2026年6月25日木曜日

月宮院での法事。北信五岳、鵤工舎、中野の曹洞宗

5月16日、母の3回忌、父の17回忌で信州中野に行った。
いつもは自宅に菩提寺の坊さんが来て行うのだが、今回はお寺でやった。
菩提寺は曹洞宗月宮院。
むかしは岩船の家から田んぼの向こう、山を背にした更科の部落の上のほうに見えたのだが、今は岩船、西条に家が立て込み、多分見えないだろう。

妹夫婦、弟夫婦と3夫婦6人だけでの法事、11時からだが早く着いた。
10:43
お寺の駐車場から見る北信五岳
昔はなかったビニールハウスが景観を損ねている。

母は1月、父は2月と寒い時期に亡くなったのだが、弟は命日など関係なく、一番季節の良いときにやってくれるから助かる。
もう少し前なら桃の花がきれいだっただろう。

北信五岳は北から「まみくとい」
それぞれの山名と標高は
斑尾 1382
妙高 2446
黒姫 2053
戸隠 1904
飯縄 1917

これだけ標高が違うのだが、距離の関係で良い場所だとほぼ同じ高さでしかも等間隔で見える。
かつて存在した東京南千住の「お化け煙突」のように、見る場所によって高さ、間隔が変わってくる。北信といっても長野市、飯山市では全く見えず、須坂では飯縄が大きすぎる。中野の西部、北部では手前の山が大きくて五岳が見えない。北信五岳というのは中野、小布施の、さらにごく一部だけで成立する言葉である。
12:23
帰るときに見た北信五岳
月宮院からの五岳の形は良いほうだと思っていたが、今回改めてみると、黒姫、戸隠、飯縄の間隔が近く、100点ではない。

妙高の左に小さく雪をかぶった山がある。地図を見れば北アルプスの白馬岳などではなく、その手前、金山(2245)、新潟焼山(2400)のようである。

戸隠も雪が残る。
子供のころ、五岳の標高を知った時から戸隠が黒姫、飯縄より低いのに遅くまで雪があるのが不思議だった。理由を探せば、他より西のほうにあり北西からくる季節風で積雪量が多いということくらいか。
西にある金山、新潟焼山が、同じ高さの妙高より雪が多いということも、この推測の確からしさを裏付けている。

本堂に向かう。
10:43
山門への参道
両側に常夜灯、入ると右に六地蔵。
10:43
常夜灯
裏に父や近所の「ひろちゃん」町田弘治の名前が彫ってあった。
「小林東助」は中学の時の担任の先生ではなかろうか。生きていらっしゃるだろうか。
この常夜灯はそれほど古くないから存命かもしれない。
10:44
山門の前で庭木の剪定をしている若者が二人いた。
一人に声をかけると長野市から来ている、とても感じのいい青年だった。
もう一人はあまり敏捷ではなく、切った枝を袋に入れるべく小さくしているのだが、年寄りのように地面に座り込んでいて、のんびり作業していた。
10:44
山門。
観光寺院でもなく檀家も少なく、これを維持するのは大変だ。
10:44
山門の中には農機具などがしまってあった。
と思ったら、除雪機だった。
冬、和尚さんが使うのだろうか。
10:45
本堂・金谷山
菩提寺の山号を初めて知った。
しかし寺号がなく、いきなり月宮院である。

「院」というと大寺院の子院・塔頭が多い。
上野寛永寺はかつて子院三十六坊を誇ったが、いまは護国院、養寿院など19の子院が周りに残っている。
ふつう、
寺:正式寺院、
院:寺内施設・子院・僧坊、
坊:僧侶の住居などをいう。
つまり「院」は本来、独立寺院ではなかった。
浄土宗の総本山、京都の知恩院は法然が比叡山を下りて、現在地に庵を立てて住んだのが始まり。天台宗など旧仏教側からは攻撃されたが、死後、弟子が再興し、四条天皇から華頂山知恩教院大谷寺の「寺号」を下賜されたが、院が寺の前にあり、知恩院の名が今に残った。
また青蓮院、三千院、妙法院は天台宗延暦寺の門跡寺院として皇室の子弟が入ったもので独立した寺ではない。

江戸時代以降、地方では地蔵堂、念仏道場、隠居寺などから発展した小さな寺では、正式寺号をもたず院だけ称する例が増えたというが、月宮院は近隣の寺と比べ、むしろ立派なほうである。
10:45
本堂の右(南)は和尚さんの住まい部分

私的なほうの玄関はこの裏(南)にある。
この広い寺に一人で住んでいらっしゃる。
たぶん私より二つ年少ではなかろうか。
独身であるため最近岡山のほうから後継者?がいらしたらしく一昨年の母の葬儀の時はその人もいたが、弟によると、このところ姿が見えないという。
地方の寺は檀家が減って大変とはよく聞くが、住職の跡継ぎもいない。
10:46
本堂の正面は開いていないので、住居部分との間の廊下から上がる。

10:47
本堂に上がるのは二度目か。
法事はいつも自宅だったから、ここに来たのは和尚さんを送ってきたときだろう。
いつもは隣の自宅のほうに送るのだが、ある時、ここに入った。

祖父母の法事のころから弟が運転して私が話し相手兼荷物持ちという丁寧な送迎だった。

私がまだ30歳そこそこ、和尚さんは私より若いが話好きで読書もかなりしているようだったから、私も当時読んだ面白い本の話などした。ロボット工学者・森正弘の「仏教入門」、「非まじめのすすめ」などを車中で紹介した覚えがある。
10:47
和尚さんは法事の準備をしていた。
正装前の姿は寝間着のように見える。
「月宮院」の扁額はここにかかっていた。

