2026年4月14日火曜日

医薬品売上高ランキング2026年版(2025年度)

 製薬会社を辞めたのが2013年3月、千駄木に引っ越したのと同時だった。

あれから13年、大学教員を9年勤め、定年退職後は競技ダンスをやりながらベーカリー、居酒屋、スーパー、家庭菜園などのアルバイトを経験し、過去の専門からどんどん離れた。
昨年、医療専門の広告代理店(の下請け会社)に行き始めたことから、ちょっと昔に戻った。
そして先日、全世界の医薬品売上高のランキングを作る必要があった。

薬科大学ではほとんど薬剤師国家試験を意識した薬理の講義で、サイエンス(各企業がしのぎを削っていた先端創薬分野)や医薬品経済などから遠ざかっていた。しかし、移ったばかりの頃はM薬科大学で年に一度、製薬企業の歴史について講義していたから、医薬品のランキングについては毎年ウォッチしていた。

そのランキングは毎年2月ころまでに各製薬会社が前年1月から12月までの数字を公開するから、それを業界誌の記者などが集計し、自社媒体に載せる。私は「国際医薬品情報」という月2回発行の雑誌からとって発表資料に入れていたが、毎年5月か6月まで待っていた。

それが、今回、3月にChatGPTに聞いたら、簡単に教えてくれたのですぐ資料を作れた。
まず驚いたのが、
1.5月まで待たずに簡単に数字が得られたこと
2.ランキング構成の医薬品が大きく変わったこと
3.売上額が大幅に増えたこと
だ。

1についてはAIの進歩は素晴らしい。もちろん平気でうそをつくが、それはAIでなくても同じである。

たとえば今回、最初はAIでなくネット検索した。

やはり、最新の2025年の数字はなく、2024年12月の数字しかなかった。
問題はオゼンピックが458億ドルということだ。かつてリピトールが100億ドルを超えて話題になったのは20年以上前か、あれからインフレとはいえ、こんなに多いものか?
最も閲覧者が多いAnswersNews、日経新聞ともこの数字を出していた。458億ドルというのはメガファーマの全売上高に匹敵する。
実際、オゼンピックは170億ドルで、同一成分semaglutideのウゴービ、リベルサスを入れれば250~300億ドル近く(2024年)になるかもしれないが、同一のグラフの下のほうにウゴービが154億ドルで出ているのだから、2つで600億ドルになってしまい話にならない。

こういうウソの数字でも専門誌(紙)が2つとも載せていたら関係者はみな信じてしまう。
ちなみに、オゼンピックが急伸したノボ社の2024年の全売上高は421億ドルである。こういうことに気が付かない記者が増えているということか。ITでどんどん仕事のスピードが速くなって雑になったということか。

2.ランキング構成の医薬品が大きく変わった。

私自身のブランクがあるとはいえ、こんなに変わるものか。
人間も病気も変わらない、サイエンスも給料も変わらないのに。
AIを手にしたから、各年度のベスト10を出させてみた。

順位 商品名 一般名 主領域 メーカー 売上(概算・億ドル)
1995 1 Zantac ranitidine PPI/H2ブロッカー GSK 30
1995 2 Vasotec enalapril 高血圧 Merck 25
1995 3 Procardia nifedipine 高血圧 Pfizer 20
1995 4 Capoten captopril 高血圧 BMS 20
1995 5 Augmentin amoxicillin/clavulanate 抗菌薬 GSK 20
1995 6 Prilosec omeprazole PPI AstraZeneca 20
1995 7 Prozac fluoxetine 抗うつ Eli Lilly 20
1995 8 Zocor simvastatin 脂質異常症 Merck 15
1995 9 Claritin loratadine 抗ヒスタミン Schering-Plough 15
1995 10 Tagamet cimetidine H2ブロッカー GSK 15

