2026年10月29日木曜日

甲府城の縄張りと曲輪名。その巨大さに潜む山梨県の特質

10月17日、土曜、甲府に来た。

家族と松本に旅行するにあたり、甲府城を見ようと一人先発して途中下車した。

朝一番の中央本線だったが各駅停車だったため、あとから家族の乗るあずさが来るまであまり時間がない。

7:43
甲府駅周辺
左が南、右が北。
駅のすぐ南に甲府城がある。

この城は不当なほど知名度が低い。世界遺産の姫路を別格としても、例えば国宝になっている松本や彦根、犬山、松江、全国的大都市のシンボルとなっている大阪、名古屋、金沢、広島、桜の名所の弘前、高遠、小田原、歴史に出てくる安土、熊本、会津若松、岐阜などと比べ、(山梨県民以外には)あまりに地味だ。
そこにいってみる。
7:50
左:甲府駅、右:甲府城
車窓から見える石垣はこれである。
7:50
平山城である。登っていく。
このあたりは甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼(武田信義の嫡男)の居館があり、この山は一条小山と呼ばれた。
そこから甲府城は舞鶴城、一条小山城とも呼ばれる。

ちなみに、板垣郷というと武田信玄の四天王の一人、板垣信方を思い出す。
百円札になった土佐の板垣退助はその子孫といわれる。
7:51
いま舞鶴城公園として残っているのは本丸と二の丸などの一部。
両者は堀で分かれているわけではない。
7:51
左側:稲荷曲輪
2004年に復元された稲荷櫓が見えたが、時間もないのでそちらに行かず、右の坂を上がっていく。
7:53
北の門から上がってきて曲がったところに高い石垣が見えるのは、丸亀城を思い出させる。
かなり立派だ。
7:54
電波塔の左にうっすらと富士が見えた。
400年前、この城の住人達も見ていたものだ。
7:55
天守曲輪から見上げる石垣

これほど立派な城で日本百名城にも選ばれている甲府城が有名でないのは、戦国、江戸時代の物語に登場していないため、ドラマ、小説の舞台にならなかったからである。合戦にも出てこないし江戸期に有名な武将が藩主となっていたわけではない。

すなわち、1582年3月の武田滅亡に続く6月の本能寺の変のあと、武田領は空白地帯となり、天正壬午の乱が勃発、甲斐は徳川氏と後北条氏が争い、家康が押さえた。家康が東海甲信から関東に移された後、秀吉系の加藤光泰、続いて浅野長政、幸長親子によってここに築城された。関東に接することから家康の抑えの城という意味があった。

関ケ原のあと、浅野氏が紀伊和歌山に転封。家康の支配となる(城代平岩親吉)。
今度は逆に関東を守る城となった。
その後は1704年から24年まで綱吉の側用人であった柳沢吉保とその子の吉里が甲府藩主となっただけで残りの時代は徳川一門もしくは幕府直轄の城となった。
7:56
鉄(くろがね)門
この上が本丸である。
入るとオベリスクのようなお城に似合わない塔があった。
7:56
謝恩碑
元帥公爵山県有朋 とある。
西面に由来が書いてあり、その口語訳が上がる前の東面にある。
明治44年、度重なる水害に苦しんでいた山梨県民のために天皇が御料林を下賜したことに感謝して建てたという。
その結果山梨の県有林は広い。絶対面積では北海道や東北、信越の広大県には劣るが、比率は県全土の35%にのぼり、全国的に見て圧倒的に高い。

謝恩碑が立つ地面はお城で一番高い。
7:57
西方
南アルプスの山は分からないから見てもつまらない。
7:58
富士が見える南東方向
7:59
本丸の東に天守台があった。

幕末、鳥羽伏見で敗れた新選組の近藤勇が江戸に帰ってきて、勝海舟から軍資金をもらい、甲陽鎮撫隊を結成、100~200人で甲府城を目指した。しかし故郷に錦を飾るように甲州街道日野宿などで宴会を重ね進軍は遅れた。そして早くに甲府城を抑えた板垣退助らの西軍により、近藤らは甲府盆地を見下ろせる勝沼で敗れた。
慶喜が恭順、勝海舟も西軍との和解を目指していた幕府崩壊の時期、近藤に甲斐一国100万石を自由にしてよい、といったのは天正壬午の乱と同じく甲斐が幕府直轄地で空白地帯となったことによる。
8:01
黒門からおりる。
黒門の外側すなわち本丸の下は、内堀の内側だが、本丸ではなく、また名前が天守曲輪というのがややこしい。

