2023年11月25日土曜日

パプリカ折れて大根育ち柿食はる

パプリカは寒い気候が好きなのか、暑い間は眠ったようだったのが、ナスなどの夏野菜が終わる9月以降になってようやく花が付き、やっと実が生った。
2023₋11₋06
しかしピーマン同様茎がもろいうえ、実が大きいため、折れやすい。
風が吹いたり、雨で葉が重くなると実がついた枝ほど折れる。
2023₋11₋08
雨上がりのこの朝は大量に折れていた。ピーマンの代わりに食べよう。
パプリカはあまり熱心に作っていない。収穫まで時間がかかるため来年はやめようと思っているくらいだから、折れてもあまりがっかりしていない。
2023₋11₋08
柿はこの日までに160個とった。
10月11日に色の薄いカキをとって以来、毎日のようにとって人にあげているが、色づきうまそうになったら鳥に食われるようになった。

2023₋11₋23
こちらは温州ミカン
一昨年は64,昨年77個。今年は100個は越えるかな。
2023₋11₋23

2023₋11₋23
大根(宮重総太り)を初めて収穫した(写真中央)。
手前は相変わらず成長遅い白菜。
2023₋11₋23
大根は葉を除いて1100グラム。スーパーのものより大きい。
(市販品は箱の都合もあり、大きさが規格化されているのかもしれない)
宮重は24本育っている。

6個とった柿はこの日までに263個収穫した。300以上生ったのは確実。

2023₋11₋24
こちらはサツマイモの後、11月になって種まきした大根。
成長が遅れるので、春になっても筋が固くならない三太郎大根にした。
この日、防虫ネットをはがす(虫よけでなく、ネコ除けだった)

ふと、三太郎大根の上の柿をみたら、また鳥に食われていた。
2023₋11₋24
鳥は、ヨトウムシなどと違い、一度食べたからといって集中的に食べるわけではない。
近くに飛来した時、目に入ると気まぐれに食べて、普段は生ごみなどを食べているのだろう。
しかし、葉が減って、赤みが増してくるとますます目につくことも多いから、今まで以上に食われるかもしれない。

2023₋11₋24
そこで、三太郎大根から剥がしたばかりの防虫ネットをかぶせてみた。
しかし反対側は大きく開いており、枝葉の中まで入って実を食う鳥には効かないかもしれない。

この日は夜北風が強かったせいか、25日の朝、ネットは剥げ落ちていた。そして新たに1つ柿が食われていた。食われたのはネットの落ちる前だったか後だったか分からないが、ネットは畳んで片付けた。

千駄木菜園 (総合)目次

千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次

2023年11月22日水曜日

全国藩校サミットに出席した殿様50人、一覧

第20回を数える全国藩校サミット、2023年は第一回以来2度目の文京区。
区の広報紙で知り、無料入場券が当たったので行ってきた。
11月18日、奇しくも水戸弘道館をブログで書いていたところだった。

今までの開催地は
第1回 H14 2002 文京区 幕府・昌平黌
第2回 H15 2003 会津若松
第3回 H16 2004 佐賀・多久 佐賀藩多久邑
第4回 H17 2005 高梁  備中松山藩
第5回 H18 2006 伊那   高遠藩
第6回 H19 2007 鶴岡 庄内藩
第7回 H20 2008 熊本
第8回 H21 2009 長岡
第9回 H22 2010 松江
第10回 H24 2012 水戸
第11回 H25 2013 鹿児島
第12回 H26 2014 行田 忍藩
第13回 H27 2015 福岡
第14回 H28 2016 丸亀
第15回 H29 2017 金沢 加賀藩
第16回 H30 2018 舞鶴 丹後田辺藩
第17回 R1 2019
第18回 R3 2021 栃木・壬生  壬生藩
第19回 R4 2022 福山
第20回 R5 2023 文京区

幕末約270あったという藩。
藩校も250ほどあった。開催できるところだけでも順番にやったら一巡するのに100年、200年かかる。どういう順番、基準で開催するのか分からないが、北から南まで、大藩から小藩まで、バランスよく開催されている。それなのにわずか20回で文京区に戻ってきていいものか、東京という利便性の威力だろうか。
それとも薬理学会などのように、地方ブロックを決め、その持ち回りにしてブロック内で手を挙げた藩がやるのかな?
2023₋11₋18 13:12
富坂下交差点
久しぶりに来たら、区役所の北側、フェンスで覆われ工事中だったビルがすっかり完成していた。都心の風景である。