2000 1 Lipitor atorvastatin 脂質異常症 Pfizer 70
2000 2 Prilosec omeprazole PPI AstraZeneca 60
2000 3 Zocor simvastatin 脂質異常症 Merck 50
2000 4 Norvasc amlodipine 高血圧 Pfizer 40
2000 5 Prevacid lansoprazole PPI Takeda 40
2000 6 Procrit epoetin alfa 貧血 Amgen 40
2000 7 Seroxat paroxetine 抗うつ GSK 35
2000 8 Glucophage metformin 糖尿病 BMS 30
2000 9 Claritin loratadine 抗ヒスタミン Schering-Plough 30
2000 10 Celebrex celecoxib NSAIDs Pfizer 30
2005 1 Lipitor atorvastatin 脂質異常症 Pfizer 130
2005 2 Plavix clopidogrel 抗血小板 BMS/Sanofi 60
2005 3 Nexium esomeprazole PPI AstraZeneca 60
2005 4 Zyprexa olanzapine 抗精神病 Eli Lilly 50
2005 5 Epogen epoetin alfa 貧血 Amgen 50
2005 6 Seretide fluticasone/salmeterol 喘息 GSK 45
2005 7 Aranesp darbepoetin alfa 貧血 Amgen 40
2005 8 Remicade infliximab 自己免疫 J&J 40
2005 9 Enbrel etanercept 自己免疫 Amgen/Pfizer 35
2005 10 Prevacid lansoprazole PPI Takeda 35
2010 1 Lipitor atorvastatin 脂質異常症 Pfizer 110
2010 2 Plavix clopidogrel 抗血小板 BMS/Sanofi 90
2010 3 Seretide fluticasone/salmeterol 喘息 GSK 80
2010 4 Enbrel etanercept 自己免疫 Amgen 70
2010 5 Remicade infliximab 自己免疫 J&J 70
2010 6 Humira adalimumab 自己免疫 AbbVie 65
2010 7 Rituxan rituximab がん Roche 65
2010 8 Avastin bevacizumab がん Roche 60
2010 9 Nexium esomeprazole PPI AstraZeneca 55
2010 10 Herceptin trastuzumab がん Roche 55
2015 1 Humira adalimumab 自己免疫 AbbVie 140
2015 2 Enbrel etanercept 自己免疫 Amgen 90
2015 3 Remicade infliximab 自己免疫 J&J 85
2015 4 Rituxan rituximab がん Roche 80
2015 5 Avastin bevacizumab がん Roche 70
2015 6 Herceptin trastuzumab がん Roche 65
2015 7 Lantus insulin glargine 糖尿病 Sanofi 70
2015 8 Januvia sitagliptin 糖尿病 MSD 60
2015 9 Neulasta pegfilgrastim 支持療法 Amgen 60
2015 10 Crestor rosuvastatin 脂質異常症 AstraZeneca 60
2020 1 Humira adalimumab 自己免疫 AbbVie 200
2020 2 Keytruda pembrolizumab がん免疫 MSD 140
2020 3 Revlimid lenalidomide 血液がん BMS 120
2020 4 Eliquis apixaban 抗凝固 BMS/Pfizer 90
2020 5 Opdivo nivolumab がん免疫 BMS/Ono 70
2020 6 Imbruvica ibrutinib 血液がん AbbVie/J&J 80
2020 7 Stelara ustekinumab 自己免疫 J&J 80
2020 8 Eylea aflibercept 眼科 Regeneron 80
2020 9 Enbrel etanercept 自己免疫 Amgen 70
2020 10 Biktarvy HIV Gilead 70
2023 1 Keytruda pembrolizumab がん免疫 MSD 250
2023 2 Humira adalimumab 自己免疫 AbbVie 210
2023 3 Eliquis apixaban 抗凝固 BMS/Pfizer 180
2023 4 Dupixent dupilumab 自己免疫 Sanofi/Regeneron 130
2023 5 Opdivo nivolumab がん免疫 BMS/Ono 100
2023 6 Stelara ustekinumab 自己免疫 J&J 100
2023 7 Trulicity dulaglutide 糖尿病 Lilly 70
2023 8 Ozempic semaglutide 糖尿病 Novo Nordisk 140
2023 9 Biktarvy HIV Gilead 120
2023 10 Xarelto rivaroxaban 抗凝固 Bayer/J&J 110
2024 1 Ozempic semaglutide 糖尿病 Novo Nordisk 170
2024 2 Keytruda pembrolizumab がん免疫 MSD 260
2024 3 Eliquis apixaban 抗凝固 BMS/Pfizer 190
2024 4 Mounjaro tirzepatide 糖尿病/肥満 Lilly 150+
2024 5 Dupixent dupilumab 自己免疫 Sanofi/Regeneron 140
2024 6 Humira adalimumab 自己免疫 AbbVie 140
2024 7 Opdivo nivolumab がん免疫 BMS/Ono 110
2024 8 Biktarvy HIV Gilead 130
2024 9 Stelara ustekinumab 自己免疫 J&J 100
2024 10 Darzalex daratumumab 血液がん J&J 90
トレンドをまとめれば、
2005まで:小分子(スタチン、PPIなど巨大市場=患者数が多い生活習慣病の薬。
2010:バイオ医薬(抗体)が主役に移行。がん+自己免疫が伸長。希少疾患、高薬価モデル成立
2015:自己免疫疾患薬が独占(Humira時代)
2020:がん免疫療法登場(キートルーダ、オプジーボ)
2023:がん免疫トップ
2024:GLP-1がトップ(生活習慣病が復権)

もう一つ分かることは(驚いたことは)

3.売上額が大幅に増えたことだ。

トップ医薬品売上高が30億ドル(ザンタック)から317億ドル(キートルーダ)になったことである。30年で10倍というのは、医療保険制度を考えなおさないと行けないレベルである。

