2026年3月25日水曜日

野田5 飯田市郎兵衛、キノエネ醤油とローズハイツの匂い

3月12日、野田市を歩いている。

幸い私が歩くところは外国人どころか日本人観光客もいなくて雰囲気が良い。

野田は銚子とともに醤油の産地として習ったが、実際来て高梨本家から茂木一族の各豪邸、キッコーマン本社など見て歩くと、その存在感は関東の醤油同様、じつに濃く、何本もブログを書いた。それでも書いてないことがあった。

1781年、野田の醤油醸造仲間は7軒であったが、1824年には19軒に増えた。江戸への近さに加え、醸造先進地の上方に負けぬまでの技術向上があったのだろう。

そして明治20年、主な14家による野田醤油組合ができた。その組合には参加しながら、大正6年、有力8家による野田醤油株式会社(のちのキッコーマン)が成立したとき、大手でありながら唯一参加しなかった醸造家がある。白木屋・山下平兵衛家である。1830年(天保元年)に山下家第10代が創業、いまもキノエネ醤油で知られる。現社長は平兵衛を襲名せず、山下博之氏。

キノエネ醤油は茂木一族が占める市内中心部から流山街道を愛宕神社に向かって歩くと左側にある。

12:19
キノエネ醤油
キッコーマンが近代的なタンクの並ぶ食品工場であるのと対照的に、昔ながらの醸造蔵という雰囲気。醤油の町という野田の景観は、絶対王者キッコーマンでなくここが残している。
12:20
正門のそばの建物は事務所兼主屋
特に立派なわけではないが明治30年(1897)建築、2020年に国登録有形文化財に指定された。2022年から直売所がオープンし中が見学できるようになったが知らずに入らなかった。
12:20
道に沿って蔵が並ぶ。
妻部分の壁に「子・きのへ」と書いてある。
本来「きのえ」は陰陽五行説の木火土金水の5つそれぞれを二つ(陰陽、兄弟)に分け、十干(甲乙丙丁、、)に当てはめ、たとえば甲、乙を木(き)の兄(え)、弟(と)とし、きのえ、きのと、とした。
さらに十二支(子、丑、寅、)と合わせ、年の名前にした。すなわち甲子(キノエネ)、丙子(ヒノエネ)などである。

だから子はネでありキノエとは読まない。しかしキノエ醤油とも言ったようで、それがこの壁の文字になったのだろう。

ちなみに創業の1830年は庚寅(かのえとら)であり、甲子(きのえね)ではない。また、山下平兵衛商店がキノエネ醤油合名会社となった昭和11年(1936)も丙子(ひのえね)である。

このあたり、みそ、しょうゆの匂いがする。
キッコーマンの近代工場では感じなかった懐かしさがあった。
その懐かしさは子供のころではなく、もっと大人になってから嗅いだ匂いだった。

少し不思議な気持ちになりながら近くにある野田醤油発祥地という場所に行ってみた。
12:26
野田の醬油発祥地
亀屋・飯田市郎兵衛の蔵があった場所である。
野田市の公式サイトやネットでは室町時代の永禄年間(1558から70)に飯田家は川中島御用溜醤油と称して甲斐武田氏に納めたという。しかし当時野田は後北条氏と関東管領上杉氏の争っていたところである。また野田の醤油(豆油)が武田氏支配の甲斐、信濃あるいは駿河、上方と比べて特に優れていたとも思えない。だから史実としては考えにくく、私は江戸時代の創作だと思っている。
川中島は信州千曲川と犀川の合流点だが、江戸川、利根川にはさまれた野田の地形をいったのかもしれない。その名前から生まれた話か、あるいは飯田家先祖が信州から来たか(つまり野田とは関係ない)、つまり武田とは全く関係ない話なのかもしれない。

と、ここまで書いたら深井吉兵衛氏の「醤油の由来とその発達」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1915/48/10/48_10_378/_pdf
で武田文書にその記述があるとの文章を見つけた。当時の野田近辺の目吹城にいた佐々木義信が甲斐武田氏に属していたというのである。

ま、その昔はさておき、近代の話にする。
この場所にあった旧亀屋の醸造工場は、飯田家が1853年に醤油醸造を廃業した後、茂木房五郎家にわたり、野田醤油(株)を経て最終的にキッコーマンとなった。
大同合併と近代化により合理化がすすみ、この日歩いてきた野田の各所でキッコーマン管理の広い更地、駐車場をみた。
この元飯田家の醸造蔵などはまっさきに不要となったはずである。かつては北側の山下平兵衛商店(キノエネ醤油)と地続きであったと思われる。しかし、この祠のスペースを残し住宅地などになり、すぐ隣にマンションができていた。

そのマンションが気になった。

結婚したころ、妻の伯母夫婦が野田に住んでいた。
伯父は、妻の実家一族の本拠地、竜ケ崎で会社を経営していたが、業績が悪化した。本人たちは子供がなく年も取ったので、会社と南柏の自宅を処分、従業員たちに十分退職金を出して、自分たちは野田にマンションを買った。キッコーマンとは何の関係もなかったのになぜ野田だったのか分からない。

