2023年9月25日月曜日

上動五三会の神輿、神明会と祭礼

コロナが終わり(終わっていないが、メディアが報じなくなった)、駒込総鎮守の天祖神社の祭礼も4年ぶりに行われた。

神社の祭礼と言っても実際は町会が行う。

天祖神社の氏子、つまり傘下にある13の町内会については前のブログで書いた。
今回はその一つ、わが町会「上動五三会」の祭礼について書く。

昨年から任期2年、14軒ほどの班長(理事という)になり、町会の回覧板や区の広報の配布などをしていたのだが、お祭りということでお手伝いすることになった。

さて、お祭りというが具体的には町会で神輿を出す。
「神輿を出す」というのは、町に「繰り出す」だけではなく、天祖神社の倉庫から「出す」ことも意味する。

神輿は portable shrine というように、神社の分身であるから、倉庫から出したら安置する場所を作らねばならない。それを「お神酒所」という。少なくとも我が町会は酒をふるまう場所ではない。
その神酒所を作るところから始まる。

祭礼は9月16,17日。
前日の15日(金曜)は準備の日。
神酒所は朝7時から専門の人たちが作り始めていて、町会役員は9時集合。

しかし私は、この日は8時から11時までスーパーのアルバイトの日で、11時半ころ恐る恐る行った。
祭礼委員長の舟橋菊男副会長のてきぱきした指示の下、大分出来上がっていた。
ほとんど働かないうちに、歩道に出したテーブルの上のコンビニおにぎりをいただいた。
2023₋09₋15 12:57
上動五三会お神酒所は都立駒込病院の前の歩道。

13:18
この日は天気が不安定なため、出した中神輿、小神輿などは濡れないようにテントの中に入れる。神酒所は具体的には、このような神輿の車庫(ガレージ)と祭壇からなる。
13:20
こちらは祭壇
作っているのは町会の役員ではなく、とび職の人。
「お祭りのない時、ふだんは何をされているのですか?」と聞いたら「私らトビですから」と答えられた。再び訪ねても「とびですから」と仰る。そのトビは何をされているのが聞きたかったのだが・・・。
工事現場で足場などを組む専門職だろうか?

鉄管など組んでテントを作るのはお手の物だろうが、竹を柱に縛ったり、お神輿を組み立てたりする儀式用装置の準備も彼らがやっていた。
13:42
大神輿到着。
老人ばかりの町会役員をしり目に、屈強なとび職の人たちが組み立てていく。
13:36
祭壇の段が出来上がると、中にいろんなものを並べる。
右上にあるのは安置する神輿の前に載せる鏡。
周りで大きな荷物を動かしたり慌ただしく働いている中、役員の一人の方が静かに神饌を三方の上に作っていらした。葬儀屋を営んでいらした山崎永年さん(75歳)である。こうした祭壇の中の飾りつけは彼しか分からないようだ。

買ってきた麩?と寒天?を日高昆布で両側から挟んで縛り、まっすぐ立てる。
するめも、ただ並べるのではなく、きちんと一つ一つ丸く曲げて縛る。
13:27
ここで縛るのはただの紐ではなく、古式にのっとり大麻の紐を使う。
来月、薬物乱用防止講演で大麻(マリファナ)の話をするので、この写真を使おう。
供物の一つが完成
するめの下は高野豆腐。シイタケをその上に並べる。
手前の下には小豆を敷きつめ、両側に煮干しをたてる。
盛り付けの様子をじっと見ていると、
「海腹川背(うみはらかわせ)といって、煮干しなど海の魚は腹を手前にするんだよ」と教えてくださった。
13:50
こちらは野菜の神饌が乗る三方
13:52 大神輿組み立て
今年、大神輿は練り歩かないようだが、神酒所には陳列し町会員に披露する。
大神輿は震災前の大正11年、大倉竹次郎作、台輪寸法二尺六寸。

ここで私は家に帰った。

9月16日(土)お祭り1日目
10時に子供神輿出発。
動坂上の交番前交差点で都道を渡り、保健所通りを南下する。
私は(休憩のときに)神輿を乗せる馬(台)を持ってついていく役。
10:16
ファーブル昆虫館の前を通る
10:18
町会長の桜井新次郎さん宅の前を通る。
平成20年(2008)以来、第10代の会長を務められる。
15年目だが、会長の任期はない。
高村光雲の孫、高村規さんと千駄木小学校の同級生である。
ご高齢のため、理事会やお祭りは副会長の舟橋さんが仕切っておられ、お祭り期間中、桜井さんは祭壇の横に、茶人のような衣装でローマ法王のように穏やかに座っていらした。
桜井さんの隣が我が家。
10:20
夏ミカンが実っている。

同じ場所の昔の写真が2枚あった。
2015₋09₋13 10:22
8年前はミカンの代わりにサクラとザクロがあった。
2015
当時は南側も家屋が見えないほど樹木がいっぱい。

10:20
しかし2023年はこんな景色になってしまった。

かつぐ人数が少ないため重いだろうし、また(巡回コースが短いため)早く終わらないように、何回も休憩をとるが「疲れた~」という子どもたちもいて、彼らは神輿も飽きている様子。むしろ親たちが熱心にすすめたようだ。
確かに、なんでこんな重いものを持って歩かなくちゃならないんだ?と不思議に思う子もいるだろう。私も理由は分からない。

