2026年3月12日木曜日

野田 駅名とキッコーマンの存在感

7:59
3月10日、火曜。
3月に入って何日か4月並みの暖かさのあと、真冬に戻る寒さ。
冷たい雨の中、家を7:10分頃出て、日暮里、柏で乗り換え、野田に来た。
柏からの東武野田線は高校生で満員。なぜかみんな女子高校生だった。やがて女性専用車だということに気が付き、次の駅で隣の男子高校生の車両に移動した。
8:23
目的の野田市駅に近づくと線路は高架になり、見晴らしがよくなる。
タンクの並ぶ工場が見えた。
8:23
電車が進むとタンクに赤いマーク。
亀の甲に萬の文字。
元亀天正、亀鶴はキだが、亀の甲はキッと促音になる。

社会科で「野田、銚子は醤油」とは習ったけれど、これだとテストに出るから覚えるというだけになる。野田のキッコーマン、銚子のヤマサ、と習ったほうが楽しい。(どっちがどっちだか分からなくなるかもしれないが)。(ヒゲタは銚子だがキッコーマン傘下)

野田市駅に到着。
高架になったのは最近のようで、ホームも駅舎も新しい。
8:25
改札を出たところで駅の外(東口)をのぞくといきなりキッコーマンの工場。

8:26
駅というのにほとんど人がおらず、観光案内所もないので壁の地図をスマホに撮った。
稲荷蔵とか給水所とか、キッコーマンを冠したものが多い。
8:27
反対側の西口もキッコーマンの工場
電車の中から見たタンクがある。
8:27
駅名の看板はおしゃれ。
小さく「野田市駅」。

こういう駅名の場合、たいてい近くの別路線に「野田駅」があるものだ。(川越、行田、足利などのように)。しかし野田に野田駅はない。大阪にある。(薬理学会などが開かれた大阪国際会議場の最寄り、福島駅の隣)

「野田駅」は、明治29(1896)年に房総鉄道(いまのJR外房線)に設置された。続いて明治31年に西成鉄道(いまのJR大阪環状線)にもつくられた。さらに、明治34年(1901)に入間馬車鉄道(1917年廃線)、明治38年(1905)には阪神電鉄でも「野田駅」が設置された。
野も田も地名によく使われる文字。全国各地に野田はあった。

野田市に鉄道がきたのはこれらに遅れて明治44年(1911)。

駅名原案は当然野田駅だった。
しかし、鉄道院へ出願すると、国有鉄道はじめ同名の駅がすでに複数もあったため名称変更を求められ、「野田町駅」として開業した。
大正3(1914)年には、JR外房線の野田駅(いま千葉市緑区)が誉田駅と改称されたが影響なく、ここは野田町駅のまま。1950年の市制施行に伴い駅名も野田市駅になり、現在に至る。

8:31
野田市駅遠景
ふつう駅舎がこの外観なら飲食店など入っているものだが、二階のように見えるところはホームの壁であり、要するに壁だけの看板駅舎といえる。

それにしても駅前は何もない。更地である。
キッコーマン以外何もない。人もいない。

昔はどうだったのだろう、駅前は何だったのだろうと国土地理院の航空写真を見てみた。
国土地理院1995
20年前、駅前が更地になる前も、駅の周りに住宅はなく、すべて工場のようである。
東武野田線から引き込み線のようなものが見える。
いまの駅前広場は二つの線路のあいだ、Yの字のなかにある。
国土地理院1984‐10‐15
40年前はもっと引き込み線ははっきりしている。
醤油の出荷に使われていたのだろう。

ちなみに明治44年の柏ー野田町が開通した鉄道というのは、千葉県営の軽便鉄道である。
設立には野田の醤油醸造組合の強い要望があり、県債をすべて組合が引き受けて建設された。野田町駅は終点だったから、この引き込み線は野田線が北に延びるまで本線だったのかもしれない。

野田線は大正時代に千葉県から民間に払い下げられ(北総鉄道、のち総武鉄道)、昭和に入って1928年春日部、大宮まで延伸する工事が始まり、社長が醤油醸造組合の重鎮、茂木七郎右衛門に交代した。1930年に船橋ー柏ー大宮が全通、そして各地で鉄道の統合が行われた戦時中の1944年に東武鉄道に吸収合併された。
国土地理院2024-04-10
いまでも上空から見れば引き込み線の跡はうっすら見える。

東京は氷雨でも野田は曇りだった。
しかし、こちらも雪交じりの雨が降ってきた。
8:31
繰り返すが駅周辺はキッコーマン以外は空き地である。
ひょっとして空地も全部キッコーマンの土地だろうか?
8:33
駅から見えた工場の正門に近づくと「もの知りしょうゆ館入口」の看板。

野田に来るにあたり、見学したかった。
無料で、昔の地図をはじめ歴史的なものの展示から、現在の製造現場をみてお土産までもらえるという。前日、電話で予約すると9:00開館、見学は1時間かかるという。しかし9:45までに某高校に行かなくてはならない。30分くらいで退出できないか?常設の展示だけでも見られないか?と聞いたが駄目だという。よく手を洗い、無菌服に着替えて工場に入るのだろうか? 一人別行動はできないようだ。
用事が終わってから見学しようとしたが、予約枠で空いているのは14:30といわれ、諦めた。
8:33
正門の外から和風の建物が見えた。見学コースになっている御用蔵であろう。
宮内省(現宮内庁)に納める醤油の専用の醸造所として1939年につくられた。江戸川沿いの敷地のほうにあったが2011年、ここに移築された。

