2021年5月29日土曜日

ワクチンと大手町合同庁舎、気象庁

今年65歳になるので一番若い高齢者として先行接種の枠に入った。

接種会場は大手町合同庁舎3号館。
地下鉄大手町駅は複雑だから「C2b出口から出てください」とテレビで連日呼びかける。
不安で下見に来る高齢者もいる中、当局は迷わせまいと改札から案内する係員を何人も立たせているようだ。

なるほど地下鉄大手町は出口が43もある。

大手町は千駄木からまっすぐ4つ目、8分だが、私はへそ曲がりだから神田から歩くことにした。年寄りの冷や水ではなく、以前歩いた日本橋川の続き(別ブログ)を見たかったのである。

千駄木から東の西日暮里までいき神田まで6駅11分。さらに大手町までビル街を西に歩くから四角形の1辺を行くのに3辺を使う遠回り。

2021‐05‐29 8:09 
神田駅の西口に出たら、なんとこんなところにもワクチン会場を案内する人がポツンと立っていらした。東京駅ならわからなくもないが、老人は偏屈が多いからと、神田駅にも派遣されたのか。
私はさらに偏屈だから東口に行った。

日銀前の常盤橋が今月修復が終わり渡れるようになったというので見る。
渋沢栄一像など見てから日本橋川を西に歩く。

8:28 鎌倉橋
日本橋川の遊歩道をさかのぼる。
土曜の朝はほとんど人がいない。

8:34 神田橋 南詰
大手町合同庁舎3号館の前に来たけど日比谷通りが渡れない。
地下鉄出口のほうの信号まで遠回りする。
8:38 到着

文京区はだいぶ前、4月に接種券は来ており、順天堂大学など南部の会場は月末に予約が始まったのだが、千駄木の本郷保健所で受ける場合、予約開始日が未定だった。
5月の連休を過ぎて文京区のサイトをみても千駄木のほうは依然予約開始日は発表されない。そのうち、すっかり忘れてしまった。

5月17日夜、テレビで大規模接種センターの予約が始まったと報じていたので、文京区はどうなったかと区のサイトを見ると、なんと、私の知らないうちに5/14に千駄木会場も予約を開始していて既に受け付けは終了していた。
失敗。
予約開始の連絡が来るわけではないからこまめに区のサイトをチェックするべきだった。

さらにテレビを見ていたら、この日、大阪は開始26分で受付終了。東京は開始45分で枠の4割が埋まったが夕方でも7割くらい、まだ空きがあるという。

千駄木で次回の予約開始日を待っているとまた忘れそうなので、大手町に行ってみようかな。と大規模センターの予約サイトに行ったら5月29日土曜朝9:00ですんなり取れた。

8:39
もう出てくる人がいる。8時からやっているのかな?
9時までまだ時間があるので周辺を散歩しようとしたが、係員がこちらです、こちらです、とあちこちで呼びかけられ、勝手に動き回れない。

8:41
親の付き添いできた人だろうか、外のベンチに娘さんらしき人々。
中まで入る付き添い人は首から判別票をかけるようだ。

9時には早いが私も中に入ることにした。
Tシャツの上に長袖で来て、注射の直前に半袖になればいいと思ったが、年寄りは準備が早い。半袖の人が多いので人目を気にしてここでTシャツになる。
8:44
受付はプレハブのような建物に誘導され、手の消毒、体温測定。
さらに進むと手荷物検査、スタッフはリックに触れないから自分で中を大きく開いて見せる。
免許証で身元チェック、
接種票は確認されてファイルに入れて返してもらう。
ファイルの色は4種。私は緑。

スタッフが非常に多い。親切だが多すぎて密状態。
自衛隊の設営部隊が作ったのだろう、仮設とは思えないほどしっかりした建物だが天井が低いから、何レーンもある受付のやり取りの声が一緒になってうるさい。
声も自然と大きくなる。年寄りは耳が遠いからスタッフの声も6日目で大きくなっているだろう。

「緑の人はこちらです」とどんどん誘導される。
周りを観察する暇もない。
進むと待合のイスが色ごとに大量に整然と並んでいるが、誰も座っていなくて脇を素通り、プレハブから出て庁舎に入る。再度消毒。
エレベーターホールの手前ロビーに色別でまたイスの列。
初めて座るもすぐエレベーターに誘導された。

何もない場所でも数メートル間隔にスタッフが立ち、常に誘導されるので立ち止まれず写真も撮れず。
(後で撮影禁止というのが分かった。)

