2026年9月17日木曜日

縞なしスイカ。ヒトの長寿はおめでたいか?利己的な遺伝子の観点から

2026-09-01
2番畝、手前はエダマメとバジル。ネットは種まきしたばかりの大根。
4番畝、里芋は初めてのセレベス種だが巨大化し私の背丈ほどある。

9月は雨ばかり。
8月27日から続く雨は9月もやまない。各地で豪雨被害が出た。東京でも晴れたのは9月14日だけ。

この間に、妻の姉の嫁ぎ先の義父がなくなった。
9月3日、つくばの葬儀場へ通夜にいく。
100才だから悲しい葬儀ではなかった。みんなで俳句の好きだった故人を褒めるような会だった。私自身は法事で2,3度会った(見た)だけだからなんの感慨もなく、他人の死であり義理の出席である。

長いお経の間に思ったことは、どんな健康な人でも必ず死ぬということ。
死ぬようにできている。死は進化の過程で生まれた仕組みである。生物の種が存続するというのは、その遺伝子が存続するということ。遺伝子を大事にくるんでいるのが個体であり、個体は遺伝子の乗り物に過ぎない。生物が生存、繁殖しやすいように進化してきた理由はすべて遺伝子の永続のためである。100歳の彼はとっくに遺伝子を次代に送ったにもかかわらず、個体が頑健すぎて、主(あるじ)である遺伝子が想定していた以上に長生きした。

遺伝子としては新しい住まいである次の個体が十分な食料を得て生存していくために、抜け殻のような古い個体には消えてもらわねばならない。伊勢神宮が20年に一度の式年遷宮により、古い社殿を壊すことによってご神体が1300年以上も常に新しい住まいに安置されてきたように、遺伝子も外殻を新しくすることで自らの不変を保つ。
2026-09-01
例年のごとく5番6番7番はサツマイモが繁茂。

この雨の時期に、妻の母も危なくなってきた。
こちらは1927年7月生まれの99歳。ずっと自宅で暮らし、頭はしっかりしていて塗り絵をしたり心情を書き綴っていたりしていた。1週間ほど前に入院した。熱が出て心臓も弱ってきたのか足がむくみ息も苦しくなって酸素吸入になった。妻を含めた3人の娘(といっても婆さんだが)は、見舞いに行っていたが、3人の婿さんにも会いたいと言ったそうだ。しかし私はまだ大丈夫だと思い、妻がそれ以上言わなかったので行かなかった。今までのようにじきに退院して100才を迎えられればいいなと思っていた。ところがみるみる弱り、話すこともできなくなり、最後のあいさつのように目をつぶったまま指でバッテンをしたという。
9月10日、それを聞いて次の日曜に行こうと決めた。
ところが夜になって危ないとなった。

9月11日、金曜の午後、雨の中、取手医師会病院に見舞いに行った。
もう目をつむったままで意識がない。呼びかけても反応はなかった。しばらくいたが意識が戻ることはなく、私は息子一家(彼女の孫にあたる)と一緒に帰った。
妻は夕方千駄木に帰宅したが、虫の知らせか、夜になってふたたび茨城の病院に向かった。
夜中、熟睡中に妻からの電話で起こされた。すわわち日付が変わった12日の0:10、亡くなったという。
12日、土曜。午後妻が帰宅。
聞けば娘3人だけで母を看取ったという。他の人は誰もおらず、故人が最も愛してきた3人だけに送られるというのは最高の最後ではないか。
2026-09-01
3番畝東の空きスペースにニンジンをまいた。
しかし里芋が巨大化し日陰になってしまう。
ミカン(右)も大きくなってきた。

帰宅した妻は睡眠不足なのか、持病のめまいなのかソファでぐったりしている。彼女は私の何千、何万、何億倍も故人との思い出がある。なんせ生まれた瞬間からずっと一緒だったわけだから他人の私に悲しみは理解できるはずはない。

なにも言葉はかけず、ただ夕飯は私が作ることにした。
千駄木産の野菜(枝豆、トマト、ナス、甘長唐辛子)のみそ炒めに、株主優待の冷凍から揚げを解凍した。うまくできだが、彼女はあまり食べなかった。
2026-09-13
保存中に発芽した春ジャガ

13日、日曜、妻と二人、何もせず家でぼーっとしていた。私は他人だし人はみな死ぬものだと思っているから悲しくもない。しかし、6日後に迫ったダンス競技会の練習に行くわけにいかない。小雨があがったすきに庭に出て秋じゃがを植えた。