神輿はコインランドリーの角で都道(458号、白山小台線)に出て、千駄木五丁目から渡って本駒込三丁目を練り歩く。動坂上町は千駄木側も本駒込側も自動車が現れる前に無秩序に宅地化されてしまったから道が細くてごちゃごちゃしている。
一緒にまわる若梅秀雄さんや、理事会メンバーではないが独特な雰囲気の大若・黒井護さんたちから昔の町内の話など聞く。

神輿は、無事、神酒所まで戻って終了。
子供たちは大きなお菓子袋をもらって解散。
私らは休憩。
11:27
祭壇にあるお菓子の一つは東大前、扇屋の赤門餅だった。
これらも昔から決まっているのだろう。
「奉納」と書かれた頂き物も並べてある。
11:30
大、中、小と神輿が三つそろっている町会も珍しいのではなかろうか。
神輿の向こうでご祝儀、奉納品を受け付けているのは会計の小泉明之さん。大事なお金を預かることもあり、彼はずっとここを離れられない。

昼になって弁当(塚田農場の炭火焼き鳥弁当)をもらう。
みんなと食べる人もいたが、私は自宅に戻った。
午後の私は、池袋で16時からダンスのレッスン、練習があるのでお祭りのほうは欠席。
出かける途中、少し天祖神社のほうを回ってみた様子は前のブログに書いた。

9月17日(日)

3連休の真ん中、各町会は大人神輿が出る。
私は朝、畑のバイトがあったので、11時半ころ神酒所に行った。

午前中、事件があったらしい。
神明会の人たちが神輿を担ぎにいらしたのだが、何の手違いか、担げなかった。
神明会というのは神輿を担ぐ同好会である。祭壇を作っていらした山崎さん(75歳)が若いころ、区立文林中学、第九中学の卒業生たちと結成したもので、もちろん「神明」は天祖神社のことである。しかし地元にとどまらず、現在各地の祭りで年間10回ほど担いでいるらしい。歴史が古いから浅草三社祭でも一目置かれているという。

彼らは10人ほどで自分たちでテントを張って正装、待機していたが、可哀そうに結局担げず、帰られたか、白山神社のほうへ行かれたか。

そういえばお祭の前の理事会のとき、一人の20代?の若者が出席した。彼は山崎さんの孫で、神明会のメンバーでもある。「今年は白山、根津とも重なっている。神明会としては地元の祭礼を優先したい。もしここで担がずに他に行ってしまうと、そちらの結びつきが強くなるから、今年は担ぎたい」というような発言をされたが、その会議で町内会として神明会に頼むことはしなかった。

あとで町内会幹部の人に聞くと、今年は大神輿を出さない、天祖神社への宮入りもしない、と決めたらしい。中神輿だとそれほど人数が要らないから、神明会の人が来ると一般町会員が担げなくなる、と考えられたらしい。

それが何らかの手違いで、神明会のメンバーが大神輿を出すと思われ、来てしまったのか?


さて、12時過ぎに我が上動五三会の中神輿が出発した。
私は虎ロープ(よくある黒黄のふつうのロープ)の先端をもって、神輿が車道側に膨らまないようにする役目。
子供神輿のように町内には入らず、駒込病院の前、千駄木と本駒込の間の広い都道を行ったり来たりするコース。神酒所から東へ向かい、動坂上の交差点すなわち交番のところでUターンしたところで休憩。
藤森源弥副会長に「小林さん、担いでみたら」といわれ、担ぎ手に混ぜてもらった。神輿を担ぐのは初めて。
休憩が終わると、山崎さんのお孫さんが担ぎ棒の上に乗り、3331の三本締めの音頭をとる。すると担ぎ手(10~14人くらいか)が素早く一斉に神輿を持ち上げる。体を傷めないように、じわじわ上げると思っていた私は面食らった。
神輿は、都道を西に向かう。ふくの湯あたりだろうか、東にUターンして帰路に入った。

中神輿は思ったより重かった。私の歩くリズム(体の上下)と神輿の上下が合わず、肩が一歩ごとに棒とぶつかって痛い。重いから大きな掛け声を出さずにはいられない。しかし疲れてくると声も出なくなる。
なんでこんな重いものを意味もなく担がなくてはならないのだろう?とふと思う。

信州中野あたりでは神輿はない。岩船の部落では6年に一度、御柱の年に、部落内を練り歩く御柱のあとを各班の山車がついてまわり、最後は部落内の岩水神社に到達、各班の山車は一台ずつ、派手に爆竹の鳴る境内を走り回るというクライマックスで終わる。
練り歩くときは神輿のような掛け声はないが、のんびり歩く山車の上からお菓子がばらまかれ、見物人も実利がある。

江戸、東京は神田、浅草が有名なように、神輿が多い。こんな有名ではない駒込あたりでも、ほとんどの町会で神輿を担ぐ。意味はなくとも大声を出して水を浴び酒を飲む非日常がいいのだろうか?
しかし観光化したところを除くと、大きな神輿は担げない町会が増えているようだ。

駒込でも全部の神輿(子ども神輿も入れたら30基くらいあるのだろうか?)が天祖神社の境内に勢ぞろいしたら壮観だろうな、と思うが、人を集めるのが難しい。

神輿をおろした後、赤飯の弁当を食べ、いったん解散。
そのあと16時に再集合、神酒所に覆いをかけ、打ち上げは病院正門前の園田博義さんのガレージを借りた。
しかし今半の弁当が各自渡されたが、時間的にまだ腹が減らない。
乾きもののつまみでビールを飲み、皆さんのおしゃべりを聞いた。