緑は2階。
部屋へ入るのに三度目の消毒。意味あるのかな?とは思うが大勢のスタッフに見られているのでアルコール噴霧器のペダルを踏む。
座ると書いてきた予診票の確認でスタッフが一つ一つ質問していく。
このあと、さらに次のコーナーは医師による予診で、再び同じ質問を繰り返される。うなづくのが面倒なほどのダブルチェック、後で批判されないよう日本らしい丁寧さ。
糖尿病とか高血圧とか書いてあっても結局ワクチン注射するんでしょ?と偏屈老人は思う。諸外国はスピード優先でもっとがむしゃらに打ったのではあるまいか? 日本人は批判を恐れなんでも慎重、完璧を期す。

接種は緑だけで7レーン、接種は打つ人、袖を持つ人、注射筒を渡す人、と3人がかり。
さっと終わり隣のコーナーで証明書交付。ここで8:55
職場の健康診断より速いどころか、立ち止まる隙さえ与えられなかった。
お知らせビデオをみながら15分の経過観察で初めてのんびり、9:10には出口まで誘導されて退出した。

さて、どうやって帰ろうか。
9:16 大手町合同庁舎三号館
二階の接種会場が見えた。
3号館というが1号館、2号館はない。

9:19 
接種会場の西隣は気象庁。
1997年11月6日、ここに来た。
第12回「大学と科学」公開シンポジウム「神経難病への挑戦」が日経ホールであった。
昼休みに一人、気象庁を探検し職員食堂で昼食を取った。
セキュリティなどうるさくなかった時代である。

9:21
フェンスに囲まれているのは
2020年12月7日、気象庁が虎ノ門に移転したからである。

東京駅への無料送迎バスがこの前から出ていた。
もちろんスタッフが丁寧に誘導していた。
スタッフはどう見ても素人主婦のような人から私のような老人までいろいろいて、自衛隊の人は誰だか分らなかった。
旧気象庁 正面
竹橋方面からきた人はここから合同庁舎3号館(後方)に誘導されていた。

旧気象庁の南は東京消防庁。
大手町だから行政機関だと思ったら、消防署と同じようにちょうど消火訓練をやっていた。
まあ、ビル街でも火事はある。
消防庁の東隣は日経本社ビル。

3‐5階が日経ホールという。
1997年のシンポジウム会場、日経ホールはこんな感じじゃなかった。
当時の地図を見てみる。

1995
消防庁の隣、今の日経本社の場所は合同庁舎一号館、その東に二号館と並んでいる。

日経ホールどころか日経本社ビルもここではなかった。
調べたら当時の日経ホールは大手町1-9-5 日本経済新聞社8F、すなわち1ブロック東の鎌倉橋のほうにあった。そういえばエレベータが混んでいたから8階から階段を下りたような気もする。

大手町の合同庁舎は、陸軍軍馬局があった国有地に1号館から順に1962、1966、1971年竣工した。関東地方や東京都を管轄する地方支局などが入居したが、2000年、多くがさいたま新都心に移転、1号館、2号館が取り壊され跡地が再開発された。

いま西から日本経済新聞社東京本社ビル・JAビル・経団連会館が並ぶ。
残った3号館に入居していた部局も多くが移転、ほとんど空室だったことが大規模接種会場となった理由である。

1997年11月6日、東京の地形に興味を持っていた私は、気象庁の食堂で食事したあと、国土地理院にいった。いま調べると合同庁舎1号館にあった国土地理院関東地方測量部のようである。

今は東京の地形、色分けされた地形図がネットで簡単に見えるが、当時はそうでなかった。
建物が立て込む前、明治10年ごろの地図を広げ途切れている等高線を色鉛筆でなぞったものだった。

ふらっと庁舎に入り
「等高線が分かる地図はありませんか?」
ときくと、水害を予測するときに使うものか、大きな地図を見せてくれた。
しかしコピーが数百円もする。
白黒ならただで複写してあげるというのでお願いした。
その後、タモリの暗渠、東京スリバチ学会など地形ブームが起き、やがて国土地理院が地形図を無料ネット公開するまで10年以上、そのコピー1枚は私の一番大切な紙だった。

関東地方測量部は2000年11月、合同庁舎1号館から九段第2合同庁舎へ移転した。
ちなみに国土地理院は1979年目黒東山庁舎からつくばに移転している。

・・・・
この日は大手町から日本橋川(平川)にそって後楽園まで歩いた。
南北線だと後楽園から2駅だが本駒込から7,8分歩く。
疲れていたのでコミニティバスに乗った。
ラクーアから24分かかるけど家の前まで行く。100円だし。

帰宅してから腕がだんだん痛くなり、この日夜の練習は中止をお願いした。

もらったパンフレットを見れば痛みなど注射部位の症状は9割の人に出るらしい。
発熱などの全身症状は5割、2回目接種後だと8割にでるという。
mRNAを入れるモデルナワクチンはインフルエンザワクチンと比べると有効率も高いが副反応率もすごい。過剰なほど大量の抗体を作るのではないか?