夕飯は味噌炒めの各野菜の比率が変わっただけで昨日と同じ。庭のスイカをとったが彼女は食べず、梨をむいたら食べた。
2026-09-01
3番畝の西は枯れなかったスイカ

14日、月曜、久しぶりの晴れ。午後納棺。
15日、火曜、大雨の午前中に告別式。
家族葬だから皆顔見知り。
死の数日前に書いて死後発見された「お礼の手紙」が額に入ってあった。たどたどしくも長文であり、苦労して書いたのだろう。読んでいるうちに涙が出た。
「感謝」という言葉が何度も出てきた。3人の婿さんに会いたいと言ったのは、娘たちと一緒に良い家庭を作ってくれてありがとう、と伝えたかったのかもしれない。お礼を言うのはこちらである。
写真も飾ってあった。多くは孫やひ孫と一緒であったが、中に、若き日の義母と小学生の3人の娘(文字通り)が一緒の一枚があった。その写真の娘たちがその後の各人の娘とそっくりなことに驚いた。遺伝子というのは不思議である。同じようでいて少しずつ違い、それが顔の違いになるのだが、顔を見れば確かに遺伝子が中で生きていることが分かる。

焼香が終わり、最後に皆で棺に花を入れた。
後から少し大きな花が追加されてきた。前にいた妻を含む3人の娘が入れ始めたとき皆は遠慮して、3人だけが最後のお別れをする形になって、涙を誘っていた。

あらためて祭壇を見る。故人の遺影と供花に添えられた木札の名前。
彼女はこの世から退出したが、3人の子供と8人の孫、7人のひ孫に遺伝子を残した。遺伝子の保護者、中継者として十分な働きをし、悲しむよりたたえるべきものだが、個体である我々は、やはり遺伝子よりその外側の乗り物のほうを大事に思ってしまう。
2026-09-08
今年は雨が多いからか、
ここまで3つ収穫、2つ食べたが今一つ。

遺伝子こそが生命の本質で、それが永続するように、乗り物、外套を進化させていくという考え方はリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」で有名になった。もともとこういう考え方は複数の研究者が述べていたのだが、「利己的な遺伝子」というタイトルや個体を「生存機械」「乗り物 Vihicle]という分かりやすい比喩を使ったことで爆発的に広まった。

原著 The selfish gene が出たのは私が大学2年の1976年。日本語版の初版は1980年。「生物=生存機械論」というタイトルだった。
駒場の最後、2年生の終わり、薬学に進学が決まった70人で自己紹介文集を作った。私は代々木オリンピックプールのスケート場に行ったくだらない話を書いたのだが、渋谷雅明氏が、利己的な遺伝子のことを書いていた。彼は原著を読んだのだろうか?

名著でありすぎたため、その内容はあちこちで取り上げられたから、かえって読んだような気分になり実際に読んだことのない人が多いのではないか。
私もその一人である。今回近くの図書館にあるかと思って検索したら初版のほか、増補第2版、30周年記念版、40周年記念版があった。「利己的な遺伝子」という原著の直訳タイトルは第2版からである。

借りてきたものの、その分厚さに、読むのを躊躇している。多分読まずに返すだろう。
2026-09-08
もともと生物は自己犠牲によって種族全体を生かすものが多くいる。群れを守るために敵を引きつけるように鳴く鳥などである。これは、「種や群れの存続(全体の利益)のために進化してきた」というグループ単位の淘汰説で解釈されてきた。

しかし、この説には理論的な欠陥があった。もし「種のため」に尽くす個体群の中に、一頭でも「自分だけ生き残ろうとする利己的な個体」が現れると、その利己的な個体のほうが多くの子孫を残すため、あっという間に群れ全体が利己的な個体ばかりになってしまうからだ。

ところが利己的な遺伝子説はこの矛盾がない。同じ群れの仲間を助ける行動は、一見すると自己犠牲的だが、遺伝子の視点で見れば「自分と同じ遺伝子のコピーを増やすための合理的行動」であるからだ。すなわち自然淘汰の単位は「個体」や「群れ」ではなく、「遺伝子」そのものである。