他の平城は堀などで区切られた曲輪を本丸、二の丸、三の丸などという。
しかし平山城の甲府城は高知、姫路、延岡などと同じように一つの山、すなわち堀の内側すなわち内城部分を石垣と門で区切り、できた平坦地(曲輪)に、それぞれ名前がついていて、それぞれは堀で分かれていない。
その各曲輪の範囲がネットではなかなかはっきりしなかったのだが、山梨県が策定した222ページにわたる「史跡甲府城跡整備基本計画」(2022)にあった。
https://www.pref.yamanashi.jp/documents/103741/shisekikofujo_seibikeikaku2.pdf

一番上:本丸
その下:天守曲輪、人質曲輪、帯曲輪
その下:二の丸(北側を山の井曲輪、南側を台所曲輪ともいう)、鍛冶曲輪、数寄屋曲輪、稲荷曲輪
その下:清水曲輪(甲府駅、その北口)、屋形曲輪(ヨドバシカメラなど)、楽屋曲輪(県庁)
つまり、本丸、二の丸は、空間的(面積、位置)意味では他の曲輪と対等である。

内城だけでこれだけの巨城はあまりない。
さすが、徳川直轄の城である。
グーグル鳥観図

8:03
本丸から天守曲輪を経て鍛冶曲輪に降りて振り返る。
左は恩賜林記念館
8:06
鍛冶曲輪の南の堀だけが残存する。

8:06
右の上が二の丸
左下に堀
正面は道路を隔てて山梨県庁

鍛冶曲輪門から出た。
大きな車道(県道31号、舞鶴通り)を横切って県庁の敷地(かつての楽屋曲輪)に入った。
8:09
山梨県庁別館・かつての本庁舎である。
1930年竣工

ところで明治から戦前にかけて山梨出身の有名人は、隣国の長野県と比べて著しく少ないと思っていた。明治の官僚、軍人、科学者、文化人など本を読んでいてもほとんど出てこない。人口が少ないというのは理由にならないほど差がある。
その時はそう思っただけで理由は考えなかったのだが、今回甲府城と県庁を見て、思い出し、理由はすぐ分かった。

信州が11もの小藩が分立し、その藩校で教育された士族が多数いたのに対し、甲斐はこの巨大な城に表れるように大部分が天領すなわち徳川直轄地で、武士の籍を持つのは甲府城や、石和などの陣屋に配置された少数の幕臣のみだった。
今調べたら、幕末の甲斐全人口 29万人にたいし武士は577人、わずか0.2%である。全国平均の武士は5~6%というから、山梨県の士族の圧倒的少なさが分かる。明治初期の士族は田畑をもたないから立身出世に真剣だった。平民も周りの士族に影響される。

1899年(明治32年)に浅井洌が作詞した県歌「信濃の国」の6番(最後)で「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と励まし、大正3年発表の「ふるさと」(信州中野出身の高野辰之)は「ウサギ追いし~」で始まるが最後の3番では「こころざしを果たして~いつの日にか帰らん」と故郷に錦を飾ることを夢見た。

鉄道も碓井トンネルを通って長野駅まで通じたのが明治21年(1888)、一方甲府まで鉄道が入ったのが明治36年(1903)。遅れたのは幕府直轄地で有力者がおらず優先順位が低かったからではないか? 似たような例は鹿児島と宮崎(大サツマvs小藩分立)でも見られる。

自然環境の非常に似ている長野県と山梨県の大きな差は、信州では考えられない、この巨大な甲府城の存在である。

裏に回るとまた歴史的建造物があった。
8:11
山梨県県会議事堂
こちらも1930年竣工。
県庁一帯は公園化されているからもちろん通り抜けできる。
県庁の西側の駅前通りに出た。
8:12
駅前通り(県道6号)
看板に「ほうとう」の文字や武田菱が見える。
この通りは二の丸の西の堀を埋め立てたもの。