ご存じの通り、一つ大型新薬が出ると全社売り上げの半分近くを占めるほどになり、その特許が切れれば会社の売り上げは激減する。すなわち会社ランキングの変化も激しい。

AIに各年度のベスト10社を出してもらった。

1995 1 Merck 150 小分子中心(循環器)
1995 2 Glaxo Wellcome 140 呼吸器・感染症
1995 3 Pfizer 120 まだ中堅
1995 4 BMS 110 循環器・ACE阻害薬
1995 5 Eli Lilly 100 精神・糖尿病
1995 6 Astra 90 がんはまだ限定的
1995 7 Roche 85 PPI
1995 8 Novartis(前身) 80 多領域
1995 9 Sanofi(前身) 75 抗ヒスタミン
1995 10 J&J 70 PPI・消化器

2000 1 Pfizer 290 Lipitorで急成長
2000 2 GSK 260 合併後最大手
2000 3 Merck 220 依然強い
2000 4 AstraZeneca 160 PPI
2000 5 J&J 150 循環器
2000 6 Novartis 150 多領域
2000 7 BMS 140 がん伸長
2000 8 Roche 130
2000 9 Eli Lilly 120
2000 10 Sanofi 110

2005 1 Pfizer 450
2005 2 J&J 390
2005 3 GSK 370
2005 4 Novartis 320
2005 5 Sanofi 300
2005 6 Roche 280
2005 7 Merck 260
2005 8 AstraZeneca 250
2005 9 BMS 220
2005 10 Eli Lilly 200

2010 1 Pfizer 670
2010 2 Novartis 500
2010 3 Roche 470
2010 4 Merck 460
2010 5 Sanofi 430
2010 6 J&J 420
2010 7 GSK 400
2010 8 AstraZeneca 330
2010 9 Abbott 300
2010 10 Eli Lilly 230

以下略

グラフをChatGPTに作ってもらった。

拙訳書「新薬誕生:百万分の1に挑む科学者たち」にも書いたが、1998年、99年は欧米製薬会社の合併が盛んに起きた。2000年の立ち上がりはその影響である。
目立つのは青のファイザー。合併を繰り返し、2009年Wyethを680億ドルで買収、2010年の売上にフル寄与した。2021年はコロナワクチンの特需である。

2015年のAbbvie(茶色)はもちろんHumira ・adalimumabである。(前身のAbbottはグラフにない)
2020年に初登場のNovoNordisk(ピンク)は、オゼンピック、ウゴービのセマグルチドである。糖尿病と同一成分で肥満という巨大な市場にかみついた。
30年前、Novoなど日本企業とそれほど差はなかった。どうしてこれほど差がついたか?

心配するのは日本の製薬会社にかつての存在感がないことだ。
世界でも弱いし、国内でも薄い。我々が就職するころは多くの大学から多数の学生が就職した。研究所は合成陣が新規化合物を合成し、生物部門で薬理活性などを調べた。
しかし、国内でも合併が起こると、リストラのため採用が減り、有名大学の大学院生しか採用されなくなった。
さらに年が進むと自社で新薬を1から作るのでなく、海外のベンチャーから種を買うとか、導入して共同開発販売することになり、武田、田辺三菱などは研究所が実質消滅した。

この結果、大学の生命科学分野の学生たちの就職先が激減した。企業と大学の結びつきが弱くなり、資金提供もなくなり、日本のライフサイエンスの活力が落ちた。

今回、いろんなことを調べているうちに、欧米メガファーマが中国の新興製薬会社から多くのシーズを導入していることも知った。

以上、AI(chappy、gemini)のすごさ、製薬業界の変化の大きさを書いた。


医薬史エッセイ 目次へ 

2026年4月12日日曜日

ジャガイモ植え付け、ネクタリン芽吹き


2026-03-09
2番畝にジャガイモを植えた。
切って1日半、室内で傷口を乾かしたあと。
後で盛り土しやすいように窪みをつくって芋を埋めた。
2026-03-11
前日の雨に次いで晴れた朝は霜が降りた。

数が足りないので近所のファミマで小芋を買ってきた。
我が家の近所は八百屋が少ないのでコンビニも野菜を売っている。
ジャガイモ、玉ねぎが規格外になるほど小型のものが売っていた。

小芋の表面が緑になってきて安売りされていた。
数日前は158円?だったのが98円。
ジャガイモの芽や緑になった皮にはソラニンという有毒成分が含まれていることがよく知られている。
こちらは種イモにするわけだから問題ない。
2026-03-16
しかし、切ってみて中まで緑だったのに驚いた。
ふつう皮が緑の部分は厚くむくとか芽を取り除けばよいが、中まで緑というのは割引品としても成立しない。