大量に卵を産む魚類なども、遺伝子を残すために犠牲となる個体を余分に作る。これらの仕組みは遺伝子で決まっており、各個体が考えて大量に産むわけではない。
2026-09-08
スイカは6個なった。
同じ種(ピノガール)をまいたと思うのだが、縞のある実とない実の2種類ができた。
同じ株にできているのか調べようとしたが、つるがこんがらかっていて分からない。

植物ももちろん遺伝子が自分のコピーを広くばらまくように進化した。鳥などが食べてくれるように実を大きく、甘くしてきた。ところが農耕時代になると遺伝子のゆっくりした変異が進化の主体ではなくなり、ヒトが代わりに作物として実を大きく甘くした。
2026-09-08
板幅は18センチ
縞がない小玉スイカ。

個体が自己犠牲になるのは人類でもみられる。
国民を守ろうとした特攻隊は、社会が強いたもので、個体が内蔵する遺伝子のせいではないだろう。
しかし、子供や孫のために自己犠牲になるのは遺伝子の仕業かもしれない。DNAという物質である遺伝子に意志などあるわけではないのだが、人類全体よりもとくに自分と同じ遺伝子を残すように進化して(仕向けて)いるのかもしれない。他人の私より妻や孫のほうをかわいがる理由は、それで説明がつく。

2026年8月26日水曜日

佐久の五稜郭・龍岡城と大給氏

8月15日、信州の実家に日帰り帰省する途中、佐久に寄った。

五稜郭・龍岡城を見るのが目的だった。

佐久平で降りて小海線に乗り換え、のどかなワンマンカーに乗って最寄り駅につく。

8:28
龍岡城駅
佐久平に戻る列車は9:20発。
それまで52分あるが、駅から城までは1.6キロ、23分。往復46分。計算上は6分しか滞在できない。その列車を逃すと次は11:47までない。
急いで歩かねばならない。
6分のために、私はしばしばこのような遠出をする。
8:36
何の変哲もない田舎道。
中世の山城でもないのに城下町がないというのはどういうことか?

それ以前に、五稜郭というのは連郭式、輪郭式などと同じような城の形を示す普通名詞のはずだが、函館のそれを表すような固有名詞になっているのはどういうことか?
これはひとえに佐久の五稜郭が無名であることに尽きる。
しかしなぜ無名なのか?
これは書くと長いので後回し。
8:39
龍岡城址という石碑あり
しかし道路のわきに少し石垣があるだけで相変わらず畑と住宅。
城址に着いた感じがしない。
通り過ぎてそのまま歩き、右折すると五稜郭についた。
航空写真でも中央に五角形が見える。

函館の五稜郭は1983年10月3日、札幌での学会帰りに立ち寄ったことがある。
佐久の五稜郭も昔から知っていたが、いつか行こうと思っているうちに危ない年齢になってしまった。
8:44
五稜郭の北の稜に到着。
駅から23分というところを健脚は16分。
9:00には帰路につきたいから見学時間は15分。
8:45
説明板のわきの木のテーブルが使用禁止。
苔が生えて朽ちている。
8:47
黒門から入城
堀の幅は平均7.2メートルというが、それほどあるように思えない。

龍岡城五稜郭は幕末、三河以来の譜代大名・松平(大給)乗謨(のりかた、1839-1910)が築いた。
もともと、松平乗謨は父祖の地、三河奥殿に藩庁(陣屋)を置いていた。しかし領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)はここ信濃国佐久郡にあり、佐久25か村を支配していた。藩庁の信州への移転はかねてからの念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て、文久3年(1863)佐久での陣屋の新築を許可された。(奥殿藩は城持ち大名でなく、陣屋格の大名だった)

乗謨は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでおり、新たな陣屋として星形要塞・すなわち五稜郭を設計した。元治元年(1864年)3月にここ田野口村で建設を開始。幕末の動乱の中、慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが完成した。

しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任、公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる。工事は簡略化され、堀も南西、西の2つの稜角を囲む200メートルは未完のまま明治維新となった。全国に知られることなく、「幻の城」といってもよい。
これが龍岡城(=田野口藩陣屋)が函館五稜郭と比べ無名であり、また城下町がない理由である。
8:48
城の西側、黒門跡。
外壁、土塁は高くない。
入るとすぐだだっ広いグラウンド、しかし草ぼうぼう。
8:49
国の史跡なのに小学校がある。
夏休みだから子供はいない。
校舎には「ありがとう田口小学校」の幕が。
8:49
グラウンドに向かうような古い建物は「台所」という。
当初五稜郭の真ん中にあったのを移築したらしい。
明治4年の廃藩置県で兵部省は全国の城郭の破却を命じたが、この台所だけは小学校に転用されたため残された。
8:50
野球のバックネットの裏の林に何かある。