信州中野は曹洞宗が多い。
日本全体で寺院は約7万7,000箇所(コンビニの総数は約5万5,000店)。
最も多いのは浄土真宗の21,000。いっぽう曹洞宗は14,600あり、単一宗派としては最大だが、それでも19%である。
しかし、中野市では宗教法人として登記されている48か寺のうち、22寺(46%)が曹洞宗で圧倒的に多い。(リストはgemini)
曹洞宗が中野に多い理由は分からない。
単一宗派で1万以上もあれば、その指示系統というか組織の構造を知りたいが、知らない。
赤岩の谷巌寺がこのあたりの触れ頭のようだ。

ちなみに、北隣の飯山市は40寺あり、やはり19寺の曹洞宗が最大である。しかし浄土真宗が13寺もあるのが中野と違う。そういえば、「故郷」「朧月夜」の高野辰之が下宿し、また島崎藤村の「破戒」で主人公も下宿した「蓮華寺」のモデルは、その名もずばり真宗寺である。

・・・
さて、本堂の中を見回せばよく掃除が行き届いている。
10:48
本堂正面の入り口はいつ開くのだろう。

向こうに「一般東司」と書いた紙が貼ってある。東司(とうす)とは雪隠とともに寺院におけるトイレのことである。しかし参拝客用にという意味だろうか、「一般」という語が添えられているが、この二語のバランスは「微妙」である。
せっかく紙が貼ってあっても皆わからないのだろう、結局、となりに「トイレ」と書かれた紙が貼ってあった。

法事の場所は中央の本尊の前ではなく、左脇の位牌がいっぱい並んでいるところ。
家から持ってきた両親の位牌と、農協に頼んだ花と料理を飾る。
和尚さんが卒塔婆を持ってきた。
戒名は静岳美生居士と玅覚澄性大姉

この和尚さんは亡くなると家族にどんな人だったか十分取材して、その意味を込めた戒名を作ってくれる。4文字のうち、1文字は俗名からとり、2文字は生前の人柄を表す。私をはじめ葬儀の時に初めて見た人でも皆納得する戒名であった。

読経が始まった。
いつものように冊子が渡され、6人が和尚さんと一緒に読み上げる。
しかし毎回思うのだが意味が全く分からず、早く終わらないかな~と、ぼーっとしたりたまに参加して声を出したり。

宗派によって読むお経は違うのかどうか。そんなことすら知らず、毎回退屈だけを感じながらこの年齢になってしまった。

私だったら経典の全体像(体系)と本日読むお経の立つ位置、すなわちなぜそれを読むか話し、皆で読む文言の意味も大事なところは講義したい。もちろんその都度、解説する場所は変える。そのほうが参加者も心を込めて読経すると思うのである。
この和尚さんの性格だとそのようなことを喜んですると思うのだが、どっぷり昔からの習慣に浸かってしまうと、そういう素人の発想にならないのかもしれない。

やっと終わった。
和尚さんがお茶の準備に退出されたので少し写真を撮った。
11:38
法事の場所
古い「征露忠死者霊位」と最近の「再建帰依十方施主」といった大きな位牌のほかに一般人の位牌のようなものもある。
11:38
本堂の正面の須弥壇
本尊よりも人形のような僧形の座像が目立つ。
二体は昔の住職だろうか。中野は土雛で有名で、檀家の誰かが作って奉納したのだろうか。

それにしても本堂の掃除だけでも大変である。それが庫裏から境内まで掃除、手入れはとても一人ではできないだろう。もしやられているとすれば、彼の時間はほとんど掃除になってしまう。
11:40
妻が便所に行った。
案内の目印を見れば4枚もあり、「お手洗ひ所」、「一般東司」、「トイレ」の順に貼っていったのだろう。

上を見れば太鼓と鐘がある。
ここで叩けば外に聞こえず中はうるさいし、物置ならばほかに場所はいくらでもあるだろうし、下支えの柱もない高いところに置く理由が分からず。
11:40

和尚さんは独身だから家事まですべて一人でやられる。トイレがきれいだったかどうかは聞かなかった。

我々6人へのお茶も、熱いお湯を7つの湯呑にくぐらせてから急須にいれ、丁寧にお茶を入れてくださった。

以前、お茶をごちそうになったときは母屋(庫裏)の、山のほうを向いた座敷で、斜面を借景にした良いお部屋だった。そのことを言うと「いや~、もう草だらけで荒れてていて」と、私がほめたことで却って庭を見せてもらえなくなってしまった。

話題は20年ほど前に本堂の大規模修繕をした鵤(いかるが)工舎の職人さん、松を手入れする植木屋さんのことから教育のこと、ご自分のことも含め農村の後継者問題など。
読書をされ、市内のあちこちに出かけられるから話題は豊富で、発言量は彼が70%、弟が25%、私が5%ほど口をはさむ。後の4人は完全に聞き役。

昼時なのであまり長居はできず、30分ほどで切り上げた。
12:18
お茶をいただいた部屋
12:18
お茶の部屋から本堂前の庭と、例の、変わった仕立ての松が見える。
靴を履いて外に出た。