もし一つの抗原に対し「異常に」大量の抗体を作るワクチンなら、まだ人類は経験したことがなない。抗体産生系を独占したら他の免疫系に影響しないだろうか? 例えば来春、花粉症の人の症状が軽くなっていれば面白い。いっぽう免疫系が疲弊している心配もあるが。

注射から12時間、腕は上がらないほど痛くなってきた。
これが重いのか正常なのか分らない。

今、入れられた外来遺伝子は私の細胞に侵入し盛んに外来タンパクを作っている。mRNA などの核酸は長年画期的な医薬品として期待されてきたが、細胞に入れることがむつかしかった。コロナ禍は一気にその壁を壊したようだ。


2021年5月28日金曜日

泉岳寺とNKK日本鋼管高輪クラブ

5月16日、六本木、元麻布ヒルズ、善福寺を訪ね、古川に沿って麻布通りを南下、国道1号線(桜田通り)をこえて魚籃坂を上がると伊皿子坂の頂上。(別ブログ)

伊皿子坂を曲がりながら海側に降りると泉岳寺の前に出た。
六本木アマンドから普通に歩けば3.2㎞、40分だが、あちこち立ち寄り、2時間経っていた。

2021‐05‐16 12:00 泉岳寺
ここは47年前、1974年に来たことがある。
高校3年の11月2日、剣道班で一緒だった高倉仁史、関谷幸雄氏と3人で上京した。
御茶ノ水の駿台予備校で模試を受けるためだった。

長野始発 10:04 の急行信州3号の硬いボックスに3人で座った。
家の物置からリンゴ3個持ってきたので、上田だか小諸だかで取り出し、もちろん皮もむかず洗いもせず食べ始めた。やがて食べ終わったが、することがなかったから髙倉氏は残った芯をさらに食べ続けた。3人でどのくらいきれいに食べるか競争になり、芯の中心まで迫ったあとは、種の周りに歯を立てて慎重に削り、舌と歯による彫刻というか、断面がやせた5角形の星形になるまでしゃぶり続け、種とその薄い被殻だけにした。
長野駅を出て4時間、眠ったり勉強したりして結局駅弁を買わずに終点上野についた。
降りるとき、高倉が乗客の忘れたみかんをみつけた。赤いネットに入り、肘かけに結んであった。狭い通路は後ろからどんどん乗客が来るから彼は焦り、ネットごと引きちぎった。ちょうど3個入っていた。

上野から電車に乗り品川、さらに地下鉄で1駅、ここ泉岳寺に来た。
この日の宿は日本鋼管高輪クラブというところだった。
場所は泉岳寺の中門の前を左折してすぐ。

47年ぶりに行ってみた。

2021‐05‐16 12:03
中門前から公園、三浦工業高輪ビル、コーポ高輪、高輪ハイマンションと順に並ぶ。
はて、どこだっただろう?

1995年
門前から、公園、ホテルNKKエース高輪、コーポ高輪(マンション)

こうして見比べると日本鋼管高輪クラブは、NKKエース高輪ホテルを経て三浦工業になったようである。もちろん建て替えられている。
日本鋼管は2003年川崎製鉄と合併し、JFEスチールとなり、粗鋼生産量では日本製鉄に次ぎ国内2位、世界では12位。(サッカーのJEFはJR東日本と古河電工)

このNKK高輪クラブは高倉の父上が手配してくださった。
我々は宿泊代を払う必要ないという。
当時、日本経済を引っ張った重厚長大企業、日本鋼管の研修施設か福利厚生施設のようだった。部屋はビジネスホテルのよう。きれいなベッドも一人で泊まることも初めてだった。

あのとき目の前の泉岳寺に入っただろうか?
12:04 泉岳寺中門
青松寺・総泉寺とともに曹洞宗 江戸三箇寺の1つ。

12:04
義士饅頭くらいならわかるが討ち入りそばとは勇ましい。
コロナで客も少ないからか入り口も半分しか空いていない。
娯楽の少なかった江戸時代は人形浄瑠璃や歌舞伎の人気演目であったが、今の若い人は忠臣蔵をどのくらい知っているだろう。