8:51
神社だった。
ここも草が生えている。
8:51
神社のわきにウサギ小屋かな? 五角形なのが良い。
止まり木があるから鳥小屋だろうか?
しかし網が破れ、中は何もいない。

そのまま通り過ぎたのだが、後で調べたら、田口小学校は2023年3月31日をもって佐久市立臼田小学校へ統合され閉校したという。壊れた鳥小屋も草だらけのグラウンドも、ありがとうの幕もこれで説明がついた。

参道を逆に歩き正面から出た。
8:52
神社は田口招魂社だった。
田野口藩の田野口村は明治9年、上中込村と合併したとき、野がとれて田口村となった。これが小学校、神社の名前になっている。
招魂社というのは、ふつう明治維新後に戦没した人の霊を祭るところだが、ここの案内板はなぜか殿さま、大給松平氏の一つ三河奥殿藩のことがメインに書いてある。大給氏は家康の4代前に安祥松平家(のちの松平宗家、徳川家)から分かれ、さらに4家に分かれた。

とにかく時間がないので素通りするように郭内から出た。
8:53
北に向いた大手門から出る。

8:53
佐久の五稜郭は函館五稜郭と比べ、一辺が半分ほど。すなわち面積が4分の1しかない。
同時期の建設だが、あちらは開港したばかりの函館奉行所を入れるため幕府が作ったもので、こちらは弱小大名が作った陣屋だから仕方がない。

もともと陣屋(藩主の住まいと政庁)の外側に堀をつくるにあたり、藩主の好みから西洋で考案された五稜形にしてみたというのが真相ではないか?

五稜郭は見晴らしの良い各稜に砲台を置けば広角に撃て、稜の間にくる攻め手には挟む辺から十字砲火を浴びせられる。18世紀半ばにフランスのルイ・ド・コルモンテーニュが考案したとされるが、1650年ころ作られた赤穂城も各辺がギザギザになっているから、それ以前からこういう築城思想はあったのだろう。

赤穂城は十字砲火が可能な銃砲戦を意識した設計だが、まだ二の丸、三の丸をもち安土桃山時代からの城郭の形である。しかし函館にしろ佐久にしろ、五稜郭は全く違い、装飾的な櫓などもなく完全に実戦だけを意識している。

ところが平原にある函館はまだしも、佐久のは谷であり、すぐ南北に山がある。すでに幕末は雄藩を中心にこぞって大砲を買い入れていた。射程1キロ程度なら100発百中で陣屋に砲弾を落とせる。敵を阻む外壁も低い。戦国、関ヶ原の火縄銃の時代なら威力のある要塞だったが、龍岡城はできたときから堅固な城ではなかった。
聡明な乗謨ならその程度のことは承知であったと思われるが、あえて五稜郭にしたのは、やはり住居と政庁という陣屋(役所)を盗賊などから守るために水堀を作るにあたり、どうせなら洋学で知ったこの形にしたかったというのが真相か。
8:55
昭和9年に龍岡城跡は国の史跡に指定された。その時文部省が設置したと思われる一枚板の木彫りの説明板が屋根付きで立っていた(写真左)。
右は明治維新後に大給恒(おぎゅうゆずる)と改名した乗謨の胸像。

乗謨は大政奉還後、将軍慶喜に「諸大名を含む議会を開き、幕府を含む諸藩の軍備を解体し、全国守備の兵とし、将軍家は総指揮官になり給うべきなり」と言上したが、幕閣内は薩長などの西南雄藩への強硬論が大勢を占め、その意見が聞き入られなかった。

彼は戊辰戦争が始まると老中を辞任し幕府との決別を表明するため松平から大給姓に変え、信州に引っ込んだ。すぐ新政府に恭順することを示したが、乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられた。やがて謹慎を解かれ西軍として北越戦争に出兵した。その時の戦死者が田口招魂社の最初の4柱になっている。

やがて大給乗謨は恒(ゆずる)と改名し明治政府に仕えた。
大給恒は佐賀藩士(1823- 1902)の佐野常民とともに、西南戦争における両軍の傷病者を救護しようとした「博愛社」の副総裁となっている。明治20年に博愛社は日本赤十字社と改称した。
(ちなみに佐野常民と同時代人で、よく間違えるが、開成の前身・共立学校を創立したのは加賀藩士の佐野鼎(1829-1877)である。)