向かいに座った藤森さんに「ご出身は諏訪ですか?」ときくと父上が茅野だという。
それを聞いた隣の西田嘉子婦人部長が、私、バレー枠で三協精機に就職することになり、諏訪で合宿したのよ。でも直前で東京に就職しちゃったけど。と仰る。1964年の東洋の魔女と同世代というから80歳くらいだろうか。
西田さんは青森出身の父と、浅草出身の母を両親に、ここ動坂で生まれ、育ったという。
「この駒込病院は昔、伝染病の隔離病院だったの。とても塀が高かった。子どものころそこを通り過ぎるときは息を止めて走ったんですよ。病院の隣の土地はただでも買い手がつかなかったとか。」

さて、今回分かったことは、この町内会は都心にありながら田舎と同じということだった。
32年間暮らした埼玉の伊奈町、指扇のプラザなどは、田畑に造成した振興住宅地だから、住民は生まれも育ちもばらばら。地元への愛が薄い。
ところが、山手線の内側、千駄木や本駒込は、明治大正からの住宅地だから先祖代々、子どものころから住んでいる人がいっぱいいる。もちろん私のような新住民もいるが、お祭りや町内のことを仕切るのは、古い人たち。70代、80代の小学校、中学校の同窓生である。その点田舎の自治会と全く同じだと思った。

今回私はたまたま2年任期の理事になったが、理事会の大部分の人は役員として「常任理事」である。国連の五大国のように文字通り「常任」で任期がない。民主的ではないという人もいるかもしれないが、町会は、田舎のように、町の歴史をよく知っている人がリーダーになって運営するのが一番良い。

上動五三会の歴史
大正7年(1918)動坂町の地主、有志の親睦を目的として動盛会ができる。
  その後商店街を中心として尚励会が発足、
  この尚励会が大神輿を作り、終戦で解散するまで町内祭礼行事を行った。
大正9年 動盛会が発展的解消、動坂町会ができる。
昭和22年 マッカーサー指令により町会解散
昭和26年 動坂上町親和会として再発足。
昭和41年 新住居表示により町会域が千駄木「五」丁目から本駒込「三」丁目に分断され、上動五三会と改名。

なお、Tシャツなどにプリントする町会のマークは「五三の桐」である。豊臣家の家紋として有名だが、もちろん「五三会」にちなむ。


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2023年9月20日水曜日

駒込天祖神社の祭礼と氏子13町会

コロナが終わった。(終わっていないが、騒ぎが収まった)

そして、各地で恒例イベントが復活した。

駒込総鎮守の天祖神社の祭礼も9月16,17日、4年ぶりに行われた。
神社自体というより、氏子の各町内会が行う祭礼と言ってよい。
我が町会は動坂の上、都立駒込病院の西南に広がる「上動五三会」。
ちょうど2年交代の班長(自動的に理事となる)が回ってきて、昨年は15軒ほどある班内の配りものをするだけだったが、今年はお祭りをするということで、お手伝いした。

祭前日の9月15日(金曜)に駒込病院の前の歩道に神酒所を設営しながら、天祖神社の氏子町会、すなわち神社の勢力範囲はどこか、聞いてみた。
2023₋09₋15
上動五三会お神酒所は都立駒込病院の前の歩道。

このあたり、南の根津神社のほかに谷中、日暮里の総鎮守・諏方神社、また本郷通りの向こうの白山神社、また旧中山道の向こう、東洋大学のあたりは氷川神社。というふうに、神社の支配域が入り組んでいる。

駒込天祖神社の氏子町会は13あるらしい。この地で生まれ育った年配の方が、指折り数えて仰っても、町会名が似ているから、書かれたものがないと私にはよく分からない。

どうせ私はあまり役に立っていないので、さぼって病院裏の天祖神社に様子を見に行った。ちょうど奉納金の一覧が掲示されているところに、各町会からの寄付金が書かれていた。数えると13ある。これが氏子の町内会、天祖神社の勢力範囲のようだ。
奉納金額も併せて列記する。
1.動坂中町会 62(千円)
2.神明上町会(宮元町会)77
3.吉片町会 56
4.富士前町会 62
5.東林町会 95
6.浅嘉町会 54
7.上富士町会 62
8.神明西部町会 58
9.神明町会 130
10.動坂町会 92
11.上動五三会 65
12.駒二親和会 68
13.西林町会 70

この13町会の掲示順番は何だろう?
金額順でもないし、歴史順? まさか受付順?

さて、この町会名は昔の町名をもとにしている。
本郷区の動坂町、神明町だったところはそれぞれ3つの町会があり、吉祥寺町とその向かいの片町は一緒になって吉片町会をつくった。
1940(昭和15)年ころ
住居表示の法律は1962年(昭和37年)5月10日、公布・即日施行。それまで人々の結びつきの強さなどで決まっていた町名、地名が、道路によって分けられ、新たに命名された。

文京区のこのあたりは昭和41年4月に新表示となったが、もちろん町内会が再編されるわけではなかった。私の住む動坂町は、田端駅から駒込病院、本郷通りの駒本小学校前にいたる都道によって分断され、南東側が千駄木4丁目、5丁目、北西側が本駒込3丁目、4丁目となったが、町会はそのまま存続した。

ちなみに私が属する町会は、千駄木五丁目本駒込三丁目に分断されたが、それを機に動坂上町親和会から上動五三会と改名した。

・・・・
9月16日(土)お祭り1日目

 8:00  町会お神酒所集合
10:00 子供神輿、山車(太鼓)出発
動坂上の交番前で横断、保健所通りから我が家の夏ミカンの下を通り、千駄木5丁目から動坂通りに出て、本駒込3丁目の住宅街を練り歩いて終了。
11:30
上動五三会の神輿3基