内城部分を鉄道や道路が分断するのは長岡などを思わせる。旧幕時代に冷淡な薩長政権だからとも思われるが、巨城であったため分断されても駅の両側に公園用地が残り、市民の憩いの場になった。
8:15
駅南口の武田信玄公像
彼は駅から2キロほど北方の躑躅が崎の館にいた。当時、このあたりは武田城下町の南の端であった。現在の甲府は江戸時代の甲府城を中心に発展したこともあり、南口を正面とすることは無理がないが、信玄を南口に、しかも甲府城に向かって設置するというのは違和感がある。
江戸時代の甲府城にゆかりのある人物がいなかったことから彼を持ってきたのだろうが、無理に建てることもなかったのではないか?

ちなみに武者行列で有名な信玄公まつりも、彼とは関係ない甲府城跡の舞鶴城公園で行われる。

ところで、さきほどの御料林が下賜されて山梨県の県有林比率が高いと書いたが、もとはと言えば山梨県の山林をことごとく国が取り上げてしまったことによる。これも幕府直轄地であったことが関係しているだろう。

安倍川餅に「桔梗信玄餅」「信玄餅」と名付け観光土産物とし、郷土食のほうとうを信玄の陣中食として売り出すなど、県民も全国民も山梨と言えば武田信玄という一色である。しかし後世の山梨に彼の影響などほとんどない。治水で取り上げられる信玄堤などの類は他の県にもある。今の山梨県は戦国時代よりも甲府城に表される幕府直轄時代の影響を強く受けている。

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2026年10月27日火曜日

中央線の各駅停車で甲府まで。路線記号とあずさ2号

10月17日、土曜、甲府に向かった。
家族らと松本に旅行する計画で、彼らは「7時ちょうどのあずさ1号」に乗るらしいが、私は途中甲府に降りてみたかったので、初めてスマホの目覚まし機能を使い、早朝に出た。

まだ真っ暗、西日暮里04:41発、神田05:01の中央線快速に乗る。
こんな早朝ガラガラだと思ったら、すぐに空席は埋まり、登山姿の人が多い。
新宿から京王線で高尾にでも行くのか、かなりの人がおりたが、さらに多くの人が乗った。

新宿で隣に女性が座った。登山帽のため顔、年齢は分からず。
しばらくすると彼女はパンを食べ始めた。私は恥ずかしくてこういうことはできないが、堂々とサンドイッチと甘い菓子パンを食べていた。
2026-10-17 5:35 
東小金井あたり。

中央線快速は吉祥寺から各駅停車になる。特別快速はないのかと思ったが、この電車が一番早く甲府につく電車。
立川で多くの人が下りた。奥多摩に行くのだろうか。

立川を出ると空が明るくなってきた。
終点、高尾で乗り換える。
同じホームの向かいに止まっている電車に移るのだが、ぼーっとしていたら席があっという間に埋まり、ぎりぎり座れた。
松本行き各駅停車なのにボックスのある中距離電車の車両でなく、山手線のような通勤用の車両だった。

こういう状況のため、この電車でもコンビニパンの朝食は食べられず。
高尾 06:15発。

電車は高尾を出ると山間部を走る。
相模湖は思ったより登山客が下りなかった。この駅はかつては津久井郡相模湖町であったが、いまは相模原市緑区となっている。
昔、相模湖と津久井湖の間に帝京大学薬学部があり、1988年6月ここが会場となった日本薬理学会関東部会でダントロレンのCa-induced Ca release阻害が温度依存性であることを発表した。ちょうど東大医薬理から会社に復帰、薬効部門にうつったときで、指導監督する人がおらず皆の前で練習することもなかったから、最初から半分くらいまでスライドなしでイントロをしゃべり続けるという、独創的というか変な口演だった。
この時は学会事務局が用意した専用バスで高尾駅から往復したので、相模湖駅に降りたことはない。相模湖町寸沢嵐というのは学部生のとき指導してくれ、助手に来ないかという話もあった嶋田さんの住所だった。