卒塔婆、位牌、花、料理を持ったのだが、料理(豪華な弁当のようなもの?)はどうするのか?
和尚さんに食べてもらえば良いと思うが、弟は仏前からの下がりものを上げるのは失礼と思ったのだろう、「料理は皆さんどうするんでしょう?」と聞いた。多分美味しいだろうが、和尚さんのほうも下さいとはいえず、「いや、持ち帰る方もいらっしゃいますし、いろいろです」としか言えない。二人で遠慮しあって、結局「できれば食べていただきたいのですが」と弟は渡した。
12:22
本堂を修復した鵤工舎(いかるがこうしゃ)はよくテレビなどに出た。
奈良の斑鳩にあると思っていたら本社は栃木県らしい。

鵤工舎は、小川三夫(1947‐)が奈良県生駒郡斑鳩町ではじめた寺社建築専門の建設会社である。小川は奈良斑鳩の西岡常一(1908年- 1995)のもとで修業した。西岡は代々、法隆寺専属の宮大工棟梁の家に生まれ「最後の宮大工」といわれたが、弟子をとらないことで有名だった。しかし高校の修学旅行で法隆寺五重塔に感動した小川は熱心に頼み込み、唯一の内弟子となった。
1977年、29歳になった彼は技術の継承の必要性を感じ、徒弟制を基礎とする寺社専門の建設会社「鵤工舎」を設立。1990年には株式会社として、本社を小川の故郷、栃木県塩谷郡塩谷町とした。
いま会社のHPをみれば、奈良斑鳩の他に九州にも作業所があるらしい。
平成30年以降の施工例も載っていて、その中に
 月宮院  設計・施工 庫裏改修工事
 長野県 平成31年4月ー令和3年12月
とあった。工期は2年8か月。割と長い。

これとは別に本堂の工事は父が生きていたころだから20年ほど前だ。その時もずいぶん長い期間、和尚さんは工事を見ていたのだろう。
それ以来、法事のたびに、読経の後のお茶の時間、和尚さんは、職人さんたちの、仕事ぶり、掃除から道具の手入れまで、「感心したこと」などを話してくださっていた。
12:22
真新しい庫裏の反対側(表)へ向かう道

12:22
昔から自宅での法事の後、和尚さんを送ってくるときはこちらの庫裏のほうに来た。
そのころとすっかり雰囲気が変わってしまった。

鵤工舎はたぶん仕事は丁寧、立派でも、ふつうの工務店よりは高いだろう。
農家ばかりの檀家も年々減ってきて、経済的に楽ではない月宮院にいたら、私なら、檀家がくる本堂は少し力を入れても庫裏のほうは、少し安普請にしてしまうかもしれない。
12:24
法事の後の会食は福田屋ですき焼き。
12:30から予約してあるというから急がねばならない。
12:25
ところが妹の旦那が、和尚さんにつかまり、本堂の屋根の説明を受けていた。
話が長そうで、弟が「すみませんが」と中断させた。
ようやく乗り込んだ2台の車は寺を離れる。
12:28
北信五岳をみながら更科の部落の坂を下りていく。
都会に出て行った若者は、親が死んだら戻ってこないから檀家はどんどん減っていくだろう。立派なお寺になったものの、和尚さんの後はどうなるのだろう。
 

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2026年6月15日月曜日

玉ねぎ・ジャガイモの収穫、テントウムシダマシとAI

6月7日、関東が入梅した。平年並み(同日)だが、昨年より遅いという。
昨年は5月22日と早かったらしいが、すっかり忘れている。豪雨とか水不足なら記憶に残っても毎年必ず来る入梅が早いか遅いかなどはあまり生活に関係ないから頭に残らない。
2026-05-15
5番畝
入梅前に玉ねぎを収穫した。
茎は十分倒れ、時期は良い。
2026-05-15
しかし、まともに育ったものはわずか、多くは小さい。
今年は失敗といえる。
重さをはかる気も起きなかった。
2026-05-26
3番畝の西部分
実生スイカ(手前)と落花生(向こうの2株)
最近苗は買わず、前年に自家採種したものをまいている。

2026-05-26
3番畝の東部分はメロン(イバラキング)
2年前の2024年6月に食べたやつの種を保存していて、今年もまいた。
2026-05-26
5番畝はキウリとスイカ
玉ねぎの場所はサツマイモの予定。今ほかの場所で苗を作っている。

2026-05-26
8番畝
キウリ
ここはエンドウと春菊が植わっていた。
2026-05-31
4番畝(里芋)と3番畝(メロン、スイカ)

2026-06-04
7番畝はジャガイモ(二次)
柿の木の下はフキ。
2026-06-12
ふきの収穫
フキは、下茹でして皮をむかねばならない。面倒だから今まで我が家ではシーズンに一、二度食べるだけで放置していたが、今年は欲しいという人がいて、4人に差し上げた。
一人は葉っぱも食べるという。
葉っぱなど食べられるのか、と思ったが試しに私も料理してみた。一度下茹でしてアクを抜こうとしたが、ただのお湯で煮ただけでは強烈な苦みは取れなかった。ここに味付けしても食べられそうもない。これ以上、手をかけるのはガス代、調味料が勿体ないのですべて廃棄した。

さて、今年はジャガイモを真面目に作った。
(自家用の食用芋から出た芽を埋めるとかでなく、ちゃんと種芋を植えた)
2026-05-26
2番畝(左)はジャガイモ
1番畝はトウモロコシ。

ジャガイモの葉っぱがだいぶ食われている。
2026-05-26
裏に虫がいた。
ここでAI (gemini)の実力を試してみた。
この写真をアップして「これが何かわかるか?」と聞いてみた。