子供神輿を神酒所の中にしまって、お弁当をもらって午前は終了。
午後の私は、池袋で16時からダンスのレッスン、練習があるのでお祭りのほうは欠席。
出かける途中、少し天祖神社のほうを回ってみた。
14:58
動坂中町お神酒所
動坂中町会は動坂の中腹、本駒込4丁目と千駄木4丁目の一部からなる。
我が町会を含め、夏休みには動坂3町会の合同、動坂公園でラジオ体操をする。
15:01
神明公園前で神輿発見
写真では半纏は「動坂」「宮元」とある。
神明上町会(宮元)の町域である。

各町会の中心、昨日訪ねた天祖神社に行ってみた。
15:05
神輿の入っていた倉庫がならぶ。
中は皆出払っているだろう。
境内にあまり人はいない。

神社を出て本郷通りに向かう。
15:07
神明上町会お神酒所
文京区駒込地区全体のほぼ中央に在り、天祖神社(神明さま)のほか、都指定史跡「駒込名主屋敷」、区立九中、神明公園などがある。

この町会は、もともと祭礼の時に結成される宮元氏子会がもとになって昭和30年に発足した。宮元とは、天祖神社のある地区ということだ。
写真のテントは「宮元」とあるが、隣のテントは「神明町上町会」とあった。
テント内に鎮座する大正12年大倉竹次郎作の大神輿は、13町内最大級の台輪寸法2尺8寸(上動五山会は2尺6寸、神明町は2尺9寸)

・・・・・

9月17日(日)
3連休の真ん中、各町会は大人神輿が出る。

12時過ぎに我が上動五三会の中神輿が出発した。
生まれて初めて神輿を担がせてもらった。
(別ブログ)

赤飯の弁当を食べたあと16時に再集合、神酒所に覆いをかけるというので、それまで解散。
13の町会お神酒所をめぐるスタンプラリー台紙

ちょうどこの日は子供たちが13の町内神酒所をめぐるスタンプラリーの日。
各町会は訪ねてきた子供たちにお菓子を配る。我が町会はお菓子でなくレトルトカレーだったが、他はうまか棒1本とか、飴玉2つとかだったらしい。カレー1食分は大いに喜ばれたが100箱はすぐなくなり、前日の神輿を担いだ子供に配ったお菓子の残り(ポテトチップ1袋など)を配った。

スタンプラリーの地図を見れば各町会の位置が分かる。
駒二親和会はなんと駒込駅の向こう、豊島区である。スタンプラリーで行ってくれる人がいるのかな? 旧住所の吉祥寺片町や、上富士町は本郷通りの向こうまで広がっていたが、町会も同じように広がっているのかな?と思ってみると、神酒所も向こう側にあった。

私も地図を片手に回ってみることにした。大人だからお菓子をもらいに来たと思われないように、遠くから見るだけにする。

ひとまず天祖神社に行ってみようと病院わきを入っていくと動坂町会の神輿に遭遇。
14:20
駒込病院横。
軽トラの上に太鼓、笛の8人が乗っている。神輿は担がずに台車の上に乗せて引いている。
動坂町会は坂下なので、ここは町内ではないはずだが。
宮入りした後の帰り道だろうか?

宮入りというのは、神輿が各町内を練り歩いた後、天祖神社に入ることである。13の神輿が掛け声とともに集合すれば、それはそれはテレビに出るくらい壮観だろう。

しかし我が町会は宮入りしなかった。
役員の2,3人に理由を聞いても、はっきりしない。中神輿では格好悪い。かといって大神輿では担ぎ手がいない。宮入りするには奉納金が数十万円必要? 来年にとっておく。などなど。

神社の境内に緑の半纏を着た人がいた。わたしの上動五三会の半纏を見て、あきらかに宮入りしなかったことにご不満のようであった。「氏子総代会では出てくれるようにお願いしたのだが・・・まあ町内にいろいろ事情があるのでしょう」
ちなみに、前日の子ども神輿は 6町会、本日は大人神輿が5町会、宮入りしたという。
5つでも結構迫力あったのではないか?
見に来ればよかったな。
14:22
天祖神社境内はほんとに宮入りがあったのかな?と思うほど昨日に続き静か。
それでもお参りする人がいるのが、いつもと違う。

社伝によれば、1189年源頼朝が奥州藤原泰衝追討の途中、霊夢に感じ家臣籐九郎盛長に仰せ其所を探させたところ、老松に大麻がかかっており、此を見て神霊の効験を喜び、その松の辺りに神明宮を建てたという。その後、中絶して宮守もなく神木の老松の下に小祠のみありしを、慶安年中(1648~1659)堀丹後守利直が再興したと伝えられている。
江戸時代には、駒込神明宮とよばれ駒込の総鎮守として信仰を集めた。
町内のお神酒所の祭壇にも鏡を飾るのは、祭神が天照皇大神だからか?
14:23
屋台は4軒出ていた。
この日は白山神社、根津神社と祭礼が重なった(例年は根津神社が決めたあと、他は1週間ずらすらしいが、今年は?)
そのために4軒が少ないのか、いつも通りなのか、よく分からない。どっちにしろ人がいなくて暇そう。
14:25
前日も来た神明町上町会(宮元町会)
この通りは本郷通りからまっすぐ天祖神社本殿に至る参道である。
14:26
お神酒所の斜め前の駐車場に神明上町会というテント。
宮元町会のサテライト休憩所?
さすが有力町会である。
14:27
富士前町会の大神輿に出くわす。
このあたりあちこちで掛け声が聞こえる。
14:29
神輿を追い越して富士神社にきた。
ここの境内には2つの町会お神酒所がある。
ちなみに、ここ駒込冨士神社と千駄木の満足稲荷神社は天祖神社が管理している(兼務社)。
14:29
富士前町会お神酒所
さっき神輿を追い越した。
14:30
神明西お神酒所

