2024年7月31日水曜日

五輪選手村のエアコンについて

テレビはどこもオリンピックで盛り上がっている。
世の中、オリンピックなど関心がない人がいっぱいいるのに、テレビのアナウンサーや有名人は誰もが熱く語り、まるで全国民が熱狂しているように報道している。
そもそも「熱いプレーに勇気をもらった」と何度も出てくるが、競技を見て「勇気をもらう」とは、日本語として意味が分からない。しゃべりのプロとして、こういう言葉を頻繁に使って恥ずかしくないのだろうか? 意味なく、はしゃいで、褒めて、スタジオを盛り上げるのが仕事かもしれないが。

オリンピックと一緒にテレビで繰り返し言うのは、猛暑と熱中症。
どのチャネルも、危険な暑さだから外出は控えエアコンを十分に使えという。
夜中もスイッチを切るなという。

テレビ、政府、自治体はやたらと視聴者、市民の健康を心配している「ふり」をする。
特にテレビは大げさに言うことが仕事だと思っている。
熱中症で倒れた、搬送された、という事件があれば、喜んで飛びつく。それが全国一斉に起きているかのように報じている。暑さは全国一律だから、危険も一律、搬送も全国各地で多数という印象を与える。

NHKでさえ「命にかかわる暑さ」というが、この表現は正しいか。もともと弱い人は別だが、普通の人は暑さ程度で、そう簡単に死ぬものではない。めまいがしたら休めばいいだけのことだ。私なども炎天下で草取りすれば、すぐ立ち眩みする。夏なら昔から当たり前のことだ。
2024₋07₋29 13:50
私の部屋は37.0度
この日、佐野で41.0度(14時)を記録した。
この暑さは異常だと思う。

しかしながら、集中豪雨、土砂崩れで家が流された映像には心が痛む。
(心が痛むという表現はテレビ的で、正しくは、大変だろうな、可哀そうだなと同情する)
今まで梅雨明けの豪雨は西日本に多かったが、今年は秋田、山形。
10年に一度の豪雨というが、家を流された人にとっては、先祖代々、何百年に初めてのことだった。
これからは思ってもいなかった場所でこういうことが起きるのではないか?
2024₋07₋28
イチジクは木が大きいわりに実が生らない。
後ろの甘夏と対照的。
切ろうかと思っている。

毎年繰り返される豪雨被害は、地球温暖化のせいだと言われる。
ほとんどテレビを信じない私も、これは正しい気がする。
海水温が上がるから蒸発量が増え、雨が増える。夏はどんどん熱くなり、その上昇速度は年々速まっている気がする。

かつては海面上昇でツバルなどの危機が報じられたが、日本はそれ以前に、家が流される心配が出てきた。
しかし地球温暖化の問題は、それが社会的な運動につながることはない。ほとんどの人は、地球が2,3度上がっても自分の家が流されることはないと思っている。

能天気に「命に危険な暑さ」だから「一日中冷房を使いましょう」では、地球温暖化、酷暑化、砂漠化をどんどん進めてしまう。

このブログではエアコンを使えば使うほど暑くなることを何度も書いてきた。
学生時代に熱力学を学んで以来、個人的信念のようになっているから、ブログを始めた早々の夏に、エアコンがなければ夏が涼しくなると、書いた。

1つ目のブログ

エアコンで2度下げようと思ったら、同じ体積の空気を3度も4度も上げる。つまり室内と、室外機から出す空気を混ぜたら、当然、エアコンなしの場合より上がる。プラマイゼロにはならない。
室外機の排熱は、自分の部屋をきれいにするためなら、ごみを隣家の路上に捨てるという狼藉と同じである。

パリの地下鉄は冷房がないそうだ。
エアコンを入れればトンネル内から熱が出ないため、車内の冷気と排熱されたトンネル内の空気を足すとかえって暑くなるからだ。オリンピック前にこの話がテレビで出た時、エアコンの発熱という問題が広まるチャンスだと思った。しかし、その報道番組のコメンテーターは、日本のようにトンネル内も冷やせばいい、と言ってがっかりした。トンネル、駅を冷やすために、その上空には相当な熱が出されるということは問題でないらしい。その熱が自分に降りかかってきたら、エアコンをさらに強くするだけで済む。