大給恒は、明治17年(1884年)の華族令で子爵(これは旧大名家当主だから普通)に列せられ、明治40年に伯爵に昇った。

大手門を出た目の前に新しい資料館があった。
無料のようだ。
駅に急ぐ前にパンフレットだけでも貰おうと入った。
8:57
入ってすぐのロビー中央に龍岡城の模型
しかし小学校の模型のようにも見える。

後ろに年表らしきものがあり、大給松平氏か竜岡城のことと思ったら、明治8年に城内に設立された田口小学校の歴史だった。
8:58
小学校は1875年から2023年まで148年間ずっと五稜郭の中にあった。

国の史跡・龍岡城は2017年4月、続日本100名城(129番)に選定された。このときすでに田口小学校が2022年度末で閉校することが決まっていて、閉校後に小学校の全施設を解体撤去し、竣工時の龍岡城を復元する整備計画があったらしいが、いまだ進んでないように見える。
8:59
職員の年配の男性に声をかけられた。
どこから来られたかね、と聞かれ東京だと答えると、それはそれは、と歓迎された。
時間がないのでじっくり見られないんです、というと
「それは大変だ、あー、先生、先生、お客さん」と奥に声をかけられた。
するとモップをもった老人が展示の間から出てこられた。なんとなく田口小学校で定年退職した校長先生のような風貌がした。
掃除中の彼は「よくいらっしゃいました」と言いながら、急いで動画視聴コーナーの椅子を片付けようとしていたが、「時間がないのでパネルだけ見させてもらいます」と言って説明を断った。
8:59
なかなか充実した展示内容である。

書き忘れたが、大給氏というのは千駄木の家の近くに大給坂があるから以前から馴染みがある。
9:00
いま大給坂に名前を残す大給家は、三河の西尾藩(本家、6万石)当主の子孫で、明治後千駄木に住んだ。5万石以上は伯爵だが子爵だった。大給松平家は家康の4代前に分かれたと書いたが、その系統は、西尾藩のほかに豊後の府内藩(2万石)、美濃の岩村藩(3万石)、三河の奥殿藩(のち佐久の田野口藩1万6千石)と譜代大名を4家も出した。
9:03
ばたばたと騒がせて恐縮しながら資料館を辞去した。

帰り際、奥の事務室のほうから女性が出てこられた。あまり客が来ないと思われるのに職員が3人もおられた。
資料館でもらったパンフレット
五稜郭の中に政庁があり、五稜の堀の外に家老屋敷、家中住宅、尚友館(藩校?)、米蔵などがあり、その外側が四角く柵で囲まれていた。江戸時代初めなら当然外堀であるところが、犬猫がどこでも自由にくぐれる柵矢来であるのが佐久らしかった。

その北側は「新海明神下屋敷道」が通っており、向かいに蕃松院が書いてある。
その道を西に行くと田野口村入口の土塁、乗馬制止杭があり、この跡こそ来たとき最初に見た「龍岡城址」という石碑の場所だろう。前に載せたグーグル地図でも龍岡城枡形跡と書いてある。
9:05
パンフレットの柵矢来の北にある「新海明神下屋敷道」。
駅からまっすぐ上がってきた道である。江戸時代からの道だとは知らなかった。
目の前の蕃松院は、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃の墓があるというが、見る暇はない。
列車の時刻まであと15分、それに遅れたら2時間半待たねばならない。一瞬立ち止まり遠望することすら許されない。


駅への道は緩い下り坂、健脚だからゆうゆう列車に間に合った。
少し先には千曲川の上流があったはずだがもちろん見に行く時間はなかった。
列車に乗ってから、ふと、あの資料館は9時開館だったのではなかろうか、と考えた。


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2026年8月22日土曜日

佐久市の合併前の町と小海線の路線名

8月15日、信州の実家に帰省した。今年、叔母、叔父がなくなったが葬儀に行かなかったので新盆に線香をあげようと思った。
日帰りだが、途中、佐久に寄ってみようと思い、朝一番の新幹線に乗った。