ソラニンはステロイドアルカロイドの配糖体だからたんぱく質のように熱で変性するわけではない。
コリンエステラーゼ阻害というから地下鉄サリンと同じターゲットに襲いかかる。
サリンは経皮吸収するから恐ろしさの点では比較にならない。
ソラニンの中毒量は成人で20~200㎎。もちろんこれは致死量ではない。
摂食2~24時間後に嘔吐、下痢。
しかしジャガイモ1個にどのくらいあるのか不明。もちろん数字はあるが、芽の数や皮の緑の度合いで変わるだろう。

ちょうどニュースでやっていた。
3月15日に奈良県の一家3人がポトフを食べて吐き気を訴えた。回復したが国内では2年ぶりのジャガイモ中毒だという。(3月20日のニュース)

さらに数日後、また別の小粒ジャガイモが見切り品で売っていた。
買ってきて7番畝に埋めた。

春は進む。
2026-03-25
柿の黄緑とレッドロビン新芽の赤
一番美しい季節である。
2026-03-25
プラムはだいぶ葉っぱが出てきた。
まだ植えて1年半(接ぎ木2年物)だから花は咲かないようだ。
2026-03-25
こちらはネクタリン。
プラムと違ってなかなか芽が出なかった。4か月前の昨年暮れに移動したとき雑に移植したから枯れてしまったかと心配していた。しかし枝に緑色が少し混じるようになってきて、これは冬にはなかった色だから生きてはいそうだった。そしてこの日見たら芽が膨らんでいた。

1年前の写真がある。
2025₋03₋30
プラム(左)とネクタリン
ネクタリンは1年前は木が小さかったが花がいっぱいついた。
しかし今年は木が1年分大きくなったのに花は一つだけ。

2026-04-06
なおも春は進む。
2026-04-06
自家採種ロマネスコ
もうロマネスコとは全く別である。少し前のブログに書いたが、F1の種だから親と違うのは分かるのだが、全部の株が同じ姿というのが分からない。F1の子供F2はさまざまになるのではないか?
2026-04-06
この朝の収穫
左からノラボウ菜、春菊、ロマネスコF2

2026-04-06
昨年まで山芋のあったところ。
目隠し用にレッドロビンも植えていたが、通路として狭くなるので抜いて、フキを移植した。
2026-04-08
ジャガイモ、植えて1か月の姿

2026-04-08
朝日に光るネクタリン。
無事葉っぱが出てきて花も一輪ついた。

4月7日 大和芋植え付け
4月9日 スイカ、メロン、キウリ、トウモロコシ、落花生の種まき(ポット、保温ビニールかけ)。


2026年4月9日木曜日

サツマイモの蔓を越冬保存して苗にする

千駄木菜園では毎年、収穫したサツマイモの一部を紙にくるんで保温して室内越冬し、春それらを土に埋めて発芽させて苗を作って来た。

しかし近年、サツマイモの蔓を越冬させて、それを苗として使う方法がネットで出始めた。
蔓のかなりの部分が腐敗、枯死しても、生きている部位があればそこから発芽し、その場合は春に芋から苗を作るより早い。
今年はそれを試みる。
2025‐11‐03
昨年の秋の良き日、子どもたちを呼んでサツマイモを掘った。
彼らが部屋に入った後、ひとり大量に出た蔓の一部を保存した。葉をとって向きをそろえ、根元方向の端をそろえて縛る。
4束作った。
2025‐11‐04
そのうち2束は地中に埋めた。蔓の上部半分は地上に出ている。
日中が15度を下回るようになったらビニールで覆う予定。
2025‐11‐09
いっぽう2束は室内で保管する。支柱を入れて真っすぐにした。
2階の空いている部屋は無人だから夜は寒いが日中は暖かい。夜の低温がそのまま続けば死んでしまう場合でも、毎日、昼の温度で回復すれば、春まで持つかもしれない。

1か月半経った。
2025₋12₋25
部屋に置いて45日。何本かは緑の葉っぱを出し、何本かは枯れてカビが生えている。
その差が、長い蔓を適当に切ったときの部位の差(根元に近いか先端に近いか)なのか、偶然なのかどうかは分からない。
2025₋12₋25
いっぽう、庭の土に埋め保温ビニールをかぶせたのほうは葉を出している蔓は一本もなく、ほとんどは枯れている。

さらに1か月たった。
2026-01-24
室内の何本かはまだ生きている。
しかし新しい芽が出るわけでもなく、むしろ減った。
二階に行かないため普段は存在を忘れてしまうが、たまに気づいたときに大量に水を注いでいたので、根元を包んだ不織布が完全に乾いたことはなかったと思う。
2026-01-24
いっぽう庭に埋めて枯れたものを掘り出した。
地中部分は完全に死んではいないが、室内の茎があるので、こちらはここで廃棄した。