工場見学に未練を残しながら西の江戸川を目指す。
8:35
左:キッコーマンフードテック(株)
右:総武物流(株)
総武物流は1924年、醤油の運送から始まったが、いまは車両のリース、倉庫業などを行う、キッコーマンのグループ企業である。

駅からこのあたりまで県道46号(野田牛久線)はあたかも企業内道路のようだ。

電柱広告にキッコーマンの名が入っている。
町全体がキッコーマンなのだから入れる必要もない。しかし広告費として電柱管理者(電力、NTT?)、看板業者に払い、野田の経済をまわす。寄付しているつもりなのだろう。

全国に企業城下町はあまたあれど、市の中心の駅の周りがすべて企業という、これほど圧倒的な存在感を示す町はみたことがない。

そのキッコーマンの歴史をみるべく、かつて醤油を積みだした江戸川べりまで歩いていく。
(続く)

2026年3月3日火曜日

自給自足を目指すジャガ芋の収穫と玉ねぎの多難

いつの間にか2月が過ぎてしまった。
秋植えジャガイモを収穫した。
本来は11~12月に収穫するらしいが、生育が遅く青々していたので年を越し、次に作るものもないのでここまで引っ張ってきた。
2026-02-15
1番畝、65 x 400 cm^2 の9割を使った。

株によってイモの大きさもバラバラ。理由は春まき種イモの残り(2024年収穫分、冷蔵庫保管、地中保管)、春イモ収穫分(2025年6月)など由来が様々で、なおかつ病気で枯れたものもあったから。

ジャガイモは年に2回とれる。半年に5キロくらいとれれば、それほど使わないこともあり、買わずに済む。
2026-02-15

自慢できるほどの「大」 3.62キロ 
商品にならないような「小」 2.01キロ
合計 5.62キロ
昨年から始めた秋植えは、初めてまともにとれた。

今回も含め成績をまとめると

2025秋 1番畝 5.62
2025春 6番畝 6.77kg (2番畝モザイク病)

2024秋 4番畝 0.89
2024春 4番畝 5.4

2023春 2番畝 2.8(モザイク病)

2022春 1番畝3分の1、芋でなく芽だけ埋めた。

白菜、大根、キャベツ、サニーレタス、カブなどは自家消費分の2倍、3倍、いや5倍10倍?もとれるから人にあげるが、サツマイモやジャガイモは保存がきくので人には上げない。

米以外は、自給自足したい。
たぶんできないこともない。
しかし妻はなんとかして私が作らないものを買ってくる。昨年はアスパラ、レンコン、キノコ類、カボチャを買った。私なら(それらはとくに食べなくてもいいので)買わずにそのぶん食べきれずに無駄にしている庭の野菜を消費する。しかし彼女はいろいろ買いたいのだろう。

だが、どうしても買ってこざるを得ないのが玉ねぎ。
取れることは取れるが、半年くらいで使い切り、1年通して自家供給というのは難しい。
2026‐02‐28
5番畝の玉ねぎ。
数本は育っているが、大部分は楊枝ほどの太さ。
原因は実生で発芽した苗があまり育たず、なおかつ秋にほとんど枯れてしまったこと。
この分だと、半年分もないかもしれない。
2025-12-11
枯れた原因は小さなウジ虫
茎の中に2,3匹いて、玉ねぎ苗の中を食い尽くしている。

枯れたところは残っていた生育不良の苗を植え継いだが、やはり発育が悪い。
農家のように生活が懸かっていたら消毒などいろいろ考えて手を打っただろうが、趣味だからダメだったらダメであきらめる毎年のこと。

今年は玉ねぎだけでなく白菜もダメだった。
2026‐02‐28
4番畝の白菜
発芽した幼い苗が虫に食われ、まき直しているうちに寒くなって発育が遅れた。
青々した元気な葉っぱは鍋料理にして食べているが、白い芯の部分の甘さがない。もちろん人には上げられない。まもなくトウが立ってこれらも捨てることになろう。
2026‐02‐28
白菜の隣のカリフラワーと芽キャベツ(4番畝)
カリフラワーは妻が好きではなく、ほかに食べねばならないカブ、キャベツなどが庭にいっぱいあるので、人にあげた。

こうして2月は通り過ぎた。
(通り過ぎたのは自分か時間か)

そして休む間もなく春植えジャガイモの時期がやってきた。
どこに植えようか。
私は収穫より種まき、植え付けのほうが好きだ。
そして植え付けよりどこに植えるか考えるのがもっと好きだ。
2026-02-28
1番畝は秋ジャガを掘ったばかり。
少しニンジンが残っている(写真手前)
2番畝は大根が1本だけ残っているが空いている。
2番は昨年の春ジャガの場所。
教科書や新聞をたいして信じない私は、連作障害についても無視しているので2番に植えることにした。

