3月12日、野田市を初めて歩く。
人口規模(15万人)、知名度とも千葉県北西部の普通の市と思っていたが、駅のまわりに商店住宅が全くなく、キッコーマンしかないという、ずいぶん特殊なところだと分かった。(前のブログ)
雨に雪が混じるなか、
駅から真っすぐ、県道を西へ、かつて醤油輸送に使われた江戸川を目指す。
途中から外れて旧道を南に歩くと長い黒塀にぶつかった。
8:49
高梨本家旧宅
この四つ角というより四辻を右側に行くと塀と道を挟んで新しい大邸宅がある。
(写真を取り損ねたがGoogleストリートビューで見られる)
その表札を見れば「高梨兵左衛門」とある。
野田の醤油は戦国時代の飯田市郎兵衛にはじまるといわれるが、近世に大発展した野田の醤油づくりは、1661年に上花輪村名主であった19代髙梨兵左衛門を始めとする。翌1662年に茂木佐平治が味噌製造を開始。(茂木家はその後1764年に醤油製造も始めた)。
その高梨である。
高梨というと信州中野の国人で戦国時代に上杉側について家臣となり会津、米沢までいった家を思い浮かべるが、この野田の高梨家も信州から来たらしい。平安末期、八幡太郎義家の時代で、醤油を始めたときは19代目、すでにこの地の名主であった。
醤油というのは樽の中の味噌の凹みにたまった汁がうまい、ということが始まりだったのではないか? 味噌は豆を煮て塩を混ぜ発酵すればいいから誰でも作れる。しかし醤油はどろどろの味噌用発酵汁をろ過せねばならないから、商業生産するならかなりの製造設備を要する。すなわち代々名主をつとめる高梨家のような財力がないと作られない。
高梨家の旧本邸の長い塀に沿って歩くと大きな門があった。
二重になっている。
すなわち柵のあいだから長屋門が見える。長い塀のラインからだいぶ引っ込んでいる。
8:50
上花輪歴史館として1994年一般公開された。
本日は、火曜、休館
庭園は国指定名勝。
名勝としては、屋敷内全体が文化財という分野で、千葉県で最初の、そして昭和の作庭としては全国で初めてという。確かに多くの名園は明治より前に作られたから、醸造業者の富と当主の趣味、美意識が現代まで続いたというのは珍しい。
8:52
高梨家の前(道を挟んだ南東側)は刈り込まれた生垣と芝生と瀟洒な建物。
かつては高梨の醤油工場だったのだろうが、今は西洋の牧場みたいになっている。
8:53
墓地は高梨一族のものだろうか。
寒いので先を急いだ。
8:54
林のなかを江戸川のほうに向かって下る先に工場のタンクが見える。
左はキッコーマンの野球場。
歴史の違いか、普通の食品会社とはちょっと景色が違う。
野田市駅の向こう(東)から中心部を経て西の江戸川沿いまでキッコーマンの工場が分散というか広がっている理由は何か。
1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けるほど、両家は野田醤油の中心であったが、親戚でもあった。23代髙梨兵左衛門は1764年に実兄である茂木七郎右衛門と醸造蔵経営の合併を行うが、1771年に再び別れ、1781年に高梨、茂木が中心となって「野田醤油仲間」を結成した。
高梨兵左衛門、
櫛形屋・茂木七左衛門、
柏屋・茂木七郎右衛門、
亀屋・飯田市郎兵衛、
杉崎市郎兵衛、
竹本五郎兵衛、
大塚弥五兵衛の7家である。
高梨本家から幕末に分家した高梨周造家、高梨孝右衛門家も醤油醸造を始めたが、明治になって茂木七郎右衛門に工場を譲渡した。
明治20年(1887)、茂木七左衞門・茂木七郎右衛門・茂木佐平治・高梨兵左衛門・山
下平兵衛などの野田、流山の醸造家の17家は、野田醤油醸造組合を結成した(キッコーマン公式サイト)。前のブログでかいた野田に鉄道(現、東武野田線)を持ってきた主体である。
しかし供給過剰などから経営環境が厳しくなり、
大正6年(1917)には山下平兵衛家(現キノエネ醬油)を除き、茂木一族6家、髙梨、堀切(流山)の8家が大同合併し野田醤油株式会社が設立され、これが後に(1964年)キッコーマン株式会社となった。亀甲萬は茂木佐平治家が使っていた商標であるが、新社の製品は徐々にこれに統一され、ついには社名となった。。
8:54
野球場の土手の上は欅の巨木が並んでいる。