開演は13:30だからちょうど良い時間だ。
13:14
後楽園ドームに向かい、左は会場の文京シビックホール(区役所)、右は地下鉄後楽園駅。
古い地下鉄は、銀座線渋谷駅も地上3階だが、丸ノ内線後楽園駅も地上2階である。

上の写真(2階の窓)でも見えるシビック小ホールは文京区ダンス連盟のダンスパーティで来たことがあるが、会場の大ホールは入ったことがない。どこだろう?と区役所ビル(文京シビックセンター)に入ったら、すぐ1階にホール入口があった。南北線なら駅直結だ。
13:16
藩校サミットなんて物好きな人はあまりいないと思ったら、びっくり。
同好の士がこれほど多いとは。

今年の3月6日、文京シビックセンター小ホールで「将軍・殿様サミット2023」が開催され、文京区にゆかりのある徳川家広(徳川宗家19代当主)、徳川斉正(水戸家15代当主)、水野勝之(結城藩、20代当主)、阿部正紘(福山藩、17代当主)のトークショー、シンポジウムが開かれた。区民対象に無料であったが、抽選に外れた。
将軍・殿様サミット2023(文京区公式サイトから)

今回はもっと大規模なイベントで、無料席(抽選)のほかに1000円の有料チケット(大会冊子付)があった。この二本立ては良い。1000円で確実に入りたい人と、タダなら外れてもいいという人の両方に対応する。私は抽選に当たった。
13:17
手荷物検査があった。
プログラムを見ると旧藩主家の現当主が何人も集まる。人命は平等と言えど、知名度やかけがえのなさという点では、政府要人より貴重な人々と言える。凶器を持っていないかチェックするのも仕方がないか。
13:27
シビックホール大ホールは1802席(1階1242、2階560席)
1階席の前半分は関係者席だった。
最前3列ほどは、旧藩主家の当主たち。二席並んでいる藩はご夫妻で出席か。
続く数列は藩校関係者。富山藩や白河藩のように一人のところもあれば、壬生藩、佐倉藩(ともに16人)、長岡藩(10)、秋月藩(15)のように10人以上参加の藩校も多かった。栃木の作新学院は黒羽藩の藩校の名前だったことをこの日に知る。
藩校関係者の後ろは、文京区など自治体のひとびとの席。

どんな藩校が来ているのか、メモし始めたが書ききれず。
開演が迫っているので諦めて通路に出たら、指定席の席次表が立ててあった。急いで写して二階の自分の席に戻った。
今、この席次表を見て出席者を活字にしてみる。
(私のメモには久留里藩があるが、この席次表にはない。はて?)

概ね、右前方から左後方にかけて、北の藩から並べ、最前列中央に徳川宗家と御三家を配置してある。藩校サミットと言いながら、やはり旧藩主の序列は無視するわけにいかなかったらしい。

出席藩主 参加藩校
1 亀田 岩城
2 盛岡 南部 作人館
3 天童織田 養正館
4 山形 水野
5 江戸幕府 徳川家広 昌平坂学問所
6 水戸 徳川斉正 弘道館
7 紀州 徳川宜子
8 尾張 明倫堂
9 新庄 戸澤 明倫堂
10 庄内 酒井 致道館
11 米沢 上杉
12 福島 板倉
13 会津 松平
14 白河 立教館
15 湯長谷 内藤 致道館
16 棚倉 阿部
17 黒羽 作新館
18 結城 水野 秉彝館(へいいかん)
19 壬生 鳥居 学習館
20 七日市 前田 成器館
21 松平 進修塾
22 上総一宮 加納 崇文館
23 関宿 久世
24 佐倉 堀田 成徳書院
25 長岡 牧野 崇徳館
26 三根山 牧野
27 松代 真田幸俊
28 富山 前田 廣徳塾
29 加賀 前田
30 小浜 酒井 順造館
31 郡上 青山
32 大垣 敬教堂
33 苗木 遠山
34 彦根 井伊 弘道館
35 田中 本多
36 吉田 大河内
37 岡崎 本多 允文館
38 西大平 大岡
39 丹後田辺 明倫館
40 豊岡 稽古堂
41 峰山 京極 敬業堂
42 田辺 牧野
43 郡山 柳澤 総稽古所
44 赤穂
45 岡山 閑谷学校
46 備中松山 板倉 有終館
47 津山 松平
48 新見 思誠館
49 福山 阿部 誠之館
50 清末 毛利
51 岩国 吉川
52 多度津 京極
53 阿波 長久館
54 福岡 黒田 修猷館
55 豊津 育徳館高校
56 秋月 黒田 稽古館
57 柳河 立花 傳習館
58 佐賀多久 多久 東原庠舎
59 蓮池 鍋島 成章館
60 熊本 細川 時習館
61 高鍋 秋月 明倫堂
62 長崎 長崎聖堂
63 鹿児島 造士館
合計 50 41