となりの上富士町会の神酒所は不忍通りの向こう、六義園のほう。
その町会神輿は、町内に住んだ元首相・若槻礼次郎が寄贈したものという。
しかし私も神輿を担いだ後で疲れていた。引き返すことにした。
吉片町会、浅嘉町会のほうを周ってもいいが、来た道をまっすぐ家に帰ることにした。

するとまた別の神輿に遭遇。
14:33
神明西の神輿。
このあたりは宮入りした後、再び町内を回っているのだろうか?
かなり体力的にきついだろう。
14:36 宮元町会
あの大神輿だろうか?

家の前まで来て、しかし、こんな機会は二度とないかもしれないと、通り過ぎて南の東林町のお神酒所まで足を延ばした。
この町会は駒込林町の東半分だが、保健所通りの両側を町会域とする。
私はつい先日までここは根津神社の領域だと思っていた。(つまり、動坂町と林町の境である狐坂に、数年前、天祖神社と根津神社の両方の祭礼旗を見たことがある)
しかし、完全に天祖神社の氏子のようだ。

まあ、確かに千駄木は根津ではなく駒込である。
高村光雲は日本橋方面に行くとき「江戸に行く」といったし、夏目漱石も東大農学部の先、今の日本医大の横に転居したときは「駒込の田舎」といった。
近年、駒込というと山手線の駅のあたりを言うが、昔は畑しかなく、昔になればなるほど、「駒込」は南のほうを差す。
東林町会事務所の芳林閣
ここは町内に住んでいた子爵大給氏(豊後府内の大名家)が建てて寄贈したもの。

この町内は大給家のほか藤堂家、松平家など大名家、越後市島家、実業家須藤家、大平正芳、岡本銀行頭取、久米家、安田楠雄、高村光雲・豊周、宮本百合子実家中條家、高村光太郎、児玉希望、島薗家など、金持ち、文化人が多かった。
神酒所は奥に話声が聞こえたが、表には誰もいなかった。
町内住人だった高村光雲、昭和4年作のお神輿、ご神体が飾ってあった。

さて家に帰り、13町会の範囲について改めて考えた。
旧住所では上富士前町は、六義園の向こうまで範囲だったが、町会もそうだろうか?
こういうことはスタンプラリーの地図(神酒所の場所)だけでは分からない。
調べたら文京区の公式サイトに区内町内会の地図があった。
文京区の公式サイトから
この図は区民の町内会加入を促進するための地図のようだ。
これを見れば、六義園周辺は上富士前町会からはなれ、大和郷会になるようだ。しかし科研製薬跡の文京グリーンコートはなお上富士前町会の区域ではある。

なお、昭和41年の住居表示で駒込林町の東半分(東林町会)は、崖下の不忍通り沿いの駒込坂下町と一緒になり千駄木三丁目となった。しかしもともと住民の交流もなかったから町内会は別々のまま、坂下の千駄木三丁目南町会、北町会は根津神社の氏子である。

・・・・・

お祭りが終わった夕方、簡単な打ち上げ会をしたとき、町内に残る銭湯、ふくの湯の入浴券をもらった。
文京区では65歳になると月4回は100円(通常520円)で入浴できるのだが、大して風呂は好きではないし、面倒なので一度も使ったことはなかった。
18:22 ふくの湯
銭湯は何年ぶりだろう? 
温泉の大浴場は入っているが、町の銭湯は1981年3月、学生生活の最後、谷中真島湯以来である。見学が目的だったので、昔のように洗面器にシャンプーやせっけんを入れて行くのでなく、体をふくタオル1枚だけ持って出かけた。
18:23
ここから先は撮影できない。

男湯は大人10人、子ども3人いて、水風呂もあり、思ったより繁盛していた。
浴槽上のペンキ絵はおなじみ富士山だったが、横に鷹とナスが描かれていた。
江戸時代、この駒込地域は富士神社、鷹匠屋敷(現駒込病院)、そしてナスの産地として有名で、一富士二鷹三ナスビの言葉はここが由来という。

当たり前だが、カランの前の鏡は家の風呂よりきれいだった。
顔を見ながら神輿を担いで痛かった肩のあたりを少しもんでみた。




2023年9月15日金曜日

キダチミカンソウの謎を調べる気力体力がない

我が家の四大雑草は、ドクダミ、オキザリス、トキワツクユサ、カタバミであったが、ここにきて新入りが猛威を振るっている。

2023₋09₋05
一見するとハギ、ネムノキ、オジギソウなどと同じマメ科のような姿である。
夜になると葉が閉じるのもマメ科っぽい。
しかし、葉をよく見ればマメ科の複葉ではなく、茎から一枚一枚出ている単葉である。そして決定的に違うのは、実は莢ではないこと。実が葉の裏にびっしりついていて、これがこぼれるとどんどん増える。
数年前は全く見なかったが、昨年あたりから増えてきたような気がする。
写真を撮って画像検索したら、キダチミカンソウ(木立蜜柑草)Phyllanthus niruriというらしい。(それにしてもグーグルの画像認識はすごい。グーグルフォトの人物特定もそうだが、AIというのはこういうことか、と私は感じ入っている)