JC24 06:15高尾
JC25 06:23相模湖
JC26 06:28藤野
JC27 06:32上野原

藤野と上野原の間に県境があり、相模湖の相模川はここから桂川と名前を変える。信濃川のように地元の人は相模川とは言わなかったと思うが、ダムの観光か、河川行政のにおいがする。
上野原は河岸段丘で有名だが、よく確認できないまま過ぎてしまった。

列車は西に向かい、山に朝日が当たっている。
JC28 06:36四方津(しおつ)
JC29 06:40梁川(やながわ)
6:39
梁川駅あたり
同字同名の駅が福島県にもある。
梁は建築用語のハリ、ハシであり、アユなどを取る「すのこ」状のヤナは簗である。
と思っていたが、梁はヤナとも読むらしい。確かにサンズイも木もある。

中央本線はずっと桂川の北を走っているがたまに川が見える。絶景だと思ってスマホで撮ろうと取り出すと過ぎてしまう。
6:45
鳥沢を過ぎて桂川を渡るときの絶景を取り損ねた後の1枚。

JC30 06:44鳥沢
JC31 06:48猿橋
JC32 06:54大月
CO33 07:00初狩
CO34 07:06笹子

駅番号の前についた路線記号に着目したい。
大月まではJR東日本の J と Chuo の JC であり、お茶の水(JC03)、吉祥寺(JC11)などの続きである。
ところが初狩から番号はそのまま引き継ぐものの路線記号がCOとなる。
CはJR東海の会社記号だが、ここはJR東日本である。はて。
調べたら、JR東日本は東京近郊区間のほかに甲信エリアで路線記号をつけている。東京近郊では私鉄と区別するため J をつけるが、地方では J をつける必要がない。篠ノ井線はSN、信越線はSE、中央線がCOとなっている。

(ちなみにJR東海では、御殿場線で書いたように、Cの次は東から順に東海道、御殿場、身延、飯田にABCDをつけていて、中央西線(塩尻~名古屋)はCFである。CHをのぞき(名鉄が先に築港線で使ってしまったので欠番)、CJ(関西本線)で終わっており、COはない。)

笹子を出ると高速道路E20と同じように、長いトンネルに入る。
甲斐大和で両方とも地上に出るが、再び長いトンネルに入り、出ると甲府盆地だった。

CO35 07:12甲斐大和
CO36 07:18勝沼ぶどう郷
7:17
勝沼ぶどう郷駅
かつては勝沼駅だったが、1993年に改名されたという。
さくらんぼ東根駅と同様、地元農家には大きな宣伝になる。

ところで、サクラがあって盆地の絶景が見えない。
日本人は春の一瞬だけのために桜を植えすぎではないか?
7:19
塩山の手前で甲府盆地が見えた。

初めて中央線に乗ったのは、1976年12月、大学2年のときだった。
工学部に進学した高倉仁史君と一緒に剣道班の同級生だった由井克之君の家を訪ねた。由井は下宿して長野高校に通い信大医学部に進んだが、実家は人家も少ない小海線の信濃川上だった。高倉とは乗り換えの小淵沢で待ち合わせることにして、やはり私は朝一番の中央本線に乗った。

そして塩山駅におりて、三科よしみさんと会った。
彼女は高校2年の関西修学旅行のとき出会い、少し文通して翌年4月に玉木一徳をつれて上諏訪で2対2で会ったがその後切れていた。2年しか経っていなかったがだいぶ印象が変わっていた。彼女は出勤前だったから、少し話して次の電車に乗った。その後お互い連絡は取らなかった。
塩山駅は1986年に今の橋上駅となったが、当時は木造の薄暗い駅舎で、彼女と話したのも古い木のベンチだった。

CO37 07:22塩山
CO38 07:26東山梨
CO39 07:29山梨市

彼女は山梨市の山梨高校に通い、謡曲仕舞のクラブに入っていた。県下一の名門高校のような名前の山梨高校は当時、県立の女子高だった。(1989年から共学)。

ここで「山梨」について書いておく。
甲斐の国はいったん甲府県となったが、府県制の中でこの県名はよろしくなかったのか、あるいは幕府直轄地の地名が新政府に嫌われたのか、すぐに甲府の属した山梨郡から山梨県とした。ちなみに山梨県の郡はもともと巨摩、八代、山梨、都留の4つであったが合併が進んだ今は知らない。