妻は子供のころから可愛がってもらっていたようで、結婚して1986年1月、1987年7月と2回、遊びに来た。その後、伯父が脳梗塞を患い、こちらの足が遠のいた。1993年1月、里帰り出産した妻と生まれたばかりの次女を自宅に連れてくる途中、野田に寄った。長女と息子のどちらかが風邪をひいていて、年寄りにうつすとまずいというので、妻が赤ん坊の顔を玄関で見せることにして、父子3人は道路上の車で待っていた。
小雪が舞い、醤油の匂いがした。

薄情というか、(私は)その後はお見舞いにもいかず、2005年伯母がなくなった。安孫子の葬祭場で福祉の女性に車いすを押された伯父に会った。彼は言葉も発せなくなっていて、翌年亡くなった。18年ぶりだった私が分かったかどうか。
(グーグルビュー)
左:キノエネ醤油
右:ローズハイツ野田愛宕B棟

伯父伯母の家は3回行ったけれども、自分で車で運転していったのは93年の1回だけ、それも妻のナビだから、道順、マンションの場所は全く覚えていない。
しかし、今回野田を歩き回って醤油の匂いがしたのはここだけだった。

後ろ髪を引かれる思いで帰宅、妻に伯父伯母の住所を聞いたら、やはりここだった。
その時生まれた次女は今年34歳、二人目の子がおなかにいる。


2026年3月22日日曜日

野田4 豪邸巡り(2)茂木家一門と歴代社長

3月12日、野田市の高校へ講演にきたが、少し歩いただけで野田市というのは全体がキッコーマンという特殊な市だということが分かった。

高校生に危険ドラッグすなわち大麻と覚せい剤の話を1時間50分してから、野田市の散策を再開した。

高校の向かいにあった茂木家の表札は「茂木佐平治」であり(前のブログ)、現当主の襲名前の旧名を書かれるより、つまり個人名よりも肩書のほうが表札には便利ということがわかる。

その前を南に向かって歩く。
右側は樹木が茂り中が見えない。
突き当りを右に曲がるとやはりキッコーマンの管理地。
11:59
グーグル地図を見ればキッコーマン研究開発本部とあるが、更地になっている。
その向かいは厳島神社弁財天とあるが、社有地で入れない。

「150メートル先左折すればキッコーマン国際食文化研究センター」という矢印。 
その方向に右折。
12:01
左側は地図では野田小型運送(株)だが、注意書きや看板はキッコーマン研究開発本部である。
名所マークの旧野田醤油の第一給水所はこの中にあるらしい。

いっぽう、道の右側はモダンな茂木佐平治邸とは逆の歴史的豪邸。
12:02
茂木七郎治邸

12:02
表札はないがグーグル地図で確認した。

道は突き当り、左折して南へ行けばキッコーマン国際食文化研究センター、茂木本家美術館に行くようだが、北への道に惹かれて右折した。
12:03
左:茂木本家(茂木七左衛門)
右:茂木七郎治家

本家は塀に沿って蔵がある。
角を左折した。
12:04
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

幸い私が歩くところは外国人どころか日本人観光客もいない。
12:05
茂木七左衛門(本家)正門
豪邸というより大名屋敷である。

本家正門の反対側(南)には茂木本家美術館がある。
この時期ちょうど当館の誇る北斎の「冨嶽三十六景」が展示されていたようだ。
誰もが知る「大波」「赤富士」など売れ行き好調だったため当初36図の予定だったが10図を加え、46図で完結したらしい。今回は全46図を一堂に展示している。

ちなみに美術館の創立者は12代当主茂木七左衞門(1907-2012)。若い頃から美術品を蒐集し2006年に開館した。近世から現代まで幅広く、北斎や広重などの浮世絵のほか、横山大観、梅原龍三郎、中島千波など約4300点を収蔵する。その財力おそるべし。
12:06
左:茂木本家
右:キッコーマン新研究開発棟

右の新研究開発棟の敷地は途中まで入れるようになっていた。
12:08
向こうに鳥居、左に古い門があった。
地図を見れば茂木七郎右衛門家
鳥居は亀甲萬琴平神社、毎月10日に一般公開されるらしい。
茂木本家も敷地内に稲荷神社がある。

本家と新研究開発棟の間の道を行くと朝歩いた県道(流山街道)に出た。
すなわち興風会館、キッコーマン本社、千秋社の並ぶ通りである。
千秋社のわきの道をのぞいたら、さっき見た七郎右衛門家の古い門が見えたので入っていった。もうここらはすべて茂木一族の私道であろう。
お屋敷があった。
12:12
茂木七郎右衛門家(たぶん)と昔の門(右)

ここまで茂木一族の豪邸を5軒みてきたが、ここで整理しておこう。

最初に野田の歴史で出てくるのは
1.茂木七左衛門、本家・櫛型屋(1)
高梨本家が醤油製造を始めた翌年(1662)、初代が野田でみそ醸造業を始める。
高梨本家とは違ってそれ以前の歴史はよくわからない。
この家は1766年、醤油醸造に切り替えた。

2、茂木佐平治・亀甲萬印(2)
1688年、本家初代の二男が分家。
当初は穀物商だったが、3代佐平治(1729-1807)が1782年に醤油醸造を始め、のち成功して本家をしのいだ。
4代目は幕府御用醤油造を命じられ(1838)、4代目、5代目と地代官を務めた。明治になって茂木学校を建てて寄付したのは、この家の6代目である。
キッコーマンがこの家の商標を社名にしたのは、統合前の出荷量が圧倒的だったのだろう。