12:05
山門入って右に衆寮がある。
公式サイトに「泉岳寺会下衆寮 大衆募集」と、僧となる学生を募集していた。
駒澤大学(旧曹洞宗大学)は、本駒込吉祥寺の旃檀林学寮を中心に青松寺の獅子窟学寮とここの学寮などが一緒になってできた。

こうしてみれば広い敷地だが、長野からきて泉岳寺を初めて見たときは、都会の真ん中で土の境内もなさそうなお寺はずいぶん小さく見えた。
あのとき境内を歩いただろうか? 
まったく記憶にないが、寺社にも赤穂浪士にも全く興味なかったことは確か。
12:06
初めて見る境内は整備されすぎで風情がない。
できたばかりのような義士記念館は入場料550円という。

12:06
浅野内匠頭、義士たちのお墓だけでも見ようかと思ったが、こちらは拝観料300円。
お金がないわけではないが、そこまで興味はないので引き返した。
もともと私の寺社拝観時間は極めて短い。

12:09 
山門前の大石内蔵助良雄像だけ写真を撮り、寺を後にした。

松の廊下は元禄14年3月14日 (旧暦)、
翌年も年の瀬、元禄15年12月14日義士たちは吉良の首を、浅野家菩提寺ここ泉岳寺にあった主君、内匠頭の墓前に供えた。その後、大名4家に分散して預けられるが、47人のうち、大石内蔵助ら17人は、泉岳寺すぐ裏の細川家で年を越し、2月4日、切腹した。その肥後細川家下屋敷は高松宮邸などを経ていま高松中学、都営アパート、仮仙洞御所になっている。

1974年にもどる。
高輪クラブに荷を置くと、まだ明るかったので私は一人で外に出た。
第一京浜を歩いていくと、品川駅に着いて、パチンコ屋が目に入った。
今の私から考えると想像できないだろうが、高校生のころパチンコに熱中していた。
信州中野のキングと岩船のボウリング場跡にできたパチンコ屋が主戦場。1回数百円までと決めていたから1粒ずつ慎重に心を込めて打ち、なくなると時には床に落ちている玉を拾ってまで続けた。きちんと収支をカレンダーの裏紙につけていたが、黒字にはならなかった。同じ中野の塩野谷進、玉木一徳や古幡優一も仲間だった。

品川では東京での腕試しだったが負けた。

泉岳寺、NKK高輪クラブに帰り、夕食。
我々には場違いの、ホテルの高級レストランのようなところで、ウェイターに丁寧に案内された。高倉は父上から「お金は払わなくてもいい。ただし、あまり高いものは頼まないように」と言われていたので3人とも一番安いカツ丼にした。上品な器で出てきたが、真っ白なテーブルクロスに似合わなかった。

2021‐05‐16 12:12
47年ぶりに泉岳寺のゆるい坂を下りると第一京浜の向こうに新しく高輪ゲートウェイ駅ができていた。左の角に都営地下鉄・泉岳寺。右に行けば1kmほどで品川駅。
昔はもっと線路が近かった気がする。

1974年、翌朝は曇っていた。
なぜか朝食を食べずに3人で出発、私が品川駅は近いぞ、と教えて3人で歩いた。秋葉原のミルクスタンドでパンを食べ、お茶の水にいった。

わざわざ上京した理由は、都会や電車に慣れること。
知らない東京の高校生に一人交じって模試を受け、緊張感を味わい、度胸をつけることであった。ところが3人とも同じ日に申し込んだため、席が並んでしまっていた。


別ブログ
 



2021年5月25日火曜日

麻布の古川から韓国中央会館、伊皿子坂まで

 5月16日、六本木アマンドの横から芋洗坂をおり、六本木ヒルズを見てから、環状三号線を緩やかに降りて、元麻布ヒルズ、善福寺を訪ねた。(別ブログ)

善福寺を出て南に歩くとすぐ仙台坂の下。
西に坂を上がっていけば左側に駐日韓国大使館がある。その一帯は坂名にもなった伊達家62万石の下屋敷跡。さらに西にいけば有栖川公園や麻布学園などがあるはず。