最寄りJR駅は西日暮里だが、ふだん新幹線は大宮から乗っている。
退職前は大宮まで定期券をもっていたし、定期がなくなってからもそう。長野まで乗車券、特急券とも西日暮里を起点とすると大幅に上がる。片道8130円。一方大宮からなら6580円。1550円も違う。大宮までの運賃を普通の乗り越しで払っても1150円違うのだ(2025年)。そのうえ、上野から乗るときはいったん逆方向に行くのと、上野ー大宮間は速度も大して上げていないのか、時間はほとんど変わらない。
それに今でもダンスのレッスンを受けに大宮まで通っているので、大宮まで行くのに慣れている。

ところが今回指定席をとらなかったので、座れる確率が高い上野から乗ることにした。
6:32
東京駅から来たはくたか551号はガラガラ
15日の早朝ということもあるだろうが、これなら大宮から乗ってもよかった。

日暮里駅のあたりで地上に出た。
いつも通る田端、王子、赤羽などは少し高いところから見るだけで景色は新鮮だった。
写真を撮ろうとしたが、どれも過ぎてしまい、大宮についてしまった。
6:52
大宮駅
1981年から2013年まで大宮周辺の3か所に住んだからここは通過、乗換、買い物駅としてずいぶん世話になった。千駄木に引っ越してからも勤務先は大宮の先だった。
1982年に東北新幹線の始発駅となり、埼京線が開業した時は東日本最大の駅といわれ、大宮はどんどん発展するかと思ったが、そうでもなかった。

はくたかは大宮を出ると熊谷、本庄早稲田、安中榛名をとばし、高崎、軽井沢に止まって佐久平についた。ここで小海線に乗り換える。

佐久は国道18号、信越本線という軽井沢、小諸、上田を経て長野に向かう主軸から外れている。これらは北佐久郡を通っているが南の佐久市は通らない。だから今まで行ったことがなかった。上信越自動車道、北陸新幹線が佐久市を通るようになっても素通りするだけだった。
7:50
佐久平の駅舎から浅間の裾野が見える。
小海線の発車は8:02だが、外は古い街がなく駅から出たいと思わなかった。
あとで調べたらショッピングモールとか新しい商業施設ができているらしい。

佐久は東信の中心である。「信濃の国」にも一番後半で「松本伊那佐久善光寺、四つの平は肥沃の地~」とうたわれた。しかし、長野県の他の市すなわち松本上田飯田などが中心となる町を核に大きくなったのに対し、佐久はそうではなかった。市の名前も他が核となった町の名であるのに対し、佐久はもっと広い、ぼんやりした郡、地方の名である。
千葉や仙台などではなく、相模原市のようである。

もともと南北の佐久郡すなわち千曲川沿いには岩村田、野沢、中込、臼田といった古くからの町があり、前3者が1961年に合併して佐久市が誕生した。日本の多くの市ができた昭和の大合併は1953年から始まり信州中野、須坂、飯山、小諸など多くは1954年にできたから、佐久市というのは比較的遅い。
おそらく3つの町がまとまらなかったのだろう。
岩村田は岩村田藩(内藤15,000石)の陣屋町、中山道の宿場町で明治22年の町村制施行と同時に町となった。野沢は明治30年には町制をしき、1901年には上田中学分校として旧制中学が設立された(のちの野沢北高)。1911年には町立野沢実科高等女学校(のちの野沢南高)もできた。
中込は町となったのは1919年だが、明治8年(1875年)に完成した旧中込学校(県宝、国の重要文化財)がある。国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物である。
この佐久市に、2005年平成の大合併で、北西の望月町、浅科村と南の臼田町が吸収され、人口は飯田を抜いて長野県4位となった。望月町は中山道の宿場があったし、臼田町は1893年には町制をしき、農村医療で有名な佐久総合病院(本院)がある。
要するに佐久市は核が一つではない。
だから佐久市を見ようと思ってもどこに行ったらいいか分からない。

小海線乗り場のほうに通路を歩いていくと、改札もなくいきなりホームがあった。
無人駅と考えれば当然なのだが、新幹線の駅舎の新しさから意外性がある。
7:59
小海線の佐久平駅は1997年新幹線が交差することで地元負担によって新設された。
普通、在来線と新幹線が交差するときは新幹線が上を通るのだが、ここは在来線が上である。
幅広2本の線路を高く作るより単線を高架にするほうが簡単なのかと思ったが、ちゃんと理由があったらしい。新幹線はこの駅の東も西も地下トンネルに入るため勾配関係から地上にしたほうが良かったのだという。
8:01
新幹線の駅だが小海線のほうはプラットホームが一つだけ。
二本あれば電車が来る方向がわかるが(左側通行)、これだとどっちから来るかわからない。
殺風景な景色に浅間がないから右から来るかな、と思ったら当たった。