年を取るとあっという間に1週間、1か月が過ぎ、冬はいつの間にか消えた。
今年は3月に入ると平年より暖かかった。
日中最高気温は1日から19,13、11,16,17,14、17,12,14,8である。野田に行った3月10日こそ寒かったが、こういう日は例外で、室内の蔓を外に植えることにした。
2026-03-21
30本と20本。
2026-03-21
50本のうち少しでも生きているのは4本。そのうち緑の葉っぱが出ているもの(残っているもの)3本を庭に植え、保温ビニールをかけた。

土に植えて18日たった。
2026-04-08
越冬蔓と越冬芋

葉っぱは増えていないが、生きてはいる。
そのうち伸びていくだろう。
もともとサツマイモの蔓はそのままホームセンターで売っているくらい丈夫なものだが、冬を越すほど強いとは思わなかった。

また、保存していた芋を3月30日に埋めたが、そちらも変化なし。
ネズミがいるのでこのあと隠すように黒マルチをかけた。

芋からの蔓は例年だと6月以降になるが、この越冬蔓のほうは2か月くらい早く定植できるかもしれない。これは使える。
来年は(越冬個体として大きくするため)もう少し長いものを丸めて保存しようと思う。

2026年4月7日火曜日

大和芋、イチョウ芋、長芋、自然薯の違い

2025₋12₋11
ナガイモ
昨年は長芋が豊作だった。
掘るのが面倒になって雑に引っ張ったため、ほとんど途中で折れ、残りは地中に放棄してもこれだけ取った。
(移植ごては30センチ)

しかし今後は作るのをやめようと思う。
もっとも作っているわけではなく、生ごみから発芽し成長したものからムカゴが落ち、塀のそばで自生している雑草のようなもの。

雑草扱いでも芋ができると掘りたくなるのが人情。
しかし、日陰でも育つ山芋は野菜の作れない通路や塀際に追いやられていたから、たいてい狭いところで、深く穴を掘ることが困難である。これがやめる理由のひとつ。

長芋をやめようとするもう一つの理由は、初めて大和芋がとれたこと。
これはいつ植えたのか、種芋を埋めたのか、捨てた生ごみの中に皮が入っていたのか記憶にない。いずれにしろ、2年以上前である。
2025₋11₋18
イチョウ芋

こちらは根塊が地表近くで大きくなっていて、掘るのが簡単というレベルですら
ない。蔓を引っ張ったら芋がごろっと出てきたことに驚いた。
その衝撃に、今後はこれを栽培することに決めた。

いままで山芋、長芋、大和芋、イチョウ芋の単語を断わりなしに使ってきたが、整理しておく。
いわゆる、とろろ芋のことである。
国内で流通するとろろ芋はヤマノイモ科ヤマノイモ属である。
ヤマノイモというのは山芋で里芋の対語であろう。
国内のヤマノイモ属には2つの生物種がある。

ひとつは、ヤマノイモ属ヤマノイモ種。
山に自生する日本原産のヤマノイモ(Dioscore japonica Thunb. 英名:Japanese yam)。いわゆる自然薯である。長いが円柱ではなくねじれている。

もうひとつは、ヤマノイモ属ナガイモ種。
栽培されている山芋。大陸から渡来したとされるナガイモ(Dioscorea polystachya 英名: Chinese yam)である。
(これは別名D. opposita Thunb. ともいう。別種だと思って命名したが後に同一種と分かり、しかし両方の学名とも学会で使われていたから今でも併用されている。ちなみにThunbというのは、命名者のCarl Peter Thunberg(スウェーデン人博物学者、1743–1828)のこと。リンネの弟子の一人で江戸時代に出島オランダ商館員の一人として来日したから日本の植物の学名に多い。)

同じ山芋でも2種は学名が違うように別物で、染色体数はふつう、ジネンジョが2n=40、ナガイモが2n=140である。

ナガイモ種のほうは長い栽培史があり、かつ栽培条件によって個体変異が起きやすいことから、同一生物種ながら各地で様々な栽培品種(=別名)が生まれた。すなわち

1.円柱型 長芋群。もっとも生産量が多い。千駄木菜園でもこれだった。
2.扁平型 イチョウ芋群。短くしゃもじのような形。関東ではこれを大和芋という。手のひら状から仏掌いもともいう。 
3.球形 つくね芋群。大和芋、伊勢芋、丹波やまいもなど西日本の伝統野菜。 

関東でイチョウ芋を大和芋といった理由は分からないが、関西から来た球形の大和芋を栽培しているうちに掌状になったのかもしれない。

ナガイモ種は大陸から来たとされるが、日本に昔からあったとする説もある。
大陸から来たものは「唐~」とされるが、カライモがサツマイモを表すことから、大陸伝来としても相当古いものだろう。

