ラベル 遠く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 遠く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年8月26日水曜日

佐久の五稜郭・龍岡城と大給氏

8月15日、信州の実家に日帰り帰省する途中、佐久に寄った。

五稜郭・龍岡城を見るのが目的だった。

佐久平で降りて小海線に乗り換え、のどかなワンマンカーに乗って最寄り駅につく。

8:28
龍岡城駅
佐久平に戻る列車は9:20発。
それまで52分あるが、駅から城までは1.6キロ、23分。往復46分。計算上は6分しか滞在できない。その列車を逃すと次は11:47までない。
急いで歩かねばならない。
6分のために、私はしばしばこのような遠出をする。
8:36
何の変哲もない田舎道。
中世の山城でもないのに城下町がないというのはどういうことか?

それ以前に、五稜郭というのは連郭式、輪郭式などと同じような城の形を示す普通名詞のはずだが、函館のそれを表すような固有名詞になっているのはどういうことか?
これはひとえに佐久の五稜郭が無名であることに尽きる。
しかしなぜ無名なのか?
これは書くと長いので後回し。
8:39
龍岡城址という石碑あり
しかし道路のわきに少し石垣があるだけで相変わらず畑と住宅。
城址に着いた感じがしない。
通り過ぎてそのまま歩き、右折すると五稜郭についた。
航空写真でも中央に五角形が見える。

函館の五稜郭は1983年10月3日、札幌での学会帰りに立ち寄ったことがある。
佐久の五稜郭も昔から知っていたが、いつか行こうと思っているうちに危ない年齢になってしまった。
8:44
五稜郭の北の稜に到着。
駅から23分というところを健脚は16分。
9:00には帰路につきたいから見学時間は15分。
8:45
説明板のわきの木のテーブルが使用禁止。
苔が生えて朽ちている。
8:47
黒門から入城
堀の幅は平均7.2メートルというが、それほどあるように思えない。

龍岡城五稜郭は幕末、三河以来の譜代大名・松平(大給)乗謨(のりかた、1839-1910)が築いた。
もともと、松平乗謨は父祖の地、三河奥殿に藩庁(陣屋)を置いていた。しかし領地の大部分(1万6000石中の1万2000石)はここ信濃国佐久郡にあり、佐久25か村を支配していた。藩庁の信州への移転はかねてからの念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て、文久3年(1863)佐久での陣屋の新築を許可された。(奥殿藩は城持ち大名でなく、陣屋格の大名だった)

乗謨は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでおり、新たな陣屋として星形要塞・すなわち五稜郭を設計した。元治元年(1864年)3月にここ田野口村で建設を開始。幕末の動乱の中、慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が竣工、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿などが完成した。

しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁に就任、公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなる。工事は簡略化され、堀も南西、西の2つの稜角を囲む200メートルは未完のまま明治維新となった。全国に知られることなく、「幻の城」といってもよい。
これが龍岡城(=田野口藩陣屋)が函館五稜郭と比べ無名であり、また城下町がない理由である。
8:48
城の西側、黒門跡。
外壁、土塁は高くない。
入るとすぐだだっ広いグラウンド、しかし草ぼうぼう。
8:49
国の史跡なのに小学校がある。
夏休みだから子供はいない。
校舎には「ありがとう田口小学校」の幕が。
8:49
グラウンドに向かうような古い建物は「台所」という。
当初五稜郭の真ん中にあったのを移築したらしい。
明治4年の廃藩置県で兵部省は全国の城郭の破却を命じたが、この台所だけは小学校に転用されたため残された。
8:50
野球のバックネットの裏の林に何かある。

8:51
神社だった。
ここも草が生えている。
8:51
神社のわきにウサギ小屋かな? 五角形なのが良い。
止まり木があるから鳥小屋だろうか?
しかし網が破れ、中は何もいない。

そのまま通り過ぎたのだが、後で調べたら、田口小学校は2023年3月31日をもって佐久市立臼田小学校へ統合され閉校したという。壊れた鳥小屋も草だらけのグラウンドも、ありがとうの幕もこれで説明がついた。

参道を逆に歩き正面から出た。
8:52
神社は田口招魂社だった。
田野口藩の田野口村は明治9年、上中込村と合併したとき、野がとれて田口村となった。これが小学校、神社の名前になっている。
招魂社というのは、ふつう明治維新後に戦没した人の霊を祭るところだが、ここの案内板はなぜか殿さま、大給松平氏の一つ三河奥殿藩のことがメインに書いてある。大給氏は家康の4代前に安祥松平家(のちの松平宗家、徳川家)から分かれ、さらに4家に分かれた。

とにかく時間がないので素通りするように郭内から出た。
8:53
北に向いた大手門から出る。

8:53
佐久の五稜郭は函館五稜郭と比べ、一辺が半分ほど。すなわち面積が4分の1しかない。
同時期の建設だが、あちらは開港したばかりの函館奉行所を入れるため幕府が作ったもので、こちらは弱小大名が作った陣屋だから仕方がない。

もともと陣屋(藩主の住まいと政庁)の外側に堀をつくるにあたり、藩主の好みから西洋で考案された五稜形にしてみたというのが真相ではないか?