茂木利平家 
1863年、佐平治家から分家し、味噌醸造を始め、1872年より醤油を専業とする。

3.茂木七郎右衛門・柏家(3)
1764年に本家4代・七左衛門の夫人が孫娘を連れて隠居分家、この家をおこし、1768年に22代高梨兵左衛門の嫡男を養子に迎えて醤油醸造を始めた。
この家は明治になって高梨周造家、高梨孝右衛門家の工場を吸収した。

ちなみに野田醤油の初代社長は本家ではなく、ここの六代・七郎右衛門である。
この家からは多くの有力分家が出た。
1821年に茂木房五郎が分家して醤油醸造を始める。
1858年に茂木七郎治が分家(4)。
1873年に中野長兵衛が分家(5)した。

カッコの(1)~(5)は写真を撮ってきた5家である。

4. 茂木房五郎・木白家(きはく印)
1821年に七郎右衛門家より分家して醤油醸造を始める。
初代房五郎(茂木広右衛門、 二代目七郎右衛門の嫡男)は、分家した1821年に本家当主・3代目七郎右衛門が野田大火で死んだため、自業を廃し本家の後見となった。
1855年、二代房五郎(茂木広治)が飯田市郎兵衛家の工場を借り受け醤油仕込を始め(飯田市郎兵衛家は1853年に醤油醸造を廃業)、1872年、自家醸造に復す。
1884年、三代房五郎が借り受け中の飯田市郎兵衛家の工場を買い取った。
この家から
1877年に茂木啓三郎が分家(誉家)。
1906年に茂木和三郎が分家。

5. 茂木七郎治家・かね七
1858年に七郎右衛門家から分家。
初代は三代七郎右衛門の二男。質商を始め、財を成した。

6、 中野長兵衛家
1873年、5代七郎右衛門の二男(6代七郎右衛門の弟)が七郎右衛門家から分家、中野長兵衛家を興こした。醸造はせず醤油問屋を営んだ。
先代長兵衛の養子となって家督を継ぐ、と人物興信録昭和9年版にあるが、https://dl.ndl.go.jp/pid/1078694/1/244、これだと中野家というものがあったことになる。
この中野家というのがどういう家だったのか調べきれなかった。
茂木、高梨一族が大同合併した野田醤油(キッコーマン)の14人の歴代社長のうち3人がこの中野家から出ている。

7.茂木勇右衛門家・向店
1822年に本家6代七左衛門の二男が分家して醤油醸造を始める。
妻は3代七右衛門の娘だった。

以上、茂木一族の全体を見た。

明治20年(1887)成立した野田・流山の醸造家14軒からなる野田醤油醸造組合は、
高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木七郎右衛門、茂木佐平治、茂木勇右衛門、高梨孝右衛門、茂木利平、都邊與四郎、山下平兵衛、秋元三左衛門、堀切紋次郎、浅見平兵衛、竹内清三郎、島村勝三郎の14家。

大正6年(1917)の野田醤油株式会社設立のメンバーは
ウィキペディアでは「茂木一族と髙梨一族の8家」、キッコーマン公式サイト・しょうゆの歴史では「野田と流山の醸造家8家」などネット情報ははっきりしない。
すなわち後に社長を出す中野長兵衛家と流山の堀切紋次郎家のことである。

及川怜 常磐総合政策研究 第15号(2025年4月)を見れば

1917年9月、11代茂木七左衛門の家に28代高梨兵左衛門、9代茂木佐平治が集まり、株式会社設立を目指して協議。
同年10月には、商標を有力銘柄である佐平治家の亀甲萬にすることが決まり、10月19日に茂木七左衛門の家において、株式会社の合同が成立した。
調印メンバーは
茂木七郎右衛門、高梨兵左衛門、茂木七左衛門、茂木佐平治、茂木房五郎、茂木勇右衛門、茂木啓三郎の7家であり、合同の際には上述の他に立会人として茂木廣、中野長兵衛、内田久次郎が参加した。さらに、11月20日に流山の堀切紋次郎の醤油部も無条件で合同に参加した・・
とある。
つまり、中野家を除く茂木一族6家プラス高梨、堀切であり、堀切家の残った味醂部は万上味醂株式会社(1925年野田醤油と合併、万上本みりんのブランドは残す)となった。

一族8家(堀切家は古くから高梨家と縁戚関係にあった)の合同設立という経緯から、同族経営の弊害を防ぐ工夫がなされている。

「創業8家のキッコーマンへの入社は1つの家から1人に限定する」
「創業8家出身であっても入社後のえこひいきはせず、役員や社長にする保証はしない」
「社長は特定の家で独占せず、一番経営能力のある者を選ぶ」
「創業家は社長の人事に口出ししない」
これらは茂木家・高梨家・堀切家にそれぞれ残されていた家訓を吟味し、一族共通の17条の家憲として1919年に成文化した。