・・・・・

さて、千駄木菜園における長芋からイチョウ芋への切り替えである。
地上部では区別がつかず、落ちたムカゴは翌年発芽するから、いったん根絶せねばならない。長芋のあったところはイチョウ芋を植えずに、出てくる芽はすべて抜き、1年かけて更地にする。

いっぽうで大和芋(イチョウ芋)のムカゴと皮を、長芋の無かった場所に植えて、1年かけて種芋(小芋)をつくるという計画をたてた。

春になった。
2026‐04‐06
長芋のあった場所
遊ばせておくのももったいないので3月、他所からフキを間引きして移植した。
野草は強い。早くも育ち始めた。

地中に保存しておいた大和芋も掘り出した。
2026-04-06
大きな芽が一つ、小さな根が無数に出ている。
ということは、今まで長芋は5月ころ植えていたが、3月終わりから4月初めには種芋を植えてよいということか。

この大きな芋は食べるつもりだった。しかし長いもが大量に残っているのでイモ自体も種芋として植えることにした。こうすれば秋には皮、むかごから育った小さな種芋(翌年用)だけでなく、丸々大きな食用の大和芋が得られることになる。
2026-04-06
種芋用に芋を切る。
中が空洞になっている部分があった。
4月7日、東塀のカボチャあとに4つ、三つ葉の間に2つ、エンドウネットの端に1つ、北の通路に2つ、合計9つ植えた。

また楽しみが増えた。

千駄木菜園 (総合)目次

千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次

2026年4月6日月曜日

野田6 銚子、利根運河と農道、国道など記憶いろいろ


3月は高校生に覚せい剤と大麻の話をしたついでに野田(10日)、印旛沼(23日)を見たことは書いた。

3月23日、雨の中に見た印旛沼は、長門川で利根川と、花見川で幕張海岸とつながっている。
この地形から銚子から東京湾までの水路を考え、再び野田を思った。

というのは、銚子の醤油は利根川をさかのぼり野田を過ぎて関宿から江戸川を下り、明治になると野田にできた運河を使って大消費地に向かったからだ。

液体を運ぶには木の樽だが、人力は無理だし馬の背に乗せるにも限界がある。荷車があれば良かっただろうが、当時のでこぼこ道では車輪が土に埋まって使えなかったのではなかろうか? かつてあれほど船運が盛んだったのは、道路の悪さのせいだろう。

こう考えると醤油は駒込、浅草あたりで作ればよかったのではなかろうか。土地はふんだんにあったのだから。
それが野田、銚子で作られたというのは、(教科書ではそれなりの理由が書かれるが)やはり「作ろう」という個人が(高梨、茂木、浜口など)たまたま居たという偶然によるものだろう。

銚子の場合、ヤマサ醤油(1645年創業)の初代当主・浜口儀兵衛は紀州出身である。銚子は1616年外川港を作ったのが紀州出身の崎山次郎右衛門など、紀伊の国と関係があった。おそらく黒潮の関係で紀州の漁師が漂着するなど古くから関係があったのかもしれない。紀州というのは近代的な醤油の発祥の地と言われる。

穀物に塩と水を混ぜ発酵させた醤(じゃん、ひしお)は調味料として昔からあっただろうが、鎌倉時代、信州で生まれた臨済宗の禅僧・心地覚心が中国径山寺(きんざんじ)から味噌の製法を持ち帰り、紀州日高郡由良で興国寺を開山した。その味噌桶の底にたまった液体が、今の溜り醤油に近いものであったと言われている。

その後、醤油製造は上方を中心に広がり、江戸が開けてからは野田、銚子が大産地となった。
いま、醤油で有名なのは野田(キッコーマン、キノエネ)、銚子(ヤマサ、ヒゲタ、タカラ)、竜野(ヒガシマル)が3大産地で、小豆島をいれて4大産地、前田家の保護を受けた金沢の海岸近くの大野をいれて5大産地といわれる。

さて、船運に戻る。
印旛沼は利根川と江戸を結ぶ水路になる、それも銚子―江戸なら最短距離に近いにもかかわらず、なぜ使われなかったか分からない。川を広げる(泥を上げる)より、陸地を掘るほうが楽だったのだろうか。
すなわち利根運河のことである。

3月10日、予想以上に面白かった醤油王国、野田の見物を終え、愛宕駅から東武の電車に乗った。
愛宕、野田市、梅郷の各駅をすぎて運河駅にさしかかると、車窓からその運河がみえた。
2026‐03‐10 12:47
利根川と江戸川を結ぶ利根運河。