CO40 07:32春日居町
CO41 07:35石和温泉
CO42 07:39酒折
CO43 07:43甲府

中央線に乗ったのは、1976年の次は2008年8月ファルマシア編集委員会・夏の合宿で諏訪郡富士見町に行った。今回が3回目ということになる。
(1982年12月岸田孝三君、2012年3月の日本生理学会で松本に行ったときは信越線/篠ノ井線経由だった)

甲府駅に入る前、甲府城の石垣が見えた。
以前よりだいぶ復元されたのだろうか、大きなものがよく見えた。
人生、死ぬ前に初めて甲府駅に降りた。
7:43
甲府駅周辺
左が南、右が北。

西日暮里(東京)から甲府までは134km、普通運賃は2420円。
高崎線だと前橋以北の磯部、渋川あたり。宇都宮線だと宇都宮を過ぎて蒲須坂あたり、東海道線だと沼津を越えて吉原あたりまでだ。
7:43
北口方面
7:44
北口方面
当初、軟弱な家族たちは新宿9:00ころのあずさに乗ると思っていたから、7時ちょうどのあずさに乗れば甲府で2時間作れる。南の甲府城と北の躑躅が崎、武田氏館を見ようと思っていた。ところが彼らは早起きして7:00ちょうどのあずさ1号に乗るという。そこでそれより早い電車を探して朝1番の中央線できた。私の甲府は45分しかない。
それでも北口からタクシーをチャーターして躑躅が崎、武田神社まで急いで往復しようと思ったが、ちょっと南と北の両方は無理なので諦めた。今、北口をのぞいて、タクシー乗り場がすぐ見えなかったので、正解だった。
7:44
大村智(さとし)とイベルメクチン
山梨大学「flotilla」の展示
土壌中の放線菌からノーベル賞の対象となったイベルメクチン誘導体をとって抗がん剤にしようという試み。
真面目にがんを狙うならイベルメクチンにこだわることもないと思うが、こだわらないと山梨大学の意義がない。
7:46
甲府駅南口方面
7:48
甲府駅南口
町を見ている暇はない。
7:50
左:甲府駅、右:甲府城
車窓から見える石垣はこれである。

(甲府城については別に書く)

このあと、あとから来るあずさ1号に間に合うべく30分の駆け足でお城を回って駅に戻った。
8:23
かふふ駅煉瓦広場
かふふ来(幸福)の鐘

かふふ駅は歴史的仮名遣いだから分かるが、かふふ来がコウフクと読めても「来」を幸福でなく「かふふ」につけたのが分からない。甲府が来るのがめでたいということか。

あずさ1号は偶然息子一家と同じ車両だった。
全席指定席で、家で予約するとクレジットカードから特急料金だけ引き落とされるが、チケットはない。スイカとの連携もない。料金を払ってある座席は緑で、空いている(未払いの)席は赤ランプになっている。甲府からは空いていて私の隣の赤ランプの席に息子が孫を見せに一時座ったが、やがて車掌さんに声をかけられた。
普通運賃のほうは出場のとき改札でスイカから引かれる。

「7時ちょうどのあずさ1号にのるから」と息子は言ったが、「8時ちょうどのあずさ2号」のことは知らないだろう。狩人のあずさ2号だ。

明日(あした)私は旅に出ます
あなたの知らない人と二人で
いつかあなたと行くはずだった
春まだ浅い信濃路へ
行く先々で想い出すのは
あなたのことだとわかっています
そのさびしさがきっと私を
変えてくれると思いたいのです……

さよならはいつまでたっても
とても言えそうにありません
私にとってあなたは今も
まぶしい一つの青春なんです
8時ちょうどのあずさ2号で
私は私はあなたから旅立ちます

(作詞:竜真知子、作曲:都倉俊一)

1977年だから大学3年のころ、当時は何とも思わずに歌っていたが、今読むと切ない歌だ。
まだ深く愛し合っているのに、このまま続けても彼は幸せになれないと知った女性が、自ら身を引くために他の男と旅行する(旅立つとかける)という既成事実を作って無理やり彼と離れるという話だろうか・・・

