2020年8月24日月曜日

神田上水の謎2つ、どうやって川を越えるか?

1.掛樋(水道橋)跡は白山通りより高いところにあるが・・?
2.上水はなぜ南岸を通らなかったか?

神田上水は文京区関口で取水された後、関口(目白)台地、小日向台地、小石川台地の南端をとおって水戸屋敷に入り、今の水道橋の東で外堀(神田川)をわたり、猿楽町に至る。
嘉永6年
水道橋の東に上水樋が描かれている。
ここは行ってみればわかるが、お茶の水坂の中腹である。
水戸屋敷の東、小石川(千川)が流れる今の白山通りより高いところにある。

ここまで水は上がらないのでは? 
どうやって小石川を越えたか? 
本当は地形通りに下がらず、高架だったのではないか?

そんなことを考えながら現地に行ってみた。
雨で暑さは緩んだとはいえ歩くのは大変なので白山から2駅地下鉄にのった。
2020-08-23 11:04
JR水道橋駅の東口、水道橋北詰
、江戸時代は延焼防止か、広小路になっていた。
いまは中央線の向こう千代田区側に(左から)東洋高校、日大経済学部、東京歯科大のビルが並ぶ。文京区側と合わせ学校の多い地区だ。

振り返れば後楽園ドームホテル、黄色いビル、ラクーアなど。
ここは小石川台地と本郷台地の間の谷で、小石川(千川)が流れていた。
低地だから丸ノ内線は地上に出てしまう。
この谷に神田上水が下りたら、懸樋の場所までどうやって水が上がるのか?

懸樋(水道橋)を描いたレリーフ
ここは思ったより景色が良い。

11:07
白山通りに架かる橋は江戸切絵図の時代から水道橋といった。
橋の名前は目印となるものに「橋」をつける。
ここは東に水道橋(すいどうきょう)があったから水道橋橋になるのではないかとも思ったが、水道に橋を付けたと思えばいいのか。

暗渠の出口のようなものがある。
先月、江戸川橋のブログでも書いたが、洪水対策で白鳥橋下流で分流し水道橋下流で本川に合流する水道橋分水路の吐き出し口と、昌平橋下流で出るお茶の水分水路の吞み口である。神田川がJRと並行するようになってからは、江戸川橋分水路と異なり、川の北側に掘られている。同じ側に掘られたのだから、吐口と吞み口が並ぶのは当然である。

11:08
外堀通りのお茶の水坂を上がっていく。
このモニュメントは上水道の懸樋を表しているのかな。

振り向けば水道橋駅に出入りする電車

11:10
お茶の水分水路の記念碑
この下は水道橋分水路の吐き出し口でもあるはずだが、吞み口を優先するのかな。

ありました。目的の神田上水懸樋(掛樋)跡。
だいぶ白山通りから坂を上っている。
どうやって水をここまで上げたか?

水戸屋敷からこの掛樋までの上水路の流路を知るため、この日は近くの東京都水道歴史館に行くことになっていた。そのためには外堀通りを渡らねばならない。
11:14
ところが外堀通りは水道橋駅からお茶の水橋近くの順天堂大学まで、ほぼJRの一駅区間にわたって横断歩道がない。それどころか、南側はガードレールにまったく切れ目がない。ひとたび足を踏み入れたら次の駅に行くまで散歩を中断できなくなっている。仕方がないのでガードレールを乗り越えて車道を渡った。

水道歴史館は1,2階が展示室で、3階がレファレンスサービスのある資料室になっている。
今はコロナでレファレンスサービスは予約が必要。
行くと係の人が待っていてくれて、『上水記』(東京都水道局編・発行)を見せてくださった。寛政3年(1791)の作図である。絵図の文字を活字に変えた図が添えられている。
神田上水は水戸屋敷を出た後、大下水(千川、小石川の下流)を掛樋で越えたあと、「万年石樋」となって神田川掛樋まで伸びていた。つまり、密閉された暗渠である。

これなら現在のゲリラ豪雨でマンホールから水が噴き出すのと同じで、一旦低くなっても開渠部分の高さまでは上がれる。
つまりこうした低くくぐる上水樋は多くあった。

しかしそうだとしても、大下水の上と同じ高さまでしか水は上がらない。
11:39
「もりやま」は鰻屋

このあと2階の展示室を見たら、懸樋はお茶の水坂の地面からかなり下を通っていることが分かった。よく考えたら当たり前である。あの記念石碑の高さから懸樋が渡っていると錯覚していた。