仙台坂の通りを東に降りていくと麻布通り出る。通りの東に古川が並行して流れる。
流れはほとんどなく、上を首都高が通っている。

2021‐05‐16 11:29
二之橋
この東詰めに丹波柏原・織田家2万石の上屋敷があった。
信長次男、信雄の五男の家系。
四男の血筋、天童藩の家の墓は近所の高林寺にあることは以前書いた。

さて、古川は原宿あたりから発する渋谷川の下流の別名である。
と思っていたら少し違った。
渋谷川は恵比寿駅の近くで東へ向きを変え、広尾辺り(別ブログ)をへて天現寺橋の下で笄川(こうがいがわ)と合流する。ここから下流を古川という。江戸切絵図では新堀川とある。
笄川は青山霊園の東から有栖川宮公園の西の谷を流れていたが、いまや完全に暗渠になってしまったから、渋谷川がいつのまにか古川に変わったかのように見えたのである。
この川は東に流れ、古川橋で北に90度曲がる。
そして地下鉄麻布十番駅近くの一之橋辺りで再び東に90度曲がり、増上寺芝公園の南を通って海に出る。

さて六本木麻布を歩いて1時間半、ここらで終えて二之橋からどうやって帰るか?
一番近い麻布十番駅はつまらない。
古川に沿って浜松町まで行くのも今一つ。
まだ歩いたことのない南の高輪駅まで行くことにした。
しばらく麻布通りを南下する。
11:34 韓国中央会館
写真手前は韓国動乱参戦記念碑。
韓国動乱とは朝鮮戦争のこと。下の参戦史はハングルで書いてあるから読めない。
(戦史や戦闘経過ではなく「参戦史」とは何だろう?)

左の大きな忠魂碑の左右には仁川上陸作戦戦死者と長津湖戦闘戦死者の碑が立っている。

それにしても日本人なら表通りにこのようなものは建てないだろう。
国民性の違いがよくわかる。
上野公園の王仁博士碑を思い出した。

仁川(インチョン)と長津湖(ちょうしんこ)について書いておく。
朝鮮戦争は1950年6月25日に勃発した。
毛沢東とスターリンの支持を取り付けた北朝鮮軍が突如砲撃を開始、以来南進を続け、急遽編成された国連軍はプサンまで追い詰められた。
安保理決議を要するのに国連軍というのは、当時中国の代表が蒋介石政府で、またソ連は前年から国連を欠席していたからである。スターリンは欧州でソ連の影響力を強めるため、アメリカの注意を朝鮮に向けさせる腹積もりだったという。

国連軍の仁川電撃上陸は同年9月15日、北朝鮮軍の背後をつき、ソウルを奪還した。
その後国連軍は北上したが、11月27日、中朝国境付近の長津湖(ちょうしんこ)で初めて中国人民志願軍と交戦、激戦の末12月11日撤退を余儀なくされた。

・・・・
このビルには韓国領事館が入っていて、ビザの発行もしているようだ。
また在日韓人歴史資料館も併設されている。
慰安婦や徴用工についても展示されているのだろうか。
この慰霊碑群でビビッて入る気が起きなかった。
もっとも日、月は休館。

うるさい右翼の車がきて通り過ぎた。
ここをターゲットにしているわけではなかったが、前に機動隊のバスが2台、常駐のように止まっていた。

麻布通りは、六本木二丁目交差点(アークヒルズ)から南北にほぼ直線で古川橋に至る。
都道415号線である。この辺りは麻布のイメージはないが、江戸時代は橋の南側も麻布といったから麻布通りの名は相応しい。

古川橋から西へ、古川に沿う大きな通りは明治通り。王子や池袋でなじみの道はここが起点と初めて知った。
415号線はそのまま橋を渡り伊皿子坂を下って泉岳寺までいく。
11:42 古川橋
古川は古川橋で90度曲がる。首都高も同じように曲がっていく。
下を見て驚いた。
きれいな水がさらさら流れ、渓谷のように砂利もある。
都心でこんな川があるとは

古川橋は下流から一之橋、二之橋ときて三之橋の次だが、四之橋はここではなく、上流(西)の新古川橋のさらに西にある。確かに江戸切絵図では四之橋まで橋がない。

古川から離れ、まっすぐ歩いていくと魚籃坂下交差点で国道1号線、桜田通りと交わる。
右折してずっと行けば白金高輪を経て五反田駅。
11:45 魚籃坂下
国道1号線を渡ると登り坂。
魚籃とは魚を入れるびくのこと。
11:51 魚籃寺
古川沿いに漁師が住んでいた故の坂名かと思ったら魚籃寺があった。
本尊の魚籃観世音菩薩から寺名ができ、それが坂の名前になったようだ。
魚籃坂は伊皿子坂と坂上を共有する。
11:55 伊皿子坂上
魚籃坂の上までくると歯科医学教育発祥の地という碑あり。
読めば明治23年(1890年)、慶應義塾からアメリカ留学した高山紀齋がここに日本初の歯学校である高山歯科医学院を創立したという。
10年後の1900年、神田小川町に移転、東京歯科医学院に改称。
翌年、現在地の神田三崎町に移転、
1946年 東京歯科大学(旧制)として認可された。