驚くことに、「羽状複葉だから」ジャガイモの葉っぱということを的中させ、さらに
「葉が網の目のようにかすり状に食害されています。これはナス科の野菜を好む「ニジュウヤホシテントウ(テントウムシダマシ)」という害虫の仕業によく見られる特徴です。」
「写真の中央付近(葉の裏側や茎に近い部分)をよく見ると、トゲトゲした小さな幼虫のようなものや、成虫らしき影が確認できます。」
と一発で答えてきた。おそるべき画像認識力、非常に優秀な人工知能である。

しかし、答えはあっているが回答でおかしなところがある。
写真に成虫はおらず、また幼虫がいるという「茎に近い部分」は映っていない。さらにこの画像からは、羽状複葉かどうかは分からない。すなわち、AIによくみられる「もっともらしいうそ」すなわち捏造、ハルシネーションHallucinationである。

その後、ジャガイモの葉っぱは成熟したせいか、あるいはテントウムシダマシの幼虫にやられたせいか、梅雨に入ってから枯れてきて、もう光合成で芋が大きくなることはないと思われた。
そして6月13日、梅雨の合間の晴れとは言えないが曇りの日に収穫した。
2026-06-13
葉っぱが枯れた2番畝の5分の3を掘った。
残りの5分の2と、7番畝は遅く芋を埋めたため、まだ葉っぱが緑なので、もう少しおいておく。
2026-06-13
畝全体の5分の2くらいを収穫
(この2番畝だけでなく7番にも植えてある。)
重さを量ったら4.31 ㎏
まあまあな気もするが、豊作か不作かは残りを掘ってから判断する。
20260-06-13
何者かに食われている芋がいくつかあった。
中まで深く食べ、皮は残っている。
コガネムシの幼虫かと思ったが、堀っている間、そいつは地中にいなかった。
AIに聞いていた。

ジェミニからは以下のような答えが返ってきた。
1. オオニジュウヤホシテントウの成虫
先ほど葉っぱを食べていたニジュウヤホシテントウの仲間ですが、成虫になると土の中のジャガイモ自体もかじります。
特徴: 表面の皮を不規則に、やや浅く、削り取るように食べます。写真のように、皮が薄く残ってめくれているようなかじり跡は、よく見られる特徴です。

2. コガネムシ類の幼虫
特徴:  写真のように、中までくり抜かれたような深い穴が開いている場合、コガネムシの幼虫がじっくりそこにとどまって食べた可能性があります。

3. ネズミなどの小動物
もし、かじられた跡に「小さなギザギザした歯型」が見える場合は、野ネズミやモグラの仕業です。

写真の皮のめくり具合を読み込んだのはさすがだが、それならネズミという答えは出てこない。
また、成虫が土に潜り込むことはあるか?と聞くと、あっさり
「仰る通りです。大変失礼いたしました。完全に私の認識違いで、誤った情報をお伝えしてしまいました。」とAIらしく謝ってきた。ここら辺は人間より素直である。

そこで私が
「コガネムシの幼虫はいなかった。またネズミなら皮を残すようなことはせず、もっと大きく食べてしまうのではないか?」
と聞くと、これもあっさり撤回し、そして
1. オケラ(螻蛄)
2.ネキリムシ(カブラヤガなどのガの幼虫)の成長したもの
を言ってきた。
「そういうものは地中にいなかった」との指摘に、
「コガネムシの幼虫と違い、ケラやネキリムシは非常に動きが早く、逃げ足が速いです。」と返してくる。
「ネキリムシは動きが早いとは言えない」と言えば、
「重ね重ね、本当にその通りです。度重なる私の不勉強な回答により、不快な思いや混乱をさせてしまい、心からお詫び申し上げます。」といつものパターン。

つぎにchatGPTに同じ質問をぶつけてみた。
「写真だけで断定はできませんが、犯人として最も疑わしいのはネズミ類(ハタネズミ、ドブネズミなど)です。」
「私(AI)が写真を見て少し気になるのは、食害というより「腐敗した組織が崩れた」ようにも見える点です。」
これらの回答はGeminiより悪い。

ジャガイモの収穫が終わった後、白ナスの葉にニジュウヤホシテントウムシがいたので写真を撮っていた。
これを使って再びAIの実力を試してみた。
2026-06-13
虫はニジュウヤホシテントウムシと見事に回答。
葉っぱは「ナス」と答えた。根拠に「葉の表面や脈(葉脈)にうっすらと紫色の色味が差している」「中央に小さく鋭いトゲがピッと生えている」という。
写真にそんなものは見えない。
と指摘すると、
「私の完全な思い込みによる誤診です。「ニジュウヤホシテントウがいるからナス科だろう」「ナス科ならナスだろう」「ナスなら葉脈が紫色っぽいはずだ」という先入観に引っ張られ、写真の実態とは違う特徴を勝手に捏造してしまいました。度重なる適当な解説をしてしまい、本当に申し訳ありません。」と謝ってきた。

chatGPTでは、
「ニジュウヤホシテントウやその近縁種が疑われます。ただし画像の解像度では断定まではできません。葉は葉脈や形から見ると、ナス科植物(なす、ジャガイモ、イヌホウズキなど)の葉に見えます。」
「もしこの葉がジャガイモやナスなら、ニジュウヤホシテントウである可能性がさらに高まります。なぜならこの種はナス科植物を食害することで有名だからです。」
と言ってきた。