11:40
これだけ低いところを通るからには豪雨洪水の時は上水懸樋は流されたことだろう。

しかしもっと西、つまりお茶の水坂の下の方で神田川を渡せば深く掘る必要はなかった。なぜ中腹まで持ってきたか? 今ある江戸の地図は中期、末期ばかりで上水建設時の地図が少ない。だが水戸屋敷すら通過したのだから有力大名屋敷、寺院があっても障害にはならなかったはずである。
正保年中江戸絵図(1644ころ) 国立公文書館蔵
掛樋の場所には吉祥寺があった。

さて、2つ目の謎。
神田上水は関口で堰き止めた後、神田川の北、文京区を流れるが、千代田区に水を供給するなら、上水は南を流せばよかったのではないか? そうすれば神田川を渡す必要もない。
この答えは、考えると同時に思いついた。
昔の神田川は飯田橋を過ぎたあたりから平川として日比谷に流れ込んでいた。大名小路や日本橋など江戸城大手門の東に給水するなら神田川の左岸(北)を流したほうがいい。

と、安直に思ったが、神田川が駿河台を切り開いて東に行ったのはいつか?
伊達藩が請け負った仙台掘は1620年、秀忠の時代に正宗が受け1625年完成した。そのご万治4年(1661年)までには船が通れるように拡張された。

一方神田上水のほうはよく分かっていない。『水戸紀年』によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年(寛永6年)とあるから、その少し前だろう。

すでに駿河台の掘削が始まっているから、北側を流しても南側を流しても、川や濠を渡ることは避けられない。

ひょっとしたら南ルートは低湿地が多かったのかもしれないし、あるいは神田上水の前の小石川上水の設備を使うため北に流したのかもしれない。

水道歴史館は分かっているだけでも1997、2012,2015、2019、につづき5回目である。
地形と歴史を両方考えるから面白い。


20200721 文京区と谷中の全228坂道ランキング

千駄木菜園 総目次

2020年8月23日日曜日

ひばりが丘団地と老人ホーム

8月21日、池袋から西武線急行で17分、ひばりが丘駅に立つ。

上野本郷、埼玉と京浜東北線を中心に生きてきた私にとって初めての駅だが、思ったより近い。
9:11 南口
駅前左手にコジマ・ビックカメラ、西友、アオキとシマムラ

2020-08-21
右手にパルコは、池袋、西武との関係の深さを思わせるが、それだけ駅が大きいということか。しかしノジマとユザワヤが目立つところが池袋、渋谷のパルコと違う。

バスにのってひばりが丘団地にいく。駅から狭い道を1キロくらいではないか?
2020-08-21
大きくて立派な団地。
写真の石垣にあるように、今は団地ではなく「ひばりが丘パークヒルズ」という。
ヒルがダブるが仕方ない。
神奈川の丘陵地帯と違い平坦で、「丘」という感じはしない。
ひばりが原、雲雀平、、。
ひばり野なんていい名前だと思うが。
昭和30年代のセンスか。

1959年(昭和34)、田無、保谷、東久留米にまたがる中島飛行機関連会社の跡地に住宅公団が造成した。
当時、日本最大の公団住宅であり、「マンモス団地」の最初であるほか、野球場、テニスコート、市役所出張所、緑地公園、商店街、学校、スーパーマーケットなどを敷地内に設置、後に建設される公団住宅の手本となった。

しかし最初であるだけに老朽化も進み、 建て替えが行われた。

高層化されたから空き地はさらに広くなり、建物も離れている。
もっと建てられたのではないかと思うほど、グラウンド、緑地もたっぷり。
写真左の緑は3階建ての立体駐車場である。

住み心地よさそう。

歩いていると懐かしい建物が残っていた。
上尾市尾山台団地にもあったな。
1フロア3戸、スターハウスというY字型の建物。
この旧53号棟は保存され、URの管理事務所になっている。

南に回るとパネルがあった。


上皇様、上皇后さまが皇太子時代に最先端の団地を見学に来たらしい。
焼け残った戦時中の木造、にわか安普請の長屋みたいなのしかなかった時代に、洋式の鉄筋コンクリートである。抽選倍率は高く、庶民のあこがれ、入居者も高収入サラリーマンなどが多かったらしい。

その皇太子たちが立たれた旧74号棟のベランダを記念に切り取ってもってきたわけだ。
お手植えの松、とかはよくあるが、お立ちのベランダというのは珍しい。
頼朝が座った石とかどこかにあったな。


それにしても美しい団地。

商店街があった。「ふれあいの通りPiPi」という。


団地の建物は新しくなったが、今の人は個人商店で買う習慣がなくなり、シャッター街と化している。シャッターどころか、一般住宅になってしまった商店もあった。
道路の左は西友である。
ちなみに、すかいらーくは、1962年ちいさな干物食品店「ことぶき食品」としてひばりが丘団地で創業、1970年にファミレス1号店を出した。社名のsky larkはひばりである。

