2018年8月31日金曜日

赤羽2 八幡神社と古家

2013年、北に転職、南に転居して、都内から埼玉まで通うことになった。
赤羽駅を出てすぐ、荒川を渡る前、星美学園の手前、左がわに気になる家があった。
古くて素敵。
南側に鳥居があって、神社関連の家なのか、普通の民家なのかずっと気になっていた。
ああ、あの家、と思う人は多いのではないか?
でも何人が実際に見に行くだろう。
京浜東北線から撮ろうとすると少し遠い。
すれ違い電車に邪魔されたりしてなかなか撮れない。
この日は上野東京ライン
2018-08-31
この左に鳥居があって、森の中が神社のようだ。

8月27日、遅い夏休み、気になって6年目、初めて訪ねてみた。
赤羽八幡神社というんだ。
赤羽駅を出た埼京線と新幹線がトンネルで神社の下に入る、その西側に坂道と鳥居がある。鉄道の工事用側道が参道を兼ねるような、むちゃくちゃな景色。
工事中は何年間もうるさかっただろう。
正式な参道はこちらかな。
まだ工事現場のよう。
本来は境内であったはずの線路のガードをくぐる
ちょうど、赤羽駅を出た埼京線・新幹線と在来線がつくる細い三角形の中にある。
神社のイメージ、緑の静寂とはちょっと違う。
新幹線をくぐると鳥居の向こうに京浜東北、上野東京ライン、湘南新宿ライン。
反対側から見ると不思議な感じ。
荒れ地が迫る場末のようなところに日露戦役の招魂碑など多数。

神社への正式な石段の手前、線路側にもう一つの石段。
上がると、電車から見ていた家。
恐る恐る覗くと誰もいらっしゃらない様子。
失礼して写真だけ撮らせてもらった。
どうも、神社関係の人ではなさそう。
このまま朽ちてしまうのは惜しい。

戻って正面の石段を上がり八幡神社の本殿へ。
周りから隔絶されているせいか誰もおらず静か。
本殿の横に、さらに鳥居がある境内社。
立派すぎると思ったら大国主神社・疱瘡神社・稲荷神社・住吉神社・大山神社・阿夫利神社・御嶽神社・北野神社がまとまっているらしい。

本殿東側を見ると上野東京ラインが見えた。
昔は関東平野が一望できただろう。ここは三方崖になっていて、この日、このあと行った稲付城址に勝るとも劣らぬ、築城適地である。

蔵がいっぱい。一つ大きなものを作ればいいのに、どんな理由だろう?

初めに見た工事用側道のような参道を上から見る。
鳥居の向こうから新幹線が来るのが見えた。
鉄道ファンの間では有名なスポットらしい。
この後ろは星美学園のグランド、かつて陸軍施設があった。

ネットで調べると
江戸時代には、岩淵郷五ヶ村(赤羽根村 下村 袋村 稲付村 岩淵本宿)の総鎮守。
明治16年、上野熊谷間の鉄道敷設によって宝幢院(京浜東北線の東に今もある)とつながっていた敷地を分断され。
明治20年、陸軍工兵大隊の移転先として、社殿後背地を管轄していた東京府が供出。
明治41年、稲付にできた兵器補給廠と東北本線との連絡のため現参道に軍用鉄道敷設。
大正には東北上越方面との物資輸送増大で旧参道部分に赤羽貨物駅設置。

かつて徳川家の庇護や加増もあって、明治の初年ころには四千坪を有したが、身を削られ続けて、昭和7年には1400坪を切った。今はもっと小さいはず。
集められた境内社は、削られた部分にあったのかもしれない。