AIの進歩はこの1年だけでも著しいが、まだ、その回答の真偽は疑ってかからねばならない。
まさに脅威、いや驚異である。

いちばん困るのは、世間の皆が、単純な疑問でも私のいうことよりこちらを信用することである。AIは非常に便利だが、よく間違える。以前から皆(家族や学生など)は、私より教科書や新聞、テレビを信じてきた。もちろん大部分は正しい。しかしそれらは常に正しいとは限らない。
疑い深い私は常にこのことを肝に銘じているが、多くの人はそうではない。彼らは驚くほど素直で、根拠を考えることなしに(私と議論せずに)、単純に私より「権威」のほうを信じる。例えば東大を出たような人間でも私を信用しないから、学力はあっても盲目的に何かを信じる人は多い。
2026-06-13
二十八星天道はテントウムシ科に属する葉食性の昆虫。

28星をニジュウヤホシというのは重箱読みである。なぜニジュウハチボシと言わないのかとgeminiに聞くと
「ハチホシと続けて発音しようとすると、「は」と「ほ」と同じ子音(h)のハ行が連続します。」発音しにくいからという回答に、ちょっと呆れてしまった。

また、なぜテントウムシダマシというか?の答えは
「テントウムシ(益虫)に姿形がそっくりなのに、実際は植物を食い荒らす害虫(偽物)」だからです(gemini)と言う。
テントウムシモドキなら良いが、テントウムシダマシでは人間ではなくテントウムシをだましている名前ではないか? 
これはAIには聞かず、自分で自分に突っ込んで終わりとした。

2026年6月4日木曜日

葛飾郡の範囲、古代から昭和まで

4月に、京成電鉄のお花茶屋に初めて降りて、葛飾区立博物館に行ったことを書いた。
そこでは古墳時代から鎌倉、室町、戦国、江戸時代の葛飾区について展示されていた。
帰宅して葛飾について考え、途中まで書いていたので足してアップする。

葛飾と聞いて何を思うか。
東京の人は葛飾区だが、千葉、埼玉の人は葛飾郡だろう。
千葉県の名門公立高校御三家は千葉、船橋、東葛飾高校(トーカツ)である。
埼玉には北葛飾郡がある。

あとは葛飾北斎か。
北斎(1760 - 1849)は本所で生まれた。本所は今の墨田区である。
名前の通り、かつて隅田川の向こう、本所は葛飾郡であった。しかし、すでに江戸時代から(明暦の大火以降)深川とともに市街地となり、町奉行の支配を受ける「府内」になっていた。討ち入りされた吉良上野介の屋敷、弘前藩上屋敷もあり、勝海舟も本所で生まれている。
明治11年 東京市ができたとき。
隅田川の東、すなわち葛飾郡は田畑がひろがっている。
このあたりは東京府南葛飾郡の隅田村、寺島村である。のちに市街化され、昭和7年になると東京市向島区となり、戦後は南の本所区と合併して墨田区となった。

あらためて葛飾郡について書いておく。
12:44
古代国家の時代(葛飾区立博物館)
いまの東京葛飾区は下総国葛飾郡に属し、下総国府も葛飾郡にあった(いまの市川市国府台)。

葛飾郡の「郡」という単位は律令制で導入された。
すなわち、国―郡―里(時代が下ると郷)という行政区分ができた。

しかし郷は平安時代までで、江戸時代は郡の下は今でいう部落のような「村」だった。
だから生活感覚でいうと郡がいちばん重要な地理的区分だっただろう。

東京近辺の郡を考えてみる。
利根川、荒川が枝分かれしたり合流したりして東京湾に流れ込んでいた地域は、郡の境は川だった。西から足立郡、埼玉郡(武蔵)、葛飾郡(下総)は川に沿って下流から上流まで短冊のように細長い。群馬や栃木の近くまで伸びている。すなわち、
北足立郡は鴻巣まで、北埼玉郡は行田、羽生まで、北葛飾郡は三郷から幸手、西葛飾郡は栗橋、古河あたりまで伸びている。
日本郡地図Ver.1.1.10(郡地図研究会) 
この3郡の南部をいまの埼玉県南部でみてみる。
すなわち草加は北足立郡、すぐ隣りの八潮、越谷は南埼玉郡、またすぐ隣の三郷、吉川、松伏は北葛飾郡である。

さて、上の郡地図は明治中期時点であるが、江戸時代までの令制国で色分けされている。
同じ葛飾郡でも北葛飾郡(三郷、吉川)は武蔵、東葛飾郡(浦安から松戸、流山、野田まで)は下総である。葛飾郡が武蔵と下総にわかれている。なぜか。

さきに律令制では葛飾郡はすべて下総国であったことを述べた。
国の下に郡があるという定義からして当然である。武蔵と下総の境は両国橋という名から分かるように、隅田川が武蔵と下総の境であった。隅田川は、武蔵国豊島郡(浅草)と下総国葛飾郡(本所、深川)の境だった。
(当たり前だが両国の町名は橋の名からつけられたのであり、橋がなければ両国という町名は成立しない)

(ちなみに、今の中央区、千代田区、港区ももとは豊島郡である。しかし江戸時代は町奉行支配地、明治になると東京市になったから豊島郡の名前は行政にも町民の会話にも出てこない。)

ところが、江戸時代に利根川(今の江戸川)の西の葛飾郡は武蔵に編入された。ここで大葛飾郡が二分された。
(律令制はとっくになくなっていても、村の所属郡や令制国の境界変更などは幕府が行ったらしい)

ちなみに、郡のグンは明治以降に統一された呼び方で、当時はコオリ、ゴオリと呼ばれた。(子供のころ、祖父は昔の住所・下高井郡平野村大字岩船は、明治の初めはタカイゴオリ岩船村だったと教えてくれた。50戸ほどで構成されていた岩船村のすぐ上の単位は北信濃に大きく広がる高井郡だった。)
12:48
河川の変遷