63の藩から旧藩主家の現当主が50人、藩校関係者は41校が集まった。
第一回(2002)は16の大名家当主が集まったそうだが、年々増え今回は50家。

午前中は旧藩主会議と、35校参加の藩校会議があったらしい。

プログラムは、幕が開くと江戸消防記念会による2つの大きな纏ふりから始まった。
将軍吉宗、町奉行大岡忠相の時代に始まった江戸町火消しはイロハ48組、小石川のな組と音羽のう組の纏らしい。(文京区地域は他にた、れ、そ、つ、ね組などがあった)。
続いてはしご乗り。
てっぺんの片方の棒に乗り両手を離して遠望のポーズをとる「遠見」、そのあと落下するかのように見せて逆さになる「肝潰し」を3人の演者が披露。正月にニュースで見るものよりも見事だった。
そのあと都の無形文化財という江戸木遣り歌。
110曲ある中でどれかを披露されたのだが、歌詞はよく分からなかった。寺院の朝の勤行ではところどころ聞き取れる部分があるし、「山の神様 お願いだ~」と諏訪御柱「木落とし」で歌われる木遣りでも歌詞が分かるのだが、この江戸木遣りはさっぱり聞き取れなかった。

続いて、
開催地挨拶(文京区長・成澤廣修)
主催者挨拶(大会副会長・徳川斉正、水戸家15代当主)
歓迎挨拶(大会会長・徳川家広、宗家19代当主)
来賓挨拶(都知事・小池百合子)
 (斯文会理事長・宇野茂彦)

斯文会は湯島聖堂の維持管理、孔子祭の挙行、漢文関係の公開講座の開講、学術誌『斯文』の発行などをしている。江戸時代の藩校は主に漢学を学んだところであり、また湯島聖堂が藩校の模範ともなった幕府の昌平坂学問所の場所でもあることから、宇野氏は来賓にふさわしい。彼は祖父も父も漢学・国文学の東大名誉教授であり、彼本人は令和改元のときの最終6案のうち4案の考案者である。

徳川斉正氏は漢字文化振興協会会長で、これまた藩校の主要教科であった漢学に通じる。

小池氏は遅れてきたからプログラムの後のほうで登壇、家広氏と友人のようで「お久しぶりです」と壇上から最前列の徳川宗家当主に呼びかけていた。
第20回全国藩校サミット文京大会プログラム

続いての旧藩主紹介がすごかった。
ステージを準備して、50人が登壇、整列着席するのに時間がかかるため幕がいったんおり、しばらくして幕が開くとそれはそれは豪華絢爛、壮観だった。写真撮影が禁止されていたのが残念。

壇上の右から、北の亀田藩(秋田・由利本荘市、2万石)旧藩主家岩城氏から、南部氏(盛岡)、水野氏(山形)、と続き、左端は細川氏(熊本)、秋月氏(高鍋3万石)まで、50人の現当主が横一列に並んだ。(列は3分の1ずつ、左と右は斜めにして鶴翼のように)。

そして酒井氏(小浜藩主家)と青山氏(郡上藩主家)の間、つまり中央列の真ん中に、徳川宗家と水戸家、紀州家の現当主が座った。

殿様が50人並ぶことなど、秀吉や徳川時代の年賀の挨拶のようで、壮観というのはこういう景色かと思った。
彼らの背中には白い板が立てられ、遠くからも読めるよう大きく藩名とお名前が書かれている。
藩校サミットというが、このイベントは実質的に殿様(旧藩主)サミットといったほうがよい。