そして
1971年、東北・上越新幹線工事が認可され起工。
1982年、新幹線の大宮以北が開業
1985年3月、上野~大宮間が延伸開業、
同年の9月埼京線開業

現在も、時代遅れでとうに建設不要とみられる都道85号線道路計画にまた参道と階段が計画線上に掛っているらしい。

社務所は立派であった。
宮司は、諏訪神社、八雲神社、熊野神社、香取神社(この日訪問)を兼務される。



追記)
9月8日、京浜東北線、上野東京ラインよりもさらに近づいた湘南新宿ラインから撮影。
削られた境内や、新幹線、埼京線が神社の山に突っ込む様子がはっきりわかる。

左に鳥居、中央に神社の石段、右に例の家。




2018年8月29日水曜日

赤羽1 気になる香取神社の交尾像

もう7年前か。
2011年4月の晴れた日、赤羽から山と谷が交互に続く道を上中里まで歩いた。
途中、赤羽の香取神社に寄ったとき、
なんと境内に雄が雌の上に乗る獣の像があった。

犬?狼?獅子?竜のように痩せた、二匹の怪獣が重なり咆哮している。
黒く光る金属の塑像だから素人が作れるものではなく、何の説明板もなかったが、恍惚とした表情、踏ん張る手足のこわばりなど、躍動感のリアリティがあって、力量ある作家の作品と思われた。

最近、もう一度見たくなってネット検索した。
この神社の訪問記は多くあるが、交尾する動物像に関してはいくら探しても出てこない。

さては、あの像は違う神社で見たのだろうか。
当時は携帯も持たなかったし、記録する習慣もなかった。

いつまでも気になるので、遅い夏休みに行ってみた。
7年前と同じ道、赤羽駅西口、イトーヨーカ堂の南から石段を上がる。
木が繁り、素敵な古い家の間を通ると静勝寺の裏に出る。
2018-08-27
ここは稲付城のあったところで三方を崖で囲まれ、武蔵野台地の北東の端、関東平野を見渡せたはずだが、いまは赤羽駅のホームに入る電車が見える。
静勝寺は太田道灌の死後、城の一角に建てられた道灌寺が始まり。
江戸時代に道灌の戒名をとって静勝寺となったらしい。

静勝寺の周辺は細い坂道、石段が多い。崖多ければ樹木多し。
車はほとんどいない。
埼玉に住んでいたころ、この辺りが気に入って、何件か不動産屋に物件を紹介してもらったが成約に至らず。

さらに南に歩くが、道に迷った。
なんせ、この地形にしばられ、道がまっすぐでない。行き止まりもある。
ロケに使えるほど素敵な家々を見ながら、いよいよ迷った。

途中、三、四十代の夫婦が大きな犬と散歩されていたので、尋ねると
「うーん、どっから行ったらいいかな。うーん。
説明しづらいので一緒に行きましょう」

周りの家を見ながら歩きたいのだが、犬が速い。
香取神社の裏手まで連れて行ってもらった。

前回は南の坂下から正面の石段を上がったので勝手が違うが、境内を歩くと何となく思い出した。ここも三方崖で、見晴らしがよい。

力石。
この神社一番の見ものであり、説明文もあるが、7年前に見た記憶がない。

くまなく探すも交尾像は見当たらず。

あれは違う神社だったのだろうか。
ひょっとして像も神社も、夢で見たのだろうか。
ちょうど新幹線が通った。
この景色は交尾の獣と同じような確かさで覚えているのだが。


がっかりして帰る間際、石灯籠の台座に交尾する狛犬を発見。
7年前の像はこれをモチーフに誰かが製作、奉納したのだろう。
しかし、教育上よくない、とクレームが付きすぐに撤去されたか。

像はなかったが、あれは間違いなくこの場所だった、と確信した。


2018年8月25日土曜日

生ごみから発芽、芋、カボチャ

息子が小学生の時、夏休みの自由研究で、食べた後の野菜、果物の種の発芽を調べた。
ふつう、キウリなど果肉が腐るほど熟させて採種するが、八百屋さんに普通に売っている食用のものでも、(種が成熟していなくても)、脱脂綿の上で結構芽が出た。
ナス、トマト、ピーマンは当たり前、ブドウやリンゴ、桃、ほとんどのものが発芽した気がする。