さて、ブログを始めた2017年、我が家にエアコンはなかった。
しかし妻の体調が悪い時、その原因がすべて暑さによるものとされるため、家族・親戚の圧力に屈し、とうとうエアコンを入れた。

2つ目のブログ

しかし、設定温度は30度にしている。
これでも十分涼しく、外でかいた汗はひく。
夏は30度になるのは当たり前だ。

「冷房をガンガンに効かす」という表現をよく耳にする。
明るくて元気な人が、面白おかしく、口にする。しかし、これは本来恥ずかしい言葉ではないか?

冷房は気持ちがいい。
私も認める。
ほんとに気持ちがいい。生物の本能だな。
しかし人間はいろんなことを考える生物だ。
冷やすために、それ以上の熱を周囲に振りまいている。これがさらに周囲のエアコンを稼働させ、地球を暖め、がけ崩れにつながっていくことを想像できるはずだ。

今ブログ内で検索したら昨年も書いていた。

3つ目のブログ

これは二酸化炭素・CO2を悪者している国家、国民レベルの間違いを書いたもの。
私が間違っているか、国家・国民が間違っているか、判断してほしい。
カーボンニュートラルを目指し、CO2排出の国家、企業間取引など、その愚かさに煮えくり返るほど腹が立った。
テレビなどに洗脳された国民は目の前のCO2さえ削減すればいいと思っている。
CO2を出さない電気自動車、水素エネルギーなど、すべていいものだと思っている。
自治体は無公害として税金で高価な電気自動車を買って喜んでいる。馬鹿なのか業者と癒着しているのか知らない。
電気自動車の電気、また水素を作るためにどのくらいCO2を出しているのか知らないのか?

資源エネルギー庁と三井物産は、アンモニア発電を次世代エネルギーとして開発に力を入れている。燃やしても窒素酸化物と水しか出ず、CO2を出さないクリーンエネルギーだという。
馬鹿じゃないか?
アンモニアの原料である水素はどうやって作るのだ? 水素があるならアンモニアなどせずに、水素をそのまま燃やすほうが燃料としてずっとクリーンで効率的だ。
その水素は、1.石炭など化石燃料から作る、2.水を電気分解して作る、という。
こんなバカな話があるか?
1なら従来の化石燃料をそのままエネルギーとして使えばいい。2なら電気をそのままエネルギーとして使えばいい。まさかアンモニア発電で作った電気で水素を作るんじゃないだろうな?

高校の物理で習うと思うが、すべてのエネルギーは、運動、位置、熱、化学、光、電磁気、核力(質量)など形態はさまざまでも相互変換が可能である。例えばアンモニアや化石燃料、水素は燃やして熱エネルギーにして、それで発電タービンを回し、電気エネルギーにする。太陽の光エネルギーは水の化学結合を分解し、化石燃料の化学エネルギーとして蓄えられる。ガソリンはエンジン室で燃焼し、その化学エネルギーは熱エネルギーを経て空気分子の運動エネルギーに変換され、シリンダーピストンを動かす。

しかしエネルギーは100%は変換されず、その差は熱となって放出される。つまり、アンモニアを燃やすより、その原料の水素を燃やすほうが無駄がない。さらには、その水素を燃やすより原料エネルギーである電気を、石炭を使ったほうが、はるかに効率的なのである。
水素もアンモニアも、問題は製造コストという。当たり前である。エネルギーは変換するのにコストがかかるだけでなく、変換するたびに減っていくのだから(熱としての損失分を足せば不変)。

こういう馬鹿なことをするのは、当事者が無駄と分かっていても、実用化が無理だと分かっていても、「次世代クリーンエネルギーの研究開発」と宣伝すれば自分のプロジェクトに金(税金)が入るからである。

