7月17日に科博にきてフーコーの振り子について前のブログを書いた。
この日はゲリラ雷雨だった。
公園を歩いているときは大丈夫だったが、科博に入るとき降り始め、フーコーの振り子を過ぎて新館に入るため外に出ると土砂降りになった。
新館はこれまで何度か来て1階と地下は見たので2階、3階にあがった。
2階は「科学と技術の歩み」として過去の画期的(時代を画した)装置が並んでいる。
豊田佐吉は1867(慶応3)年に現在の静岡県湖西市に生まれ、1887(明治20)年ごろに西欧から伝わったバッタンと呼ばれる「飛び杼(とびひ。織物の横糸を入れる器具)」を備えた機織り機を製作した。
はたおりを機織りとかくのは機械の中の機械ということか。
機織りは縦糸をはって、その一本おきに横糸を通していく。
バッタンバッタンという場面がテレビでちらりと映ることがあっても装置そのものを写したものではないので、原理が良く分からなかった。
コトバンク「織物」から
図を見れば「なあんだ」と思うだろうが、これを発明した人はすごいと思う。
布というのは古くからあり、起源ははっきりしないらしい。
おそらく石器時代の毛皮に続く、次の時代であろう。
当初は線維を撚(よ)って糸にし(紡ぐという)、それを各自工夫して編んだ蓆(むしろ)などの編み物のほうが先行しただろう。しかし4大文明の時代には布はあるから、この時、機織り機はあったのだろう。
その後、ゆっくりだが織機は、さまざまな民族の間で様々な形で進化を続けた。
上の装置でいえば、偶数番の縦糸と奇数番の縦糸を交互に上下さすのは人力(ペダル)であるが、18世紀にイギリスのカートライトが動力織機を発明した。
ちなみに「産業革命」という誰もが知る有名な言葉も多くの人は「蒸気機関の発明」「イギリス」「家内制手工業から工場制機械工業への変革」という程度の知識で止まっている。しかし実際の変革は、機関車や蒸気船ではなく、この動力織機による織物工業だったのである。
その結果、衣服は暑さ寒さを防ぐために各自1つだったものが、布製品の大量生産によって、各自何着も持てるようになり、さらには海外に売りつける帝国主義のもとになった。また綿織物は無色であったから人工染料の発明を促し、そうするとお洒落で服を買うという時代をもたらした。人工染料の開発は化学産業、製薬産業、医学の発展につながる(サルファ剤・忘れられた奇跡)。
さて、豊田佐吉に話を戻すと、彼は研究を続け、1890(明治23)年に「豊田式木製人力織機」を開発し、さらに1896(明治29)年に日本最初の動力織機「豊田式汽力織機」を発明した。
1924(大正13)年には、当時世界最高性能の「無停止杼替式豊田自動織機」を完成させた。
当時、自動織機(よこ糸が無くなった時に自動的に補充し、たて糸が切れた時に自動的に停止する)はすでに欧米で製作されていたが、故障が多く、しかも操作が複雑なため十分に使われていなかった。その技術は、当時世界のトップメーカーであった英国プラット社に特許権を譲渡するほどだった。
1926年、愛知県刈谷(豊田市の南、知多半島の付け根)に株式会社豊田自動織機製作所を設立した。
もちろん、紡績業、織物業ではなく、機械業であるから、さまざまな機械を作った。
1933年には自動車部を設置し、1935年には乗用車、トラックを発表した。この自動車部が1937年分離しトヨタ自動車工業となる。
すなわち、豊田自動織機はトヨタグループの本家本流にあたる。
現在、産業車両が64%、自動車部品が30%で、繊維関係の機械生産はわずか3%である。
しかし本家の誇りからか、2001年に社名から「製作所」をとっただけで、いまも「株式会社・豊田自動織機」である。本社は刈谷市豊田町2-1となっていた。
ところで、たまにトヨタ・ウーブンシティがテレビCMで出る。
富士山麓に建設した未来実験都市である。
最初何も思わなかったが、ウーブンはwoven、 weave(織る、編む) の過去分詞である。
ここにも本家の「織機」が顔を出す。