さて、当時は上りに1号、2号、下りにも1号、2号とあった。しかし翌年1978年3月のダイヤ改正で下りが奇数で上りが偶数となり、2号というのは上りの一番列車となった。
8:56
小淵沢を出て長野県に入ったところ。
八ヶ岳が見えた。

ようやく朝飯が食べられた。
息子と孫にはあったが、違う車両の妻には連絡せず、車窓の景色を楽しんだ。

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2026年10月25日日曜日

三島大社と水路と、大山祇神社

 10月4日、沼津を見物した後、隣の三島に来た。

江戸時代は三島大社の鳥居前町と東海道の箱根前の宿場町として栄えた。
しかし明治になって東海道線が通らなかった。取り残される恐れがあったため、町の有力者たちは1889年に北方に開通した東海道線(現・御殿場線)に、1898年新駅を設置してもらい、それを三島駅とし、南方の三島町駅から豆相鉄道線(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)を延伸し接続するために努力した。

1934年に小田原、熱海経由の新線が三島にきて町の中心に(二代目)三島駅ができ、ようやく東海道における江戸期並みの地位に戻った。
そして新幹線の駅も沼津でなく三島となり、利便性はさらに上がった。
(しかし、静岡県東部の中心は相変わらず沼津である)
12:56
三島駅東海道線ホーム
新幹線は右の高いところ

12:58
三島駅 駅前広場
相変わらずどこもインバウンド客が多い。

三島は一度だけ来たことがある。
1990年11月、薬理部門の社内旅行で伊豆に来た。下田などをバスでまわって帰路三島から新幹線で帰ることになった。予定より早く三島に着いてしまったのか、待ち時間があり、喫茶店などに入るものもいたが、私は山本達郎氏を誘って、三島駅周辺を歩いた。
水量豊富な川だけ覚えている。
そこにいってみたい。
13:03
楽寿園
駅前広場のすぐ向こう側にある。
ふるくは浅間神社や愛染院などが立っていたが、1890年、小松宮彰仁親王(1846–1903)の別邸が造営された。戦後三島市の所有となった。
宮様の別邸のほか、小さな動物園や三島市郷土資料館などもあり、入場料300円は安いけれども、入らず。

街を歩きたい。
駅前から南東への坂を下りていく。
13:08
ゆうゆうホール
三島市民文化センターである。
通りに面した階段広場で弁当を食べたりおしゃべりしたりたむろしている。いい感じ。
ホールの裏は楽寿園である。
36年前に見た川を見たかった。
東のほうにいくとあった。
13:12
藤岡武雄については知識がない。

昔見た川はもっと大きかった。
地図を見たら上流に湧き水のところがあったのでいってみる。
13:15
菰池公園
記憶の水はここでもない。
下流に行く。
13:17
三島は海岸そばの沼津と違って内陸で、南に向かった斜面にあり、駅の南で水が湧いている。むかし富士が噴火して溶岩が流れてきたとき三島のあたりで止まった。それが冷えたとき、板状節理として内部に血管のように空間(ひび割れ)ができ、そこを富士の雨水が通ってここに顔を出すという。
13:18
白滝公園
水はきれいだが、36年前の記憶とは違う。
その景色を求めて川に沿った道を歩いていく。
13:20
鴨がいた。
13:21
太宰治の文学碑
流ればかり見ていたため、多くは気づかなかったが、グーグル地図を見れば、白滝公園から川沿いに、正岡子規、十返舎一九、松尾芭蕉、司馬遼太郎、若山牧水、窪田空穂、小出正吾、井上靖と文学碑があったらしい。
13:23
川に沿って歩いていたら三島大社にぶつかった。
13:25
伊豆国一宮 三嶋大社
西の鳥居
立派な本鳥居は南の旧東海道沿いに面しているが行かない。
伊豆国総社。旧社格は最高の官幣大社(65社あった)。
西の鳥居から入ると総門の前に出る。
13:27
総門
三島市制85周年記念、竜王戦第2局 10/22,23
という立て看板があった。
将棋のタイトル戦はホテルとか高級旅館のほかにも仁和寺とか羽田空港とかいろんなところで行われる。いろんなところというのは会場候補は無数にあるということで、それで選ばれるというのは、その会場に熱烈な将棋ファンがいて誘致合戦でもあったのだろうか。
13:27
神池
むこう岸に厳島神社の他に縄が回されたクスノキがあり、女性がお参りしていた。
った。
行くと女性とすれ違った。
13:29
大楠
13:30
神門
現在の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)である。ただし事代主神のほうは江戸時代末期からで、もとは大山祇命だけだった。

