)もある。 

初期のくろしお、おやしお、くらいは良いが、なるしお、もちしお、やえしお、くらいになると名前を探すのに苦労しただろうな、と思う。ひらがな2文字という制約に加え、戦後は左翼メディアを意識したのか、少しでも平和、優しさを出そうと艦名はすべて漢字でなくひらがなにした。普段目にしない単語がひらがなになっては意味が分からないからますます艦名が覚えにくくなった。

ようやく2009年から就役したそうりゅう型から○○しおはなくなったが、○○りゅうも12隻あって覚えられない。おうりゅう、とうりゅうなどもひらがなでなく漢字なら良かったのに。
2022年から就役のたいげい型(6隻予定)もじんげい、ちょうげい、そうげい、とひらがなだと意味が分からない。

アメリカ海軍が戦後、海の主役が戦艦から空母や潜水艦に代わったとき、戦艦に使っていた州の名を戦略弾道ミサイル潜水艦SLBMにつけるようになった。オハイオクラスである。
かつて日本海軍は旧国名(戦艦)、山(重巡)、川(軽巡)を主力艦に使った。日本も潜水艦にこういう名前を使ってもいいのではないか?

日本人は山が好きで相撲取りの四股名や酒の名、列車名などにしているが、自衛隊も主力である護衛艦に山の名を使った。ところが念願の一枚甲板のヘリ空母の護衛艦が登場したとき、旧軍の航空戦艦だった日向、伊勢を使って以来、かが、いずもと続いてしまった。しかし護衛艦は山を続け、旧国名は潜水艦に使ってほしかった。旧国名ならひらがなでもわかる。四方の海中で全国土を守るという意味がある。

ところで日本海軍はのちに空母も山の名になった。天城、葛城は完成したが内地で空爆され大破横転したり、燃料がなかったりして出撃できなかった。笠置、阿蘇、生駒は完成まで60~80%の段階で終戦となった。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       
ちなみに艦番号について。
先月除籍され、この日浮き上がっていたうずしおは、おやしお型潜水艦の3番艦、SS-592 である。二代目であり、初代はうずしお型潜水艦の1番艦、SS-566 であった。潜水艦艦番号は初の国産潜水艦・おやしおの511から始まっている(途中抜けがある)。
しかし自衛隊は2009年のそうりゅう型1番艦から艦番号をリセットし、SS-501から番号を付けている。
いっぽうアメリカ海軍は戦前からずっと番号は継続している。たとえば今横須賀にいる原子力空母ジョージワシントンの「CVN-73」は、1920年給炭艦を空母に改造したラングレー(CV-1)、珊瑚海、ミッドウェーで日本軍に沈められたレキシントン(CV-2)、ヨークタウン(CV-5)などから続く通し番号である。

番号がずっと続いているというのは歴史がずっと続いていることである。
戦前を否定したい日本国民、マスコミとしては、許しがたいことであろう。伊勢、日向の名前の復活でもそういうことを言う人がいた。
幸いなことに自衛隊はゼロからの出発だったし、戦前の海軍はアメリカのように番号をつけていたわけではないから、番号による戦前からの連続性は全くない。
ただ、自衛艦旗(旭日旗)だけは継承した。現在のデザインは旭日がやや左寄り(旗竿寄り)だけれども。


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2026年2月15日日曜日

横須賀3 どぶ板通りの古本、I-605、ヴェルニーと小栗

 先月、1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通って、昔の記憶を呼び出した。

米軍基地の正門前で国道16号を渡るとどぶ板通りがある。

10:09
どぶ板通り
名前から勝手に、かつて臭い側溝に汚れた木の板が蓋してあったのかと思っていた。しかし、戦前、道の真ん中に小さな川があり、通行に支障があるから海軍から鉄板をもらって蓋したとか。
そう、ここは海軍横須賀基地の門前町だったのである。戦後はアメリカ兵相手の店が増え、いまも横文字だらけの通りである。
10:12
たぶん1998年11月の空母、USS Kitty Hawk 見学の後だと思うが、この通りを初めて歩いた。
ある店で子供向けのアメリカの古本が売られていた。カラフルな図鑑や絵本が一冊100円、図書室のラベルが貼ってあった。米軍横須賀基地内には小学校2つ、中学校1つあり、少し離れた池子地区にも米軍管理の小学校がある。それらのどこかが放出したものか。