ミカンソウ科(コミカンソウ科) コミカンソウ属である。
コミカンソウ属は800種くらいあるらしいが、日本では12種。

そのうち、雑草として畑や道端によく生えるのが次の4つ。
1.キダチミカンソウ :実が緑、表面はすべすべ。
2.コミカンソウ :実が赤味がかり、表面に突起がある。
3.ヒメミカンソウ :コミカンソウ、キダチミカンソウの葉は横枝だけにつくが、ヒメミカンソウは主茎にも葉がつく
4.ナガエコミカンソウ :実に柄がついている。帰化種。
カブでも種まきしようかと思った場所

ここで疑問が2つ、出る。
まず、ミカンソウとは何か? 小さな実が蜜柑に似ているからというが、あんな小さな粒が1列についているのをみてミカンを連想する人がいるのだろうか? 大きさ、色、様子がかけ離れている。

もう一つの疑問は、1,3がミカンソウであるのに対し、2,4がコミカンソウであることだ。2,4が小さいということでもないらしい。ヒメミカンソウの「姫」は小さいことを表すと思うのだが、するとコミカンソウと同じ意味ではないか?
また、ミカン草から、姫ミカン、小ミカン、木立ミカンがつけられたのに、ミカンソウという種がないのは変である。

こうした疑問は以前なら調べたであろうが、退職して2年近く経つと、元気がない。
調べようという元気がなくなった。そういえば、文章を書くのも面倒になってきて、最近ブログをめっきり書かなくなってしまった。
体力もなくなり、寝転がっていることが多くなり、その状態から立ち上がるのも難儀になった。
以前は大学で一日中、個室で座っていた。週1コマの講義や学内の移動も散歩程度しか体力を使わなかった。
しかし今は、スーパー(8月に復職)での野菜の品出しにしろ、シェア畑での管理人にしろ、3時間びっしり、休憩なし雑談なしの肉体労働である。仕事が終わって不忍通りから坂を上がるのがきついほど疲れる。そして夕方はダンスのレッスン、あるいは練習。
以前は1日のんびり座っていて、帰宅時に立ち寄ってダンスをしていたのだが、いまは一度家にたどり着いてから夕方また出かける。1日2回電車に乗って出かけるというのはかなり消耗するようだ。

最近仕事中、腰から背中が痛い。夜寝ても疲れが取れない。
アルバイトをやめるべきではないかと思う。別にお金に困っているわけでもなく、稼いでも使い道がない。給与明細はウェブだけで、それを見るためのログインパスワードが複雑、面倒なため、毎月いくら稼いでいるかよく分からない。

これから一番大切となる体を壊したら何にもならない。

しかしやめにくい。人手不足なのである。
頼まれると家にぶらぶらしているからつい引き受けてしまう。彼らは人手が足りないと言いながら最低賃金で雇っている。

ミカンソウとコミカンソウ。
2つの疑問について調べる元気はないが、庭にはびこる彼らは異常な繁殖力である。何とか駆除しないと菜園が飲み込まれる。でも炎天下で草取していて腰を伸ばすと立ち眩みするんだな。

2023年9月11日月曜日

平野保育園と西江部神社、中野市民プールとオリバー君

8月10日、物好きなことに、わけあって飯山線立ヶ花駅から5キロほど離れた実家まで歩いた。

定年退職して自分の人生を思い出すように、高校時代に使った立ヶ花駅、母校の中野平中学、平野小学校、とちょうど子供時代を遡るような順番で見てきた。
そして小学校の南に平野保育園がある。

しかし平野保育園は中野平中学の西側に移転した。田舎だから建物は壊すこともせず、10年か20年か知らないが、しばらく空き家のまま残っていた。それでも今回来たらさすがに建て替わり、消防センターになっていた。
12:40
平野保育園跡。
平野地区コミュニティ消防センター

平野保育園には昭和36年(1961)4月から38年3月(1963)まで、2年間通い、5歳、6歳の誕生日を迎えた。
このころの思い出は自分の頭の中の最も古い記憶の一つである。
古い記憶は新しいものと比べ、今後年をとってもボケても残るというが、終活の一環としてできるだけ思い出してみる。
国土地理院1976/11/04(昭51)
平野保育園と平野小学校
卒園して13年、小学校を出て7年後の航空写真。

保育園は、神社の境内にあった。
ずっと名前を知らなかったが、今調べたら西江部神社という。
岩船(岩水神社)、吉田(日野神社)、片塩(諏訪神社)とちがい、部落名がそのまま神社名になっている。

私が子供のころ、大人たちは江部を西江部、東江部、北江部と3地区に分けて呼び、ここは北江部だった。しかし北江部という地区(部落)は正式にはなかったようだ。隣の平野小学校は北江部と思っていたが、調べたら西江部だったし、小学校の北の泉団地(昭和40年、市営住宅)は、昭和43年泉地区として独立したが、それまでは西江部区となっている。
12:41
西江部神社境内
当時はこのような樹木はなく、保育園は参道、境内まで園の敷地のように使っていた。

