2026年10月17日土曜日

沼津4 三枚橋城と狩野川、沼津藩の水野氏

8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。

熱海から丹那トンネルにはいって出てきた三島の次であり、静岡県では西の浜松、中央の静岡とならび、東部の中心都市である。
江戸時代、品川を一つ目とすれば東海道の12番目の宿場町だった。
しかし城下町でもあったことは、あまり知られていない。

すなわち沼津藩の藩庁所在地であった。
なぜ有名でないか?

10:22に駅前でレンタサイクルを借りた。
スマホのアプリで借りるのも、電動自転車に乗るのも初めてだった。
まず有名な千本松原に行こうと駅南口から真っすぐ南下する大通り(さんさん通り)を走った。
すぐに東西に走る旧国一通りと交差し、この、一番繁華な交差点の左角に公園があった。
スマホの地図を見れば中央公園・沼津城址とある。
計画では、駅の近くだから自転車を返してから帰りの電車待ちの間に遺構を見ようと思っていたが、はからずも出くわしてしまった。

素通りするのもナンなので入ってみた。
しかし何もない。
10:37
中央公園と私のレンタサイクル

子供たちがチームでダンスの練習をしていて母親たちが見ていた。
しかし城跡らしき遺物は何もない。
10:36
沼津城本丸址と彫られた石碑だけあった。

沼津城はもともとは天正7年(1579年)に武田勝頼が築いた三枚橋城が前身である。
この三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが北条氏の戸倉城で、両者の間で小競り合いが絶えなかったという。
(今回、当初は沼津御用邸から戸倉城を経て三島のサイクリングスポットに返す予定であったが、朝寝坊したし、自転車も意外と疲れるので断念した。)

沼津は東海道の、しかも箱根の西、すなわち要衝であるから徳川時代は譜代大名が置かれる場所である。関ケ原のあと大久保忠佐が2万石で入った。彼は大久保宗家である小田原藩初代藩主・大久保忠隣の叔父にあたる。嫡子が早世しため、異母弟であった大久保忠教(通称・彦左衛門、天下のご意見番)を養子として継がせようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」と固辞したという。忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。
その後、三枚橋城は火災にあって廃城となり、開墾地となってしまった。

その後1世紀以上たった1777年、水野忠友が三河大浜藩より2万石で転封してきて三枚橋城の跡地に縮小した形で新しい沼津城を築いた。
(ちなみに大久保氏、水野氏とも「忠」を通り字とする)

水野氏は老中、老中首座など出して幕末まで続くのだが、明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい沼津も封地となったため、押し出されて上総菊間に移った。
城主、家臣たちがこぞって菊間にうつり、沼津に関係者が残らなかったことや、東海道線の駅にあまりに近かったことなどから、徹底的に破壊されてしまったのだろう。お城のど真ん中を国道1号線、駅前から南下する大通りが十文字に分断した。
そして全国的にも珍しいほど見事に何もない城址となった。

東のほうは狩野川に向かって下り坂になっていて、何かあるかもしれないと思ったがこれから海のほうに行かねばならない。帰って来てから見ればよいと思い、この公園の探索はしなかった。

南に延びる大通り(さんさん通り)に戻り、自転車で南下するとすぐ、道脇に石垣があった。
ちょうど中央公園の裏にあたる。
10:40
三枚橋城(沼津城)石垣
発掘された石を積み上げたというから城の遺構ではなくモニュメントのようなもの。

さんさん通りを南下、御成橋西詰の交差点を右折した。
10:44
御成橋通りを西に向かう。
江戸時代、このあたりはお城の南西にあたり、沼津宿本陣があった。
幕末には本陣3、脇本陣1、旅籠55、総戸数1234を数えた。
古い街があったはずだが、1945年7月17日未明の沼津大空襲で市街の89%が破壊された。

このあと、ぐるっと風光明媚な千本松原、文学の道、海鮮レストランの多い沼津漁港をみて、沼津御用邸記念公園を見学し、正午を過ぎた。
このあと、まっすぐ国道414号(沼津―下田)をひたすら北に向かって自転車をこぎ、沼津市役所の角を左折して御成橋まで戻ってきた。

橋を渡ると右角にリバーサイドホテルがあり、そこの正面玄関の奥の駐車場にハレノヒサイクルのステーションがあった。

12:33 返却
2時間10分で1080円。
これは便利でお得だ。
無事返却できて一安心。
落ち着いたところでリバーサイドホテルの裏のリバーに行ってみた。
12:38
上土朝日稲荷神社と狩野川