話がそれてしまったが、しかし、3つ目のブログで言いたかったのは、地球温暖化にとってCO2よりも「熱」が問題ということである。
原子力発電はCO2を出さない。しかし、発電に於いて大量の冷却水で熱を海に出す。風力、水力だって熱を出す。一番の問題は末端消費で電気を使うところで電気が大量の熱に変わることである。エアコンは先に述べたし、電気自動車も最終的には電気はすべて熱に変わる(モーター、タイヤの摩擦熱など)

街を歩いていて、入口を大きく開けた店舗から冷気が歩道に出ている。気持ちいい。しかしそれ以上の熱を屋上から出していることに複雑な気になる。

月面のように大気がなければ熱は宇宙に放散されるが、空気と海水、樹木に覆われた美しい地球は、熱が気体分子、水分子をはじめ多くの分子の運動エネルギー(=熱)となって蓄えられ、気温水温を上げていく。熱の前に、世間が騒ぐCO2など大した問題ではない。

この熱を止めるには、経済活動を制限するしかないから、無理だろう。
しかし家が流されるのをかわいそうと思うなら、冷房は控えめにする気配りがあってよい。駅のエスカレーターなど廃止すればよい。

もちろんオリンピックの大騒ぎはやめたほうがいい。
ところで、せっかくフランスがエアコンなしの選手村を用意したのに、金持ちの米国、英国、日本、イタリアなど主要国が実費で簡易エアコンを発注。パリ五輪の組織委員会によれば、すでに2500台の配備が決まっているという。(ヤフーニュース、2024₋07₋28)
多くの日本国民、マスコミは「選手の健康を第一に」とエアコン容認だろうが、エアコンがなくても健康を害するわけではない。自分のポケットマネーならまだしも、国から強化費をもらっているなら、遠慮してほしかった。エアコンを入れない他の国と同じ条件で戦うべきだろう。
2024₋07₋28
初めて作った白ナス。

2024₋07₋28
ダンス練習場で、家庭菜園で作ったと野菜を差しあげたら、「どんどん日焼けしてくるから何をされている人だろうと思ってました」と言われた。
2024₋07₋28
スイカが大きくなってきた。

今年はハンディ扇風機を持っている人が目に見えて増えた。
佐高信がこういう人を批判していた。彼の言動はあまり好きではないが、エネルギー問題ではなく、自分だけ涼しければよいという身勝手さを批判したらしい。

しかし人間は、地球温暖化を心配できる一方で、貪欲に快適さを求める生物でもある。
暑い時に涼しいのは気持ちがいい。
気軽に買える便利な装置があるなら、使う生き物である。
私も含め、人間は存在自体が、地球温暖化に突き進む生き物だろう。
SDGを言う人は、偽善者か、無知な人だろう。

トマトやキウリを畑でもいで齧るよりも、大人数の手間暇とエネルギーをかけた懐石料理やフランス料理のほうがずっとおいしい。それを食べるために、毎日、エネルギーを消費する現代社会の歯車となって働いて、金を稼ぐのが人間というものだ。

そのうち東京湾の水位が上がり、荒川が氾濫して京浜東北線の東がすべて水浸しになっても、やはり人間は、涼しい部屋は気持ちがいいし、美味しいものは美味しい。
地球温暖化を心配するより、現在の五感を気持ちよく刺激するほうが、人間らしい。

100年後、谷根千の不忍通りの谷は縄文時代のように東京湾が入ってきている。我が家のあたりはエアコンの効いたドームに覆われ、そこで人々は暮らす。戸外に出るには遮熱服を着なくてはならない。外はサバンナのような灌木がまばらにあり、21世紀前半までいた動物は、昆虫以外姿を消し、脊椎動物は海中と地中に生き残っている。
人間は毎日エアコンの部屋で昼寝し、美味しいものを食べるが、たまに外に出て、不忍湾の熱帯魚をとるのがスポーツになっている。湾の向こうの上野公園もドームで覆われ、もはや自然界には存在しない動物たちが過去の映像とともに檻の中で飼われている。「自然」とは戦うもので、もう「自然保護」などは死語になっている。