自分が英会話で苦労しただけに(というより、苦労もせずに劣等感だけあった)、子供たちには英語を学ばせようとしていた。その日、Kitty Hawk の売店で英語のアニメビデオを買った後で、ここでも古本を両手に持てるだけ、20冊くらい買った。厚くて大きな本が多かったから駅まで歩き埼玉まで帰るのに苦労した記憶がある。しかし子供たちは見向きもせず、その後、処分したか、どこかの段ボールにあるか、知らない。

並行する国道16号に戻った。その角に石柱があった。
10:13
「明治天皇横須賀行在所入口」
文明開化の象徴、黒船や製鉄所など見に来られたのだろうか。
「行在所跡」でなく「入口」においてもこんなに立派。

「605」というバーの看板。
アメリカの国道、Interstate、すなわち州間のハイウェイの標識である。その605号。車社会だからI-605の沿線の人は毎日見ているはずだ。

アメリカのISは、系統的に南北方向に走る道路は奇数、東西に走る道路には偶数の番号が、南西から北東にかけて付けられている。つまり5号はアメリカ西海岸を、サンディエゴからLA、SF、シアトルなどを結ぶ。逆に95号はフロリダ半島マイアミから東海岸の主要都市を結びカナダ国境までいく。10号はLAから東へメキシコに近い南部をニューオーリンズからフロリダを結び、90号はシアトルからボストンまで大陸横断・世界一長い自動車専用道路である。
(南北方向の、主要なものは下一桁が1番、5番、東西方向の主要道は下一桁が0番という決まりがある。そして大都市のバイパスは、その2桁の前に数字を加える。)

例えば真ん中より北東部に寄ったシンシナチはI-71、I-75が南のケンタッキーからきて北のクリーブランド、デトロイトに向かい、I-74が西のインディアナポリスに行き、そしてI-275がI-75に付属する環状のフリーウェイだった。

I-605というのは西海岸のI-05の補助道路だから軍港のサンディエゴ(第3艦隊司令部)か、あるいは空母打撃群の母港・北西部のブレマートン、エバレットのあるシアトル周辺と予測した。しかし帰宅して調べたら軍と関係なくロサンゼルス近郊のフリーウェイだった。 

さて、日本の米軍基地を結ぶ国道16号に出ると斜め向かいに大きな商業施設があった。
10:14
コースカ ベイサイドストアーズ
10:15
昔来たときはなかったから調べると、住友重機・横須賀分工場(旧横須賀海軍工廠)と林兼造船・横須賀造船所の跡地に、2020年開業したらしい。
10:17
90年代前半のアメリカのショッピングモールに似ていた。
近年、あちこちの駅ビルや、ショッピングモールができて、こういう中央に吹き抜けがある店も珍しくはなくなったが、それらよりもアメリカらしい。
これは横須賀のせいなのかと思ったが、買い物で来る米軍関係者は建築、設計に携わることはないから、なぜアメリカらしいのか分からない。
10:20
エスカレーターで二階に上がると、海側が外に出られるようになっている。
出ると、右の米軍基地側に潜水艦が2隻、左の海上自衛隊のほうにヘリ空母・いずも型護衛艦が停泊していた。

6階建てのCoaska Bayside Storesは、シネマコンプレックスやボーリング場もあるが、二階だけぶらぶらして外に出た。
Coaska Bayside Storesから先の海沿いは米軍基地も切れ、JR横須賀駅までヴェルニー公園として歩ける。
10:41
遠くにいずも型護衛艦が見える。