ところで葛西という臨海公園や地下鉄の駅がある。
大葛飾郡が江戸時代に武蔵・下総の境で二分されて葛西、葛東となったわけではない。
なぜなら平安時代末期、下総国葛飾郡の南西部を秩父氏の一族豊島氏の庶流が領有して葛西氏の祖となったからである。地名は常に苗字より先である。葛西氏は鎌倉幕府初期の有力御家人だったが、奥州にうつったことは前のブログに書いた。

大葛西郡に話を戻す。
明治になって武蔵は小さな県に分割され、さらに統合されて埼玉県と東京府になった。また下総も千葉県だけでなく、西部は茨城県、埼玉県の3つに分割された。
そして葛飾郡は東西南北中の5つに分割されるのである。

すなわち、明治11年(1878)11月、郡区町村編制法により東京府(1871年12月成立)に編入されていた村々が南葛飾郡となった。
南葛飾郡は昭和7年に向島区、城東区、葛飾区、江戸川区となり東京市の一部となり郡は消滅した。(前2者は戦後、本所、深川区と合併し墨田区、江東区となった。)
ちなみに同日、東京府では荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡・南足立郡も消滅した。

南足立郡と言えば、昔、私は1989年に北足立郡伊奈町に引っ越した。生まれて初めて住む郡部だった。当初、足立郡は南(足立区)と北(川口から鴻巣・吹上まで)とではずいぶん面積に差があったことを不思議に思った。これは足立郡を南北に分けたのではなく、もともと分かれていたもの(東京、埼玉)に南、北をつけただけだったのである。

葛飾郡に話を戻すと、
北葛飾郡は1879年、東京府より1年遅れて埼玉県でも郡区町村編制法が施行されて、発足した。すなわち、武蔵国にあたる部分(これも細長かった)の東京部分が南になったから残った埼玉県部分を北にしただけである。事情は足立郡と全く同じであるから、北葛飾郡は細長く幸手のほうまで伸びている。

下総部分の葛飾郡は先に述べたように千葉県、茨城県、埼玉県となった。このうち、千葉県に属するところを1878年11月そっくり東葛飾郡とした。すなわち、東京湾の行徳から船橋、松戸、柏、そして千葉県の角といわれる関宿までずいぶん細長い。

西葛飾郡は茨城県部分だが、1878年成立、古河が中心だったが猿島郡と郡役所は一緒で境町に置かれ明治29年(1896)に猿島郡に吸収され消滅した。

中葛飾郡は、下総でありながら埼玉県になった部分である。
つまり江戸期の利根川東遷事業によって利根川西岸となった地域のうち、武蔵国に編入されず下総のまま明治を迎えた部分、すなわち幸手、杉戸、春日部のあたりである。

こうしてみると葛飾郡の東西南北中が実際の方角と大いにずれ、かつ大小さまざま、形も悪い。
これは一度に葛飾郡を適切に分けて命名したのでなく、武蔵・下総、東京千葉埼玉茨城によって分割されたという、複雑な経緯による。

葛飾郡は明治に「西」が、昭和になって「南」が消滅しても、「東中北」は東京近郊で依然大きな存在であった。しかし戦後、人口が急増し町村が合併して市が成立し、どんどん郡域は減った。やがて東も中も消滅、今残っているのは北葛飾郡杉戸町、松伏町だけである。ここが隣の市に合併すれば葛飾という由緒ある地名は消滅する。

奈良時代以降、歴史的に最も長い地域区分であった「郡」は東京近郊で消滅しつつある。


20260425 お花茶屋の曳舟川遊歩道と葛飾区立博物館

(20260606 追記)
下総というのは皆、千葉県の北部、また茨城県は常陸と考えているが、それほど単純でない。妻が生まれたのは茨城県取手市、利根川の向こう、文句なしの茨城県だが、下総国相馬郡取手である。
また、もと北相馬郡の彼女は1974年、利根川をはさんだ対岸の、もと東葛飾郡の東葛飾高校を受験し不合格となった。彼女は今回私が教えるまで、53年以上も正式学校名を東葛(とうかつ)高校と思っていた。
合格していたら東葛飾(ひがしかつしか)が正式校名だと知っただろうか、などと考えているうちに、合格していたら大学も専攻も変わり、私とは出会わなかったことに気が付いた。

2026年6月2日火曜日

上野公園14 科学博物館の旧本館、韻松亭


5月2日、次女が「母の日」が近いので我々に食事をご馳走してくれるという。
上野公園の韻松亭になったが、12時まで葛飾で畑のバイトがあるから少し遅くしてくれ、と頼んだら14:00からになった。
時間が空きすぎてしまったので妻と国立科学博物館で暇つぶしをすることにした。
12:44
上野駅公園口からまっすぐの西洋美術館の交差点。

連休の真ん中で混雑するかな、と思ったが実は平気。
なぜなら、65歳以上は西洋美術館と同様、入場無料だからだ。
タダならどんな状況でも不満はない。
12:45
木々の間にクジラのモニュメントが見える。

5月というのは若葉が一番きれいなときだ。
私が18歳で上京した年、初めて上野公園に来たのもこの時期だった。
畑さんに会ったのが東京で初めてのデートだった。
12:46
1930年竣工の本館(日本館)とクジラの模型

子連れの家族をみて、自分は3人の子供を動物園もディズニーランドも科学博物館もつれてこなかったことに気が付く。子育てはすべて妻に任せてしまい、子供たちは私の妹か弟の家族と一緒にここへ来たと思う。