と、東京の地球温暖化をエアコンのせいにしているが、本当だろうか。
テレビの言うことではなく、自分でデータを見るのがまっとうな人間である。
気象庁のHPから過去の全国各地の気温データが入手できる。
そこで1878~2023年、146年間の日中最高気温の月別平均(東京)をグラフ化した。
中央の太い青線(ばらつき少ない)は年平均。
これを見ると温暖化はエアコン以前からずっと始まっており、残念ながら、エアコンで加速したということも、簡単には読めない。昨年は高かったが、あと2,3年を見る必要がある。



2024年7月18日木曜日

スイカが大きくなってきた

(健康で、暇なのに)2週間以上ブログを書かなかった。
自分では文章を書くのが好きだと思っていたのだが、そうでもないようだ。
面倒くさがりのほうが上回る。
今まで書いていたのはスマホで写真を撮ると記録しなくてはいけないという義務感からだった。スマホを見ると数枚写真があったので書く。

7月18日、今年も梅雨が明けた。
2024₋07₋17
この時期、庭は草だらけになっている。
写真には4番畝(左)にゴボウ、オクラ、パプリカ、インゲン、
3番畝(右)に落花生、トウモロコシ、
向こうの2番に枝豆、1番にナスが見える。
2024₋07₋17
5番、6番畝はサツマイモ。
今年は例年より少し早く(6月30日)植え終えたが、芋からの自家製苗のため、発育は他所より遅い。
2024₋06₋25
今年は7番畝で実験的に土饅頭を作り地面の表面積を増やして植えてみた。
2024₋07₋17
しかし、初めて作ったスイカの蔓が土饅頭の上に伸び、サツマイモを覆って実験にならなくなってしまった。

スイカは2株のうち、こちらは3個、5番畝の株は1個生っている。
(写真では手前に1つ、奥に包んだネットの緑が1つみえる)
毎朝人工授粉はまめにやったが、ほとんどの雌花は実にならず、豆粒大の状態で腐る。
人工授粉の有無は関係ない気がする。
2024₋07₋03
この日の収穫、白ナスを初めて作った。

今まで何十年も、都会の狭い庭では旨い野菜、果物は作れないと思っていた。
甘くないスイカ、カボチャ、リンゴ、ミカンほどつまらないものはない。
そこで味がなくてもなんとか食べられる、ナス、キウリ、トマト、白菜、キャベツ、などを作ってきた。

しかし、温州ミカン、イチゴ、柿などの成功から、この地でも甘いものを作れることが分かり、現在、不知火、せとか、イチジクなども育てている。その流れで今年はスイカを作ってみたのである。

6月は美味しいメロンを頂いた。
2024₋06₋30
食べて捨てた生ごみから出たメロン。
茨城県産、イバラキング。
今からだとちょっと遅い。
種を保存してあるので来年はスイカと一緒に春先にまいてみよう。
カボチャも挑戦してみるか。
2024₋07₋08
トウモロコシも、甘くなければ食べる(作る)意味がない野菜である。
しかし、品種改良の結果か、あるいは粒が少なく糖分が集中するからか、千駄木菜園でもそこそこ甘い。
しかし、今年も世間並みには育たなかった。
肥料をケチるからだろうか。
2024₋07₋08
数年前と比べれば、少しはましになっている。
来年は作るかどうか迷っている。
トウモロコシは枝豆同様、栽培期間が短いため、隙間作物として重宝なのだが。


千駄木菜園 (総合)目次


2024年7月2日火曜日

香川9 金比羅と金刀比羅の違いは何か

6月11日、日帰りで香川県に来て、高松、国分、丸亀、善通寺に立ち寄って、最後は琴平に来た。

琴平、金刀比羅、金比羅(金毘羅)の関係が分かればいいなと思いつつ、善通寺から1駅だけ電車に乗った。

16:16
土讃線琴平駅
ここの駅舎も、隣の善通寺駅ほどではないが、古い。
1889年(明治22年)開業、1922年、駅が現在地に移転、1936年現駅舎竣工。
格子天井に市松模様の床は、おしゃれである。団体観光客に合わせたのか中が広い。
16:16
駅から西にまっすぐ道が伸びる。
両側に狛犬と石灯篭がならび、早くも参道のようだ。
正面の山は象頭山(ぞうずさん)、中腹に金刀比羅宮がある。
高松の屋島に似たメサ(火山性の残丘台地)であり、この独立峰の北(右)のふもとは善通寺、西に越えれば三豊市にいく。

