2019年8月26日月曜日

抜け殻からセミの判別

お盆を過ぎてキウリが生らなくなってきた。
2019-08-15
代わってオクラがやっと取れるようになった。

 長野駅で買った泥ネギ。ネギ栽培に再挑戦中。

2019-08-21
トマトは木が老いて実が割れるようになった。
取れ過ぎて持て余していたが、熱湯をかけると皮がむけて、たくさん食べられる。
2019-08-21
生ごみから発芽した山芋にムカゴ。
まだ小さいが、少し触ると落下するため収穫した。
昨年は9月下旬。
 夏みかんの葉裏に抜け殻
蝉の声はうるさいが嫌いじゃない。
子どものころリンゴ畑で沢山捕まえたのはニイニイゼミだった。
夜、近くの岩水神社にいくと、電信柱や木に上がって脱皮しているアブラゼミがよくいた。朝、まだ幼虫がいないかと、出てきた穴をほってみたりした。
ミンミンゼミは貴重で、その声は中野の町の大きな神社や柳沢に行ったときしか聞かなかった。

お盆が過ぎ、夏休みも終わるころ、ひぐらしが鳴いた。
たいてい寂しそうに一匹だった。
その理由をいま考えた。
ひっきりなしに鳴く他の蝉と比べ、声がたまにしか聞こえなかったということは、本来、ごくたまにしか鳴かず、共鳴もしない種類ということだ。
つまり複数いても、やはり、たまにしか聞こえない。オスが5匹いたとしたら、各自は我々がたまに聞く声の、さらに5分の1の頻度で鳴いていたことになる。

昭和40年代、ニイニイゼミは絶滅した。
農薬のせいか、リンゴ畑の草取りを機械でするようになったからか、あるいはリンゴを株ごと抜き、桃やブドウにしたせいか、分からない。アブラゼミだけ残ったがもう興味はなかった。
アジサイ (取ってから戻して撮影)
今、我が家でうるさく鳴いているのは桜の大木のどこかだが、抜け殻はミカン、アジサイ、柿、フキなど1メートルより低いところにあった。
アジサイ
蛇などの脱皮とちがい、脱いでいる最中もしっかり葉っぱにつかまっているから、殻は相当固いのだろう。しかしよくまあ、手足、触覚まできれいに脱皮できるものだ。殻に反して中身はとても柔らかく弾力なければならない。
フキの葉っぱ 2019-08-25
20年ほど前、息子が袋に殻をいっぱい集めてきた写真を思いだした。
老人は目も悪く、庭は足場も悪く、興味もないので集めない。
ネットで調べると、触覚の形からたぶん
ミンミンゼミ2、アブラゼミ2、不明1
ほぼ鳴き声の比率と一致。

ミニトマトの木も枯れてきた。

2019-08-25 この日はお盆以来の休日。
ふと見ると、アリが生きている芋虫を運んでいた。(拡大すれば見える)
重いからなかなか坂を上がれない。
我が家のヒキガエルが絶滅(たぶん)したせいか、毛虫類が増えた。
アリを応援するため坂をなだらかにしようしたら、多くのアリが生き埋めになった。
埋まらなかったアリは仲間を助けることもなく、運搬を優先した。

2019年8月24日土曜日

ニューシャトルの車両基地と車両番号

8月21日、上尾・伊奈・桶川/子ども大学の引率でニューシャトルの見学に来た。

1970年代、東北・上越新幹線を通すにあたって、国は沿線住民の反対を抑えるために、新幹線と並走する通勤新線の建設を約束した。大宮以南では埼京線、大宮以北はこのニューシャトルとなった。

ニューシャトルは正式には埼玉新都市交通伊奈線という。
1983年12月開業。
愛称は、NASAが1981年から2011年にかけて135回打ち上げていたスペースシャトルを意識している。

大宮から内宿まで12.7㎞が13駅だから駅間は平均12.7/12㎞ 
約1㎞というのは、バス停間隔より長いが通常鉄道より短い。
大宮から8つ目の丸山まで複線で、その先は単線。
車両基地は丸山にある。
大宮を出た東北新幹線と上越新幹線が分かれるYの字の三角部分。