五稜郭は見晴らしの良い各稜に砲台を置けば広角に撃て、稜の間にくる攻め手には挟む辺から十字砲火を浴びせられる。18世紀半ばにフランスのルイ・ド・コルモンテーニュが考案したとされるが、1650年ころ作られた赤穂城も各辺がギザギザになっているから、それ以前からこういう築城思想はあったのだろう。

赤穂城は十字砲火が可能な銃砲戦を意識した設計だが、まだ二の丸、三の丸をもち安土桃山時代からの城郭の形である。しかし函館にしろ佐久にしろ、五稜郭は全く違い、装飾的な櫓などもなく完全に実戦だけを意識している。

ところが平原にある函館はまだしも、佐久のは谷であり、すぐ南北に山がある。すでに幕末は雄藩を中心にこぞって大砲を買い入れていた。射程1キロ程度なら100発百中で陣屋に砲弾を落とせる。敵を阻む外壁も低い。戦国、関ヶ原の火縄銃の時代なら威力のある要塞だったが、龍岡城はできたときから堅固な城ではなかった。
聡明な乗謨ならその程度のことは承知であったと思われるが、あえて五稜郭にしたのは、やはり住居と政庁という陣屋(役所)を盗賊などから守るために水堀を作るにあたり、どうせなら洋学で知ったこの形にしたかったというのが真相か。
8:55
昭和9年に龍岡城跡は国の史跡に指定された。その時文部省が設置したと思われる一枚板の木彫りの説明板が屋根付きで立っていた(写真左)。
右は明治維新後に大給恒(おぎゅうゆずる)と改名した乗謨の胸像。

乗謨は大政奉還後、将軍慶喜に「諸大名を含む議会を開き、幕府を含む諸藩の軍備を解体し、全国守備の兵とし、将軍家は総指揮官になり給うべきなり」と言上したが、幕閣内は薩長などの西南雄藩への強硬論が大勢を占め、その意見が聞き入られなかった。

彼は戊辰戦争が始まると老中を辞任し幕府との決別を表明するため松平から大給姓に変え、信州に引っ込んだ。すぐ新政府に恭順することを示したが、乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じられた。やがて謹慎を解かれ西軍として北越戦争に出兵した。その時の戦死者が田口招魂社の最初の4柱になっている。

やがて大給乗謨は恒(ゆずる)と改名し明治政府に仕えた。
大給恒は佐賀藩士(1823- 1902)の佐野常民とともに、西南戦争における両軍の傷病者を救護しようとした「博愛社」の副総裁となっている。明治20年に博愛社は日本赤十字社と改称した。
(ちなみに佐野常民と同時代人で、よく間違えるが、開成の前身・共立学校を創立したのは加賀藩士の佐野鼎(1829-1877)である。)

大給恒は、明治17年(1884年)の華族令で子爵(これは旧大名家当主だから普通)に列せられ、明治40年に伯爵に昇った。

大手門を出た目の前に新しい資料館があった。
無料のようだ。
駅に急ぐ前にパンフレットだけでも貰おうと入った。
8:57
入ってすぐのロビー中央に龍岡城の模型
しかし小学校の模型のようにも見える。

後ろに年表らしきものがあり、大給松平氏か竜岡城のことと思ったら、明治8年に城内に設立された田口小学校の歴史だった。
8:58
小学校は1875年から2023年まで148年間ずっと五稜郭の中にあった。

国の史跡・龍岡城は2017年4月、続日本100名城(129番)に選定された。このときすでに田口小学校が2022年度末で閉校することが決まっていて、閉校後に小学校の全施設を解体撤去し、竣工時の龍岡城を復元する整備計画があったらしいが、いまだ進んでないように見える。
8:59
職員の年配の男性に声をかけられた。
どこから来られたかね、と聞かれ東京だと答えると、それはそれは、と歓迎された。
時間がないのでじっくり見られないんです、というと
「それは大変だ、あー、先生、先生、お客さん」と奥に声をかけられた。
するとモップをもった老人が展示の間から出てこられた。なんとなく田口小学校で定年退職した校長先生のような風貌がした。
掃除中の彼は「よくいらっしゃいました」と言いながら、急いで動画視聴コーナーの椅子を片付けようとしていたが、「時間がないのでパネルだけ見させてもらいます」と言って説明を断った。
8:59
なかなか充実した展示内容である。