野田醤油ーキッコーマン醤油ーキッコーマンの歴代社長は
1.茂木七郎右衛門:1917 - 1929
2.茂木七左衛門:1929 - 1943
3.茂木佐平治:1943 - 1946
4.中野栄三郎:1946 - 1958
5.茂木房五郎:1958 - 1962
6.茂木啓三郎:1962 - 1974
7.茂木佐平治:1974 - 1980
8.茂木克己:1980 - 1985
9.中野孝三郎:1985 - 1995
10.茂木友三郎:1995 - 2004
11.牛久崇司:2004 - 2008
12.染谷光男:2008 - 2013
13.堀切功章:2013 - 2021
14.中野祥三郎:2021 - 現職
である。

14人のうち、11,12代以外は創業家。
ここで5代社長は茂木房五郎、その分家・茂木啓三郎は次の6代社長になっている。

この房五郎家は1821年に七郎右衛門家より分家した。
今まで歩いてきたところに屋敷はない。
グーグル地図を見たら北隣の愛宕駅のすぐそばにあった。
それを見て帰りの電車に乗ればちょうどよい。

本町通り(流山街道)をいくと途中、交差点の角に割と大きな神社があった。
12:28
愛宕神社
愛宕は秋葉とともに火伏せの神として各地に祭られているが、この神社は東武線の駅名になったこと以外知らない。

キッコーマン5代目社長の祖先、初代茂木房五郎は分家した年に本家当主・茂木七郎右衛門3代が野田大火で焼死したため、自業(きはく印)を廃し本家の後見となったことは書いた。天保の大飢饉の際には茂木一族にも声をかけて窮民救済に乗り出し、自らは夫人の珊瑚のカンザシまで売るなど私財を投じて尽力した。その結果、この愛宕神社に木白祭神(きはくサマ)として祀られ、祠の脇に「木白神霊碑」が建立されたという。

また、キッコーマン6代目社長の茂木啓三郎の祖先すなわち房五郎家から分家した初代は明治35年の冷害で困窮する農民のため、救済事業として境内に井戸を掘ったり、隣接する敷地に愛趣園を作ったりした。

しかし愛宕神社境内には寄らず、まっすぐ房五郎邸を目指した。

ところが愛宕駅そばの現地に着いたが何もない。
12:36
茂木房五郎邸跡
野田線の高架工事とそれに伴う再開発?のため、更地になっていた。

グーグルストリートビューに昔の房五郎邸の蔵と高架前の愛宕駅が映っていた。
(2018年8月)

豪邸巡りの、茂木一族最後の屋敷の訪問は思わぬ形で終わった。

(続く)

2026年3月19日木曜日

バーナリゼーション(春化)とキャベツ、ロマネスコ


2026-03-11
7番畝、第二次大根にトウがたってきた。
ダイソーで種を買った宮重総太り大根は、第一次9本、第二次8本。第三次は紅三太2本、トウ立ちの遅い三太郎を8本、合計27本。
人にあげても消費しきれない。

大根はトウ立ちから1週間くらいすると外皮のすぐ内側で輪状にめぐる網目状の筋(すじ)が太く硬くなる。ヘチマの網のようになって口に残り、可食部が減るだけでなく料理が面倒になる。

そこで例年この時期になると庭から抜いて冷蔵庫に入れたり、土に埋めたりして成長を止めてきた。

庭のほかのアブラナ科もトウ立ち真っ盛り。
2026-03-16
トウ立ちに続いて花が咲く。
もちろんこれは観賞用ではなく食べるために育てたものだが。
迷わず廃棄処分。
菜の花の美しさは、本体よりも周りの景色が大事ということがわかる。

秋に種をまいた野菜すなわち大根、白菜、小松菜などのアブラナ科、レタス、春菊などのキク科、ホウレンソウなどは秋に成長し、冬にいったん成長を止めるが、春になると活動を再開する。ところが、それまで次々と葉っぱが出ていた生長点からは花芽がでてくる。

専門語としては抽苔(ちゅうだい)という言葉がある。(苔はコケではなく薹の代わりの字で、花の付く茎を表す)。
ネットを見ればどのサイトも抽苔は「トウ立ち」という現象を表すようだが、日本語では後ろの苔が中心となるため、伸びた薹すなわち「トウ」を表す言葉だと思う。

また、バーナリゼーション(Vernalization)という言葉もある。
verはラテン語の春だからそのまま訳して「春化」というが、「春になっておこる植物の変化」という意味ではない。(変化するのは当り前で広範にわたるから言葉は作れない)。
バーナリゼーションとは低温処理、あるいはその結果起こる現象(トウ立ち)のことを言う。
2026-03-16
カブのトウ立ち
カブは大根と同じアブラナ科でも、属がちがう。
ダイコン属ではなくキャベツ、小松菜と同じアブラナ属である。
しかしトウ立ちすると大根とそっくりの場所にそっくりな網目状の筋が出てくる。

白菜、大根など秋冬作物の多くは葉物野菜だから春になってトウが立って花が咲く現象は、生産者にとっては厄介者でしかない。しかし、秋にまく冬小麦はバーナリゼーションがなければ結実しない。

バーナリゼーションはソ連の1920年代から30年代にかけて活躍した農学者ルイセンコが発見した。
冬小麦は冬が厳しすぎると枯れてしまう。かといって春まき小麦(別種)は収量が少ない。そこで人々は冬小麦を春にまいたが、育つばかりで実がならなかった。
ところが彼は種を(冬を経験させたような)低温処理すると春にまいても結実することを発見した。