丸山駅がたいそう懐かしい理由は後述。
こどもは上尾、伊奈、桶川の50余人。

子ども大学には2014年から関わっている。


30年以上前、
1988年、東大宮・尾山台団地の2DKで親子3人楽しく暮らしていたが、将来は家を買わねばならないと思っていた。
当時、住宅公団が東浦和、三郷早稲田、東鷲宮で分譲マンションを大規模に開発販売しており、申し込んだが抽選に外れた。バブル景気がまだ続いていて、家は半年で500万円ずつ値上がりし、今買わないと一生買えないという雰囲気があった。

さらに第2子が生まれることが分かり、本格的に家を探し始める。
浦和、与野など大宮以南は高すぎて手が出なかった。
蓮田や上尾など大宮以北であっても駅から歩けるところは高かった。
候補となったのは大宮からバス15分の南中丸の木造物件と、伊奈町ニューシャトル19分志久駅徒歩7分の家。どちらも小さな中古住宅だった。

小さいが土の庭があり、バスでないほうの伊奈町に決め、1989年6月に引っ越した。
しかし埼玉の職場で話題にしても、「北足立郡伊奈町?」「ニューシャトル?」と知らない人がほとんど。実際、路線ができて6年たっても住んでいる人は少なく、陸の孤島と思われていた。
92年には第3子がうまれ、1996年に指扇に引っ越すまでの7年間は、五人家族として成長した。

7年間を通してニューシャトルは30分に1本、つまり1時間に2本しかなかった。 
1駅だけ大宮寄りの丸山駅には県立がんセンターがあり、そこまでは複線で1時間に4本あった。それに朝は始発電車に座れるので、通勤には雨天以外、自転車で志久から丸山まで来て乗った。座席は一両に20人、4両編成だからいかに人が少なかったか分かる。

当時は伊奈学園、県民活動センターの周りは、埼玉県住宅公社が宅地造成のため田んぼに盛り土して数年放置していた。(妻が車の運転を練習したほど)
その後宅地は完成し、また学校もいくつかでき、一気に利用者が増えた。
いまや大宮発の電車は6両編成となり終点内宿まで日中でも1時間に6本もある。

車体は3種類ある。
1050系 1990年から順次導入。6両編成3本在籍
2000系 2007年から順次導入。6両編成7本在籍
2020系 2015年から順次導入。6両編成4本在籍

車両は長さ8メートル、1両1億円とこの日に知る。
6両編成でも48メートル。(新幹線一両が25メートルである。)

私が90年代に乗っていた1000系はすでに引退した。
現在6両編成14本が在籍し、(すなわち84両を所有)、朝のラッシュ時には12本が出動する。
定期的に車検をするからギリギリの所有である。


車体には4桁の番号がついていた。
番号を見ると、意味を知りたくなる。
後ろで見守っている案内社員の方に聞いてみた。

1桁目と3桁目は車両形式 2020系なら2と2
2桁目は1編成の中での番号。先頭は1か6
4桁目は同じ系統での編成の順番。具体的には同じ編成を組む車両は同じ色になるから色の番号とみてもよい。

すなわち
1351は1050系、赤編成の3両目
2621は2020系、赤編成の6両目

整備工場のあとは総合指令室を見学した。

首都圏の大手他社の指令室はテロを警戒し、場所すら明らかにしていないという。
ニューシャトルの場合、場所は秘密にしようがないから、堂々と「総合指令室」と看板があったが、写真撮影は不可であった。

交代で二人が24時間勤務。
路線が単純だから全車両の走行状況把握、コントロールは他社路線より簡単だろう。
しかし、人員を徹底的に合理化しているから、各駅の監視のほうが大変かもしれない。