漁港のそば、港大橋で渡ったときは富士が大きく見えた。
しかしここは東北から流れて来るから方向が違う。

狩野川は伊豆半島の雨を集め真ん中を北に向かって流れ、ここ沼津で大きく曲がって海に向かう。
太平洋側の川で北へ向かうのは珍しい。
これは伊豆半島が南からきて本州にぶつかったからか。南からきてヒマラヤにぶつかったインドのデカン高原の川も北へ向かう。プレートが動いてアンデスにぶつかった南米アルゼンチン、ブラジルの川も海と反対の北西に向かう。

伊豆半島は多雨地帯のため、昔からこの川の流域は洪水が多かった。戦後、放水路の建設が計画され、1951年、伊豆長岡あたりから江浦湾に向かう狩野川放水路が着工された。途中の山にトンネルを掘る大工事だった。しかし完成前の1958年、伊豆半島を台風が襲い、1000人を超える死者を出した(狩野川台風)。完成したのは1965年である。

川から離れサンサン通りに戻った。
12:39
5人が手をつないで崖を登っているようなモニュメント

駅に向かって歩いていくと右手に川のほうへ下っていく古い道があった。
12:41
旧東海道 川廓通り
三枚橋城
沼津市公式サイト>文化財>城跡編 から

旧東海道は本丸と狩野川の間を通った。
だから川廓の廓は遊郭の廓ではなく、城郭の廓(曲輪)である。
おそらくこの道は沼津城東側を回り込んでいるから石垣などがあるかもしれないと思ったが、自転車を返してしまったし、疲れていて行かなかった。

沼津城、東海道と現市街地
内堀に囲まれた本丸二の丸のど真ん中を国道一号と駅前大通が貫通し、破壊ぶりがよくわかる。

明治維新なって水野氏が上総に去ってから、残った二の丸御殿に沼津兵学校が作られた。
徳川宗家の駿府藩が明治元年(1868)に開設。創立当初は徳川家兵学校と称した。海があって海軍兵学校と名前が似ているが、フランスに倣った軍隊の養成を目標に掲げたから陸軍である。
そして領内の沼津城、二の丸御殿が使われた。受講資格は徳川家臣で14歳から18歳の者であることが原則であったが、他藩からの留学生もいたといわれる。初代学長は西周であり、教師は優秀な旧幕臣の中から選ばれた。
明治4年に兵部省所管となり、翌年陸軍兵学寮に統合され廃止、明治7年に陸軍士官学校となった。

沼津兵学校の記念碑がどこか近く(二の丸跡?)にあるらしいことは知っていたが、疲れて面倒になり探さなかった。

今回は南口しか回らなかったが、北口には沼津市明治資料館、沼津東高校(旧沼津中)などがあるが、自転車でも遠い。
それよりも自転車を返したらとたんに歩くのがおっくうになり、三島にも行きたいので沼津をあとにした。

・・・・・
ところで、三枚橋城跡地に沼津城を築き、江戸期を通じて駿東郡、富士郡から伊豆までを治めた水野家について書いておく。

水野氏というのは家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたる。
三河の刈谷城主であった。


家康が生まれたころ水野氏は松平氏と同等の勢力であり、於大の方の婚姻も同盟といった、そういう流れであった。しかし水野氏は桶狭間の戦い後に家康に仕えた。信長時代、いったん武田内通を疑われ断絶するが、のち復活し、江戸時代にはいくつかの家が譜代大名となった。

明治時代初期の廃藩置県まで残った大名の水野家には、下総結城藩、上総菊間藩、上総鶴牧藩、近江朝日山藩、それに紀州藩の付家老だった紀伊新宮藩を加えた5家があり、華族令施行後には前者4家の水野家が子爵、付家老の水野家が男爵に列した。

1.結城水野家は宗家筋にあたり、再興を許された忠重の次からは勝を通り文字した。備後福山のときは10万石あったが、いろいろあって幕末結城藩は1万8千石であった。子爵水野家19代当主水野勝邦氏(1904-1988)は文京区大塚に住んでいた。20代水野勝之氏は数年前の文京区主催、藩校サミットに出席されていた。