利根川はもともと東京湾に流れ込んでいたが、江戸時代初めに渡良瀬川とつなげ、太平洋の銚子に水を出した。残った川床は江戸川となり、銚子方面から関宿を経て江戸につながる水運の道が開けた。房総半島沖は海の難所だったし遠回りだったから東北地方からの荷物も、ここを通るようになった。ただし利根川は広いぶん途中に中州、浅瀬があり、荷を揚げて陸路江戸川に移すこともあったらしい。
江戸川河川事務所公式サイトから

明治になって、関宿回りでなく、野田の南で運河を掘ることが計画された。
お雇い外国人、オランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルの監督のもと、1888年(明治21年)7月に起工、のべ220万人の工事で、1890年2月に通水、同年3月に通船、同年6月に竣工した。
工事申請から完成後の管理まで主体となったのは利根運河株式会社である。

柏から野田まで鉄道を引っ張ってきたのは、高梨、茂木家を中心とする野田醤油醸造組合だった。しかし地元の運河建設には関与していない。彼らは醸造蔵のすぐそばに江戸川が流れていて運河の必要がなかったからだ。
この運河は霞ケ浦、利根川下流の人々に恩恵を与える。利根運河株式会社も茨城県令の人見寧と茨城県会議員の広瀬誠一郎が中心となり、それぞれ社長、筆頭理事となった。

延長約8.5kmの利根運河の完成により、航路は38km短縮された。銚子から東京までの日程は3日から1日に短縮し最盛期には、定期蒸気船を含め年間約4万隻の船が狭い運河を行き来した(1日100隻以上)。
運河沿いには多くの商店や船宿などが立ち並び、約6千本の桜の木が植えられ、果樹園や利根運河大師巡りなど観光名所としても知られるようになった。
野田の市街地と江戸川、利根川、運河

ところが1896年12月に田端―土浦間(後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。翌1897年6月、銚子-東京間(後の総武本線)が開通し、所要時間は従来の5分の1(4時間)となった。
これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から1910年頃までのわずか20年程度であった。
昭和に入るとますます船はへり、さらに1941年の台風で堰や堤防が壊れ通船が困難となり、会社は破綻、国が救済、国有化した。1943年には派川利根川に改称、すなわち運河から川になった。
1987年に流山市立運河水辺公園が開園し、1990年6月に再び利根運河に改称された。

遊歩道ができた利根運河だが、私は歩いたことがない。
しかし、その堤防の上を何度も通ったことがある。

埼玉の家から妻の実家に行くとき、ふつうなら車で大宮、春日部、野田、と国道16号を通って柏で国道6号に入って安孫子、取手と行くのだが、ときに叔父だったか義父だったかに教わった近道を通った。すなわち野田から16号を離れ東側の裏道(県道7号)を通って南下、利根運河の橋を越えたところでさらに東に転じ広域農道に入るのである。この時わずかだが利根運河の堤防を通った。

もう行くことはないので、グーグルストリートビューを見てみる。
2025
利根運河の堤防は非常に狭く、車を持たずこの時だけ借りるペーパードライバーの私にとって恐怖の道だった。
すれ違う車がいると端に寄りすぎて運河に転げ落ちそうだった。
1980年代、90年代の当時の堤防はグーグル写真よりも狭くて高かったように感じる。当時、限られた人しか通らず車は多くなかったが、県道を南下してきてその曲がり角に近づいたとき堤防上を対向車が1台でも来ているのが見えたら、すれ違うのが嫌で諦め、県道をそのまま南下直進したほど怖かった。
2025
写真のように小型車同士なら何とかなるが、こちらはワゴン車だったし、運転台が高かったから余計に運河の水面が怖かった。水は少なかったから一家5人水死の可能性は低いが転落すれば何回転もして大けが、死亡は考えられた。

堤防を無事に超えても次の関門があった。
2025
農業用道路だったから余計な車が入らないように南北の出入り口に門があった。
これがガレージのように車幅ぎりぎりで、しかも信号がない。他の車が後ろにいても嫌だし、対向車がいても嫌だった。
しかし関門と関門のあいだに延々と続く農道は信号もなく車もおらず、大幅に時間が短縮された。一直線の道路には商店や民家は1軒もなく、看板建造物もなく、日本とは思えない風景だった。
2022
あれから30年。この道につながる義父、叔父とも亡くなり、3人の子供たちは独立した。

私は今年の免許の更新から教習所の実技試験が必要となり、もう免許は返上しようと思っている。だから余計に利根運河と農道の「恐怖の運転」が懐かしい。

野田を通る国道16号の記憶も書いておく。
妻と付き合い始めたのが大学院時代の1980年8月。就職1年目の81年6月彼女の家にあいさつに行き、82年3月スキーの帰りに彼女を私の親に会わせた。83年5月には長野の両親が車で出てきて私を乗せて挨拶に行った。このときはじめて国道16号を通ったのだろう。その年10月の結納の時も、長野から来た祖母を含めて4人でこの国道を通った。その後、私の運転歴の半分以上は国道16号になる。
国道16号と県道7号