ちなみに社交ダンスのワルツやスローフォックストロットの人気フィガーにナチュラルウィーブ、リバースウィーブがあり、競技選手はほぼ全員ルーテンに入れている。男女が動きながら入れ替わり、縫うような動きである。
日本の機械産業の原点といえる豊田G型自動織機は、科博に展示するにふさわしい。
この装置は豊田佐吉が最初の営業試験用に製作したものの1台である。部品の取り替えや改造を加えながら愛知県の織物工場で昭和40年代まで使用されていた。豊田自動織機で製作当初の姿に復元され、1976年、科博に寄贈されたという。
自動織機の背中側にはまたまた古めかしいものがあった。
12:35
九元連立方程式求解機
木造の大型人力機織り機みたいな風貌だが、計算機という。
真鍮製のバーの角度を変えることによってベルトの長さを変化させ、複雑な連立方程式を解くという。もちろん九元連立など代数で解けないから近似値である。
アメリカのJ.ウィルバーが、1936年に土木の構造解析や経済学上の計算を行える計算機械を考案、製作した。本機はその情報を元に、東京帝大航空研究所の佐々木達治郎、志賀亮、三井田らが1944年に製作した国内初の大型計算機械である。
原理は、見ただけではわからないが、ねっとにある。
この種のものはMITはじめ数台作られたが、現存するのは本機だけらしい。
その隣も計算機だが、こちらは電気で動く。
12:36
真空管式計数型電子計算機FUJIC
FUJICだから富士通だと思ったら、作ったのは富士フィルムだった。
(富士フィルムは1934年大日本セルロイドから分離独立。富士通は1923年古河電機と独シーメンス社が共同出資して設立。)
1956年、富士写真フイルムの岡崎文次がレンズの設計計算のために、7年の歳月をかけ日本初のコンピュータを完成させた。
真空管を1700本使用。
1+1=10 すなわち
on とonが入力されたらon offと出力されるような回路を作り、足し算は0.1 ms、割り算は2.1 msで計算した。論理回路のクロックは30 kHzで、今のスマホCPUは2.5GHz〜3.4GHzだから10万倍遅い。
いっぽう消費電力は7000W。スマホは数百mW〜1W前後はもとより、電子レンジは500~800Wよりはるかに熱くなる。
当時は、レンズの設計には何千回もの計算が必要で、女性が対数表を片手に二人一組で手回し計算機を使って行っていたらしい。FUJICは平均して人手の2000倍の速さで計算した。
約2年間、使用された後、早稲田大学を経由して科博に寄託された。正面左手が算術装置、右手が制御装置。入力はパンチカード。
・・・
宇宙開発の機器も展示されている。
12:38
左奥 人工衛星「おおすみ」(模型)
右前 宇宙実験・観測フリーフライヤー
大きさに格段の差がある。
フリーフライヤーは1995年、H-IIロケットで打ち上げられ、翌1996年、スペースシャトルで回収され戻ってきたもの。
いっぽう、おすすみは1970年に打ち上げられた日本初の人工衛星。
その結果、日本はソ連、アメリカ、フランスに次いで世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。その2ヵ月後に中国が東方紅1号の打ち上げに成功した。これら多くの国は弾道ミサイル開発の副産物として人工衛星打ち上げたのに対して、日本は大学の付属研究所が純粋な民生技術として研究を行い、非軍事目的での人工衛星開発に成功した。
人工衛星などは最先端だったことに間違いないが、豊田自動織機やアナログ方程式解法機、真空管計算機ほどの迫力はない。時代が進むほど技術が肌感覚から離れ、心に訴えないということか。
いま産業革命に匹敵するほど時代を変えてしまった科学技術として、インターネット、AIがあるが、これらは迫力がないどころか展示することすら難しい。
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