大山祇命は伊勢原市の大山の山頂にある大山阿夫利神社の祭神でもある。阿夫利は雨降り(あふり)で古くから雨乞い・五穀豊穣のご利益があるとされた(大山信仰)。大山は相模のふもとから見て大きな山容から言うのかと思ったが、大山祇命が由来かもしれない。

しかし、なんといっても大山祇命といえば伊予、大三島の大山祇神社である。
以前飛鳥IIでそばを通ったときのブログに書いたが、ここも瀬戸内に浮かぶ島なのに伊予の国一之宮、旧社格は国幣大社である。主祭神の大山祇命は大山積神、あるいは「三島大明神」とも称された。伊予の大三島は周りの島の名前からみて大きな御島からきたのかもしれない。では伊豆の三島は伊予の大三島からきているのではないかと考えるのは自然である。

伊豆の三島は伊豆諸島の美称、御島からきているとされ、祭神も伊豆諸島の開拓神であるとしている。しかし鎌倉時代から伊豆の三島は伊予の三島社を由来としているとされてきて、神社名、祭神名の一致からこちらのほうが正しいように思える。もちろん今の三島の地名は三島大社あるいは三島神から来たものだろう。
13:31
舞殿
本殿は工事中だった。

13:33
天然記念物・金木犀。
樹齢1200年というが、はて、千駄木で伐採した金木犀のほうが大きかった。
と思ったら、左の木は原木の新芽を苗木とした後継樹で、本体は正面奥の枯れた骨のような細い老木だった。根元が3つに分かれていて、しめ縄が張ってある。しかし木は樹齢ではなく、絶対的な太さ大きさがないと、崇拝されないと思った。
13:34
「白蛇革財布ございます」
13:35
白蛇は色素を作れない突然変異体だから群生することはありうる。三島大社あるいは三島にも岩国のようにアルビノの群生地があるか、養殖でもしているのかと思ったが、そうでもないようで、皮はどこかから持ってくるようだ。大山信仰で分かるように雨降り=水の神として蛇が使いとされ、白いという貴重性から金運アップとかの文句をつけて財布にされたのだろう。
13:47
三島駅に戻ってきた。
それにしても隣の沼津駅との違いが甚だしい。
向こうは2階建てビルの橋上駅だったのに対し、こちらは三島大社のような平屋である。駅前広場の景色も全然違う。
沼津は城下町をもとに明治22年、駅ができたが、三島の場合、駅ができたのは丹那トンネルが開通して新線ができた昭和9年(1934)である。それまで豆相鉄道が唯一の路線で、その沿線で町が発展した。

三島は沼津と市街地がつながっている。静岡、浜松は政令指定都市になり、3番目の沼津も静岡県東部の中心地として政令指定都市を目指したい。それには三島、御殿場、裾野、また伊豆方面の市町村などとの合併が不可欠で、とくに沼津と三島が中心となる。
沼津の人口18.6万に対し三島は人口10.5万だが、沼津は合併を繰り返して大きくなったのに対し、三島はそれほどでなく、市街地はまとまっている。
三島は新幹線の駅と伊豆箱根鉄道の起点があり交通の要衝であるのに対し、沼津は県の東部出張事務所がある。まるで大宮と浦和のようで、これは合併しないだろう。両市とも人口は減少傾向にあり、政令指定都市は難しい。

それにしても36年前の川を探しに行ったが、見つからなかった。
楽寿園の南の宮さんの川、あるいは源兵衛川かもしれない。
しかしまた歩く元気はなく、来た電車に乗った。
14:02
丹那トンネル走行中。
地上に出たら熱海である。

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(この日の足跡)
(大三島神社のこと)