この交差点を右(南)にいくと旧高松宮邸。宮邸含む一帯はもと肥後細川家下屋敷。
高松宮は大正天皇の第三皇子、慶喜孫娘、徳川喜久子と結婚、子はなく宣仁親王が1987年、喜久子妃が2004年亡くなって廃絶した。
いま上皇上皇后が赤坂に仙洞御所ができるまで、仮住まいされているらしいが見に行かなかった。

伊皿子坂とは変な名前だ。
1600年頃に、来日した明人が当地に帰化し、エビスをもじって自らを「伊皿子」(インベイス)と名乗り、それが地名になったというが、ほかの説もある。

坂を曲がりながら降りると泉岳寺の前に出た。

12:00 泉岳寺
47年前、1974年以来である。
高校3年の11月2日、長野から上京、きょろきょろしながら上野、品川駅で乗り換え、初めて地下鉄に乗った。赤穂浪士、忠臣蔵はテレビドラマで言葉だけ聞いていても、泉岳寺など聞いたこともなかった。なぜ来たか、後日、書く。
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2021年5月22日土曜日

元麻布ヒルズと善福寺のハリス

5月16日、六本木に来た。
六本木一丁目から六本木交差点、アマンドの横から芋洗坂をおり、六本木ヒルズを見てから、環状三号線を緩やかに降りてきた。(別ブログ)
1995年
戦前、岩崎邸(いま国際文化会館)、川崎邸、李王家(東洋英和小学部)などのあった鳥居坂の下をすぎ、雑式通りを南に降りる。
このあたり麻布十番という。
古くさい名前だが、1962年に麻布網代町、麻布坂下町などを整理してできた町名で、住居表示に関する法律で正式な町名になったのは1978年である。
十番の由来はよく分からないらしい。
1940
麻布十番は東を流れる古川(渋谷川)にむかって緩やかに下っており、全体としては下町的な商店が多い。
2021‐05‐16 10:50 大黒坂下
雑式通りをいくと、大黒坂を下りてきたところに中之島のような空間がある。
初めてきたのは2008年8月13日、従弟の法事が麻布善福寺であった。

当時ここにはベンチがあったような気もするが記憶違いかもしれない。
戦前の麻布区の地図を見ると大黒坂はここで終わっていて、道路がない。
建物疎開、あるいは空襲の後、新たに広い道を作って島ができたのだろうか。

善福寺へいく前に大黒坂を上がってみる。
10:53
大黒坂を上がると鳥居坂下から登ってくる暗闇坂(右)と合流する。正面は狸坂を上がってきた道。左は一本松坂に続く。
10:55
一本松坂をすすめば元麻布ヒルズ
六本木や虎ノ門など、森ビルが作った「ヒルズ」が映画館やレストラン、ホテルなども含む、開かれた複合施設であるのに対し、ここは住居だけの閉ざされたヒルズである。
1983年から計画が始まったが、着工は2000年、竣工2002年。地上29階、222戸。

一本松坂を行けば仙台坂の上に出るが、大黒坂をもどって善福寺に行く。
11:04
善福寺入り口の石柱を見れば、まるで元麻布ヒルズ、フォレストタワーが善福寺本体のよう。
サボテンのような形は墓標のようでもあり、新興宗教施設のようでもある。
よく言ってもせいぜい善福寺本尊のようにみえる。

できるだけ周りの日照を確保しビル風を抑えようとしてこの形になったらしいが、不気味である。
バブルが近づく1983年、善福寺が森ビルに敷地を売ったらしいが、高さなどに制限をつければよかった。江戸で浅草寺、深大寺と並ぶほどの古刹(創建824年)としてこの景色は取り返しのつかない失敗だと思う。