建物はくすんだミントグリーンの板張りで、南西の隅に玄関、下駄箱があり、入ると遊戯などする大広間だった。
1階は西側がその大広間で、東に小部屋がいくつかあった。
北東の隅に調理室のような部屋があり、金属製のボウルに「えのぐ」と書いてあったのを覚えている。当時、農村部の子供は小学校に入ってから字を初めて習ったが、我が家は比較的早くテレビが入ったので、「つづく」「おわり」「はれ」「くもり」などから自然と字を覚えた。しかし「えのぐ」が何か知らなかった。

午後のお昼寝は二階に上がった。眠らずに毛布の毛をむしって毛玉を作って遊んでいるところを見つかり注意された。
社殿は新築されていた。
かすかな記憶では、もっと床が高かった気がする。

12:42
神社の裏に回ってみる。
当時は笹が繁っていて、たまに野ぐそがしてあった。紙が一緒の時もあったから犬猫ではなく、通りを行く人間が我慢できずにしたのだろう。
また、以前の社殿はコンクリートの基礎でなく石垣の上に建っていた。

神社の東側は田んぼが広がり小さい川が流れていた。
私はみんなと積み木遊びなどするより、ひとりで魚やカニを捕まえて遊ぶのが好きだった。今では考えられないことだが、当時は自由に敷地の外に出られた。
捕まえたカニなどは家に持ち帰るため、拾った空き缶に入れ、保育園の縁の下などに隠して帰宅時間を待った。
12:42
その田んぼも小川もなくなって、神社の東は住宅が建ち、公園になっていた。
平野公園
かつて低地であったのに、小山やスロープなどもあるから相当盛り土したのだろう。
公園のまわりを見てもかつて広がっていた水田も小川もない。
12:46
小川が一すじ流れていたが、水量は少なく、草に覆われていた。
一帯の区画整理で川筋は変えられているだろうが、宅地化前の1976年の航空写真を見れば、神社の東に2本あった川の東のほうか?
もちろん今、川で遊ぶ幼稚園児、子どもはいない。

小川の南側に新しい建物があった。
表に回ると「平野放課後児童クラブ」と書いてあった。
12:47
中野市平野児童センター
中野市は子供がどんどん減り、高丘小学校は生徒数が3分の1になり、北部の4小学校(長岡、平岡、科野、倭)は1つに統合されるという。ところが平野は市街地に隣接した農村部であったため近年宅地化が進み、平野小学校は私のころ6学年で360人だったのが480人になっている。
児童センターの駐車場から南を見る。
耕作放棄地が広がっている。

一番古い記憶は、人生の始まりともいえる。
私の場合それらのいくつかは保育園時代だった。
保育園の地に立ち、まわりを歩けば、60年間忘れていたような何かを思い出すかと期待していた。しかし建物が消え景色も変わると、新しく頭に浮かぶものは何もなかった。

児童センターは市民プールの駐車場の奥に作られていた。
道路に出ようとすると懐かしい市民プールの横を通る。
12:48
中野市民プール
8月10日という最盛期でありながら、定休日と間違えるほど人がいない。
私の知る昭和50年代は、それはそれは大盛況だった。ほとんどの学校のプールが25メートルだったのに対し、50メートルもあり、流れるプールもある。近隣では一般人が遊べる初めてのプールということもあり、連日歓声と水しぶきで賑わっていた。

このプールはいつできたか?
ネットでは見つからない。
国土地理院所蔵の航空写真は
 1978-07-30
 1977-08-07
 1976-11-04
 1973-05-25
 1947₋11₋06
とあり、73年にはプールがなく、76年にはある。
1974年の平野小学校100周年記念の航空写真にはプールがある。しかしよく見ると幼児プールの東に工事用車両の出入り口が見える。
すると、私が初めて行った昭和50年(1975)夏が中野市民プールのオープンということになる。
12:49
かつては芋を洗うように混んでいた流れるプール。

この1975年は、高校を卒業、大学に合格し、初めて親元を離れた年である。そして初めて故郷に帰省すると新しい立派なプールがあった。

中学の同級生たちも18歳で大学進学や就職でそれぞれの人生を歩き始めた年である。
中学の仲間は、15歳で卒業すると、それぞれの高校の友人との交際がメインとなったり、いつでも会えるという安心感だったり、いったん3年間は疎遠になった。しかし、高校を終え、それぞれが違う道を進み始めると、新しい職場や引っ越し先などについて話したくなるものだ。

そしてこのオープンしたばかりの市民プールが社交場のようになり、再会の場所となった。と言っても誰と会ったかはっきり覚えていないのだが、ながの東急に就職した松島美智子とは50メートルプールでクロールの競争をした。彼女は中学時代女子で一番速かった。

約束していなくても、行けば誰かに会えた。隣のクラスの今井一行などとも偶然会って話をした記憶がある。
12:48
中野市民プール駐車場
ガラガラに空いている。

「行けば誰かに会えた」というのは自分が頻繁に行っていたことを示す。そもそもプールの住所が岩船で、歩いて近かった。保育園に行く途中にある。

そして75年夏の後半からか、あるいは翌1976年の1シーズンだけだったか、プールでアルバイトをした。
岩船の中島さんがプールの管理人を市から委託されていて、働かせてもらった。一日2000円。しかし朝8時半から18時半まで10時間だったから時給200円。当時、都会でのアルバイトは時給400円だった。