(ところで今スカイラークという店はないって知ってた?2009年、最終店閉店)
団地というのは同じ世代のものが一斉に入居し、一斉に年を取る。
1960年に40歳だった人は今100歳か。すでに孫の世代になり、年齢層はばらけているだろうが、年寄りが多いことは間違いない。

特養老人ホーム・福寿園
団地内の郵便ポストは円筒形
老人ホームが敷地内に多かった。
2世代、3世代が同じ敷地に住める。

旧53号棟につづき、また古い団地が残っていた。旧94号棟。
(いまは3街区、5街区などと分け、3-2号棟、5-3号棟とよぶ)
2020-08-21 10:11
懐かしい建物は日生ケアビレッジと書いてあった。
ここは日生が運営する複合施設。
1984年(株)日本生科学研究所として設立、日生薬局を展開、介護、保育、食品にも進出、発展、2014年にURと共同でこの施設を開設した。

1.日生オアシスひばりが丘:サービス付き高齢者住宅。団地の旧94号棟をそのまま使用。
2.日生グループホーム:認知症が出てきた人が対象
3.小規模多機能ホーム:デイサービス、訪問看護拠点
4.日生薬局:訪問調剤もする
5.てらむらクリニック:内科

以上がゆったりとした敷地に隣り合って配置されている。
駐車場もあるから子供たちが様子を見に来るにも便利だ。
なお、1に住む高齢者は基本的に自立生活できる人たちだが、3に頼めば3食作ってもらえる。
今後どんどん増える老人たち、老人ばかりになる公団住宅に対する新しい実験的、先駆的施設として期待したい。

ちなみに、日生は昨年2019年からミアヘルサに社名変更した。
懐かしい公団の94号棟の裏に回ると階段室の横にエレベーターが増築されており、外見は懐かしくとも中身はバリアフリーとなっている。

11:21
猛暑の中、ひばりが丘駅に戻ってきた。
もう決して光が丘と混同することはない。

複々線の踏切

1924年(大正13)武蔵野鉄道の田無町駅として開業。
この当時、いま田無駅のある西武新宿線はなかった(ともに1927年開業)。
旧田無町の北端から外れた保谷村の当駅が田無駅開業まで田無町への玄関となった。
(一つ池袋寄りの保谷駅は1915年開業)

1959年(昭和34) ひばりが丘団地の造成に併せ、ひばりヶ丘駅に改称。
その後人口増加して市となった保谷と田無は、2001年合併して西東京市となった。

西東京市といわれてもピンとこなかったが、市域の北と南を西武池袋線、新宿線が通り、東は練馬区、南は武蔵野市、西は小金井、小平、東久留米、北は新座と接す。
ずいぶん勉強になった。



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2020年8月22日土曜日

梅雨で弱ったネギを干して夏越し

ネギは高温多湿に弱いというイメージがある。
実際、株ネギなどは6月過ぎるとどんどん元気がなくなり、溶けるように消えてなくなってしまうものも多い。(昨年、今年)
深いと根腐れ病を起こしやすいから、浅く植えて夏越しし、彼岸から土寄せ追肥、というのがネットの情報。
一方、九条ネギは1か月干して、夏の終わりに植えると分けつ旺盛という話もある。

そこで、梅雨の終わりにネギを掘り起こした。
2020-07-30
株ネギ
冬に八百屋で20本泥付きを買ってきて、葉っぱだけ食べて10センチほど植えて置いたもの。15株(17本)に減っていた。

九条ネギ(奥)と雑ネギ(手前)
それぞれ20株(33本)と22株(26本)
「雑」とは食べたあとに株だけ植えて、種類が分からなくなってしまったもの。


2020-07-30
以上3種類を二等分して、半分を再びうえ、半分を干した。

2020-07-30
葉っぱももったいないので半分食べた。

2020-07-30
雑ネギは全部抜かず、一部は冬以来そのまま。
これだけあると安心して実験できる。

日陰に干す。
8月に入ると連日猛暑でどんどんしなびていく。
2020-08-19

これ以上干すと枯れてしまうのではないか。
しかし植える場所がないし、1か月経っておらず早く植えたら腐るかもしれない。
数日迷っている。
2020-08-08
ナスはハダニにやられ、マラソン耐性か駆除できないので抜いてしまった。

2020-08-19
ナス、トマトを抜いて空き地はあるのだが、ここは9月以降ダイコン、ハクサイ用なのでネギは植えられない。

と、そうこうしているうちに干しネギはますます枯れた。
ネット通りに1か月、あるいは夏の終わりまで待ったら全滅する。
かといって今植えたら早いかもしれない。
2020-08-22
7月30日干さずに再び植えた半分のネギはそこそこ生きているので、干しネギは好きに使ってもいいだろう。早めに植えることにした。