その前にやることがあった。
昨年末、1番2番の南にネクタリンを移植したため、畝間の通路を変更しなくてはならない。
元の通路の下には庭から出たがれきを埋めていたから、がれきも移動する。

3月に入って一番最初の仕事は1番、2番の間の通路を掘って、そこにがれきの袋を移すことだった。
2026-03-01
収穫より種まき、種まきよりどの畝に植えるか考えるのが好きだ、と書いたが、畝選びより好きなものがある。庭に新たな通路や畝を作る土木工事だ。こうなると趣味は野菜つくりではなく土いじりということか。

2026年2月27日金曜日

横須賀6 駅舎と横須賀線、湘南新宿ライン

 1月18日、京急の横須賀中央駅に降りて記念艦三笠から米軍基地ゲート、どぶ板横丁、そして海岸沿いのヴェルニー公園を歩き、軍艦などを右手に見てきた。

公園が尽きたところがJRの横須賀駅である。

12:26
JR横須賀駅

ずいぶん変わった駅だ。
駅舎が1940年建築(改築、3代目駅舎)という古さではない。
雰囲気である。
まず商店街あるいは住宅街がない。駅前の華やかさ、猥雑さがまったくない。
さらにふつうは駅舎が線路に平行、すなわち玄関が線路を背に垂直に向かって作られるが、ここは45度だ
どこを向いているかというと、海である。岸壁はすぐ近く。
明らかに帝国海軍の本拠地、軍港のために作られた。
JR横須賀駅
下り(写真左方面)は踏切を超えるとすぐトンネル。

横須賀駅は明治22年(1889)6月、官設鉄道が大船駅から開通、その終着駅として開業した。東海鎮守府が横浜から移って横須賀鎮守府となって5年後である。
三浦半島には陸軍の東京湾要塞の一つである観音崎砲台、敵の上陸想定地点の一つである長井があったから鉄道開設は海軍だけでなく陸軍からの要請もあった。

のちに東海道線となる横浜駅(初代)-国府津間が延伸開通したのが明治20年(1887)だからすぐである。
横須賀鉄道の建設はこの年(1887)の3月の閣議で可決され、翌4月から測量を開始、5月には45万円の予算を東海道線建設費から流用することとなり、7月には東海道線からの分岐点予定地に大船信号場を設置、翌1888年1月に着工、1年半で完成させた。

三浦半島は山が海のそばまで来て平地が少ない。そこに道路や住宅が集中するから用地取得は大変だっただろう。いまの北鎌倉駅付近では円覚寺境内を横切り白鷺池の半分を埋立てた。(以前円覚寺の参道を歩き進んだら踏切があってびっくりした)。また鎌倉では鶴岡八幡宮の段葛を寸断して線路が敷設されるなど、かなり強引につくられた。
(ちなみに横須賀鉄道もあわせ、新橋ー神戸間が「東海道線」という名前になったのは明治28年である)
駅舎はシンプルで、改札と玄関の間のがらんとした空間に屋根が乗っかっているだけ。
商業施設や駅ビルなどない。

普通の駅のように住民に供されるものなら、もう少し南まで延伸すべきであるが、予算も限られ鉄道用地の捻出も困難であったことから、現駅舎のある海軍用地が終着駅になった。

市民のための駅、京急の横須賀中央駅が湘南電気鉄道の駅として開業したのが1930年。
国鉄(省線)が横須賀から延伸して久里浜まで開通したのが1944年である。

駅舎の中から外の駅前広場を見れば海が見える。
12:26
広場の向こうは軍港横須賀の岸壁である。
戦前、連合艦隊司令長官のような高官の着任のときは、ここから岸壁まで赤いカーペットが敷かれたとか、どこかで読んだ気がするが、本当かどうか知らない。しかしこの近さなら、簡単に敷けるだろう。
岸壁から内火艇あるいは水雷艇にのり、兵員が舷門に並んで出迎える旗艦に乗り移ったのかもしれない。

さて、横須賀駅は構内に階段がない。
いまどき、これはかなり珍しい。
12:27
改札を通った景色
行きどまりの(右、海側から)1番線、2番線。
終着駅だった名残り。
大船から横須賀までは戦前から複線だが、下りの久里浜方面は単線である。
現在使われているのは3番線のみ。これを上りと下りが半々に使う。

かつては海軍基地への物資輸送のため、海側にも山側にも貨物線、貨物駅があったらしいが多くが撤去され、山側には、ウェルシティ横須賀として市の公共施設や超高層住宅「天空の街」(2000年、31階)などが建てられた。しかし当時の名残で山側、海側に数本の側線がいまも残っている。

戦後、帝国海軍は消滅したが三浦半島はベッドタウン化し、横須賀、逗子、鎌倉から東京への直通電車が出た。しかし熱海・小田原方面からも東京への電車があり(1950年から湘南電車と呼ばれた)、大船ー東京間は過密となった。

その混雑緩和のため1980年、貨物線を利用して旅客線を複々線化し、東海道線、横須賀線の列車が分離された。すなわち東京 - 品川間ではトンネルを掘削して地下に別線をつくり、品川 - 鶴見間は貨物線だった品鶴線を使って、ここを横須賀線が通った(このとき新川崎駅ができ、その後、1986年に西大井、2010年に武蔵小杉の駅ができた)。
また、横須賀線は東京駅の地下に1976年から来ていた総武線快速とつながり千葉方面まで直通運転するようになった。