書き忘れたが、大給氏というのは千駄木の家の近くに大給坂があるから以前から馴染みがある。
9:00
いま大給坂に名前を残す大給家は、三河の西尾藩(本家、6万石)当主の子孫で、明治後千駄木に住んだ。5万石以上は伯爵だが子爵だった。大給松平家は家康の4代前に分かれたと書いたが、その系統は、西尾藩のほかに豊後の府内藩(2万石)、美濃の岩村藩(3万石)、三河の奥殿藩(のち佐久の田野口藩1万6千石)と譜代大名を4家も出した。
9:03
ばたばたと騒がせて恐縮しながら資料館を辞去した。

帰り際、奥の事務室のほうから女性が出てこられた。あまり客が来ないと思われるのに職員が3人もおられた。
資料館でもらったパンフレット
五稜郭の中に政庁があり、五稜の堀の外に家老屋敷、家中住宅、尚友館(藩校?)、米蔵などがあり、その外側が四角く柵で囲まれていた。江戸時代初めなら当然外堀であるところが、犬猫がどこでも自由にくぐれる柵矢来であるのが佐久らしかった。

その北側は「新海明神下屋敷道」が通っており、向かいに蕃松院が書いてある。
その道を西に行くと田野口村入口の土塁、乗馬制止杭があり、この跡こそ来たとき最初に見た「龍岡城址」という石碑の場所だろう。前に載せたグーグル地図でも龍岡城枡形跡と書いてある。
9:05
パンフレットの柵矢来の北にある「新海明神下屋敷道」。
駅からまっすぐ上がってきた道である。江戸時代からの道だとは知らなかった。
目の前の蕃松院は、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃の墓があるというが、見る暇はない。
列車の時刻まであと15分、それに遅れたら2時間半待たねばならない。一瞬立ち止まり遠望することすら許されない。


駅への道は緩い下り坂、健脚だからゆうゆう列車に間に合った。
少し先には千曲川の上流があったはずだがもちろん見に行く時間はなかった。
列車に乗ってから、ふと、あの資料館は9時開館だったのではなかろうか、と考えた。


前のブログ

2026年8月22日土曜日

佐久市の合併前の町と小海線の路線名

8月15日、信州の実家に帰省した。今年、叔母、叔父がなくなったが葬儀に行かなかったので新盆に線香をあげようと思った。
日帰りだが、途中、佐久に寄ってみようと思い、朝一番の新幹線に乗った。

最寄りJR駅は西日暮里だが、ふだん新幹線は大宮から乗っている。
退職前は大宮まで定期券をもっていたし、定期がなくなってからもそう。長野まで乗車券、特急券とも西日暮里を起点とすると大幅に上がる。片道8130円。一方大宮からなら6580円。1550円も違う。大宮までの運賃を普通の乗り越しで払っても1150円違うのだ(2025年)。そのうえ、上野から乗るときはいったん逆方向に行くのと、上野ー大宮間は速度も大して上げていないのか、時間はほとんど変わらない。
それに今でもダンスのレッスンを受けに大宮まで通っているので、大宮まで行くのに慣れている。

ところが今回指定席をとらなかったので、座れる確率が高い上野から乗ることにした。
6:32
東京駅から来たはくたか551号はガラガラ
15日の早朝ということもあるだろうが、これなら大宮から乗ってもよかった。

日暮里駅のあたりで地上に出た。
いつも通る田端、王子、赤羽などは少し高いところから見るだけで景色は新鮮だった。
写真を撮ろうとしたが、どれも過ぎてしまい、大宮についてしまった。
6:52
大宮駅
1981年から2013年まで大宮周辺の3か所に住んだからここは通過、乗換、買い物駅としてずいぶん世話になった。千駄木に引っ越してからも勤務先は大宮の先だった。
1982年に東北新幹線の始発駅となり、埼京線が開業した時は東日本最大の駅といわれ、大宮はどんどん発展するかと思ったが、そうでもなかった。

はくたかは大宮を出ると熊谷、本庄早稲田、安中榛名をとばし、高崎、軽井沢に止まって佐久平についた。ここで小海線に乗り換える。

佐久は国道18号、信越本線という軽井沢、小諸、上田を経て長野に向かう主軸から外れている。これらは北佐久郡を通っているが南の佐久市は通らない。だから今まで行ったことがなかった。上信越自動車道、北陸新幹線が佐久市を通るようになっても素通りするだけだった。
7:50
佐久平の駅舎から浅間の裾野が見える。
小海線の発車は8:02だが、外は古い街がなく駅から出たいと思わなかった。
あとで調べたらショッピングモールとか新しい商業施設ができているらしい。

佐久は東信の中心である。「信濃の国」にも一番後半で「松本伊那佐久善光寺、四つの平は肥沃の地~」とうたわれた。しかし、長野県の他の市すなわち松本上田飯田などが中心となる町を核に大きくなったのに対し、佐久はそうではなかった。市の名前も他が核となった町の名であるのに対し、佐久はもっと広い、ぼんやりした郡、地方の名である。
千葉や仙台などではなく、相模原市のようである。