だからバーナリゼーション(春化)は春の状態にする変化というより、秋冬品種を春品種に変えるという意味の言葉だったのかもしれない。
(そして彼は温度という環境が品種を変える、すなわち獲得形質の遺伝という結論に至った。まだDNAが遺伝子だと知られていなかった時代である)。

2026-03-16
3番畝、紅三太もトウ立ち。
ネット内にある三太郎8本はまだトウ立ちしない。

生物には個体の成長と子孫を残す複製という二つの機能がある。
これらは同時にできない。植物なら、葉っぱ、茎の増量と、続く開花、結実という二つの現象のことだ。
動けない植物の場合、これらは季節にリンクせざるを得ない。秋に発芽、成長した植物は冬の間、低温のため成長が鈍化する。そして春になって成長を再開するが今度は開花、結実に専念する。
この切り替えが低温である。一過性の低温がないと開花に向けたスイッチが入らない。
これは植物が進化の末に獲得した生存戦略である。
この仕組みは近年、分子的にかなり良くわかってきた。

多くの植物は、はじめは個体成長に専念させるため、FLC(Flowering Locus C)遺伝子産物が開花を抑制している。それが低温にあうとFLCの働き(ブレーキ)がなくなる。エピジェネティクス、すなわち環境の遺伝子発現に対する作用である。するとそれまでFLCによって抑えられていたFT遺伝子(Flowering locus T)が動き出す。

昔から、葉が春になって日照時間や温度などを感じて開花へのスイッチを入れる物質としてフロリゲン(花成ホルモン)というものが想定されてきたが、2000年代に入り、FT遺伝子の産物こそがフロリゲンだと分かった。

ちなみに現在、冬小麦と春小麦の違いは、主に開花抑制遺伝子(FLC)とFLC抑制遺伝子(VRN1, VRN2 など)のプロモーター領域の変異によるものだと判明している。
2026-03-16
2026-03-16
4番畝 白菜も花芽がでてきた。

千駄木菜園でこれが大きく関わっているのがキャベツである。
最初に種をまいたのは2016年5月。ダイソーで買った2袋100円の種である。順調に生育したが無残なまでにコナガにやられ、収穫まで至らなかった。
そこで、以後、同じ種を虫の少なくなる秋にまくことにした。越冬させ翌年5~6月に収穫するのである。

このとき早くまくと、バーナリゼーションで春先にトウが立ってキャベツにならない。
そこで本葉数枚の幼い苗で越冬させる。すると春になってもトウが立たず、温度が上がることで葉の成長が進み、この間全くトウ立ちはない。

これはどういうことかというと
幼若段階では、FLC遺伝子に対する低温依存的なエピジェネティック抑制(ヒストン修飾)が十分に確立・維持されない。そのため、低温によって一時的に発現が低下(ブレーキ解除)しても、温度上昇後にFLC発現(ブレーキ)は再び回復してしまう。
また、FLCブレーキをはずすVRN1, VRN2, VIN3 といった春化関連遺伝子はある程度成長していないと発現しない。

いっぽう、成長して越冬すると、ブレーキをはずす春化関連遺伝子が低温によって発現し、FLCというブレーキがはずれる。具体的にはFLCが巻き付いているヒストンをメチル化し、FLC(=ブレーキ)を永続的に働かなくする。

さて、バーナリゼーションを回避しながら2016年秋から千駄木で毎年作ってきたキャベツである。
今年は10年目にして初めて種が発芽しなかった。
何が悪かったか分からず、もちろんダイソーに文句を言うわけにもいかない。

キャベツ用に使う予定だった6番畝がそっくり空いてしまった。そこで同時に気まぐれで種まきしていたロマネスコとのらぼう菜の苗を植えた。
2026-03-16
6番畝 ノラボウナとロマネスコ

キャベツとロマネスコは生物種としては同一(Brassica oleracea )である。

冬に入るとき苗は非常に小さく、キャベツならばバーナリゼーションは起きない大きさだった。しかしキャベツと違ってロマネスコは、ブロッコリー、カリフラワー(これらもキャベツと同一種)と同様、最初から花芽(頂花蕾)が出てくる栽培品種なのである。
トウ立ちなどの心配はまったくなく、むしろ期待して楽しみにしていた。
2026-03-16
ロマネスコの抽苔。
しかしロマネスコとは全く異なる花茎が出て、見たこともない植物になった。
通常のロマネスコと違う大きさで冬を越したせいで遺伝子の発現が狂ったのだろうか?
あるいはF1という商品作物から自家採種のF2になってロマネスコの性質が消えてしまったのか?
あるいは昨年まわりのキャベツ類(同じ生物種)と交配してしまったか?