1988年7月には東海道線もここを通って新宿まで行くようになった(湘南新宿ライナー)。一方、この年3月、東北線、高崎線も田端、貨物線経由で池袋に行くようになり、2001年、これがつながって湘南新宿ラインとなった。すなわち、新宿、品鶴線経由で宇都宮線が横須賀線に、高崎線が東海道線に乗り入れるようになった。

当時を含め32年も埼玉に住んでいたから馴染みがある。
個人的には何とも思わないが、それにしても関東北部に広がる路線なのに、なぜこの名前なのか、名付けた人は埼玉の人を何とも思わなかったのか。あるいは路線名は地方より都会の名前を付けたがるものだが、それほど湘南・新宿がハイカラなのか、不思議だったことを思い出す。
こうして横須賀線は東京駅地下を経て総武線快速へ、また湘南新宿ラインを経て宇都宮線へつながった。
いっぽう東海道線は上野東京ラインで高崎線・宇都宮線へ、また湘南新宿ラインで高崎に向かうようになった。

しかしみんな途中で降りるから、高崎線の電車が横須賀線に入ることはなく、宇都宮線が東海道線に行かないことはほとんどの人が知らないのではないか?
(ちなみに神奈川の私鉄は地下鉄を通して軒並み北関東へ直通運転するようになった。
京急と(都営浅草)京成、小田急と(千代田線)常磐線は昔からだが、近年、田園都市が(半蔵門線)東武線に、相鉄・東急が(副都心線)西武・東上線に入っている。)
12:28
上りも下りも同じホームから出るというのは、首都圏近郊区間の駅では珍しい。
単線区間でも駅だけはすれ違いができるよう線路が2本あるものだ。

次の上り電車は4両編成、東京方面に行くかと思ったら3つ先の逗子どまりだった。
すなわち、2001年に始まった横須賀駅、久里浜駅始発の湘南新宿ラインは、2004年から逗子、大船始発に一本化され、横須賀から東京方面の直通は総武線に入る横須賀線だけになった。

大正時代は全国21位、関東地方では東京、横浜に次いで第3位の人口を誇った横須賀市の駅も、いまや田舎のような駅で、2016年には業務委託駅となった。

がらがらの電車がきた。
9:17に京急の横須賀中央駅に着いたから3時間余りの見物であった。
それでも多くの記憶が呼び覚まされ、もう行くことはないと思うので、6本もブログを書いてしまった。

先日、独立、家を出て久しい息子が自分の部屋の片づけに来て、いろんなものを捨てていた。その中に横須賀、呉、舞鶴の地図や資料館のパンフレットがあった。
軍港巡りは今は2200円だが、彼が乗ったときは1200円だったようだ。三笠見学料は500円が600円に上がっただけなのに。
彼は工学部機械科出身で職業柄、兵器、装備に興味があり、歴史、人物に関心のある私とはほとんど会話しなかったから、横須賀に行っていたことを知らなかった。

2026年2月23日月曜日

横須賀5 地方総監部と「はるな」観艦式の記憶

1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通り、海沿いのヴェルニー公園を歩いてきた。

横須賀は書くことがいっぱいある。

休憩しながら図書を見ていたヴェルニー記念館は、JR横須賀駅の近く、公園の敷地が終わる北西の隅にある。記念館の建物の裏に回ると、そこは公園の端のフェンスで区切られているが、「かが」が最も近くで見えるスポットである。
この日の朝、入港した自衛隊初の空母を見ようとマニアがカメラを持って集まったらしい。
11:48
フェンスと海の向こう、巨大で優美な「かが」と対照的なしょぼい建物がある。
海上自衛隊横須賀地方総監部である。
ここの長は横須賀地方総監という。旧海軍の横須賀鎮守府司令長官と似たようなものか。
階級も海将だから昔の中将で、旧軍と同じである。(ちなみに、海将は最高位であり、幕僚長に就任した海将のみ大将扱い、そのほかの海将は中将になる)
同じ海将の地方総監でも俸給の面で横須賀、佐世保、呉、舞鶴の順の序列がある。(大湊は昨年(2025)から横須賀の傘下となり地方総監から地区総監になった)

地方総監部の建物を見ていて観艦式を思い出した。

横須賀には過去3回来ている。
1.1993年3月27日 記念艦・三笠と「なだしお」を見た。
2.1998年11月19日 米軍巨大空母  USS KittyHawk 乗艦
そして
3.2000年10月27日 海上自衛隊の観艦式である。

あの地方総監部の横を通って、逸見岸壁、吉倉桟橋から護衛艦に乗艦した。

25年ぶりに近くまで行ってみよう。
ヴェルニー公園の表に戻り、線路わきの自衛隊専用道路のような通りをすすむ。
上は県道の高架が走っている。
11:49
横須賀地方総監部
Headquarters Yokosuka District
その下に横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀システム通信隊など6つの部署が書いてある。Headquartersのsはこの7つを示すのかと思ったが、どうも違うようで、基地業務隊、衛生隊は地方総監部の隷下にあるらしい。システム通信隊はまた別のようだ。