実験でなくても、生ごみを普通に捨てるといろんなものが発芽する。
大部分は発芽しても深すぎて地上を目指す途中で力尽きるか、地表で干からびるか、あるいは発芽中に耕されたり、草と一緒に抜かれたり。

彼が発芽させたグレープフルーツは4年育てたが、棘が邪魔で、当分生りそうもなかったので切った。
リンゴは長野の親が送ってくれたものだから育てているけどちっとも大きくならない。

今、千駄木で望まれぬまま、人知れず発芽しているものは、
2018-08-25 カボチャ

アボカド

最近は発芽すると邪魔だから、埋まらないように他と分別して捨てている。

山芋
ジャガイモ、サツマイモ同様、皮から簡単に発芽。秋になると小指の先くらいの芋が地中にできる。他の作物の邪魔にならないように、他へ移すとまた春先に出てくる。

生ごみから2年目の山芋。むかごもあり。

カボチャは見つけるとすぐ抜くのだが、それを免れたものが、今年は生垣の上を蛇のように張っている。

こいつはなぜか雌花ばかり。
例年、雌花はいつの間にか茶色になって腐るのだが、どうだろう?

2015-08-10
3年前に初めて実が腐らずに熟した。
カボチャは雌花が成長すると葉が頑張って繁る気がする。

2018-08-18
今年も食べる気のない、小さなジャガイモが予期せぬところからとれた。

2018-08-18
これは生ごみでなく植えたものから


2018年8月22日水曜日

黒姫伝説、北信五岳と洪水

先日高梨氏のことを書いたので、黒姫伝説のことも触れて置こう。

黒姫山は、信州中野(中心部)の人々にとって、離れていても特別な山である。

彼等は「まみくとい」という呪文のような言葉を知っている。
斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯縄の頭文字。
北からこの順番に、独立峰として等間隔、ほぼ同じ高さで並ぶ。
子どものころ、畑で草取りをする祖母から山の名前の覚え方として、この5文字言葉を教わった。

当然、見る場所が変われば、位置や高さがずれる。
我が家の畑で見えても、歩いて通った最寄りの小学校や中学からは手前の丘陵(片塩山)で遮られて見えない。同じ中野市でも北部、南部ではどれかが隠れたりする。この言葉は、中野の町内周辺とその東のごく狭い範囲でしか成立しない。
高校生のころ、中野高校の文化祭で登山部が「まみくとい」というタイトルでポスター発表していて、祖母以外に使う人もいるんだ、と驚いたことを覚えている。(それまで祖母の造語だと思っていた)

その北信五岳(これも中野でしか通じない単語)の中央で最もきれいな円錐プリン型をしたのが黒姫山である。
黒姫(中央)と妙高(右)
白く小さい戸隠(左)は、左からの飯縄のすそで隠れている。
美しい景色だが、この地点で「まみくとい」は成立しない。


さて、黒姫伝説。
幾つもバージョンがあって、最も知られている話をすれば

****
春、高梨政盛(1456-1513)は黒姫をつれ家臣と花見に出かけた。
盃を上げていると一匹の白蛇が姿を現し、黒姫は政盛に促されて白蛇にも盃を分けてやった。その夜、黒姫のもとに小姓が現れて求婚する。彼は昼間、姫から盃を頂いた者だという。その気高く美しい様に、姫も心を惹かれた。

数日後、彼は黒姫を嫁にもらおうと政盛のもとを訪ねた。
政盛から見ても立派な青年ではあったが、自らを大沼池の主の黒龍であると話す小姓に対し、人間ではないものに黒姫を嫁がせる訳にはいかないと反対した。
 
(志賀高原の大沼池、右の子供が私。1960年代前半)

それから毎日のように小姓が城を訪ねて来るようになって100日、政盛は彼に試練を課す。しかしそれは政盛が仕掛けた罠であり、痛めつけられた小姓は正体をさらし、怒って四十八池の水を落とそうと嵐を呼んだ。
 