司会の女性が、北の亀田藩、旧藩主から紹介していく。
「盛岡藩 藩主家、第46代当主、南部利文さま」などと呼ばれると、殿様たちは立ち上がり少し前に出てお辞儀する。このとき客席は拍手する。私はまわりがするから、最低限、形式的に小さく叩くだけなのだが、すぐ後ろの人がとんでもなく大きな音で拍手していた。耳元で非常にうるさく、この熱血漢はどんな人か振り向いて顔を見たかったが、怖くて向けなかった。

私の席は2階席9列34番すなわち、2階の一番前であったが、殿様たちの顔はよく見えない。隣の方はオペラグラスを取り出された。しかし大きなモニターでも同時に映しているので顔は確認できた。皆さんお上品な顔立ちのご老人だった。
しかし松代藩、藩主家14代当主、真田幸俊氏の顔はきりっとされている。慶応理工学部の現役教授だからか。

紀州徳川家第19代当主は、紅一点、徳川宜子(ことこ、1956年- )。私と同じ年で建築家。子息はいらっしゃらないようなので、後継者探しは難しそうだ。

(今回知ったのだが、徳川家(宗家、慶喜家、御三家、御三卿家、およびそれらの分家)のうち、徳川慶喜家も5代目の現当主は女性、山岸美喜氏。4代目慶朝氏の姪、慶喜の玄孫である。慶喜家には存命中の親族が7人いるが、徳川姓の男子はなく、ここも断絶の危機にある。当主というと華やかな感じだが、彼女に言わせると祭祀の継承者に過ぎないという。彼女は自分の代で墓じまい、家も終わりにするつもりのようだ。谷中の慶喜の墓の維持は相当金がかかるらしい。)

さて、50人の殿様の末裔の紹介は見ごたえがあった。
多くの藩は関ヶ原などで手柄をあげ大名となり藩主となったから13代から16代くらいが多いが、鎌倉時代から続く吉川家(36代)、南部家(46代)などは、当主の存在自体が不思議な感じがした。歴史上の人物が、生身の人間として現れた感じ。
この光景は、テレビでも放映する価値があると思った。

50人の紹介が終わると中央の徳川宗家現当主、家広氏が代表で挨拶。
「よく教科書には、参勤交代は大名を弱らせるためだったと書いてあります。そうではありません。大名は江戸にいたほうが楽しかったでしょう。幕府も、そのつもりなら嫌な大名は関ヶ原の後、さっさと潰しています。だから残った大名、ここにいる人たちはみんな仲がいいんです」と笑いをとっていた。

50人が壇から下りて、続いては、藩校サミットの名に恥じない「藩校活動発表」。
漢字文化振興協会の堀江氏が
1.幕府、昌平黌:幕臣の子弟だけでなく各藩士の子弟も学び、高杉晋作、佐久間象山も在籍したらしい。
2.庄内藩、致道館:現存する数少ない藩校で、鶴岡市が所有。
3.七日市藩、成器館:黒門などが富岡高校の敷地に残る。
この3つの例を挙げ、話された。財政難、藩校維持者の高齢化を述べられたが、スライドがなく、ずっと話に集中するのは難しかった。

次は子ども論語塾。
安岡正篤の孫、正岡定子氏が湯島聖堂、伝通院などで論語の素読の塾を開いている。
素読は幼少のころから意味が分からなくとも四書五経などを先生の後にしたがって音読すること。
声を出すことの重要性は近年注目されているが、先生が次に何を言うか、聴く力を養うにもいいという。
論語の素読は、藩校で盛んに行われていたことからプログラムに入ったのであろう。
定子氏が、小学校低学年から高校生?までの塾生、二、三十人を引き連れ登壇、論語の一節の素読を披露した。
我々が高校のとき習った「子曰く」は「いわく」でなく、敬語の「のたまわく」と読まれていた。
16:12
子どもたちの論語素読のあとは休憩に入った。

私は終盤の「文京区ゆかりの旧藩主トークセッション」を聴きたかった。
登場するゆかりの殿様とは誰だろう?