2026-03-18
カブはトウ立ちして妻は使わないが一応洗った。
キャベツは冬にこの大きさだったが、中でトウが伸びているのか尖ってきた。

野菜つくりは奥が深い。

この近所は相続があると敷地が分割され庭がなくなっていく。
まだ庭がのこっている家も植木や花を植えている。しかしパンジーや菊、梅、桜は、花が咲いている時だけ見られ、植物全体を1年じゅう見ている人はあまりいない。
野菜を何度も(毎年)作り、何ごとかを考えないと、こうした変化の後ろにある植物の進化とか生存戦略に思いが向かわないものだ。

前のブログ

2026年3月17日火曜日

野田3 興風会、千秋社、豪邸巡り(1)

 3月12日、野田市に来た。

キッコーマンの工場に囲まれた野田市駅から真っすぐ西へ歩き、キッコーマン創業家の一つである高梨本家と、醤油を積みだした江戸川の河岸問屋の遺構をみた。

10時から高校で薬物乱用防止講演を頼まれていて、9:45までに会場に行かねばならないため、江戸川から急いで市の中心部まで戻ってきた。

もう時間がないが次々と魅力ある建物が目に入る。
9:28
興風会館
昭和4年(1929)の竣工当時は、千葉県庁に次ぐ大建築であったといわれ、最大506人の客席を持つ大講堂や集会室、地下ギャラリーがあり、現在は市内の文化、体育関係の事務局がおかれているらしい。国の登録有形文化財。
設計者の大森茂は、神田駿河台の明治大学旧校舎を設計した人で、あちらは1996年に解体され、私の記憶も薄れてきて似ているかどうか論じる眼力はない。
9:29
興風会は、ご大典(昭和天皇の即位)を記念して昭和3年に、千秋社(後述)の寄付により設立された(現在の価値で27億円)。その事業の拠点となるべく建てられたのがこの会館である。
以来、野田における教化、厚生、図書館事業などに貢献してきたが、戦後は図書館事業は市に移管、いまは育英(奨学金)、市内学校設備への助成、教育・文化活動に貢献した人への表彰、また生涯学習活動の支援などを行っている。
9:30
興風会館の隣はキッコーマン本社
というか、本社の敷地の一角に会館が建っている。

9:31
本社の隣の道路はキッコーマンの敷地内私道なのか、公道なのかよく分からない。
地図を見れば本社と研究所の間の道である。

すぐそばに、これまた時代がかった建物があった。
9:32
表札には株式会社千秋社とある。
興風会に巨額の資金を提供した千秋社である。

大正6年(1917)に茂木・高梨8家によって野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立された際、これを支援する両家の組織として1925年5月、合名会社千秋社が設立された。
以来、茂木、高梨、中野、石川、堀切の5家によって所有される。
1944年、野田商誘銀行(しょうゆにかけた)と合併し株式会社千秋社に改組した。

ちなみに市内の清水公園は、アスレチックで有名、入園無料のため埼玉千葉の幼稚園小学校の遠足でも人気があるが、ここは明治時代に茂木家が開園したもので、現在この千秋社が所有、管理・運営していることはあまり知られていない。

さて、この建物はかつて存在した醤油業者による銀行、旧野田商誘銀行でありその後、一時、千葉銀行野田支店となったが、1970年、しょうゆう銀行ゆかりの千秋社となった。

地図を見れば、千秋社の後ろ一帯は茂木七郎右衛門家の敷地のようである。

約束の時間が迫ってきたので足を速め、その敷地の角を東に回った。
9:34
キッコーマン社員駐車場
門と塀の様子からかつての工場のように思える。
市内の一等地なのにこの広さ。

講演場所は初めて行くところなのに約束の時間まであと10分。
道を急ぐが、平日の午前の静寂の中、竹刀の音とメーンとかいう声が聞こえてきた。
つい、立ち止まってしまった。
9:36
 野田市春風館道場
かつてはキッコーマンの福利厚生施設だったらしい。2008年に市に寄付され、耐震補強などの改修工事を行ない、2010年にオープンした。

ふと振り向くと道場の向かいは豪邸。
表札を見ると中野とある。
9:37
左:中野邸 右:春風館
千秋社からずっと歩いてきた道の右側は茂木七郎右衛門家の敷地であるが、ここの5代茂木七郎右衛門の子、6代目の弟が1873年、中野長兵衛として分家独立した。長兵衛は兄・6代七郎右衛門の二男を養子にとって中野栄三郎とした。

栄三郎はキッコーマンの野田醤油(株)時代に社長になった(1946 - 1958)。中野家からは中野孝三郎(1985 - 1995)、中野祥三郎(2021- 現職)の3人が歴代社長の14人の中に入っている。

敷地は七郎右衛門家と地続きだから、その中野に間違いないだろう。
しかしなぜ茂木でなく中野なのかは知らない。ちなみに江戸川ぞいの河岸問屋・戸辺家やキッコーマンフードテックのあたりは中野台という。

急ぎ足を再開したが、春風館道場の北側の道路を挟んで向かいに大きな門があった。
よく見れば市の施設である。
9:38
野田市郷土博物館、野田市民会館
火曜休館日だった。
入館無料だが他の日にこの門が開いて、自由に入れるとは信じられないほど立派な門である。
ここは旧茂木佐平治邸である。ネットを見れば博物館は門を入った左手の建物で、醸造関係の資料は国内屈指らしい。敷地の大部分は広大な日本庭園(千葉県初の国登録記念物)
と大正13年建築、国登録有形文化財の旧茂木佐平治本邸である。