とりあえず、駅からまっすぐ歩く。
16:21
旗を持ったガイドに連れられた行列とすれ違う。
今時珍しい。
向こうはJR琴平駅。

公園があって子どもたちがボール遊びをしていた。
高い灯籠がある。
16:22
金刀比羅宮北神苑。
名前は立派だが、地元の子供たちにはただの広場。

高灯籠は、幕末の1860年に完成、高さ27メートルは日本一。光は丸亀沖まで届き、船上から海の守り神、金比羅山を拝むとき目印になったという。
他に高い建造物もなく、夜は灯りもなかった当時は見えたかもしれないが、本当かと思って地図を確認すると、西は象頭山、東は小さいが如意山があって、瀬戸内海は割と狭い範囲からしか見えなかったと思う。しかし彼らは見える範囲が分かっていて、船がその場にさしかかると手を合わせたのだろう。

高灯籠のすぐ隣は琴電・琴平駅。
16:22
琴電・琴平駅
こじんまりとした終着駅。
「琴電」は高松琴平電気鉄道株式会社の略。
「ことでん」と略称しうる電鉄会社は、ほかに琴平参宮電鉄(琴参)、琴平急行電鉄(琴急)があり、かつて善通寺の陸軍第11師団のそばまで行っていた路線は琴参である。

琴平は、今では考えられないが、昔は四国の玄関口高松と同じくらい重要な場所だったようだ。
1.国鉄土讃線の琴平駅は1889年讃岐鉄道の駅として開業した。
しかし、2.琴参が、1922年に丸亀―善通寺間を開通させ、翌年琴平まで延伸した。
3.現存する「ことでん」高松琴平電鉄は、その前身のひとつ、琴平電鉄が1927年、高松栗林公園から琴平まで開通。
4.琴急は一番遅く1930年に参入した。しかしすでに過当競争であり、1944年鉄道路線を廃止、琴急は琴参に吸収合併された。そして琴参も1963年に鉄道事業から撤退、現在はバス路線のみ維持している。
16:23
大宮橋。下は金倉川。

橋を渡り、突き当りまで行き、左折、南に歩くとだんだん土産物屋や食堂が増えてくる。
16:29
一の橋西詰めまでくると、西に琴平宮まで向かう表参道の一番下にでる。
骨付き鳥、中野うどん学校など讃岐名物の看板が並ぶが、平日夕方のせいか観光客はあまりいない。こういうところはもう少し賑やかなほうが雰囲気ある。

「日本最後のご当地ラーメン」という讃岐ラーメンの看板があるが、どういう差別化を図っているのだろう? 麺がうどんだったりして。
16:30
右の西野金陵本店は1789年創業、金刀比羅宮のお神酒を作っている。
その隣の御宿・敷島館は、2019年共立リゾートがかつて国の登録有形文化財に指定された「敷島館」の古材を用い、中は現代的に、外は老舗のホテルを再現したもの。
しかし琴平は全体的に外部資本が入らず、小さな土産物店まで長い歴史を持っているような(要するに古い)町である。
16:32
歩く人の多くが杖を持っていたので記念に買ったのかと思ったら、レンタル杖。
一本100円。
持てば荷物(邪魔)になるかと思うが、雰囲気は出る。
石段は785段あるらしい。
16:33
石段が始まると両側の店も近くなってこんぴら参道の雰囲気が出てくる。

さて、金毘羅さんとは何か?