列車に乗り込んでから切符がないことに気が付いた。
新幹線改札を出てから落としたらしい。降りて探そうか、いや、そんな時間はないだろう、と思っているうちにドアが閉まった。
小海線はワンマンカーと無人駅だから降りるときにごたごたすると迷惑になると思い、次の駅で停車中に運転手に申し出た。
「新幹線を降りるとき2枚のうち1枚とらなかったんですかね?」と言われた。確かに1枚とったのだが、いいえ取りましたといっても意味がないので、そうかもしれませんといった。
「途中で運転手が変わるので申し送りしておきましょう」といってくれた。

先日も地下鉄24時間券(700円)を買ったらすぐなくしたばかり。年だろうか?
8:15
列車ドアの上の駅名一覧は絵地図になっている。
小海線は小諸と小淵沢を結び、八ヶ岳高原線という別名もあるらしい。

佐久平を出ると岩村田、北中込、滑津、中込、太田部、龍岡城、臼田と続き、その先は主な駅として八千穂、小海、信濃川上、野辺山、清里などを経て小淵沢までいく。

中山道岩村田宿と甲州街道韮崎宿を結ぶ佐久往還(信州では甲州往還)は野沢(中込の西)から南はずっと千曲川の左岸(西)を通っていたのに対し、小海線は小海まで人家の少ない右岸(東)を通る。

野辺山は日本の駅で最高地点(1345m)で、その清里側に1375メートルの線路最高地点がある。全国の駅の標高の高さ1位から9位までが小海線という高原鉄道である。また小海と臼田の中間にある海瀬駅は海岸から一番遠い駅らしい。
8:18
中込駅で運転手が交代した。

小海線は一度だけ乗ったことがある。
大学2年の1976年暮れ、山梨県回りで実家に帰る途中、信濃川上に降りて由井克之君の家に泊めてもらった。一緒に訪ねた高倉仁史君と由井の兄上と4人で夜遅くまでポーカーをやった。
彼は剣道班の同級生で信大医学部に進学、根っからの学者肌で、ペンシルバニア大で研究室を持ち、のち長崎大医学部の教授になった。
高校時代の彼は実家(信濃川上)から東京へ行くときは、北回りの小諸経由でも南回りの小淵沢経由でも変わらない(運賃同額)から、円を描くような切符を買った。そうすれば東京で乗り降り自由となる。

そんなことを思い出しているうちに降りるべき龍岡城駅に着いた。
さて、私は切符がない。
田舎だが駅間が狭く、佐久平から6駅なのに220円である。
前の運転手さんが「あ、そうですか」といったのは払わなくてもいいとも取れたが、払う気でいたら代わった運転手さんも「あ、いいです」と言ってくれた。
8:27
お言葉に甘えて、お礼を言った。
そして南に去っていく電車に(運転手さんからは見えないだろうが)最敬礼した。

龍岡城駅は近年はやりの観光地風の駅名だが、1915年大奈良停車場として開業、戦時中に廃止され、1952年新設の形で営業再開された時から龍岡城駅である。

ちなみに小海線の小海は平安時代に八ヶ岳の噴火で千曲川がせき止められ湖ができたことからの地名(小海町役場HP)というが、沿線でも小さな目立たぬ町である。
そんな町がなんで路線名になったか?