11:51
入口から地方総監部庁舎と逸見岸壁のかががみえた。
25年前の観艦式の時はこの門から入ったのは明らかだが、どこから乗ったのだろう。
記憶がうすい。

自衛隊の観艦式は昭和32年(1957)から毎年実施されていたが、オイルショックで一時中断、昭和56年(1981)に再開後は節目の年に行われるようになった。さらに平成8年(1996)から空海陸の順で持ち回りで実施されるようになり、97年から2015年まで3年に一度実施された。

2018年は東京五輪のために朝霞が使えなくなるとのことで2019年予定の陸自主体の中央観閲式と入れ替えたものの東日本台風19号災害のため中止、2022年に7年ぶりに開催した。

しかし2025年内外の情勢が緊迫する中、部隊運用に余裕がなくなり、防衛省は今後、観閲式、観艦式は基本的に行わないと発表、観閲式は第30回の2022年が最後となった。

私が見物した観艦式は平成12年度(2000)、最初から数えると22回目だった。

当時の乗艦券などがとってあった。
12.10.27(金)はるな乗艦券

午前9時00分までに吉倉桟橋の受付においで下さい。
退艦は午後4時45分の予定です。

と書いてある。
吉倉桟橋は「かが」のいる逸見岸壁のむこうである。

私が乗艦した護衛艦はるなはDDH-141。
1973年就役、日本初のヘリ搭載護衛艦であった。
それまで護衛艦の艦種記号はDDであったが、ここで初めてヘリコプターのHがついた。

(DDは米軍に倣って自衛隊発足時からつけた。駆逐艦DestroyerのDである。米軍は1920年以来空母のCVなどを除き頭文字を重ねて二文字にする。用途に応じて3文字以降が付加された。海自では1965年就役のあまつかぜ型がGuided missile搭載のDDGとなった。)

自衛隊では発足当初から対潜哨戒、掃討を目的に洋上航空兵力の復活を志向した。当初は軽空母の建造を目指したが、時期尚早とされ、70年代のはるなになって初めて実現した。ヘリを3機搭載できたが発着艦は一機ずつだった。
それでも期待は大きく、それまで護衛艦はむらさめ型、はつゆき型など気象から艦名を取り、およそ戦、武、軍などとかけ離れた優しい名前であったが、初めて山岳名にした。

はるなは、戦艦「榛名」の名を継いでいる。霧島などともに巡洋戦艦として作られたから航続力、速力に優れ、改装後は戦艦並みの攻撃力をもった。終戦直前、燃料のないまま呉軍港で空襲を受け大破着底するまで、大和、武蔵などと違って太平洋戦争ではほとんどの主要作戦に参加し、大型艦としては開戦からもっとも活躍した船である。期待の一番艦の名前にふさわしい。ひらがなだから重厚さはないけど。

帝国海軍は同型艦を二隻以上合わせて運用し、戦隊とした。
太平洋戦争開戦時は第一航空艦隊の第2航空戦隊が飛竜、蒼龍、また第5航空戦隊が翔鶴、瑞鶴、といったぐあいである。同型艦は同時期に完成するから名前もセットでつけられ、対となった。主力決戦用に第二艦隊第三戦隊に属した4隻の戦艦(もと巡洋戦艦だから山岳名)は、金剛・比叡は宗教的歴史的な山で、榛名・霧島は、堂々とした火山である。

護衛艦はるなDDH-141から2年遅れて建造された同型艦DDH-142はひえいだった。
続くDDHはひえいから5年遅れて新型艦として建造された。当然こんごう、きりしまだと思ったが、DDH-143はしらねになった。当時防衛庁長官だった金丸信が選挙区の南アルプス白峰(しらね)三山からとったという(ウィキペディア)。しかし金丸でもそんな子供じみたことをするだろうか? DDH-144はくらまである。

結局置き去りにされた、こんごう・きりしまは1993年から順に就役した4隻のイージス艦(DDG-173~176 )に使われた。残りの2隻はみょうこう、ちょうかいである。

ヘリコプタ搭載護衛艦はひゅうが型に引き継がれ、ここから全通甲板になり、護衛艦というより空母のような外見に大きく変わった。DDHの艦種記号は同じだが、番号は181、182となって、はるな、しらね型との連続性はない。(次のいずも、かがはひゅうが型と連続してDDH-183、DDH-184である。)

平成12年(2000)の観艦式パンフ

観艦式は10月29日で、その2日前の27日に全くそっくりの予行があった。
私は27のほうに乗艦できた。
それに先立ち、27と29以外は、5か所の桟橋で艦艇の一般公開があったり、岸壁での音楽隊演奏などがあったようだ。

メモも写真も取らなかったのでほとんど忘れてしまったが、幸い観艦式特集号の新聞が残っていたので、それを見ながら書く。
海上自衛新聞(毎週金曜発行)
平成12年10月29日(臨時増刊)観艦式特集号