もともと南北の佐久郡すなわち千曲川沿いには岩村田、野沢、中込、臼田といった古くからの町があり、前3者が1961年に合併して佐久市が誕生した。日本の多くの市ができた昭和の大合併は1953年から始まり信州中野、須坂、飯山、小諸など多くは1954年にできたから、佐久市というのは比較的遅い。
おそらく3つの町がまとまらなかったのだろう。
岩村田は岩村田藩(内藤15,000石)の陣屋町、中山道の宿場町で明治22年の町村制施行と同時に町となった。野沢は明治30年には町制をしき、1901年には上田中学分校として旧制中学が設立された(のちの野沢北高)。1911年には町立野沢実科高等女学校(のちの野沢南高)もできた。
中込は町となったのは1919年だが、明治8年(1875年)に完成した旧中込学校(県宝、国の重要文化財)がある。国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物である。
この佐久市に、2005年平成の大合併で、北西の望月町、浅科村と南の臼田町が吸収され、人口は飯田を抜いて長野県4位となった。望月町は中山道の宿場があったし、臼田町は1893年には町制をしき、農村医療で有名な佐久総合病院(本院)がある。
要するに佐久市は核が一つではない。
だから佐久市を見ようと思ってもどこに行ったらいいか分からない。

小海線乗り場のほうに通路を歩いていくと、改札もなくいきなりホームがあった。
無人駅と考えれば当然なのだが、新幹線の駅舎の新しさから意外性がある。
7:59
小海線の佐久平駅は1997年新幹線が交差することで地元負担によって新設された。
普通、在来線と新幹線が交差するときは新幹線が上を通るのだが、ここは在来線が上である。
幅広2本の線路を高く作るより単線を高架にするほうが簡単なのかと思ったが、ちゃんと理由があったらしい。新幹線はこの駅の東も西も地下トンネルに入るため勾配関係から地上にしたほうが良かったのだという。
8:01
新幹線の駅だが小海線のほうはプラットホームが一つだけ。
二本あれば電車が来る方向がわかるが(左側通行)、これだとどっちから来るかわからない。
殺風景な景色に浅間がないから右から来るかな、と思ったら当たった。

列車に乗り込んでから切符がないことに気が付いた。
新幹線改札を出てから落としたらしい。降りて探そうか、いや、そんな時間はないだろう、と思っているうちにドアが閉まった。
小海線はワンマンカーと無人駅だから降りるときにごたごたすると迷惑になると思い、次の駅で停車中に運転手に申し出た。
「新幹線を降りるとき2枚のうち1枚とらなかったんですかね?」と言われた。確かに1枚とったのだが、いいえ取りましたといっても意味がないので、そうかもしれませんといった。
「途中で運転手が変わるので申し送りしておきましょう」といってくれた。

先日も地下鉄24時間券(700円)を買ったらすぐなくしたばかり。年だろうか?
8:15
列車ドアの上の駅名一覧は絵地図になっている。
小海線は小諸と小淵沢を結び、八ヶ岳高原線という別名もあるらしい。

佐久平を出ると岩村田、北中込、滑津、中込、太田部、龍岡城、臼田と続き、その先は主な駅として八千穂、小海、信濃川上、野辺山、清里などを経て小淵沢までいく。

中山道岩村田宿と甲州街道韮崎宿を結ぶ佐久往還(信州では甲州往還)は野沢(中込の西)から南はずっと千曲川の左岸(西)を通っていたのに対し、小海線は小海まで人家の少ない右岸(東)を通る。

野辺山は日本の駅で最高地点(1345m)で、その清里側に1375メートルの線路最高地点がある。全国の駅の標高の高さ1位から9位までが小海線という高原鉄道である。また小海と臼田の中間にある海瀬駅は海岸から一番遠い駅らしい。
8:18
中込駅で運転手が交代した。

小海線は一度だけ乗ったことがある。
大学2年の1976年暮れ、山梨県回りで実家に帰る途中、信濃川上に降りて由井克之君の家に泊めてもらった。一緒に訪ねた高倉仁史君と由井の兄上と4人で夜遅くまでポーカーをやった。
彼は剣道班の同級生で信大医学部に進学、根っからの学者肌で、ペンシルバニア大で研究室を持ち、のち長崎大医学部の教授になった。
高校時代の彼は実家(信濃川上)から東京へ行くときは、北回りの小諸経由でも南回りの小淵沢経由でも変わらない(運賃同額)から、円を描くような切符を買った。そうすれば東京で乗り降り自由となる。

そんなことを思い出しているうちに降りるべき龍岡城駅に着いた。
さて、私は切符がない。
田舎だが駅間が狭く、佐久平から6駅なのに220円である。
前の運転手さんが「あ、そうですか」といったのは払わなくてもいいとも取れたが、払う気でいたら代わった運転手さんも「あ、いいです」と言ってくれた。
8:27
お言葉に甘えて、お礼を言った。
そして南に去っていく電車に(運転手さんからは見えないだろうが)最敬礼した。

龍岡城駅は近年はやりの観光地風の駅名だが、1915年大奈良停車場として開業、戦時中に廃止され、1952年新設の形で営業再開された時から龍岡城駅である。

ちなみに小海線の小海は平安時代に八ヶ岳の噴火で千曲川がせき止められ湖ができたことからの地名(小海町役場HP)というが、沿線でも小さな目立たぬ町である。
そんな町がなんで路線名になったか?