2.菊間の水野家というのが沼津藩の水野である。
三河刈谷、吉田、信濃松本の後、沼津にきてこの沼津城を築いた。3万石。この家はしばしば老中を出した。明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい、上総菊間に押し出された。

3.鶴牧の水野は当主は、大番頭や若年寄といった役職に就任する機会が多かった。文京区大塚の高台の住宅地の一角はかつて上総鶴牧藩の抱え地だった。


4.朝日山水野家は7万石、岡崎、唐津、浜松と領地を転々とした。天保の改革の老中・水野忠邦はこの家である。忠邦は二度の老中を失脚、5万石となり子の忠精に家督を譲ったが、この家は浜松から山形に左遷させられ、25年後の明治3年、山形から近江朝日山に移された。現当主は数年前の文京区開催藩校サミットにも山形藩として出席された。

5.紀州家付け家老の水野氏は以前、紀州新宮のブログに書いた。


このほかに旗本になった水野氏も多い。

ちなみに水野氏繁栄のもととなった於大の方は、松平氏と離縁して実家に帰った。すなわち1543年家康を生んだ翌年、兄・水野信正が今川氏を離れ織田についたため、今川に気を遣う松平広忠が離縁した。その後、1547年彼女は久松氏に再嫁した。水野、久松は家康の母の家ということで江戸時代譜代大名として優遇された。

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2026年10月14日水曜日

沼津3 御用邸記念公園、川村伯爵、沼津の漁業、大正天皇

8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。

10:10 駅に到着

10:22 駅前でレンタサイクル(沼津、三島を中心とするハレノヒサイクル)を借りる。10:47 千本松原に到着

10:50

11:02 千本松原を出発
文学の道を通って

11:13 沼津漁港に到着
11:22 沼津漁港を出発。
すぐ東の港大橋を渡るとき北に雄大な富士山が見えた。
11:25
下の川は狩野川
谷中千駄木のよみせ通りにこの名前の料理屋があったが、入る前に閉店した。

港大橋を渡ってすぐ右折、南に自転車を向ける。
だいぶ走って真っすぐな道が左にカーブすると橋があった。
11:34
みゆきばし
昭和10年竣工したが2021年に付け替えられた。
みゆきは天皇の行幸だろう。

橋は塚田川の河口にあり、水門がある。
公園になっているようで入ってみた。
11:35
牛臥山公園
左の森が、公園名になった牛臥山。
この公園に沼津市立芹沢光治良記念館があるらしいが、知らないので行かず。
水門の上の櫓は水門扉を上げ下げする巻き上げウィンチなどが入る機械室らしい。

11:35
牛臥海岸のむこうに伊豆の山が見える。
左の堤防の松林あたりが旧沼津御用邸である。
松林の中の細い道を行ったが、結局行きどまりで広い道に戻った。
混んでいる国道414号を南下して右折すると沼津御用邸記念公園に到着。

11:45
沼津御用邸 本邸正門
守衛所が二つあるが一つでよくないか?
中を見ると椅子はなかった。

ここは公園入り口ではなく、奥の西付属邸のほうにいく。
11:47
西付属邸正門
ここが公園入り口になっている。
11:48
西付属邸の建物内も入れる観覧券は600円
散策のみの入園券は300円
園内を歩くだけにした。
沼津御用邸は明治26年(1893)、病弱だった皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の静養先として造営された。東海道線開通の4年後である。

その後、明治36年赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築、学問所とした(現・東附属邸)。
さらに明治38年(1905)、西隣の川村純義伯爵の別荘を買上げ、御用邸とした(現・西附属邸)。
11:50
西付属邸御殿
11:50
川村は薩摩出身、明治初期の海軍草創期に指導的立場で活躍した。西南戦争で薩摩出身者が多く下野する中、大久保利通とともに政府側に残り、戦後、海軍卿に就任した。
明治天皇の信任が篤く、1901年に誕生した孫の裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育主任となり、ここ沼津の川村家別邸で3年4か月皇孫を養育した(秩父宮も育てた)。そのままそれが西御用邸になったわけだ。明治時代、周辺には大山巌、大木喬任、西郷従道など元勲の別荘も存在していた。
ちなみに川村の長女・常子は樺山資紀の長男樺山愛輔に嫁ぎ、その二女が白洲正子である。


1945年7月 の沼津大空襲で本邸が焼失したため、戦後はこの西付属邸が皇族の滞在に利用された。
しかし1969年、御用邸は廃止され沼津市に移管される。そして翌1970年(昭和45年)、残された東付属邸と西付属邸の建物を中心に、周囲の緑地とともに、沼津御用邸記念公園としてオープンした。