麻布でも低地や商工業地区ならともかく、低層住宅ばかりの高台にこの形はないだろう。
寺や地権者、入居者は何とも思っていないのかもしれないが、景色は当事者だけのものではない。
善福寺というと杉並のほうを連想する。
池、公園、川の名前になっているから、行ったことのない人も聞いている。
杉並の善福寺は、無量山福寿庵と称する浄土系の小庵が江戸期に曹洞宗の寺院となり、昭和17年(1942)地名の善福寺にちなんで改名したもの。その地名はこの付近にあって古くに廃された善福寺に由来する。ここ麻布山善福寺との関係は不明。
ちなみに麻布区の区名や一帯の地名はここの山号からとったという。

11:06
ここで特筆すべきは、初めてのアメリカ”大使館”がここに置かれたことである。

1854 日米和親条約(全権:マシュー・ペリー)で下田、函館を開港。
1856 タウンゼント・ハリス、初代駐日領事として下田、玉泉寺に領事館を設立。
1858(安政5年)日米修好通商条約(全権:タウンゼント・ハリス)
1859 ハリス弁理公使に昇格、下田の領事館を閉鎖して、ここ元麻布善福寺に宿舎を移し、一室を公使館とした。
桜田門外の変は翌年である。
攘夷主義者の襲撃を受け、庫裡、書院など焼失している。

ちなみにアメリカの駐日外交使節の最上位の階級は、総領事(1856‐1859)、弁理公使(1859‐69)、特命全権公使(1869‐1902)、特命全権大使(1902‐)と変わっている。

公使館は1875年、築地の外国人居留地に移るまで使われた。

11:07
樹齢750年、国の天然記念物、逆さイチョウ
これは覚えている。
2008年8月13日、従弟の三回忌がここであり、初めて麻布に来た。
7歳年下で、防衛医大を出て退官、皮膚科として開業したが、ゴルフ中に心室細動で急死した。
彼はおしゃれで六本木とか麻布が好きだったことから、叔父たちは善福寺の室内納骨堂に入れた。叔父夫婦、彼の弟(私の従弟)、奥さんと二人の子、奥さんの両親が集まった。
私は学生時代、神奈川座間の叔父の家に入り浸り、彼の漫画を読んだり山口百恵のレコードをダビングしてもらったりしていたから、親戚では唯一呼ばれた。

全部で9人、食事中の話はまさにお通夜のようにしんみりしていた。
料理は立派だったが、すこしも旨くなかったことを覚えている。

11:08
食事が終わって、逆さイチョウを見たのは一人だったか、叔父たちと一緒だったか記憶にない。
ここに誰か有名人の墓があった記憶があるのだが、誰だったか思い出せない。

すこし歩みを進めたら、すぐに出くわした。

11:09
福澤諭吉・妻阿錦 之墓
妻は錦(きん)で阿錦はおきんと読む。

諭吉の墓が当寺に来たのは1977年で、それ以前は白金と池田山の間、上大崎にあった。
諭吉が1901年亡くなった時、葬儀は福沢家の菩提寺でもある善福寺で行われた。ところが彼は生前、白金の先の本願寺に墓を買っていて、そこに葬られる。その後墓地は常光寺のものとなった。常光寺が本堂建て替えに際し、墓の所有者は浄土宗であることを条件としてしまったため、浄土真宗の福沢家は菩提寺のここに改葬したらしい。

11:15
善福寺の墓地は元麻布ヒルズに向かう急斜面に広がる。
奥のほうは登るのも大変なので檀家たちはエレベーターを作ったようだ。

善福寺を出て、仙台坂をくだると麻布通りと古川(渋谷川下流)に出た。

11:27 枯山水で有名な福泉寺

従弟の遺骨はロッカーのようにずらりと並ぶ善福寺納骨堂に納められている。
もう二度と行くことはないと思うのに、お参りしてこなかった。


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2021年5月20日木曜日

テレビ朝日と六本木ヒルズ、森美術館

 5月16日、六本木に来た。

地下鉄六本木一丁目駅から六本木交差点、アマンドの横から芋洗坂をおりた。

(別ブログ) 

環状三号線にでると正面にテレビ朝日がある。

2021‐05‐16 10:22
テレビ朝日

1940
テレビ朝日と六本木ヒルズのあたり、戦前は北日ケ窪町といい、正求堂財団、真田邸、イラン公使館などが地図に見える。

江戸時代は長府藩5万石、毛利甲斐守の上屋敷であった。
乃木希典もここで生まれている。
明治時代には英吉利法律学校(のち中央大学)の創立者18人の中心人物、増島六一郎(1857 - 1948)がここを自邸として購入した。彼は弁護士で、法律書籍を集めた正求律書院という図書館をつくり、1934年、維持運営のため、財団法人正求堂財団を設立した。それが上の地図に載っている。よく見れば池もある。