もとは佐久鉄道だった。
1915年 、小諸駅 ー 臼田駅間(21.08 km)開業
1919年、臼田ー小海 延伸開業
つまり終点だった。

いっぽう、1932年鉄道省が小海から南の佐久海ノ口まで鉄道を敷き、その部分を小海線とした。当然の路線名である。
さらに、1934年鉄道省は南のほう、小淵沢ー清里間を開業(小海南線)、また佐久鉄道線を買収し(小海北線)、1935年、清里ー佐久海ノ口が延伸開業、小諸から全通して、小海線と改称した。
国は当初から中央本線と信越本線をつなぐということが国家的利益になると思ったのだろう。佐久鉄道を買収する前は、小淵沢から小海までの路線だから、小海線という名前は不自然ではない
8:28
龍岡城駅
佐久市に合併前は南佐久郡臼田町
ホームの観光地図は龍岡城ではなく「星のまち・うすだ」
夜空がきれいというのはどこでもあるが、JAXAの臼田宇宙空間観測所が設置されている。
1986年に来るハレー彗星の観測のため、1970年代から日本も惑星間宇宙探査機を打ち上げる計画があった。
当時、人工衛星を打ち上げる技術はあったが、探査機を地上から操作する通信設備がなかった。その建設を目指し国内10地点を調査し、標高が高く湿気が少ない、また電波雑音も少ないということで臼田の国有林が選ばれ、1980年現地調査、1984年開所した。
一般見学施設もあるらしいが、駅に看板を作るほど、利用者はここで降りないだろう。

また近くの野辺山(南佐久郡南牧村)にあるのは電波天文学の聖地といわれる国立天文台の野辺山宇宙電波観測所である。

時間がないのでさっさと出発。
緩い上り坂を東に歩いていく。
8:36
左の畑は獣害除けのネット
右は大豆のように見えたが、別の畑でインゲンが生っていた。(背丈が短いインゲンは初めて見た)
このあたり、有名な佐久の高原野菜、すなわち広大なレタス、キャベツ畑は見えない。
足早に通り過ぎる。
8:39
目的地 龍岡城址に到着
しかし道路のわきに石垣があるだけで着いた感じがしない。
地図を見れば「桝形跡」とある。城の端だったのだろう。
しかし回りは普通の農村。
さらにまっすぐ歩き、右折すると五稜郭の稜の一つについた。

8:44
龍岡城の北の稜
五稜郭・龍岡城と城主大給家のことは別のブログで書く。

小海線の列車は9:20発で、それを逃すと11:43までない。
城に滞在できる時間は15分。
大手門跡の前の資料館の見物もあわただしく9時過ぎには城を後にし、駅から真っすぐ来た道に戻った。

正面に立派な寺がある。
9:05
蕃松院
このお城と寺の間の道は江戸時代からあったようだ。

道路標識をみれば右(東の山のほう)へ行くと新海三社神社という。
ん? 新海?
アニメ「君の名は」「天気の子」などを監督した新海誠は佐久の出身、野沢北高卒である。
この神社と関係あるのかと思ったら、彼の本名は新津誠で、出身地の南佐久郡小海町から海の字を入れたようだ。

さらに東へ行くと日本で最も海から離れた場所があるらしい。
〒384-0412 長野県佐久市田口 字榊山209-1
群馬県甘楽郡南牧村との境界付近。
最寄りの海岸からの距離: 114.86 km
1996年、国土地理院の調査で決定した。

それ以前は海から遠い場所がどこかはっきりせず、北海道の内陸という話も聞いたことがある。ちなみに、北海道で海から一番遠い地点は、美瑛岳から東へ約7 km離れた山中で、最寄りの海岸から 108.2 kmである。

新海三社は遠いから行けないが、蕃松院はすぐそばだから寄ってもよかった。しかし列車に遅れるのが怖かった。真っすぐの道をずんずん歩いて龍岡城駅に戻ってきた。

9:20
やがて左から小諸行きの列車がやってきた。
列車が止まると超満員。こんな田舎でなぜだ?!と思うほどの満員。
乗ると南アジア系の外国人ばかり。
インド人のような顔もあるし、中国人に似た顔もいる。共通するのは皆あどけないほど若くて日に焼けていること。

話しかけるほうが自然なくらいぎゅうぎゅうに彼らに囲まれた。
どこから来たのか? インドネシア。(多民族国家だから納得)
どこへ行くのか? 佐久平。
新幹線に乗って東京へ行くのか? ノー
じゃあどこへ行くのか? 佐久平。
ファームで働いているのか? そうだ。
 