33年前も潜水艦を見ながらこのあたりを歩いたが、ヴェルニー公園の名は知らなかった。
戦後開園した臨海公園を2001年、リニューアルしてこの名になったらしい。
10:41
軍港巡りの観光船が帰ってきた。
こぼれんばかりの満載に見えるのは、景色を見ようと上に集まっているのだろう。
10:42
軍港巡りの遊覧船が出る桟橋。
料金はいくらなんだろう? いってみよう。
10:44
海水はきれい。
良港の条件、川がないということはこういうところでも分かる。

10:45
戻ってきた船から客がみんな下船するまで長い行列で待っている。
大人2200円。毎正時に出発する45分くらいのクルーズか。
10:46
コースは横須賀本港から本土と吾妻島(米軍)の間の新井掘割水路を通って田浦港のほうに出て、ぐるっと回って米軍基地の前を通って帰ってくる。米軍空母がいれば帰りに見られるだろう。
この日は日曜のせいか、行列は長かった。

ふたたびヴェルニー公園に戻って歩いていく。
10:51
潜水艦は艦尾に旭日の自衛隊旗を掲げていた。

半島はほとんど米軍管理地だが、一部だけ、すなわち第4号ドックのとなりに自衛隊施設がある。第2潜水隊群司令部である。しかしここへ行くには米軍基地内のKing Stを通らねばならない窮屈な場所だ。

33年前の1993年、ここで「なだしお」を見た。
その5年前、1988年7月遊漁船「第一富士丸」と衝突、30名が死亡し、17名が重軽傷を負った大事件で有名になった。なだしおは潜水艦だから内部は見えず、真っ黒なクジラのようなものが寂しくうずくまっているように見えた。

2026年は潜水艦の向こうに軍艦の艦橋が見えた。写真を拡大すると艦首に番号がほんの一部だけ見える。4とか7とかの数字ではない。横須賀を母港とするアメリカ海軍の艦船を調べると、イージス駆逐艦USS Lassen (DDG-82)の「82」が一番近そうだった。

なおもヴェルニー公園を歩いていく。
10:54
ドライドック
右から1号、2号、3号と並んでいて今も使われているらしい。

横須賀は海軍基地として知られるが、横浜に置かれた東海鎮守府が横須賀に移転してきたのは明治17年である。幕末、海軍など影も形もないころ、幕府はここに造船所と製鉄所を作った。
ドライドック1号は明治4年に作られた。その後、海軍と横須賀海軍工廠の拡充にともない、ドックは増え、6号では大和型戦艦の信濃(のち空母)が作られたことは前のブログで書いた。
10:58
その製鉄所、造船所の建造で日本の近代化を推進したのが小栗上野介忠順(1827–1868)であり、また、幕末1865年に来日、横須賀製鉄所の長として指揮を執ったフランソワ・ヴェルニー(1837-1908)であり、二人は並んで銅像になっていた。

小栗上野介は幕末の混乱する幕府と日本をささえた天才的勘定奉行、外国奉行であった。当初、徳川慶喜の薩長への恭順に反対し主戦論を唱えたため罷免され、領地(上野国高崎)に謹慎、静かに日々を送っていたが、薩長軍に逮捕され取り調べもなく、翌日、斬首された。なんと革命とは乱暴なことか。

今は米軍、自衛隊の軍港として有名な横須賀は、もちろん戦前から帝国海軍の本拠地だった。しかし当初はそうでなかった。
横須賀が歴史に出たとき、すなわち幕末は対外戦争など思いもよらず、幕府の国内治安、外国からの国土防衛が目的で外国から蒸気船、軍艦を購入した。しかし修理施設がない。いっそ国産を目指した造船所が欲しい。
(当時としては)大きな船が入れるところというと横浜だが、ここは外国人居留地になっていて狭い。次の候補として横須賀だったのだろう。帝国海軍東海鎮守府が明治9年横浜に置かれたことからも、当初は軍港ではなかったことがわかる。