本邸は昭和32年から野田市民会館として市民に開放された。この貴重な、贅を尽くした歴史的豪華建造物を、6畳から10畳までの各部屋は1時間100円から240円で、茶室は710円で市民が文化活動に利用できる。
箱モノの代表のような市民会館の概念をぶち壊す。
9:38
門の前の駐車場に市内の地図があり、しょうゆ関連施設が塗り分けられていた。色が薄いな、と思ったら「むらさき」だった。

紫の部分は市中心部の大半を占めている。さらに、塗られていない茂木左公園は名前からして茂木家から市に寄贈されたのだろうし、市立野田中央小学校は明治9年に茂木家が校舎を(多分土地も)寄付したことから茂木学校が正式名称で、明治12年には市内の上花輪、吉春、岩名、横内、山崎に分校が置かれた。明治32年に野田高等小学校と改称したが、これらも紫色でおかしくない。

あわただしく門の前を過ぎ、3分前に目的地に到着。
ふと道路を挟んで向かいに豪邸あり。
9:43
写真だと分かりにくいが、黒い四角は表札で「茂木佐平治」とあった。
博物館・市民会館となった旧本邸の敷地と地続きであり、市民に開放した後、こちらに平屋の豪邸を建てたのだろう。

時間がなく、写真を撮っただけであわただしく道路を渡った。
(続く)

2026年3月16日月曜日

野田2 高梨家と醤油組合、江戸川の川岸問屋

3月12日、野田市を初めて歩く。

人口規模(15万人)、知名度とも千葉県北西部の普通の市と思っていたが、駅のまわりに商店住宅が全くなく、キッコーマンしかないという、ずいぶん特殊なところだと分かった。(前のブログ)

雨に雪が混じるなか、
駅から真っすぐ、県道を西へ、かつて醤油輸送に使われた江戸川を目指す。
途中から外れて旧道を南に歩くと長い黒塀にぶつかった。
8:49
高梨本家旧宅
この四つ角というより四辻を右側に行くと塀と道を挟んで新しい大邸宅がある。
(写真を取り損ねたがGoogleストリートビューで見られる)
その表札を見れば「高梨兵左衛門」とある。

野田の醤油は戦国時代の飯田市郎兵衛にはじまるといわれるが、近世に大発展した野田の醤油づくりは、1661年に上花輪村名主であった19代髙梨兵左衛門を始めとする。翌1662年に茂木七左衛門が味噌製造を開始。(茂木家はその後1764年に醤油製造も始めた)。
その高梨である。

高梨というと信州中野の国人で戦国時代に上杉側について家臣となり会津、米沢までいった家を思い浮かべるが、この野田の高梨家も信州から来たらしい。平安末期、八幡太郎義家の時代で、醤油を始めたときは19代目、すでにこの地の名主であった。

醤油というのは樽の中の味噌の凹みにたまった汁がうまい、ということが始まりだったのではないか? 味噌は豆を煮て塩を混ぜ発酵すればいいから誰でも作れる。しかし醤油はどろどろの味噌用発酵汁をろ過せねばならないから、商業生産するならかなりの製造設備を要する。すなわち代々名主をつとめる高梨家のような財力がないと作れない。

高梨家の旧本邸の長い塀に沿って歩くと大きな門があった。
二重になっている。
すなわち柵のあいだから長屋門が見える。長い塀のラインからだいぶ引っ込んでいる。

8:50
上花輪歴史館として1994年一般公開された。
本日は、火曜、休館
庭園は国指定名勝。
名勝としては、屋敷内全体が文化財という分野で、千葉県で最初の、そして昭和の作庭としては全国で初めてという。確かに多くの名園は明治より前に作られたから、醸造業者の富と当主の趣味、美意識が現代まで続いたというのは珍しい。

傘を持つ手が冷え、メモしようにも手指がかじかんで書けない。
8:52
高梨家の前(道を挟んだ南東側)は刈り込まれた生垣と芝生と瀟洒な建物。
かつては高梨の醤油工場だったのだろうが、今は西洋の牧場みたいになっている。

8:53
墓地は高梨一族のものだろうか。
寒いので先を急いだ。

8:54
林のなかを江戸川のほうに向かって下る先に工場のタンクが見える。
左はキッコーマンの野球場。
歴史の違いか、普通の食品会社とはちょっと景色が違う。

野田市駅の向こう(東)から中心部を経て西の江戸川沿いまでキッコーマンの工場が分散というか広がっている理由は何か。

高梨・茂木は野田醤油の中心であったが、親戚でもあった。23代髙梨兵左衛門は1764年に実兄である茂木七郎右衛門と醸造蔵経営の合併を行うが、1771年に再び別れ、1781年に高梨、茂木が中心となって「野田醤油仲間」を結成した。 
高梨兵左衛門、
櫛形屋・茂木七左衛門、
柏屋・茂木七郎右衛門、
亀屋・飯田市郎兵衛、
杉崎市郎兵衛、
竹本五郎兵衛、
大塚弥五兵衛の7家である。

1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木七左衛門家から分家した茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けた。

高梨本家から幕末に分家した高梨周造家、高梨孝右衛門家も醤油醸造を始めたが、明治になって茂木七郎右衛門に工場を譲渡した。

明治20年(1887)、茂木七左衞門・茂木七郎右衛門・茂木佐平治・高梨兵左衛門・山
下平兵衛などの野田、流山の醸造家の17家は、野田醤油醸造組合を結成した(キッコーマン公式サイト)。前のブログでかいた野田に鉄道(現、東武野田線)を持ってきた主体である。