正面のモニターには 8 x 8 = 64 個のモニター。
多くは大宮駅だが、残りの12駅には改札に2つと、上りホーム、下りホームの4か所にカメラがある。
ニューシャトルはワンマン運転、駅には地元のパートらしき高齢女性が一人いるだけ。だからモニターに異常があれば、各駅の高齢オバサン、運転手など関係部署に指示がとぶ。
その彼女らも勤務時間が限られ、また持ち場をしばしば離れ、無人状態となるから、切符を買う人などや駅で待つ一般人が業務回線で電話してきたときにも対応せねばならない。

モニター動画は警察の捜索にも役立っているらしい。
朝はほとんど出払うが、日中は何本か基地に帰ってきている。
ニューシャトルは夜間全両が丸山基地に戻り、駅などで夜明かしする車両はない。

おそらく参加者の中で最も古くから乗っているだろう。

見学会の最後は車両洗浄を社内で体験する。
運転してくださったのはとっても可愛らしい女性。
待機線路から出るにあたり、総合指令所に連絡、許可をもらってから出発進行。
埼玉新都市交通(株)の運転手は45人。そのうち女性は5人という。

洗浄装置をくぐると窓にかかる大量の水に子供たちは大歓声。
全車両は毎日基地に戻るときここを通過して自動洗浄される。
また1日1編成ずつ、運転手がモップで洗う大掃除もある。14編成あるから月に2回、手洗いするということだ。
「本当は通過は一回だけですが、今日は大サービスで二回通ります」
と彼女は総合指令室に許可をとって、バックでまた水を浴びた。


見学が終わり、車両基地をでて駅の改札口に来た。

道路の向こうに7年間お世話になった丸山駅の無料自転車置き場が見えた。
若かった自分、可愛かった3人の子供たちなど、いろんなことを思い出し懐かしかった。
1996年6月、指扇の大宮市プラザに引っ越し、この丸山、志久駅から離れるとき、まさか、こんな何もないところに薬科大学ができるとは思ってもみなかった。
埼玉にいながら、こちら方面には全く用事なくニューシャトルのことなど忘れていたが、2012年、16年ぶりで志久駅に降りた。関東地方にあまたある駅の中で、よりによってこの駅とは・・・。
転職を決めたとき不思議な縁を感じた。

2013年4月に赴任、もちろん新しい職場でも、かつて志久、丸山周辺に住んだことのある人などおらず、自己紹介セミナーでは、自慢げに90年代のニューシャトルや伊奈町をスライドで見せた。

2019年8月22日木曜日

青山霊園の偉人たち

青山通り、赤坂御所やホンダ本社がある青山一丁目の交差点から南に折れ、外苑東通りを少し行くと青山霊園。

北東の角から入る。
目当てのお墓はなく、ただ歩いてみる。
海軍中将 東郷吉太郎
東郷平八郎は叔父(父の弟)
こんなところにあると思わなかった。
乃木神社は立派なものが全国各地にあるが、墓所は普通に青山にあるのが意外だった。

立体共同墓地もあるが、すでに満杯なのだろう。

藤波教忠卿墓
誰だか知らなかったが、大勢で祭りができるほど広場になっていたので撮影。
伊勢祭主、神祇大副を世襲した公卿。華族制度で息子が子爵。

海江田信義 枢密顧問官
何をした人かよく知らないが、幕末維新でよく出てくる薩摩の有力者。
東郷吉太郎の妻の父、母の兄、父の弟の妻の父である。三重につながっている。

警視庁墓地という、他より少し高い一角があった(左側)。

内閣総理大臣海軍大将 加藤友三郎

小村寿太郎
並びに島村速雄もあった。日露戦時の参謀長、のち軍令部長、海軍大将。死後元帥。

この警視庁墓地に上がってみる。(この日、唯一の寄り道)
牧野伸顕
大久保利通の次男。
生後間もなく父の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、吉之丞が北越戦争で死去したため、牧野姓のまま大久保家で育った。
宮内大臣、内大臣、昭和天皇の信頼が篤かったことで知られる。