文京区は水戸、加賀、大聖寺、喜連川、青山(郡上八幡)など大名の住んでいた上屋敷が多くあり、また明治後は江戸城近くに上屋敷を持っていた大名も政府に屋敷を接収された後、多くが文京区に邸宅を建てた。中には自藩の中屋敷、下屋敷跡に屋敷を構えたものもいる。千駄木だけでも、太田氏、大給氏、藤堂氏、松平氏(津山藩)がいるし、弥生町に広大な敷地をもった芸州浅野氏、西片の阿部氏、本駒込の土井氏、白山の酒井氏、西のほうへ行けば徳川慶喜家、会津松平家、伊達、細川氏などが住んでいた。
登壇人物だけでも知りたかったが、休憩時間が長く、つぎの記念講演「渋沢栄一の論語:受けた教育とその近代への影響」を集中して聴く自信がなかったので、ここで退出した。

・・・・
江戸時代ならともかく、藩校がなくなった今になって藩校サミットを開く意義が分からない。しかし、殿様50人を拝見できたことは良かった。テレビ中継、少なくとも夜のニュースになってもいいイベントだった。と、ダンスの練習に向かいながら思った。


2023年11月19日日曜日

お隣同士、水戸一高と三高の歴史と進学状況

茨城県に行く用事があり、42年ぶりの水戸に寄った。

みまつホテルをみたあと、駅前の大銀杏のわきの銀杏坂をあがると三の丸に入る。三の丸小学校、弘道館を素通りして、大手橋を渡り二の丸に入った。(前のブログ)
11:07
「水戸学の道」という散策図
大手門をくぐると、道の右が茨城大付属小学校・幼稚園、左が水戸市立第二中学校。
その道を東の本丸に向かって歩くと右に水戸第三高校。

11:12
左は樹齢400年以上の大シイ、右が県立水戸三高。
ここも今までの3つの公立学校と同じように、武家屋敷の様な門と白壁の塀。
11:13
茨城県立水戸第三高等学校 裏門
正門は南側、坂下の、水戸城柵町坂下門のそばのようである。
この学校は帰りに見るとして素通り。
杉山門、見晴らし台(別ブログ)に寄ってから本丸に向かう。

二の丸と本丸の間の深い堀切は水郡線が通っていて、その上にかかる本城橋を渡るとすぐ水戸一高。すなわち本丸イコール校地。
11:18
水戸一高の正門は、城内のほかの学校と違って、ごく普通。
たぶんそばに江戸時代の本丸正門だった薬医門が現存するから、下手なものは作れなかったのだろう。

「一高関係者及び史跡見学者以外の方の通行はご遠慮ください」とある。
しかし、まあ一応史跡見学者なので入ってみた。
11:19
本丸跡に立つ水戸一高と薬医門。

薬医門とは固有名詞ではなく、奥に薬師様が祀られているわけでもなく、鎌倉末期から室町にかけて流行した門の建築様式のことである。この薬医門は佐竹氏の本城だった安土桃山時代に建てられとされる。水戸城址で唯一、明治の取り壊しや戦災にあわなかった建物だが、私は、茨城県一番の名門、水戸一高のほうに興味があった。

この学校は
1878年(明治11年)茨城師範学校予備学科として開校。
中等教育の学校としては茨城県で一番古い。
2年後の1880年「茨城中学校」として師範学校から独立。
1886年 全国的な中学校令公布にともない茨城県尋常中学校に改称。

(中学校令で中学校は、高等中学校と尋常中学校の2等に分かれ、高等は東京、仙台、京都、金沢、熊本におかれ、尋常中学は各府県に1校ずつ設立された。)

長野県では、1884年長野県中学校が長野に本校、松本、上田、飯田に支校が置かれた(それまで上水内郡立中学(長野)、第18番中学→郡立松本中学(松本)などはあった)
1886年の一県一校の中学校令で、長野県尋常中学は松本に置かれた(松本深志の前身)。

茨城県尋常中学校は
1896年(明治29年) 水戸城に校舎を新築し移転
1897年、土浦分校、下妻分校(現在の土浦一高、下妻一高)開校

1899年の中学校令改正で、一県二校以上の中学設立が奨励されたため、
1900年(明治33年) 土浦、下妻両分校が独立、本校は「茨城県水戸中学校」に改称。
この時、水戸中学、土浦中学、下妻中学の分校として太田、竜ケ崎、水海道にも学校が設立され、いずれも1902年に独立して旧制中学となった。

戦後、旧制中学と高等女学校は、ともに新制高等学校となったため改名を迫られ、茨城県ではほとんど旧制中学は○○一高、高等女学校は○○二高となった。戦後と言えど男尊女卑のにおいが残る。