しかし供給過剰などから経営環境が厳しくなり、
大正6年(1917)には山下平兵衛家(現キノエネ醬油)を除き、茂木一族6家、髙梨、堀切(流山)の8家が大同合併し野田醤油株式会社が設立され、これが後に(1964年)キッコーマン株式会社となった。亀甲萬は茂木佐平治家が使っていた商標であるが、新社の製品は徐々にこれに統一され、ついには社名となった。

すなわちキッコーマンの工場が駅の東から西の江戸川沿いまで野田で広く分散している理由は、市内各地の醸造家が組合を経て合併したからといえる。
8:54
野球場の土手の上は欅の巨木が並んでいる。

道は江戸川に向かって下っていく。
江戸川の堤防の前に古い日本家屋があった。
8:59
下河岸・桝田仁左衛門家住宅

桝田家は、1712年、ここ野田下河岸に開業した河岸問屋。
かつての江戸川舟運の面影を伝える遺構である。

今では考えられないが、鉄道も自動車もない時代、江戸川は関東地方の大動脈だった。たとえば利根川との分岐点である関宿は江戸幕府にとって重要拠点であり、関宿藩には信頼の厚い譜代大名が封じられた。花埋み(渡辺淳一)の荻野吟子も熊谷の在から利根川から江戸川にはいって東京に出た。

醤油生産にとっても、利根川流域は関東一円に広がるから江戸川は大豆を集めるのに都合がいいし、下流は行徳の塩田に通じ、大消費地の江戸につながっていた。

桝田家は醤油の積み出しで隆盛を極めたが、明治44年(1911)に千葉県営軽便鉄道(現東武野田線)が開通、さらに関東大震災後には自動車輸送が広がるなどしたため、昭和13年(1938)に営業を終了した。

この母屋は明治4年(1871)建築という。不動尊の祠、土蔵、脇門、レンガ塀が明治から昭和にかけて築造された。母屋は住居に加えて帳場や船宿といった商用の機能を持った。
低いレンガ塀は江戸川増水時に母屋の水防の役割を担っていたらしい。

江戸川舟運の遺構がほとんど残っていない中で貴重な文化財であり、平成19年に国の登録有形文化財、また日本近代化産業遺産に指定された。

しかし、改修された江戸川の堤防が庭先まで迫り、当時の雰囲気はない。
少し前までは人が住んでいらしたらしいが、無人だった。

庭先を通っていくと奥の空地は防草シートが張ってあり、歩いていくと堤防わきの道路に出た。この道は堤防工事のため通行止めになっていたが、内側に入ってしまったので、なんとか出られるだろうと歩き続けた。
9:03
堤防のすぐわきに茶色の水をたたえた池があり、水中から空気でも出ているのか、噴水のように水が噴き上がっている。
9:04
堤防に上がってみたが、看板などの文字は見えなかった。
想像するしかないが、醤油工場から出る排水を好気性の微生物で浄化して江戸川に流しているのではなかろうか。
醤油は大豆、小麦などを発酵させて作るから、排水には糖、アミノ酸などの有機物が大量に含まれる。これをそのまま川に流したらBODが一気に上がるから、微生物で水と二酸化炭素まで分解するのである。
この液はしょっぱいのだろうかと、ふと思ったが、「キッコーマンもの知りしょうゆ館」を見学できなかったことが悔やまれた。
9:04
江戸川の下流方向
桝田家住宅がみえた。
流路は変わっただろうし、堤防もこれほど高くはなかったから景色はだいぶ違うだろう。下河岸すなわち(桝田)仁左衛門河岸には明治時代の最盛期、50~60隻の船が停泊していたという。

江戸川という名前からも大消費地との結びつきが分かる。
9:06
江戸川 上流方向
タンクのある工場は、文字やマークがないがキッコーマンだろう。
合併前は高梨家の工場だったか。
現在、地図を見ればキッコーマンフードテック中野台工場とヒゲタ醤油野田工場がこの中にあるようだ。

9:10
無事、だれにも会わず(怒られず)立ち入り禁止区域から出られた。

野田橋を渡る県道に出た。
川から離れるように少し東へ歩き、庚申塔のある角で県道から外れて川に戻るように細い道を入っていく。
9:12
キッコーマン工場の裏口。
造りからして昔は正門だったのかもしれない。
松とお堂が門の古さに似合う。

工場の門に向かうように門構えの家があった。

9:14
上河岸 戸邉五右衛門家住宅
桝田家と同様、江戸川の水運を担い、醤油の輸送に携わった河岸問屋である。こちらは桝田家と違って人が住んでいらっしゃり、表札は戸邉だった。
昭和24年の江戸川の改修に伴い、ここに曳家されたらしい。
主な家屋だけ移しただけだから、昔はもっと大きな邸宅、河岸問屋だったのだろう。

約束の時間まであと30分しかないが、まだ高梨家と河岸問屋しか見ていない。
駅から50分歩いて市の中心部から遠く離れたところに来てしまった。
戻るのに精いっぱいで茂木一族の豪邸を見る時間はなさそうだ。

(続く)

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