2026年2月11日水曜日

ヒヨドリが冬のミカン、アブラナ科を食う

 

2026-01-03
大根はダイソーの一袋60円、宮重総太りの種がよい。
毎年失敗はない。
前日の夜、雪が降ったが融けた。
2026-01-03
36センチ、1.2キログラム

2026-01-04
翌日は子供たちが来て新年会
庭でとれたものはサトイモ(煮物)、大根(刺身のツマ)、カブ(お吸い物)くらい。
かつて中心だった蒲鉾や昆布巻き、ハゼ佃煮、田作りなどはない。
そのころなら庭の野菜ももう少し活躍できただろう。

1月は冬が進んで食べ物が不足するのか、ヒヨドリが来る。
遅く種まきしたロマネスコの苗などが食われたので、移植してネットをかぶせた。

ある朝、洗濯物を干しに庭に出た妻が、急いで私を呼びに来た。
2026-02-05
飛び回るヒヨドリ(中央)

温州ミカンのネットにヒヨドリが入って出られなくなっていた。
入るときは注意ぶかく見て小さな隙間から入ったのに、人が来るとパニックになって、ただただネットにぶつかっては飛び回っている。落ち着いて周りを見ることができなくなっている。
「慌ててパニック、思考停止」というのは人間だけじゃないんだな。
疲れてネットに止まったところをパチリ。
くちばしと脚が黄色でないからムクドリでない。
眉毛部分が白くないからツグミでもない。
今までじっくり見られなかったから確信なかったが、ミカン数個の犠牲で確認できたから良しとする。

さて、ヒヨドリを捕まえる滅多にないチャンスである。
どう懲らしめてやろうか、捕まえて暴力をふるおうか、それとも閉じ込めて恐怖を味わすか、でも閉じ込めたらもっと食い荒らされるな、なあんて思っているうちに逃げられた。
2026-02-05
改めてネットの中に入ると被害甚大
2026-02-05
この日は食われた3個と目立つところにある20個を収穫。
もちろん食べきれない。しかし食われるのは癪だから。

3日後の2月8日、雪が降った。
いよいよ食べるものがなくなったか、ヒヨドリが再び来襲。
先日の怖い思いを忘れたのか、あるいは飢えが上回ったのか。
2026-02-09
前日の雪がまだ残っている。
この日は17個と食われたもの4個とる。

ミカンを取って暖かい部屋に戻る。
2026-02-09
最近鍋料理が多いので、下3センチほどを植えている。
泥ネギでなくとも、下に根の痕跡、ぶつぶつがあれば、根が出る。
外は寒いので室内で発根、育成してから地植えする。

2月11日、またもやミカンが食われていた。
残っていたものをすべて取った。
今期は全部で158個とった。一昨年の217個には及ばないが、昨年の51個より多い。

ミカンが一つもなくなって、奴らはどうするだろう?
他に向かうか?
2026-02-11
大根はミカンより早くから食われていたが、ミカンを知ってからあまり食っていない。
2026-02-11
ネットに入れなかったロマネスコは無残な姿。
種まきが遅れて小さいのに、これでは再起不能か。
ふと隣のレタスが全く食べられていないことに気づいた。
2026-02-11
春菊(キク科)、ほうれん草(ヒユ科)も全く食われていない。
春菊は好き嫌いあるだろうが、ほうれん草は大根の葉っぱより柔らかくおいしいのに。
(ちなみにほうれん草はアカザ科だったが、2000年以降、DNA解析の結果からアカザ科がヒユ科に統合された。)

冬の千駄木菜園でヒヨドリが食うのは
白菜、キャベツ、大根、カブ、ノラボウ菜、ロマネスコであり、
食わないのはニンニク、ネギ、レタス、ニンジン、ジャガイモ(葉)、春菊、ほうれん草である。

人間以上に好き嫌いが激しいと同時に、アブラナ科はほとんど全て好きなことが分かった。


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