11:51
湯沸かし所
独立した建物というのは、大釜があって薪を焚いていたのだろうか。
小学校の時、冬の雑巾がけに用務員さんが大きな釜から大きなひしゃくで熱湯を一杯ずつ各クラスが持ってくるバケツに湯を入れてくれた。
11:52
橋を渡って西御用邸から本邸区域に入る。
下が涸川になっている。
旧本邸エリア

11:53
喫茶「主馬」
主馬(しゅめ)というのは、奈良時代に馬の管理、飼育のために置かれた機関「主馬寮」の略で、明治後の宮内省にも置かれた。現在は宮内庁車馬課主馬班となっている。
御用邸本邸の東のほうに馬場があり、ここは馬小屋だったようだ。
11:54
閉まっている門があった。
最初に見た本邸の正門。
11:55
沼津御用邸本邸は病弱だった大正天皇(当時皇太子)の静養のために作られたものだが、温暖、風光明媚であったこともあり、その後代々の皇族のための非常に利用頻度の高い保養所となった。
11:55
沼津市歴史民俗資料館
空襲で本邸が焼失した跡地にできた。

入場無料だから入ってみた。
11:59
沼津市の資料館だが、御用邸でもなく沼津城でもなく、漁業関連の資料が中心だった。
名前通り「民俗」資料館である。
12:00
沼津はアジの干物生産量日本一というが、これが市町村単位なのか、漁協単位なのか分からない。沼津は思ったより南の伊豆半島西岸まで広がっていて、我入道地区、内浦・静浦(江浦湾)地区、戸田地区と漁港が多い。
西の清水がマグロなど遠洋漁業の基地であるのに対し、沼津は駿河湾を最大限に利用した沿岸・近海漁業、養殖、深海魚が中心である。その分、地元の歴史的な資料が多い。
12:01
昭和天皇の写真もあった。

資料館を出ると藤棚があった。
12:05
散策路の上がずっと藤棚になっている。
12:07
古墳のような防空壕
防空壕は1941年、開戦前に作られた。

東付属邸地区は行かずに西地区に戻り、外に出た。
12:12
本邸正門前のレンタサイクル
スマホで開錠しようとしたら、現在地がわからないというメッセージが出た。
初めてのアプリで借りたレンタサイクルは順調であったが、最も離れた場所でまさかのトラブル。
焦りながら何度かやったら開いた。

御用邸記念公園を出ると、まっすぐな国道414号をひたすら市の中心部に向かってこぎ続けた。
道は平たんであったが、電動自転車でだいぶ体力の消耗を防げたと思う。

・・・・

大正天皇は病弱だった。
難産で生まれ誕生直後に髄膜炎を患ったせいか、あるいは遺伝子のせいか分からないが、心身ともに不調であった。当然学習院も休みがちで勉学は遅れた。
しかし九条節子と結婚して病状も回復してから、全国各地に行啓旅行に出かけた。また東大のレントゲン装置も見学に来た。
これらのことを日本薬学会の会報誌「ファルマシア」の連載コラム「薬学昔々」に書いたことがある。

32大正天皇・皇太子時代の東北行啓11908 (41)皇太子行啓に先立ち、自治体関係者は大騒ぎ。薬学者を呼んで、飲み水、食料の徹底検査。乳牛は1000頭から選抜。2008年11
33大正天皇・皇太子時代の東北行啓21908 (41)行啓の沿道、宿泊所などの消毒、清掃。住民、関係者の健康診断。地域の商品もとばっちりで衛生検査を受ける。2008年12
108エックス線と大正天皇1898 (31)X線発見の2年後、19歳の殿下は理科大学へ行啓。頭蓋骨に弾丸を入れた箱、鯛、小童2人の胸部の透視像を見学。

その第108話で次のように書いた。

大正天皇は頭がおかしかったという話がある。
議会で詔勅を読んだ後、くるくると巻いて望遠鏡のように議員席を見渡したという。しかしこれが真であったとしても愚昧であることの理由になるか? 帝国議会など恐るるに足らず、皇太子時代の全国行啓中、きさくに庶民に話しかけるような人柄であるなら、当然ありうる行動だ。
生まれつき病弱で、学業、運動とも発達は健全でなかった。しかし漢詩1367首、和歌456首をつくり、朝鮮語も学んだとなれば、知能は十分あっただろう。