プールの監視員と聞いていたが、実際の仕事は炎天下の駐車場で車の誘導と、ごみ集め、掃除だった。当時のプール人気はすさまじく、常に満車、2人一組で一台出ると大声を出して一台入れた。売店も大繁盛したからゴミ捨てかごもしょっちゅう一杯になった。
そして営業時間が終わったら更衣室の掃除。すのこ板の下によく100円玉が落ちていて、そのままいただいた。
12:49
バイト仲間は数人いたが、二人だけ覚えている。
一人はいつもジーンズのつなぎを着ていた小柄な女性。彼女は「オリバー君」と呼ばれていた。ちょうど猿と人間の混血かと日本中で話題になったチンパンジー(1976年6月来日)に歩き方が似ていたからだ。しかしとても可愛らしかった。他の男子も狙っていたようだ。あるとき、私が(多分非番のとき)3歳のいとこを連れて行ったらオリバー君が「かわいい」と相手してくれた。それをみた他の男たちが「オリバー君は子供が好きなんだから小さい子を連れてくるなんてずるい」と非難した。

覚えている二人のうちのもう一人は確か西条の私と同年?の男。おそらくオリバー君を好きで私に対してライバル心をもっていたのではなかろうか。しかしオリバー君が辞めて、私が当時はまっていた空手の型(鉄騎初段、平安五段)を教えたらプールサイドで練習に励み、仲良くなった。
12:50
いま営業時間は9:30~18:00
7月は10:00~16:00
昔より短くなったような気がするが、これだけ人がいなければ当然だろう。
こんな状況では廃止になるのではと心配になる。

そうだ、1976年か77年、昼の喧騒が過ぎ去った夕方のプールに、HJさんが一人で来た。高校3年のとき、中野高校の文化祭で美術部の部長をしていた彼女を初めて見た。その半年後、75年春、彼女は跡見女子大学美学美術史学科に進学、同時に進学上京した私が初めてデートというものをした女性である(上野公園)。秋には免許取り立ての私が新座のキャンパス前で彼女をピックアップし森林公園までドライブした(トヨタのパブリカ)。しかし二人とも寮住まい、ほとんど手紙のやりとりだけの付き合いだった。返事がなかなか来ないと、ひとり相撲のような手紙を一方的に出してしまい、それがこじれて友人関係は消滅した。

プールで再会したときもなんとなく気まずい雰囲気だった。夕方になると肌寒いほど涼しく、彼女はそうそうに泳ぐのをやめ水から上がった。ビキニの水着だったせいか、恥ずかしそうに更衣室のほうに走っていったのが、私の目に残る最後の姿である。
12:50
プールがオープンして48年、つまり私が故郷から離れて48年。
あの夏の、かつてのにぎやかさが夢のようだ。
しかしアルバイトを募集していた。

プールの真ん前は天理教の北信分教会。
道路の近いところに新築したようだ。
12:50
かつては道路が高いところにあり、道路と天理教の母屋の間に川があった。
通学する朝、川で天理教の家のお姉さんが洗い物をしているとき、上級生か誰かが石を投げ、水しぶきが彼女に当たった。彼女は上目遣いで見ただけで何も言わなかった。ひどいことをすると子供心に思った。
12:52
左は道路を挟んでプール。
天理教の裏に、小川沿いの細い道があり、岩船からの子供はほとんどこちらの近道を通って小学校に行った。ある朝、オニヤンマが羽化しているところに出くわした。
右側は田んぼだったが、今は川も細道もコンクリートとなり、田んぼは宅地になった。
12:53
50メートルプールと川

この川は、プール建設にあたり流路を敷地の東の端に替えられたようだ。かつてはもっと水量があった。中野扇状地の末端に当たるここ岩船はあちこちに水が湧き、川はどこも水量豊かであった。しかし上流で取水が増え、道路の拡張と舗装、そして宅地化で沁み込む土の部分が減った。その結果、この50年で湧水地はどんどん消え、無数にあったきれいな水の小さな川は消滅した。残った川も道路拡張のためU字溝になってふたをされた。

さて、この川は、今のプールの真ん中あたりを流れ、道路をくぐって天理教の前に出て、平野小学校のポプラ並木と道路の間を西に流れていた。
そしてプールのあたりには、この川と田んぼに挟まれて水の湧く小さな池があり、保育園から小学校低学年にかけては帰宅時必ず立ち寄る場所だった。
あるとき、カニか魚かゲンゴロウを捕まえていると地面が揺れた。少し高いところにあった道路を見上げると、止めてあったオートバイが倒れた。新潟地震である。今調べると1964年(昭和39年)6月16日13時01分(火曜日)とある。私が小学校2年のときか。
12:55
プールと岩船部落の中間点。
保育園、小学校、中学校に通った道である。
当時は田んぼの中の一本道だったが、その後プールができたこともあり拡張された。さらに周辺が宅地化され、新しい道路が交差し、新しい家が並ぶ。
12:56
町田憲一君の家の豚小屋
当時は岩船部落の西の端から保育園・小学校・天理教まで1軒もなかった。(下の写真)

昭和37年(1962)
保育園からの帰り。
道の先に西江部神社の森と小学校が見える。そこまでの間は何もなかった。
歩いているランドセルの上級生は分からないが、その後ろは吉田部落の長島佐代子ちゃんと竹内徳良ちゃん。

水田地帯にまっすぐ開いた新しい道路は、常に地盤沈下したから、当局はたびたび小石をまいた。このあたりにはない、砕石されたばかりの新しい石で、黄鉄鉱か何だか知らないが、きらきら光る鉱物が含まれていた。私は金だ!金だ!と拾って、しばしば持ち帰った。写真の先頭を歩く私の帽子の中はその大事な石たちである。

保育園は61年前。
小、中、高校を終えて上京したプール元年は48年前。
人生って、長いような短いような。