もとは佐久鉄道だった。
1915年 、小諸駅 ー 臼田駅間(21.08 km)開業
1919年、臼田ー小海 延伸開業
つまり終点だった。

いっぽう、1932年鉄道省が小海から南の佐久海ノ口まで鉄道を敷き、その部分を小海線とした。当然の路線名である。
さらに、1934年鉄道省は南のほう、小淵沢ー清里間を開業(小海南線)、また佐久鉄道線を買収し(小海北線)、1935年、清里ー佐久海ノ口が延伸開業、小諸から全通して、小海線と改称した。
国は当初から中央本線と信越本線をつなぐということが国家的利益になると思ったのだろう。佐久鉄道を買収する前は、小淵沢から小海までの路線だから、小海線という名前は不自然ではない
8:28
龍岡城駅
佐久市に合併前は南佐久郡臼田町
ホームの観光地図は龍岡城ではなく「星のまち・うすだ」
夜空がきれいというのはどこでもあるが、JAXAの臼田宇宙空間観測所が設置されている。
1986年に来るハレー彗星の観測のため、1970年代から日本も惑星間宇宙探査機を打ち上げる計画があった。
当時、人工衛星を打ち上げる技術はあったが、探査機を地上から操作する通信設備がなかった。その建設を目指し国内10地点を調査し、標高が高く湿気が少ない、また電波雑音も少ないということで臼田の国有林が選ばれ、1980年現地調査、1984年開所した。
一般見学施設もあるらしいが、駅に看板を作るほど、利用者はここで降りないだろう。

また近くの野辺山(南佐久郡南牧村)にあるのは電波天文学の聖地といわれる国立天文台の野辺山宇宙電波観測所である。

時間がないのでさっさと出発。
緩い上り坂を東に歩いていく。
8:36
左の畑は獣害除けのネット
右は大豆のように見えたが、別の畑でインゲンが生っていた。(背丈が短いインゲンは初めて見た)
このあたり、有名な佐久の高原野菜、すなわち広大なレタス、キャベツ畑は見えない。
足早に通り過ぎる。
8:39
目的地 龍岡城址に到着
しかし道路のわきに石垣があるだけで着いた感じがしない。
地図を見れば「桝形跡」とある。城の端だったのだろう。
しかし回りは普通の農村。
さらにまっすぐ歩き、右折すると五稜郭の稜の一つについた。

8:44
龍岡城の北の稜
五稜郭・龍岡城と城主大給家のことは別のブログで書く。

小海線の列車は9:20発で、それを逃すと11:43までない。
城に滞在できる時間は15分。
大手門跡の前の資料館の見物もあわただしく9時過ぎには城を後にし、駅から真っすぐ来た道に戻った。

正面に立派な寺がある。
9:05
蕃松院
このお城と寺の間の道は江戸時代からあったようだ。

道路標識をみれば右(東の山のほう)へ行くと新海三社神社という。
ん? 新海?
アニメ「君の名は」「天気の子」などを監督した新海誠は佐久の出身、野沢北高卒である。
この神社と関係あるのかと思ったら、彼の本名は新津誠で、出身地の南佐久郡小海町から海の字を入れたようだ。

さらに東へ行くと日本で最も海から離れた場所があるらしい。
〒384-0412 長野県佐久市田口 字榊山209-1
群馬県甘楽郡南牧村との境界付近。
最寄りの海岸からの距離: 114.86 km
1996年、国土地理院の調査で決定した。

それ以前は海から遠い場所がどこかはっきりせず、北海道の内陸という話も聞いたことがある。ちなみに、北海道で海から一番遠い地点は、美瑛岳から東へ約7 km離れた山中で、最寄りの海岸から 108.2 kmである。

新海三社は遠いから行けないが、蕃松院はすぐそばだから寄ってもよかった。しかし列車に遅れるのが怖かった。真っすぐの道をずんずん歩いて龍岡城駅に戻ってきた。

9:20
やがて左から小諸行きの列車がやってきた。
列車が止まると超満員。こんな田舎でなぜだ?!と思うほどの満員。
乗ると南アジア系の外国人ばかり。
インド人のような顔もあるし、中国人に似た顔もいる。共通するのは皆あどけないほど若くて日に焼けていること。

話しかけるほうが自然なくらいぎゅうぎゅうに彼らに囲まれた。
どこから来たのか? インドネシア。(多民族国家だから納得)
どこへ行くのか? 佐久平。
新幹線に乗って東京へ行くのか? ノー
じゃあどこへ行くのか? 佐久平。
ファームで働いているのか? そうだ。
 
後で思ったが、彼らは佐久平のショッピングモールに行くのだろう。

川上村などの高原野菜の産地ではかなり前から外国人が働いている。
2023年の数字だが、人口4000人の川上村は農家の約8割(400戸)が外国人技能実習生を受け入れていて、農繁期の在村実習生は1,100〜1,200人という。(NBS長野放送)
最低賃金や有給休暇、深夜割増賃金の遵守も当局から指導されている。
8月15日、土曜だかお盆休みだか、彼らはその休暇で遊びに行くものと思われる。

9:42 
無事佐久平についたが、混雑のため50年ぶりの小海線の景色は見られなかった。

(続く)


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