原稿ではこのあと、東大で自分の手をX線にかざしてみたり、非常に興味深く見学されたことを書いた。
すなわち「大正天皇は頭がおかしかったという噂話」を否定する文章だったのに、編集部は冒頭の一文だけで「不敬にあたる」として書き直しを命じてきた。しかしどう読んでも大正天皇を世間の評判より良く書いたつもりだったから、書き直しを拒否して、記事そのものを撤回した。
その時の編集委員会(20人近くのメール会議)の各委員の発言の様子が親切にも送られてきた。私を擁護するのが3人くらい、しっかり反対するのが3人、残りは強硬に反対する人に従うような意味のない意見だった。それらを読んで、その後一切書くのをやめ、毎月9年間、107本書いていた連載をやめたことを思い出した。

このブログは自分としては楽しいが自由に書けるからファルマシアの時より問題ある記事はいっぱいあるだろう。

ちなみに大正15年(1926)12月、崩御した葉山御用邸も沼津の翌年(1894)、大正天皇の静養のために造営されたものである。



2026年10月11日日曜日

沼津2 レンタサイクルで千本松原、文学の道、沼津漁港へ

  8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。

2026-10-04 10:12
沼津駅南口
沼津市は人口  17万9千人 (2025)。
最盛期は1990-95年の21万6千人か。

江戸時代は沼津藩の藩庁所在地であり、東海道の宿場町でもあった。品川を1つ目とすれば、8番目の大磯、小田原、箱根、三島ときて12番目である。
1876年(明治9年)の静岡県成立以降は、静岡、浜松と並ぶ拠点都市として発展してきた。市政施行も両市に次いで1923年。しかし近年は人口減少が続き、富士市(24万人)に抜かれた。5位は磐田市(16万)。
拠点性は薄れつつあるが、それでも施行時特例市であり、静岡県東部総合庁舎が置かれ、スルガ銀行と静岡中央銀行の2行が本店を置いている。

沼津は伊豆と駿河との境目の駿河側に位置するが、伊豆側の三島市(10万3千人)と市街地が連続している。また、裾野市、駿東郡の清水町、長泉町とも市街地が連続し、都市圏を形成している。もちろん伊豆半島の付け根だからそちらとの関係も深い。
10:13
沼津駅

行きたいところは千本松原と旧沼津御用邸公園。
駅から離れているので歩きは無理だ。

レンタサイクルを借りることにした。
沼津は全国展開するハローサイクリングのステーションがある。
2026年7月時点で29都道府県260の自治体で14,660カ所以上にステーションがあり、どこで借りてどこで返してもよい。沼津は三島とともに展開する加盟店のハレノヒサイクルが何か所かあり、15分120円だから1時間で480円。
前日にアプリをダウンロードしユーザー登録しておいた。

駅のすぐそばのステーションに行く。
普通の駅前自転車置き場の一角にハローサイクリングがあった。
スマホで空き自転車の番号が出るが、置いてある自転車の番号と違う。
ステーションが違うのではないか、とグーグル地図で現在地を見たり、隣の商業施設「イーラde」の住所を調べたりした。今までは有人の貸し出し所で借りてきたが、無人は初めてなので勝手が分からない。
10:25
結局スマホに表示される番号の自転車も何台かあり、ステーションの住所も正しそうなので1台を借りる。スマホで操作すると鍵が開いた。しかし自転車には鍵がないから閉め方、開け方が分からない。
しかし、ともかく借りてしまったので乗ってみた。

電動自転車は初めて。走り始めてから電動でないことに気が付き、見ればハンドルに小さな液晶パネルがあった。よく文字が見えないが、スイッチを押すと電動になったか、ぐんと加速された。

サドルなど調整しないまま走り始めてしまったため、乗り心地も悪いし、液晶パネルもよく見えない。しかしとりあえず走るのでどんどんペダルをこいでしまう。
10:31
沼津仲見世商店街というアーケードがある。
時間は早いが、シャッターの降りている店が多い。

駅前から真っすぐ南下する大通り(さんさん通り)と東西に走る旧国一通りとの、一番繁華な交差点の角に公園があった。
スマホの地図を見れば中央公園、沼津城址である。
予定では、お城は駅の近くだから自転車を返してから帰りの電車待ちの間に見ようと思っていたが、はからずも出くわしてしまった。
しかし城跡らしき遺物は何もない。
10:37
中央公園と私のレンタサイクル