(四十八池。小学校1、2年のころ。背後は叔父、叔母たち。
当時は遊歩道もなく自由に歩いた)

黒姫は小姓に酷い仕打ちをした父、政盛を責め、黒雲に向かって嵐を鎮めるよう叫び、鏡を高く投げ上げた。すると黒龍が姿を現し、黒姫を乗せて駆け上った。
洪水で荒れ果てた眼下の中野を見て嘆き悲しむ黒姫に、黒龍は許しを乞うた。
それから二人は共に山の池へと移り住み、その山は黒姫山と呼ばれるようになった。

****

そのご黒姫は毎年7月中旬、中野祇園祭に合わせて里帰りし、このとき、たった3粒でも必ず雨(涙)を降らせるとは、子供のころよく聞いた話だ。

(中野の祇園祭は、1510年高梨政盛が越後の戦いで関東管領、上杉顕定を討ち取り大勝したことを記念して行われた馬乗り行事に由来するといわる)

黒姫伝説には幾つもバージョンがあって、

四十八池の水を落とそうとした黒龍に気付いた地獄谷の山神が、恩顧のあった高梨氏の人々を守るべく、燃えたぎらせた地獄の火で、落ちてくる水を蒸発させてしまった。竜蛇はあわてて水を戻したが、既に遅く、大沼池、岩倉池、琵琶池、ほか4池を満たす程度の水しか残らなかった
とか。

あるいは、
自身を犠牲にしてでも民衆を救おうとした黒姫が城を出て、頼朝から授かったという家伝の名剣と、自身の黒髪を出会った翁に渡し、翁が池に剣と髪を投げ込むと、池の中の竜蛇が剣をのみ込んで倒れ、池の水が赤く染まった。山の方に黒い雲が起こり、嵐となり、黒姫の姿は消えてしまった。その山は現在の黒姫山となった。
とか。

*****
中野は夜間瀬川(沓野川)扇状地にある。
扇状地というのは何回もの土石流、洪水によって作られる。
夜間瀬川は今、北の端を西に流れているが、東の端を南に流れていた時代も、それほど遠くない。
全てを押し流し地形を変えてしまったという應永13年8月(1406年)夜間瀬川大洪水は、黒姫の父とされる高梨政盛(1456-1513)が生まれる50年前だ。

志賀高原の大沼池、四十八池は夜間瀬川の水源である。
高梨一族、沓野川、真山城、日野城と具体的に固有名詞が出てくる黒姫伝説は、「昔々、おじいさんとおばあさんが」というのではない。よくある、洪水、干ばつを起こす水神(龍、大蛇)に対する美女の人身御供の話をもとに、人々の記憶に新しい大洪水と高梨氏による治水を踏まえた物語であろう。

「中野市史」(1981)の著者は、今も使われている八か郷用水の掘削時期を、黒姫伝説を根拠の一つに、高梨氏の中野進出後とした。
灌漑用水の掘削、山ノ内方面にまで及ぶ夜間瀬川水利権の確立は、鎌倉時代の中野氏では無理である。
岳北まで領地を持っていた高梨氏が夜間瀬川の出口(用水の取水口)を抑えた後、川を北の端、高社山麓に移して堤防を築き、用水を掘削したのだろうと。

應永13年8月(1406年)夜間瀬川大洪水以前の中野扇状地
延徳田んぼは遠洞湖。千曲川が中野を縦断している。
岩船はそのほとりにある。

洪水と治水、高梨の息女と黒龍。

山の名前は、山に近い人ではなく、毎日よく見える、低地の人々がつける。
高梨の館、中野小舘からは、まみくといの順番にきれいに見え、真ん中の山が最も美しい。だから彼等はその山を黒姫の山に選んだのだろう。
それまでこの山を何と呼んでいたのかは不明である。