私自身は千駄木に引っ越した年、2013年12月、栗山さんと来た。
12:47
入口は地階。

一般・大学生 630円
小・中・高校生 無料
開館時間 9:00 ~17:00
※最終入場は終了の30分前です。
休館日
毎週月曜(月曜が祝休日の場合は火曜)
年末年始 (12月28日~1月1日)

混雑するのはチケット売り場だが、65歳以上は素通りして入口で身分証明書を見せるだけだから並ぶこともない。
12:48
地下1階。入口を入ると左がラウンジ・カフェ、右がミュージアムショップ。
この階に展示はない

12:49
重要文化財の重厚な建物をみながら1階に上がる。

ちなみに、博物館法でいう「博物館」は公立、私立とも、所管地域の教育委員会の登録を受けなければならない。その意味で上野は「博物館法上の博物館」ではない。ここは「独立行政法人国立科学博物館法」で定められた施設である。
12:49
科学博物館は1872年湯島聖堂に設置された「文部省博物館」を起源とするが、このときは書画、骨董も含まれ、のちの国立東京博物館の起源にもなっている。

1875年、「文部省博物館」は「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。このとき一部が小石川植物園と一緒に文部省管轄となり、1877年上野(西四軒寺跡、現東京芸大の位置)に移転、「教育博物館」と改称、このときが科博の創立年となっている。

(ちなみに大きなほうの国立博物館の所轄官庁は、1881年に農商務省、1886年に宮内省へと変わり、名前も帝国博物館、帝室博物館と改称した)

さて、教育博物館のほうは1889年、 高等師範学校の附属施設となり、敷地を東京美術学校に明け渡して高等師範に隣接する湯島聖堂構内に移転した。1914年、高等師範から独立し、文部省所轄の独立した「東京教育博物館」となった。

1924〜1926年、東京帝室博物館の自然科学系部門であった天産部から動物・植物・鉱物9万4000点の資料譲渡を受ける。
1927年、上野別館竣工(東京帝室博物館が管理していた竹の台陳列館を移築したもの)
1930年、上野新館(現・日本館)竣工。
翌年、東京科学博物館と改称し、いまにつながる。



地階の入り口から一階に上がる。北翼は企画展示室で絵本展のようなものをしていた。
常設展は南翼から始まる。
12:50
最初の展示室・日本館1階南翼に入って最初の展示
田中久重の万年時計である。(別名・万年自鳴鐘、重文、機械遺産)
入場者がワクワクしながら一番最初に出会う展示であるが、これは2013年初めて来た時と変わっていない気がする。

国立科博の500万点以上の資料のうち、常設展では1~2万点が飾られている。その中で一番いい場所に長年置かれているというのは意味があるだろう。

田中(1799-1881)は久留米のべっこう細工職人の子に生まれ、15才の時久留米かすりの幾何学模様を布に織り込む機械を考案。さらには当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となった。
20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。

1834年には大阪に上り、折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、1847年に天文学を学び、1850年には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。この頃に蘭学塾に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。1851年には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う当時の不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動く「万年自鳴鐘」を完成させた。これが今上野でみる万年時計である。

その後、西下して1853年、蘭学狂いといわれた閑叟鍋島直正の肥前佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造、また、反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。

明治になって73歳の1873年、東京に移る。明治8年京橋区に電信機関係の店舗兼工場を設立。明治14年82歳で死去。
久重の死後、養子の田中大吉(田中久重の2代目を襲名)が引き継いで芝浦に「田中製造所」を設立。後に株式会社芝浦製作所となり、東京電気株式会社と合併し、東京芝浦電気となった。のちの東芝である。

若いころからの独創と工夫。最初の展示物にふさわしいと思った。
このあたりは江戸時代の天文関係の展示物が多く、当時の暦もあった。
12:52
貞享暦(1685施行)とその版木
読めない文字が多かったが、逆に自分の暦に関する知識から文字を推定したりするのも楽しい。
しかし、その細かくとも毛筆のような文字をきれいに再現する版木の精巧さに一番驚いた。職人の器用さに加え、硬い板材にも注目される。
12:56
こういうものはこちらに知識がないと面白くない。

近くには天文のほかに関東大震災(1923)の資料が並んでいる。

そういえば、湯島時代の科学博物館はこの地震ですべての建物、資料を失った。1924年3月、関東大震災に関する資料などを調査、収集した物を湯島聖堂構内に建てられた仮建物で公開した。
13:00
今村式2倍強震計
地面の東西、南北、上下の振動3成分を2倍に拡大して同時に煤紙に記録したもの。
今村明恒は東大助教授時代に関東では周期的に大地震が起こると予想し、それが雑誌、新聞に大々的に取り上げられたことから教授・大森房吉らから「世間を不安に与える浮説」として批判された。しかし、実際に地震が起きたことで一気に彼の名声は高まり、この年に死去した大森の後を継いで東大地震学教室の教授となった。私のこの知識は吉村昭の小説「関東大震災」による。
12:53
地震動軌跡模型
これは関東大震災ではないが、関谷清景(東大地震学教室初代教授)が明治20年東京での地震の円盤地震計の記録を基に、地面の動きを再現したもの。時間の次元が入った空間の動きを静止した立体であらわすのは、映像がなかった時代、独創的だったのではあるまいか?
地震学というのは予知という点で無力だが、記録することはできる。