2020-08-22
九条ネギ(左右)と株ネギ(中央)
株ネギは細い株が多かったので、枯死しているものが多い。
2,3本くっついている株を引き離すのはラッキョウを夏の終わりに植えるのと似ている。

2020-08-22
雑ネギは植えっぱなしの雑ネギのとなり、サツマイモの蔓をよけて場所を作って植えた。
やはり細い株は枯死していた。

これで、1.植えっぱなし、
2.植え替え、
3.干しネギ
のどれが良いか、分かるだろう。


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2020年8月21日金曜日

菊富士ホテル跡地の下はオルガノ

本郷の古い路地に入り、フォレスト本郷、徳田秋声旧宅、赤門アビタシオン、法真寺など書いてきた。
2020-08-09 11:15
本郷は車社会以前に家が建てこんだから、こんな路地の奥にも家が多い。
そこに斜面も加わるから独特の町になる。

11:21
入っていくと板壁の木造家屋が残っていたりする。

11:21
こういう都会の密集地で建て替えすると、こんな雨に濡れない抜け道ができる。

抜けたら菊坂だった。

11:24
本妙寺坂(ほんとは菊坂を挟んだ向かいの坂)をのぼる。
一帯は明治になって染井墓地の北に移転した本妙寺の境内だったところ。

坂の上を西に入る。
 
菊富士ハイム、アネックス菊富士というマンションを過ぎる

11:25
本郷菊富士ホテル跡は初めて来た。

中央の石は
由来
明治三十年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し大正三年五層楼を新築 菊富士ホテルと改名し営業を続けたが昭和二十年三月十日第二次大戦の戦災に依り五十年の歴史を閉じた 此の間菊富士ホテルに止宿した内外の文学芸術思想医科学政治経済各界に亙り多くの逸材を輩出 近代日本の歩みに曙光を放ちてその名を今日に及ぶ。この菊富士ホテルの名を永く記念する

右の石は
主な止宿者 
石川淳 宇野浩二 宇野千代 尾崎士郎 坂口安吾 高田保 谷崎潤一郎 直木三十五 広津和郎 正宗白鳥 真山青果 竹久夢二 三木清 中條百合子 湯浅芳子 大杉栄 福本和夫 伊藤野枝 三宅周太郎 兼常清佐 菅谷北斗星 下村海南 青木一男 小原直 月形龍之介 片岡我童 石井漠 伊藤大輔 溝口健二 高柳健次郎 エドモンド・ブランデン セルゲイ・エリセーエフ

本郷の下宿屋、旅館の多く(8割とも)は岐阜県、西濃出身者が開いた。
菊富士もそうだし、朝陽館、本郷館、鳳鳴館、みんなそうである。
11:26 
昔はここから菊坂の向こうに富士が見えたのだろう。

菊富士ホテルは地下一階、地上3階、上にドームがあり、坂下から見ると5層の大廈で、大正3年(1914)に立った時は帝国ホテル、日比谷ホテルと並んだ。東京オリンピックに備えたオークラ(1962)、ニューオータニ(1963)はずっとあとである。

すぐわきの崖下はどこかの工場。
その工場をぐるりとまわると
11:27
下宿 赤心館 跡
1908年石川啄木が北海道から3度目の上京、本格的に東京で活動をはじめた。
郷里の先輩、金田一京助が住んでいたこの下宿に住んだ。当時このあたりは本妙寺の境内だった。
啄木はこのあと森川町蓋平館に移り、その後弓町喜之床、小石川久堅町に転居し4年後の1912年死去。
特に啄木には関心ないのだが、文京区を散歩しているうちに2度目の上京(1902)で初めて東京で暮らした下宿先(音羽、八幡坂)もあわせ、全て写真を撮ってしまった。

11:28
赤心館から西をみると長泉寺

11:29
知識も思い出もないと関心もない

山門から菊坂に出られそう

11:29
不許葷酒入山門 
という門柱を初めてみたのは40年以上前のこの寺だった気がする。
山門と石柱が菊坂の通り沿いにあったというのは記憶違いか。

11:32

11:33
ここまできて菊富士ホテル下、赤心館跡の工場がオルガノだと判明。
蒸留水製造装置の会社として1946年諏訪で創業、1955年本社をここ菊坂に移転した。
1986年には戸田に総合研究所を作った。
1997年本社を東陽町に移転、ここはオルガノプラントサービス株式会社となったが本郷菊坂には場違いの風景。
これだけ広い敷地、マンション用地として高く売れるだろう。





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