リンク:
中野扇状地の考察
中野小館と高梨氏


千駄木菜園 総目次

2018年8月18日土曜日

ワラビの畑、荒れる農地

我が家は専業農家だった。
田畑を売らずに、農作物の売り上げだけで暮らし、父たちは私、妹、弟、の子供3人とも大学に出してくれた。当時の田舎では珍しい家だった。
作物の個々の売り上げは小さいから、重労働であったと思われる。我々も子どものころから当然のように草取りや収穫、ときに夕飯後にまで及ぶ荷造りなど手伝ったが、ほとんど遊び半分、役に立っておらず、父たちの能力と勤勉さには頭が下がる。

その父が死んで8年。
ぶどう畑は人に頼んで借りてもらっているが、まだ農地はある。
勤め人の弟(58)は、土日と早朝に農作業する。
先日、ジャガイモと玉ねぎを段ボールにたっぷり送ってもらったが、彼が作るのは自家用だけだ。

ここしばらく彼の一番の作業は、毛虫退治と草取りというが、
笑うに笑えない。

アパートの近くは消毒もできないし、また農薬を買うお金も、大量の消毒液を調製し噴霧する手間暇もない。毎日見回って、柿やくるみの枝にアメリカシロヒトリなど見つけたら、梯子で枝をそっと取って足でふみつぶすらしい。

雑草はもっと厄介だ。
隣の畑。
畑は放置すれば草だらけになり、その種子や病害虫を周辺にまき散らし、大きな迷惑となる。
弟は近所に申し訳ない、と雑草退治をするのだが、いまや周囲も高齢化で手が回らない。雑草だけの畑も珍しくなく、文句を言う人もいないだろう。

家庭菜園と違い、手で草取りするわけにいかず、彼はトラクターで掻き回す。
しかし放置するだけだから、また根がついてしまう。
特に雨の前後は枯れない。
2018-08-14
枯らすには、晴天が続く日にやらねばならぬが、今年は長野といえど酷暑が続き、そのなか、もうもうと土埃の中を作業する。
この辛さを思えば、都会で熱中症を心配することなど、甘っちょろすぎて話にならない。(だから昨年まで我が家にエアコンがなかったことなど何でもない)

種まきや、収穫は楽しいが、暑い中の草取りなどは夢もなく、汗が目に入り拷問のようである。何のためにやっているのか、と疑問に思うだろう。


農地の一角が、ワラビ畑になっていた。

父が山からコゴミとワラビを取ってきて畑の一角に植えたものが大繁殖した。野生のものは強く、毛虫もたからない。
しかし売り物にするには、採取、包装という手間暇かかるから、ここ何年も放置するだけだ。
母は元気な時、楽しみで少し取っていたようだが。

放っておくと地下茎を伸ばし、一面、山の草原のようになるので、弟は草取りを兼ねてトラクターで周囲を四角に刈り込むように、拡大を防いでいる。
写真右がつい先日トラクターで掻き回した部分、手前は少し前に掻き回したが再び雑草だらけになった部分である。


ナシは、毛虫にやられ、葉がない。
ひとつ採ってかじったら渋くて吐いた。
実が小さいのは、虫で葉がなくなったせいか、手が回らなくて摘果をしなかったせいか、酷暑で水がなかったせいか、理由がありすぎて分からない。
1つの作物にかかる手間は多く、期間は長い。
種をまいたり、植えたりしても、その後の多くの作業の一つでもさぼれば、まともな収穫に至らない。スーパーで一番安いものすら、どのステップも抜けていない。

フルタイムで働いている弟は、本業で疲れていることもあるだろう。風邪をひいても雨が降っていても、なんとか畑に行かないと、1つでもステップをさぼれば、それまでの作業が無駄になってしまう。