ヘリ空母ひゅうが型が登場する前、空母様の全通甲板の輸送艦おおすみが自衛隊最大の艦艇であり、それが目玉として右ページに紹介されている。

参加艦艇63隻(観閲部隊17隻、受閲部隊33隻)20万トン、航空機61機。
海上自衛隊全体で144隻38万トンだから、力の入れ方がわかる。

さて、岸壁の音楽隊が勇ましく軍艦マーチを奏でる中、私たちが乗ったはるなは出港した。
天気は曇り。10月末は肌寒い。

陸上の観閲式は観閲官(国家元首など)が見ている前を、歩兵部隊や最新兵器などが行進、通過していく。しかし観艦式では船の間を空けねばならないため、式典面積が広くなるだけでなく、間延びしてしまう。そのため、ふつう整列、碇泊した軍艦群の前を観閲艦が通過していく。
帝国海軍最後、最大の観艦式、昭和15年(1940、紀元2600年)の観艦式は、横浜沖で98隻、60万トン、航空機527機が参加した壮大なものだったが、指揮官山本五十六連合艦隊司令長官座上の旗艦長門はじめ軍艦は5列に整列し、昭和天皇が乗った御召艦・比叡は、その間を練り進んだ。

ところが海上自衛隊の観艦式は珍しい移動式である。波を蹴立てて一列で通過していく受閲艦部隊と観閲艦部隊とが海上で交差する。これは東京湾では無理で、相模湾の沖で行われた。

我々ははるなの後部ヘリコプター甲板に適当に座った。
寒かったが毛布が貸してもらえたかどうか、レジャーシートなど敷いたかどうか記憶にない。海風にあたりながらおにぎりかパンを食べたはずである。
近くに上品なご婦人二人がいらして聞くとご主人が東芝だという。軍需産業関連の人なども伝手で乗船券がもらえるのだろう。
私は水交会で知り合った上林将人さんと一緒だった。彼は写真が趣味で自衛隊の行事のときカメラマンとして活躍していた関係か、どこかから乗船券を入手された。

さて、東京湾を出ると船が揺れた。
われわれ観閲部隊17隻は横須賀(吉倉、船越、新港)、横浜新港、木更津から出港した。相模湾の東で合流、1列となる。いっぽう受閲部隊33隻は全国から集まって相模湾の西側で整列する。これだけの船が等間隔で一列で、東西から近づき、至近距離で交差するのである。高い操艦技術は日露戦争以来の日本海軍の伝統であろう。

すれ違う時は受閲部隊各艦で乗員が甲板に整列し、観閲部隊に対し敬礼する登舷礼を行い、それは壮観だった。
上空には43機が東から飛来して、西でUターンして再び前を通って東へ去った。

海上では双方の部隊がすれ違って東西に離れた後、そこでUターンし、今度は訓練展示である。護衛艦が対潜ロケット弾を発射したり、P-3Cが対潜爆弾を投下したり、4隻の潜水艦がイルカのように浮上、潜水を3回繰り返しながらすれ違う。4隻の護衛艦がヘリコプターを発艦させたりした。

ヘリコプターというと、観閲官である総理大臣・森喜朗は、我々が朝乗艦したのに対し、忙しいのか、11:20に相模湾で観閲艦しらねDDH-143にヘリコプターで着艦し、訓練展示が終わる14:00にしらねから飛び立った。
我々はその後、朝出発した横須賀吉倉桟橋に戻った。
退艦後、解散となった。
ぞろぞろ出口まで歩いていく途中、背中に「総理大臣」だったか「首相」だったか、ゼッケンのようにつけた自衛官がいた。そう、この日は予行だった。
全く同じタイムスケジュールでリハーサルをするのだが、本番でも首相がこの時間に吉倉にいるのか、「役目」を終えて、本来の業務に戻る途中なのか、その歩き方、雰囲気から分かるはずだが、記憶が薄くなっている。

横須賀地方総監部の入り口で、25年前を思いだそうとしたが、これくらいしか出てこない。

そうだ、この観艦式の乗船券をもってきてくれた上林将人さんのことも書いておく。
彼は水交会の会員として知り合った。
「水交」の一番最後のページにその月の新入会員の名簿がある。見れば蓮田在住の人がいた。海軍関係者の多い水交会で埼玉、大宮より北に住んでいる人は珍しい(私は当時指扇)。親しみを感じ手紙を書いた(当時はネット時代の前でメールもなかった)。

奇遇にも彼はT製薬の有機合成の研究者だった。
しかし非常にユニークな人で、ご自分が合成した新規Ca拮抗薬が開発中止になった後、諦めずにそれを私的に研究していて、京都薬科大の研究生になり(たぶん会社に内緒)、薬理学会なども自費で参加しているような人だった。熊本でばったり会ったことがあるが、参加費、懇親会、宿泊・飛行機代などは馬鹿にならない。さらに、同業(ライバル?)会社の研究所でCa拮抗薬を扱っていた私に共同研究を持ち掛けたようなエネルギッシュな人だった。
しかし彼のおかげ1998年の米軍空母キティーホークも見学できたし、この観艦式も見物できた。私が歴史・組織に関心あるのに対し、彼は兵器、装備に興味を持たれ、そういう写真ばかり写されていた。お元気だろうか?