二階に上がる。
生物標本がいっぱいある。
13:03
各地のイノシシ
近年クマとともにテレビでニュースになっているイノシシの大きさが分かって良かった。
しかし、地域によるばらつきなのか個体差なのか、統計的な数字も欲しかった。
13:08
地震の大きさと震源の深さ
分厚いアクリル板の中に点を置くことで二次元での地震帯だけでなく、三次元的な帯も表現されている。
13:09
1600まで年輪を数えてある屋久杉。
13:10
年輪は外側の樹皮の形成層が細胞分裂してできるから外が新しい。
だから年輪は内側から数えるのが理にかなっている。それが1600あったら「1600年前に生まれた」というより「1600回目の年輪をつくった」と解釈するべきである。同じことだけれども。
13:11
ヒグマ、タンチョウツル、キタナキウサギ、アカギツネ
いずれも北海道。
日本の狐はアカギツネというらしい。北海道のはキタキツネ、本州のはホンドキツネという亜種だとか。

最上階の3階は鉱物標本がある。
剥製よりこういうものが好きな子供は多いだろう。
小学生のころ、箱山の石英や、桜沢の水晶を自転車でとりに行ったころを思い出す。
数年前、車で現地を訪ねたが、もうどこだったか分からなくなっていた。
13:15
石英(煙(けむり)水晶)
甲府産
「ふつうのガラスとは違う石英の「ひんやり」した感触が分かるだろうか。また本当の結晶面は完全に「つるつる」ではなく、結晶が成長していくときに作る細かい縞模様や凹凸があることにも気づくだろう」
でも、みんなでなでていたら「つるつる」にならないのかな?
ひんやり感は同じ大きさのガラス塊を隣においてくれないと分からない。
13:15
あられ石 島根県産
こちらはケースに入っている。
成分はCaCO3だからSiO2の石英とは全く違い、石灰岩、大理石と同じである。

13:19
葉っぱ(シダ類?)の化石
こういう有機物がなぜ石になるのかまだ分からない。
葉っぱは水分とセルロースでできていて、セルロースは微生物で水と二酸化炭素になる。
微生物がいないとセルロースが炭化して残るのか、あるいはセルロースが消えても接触していた泥の面が跡として残っただけなのか、後者のような気がする。

13:23
アンモナイト
骨や貝殻はCaCO3などだから酸性でなければ残る。
アンモナイトを北海道などで専門に(趣味で)採集し続けている人がいることを知った。

13:27
3階、南翼と北翼の間
13:29
1930年竣工の日本館(旧本館)は上から見ると飛行機の形をしている。
当時の科学の粋を集めた象徴だったのだろう。
南翼、北翼の呼称もここで生きてくる。

13:33
このあたり、日本人の祖先の暮らしの展示。
人形が生きているようにリアルである。
写真が実物を忠実に再現したように、近年の技術は立体像をも限りなく実体と近づけるだろう。
13:33
30年以上昔、アメリカの博物館で動物や人物の写実性に感心し、その制作に携わる美術関係者の技術に思いをはせたが、いまはコンピュータがある。

一角に人混みがあった。
13:33
近づくと江戸時代のミイラだった。
谷中三崎坂の遺跡というから、家のすぐそば、千駄木団子坂の向かいである。

ごく短時間に覗いたくらいだったが日本館を見終わり、入口のある地下1階に降りた。
13:39
クジラカフェ
五月の連休である。
大人はこういう混んでいるところは食べたくないが、子供は何でも食べたい。

地球館のほうに歩いて南側の外に出て、レストランのほうもいってみる。
前回、2013年に初めて入ったときの記憶を呼び出したかったからだ。
13:45
レストラン・ムセイオン
「待ち時間の目安:60分」とあった。

券売機またはwebで受付を済ませて、また展示を見に行ってもいいようだ。
しかし何分後に案内されるか、正確な時間は分かるのだろうか?
スマホにお知らせでも来るのかな?
13:45
「お呼び出し済みの受付番号」が16組もいる。
それらのテーブルは空けて待っているのだろうか?
かはくカレーライス 1000円 
牛フィレ肉ステーキ丼 1800円
ローストビーフプレート 2300円

13年前はカレーを食べたことを覚えている。

こちらは14:00に韻松亭なので、見学を切り上げることにした。
13:46
出口に急ぐ途中、地球館がちらりと見えた。

一部しか見られなかったが割と面白かった。
近いうちにまた来よう。

家族連れのにぎやかな上野公園イベント広場から中央通りを通って韻松亭にきた。
13:58
まだ次女一家は来ていなかった。

私は2013年8月以来2度目だが、妻はママ友のランチ会で何度も来ているらしい。

トイレに立った時、少し写真を撮った。
湯島の江知勝など、記録する前にいつのまにか閉店、壊してしまったからである。
15:26
外を見ながら並んで食事できる席がある。
15:27
階下の帳場
15:27
斜面に建つから庭のあるところが二階になる。
15:27
よく考えたら、ここは江知勝とちがって、閉店したり建て替えたりしないかもしれない。
なぜなら、明治8年開園と同時に創業のため、特例として東京都から営業を許されているはずであり、建て替えは許可されないだろう。雨漏りの修理すら不自由だと以前、新鶯亭だったか茶店の人に聞いたことがある。だから、建て替えたら営業許可の更新はなく、古いままの店舗で営業しているのだろう。
春日通りに面してマンション用地として売却してしまった江知勝とは事情が違う。
15:27
16:17
ごちそうさまでした。

外に出ると外国人を含む観光客がいっぱいいた。
以前来たときは歩いて帰ったのだが、年のせいかその気が起きなかった。
科博がみえる西洋美術館の交差点は相変わらず人で混雑していた。
2歳になる孫は父親の手を引っ張って、あっちへ行ったりこっちへ行ったりなかなか駅につかなかった。


 20210305 上野公園9 韻松亭から精養軒、梅川亭を歩く

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