後で思ったが、彼らは佐久平のショッピングモールに行くのだろう。

川上村などの高原野菜の産地ではかなり前から外国人が働いている。
2023年の数字だが、人口4000人の川上村は農家の約8割(400戸)が外国人技能実習生を受け入れていて、農繁期の在村実習生は1,100〜1,200人という。(NBS長野放送)
最低賃金や有給休暇、深夜割増賃金の遵守も当局から指導されている。
8月15日、土曜だかお盆休みだか、彼らはその休暇で遊びに行くものと思われる。

9:42 
無事佐久平についたが、混雑のため50年ぶりの小海線の景色は見られなかった。

(続く)


昔のブログ

2026年6月25日木曜日

月宮院での法事。北信五岳、鵤工舎、中野の曹洞宗

5月16日、母の3回忌、父の17回忌で信州中野に行った。
いつもは自宅に菩提寺の坊さんが来て行うのだが、今回はお寺でやった。
菩提寺は曹洞宗月宮院。
むかしは岩船の家から田んぼの向こう、山を背にした更科の部落の上のほうに見えたのだが、今は岩船、西条に家が立て込み、多分見えないだろう。

妹夫婦、弟夫婦と3夫婦6人だけでの法事、11時からだが早く着いた。
10:43
お寺の駐車場から見る北信五岳
昔はなかったビニールハウスが景観を損ねている。

母は1月、父は2月と寒い時期に亡くなったのだが、弟は命日など関係なく、一番季節の良いときにやってくれるから助かる。
もう少し前なら桃の花がきれいだっただろう。

北信五岳は北から「まみくとい」
それぞれの山名と標高は
斑尾 1382
妙高 2446
黒姫 2053
戸隠 1904
飯縄 1917

これだけ標高が違うのだが、距離の関係で良い場所だとほぼ同じ高さでしかも等間隔で見える。
かつて存在した東京南千住の「お化け煙突」のように、見る場所によって高さ、間隔が変わってくる。北信といっても長野市、飯山市では全く見えず、須坂では飯縄が大きすぎる。中野の西部、北部では手前の山が大きくて五岳が見えない。北信五岳というのは中野、小布施の、さらにごく一部だけで成立する言葉である。
12:23
帰るときに見た北信五岳
月宮院からの五岳の形は良いほうだと思っていたが、今回改めてみると、黒姫、戸隠、飯縄の間隔が近く、100点ではない。

妙高の左に小さく雪をかぶった山がある。地図を見れば北アルプスの白馬岳などではなく、その手前、金山(2245)、新潟焼山(2400)のようである。

戸隠も雪が残る。
子供のころ、五岳の標高を知った時から戸隠が黒姫、飯縄より低いのに遅くまで雪があるのが不思議だった。理由を探せば、他より西のほうにあり北西からくる季節風で積雪量が多いということくらいか。
西にある金山、新潟焼山が、同じ高さの妙高より雪が多いということも、この推測の確からしさを裏付けている。

本堂に向かう。
10:43
山門への参道
両側に常夜灯、入ると右に六地蔵。
10:43
常夜灯
裏に父や近所の「ひろちゃん」町田弘治の名前が彫ってあった。
「小林東助」は中学の時の担任の先生ではなかろうか。生きていらっしゃるだろうか。
この常夜灯はそれほど古くないから存命かもしれない。
10:44
山門の前で庭木の剪定をしている若者が二人いた。
一人に声をかけると長野市から来ている、とても感じのいい青年だった。
もう一人はあまり敏捷ではなく、切った枝を袋に入れるべく小さくしているのだが、年寄りのように地面に座り込んでいて、のんびり作業していた。
10:44
山門。
観光寺院でもなく檀家も少なく、これを維持するのは大変だ。
10:44
山門の中には農機具などがしまってあった。
と思ったら、除雪機だった。
冬、和尚さんが使うのだろうか。
10:45
本堂・金谷山
菩提寺の山号を初めて知った。
しかし寺号がなく、いきなり月宮院である。

「院」というと大寺院の子院・塔頭が多い。
上野寛永寺はかつて子院三十六坊を誇ったが、いまは護国院、養寿院など19の子院が周りに残っている。
ふつう、
寺:正式寺院、
院:寺内施設・子院・僧坊、
坊:僧侶の住居などをいう。
つまり「院」は本来、独立寺院ではなかった。
浄土宗の総本山、京都の知恩院は法然が比叡山を下りて、現在地に庵を立てて住んだのが始まり。天台宗など旧仏教側からは攻撃されたが、死後、弟子が再興し、四条天皇から華頂山知恩教院大谷寺の「寺号」を下賜されたが、院が寺の前にあり、知恩院の名が今に残った。
また青蓮院、三千院、妙法院は天台宗延暦寺の門跡寺院として皇室の子弟が入ったもので独立した寺ではない。