1995年
戦後1952年にニッカウヰスキーの工場ができ、その後1957年テレビ朝日、1958年公団北日ケ窪住宅( 5棟、全116戸)などができた。1995年の地図を見れば、まだ池は残っている。ニッカ池と言われたらしい。

テレビ朝日は1957年、東映、日本短波放送、旺文社などが中心となり、株式会社日本教育テレビとして設立された。名前の通り教育番組専門局をめざし、対外呼称も英語訳のNETテレビだった。
それが1966年、東映の持株の半分を朝日新聞社が取得、資本や経営面でも朝日との結びつきが強化され、事実上朝日の傘下に入った。
1977年、全国朝日放送株式会社に社名変更、略称をテレビ朝日とする。
2003年、六本木ヒルズ新社屋移転、社名を株式会社テレビ朝日に変更した。
報道ステーションなど、左寄りというのは、そういうことだ。

10:24 左、テレビ朝日
正面が六本木ヒルズ、森タワー54階建て、238メートル。

毛利庭園
報道ステーションなどの天気予報はよくここで実況中継される。
池もあるが、木は新しいものばかりで過去からの連続性は感じられない。
と思ったら、やはり元の池は埋めて新たに掘ったらしい。

森タワーの最上階には森美術館と展望台がある。
2010年1月11日「医学と芸術展」でここに一人できた。
虎ノ門の片岡佳子さんに無料招待券をもらったからである。
展示品は西洋東洋国内と多岐にわたったが、一番多かったのはイギリス、ウェルカム・トラストの保有する写真や絵画、医学史研究資料であった。
10:30
ミュージアムコーンという美術館への専用エレベーターがあった。
2010年もここから上がったのだろう。
スカイデッキにも出たが、眺めはあまり記憶にない。

当時、二冊目の翻訳本、「Diseasesー人類を襲った30の病魔」を訳したばかり。
そこに使われていた図版の多くはウェルカムトラストのものだったから、翻訳中に見ていた絵の実物もみれた。
翻訳で大事なのは英語力ではなく、背景知識である。もう少し早く見ていたら、訳者あとがきくらいは違ったものになっただろう。

ちょうど翌1月12日に医学書院から3冊届いている。
2月4日、1冊を長野の父に渡した。彼は正月よりだいぶ弱っていて、がんの章にあった絵を眺めた程度であり、それから10日後に亡くなった。

ウェルカムトラストは医学研究の支援で知られているが、ノーベル賞学者も出した製薬企業ウェルカム社の株も持っており、1995年それをグラクソ社に売却、グラクソ・ウェルカム社が成立した。GWは2000年スミスクラインビーチャムと合併し、GSKが成立、ウェルカムの名は社名から消えた。

10:33
森タワーの探検はせず、外に出ると六本木ヒルズアリーナという屋根のついたイベント広場だった。
右はテレビ朝日。

六本木ヒルズは、1984年に再開発計画が発表され、六本木六丁目であることから、66再開発と呼ばれた。木造密集地帯もあり、住民との話し合いは長期にわたった。2000年に着工、2003年開業した。
テレビ朝日は本社を1986年に完成したばかりのアークヒルズに一時移転、六本木センターは工事着工まで存続し、本社は2003年に戻ってきた。

・・・・
ヒルズアリーナ、テレビ朝日の南西は、六本木けやき坂通りという。
緩やかな坂を下りると、出発点の芋洗坂と環状三号線の交差点に戻った。
10:37 案内地図もおしゃれ。

けやき坂通りの南は六本木ヒルズレジデンス。
賃貸物件の相場は1平米あたり月額1万円という高級マンション。再開発前約500世帯が暮らしていたことから、4棟計793戸のうち、完成時は約4割、いまは約250戸が旧地権者の所有。3割が外国人、残りはヒルズ族という高額所得者である。

けやき坂通りの下。
オブジェとベンチはガラスのような樹脂?

しかし「六本木けやき坂通り」とはちょっと恥ずかしい。
ふつうは通りが先にあり、その一部に坂がある。
だから坂名が通り名になるのは滅多にない。けやき坂通りという、軽薄なだけではなく、いかにも人工的な名前の違和感はそんなことにもある。

六本木ヒルズレジデンスの南、すなわちけやき坂と並行する通りは六本木さくら坂という。


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