金比羅さんを初めて聞いたのは小学校のころ。
ふるさと信州中野の岩船には部落名ともなった岩船地蔵があり、その横に浄清寺という曹洞宗の寺がある。この寺と地蔵堂の間に、神仏習合の時代を思わせる、「金毘羅大権現」と彫った石柱と鳥居をもつお堂があった。

ひとびとは、その一帯を、「お地蔵さん」とも言わず、もちろん浄清寺ともいわず、「こんぴらさん」と呼んでいた。
そのせいかどうか、小学生のころ、部落の氏神・岩水神社の御柱祭で、「岩水神社の歌」、「中野小唄」に加え、「金比羅ふねふね」を歌った。一日中、柱を引っ張って部落内を練り歩き、その間何度も繰り返し歌ったものだから、今でも歌詞を覚えている。

金比羅船船
追い手に帆かけてシュラシュシュシュ
回れば四国は讃州那珂の郡、象頭山
金比羅大権現
一度回れば
(以下最初に戻り、永遠に終わらない)

歌詞など渡されなかったから「追い手に帆かけて」のところは「お池に帆かけて」と歌っていた。もちろん「讃州那珂の郡、象頭山」も何であるか知らず、象頭山(ぞうずさん)は「ゴゾサン」と歌った気がする。

ちなみに今、那珂郡は存在せず、海側の多度津、善通寺があった多度郡と合併し、仲多度郡となった。つまり琴平駅、金刀比羅宮は、仲多度郡琴平町である。
16:34
石段は785段のうち、ここで22段目。

今から登る神社の公式名称は「金刀比羅宮」である。
琴平町は、江戸時代、那珂郡金毘羅村といい、明治6年に琴平村と改称した。
つまり琴平は金刀比羅の簡略表記のようであり、金刀比羅と金毘羅がそれぞれ何であるか分かればよい。
16:35
「手荷物預かります」という幟。
このあたりで荷物が重く感じる人がいるのだろう。

16:37
100段目にある松浦百段堂という土産物店。

16:38
105段目に鳥居と地図があった。
鳥居の文字は「世界平和」と「四海平穏」
16:38
御本宮まで「あと685段」とある。
その先に白峰神社と奥社がある。

さて、金刀比羅と金比羅。
さきに琴平は金刀比羅の新表記ではないかと書いたが、逆かもしれない。
こんぴらさんの正式名称「金刀比羅宮」の由緒によれば、象頭山(琴平山)の中腹に大物主命をまつったコトヒラ神社が建てられたのが始まりとする。表記は万葉仮名のような「金刀比羅」と簡単な「琴平」の両方あったのではないか?
(コトヒラが何かは不明だが)

仏教、特にこの地域に縁のある空海が持ちかえった真言密教には、もともとインドの様々な民間信仰、神々が取り込まれている。その中にクンビーラという、ガンジス川のワニを神格化した守護神があった。その宮殿がインドの象頭山(ガヤーシールシャ、伽耶山とも)にあったせいか、クンビーラは、象頭に似た琴平山のコトヒラ宮境内にあった真言宗松尾寺の本尊・釈迦如来の守護神となったという。

つまり、金刀比羅(コトヒラ)と金比羅(クンビーラ、のち金比羅大権現)は、金、比(毘)、羅と共通文字は多いが、偶然の一致にすぎず、両者は由来からして全く違うものだろう。

一方は地名・神社名、他方は神ということである。
16:39
168段。
神社と仏教神が一緒になるのは、当時は普通のことで(神仏習合)、コトヒラ宮は祭神の大物主命より、松尾寺守護神だった金毘羅大権現のほうが有名となった。
そして、ワニや蛇は水に関する神で、海神、水神として、海上安全、海難救助、また農業では雨乞(あまご)い祈願をされるようになったわけである。

(航海の神・港の神としては、住吉大社が有名であるが、こちらは海を越えて三韓征伐をした神功皇后と海の神である筒男三神をまつり、また遣唐使船などが出発した難波津にあったことで海・港の神となった。)

室町以降、瀬戸内の海上交通の発達、また塩飽水軍などの活動とともに、金比羅信仰は広く航海、漁労関係者の間に広がった。祈祷で大きな木札を賜った漁師たちの中で難破した際に、船に祀っていた木札につかまって命拾いしたという話も信仰を強めた。