忘れられないのは結納前の83年8月、婚約指輪を選ぶとき。
時計貴金属を扱っていた南浦和の叔父の家に二人で行くことになった。
しかし前夜職場の飲み会で痛飲し、私が駅での待ち合わせ時間に大幅に遅れた。当時はケータイもなかった。改札にいなかったので彼女の家に電話すると、まだ駅にいるのではないかというのだが、私は先に叔父の家に行くと伝えて駅を離れた。
しかし彼女は叔父の家の場所も電話番号も知らなかった。あとで聞くと彼女も風邪をひいていて具合が悪かったらしい。そのあと彼女も自分の家に電話して私が立ち去ったことを聞き、自宅に戻らざるを得なかった。

何も考えず叔父の家でぐったりしていた私から事情を聞いた叔父は、そのまま急いで候補の指輪をいくつか選び私を助手席に乗せて国道16号を走った。途中、野田あたりで道路沿いのラーメン屋で昼飯を食べようとしたのだがもちろん私は二日酔いで食べられなかった。

とにかく叔父も先方に謝ってくれ、帰宅したとたんわんわん泣いて自室に閉じこもってしまったという彼女も二階から降りてきて破談にはならなかった。

子供が生まれてからは私が車を借り運転して何度も通った国道16号だが、一番記憶に残っているのは野田市花井、県道46号との交差点である。ここを左折し、国道と東に平行する県道7号に出て、それを運河あるいは安孫子まで南下するから毎回ここを見逃さないようにしていたからだ。
2025
県道46号(牛久野田線)との交差点
「野田市駅入口」

30年、40年もたち、グーグルストリートビューではだいぶ景色が違っている。
昔はもっと緑があった。国道16号の沿道は雑木林が多く残っていた。
燃料などを山に求める信州と違い、関東は優良農地となるような平地が林として残された。国道16号は駅から離れたところを通ったから宅地になることもなく、また当時は国道沿いの店舗も今よりずっと少なかった。
2012
一番古いストリートビューは14年前で、少し昔の面影が残っている。今ヒューリックの物流拠点になっているところも森である。角の看板もヒューリックでなくコカ・コーラになっている。
しかし3,40年前はもっと森が多く、ここの看板も紫カントリークラブ「あやめコース」「すみれコース」というゴルフ場の案内看板だった。

ここを左折すると、紫カントリーだけでなく野田市パブリックゴルフ場けやきコース、千葉カントリー梅郷コースなどもあった。
なぜ野田にゴルフ場が集中しているかというと、高梨、茂木の両家が広大な土地を雑木林として残していたからである。地権者が何人もいるより買収が簡単であっただろうし両家の関係者もゴルフに関心があったのかもしれない。もちろん江戸時代から醸造家が豆を煮るには大量の薪を必要とした。

・・・・

利根運河を電車の窓からちらりと見たことから、話は野田醤油と関係ない個人的な記憶に広がった。

電車は駅の直前だったから速度を落としていたが、油断していたので慌ててスマホを出し、うまく運河の写真が撮れなかった。それでも何とか1枚取れた。そのあと、いろんなことを思い出しながら終点の柏まで行った。

このブログはお分かりの通り、出かけた先でできるだけ昔のことを思い出して書くことにしている。5年後には思い出せなくなっていたり、へたするとこの世にいないかもしれない。生きた証ととして記憶を文字に固定しようとしているからだ。

東武野田線についても思い出したことを書いておく。
初めて乗ったのは1981年8月。学生時代から仲が良かった國枝卓氏が厚生省薬務局、私が製薬会社の研究所、お互い就職して1年目。大宮の独身寮にいた私が柏の公務員用独身宿舎にいた彼のところに泊まりに行った。
上野経由で行けば良いところを与野から大宮に出て東武野田線で行こうとした。大宮に来ると岩槻、春日部を過ぎて柏までいく本数は思ったより少なかった。この時も連絡手段はなく、彼は柏の改札口で40分も待っていてくれた。少し後の1986年の時刻表では1時間20分(370円)で行けるから、そもそも大宮に来たのが遅かったのかもしれない。
こんなにひどいことをしたのに、その後も彼は全く忘れたように(本当に彼には記憶が残ってないのかもしれない)気にせず付き合ってくれ、私も今何十年ぶりかで思い出した。

彼とはその2か月前にも柏で会っていて、そごうの屋上で「まちぶせ」を歌う石川ひとみを見た。これは彼も覚えているだろうか。まちぶせを最初にうたった三木聖子、顔の似ていた倉田まり子もなつかしい。
その日、彼と会ったのは、私が取手の妻の家へ挨拶に初めて行く途中だった。


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