観艦式の時、私は不安定な44歳だった。
その後25年、いろんなことがあったが横須賀と関係ない。
もちろん25年、横須賀を訪ねることもなかった。


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2026年2月20日金曜日

横須賀4 陸奥、鎮守府長官、潜水艦の名前と艦番号

1月18日の朝、33年ぶりに記念艦三笠を見て、27年ぶりに米軍基地の前を通った。そして右手に日米の軍艦を見ながらヴェルニー公園を歩いてきた。

11:01
いずも型ほか護衛艦が数隻

ヴェルニー公園の終わるころ、JR横須賀駅近くに軍艦の砲身と砲弾が展示されていた。
11:02
戦艦陸奥主砲
砲身の厚さに驚いた。
1トンもの砲弾を38キロメートル(横須賀から品川、木更津)まで飛ばす大爆発に耐えねばならないといえば当然か。

陸奥は同型艦・長門とともに第一次大戦後の海軍近代化の柱である八八艦隊の最初の艦として1921年竣工した。1943年柱島で謎の爆沈をしたが、戦後引き上げられた。ここに飾られた理由は横須賀海軍工廠で建造され、横須賀を母港としたからだろう。

時代を画したといわれるイギリス海軍の戦艦ドレッドノートは各国海軍の目標となりドレットノート級、略してド級戦艦が次々つくられた。陸奥はそれを超える超ド級戦艦だった。竣工直前の1921年ワシントン軍縮会議があり、一度は廃棄されそうになったが、長門とともに最新鋭艦であることから交渉し、残された。その代わりアメリカはコロラド級3隻の建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認められた。この時残った日米英の超ド級戦艦7隻は1935年第2次ロンドン条約から日本が脱退、無条約時代となり20年後の1940年代に大和級、アイオワ級が登場するまで世界七大戦艦(ビッグ7)といわれた。

ヴェルニー公園はJR横須賀駅の前まで続き、その終点にヴェルニー記念館がある。
入場無料、入ってみた。
横須賀は今も昔も軍港だが、この記念館は近代製鉄の始まりとしての横須賀を展示している。

特にみるものがなかったが図書コーナーの本が良かった。
11:10
終戦時に横須賀にあった旧軍施設
右はアメリカ第7艦隊司令長官一覧
横須賀海軍工廠・歴代工廠長一覧(左)
初期は少将、昭和13年から中将のポストとなった。
機関中将、主計中将の人がいることもあり、有名人は少ない。
私は正木義太と山梨勝之進しか知らない。

正木は司馬遼太郎が坂の上の雲を書くとき、日本海海戦の様子を知るのに、「父上が日露戦争に従軍した海軍士官で、本人も海軍士官であった人ならば当時のナマの話が伝わりやすいだろう」と正木生虎氏を探し多くを取材した。その父上である。

山梨は、帝国海軍の77名の大将のうち艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。ロンドン軍縮会議をまとめたため艦隊派から恨まれ右翼から命を狙われたが長命し、戦後の水交会(何度もブログに書いている)の初代会長となった。

いっぽう右ページは東海鎮守府、横須賀鎮守府・歴代長官一覧。
鎮守府長官は陸軍の師団長、海軍の艦隊司令と同じく中将のポストだったが、大将の人もいる。こちらは左ページと違って連合艦隊司令長官、海軍大臣や総理大臣になったような誰もが知るそうそうたる名前が並ぶ。

その中では無名に近いが、最後の古村啓蔵(代理)・少将に目が留まった。
終戦後の昭和20年11月に最後の横鎮司令長官に就任した。彼は諏訪中学出身、武蔵艦長をつとめたので信州人として記憶に残っている。武蔵を降りて第一航空戦隊司令を経て1945年第二水雷戦隊司令官となったときは日本海軍にほとんど船が残っていなかった。4月、大和を中心とした沖縄特攻のときは旗艦の軽巡矢作にいて、九州坊ノ岬沖でアメリカ軍の空襲により乗艦が沈没、海を漂いながら大和の沈没を見たという。艦とともに沈んだ大和艦長は、同じく信州諏訪中学出身、海軍兵学校同期の有賀幸作だった。同郷だったから有賀の父親が古村の兵学校入学時の保証人だった。有賀は死後二階級特進で大佐から中将になった。
アメリカ海軍横須賀基地
たぶん正門(King St)の上空から。
右上:米海軍司令部庁舎 左下:信濃が建造された6号ドック

11:14
右上:米海軍司令部庁舎(旧横須賀鎮守府庁舎)
関東大震災後に再建された堅固なもので、米軍も戦後使うことを想定して空爆しなかった。
旧海軍病院(左上)、防空壕(右下)も現在使われているようだ。
12:22
大正12年12月の全国の市の人口
円グラフというのが面白い。
呉、佐世保、横須賀などが上位にあり、東京通勤圏の市は70位までに横浜以外入ってこない。地方がまだ元気だった時代であり、いまの東京集中と違って文化の多様性があった。

実は図書コーナーに来たのはボランチア学芸員の人に「横須賀の旧海軍施設がどこにあったか、地図はありますか」と聞いたからである。

彼は窓側に静かに座っていた。
たいていこういう人の説明は、当たり前のことばかりなので敬遠しているのだが、彼の話はヴェルニーと関係なく、逆に小さなことばかりなので面白かった。何も思わずに見てきたところを再び写真撮ることになった(以下)。
11:19
左のいずも型護衛艦は「かが」だという。
いずもは横須賀に所属しているが、かがは呉を母港にしており、ここに来るのは珍しいという。今朝入港したばかりで朝はカメラを持ったマニアがいっぱいいたらしい。「どこでこういう情報を知るんでしょうね?」と彼が言った。