江戸時代に入ってからは、廻船の発達で、全国に金比羅権現が勧請され、さらに伊勢参りのように、金比羅講を組織しての琴平詣でが全盛を極めるに至った。先に書いた民謡の「金比羅船船」は、元禄のころから、彼らが道中で歌ったという。リズムと言いメロディといい、今聞いても新しいから、当時は流行っただろう。

琴平山を望みながら航行する船が賽銭などを樽に入れて流し、発見した人、船が金刀比羅宮に届ける(代参)という風習「流し樽」は、現在も(儀式的に)行われているらしい。

・・・
石段を登り続けると土産物店が切れた右手に掃海殉職者顕彰碑の案内板があった。
16:42
掃海殉職者顕彰碑の由来「ああ、航路啓開隊」。
第二次世界大戦では、瀬戸内海はじめ日本近海、港湾に各種機雷が7万6千個も敷設された。終戦時には主要な港、水路80か所以上がことごとく閉鎖されていて、戦後は旧海軍関係者が風浪寒暑に耐えながら掃海に従事した。しかし掃海完了までの6年間で79人が殉職したという。

実際の顕彰碑は林の奥にあるらしく、その手前に掃海母艦「はやせ」主錨が展示されている(写真奥)。
16:43
大門(おおもん)到達。365段。
大門を過ぎると束の間、なだらかな道が続く。
桜の馬場という。春は桜が咲く。馬場は道の意味でも使うと何かで読んだが、ここはどうか?
16:45
桜の馬場の参道脇の石の柵(玉垣?)には寄進者の名前が彫ってある。大きな石には石州益田・右田源右衛門とあった。信仰は瀬戸内海だけでなく全国に広がっていたことが分かる。だいたい海に関係ない信州中野にも金毘羅さんがあったのだから。

ちなみに、ここの金刀比羅宮を総本宮とする神社は全国に存在し、
ウィキペディアに乗っているものは、
・金刀比羅神社、金刀比羅宮が34社
・琴平神社が12社
・金比羅宮・金比羅神社が7社。
実際はもっとあるだろう。例えば信州中野岩船の金比羅大権現や、文京区の金刀比羅宮東京分社(別ブログ)は、この数に入っていない。


さて、玉垣の後ろには、「金弐百萬圓」という寄進者の住所氏名を彫った石柱が並んでいる。
16:45
反対の右側は「金壹百萬圓」という石柱。
伏見稲荷の寄進鳥居を思わせる。
この石柱を建てる費用はいくらだろう? 
百万円とは別に払うのだろうか、それとも込々だろうか?
などと下らないことを考える。

漁業協同組合や水産会社が多いが農協もあった。
昭和46年奉納で「大阪府堺市 美木多金刀比羅講」というのが目についた。今も講が現存するのだろうか?
16:46
竹中工務店は「金壹封」だったが、百万の柱の間にある。
百万なのかそれ以上なのか分からない。

16:49
神馬舎、高橋由一館などのある平地に到達。431段目。
本宮まであと354段、奥宮まで950段くらいか。

高橋由一は、江戸時代生まれの洋画家で、名前を知らなくとも「鮭」の絵を見た人は多いかもしれない。岸田劉生と絵の感じが似ている。金刀比羅宮は彼の油絵27点を所蔵する。
16:50
今治造船(株)奉納のプロペラ
16:51
プロペラの前にクスノキの巨木。何の説明もない。
比較の為にA4の紙をおく。
16:52
こちらはイチョウの大木。
高橋由一館の前にある。白いのはA4。

ここから本宮まであと354段。
朝から歩き続けた。
私は、戦前と同じ生活をする自信がある。タクシーなど乗らずに歩き、冷房やエスカレーターも不要だと思っているし、テレビのニュース番組で熱中症を大げさに言うのに腹を立てている。マスコミが軟弱な日本人を作っている。私は粗食にも耐えられるし、カビが生えても食べちゃうし、ケガで出血しても、消毒も手当てもしない。自分の胃酸と免疫機構のみを信用し、テレビや本が言う健康情報のほとんどは、もっともらしい嘘だと思っている。
つまり生命力に自信があり、普通の人が登る石段など、何の問題もないと思っていた。