中央公園は東のほうが狩野川に向かって下り坂になっていて、何か城の遺構があるかもしれないと思ったが、これから海のほうに行かねばならない。帰って来てから見ればよいと思い、この公園の探索はしなかった。

駅前から南に延びる大通り(さんさん通り)に戻って南下していくと、御成橋通りにぶつかる。御成橋とは皇族が沼津駅から御用邸に行くとき渡った橋だろう。

この交差点を右折して西に向かう。
10:44
御成橋通り。
沼津は道が広い。
1945年7月17日未明の沼津大空襲と関係があるか?
沼津は海軍工廠と大小軍需工場があったから130機のB29に襲われ、市街の89%が破壊された。

電動自転車で南下する。
海が近くなって下り坂になった。
10:46
右、乗運寺
バス停の名前になっている。若山牧水の墓があるらしいが通過。
松林が増えてくる。
10:47
道の分かれ目に沼津公園とかいた石柱がある。
左:千本浜道、右:千本松原通り。
似たような名前でどっち行ったらいいか分からずスマホ地図を見る。
松原はここから西に広がっている。
千本松原通りは松原の北(陸)側を西に向かう。
海に向かう千本浜道にいった。
(ちなみに沼津公園は千本浜公園の旧称)
10:49
駿河の松原と言えば西の清水港の入り江の外側にある三保の松原が有名である。羽衣伝説をもち、日本新三景(1915年、大沼、三保松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保松原、唐津・虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、1922年(大正11年)、天橋立とともに日本初の名勝に指定された。
近年でも世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にもなっている。総延長 7 kmで、5万4000本。

いっぽう、こちら千本松原は沼津市の狩野川河口から富士市の田子の浦港まで、駿河湾に沿って約15km続き、千本どころか、30万本あるという。
10:50
沼津の浜の地図があった。
左へ行くと沼津港、沼津御用邸などがあるが、千本松原はここから西のほうらしい。

10:51
千本浜道は行き止まり。
堤防に若いカップルが座る背中が見えた。
午前中から仲良し。
上がって海を見ようと思ったが、遠慮して西のほうに自転車を走らせた。
10:51
車がいっぱい止まっている。
山梨、春日部ナンバーの車もある。

堤防に上がって海を見たくて自転車を止めたがカギの掛け方が分からない。
というか、手でレバーを動かせば掛けられそうだが、開け方が分からない。
開けられなかったら困るので掛けられない。
(今考えたら公式サイトを見ればいいのだが、頭が回らなかった)
目の付くところに自転車を置いて急いで堤防にあがった。

10:53
松原の向こうに富士が見えた。
静岡県の富士山は対称な円錐でないが、愛鷹山で下が隠れてちょうどよい。
目を海に転ずる。
10:53
浜辺で散歩する人々。
駿河湾は沼津の南で東に大きく食い込んでいるため(内浦湾、江浦湾)、南の正面に伊豆の山々が見える。
近所の人がショッピングモールとかテーマパークでなく、こういうところに来て日曜の朝を過ごせるというのは贅沢だと思った。
沼津はお城を失ったが、いい財産を持っている。
10:53
ところで千本松原は30万本あるのになぜ千本か。
1580年武田勝頼と北条氏政が沼津で対陣した。勝頼は1575年の長篠敗戦後、信長が西方の本願寺、毛利などに向かっていたこともあり、上杉、北条と同盟、敵対を繰り返しながら武田軍再建を目指していた。(武田滅亡は1982年)。
沼津の戦いでは武田水軍と北条水軍も参加した。
このとき武田側は北条水軍がよりどころにするであろう沼津の松原を伐採した。
その後、松がなくなり、田畑は海からの風害、塩害を受けるようになった。農民は不作に苦しみ、それを見かねて何とかという僧が松を一本一本お経を読みながら植え始めた。最初は枯れてしまったが、しかし5年の歳月をかけて1000本の松を植え、ようやく根付いたという。それが千本松原の名前の由来らしい。

自転車を押したまま松林に入ってみた。
10:55
松は海から陸のほうに傾いている。なぜか。
昼は地面が暖められるから海風となるが、夜は逆に陸風となる。
しかし、海風は時に台風などで強まるし、また塩害で海側の枝が枯れ、陸側の枝が増えバランスが傾くのだろう。