トラクターで雑草を掻き回して作った「畑」も、とくに植えるものはないようである。
収穫までずっと面倒を見る自信がないのであろう。

畑をタダでもいいから貸したいのだが、借りる人は誰もいない。
誰も農業をしない。
専業農家は難しくても、せめて夫婦のうち一人が専業で畑に出ればなんとかなるのだが。

幸か不幸か、周辺は駅に近いから、宅地として売れる。

もっと過疎の飯山などから降りてきた人や、親との同居を嫌う若夫婦などがどんどん家を建て、懐かしい景色が毎年消えていく。庭のない、駐車場だけの、狭くて安っぽい家である。

若者は離農し、年寄りは動けなくなって、かつての田園は消えてしまった。
クルミの木も毛虫にやられていた。
母が元気な時は1つずつ殻を割って、砂糖をまぶして炒ってくれたものだが、もう望めない。
クルミは虫に葉を食われると、外見は普通でも、殻の中の実が熟さない(大きくならない)ことを数年前に知った。

もう切り倒した方がいい、と弟に言った。


2018年8月16日木曜日

柳沢の叔父、金魚と桃

母の弟、柳沢の叔父は79歳になる。
10年ほど前、心筋梗塞で倒れ、幸い一命をとりとめた。
8月14日、1月に亡くなった従兄の新盆で同じ柳沢に来たから数年ぶりに寄ってみた。

彼はずっと農業をやってきた。
非常に穏やかな人で、(大げさでなく)怒ったところを見たことも聞いたこともない。
働き者で、彼の作る果物はとても甘く、合理的に考える私の弟すら
「作物の味は作った人の人柄が現れる」なんていう。
私は、土地と作り方が優れているからだと思うが。

叔父の趣味は錦鯉を買うことだった。
私が小学生のころだから、叔父がまだ20代の頃か。すでに近くの畑でリンゴの木の下にコンクリートでいくつか真四角な池を作り、ドジョウも含め、いろんな魚を飼っていた。事業化も考えていて、
「米のとぎ汁も流せば餌になる」
「頭に日の丸のある鯉を作りたい」と言っていたのを覚えている。彼の祖父はブラジルに移民したことから、そういう鯉は海外邦人の人々に喜ばれると言っていた。
あれから50年、60年、畑の池はどうなったか知らないが、母屋の庭先には相変わらず鯉と金魚が泳いでいた。
 「東錦」という自慢の金魚がいて、石の下に隠れているのを無理やり棒で追い出して見せてくれた。
なお、これらの写真は全て別々の池である。
石を配置して日本庭園の池のように作ったものの、すべて養殖池になっていた。
写真を撮り始めたら、さらに自慢の魚を出してくれようと棒を差し込んだので、そんなことをしなくてもいいと、慌てて制した。
こちらは裏にあった水槽。
当然、自分のところで孵化もさせていて、小さな錦鯉(黒が多かった)や金魚が泳いでいた。

とてもまじめな人で、趣味も若いころから脇目を振らず、観賞魚一筋であった。
畑に連れて行ってもらった。
今年は雨が少なくて、桃が大きくならないという。
スプリンクラーのある畑は大丈夫だが、ここはその設備がなく、例年の半分の大きさで、すべて売り物にならないらしい。
せめて少しでも大きくしようと、後になって(実が大きくなってから)摘果したとかで、下には桃が散乱していた。一つ拾って食べたら甘かった。


桃の木に青大将が休んでいた。
そういえば、子供のころ、生涯で一番巨大な蛇を見たのは、この近くの夜間瀬川だった。

小さいが甘い桃をいっぱいもらって帰る途中、千曲川をみたくなった。
いつもは弟に乗せてきてもらうから、遠慮して勝手な寄り道はできないのだが、今日は車を借りて一人で来た。

昔、この場所で、すぐ足元を大量の水がすごい速さで流れるのを見て、滑ったら死ぬなと、後ずさりした覚えがある。今年は雨が降らないせいか、水量も少ない。落ちたら死ぬかもしれないが、かつての恐怖はなかった。
千曲川はこの先で夜間瀬川と合流、左に蛇行して飯山に向かう。
山麓に見える集落が柳沢。
86才になる母は子どものころ、この川で泳いだというが、どのあたりだろう。