江戸時代以降、地方では地蔵堂、念仏道場、隠居寺などから発展した小さな寺では、正式寺号をもたず院だけ称する例が増えたというが、月宮院は近隣の寺と比べ、むしろ立派なほうである。
10:45
本堂の右(南)は和尚さんの住まい部分

私的なほうの玄関はこの裏(南)にある。
この広い寺に一人で住んでいらっしゃる。
たぶん私より二つ年少ではなかろうか。
独身であるため最近岡山のほうから後継者?がいらしたらしく一昨年の母の葬儀の時はその人もいたが、弟によると、このところ姿が見えないという。
地方の寺は檀家が減って大変とはよく聞くが、住職の跡継ぎもいない。
10:46
本堂の正面は開いていないので、住居部分との間の廊下から上がる。

10:47
本堂に上がるのは二度目か。
法事はいつも自宅だったから、ここに来たのは和尚さんを送ってきたときだろう。
いつもは隣の自宅のほうに送るのだが、ある時、ここに入った。

祖父母の法事のころから弟が運転して私が話し相手兼荷物持ちという丁寧な送迎だった。

私がまだ30歳そこそこ、和尚さんは私より若いが話好きで読書もかなりしているようだったから、私も当時読んだ面白い本の話などした。ロボット工学者・森正弘の「仏教入門」、「非まじめのすすめ」などを車中で紹介した覚えがある。
10:47
和尚さんは法事の準備をしていた。
正装前の姿は寝間着のように見える。
「月宮院」の扁額はここにかかっていた。

信州中野は曹洞宗が多い。
日本全体で寺院は約7万7,000箇所(コンビニの総数は約5万5,000店)。
最も多いのは浄土真宗の21,000。いっぽう曹洞宗は14,600あり、単一宗派としては最大だが、それでも19%である。
しかし、中野市では宗教法人として登記されている48か寺のうち、22寺(46%)が曹洞宗で圧倒的に多い。(リストはgemini)
曹洞宗が中野に多い理由は分からない。
単一宗派で1万以上もあれば、その指示系統というか組織の構造を知りたいが、知らない。
赤岩の谷巌寺がこのあたりの触れ頭のようだ。

ちなみに、北隣の飯山市は40寺あり、やはり19寺の曹洞宗が最大である。しかし浄土真宗が13寺もあるのが中野と違う。そういえば、「故郷」「朧月夜」の高野辰之が下宿し、また島崎藤村の「破戒」で主人公も下宿した「蓮華寺」のモデルは、その名もずばり真宗寺である。

・・・
さて、本堂の中を見回せばよく掃除が行き届いている。
10:48
本堂正面の入り口はいつ開くのだろう。

向こうに「一般東司」と書いた紙が貼ってある。東司(とうす)とは雪隠とともに寺院におけるトイレのことである。しかし参拝客用にという意味だろうか、「一般」という語が添えられているが、この二語のバランスは「微妙」である。
せっかく紙が貼ってあっても皆わからないのだろう、結局、となりに「トイレ」と書かれた紙が貼ってあった。

法事の場所は中央の本尊の前ではなく、左脇の位牌がいっぱい並んでいるところ。
家から持ってきた両親の位牌と、農協に頼んだ花と料理を飾る。
和尚さんが卒塔婆を持ってきた。
戒名は静岳美生居士と玅覚澄性大姉

この和尚さんは亡くなると家族にどんな人だったか十分取材して、その意味を込めた戒名を作ってくれる。4文字のうち、1文字は俗名からとり、2文字は生前の人柄を表す。私をはじめ葬儀の時に初めて見た人でも皆納得する戒名であった。

読経が始まった。
いつものように冊子が渡され、6人が和尚さんと一緒に読み上げる。
しかし毎回思うのだが意味が全く分からず、早く終わらないかな~と、ぼーっとしたりたまに参加して声を出したり。

宗派によって読むお経は違うのかどうか。そんなことすら知らず、毎回退屈だけを感じながらこの年齢になってしまった。

私だったら経典の全体像(体系)と本日読むお経の立つ位置、すなわちなぜそれを読むか話し、皆で読む文言の意味も大事なところは講義したい。もちろんその都度、解説する場所は変える。そのほうが参加者も心を込めて読経すると思うのである。
この和尚さんの性格だとそのようなことを喜んですると思うのだが、どっぷり昔からの習慣に浸かってしまうと、そういう素人の発想にならないのかもしれない。

やっと終わった。
和尚さんがお茶の準備に退出されたので少し写真を撮った。
11:38
法事の場所
古い「征露忠死者霊位」と最近の「再建帰依十方施主」といった大きな位牌のほかに一般人の位牌のようなものもある。
11:38
本堂の正面の須弥壇
本尊よりも人形のような僧形の座像が目立つ。
二体は昔の住職だろうか。中野は土雛で有名で、檀家の誰かが作って奉納したのだろうか。