1. しかし疲れた。
2. 私は同時に、世間の人と行動が少しずれていて、神社仏閣のご利益というのに興味がない。本殿に行ってもお参りしない。

という2点で、もう石段を登らないことにした。
よく考えたら、自分が登ることに全く意味がないことに気づいたのである。
要するに、歩くのに飽きた。

簡単に予定を変更できるのは一人旅のいいところで、これが誰かと一緒だと、登り続けても、途中でやめても、どちらかが面白くない。
16:53
桜の馬場を下っていく。
登るときに追い越していった陸上部の学生が追い越していった。
彼らは自分を疲れさせるのが目的なのだろうか?
彼らが上り下りするのと、人々がお参りするのも、どちらも意義がある。
私は疲れさせるのもお参りするのも意義が見いだせないから、途中で降りている。
16:55
ところどころで登ってきた平地をみる。
讃岐平野というのは、小さな独立峰(残丘、ビュート)の他は水平である。大昔はこの象頭山を含めた多くのビュートが瀬戸内の島々で、それらが浮かぶ海が隆起して讃岐平野になったのだろうか?
16:56
土産物店は続々と店を閉めていた。
17時までのようだ。
17:06
参道からまっすぐの一の橋を渡る。
17:09
50分前に通過した大宮橋と琴電琴平駅
17:10
向こうにJR琴平駅が見える。
予定より早く下山してしまったので、来るとき通り過ぎた坂出に立ち寄ることもできた。
しかし面倒になった。

琴電は高松方面が30分ごとに、すなわち毎時12分と42分に発車する。(香川県の主要都市、善通寺、丸亀、坂出、高松を結んでいるJRより本数が多い)
予定よりだいぶ早く琴平を切り上げたのに、なぜか反射的にダッシュして改札を通った。
17:10
乗客は高校生が多い。
この日の朝、「ことでん-JRくるり~んきっぷ」(2200円)を買っていた。JRの志度~高松~琴平と琴電全線がのれる。高松から一番遠い琴平までJRで980円、琴電なら730円。だから2200円というのはそれほど安いわけでもないが、スイカが使えない四国で切符をいちいち買わなくてよい。

初めて乗ることでんが発車してから途中下車してみたい駅を探したが、とくになかった。
ほんとに参拝客を運ぶための線路のようだ。

ぼーっと車窓を見ていたら、栗熊と羽床の間で、右(南)を見るときれいな円錐形の山があった。
17:27
堤山(羽床富士)

このあたりは、新幹線から見る南近江に似ていると思った。小さな独立峰と瀬戸内・琵琶湖につながる低地というのが共通点だが、両者の地形の形成については知らない。

ちなみに、讃岐七富士というのがあって、数多い円錐型独立峰の中から7つの美しい山を選んでいる。この堤山(羽床富士)、丸亀の飯野山(讃岐富士)、そばを通った六ツ目山(御厩富士)のほか、残り4つは東讃の白山(三木富士)、西讃にある爺神山(高瀬富士)と江甫草山(有明富士)、南部の高鉢山(綾上富士)である。

陶(すえ)駅を過ぎ、畑田駅が近づくころ、左(北)を見ると、また円錐形の山があった。
17:38
十瓶山。 右は「火ノ山」の裾
こんなきれいな形でも七富士には入れてもらえない。

琴平と高松とのあいだは何もなかった。
しかし最後も讃岐平野らしい景色が見られて良かった。

終点、高松築港駅の手前、高松市の繁華街、瓦町で琴電を降りてみた。
スマホの時計を見れば18:10。まだ空は明るい。
帰りの夜行バスは20:30発。
だいぶ時間があるが、もう見たいものはない。
今すぐ帰って庭の野菜を見たくなってきた。
飽きっぽいのか、たった1日でこれでは、何日も旅を続けるのは性に合わないようだ。

(香川見物、終わり)


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