写真右の小さく見える駆逐艦?3隻はアメリカ軍のもので半島(楠が浦町)の桟橋のようだ。
正面の陸地は長浦港と本港を分ける吾妻島である。
そのむこう、小さく見える紅白のガントリークレーンは、日産自動車追浜工場のある埋め立て地の突端にある住友重機のクレーンで、その向こうは八景島になるという。
右下が米軍横須賀基地
ヴェルニー記念館は中央の一番下。湾の奥で、左から右から半島、桟橋が錯綜し海の水平線は見えない。
中央の上が住友重機。船そのものは作っていないらしい。

歩いてきた右方向に目を転ずると
11:23
米軍基地の建物の一つだと思っていた白くて四角いビルは、船だと教えてくださった。
ホテルシップといって、米軍兵の宿舎になっているらしい。

11:26
二隻の日本の潜水艦は高さが違う。
むこうが先月、2025年12月に除籍された「うずしお」で、艦内のものを取り外したから軽くなり、喫水が浅くなっている。こういうことは彼との話で初めて知った。

それにしても「なだしお」とか「うずしお」とか潜水艦の名前はみな似ていて紛らわしい。1954年発足の海上自衛隊は翌年初の国産潜水艦を建造した。
くろしおである。
その後、 → 初代おやしお → はやしお → なつしお → おおしお → あさしお → うずしお → ゆうしお → はるしお → 2代目おやしお → そうりゅう → たいげい、と来た。注目すべきは、これは艦名ではなく、クラス名ということである。その下に何隻もの○○しおがある。
現在はそうりゅう型12隻が主力で、2代目おやしお型は11隻、その前のはるしお型は7隻、 ゆうしお型は10隻。すなわち〇〇しおは何十隻(49隻?名前としては33個?)もある。 

初期のくろしお、おやしお、くらいは良いが、なるしお、もちしお、やえしお、くらいになると名前を探すのに苦労しただろうな、と思う。ひらがな2文字という制約に加え、戦後は左翼メディアを意識したのか、少しでも平和、優しさを出そうと艦名はすべて漢字でなくひらがなにした。普段目にしない単語がひらがなになっては意味が分からないからますます艦名が覚えにくくなった。

ようやく2009年から就役したそうりゅう型から○○しおはなくなったが、○○りゅうも12隻あって覚えられない。おうりゅう、とうりゅうなどもひらがなでなく漢字なら良かったのに。
2022年から就役のたいげい型(6隻予定)もじんげい、ちょうげい、そうげい、とひらがなだと意味が分からない。

アメリカ海軍が戦後、海の主役が戦艦から空母や潜水艦に代わったとき、戦艦に使っていた州の名を戦略弾道ミサイル潜水艦SLBMにつけるようになった。オハイオクラスである。
かつて日本海軍は旧国名(戦艦)、山(重巡)、川(軽巡)を主力艦に使った。日本も潜水艦にこういう名前を使ってもいいのではないか?

日本人は山が好きで相撲取りの四股名や酒の名、列車名などにしているが、自衛隊も主力である護衛艦に山の名を使った。ところが念願の一枚甲板のヘリ空母の護衛艦が登場したとき、旧軍の航空戦艦だった日向、伊勢を使って以来、かが、いずもと続いてしまった。しかし護衛艦は山を続け、旧国名は潜水艦に使ってほしかった。旧国名ならひらがなでもわかる。四方の海中で全国土を守るという意味がある。

ところで日本海軍はのちに空母も山の名になった。天城、葛城は完成したが内地で空爆され大破横転したり、燃料がなかったりして出撃できなかった。笠置、阿蘇、生駒は完成まで60~80%の段階で終戦となった。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       
ちなみに艦番号について。
先月除籍され、この日浮き上がっていたうずしおは、おやしお型潜水艦の3番艦、SS-592 である。二代目であり、初代はうずしお型潜水艦の1番艦、SS-566 であった。潜水艦艦番号は初の国産潜水艦・おやしおの511から始まっている(途中抜けがある)。
しかし自衛隊は2009年のそうりゅう型1番艦から艦番号をリセットし、SS-501から番号を付けている。
いっぽうアメリカ海軍は戦前からずっと番号は継続している。たとえば今横須賀にいる原子力空母ジョージワシントンの「CVN-73」は、1920年給炭艦を空母に改造したラングレー(CV-1)、珊瑚海、ミッドウェーで日本軍に沈められたレキシントン(CV-2)、ヨークタウン(CV-5)などから続く通し番号である。

番号がずっと続いているというのは歴史がずっと続いていることである。
戦前を否定したい日本国民、マスコミとしては、許しがたいことであろう。伊勢、日向の名前の復活でもそういうことを言う人がいた。
幸いなことに自衛隊はゼロからの出発だったし、戦前の海軍はアメリカのように番号をつけていたわけではないから、番号による戦前からの連続性は全くない。
ただ、自衛艦旗(旭日旗)だけは継承した。現在のデザインは旭日がやや左寄り(旗竿寄り)だけれども。


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