それにしても本堂の掃除だけでも大変である。それが庫裏から境内まで掃除、手入れはとても一人ではできないだろう。もしやられているとすれば、彼の時間はほとんど掃除になってしまう。
11:40
妻が便所に行った。
案内の目印を見れば4枚もあり、「お手洗ひ所」、「一般東司」、「トイレ」の順に貼っていったのだろう。

上を見れば太鼓と鐘がある。
ここで叩けば外に聞こえず中はうるさいし、物置ならばほかに場所はいくらでもあるだろうし、下支えの柱もない高いところに置く理由が分からず。
11:40

和尚さんは独身だから家事まですべて一人でやられる。トイレがきれいだったかどうかは聞かなかった。

我々6人へのお茶も、熱いお湯を7つの湯呑にくぐらせてから急須にいれ、丁寧にお茶を入れてくださった。

以前、お茶をごちそうになったときは母屋(庫裏)の、山のほうを向いた座敷で、斜面を借景にした良いお部屋だった。そのことを言うと「いや~、もう草だらけで荒れてていて」と、私がほめたことで却って庭を見せてもらえなくなってしまった。

話題は20年ほど前に本堂の大規模修繕をした鵤(いかるが)工舎の職人さん、松を手入れする植木屋さんのことから教育のこと、ご自分のことも含め農村の後継者問題など。
読書をされ、市内のあちこちに出かけられるから話題は豊富で、発言量は彼が70%、弟が25%、私が5%ほど口をはさむ。後の4人は完全に聞き役。

昼時なのであまり長居はできず、30分ほどで切り上げた。
12:18
お茶をいただいた部屋
12:18
お茶の部屋から本堂前の庭と、例の、変わった仕立ての松が見える。
靴を履いて外に出た。

卒塔婆、位牌、花、料理を持ったのだが、料理(豪華な弁当のようなもの?)はどうするのか?
和尚さんに食べてもらえば良いと思うが、弟は仏前からの下がりものを上げるのは失礼と思ったのだろう、「料理は皆さんどうするんでしょう?」と聞いた。多分美味しいだろうが、和尚さんのほうも下さいとはいえず、「いや、持ち帰る方もいらっしゃいますし、いろいろです」としか言えない。二人で遠慮しあって、結局「できれば食べていただきたいのですが」と弟は渡した。
12:22
本堂を修復した鵤工舎(いかるがこうしゃ)はよくテレビなどに出た。
奈良の斑鳩にあると思っていたら本社は栃木県らしい。

鵤工舎は、小川三夫(1947‐)が奈良県生駒郡斑鳩町ではじめた寺社建築専門の建設会社である。小川は奈良斑鳩の西岡常一(1908年- 1995)のもとで修業した。西岡は代々、法隆寺専属の宮大工棟梁の家に生まれ「最後の宮大工」といわれたが、弟子をとらないことで有名だった。しかし高校の修学旅行で法隆寺五重塔に感動した小川は熱心に頼み込み、唯一の内弟子となった。
1977年、29歳になった彼は技術の継承の必要性を感じ、徒弟制を基礎とする寺社専門の建設会社「鵤工舎」を設立。1990年には株式会社として、本社を小川の故郷、栃木県塩谷郡塩谷町とした。
いま会社のHPをみれば、奈良斑鳩の他に九州にも作業所があるらしい。
平成30年以降の施工例も載っていて、その中に
 月宮院  設計・施工 庫裏改修工事
 長野県 平成31年4月ー令和3年12月
とあった。工期は2年8か月。割と長い。

これとは別に本堂の工事は父が生きていたころだから20年ほど前だ。その時もずいぶん長い期間、和尚さんは工事を見ていたのだろう。
それ以来、法事のたびに、読経の後のお茶の時間、和尚さんは、職人さんたちの、仕事ぶり、掃除から道具の手入れまで、「感心したこと」などを話してくださっていた。
12:22
真新しい庫裏の反対側(表)へ向かう道

12:22
昔から自宅での法事の後、和尚さんを送ってくるときはこちらの庫裏のほうに来た。
そのころとすっかり雰囲気が変わってしまった。

鵤工舎はたぶん仕事は丁寧、立派でも、ふつうの工務店よりは高いだろう。
農家ばかりの檀家も年々減ってきて、経済的に楽ではない月宮院にいたら、私なら、檀家がくる本堂は少し力を入れても庫裏のほうは、少し安普請にしてしまうかもしれない。
12:24
法事の後の会食は福田屋ですき焼き。
12:30から予約してあるというから急がねばならない。
12:25
ところが妹の旦那が、和尚さんにつかまり、本堂の屋根の説明を受けていた。
話が長そうで、弟が「すみませんが」と中断させた。
ようやく乗り込んだ2台の車は寺を離れる。
12:28
北信五岳をみながら更科の部落の坂を下りていく。
都会に出て行った若者は、親が死んだら戻ってこないから檀家はどんどん減っていくだろう。立派なお寺になったものの、和尚さんの後はどうなるのだろう。
 

以前のブログ