長女雪子の婿が吉田茂。その三女和子が麻生太賀吉と結婚し生まれたのが麻生太郎。つまりひ孫になる。

犬養毅
右隣りは子爵入江為守。昭和天皇の侍従長・入江相政は為守の三男

海軍中将 山口多門。
ご存じ、骨はミッドウェーに消えた。

左は高須四郎大将。開戦時の第一艦隊司令長官。
古賀長官行方不明の後、一か月ほど連合艦隊を指揮した。

右翼の巨頭 頭山満
早くから海外進出を唱え、日露開戦論を展開。
一方で孫文などアジアからの亡命者を援助し、大杉栄などとも交流があったという。

このあたり巡査の墓標が並び、警視庁墓地らしいが、全体のわずかである。
 いつのまにか有力政治家の区画になったのだろうか。
警視庁墓地は本来、西南戦争以来の殉職者を葬った一角だった。

加藤友三郎の真裏が空き地になっている。
となりの十字架が麻生多賀吉、麻生和子

帰宅後、警視庁墓地に葬られている人を調べてみた。
青山霊園ガイド(立木真人)別冊歴史読本臨時増刊1995年12月

この本によれば麻生多賀吉の場所に吉田茂がある。
娘夫婦の麻生に墓所を譲り、自分は移転したようである。

塀に囲まれた区域は筑前黒田家。52万石。
黒田長溥(11代)長知(12代)長礼(13代)

この都営霊園の番地表示はどうにかならないものか。
 1種ロ8区1/14側7番 浜口雄幸
 1種ロ8区1/14側14番 松平恒雄
区別するものは最後数字、7番、14番だけ。
その前の1種ロ8区1/14側は全く意味がない。
最初の3文字(数字と「種」とイロハ)は、1種イ、1種ロ、2種イ しかなくて、本来なら10 x 46 の460種類も表される表記で、たった3つしか使っていない。
次の区、側も数字を3種類、スペースで6つも使いながら順番性がまったくないから、この番地が分かっても地図では見つけられない。

すべてやめて住所番地のように端から、たった一つの数字を振り、385番とか820番とか付けた方がましである。
墓域をいくつかに分けて丁目に当たる数字を使えばもっと親切、それでも数字はたった2つ、6-13とか9-21とかで済む。
これなら墓域内の番地案内板も重宝されるだろう。

もっとも子孫の方が分かればいいのだから、外部の人間がとやかく言うこともないのだが。
霊園事務の人はたぶん別に通し番号を使って管理しているのではなかろうか。

大木喬任は佐賀の人。大隈、江藤、副島らとともに動いた。
大木遠吉は息子

桜並木だが、車道というのがつまらない。

川上操六 
日露戦争前に死去して惜しまれた陸軍の天才戦術家
通り沿いにたまたまあった。
三島通庸
鬼県令、警視総監として知られる。
この人こそ警視庁墓地がふさわしい。

歩いていたら、いくつもの墓石の向こう、遠くに長岡外史の文字がみえた。
もうやたら偉人ばかりだから、立ち止まることも近づくこともしなかった。
墓地というのは加藤家、堀家などと彫ってあり、あてもなくぶらぶら歩いていると偉人の墓を見過ごすのだが、変わった名前だと、いくら遠くても墓石の間から自然と目に飛び込んでくる。
男爵北里柴三郎

秋山好古
墓域を新しく整備しなおしたようだ。
鉄柱の跡がある石が横に並べられている。以前は鎖で囲まれていたのだろうか。

余り寄り道せず北から歩いて来て、ここがほぼ南端。
まだ崖下と立山墓地があるが、ここで千代田線乃木坂駅に向かって帰る。
途中、畝傍の森という一角があった。
巡洋艦畝傍慰霊碑
海軍増強のためフランスに発注、1886年完成、曳航する途中シンガポール出航後、行方不明になった。

海軍中佐広瀬武夫

副島種臣

青山霊園は過去に一度だけ来たことがある。
1995年ごろ。
やはり当てもなく、ひとりで通り抜けた。
今回ほど偉人の墓が目に入ってこなかった。知識も大してなかった。

そのかわり25年分、若かった。