道は江戸川に向かって下っていく。
江戸川の堤防の前に古い日本家屋があった。
8:59
下河岸・桝田仁左衛門家住宅
桝田家は、1712年、ここ野田下河岸に開業した河岸問屋。
かつての江戸川舟運の面影を伝える遺構である。
今では考えられないが、鉄道も自動車もない時代、江戸川は関東地方の大動脈だった。たとえば利根川との分岐点である関宿は江戸幕府にとって重要拠点であり、関宿藩には信頼の厚い譜代大名が封じられた。花埋み(渡辺淳一)の荻野吟子も熊谷の在から利根川から江戸川にはいって東京に出た。
醤油生産にとっても、利根川流域は関東一円に広がるから江戸川は大豆を集めるのに都合がいいし、下流は行徳の塩田に通じ、大消費地の江戸につながっていた。
桝田家は醤油の積み出しで隆盛を極めたが、明治44年(1911)に千葉県営軽便鉄道(現東武野田線)が開通、さらに関東大震災後には自動車輸送が広がるなどしたため、昭和13年(1938)に営業を終了した。
この母屋は明治4年(1871)建築という。不動尊の祠、土蔵、脇門、レンガ塀が明治から昭和にかけて築造された。母屋は住居に加えて帳場や船宿といった商用の機能を持った。
低いレンガ塀は江戸川増水時に母屋の水防の役割を担っていたらしい。
江戸川舟運の遺構がほとんど残っていない中で貴重な文化財であり、平成19年に国の登録有形文化財、また日本近代化産業遺産に指定された。
少し前までは人が住んでいらしたらしいが、無人だった。
庭先を通っていくと奥の空地は防草シートが張ってあり、歩いていくと堤防わきの道路に出た。この道は堤防工事のため通行止めになっていたが、内側に入ってしまったので、なんとか出られるだろうと歩き続けた。
9:03
堤防のすぐわきに茶色の水をたたえた池があり、水中から空気でも出ているのか、噴水のように水が噴き上がっている。
9:04
堤防に上がってみたが、看板などの文字は見えなかった。
想像するしかないが、醤油工場から出る排水を好気性の微生物で浄化して江戸川に流しているのではなかろうか。
醤油は大豆、小麦などを発酵させて作るから、排水には糖、アミノ酸などの有機物が大量に含まれる。これをそのまま川に流したらBODが一気に上がるから、微生物で水と二酸化炭素まで分解するのである。
この液はしょっぱいのだろうかと、ふと思ったが、「キッコーマンもの知りしょうゆ館」を見学できなかったことが悔やまれた。
9:04
江戸川の下流方向
桝田家住宅がみえた。
流路は変わっただろうし、堤防もこれほど高くはなかったから景色はだいぶ違うだろう。下河岸すなわち(桝田)仁左衛門河岸には明治時代の最盛期、50~60隻の船が停泊していたという。
江戸川という名前からも大消費地との結びつきが分かる。
9:06
江戸川 上流方向
タンクのある工場は、文字やマークがないがキッコーマンだろう。
合併前は高梨家の工場だったか。
現在、地図を見ればキッコーマンフードテック中野台工場とヒゲタ醤油野田工場がこの中にあるようだ。
9:10
無事、だれにも会わず(怒られず)立ち入り禁止区域から出られた。
川から離れるように少し東へ歩き、庚申塔のある角で県道から外れて川に戻るように細い道を入っていく。
前のブログ
9:12
キッコーマン工場の裏口。
造りからして昔は正門だったのかもしれない。
松とお堂が門の古さに似合う。
工場の門に向かうように門構えの家があった。
9:14
上河岸 戸邉五右衛門家住宅
桝田家と同様、江戸川の水運を担い、醤油の輸送に携わった河岸問屋である。こちらは桝田家と違って人が住んでいらっしゃり、表札は戸邉だった。
昭和24年の江戸川の改修に伴い、ここに曳家されたらしい。
主な家屋だけ移しただけだから、昔はもっと大きな邸宅、河岸問屋だったのだろう。
約束の時間まであと30分しかないが、まだ高梨家と河岸問屋しか見ていない。
駅から50分歩いて市の中心部から遠く離れたところに来てしまった。
戻るのに精いっぱいで茂木一族の豪邸を見る時間はなさそうだ。
(続く)
20260312 野田 駅名とキッコーマンの存在感





















