最初に植えられて450年くらいたつが、そのころの松はない。樹齢100~300年の老木がわずかにあり、多くは戦後植えられた30~80年のものらしい。松くい虫などで年々枯れるため、毎年植林され10年以内の若木も多く育っているという。
10:56
井上靖文学碑
「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた。
少年の日、私は毎日それを一つずつ食べて育った」

井上靖(1907-1991)は北海道旭川生まれだが父は軍医で転勤が多かった。そのため、曾祖父の妾・かの(戸籍上は祖母)とともに両親の出身地である伊豆湯ヶ島で育った。沼津中学から四高理科、九州帝大法科に進むも中退、京都帝大哲学科を卒業後毎日新聞大阪に入社した。部下に後の山崎豊子がいた。彼は天平の甍や風林火山などが有名だが、10代から死ぬまで詩を書き続けた詩人でもあった。

この森の中には多くの記念碑がありそうだが、散策路を自転車で走ることをはばかれ、かといって歩き回るには広大で、あきらめて外に出た。

再び自転車にまたがった。
千本浜道は東へ曲がったところから「文学の道」と名を変えている。
東に向かって走った。左側はまだ松林が残る。
11:03
恋人と語らいながら歩けば楽しいだろう。
沼津市民は良いものを持っている。

11:04
このあたり豪邸、別荘が並んでいる。
大磯を出た列車が国府津から御殿場を回って海の近くに出てきたところが沼津である。
しかも国府津と違って、商業地でありながら風光明媚な松林がある。
政財界、文化人が多く別邸を構えた。

11:06
沼津市立若山牧水記念館
牧水(1885-1928)は今の日向市出身、延岡中学をでて上京、早稲田に入った。
牧水の妻は信州塩尻出身の太田水穂(松本出身の窪田空穂と混同してしまう)の親族、歌人の太田喜志子である。
牧水は歌人であるが、子供向けの童謡や詩もつくり、子供向け雑誌「金の星」の中心執筆陣の一人だった。「金の星」は千駄木の我が家のすぐそばにあった。


牧水は1920年(大正9年)千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住した。静岡県が千本松原の伐採を計画したとき、反対運動の先頭に立ち計画を断念させた。しかし長年の大量飲酒による急性胃腸炎と肝硬変を併発して死去した。享年43。

写真だけ取って自転車をしばらく走らせると、バス停から歩いてきた老夫婦に牧水記念館はどこでしょうか、と聞かれた。

夫婦で詩や歌が趣味というのは上品な人生を送ってこられたのだろう。私と10年と違わないはずだが、たしかに団塊の世代のほうが詩や短歌になじんでいたような気がする。

よく考えたら私は若山牧水の名は知っていても、歌は知らない。
白鳥は悲しからずや空の青、海の青にも染まらず漂ふ
が国語の教科書にあった気がするが、鑑賞する力がない。

ただひたすら自転車をこぐ。
サドルの高さがあわず、角度も前に傾いて尻が前に滑りそうで、電動自転車と言っても結構疲れる。

松林が切れ、広い道に出ると沼津漁港だった。
11:13
沼津漁港
ここにハローサイクリング(ハレノヒ)のステーションがあった。
ここならカギをかけて開かなくなってもステーションまで持ち上げて歩く必要はないため、後ろ車輪のカギをかけてみた。
スマホの画面をみると「開錠」のボタンがあり、押すと開いた。
安心して少し走ってからまたカギをかけてみた。
また開いた。
11:19
沼津漁港は漁船が並ぶ港というより築地のようなグルメ観光地だった。
大型バスが何台も並ぶ広い駐車場があり、県内、全国から客が来るようだ。
11:19
沼津みなと新鮮館
海鮮専門のレストランや土産物屋が入るショッピングモールで観光案内所もある。
中は撮影禁止だった。
テレビでも放映されるスポットなのだろう。
11:21
築地の場外市場のように、沼津も港の市場の周辺に海鮮を食べさす食堂が林立する。

自転車のカギをスマホで開けてまた走り出す。
今になってレンタサイクルに慣れ、橋があって上り坂でもらくちんの電動自転車を使いこなす。
狩野川にかかる港大橋をわたる。
11:25
港大橋から上流方向
沼津駅方面の向こうに愛宕山と富士山が見えた。
これから沼津御用邸公園にいく。
(続く)

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