(同じ北関東の埼玉、群馬、栃木では川越高校、川越女子高のように、○○高校、○○女子高と改名したのが多い。
長野県では地名プラス識別語、すなわち長野北・西、松本深志・蟻ケ崎、諏訪青陵・二葉、上田松尾・染谷丘、飯田高松・風越のように、全く対等に独立した名前にしたが、長野、上田、飯田はのちに長野高校など○○高校と改名した。)

・・・・
さて、本丸薬医門の前を通って水戸一高の校舎に近づく。
11:20
玄関前に水戸一高の校舎案内図があった。
緑の崖地をみれば、この高校の敷地は本丸いっぱいに広がっている。

本丸の先(東)すなわち川と沼に挟まれた台地の先端は下の丸。
いまは一高のグラウンドになっているようだ。

誰もいない。
休日のように人の気配がない。
そういえば二の丸展示館を出てから人に会っていない。
郵便屋さんが来たことで、ようやく現実に戻った気分。

校内案内図には飛田穂洲胸像なども「案内」されている。「史跡見学者」として見に行っても言い訳できると思ったが、時間がないので行かない。飛田は水戸中学の卒業生で学生野球の指導者。早稲田野球部の初代監督として安部球場跡に銅像があったことは以前ブログで書いた。

水戸一高の構内には、他に、相撲道場(敬義館)、江山閣なども書いてある。この名の由来は何だろう? 帰宅後、敬義とは義公(徳川光圀)を敬うじゃないだろうな、とネットを引いたら、播磨明石藩や安房館山藩の藩校「敬義館」が出てきた。

ふと、城下町に作られた旧制中学は藩校の名前を継承しているところがあることを思い出した。米沢興譲館、福岡・修猷館、柳川・伝習館は、藩校の名を冠した県立高校である。広島の私立修道高校も藩校「学問所」が明治3年に改名した「修道館」を起源とする。
そういえば、薬学の同級生・稲垣治は愛知県立時習館高校だが、この名は豊橋吉田藩の藩校である。

水戸中学・水戸一高は、なんといっても城内にあるわけだからそれらよりも藩校・弘道館の名を継承する話があったとしてもよい。しかし、尊王思想で通したとはいえ、朝敵、徳川幕府と関係の深い御三家。また幕末の弘道館は(というより藩内すべてが)改革派の天狗党、保守・門閥派の諸生党にわかれ、血を血で洗う激しい抗争を続けた。天狗党の乱では彼らが慶喜をたより京を目指したものの敦賀でつぶされたことだけ有名だが、その前に水戸藩内で天狗党・諸生党の両者の衝突があった。
戊辰戦争では幕府方として会津で敗れた諸生党の残党が弘道館にこもり、天狗党のこれまた残党と弘道館戦争を起こした。今は平和なことしか伝えない弘道館も、各党が相手の家族まで処刑した血なまぐさい歴史を持ち、それが水戸の人々の記憶に残り、尋常中学の名前には使えなかったのかもしれない。

・・・・・
旧制水戸中学、水戸一高はこうした学問熱が高い水戸藩士の子弟、子孫も多かっただろう。どんな人が出ただろう?
帰宅してみたウィキペディアの出身者には、長塚節、深作欣二、立花隆、伊藤正徳(軍事作家)らがある中、ぱっと目に入ったのは、栗田健夫海軍中将(1889 ₋ 1977 )。連合艦隊の主力、第二艦隊司令長官として大和武蔵を擁し、レイテ湾に向かった。なけなしの空母を集めた小沢機動部隊がおとりとしてアメリカの空母群を北東に引き寄せることに成功したのに、栗田艦隊は湾内に突っ込まず、無駄に武蔵はじめ多くの艦船を失い、小沢艦隊も壊滅した。栗田艦隊・謎のUターンとして有名である。

神原秀記氏(1945 - )の名に驚いた。日立製作所フェロー。
一般にはDNAシーケンサーの開発者として一時はアメリカより先を行き、そのままいけばゲノム解読は日本が行ったかもしれないと惜しまれた人物として知られる。しかし私にとってはGC-MS(gas chromatography/mass spectrometry、要するにガスクロ直結の質量分析器)の開発者として記憶にある。
1982年水戸のみまつホテルで5泊して、たった一度歩いたのが、私の唯一の水戸の記憶である。42年ぶりに再訪し、いろいろ思い出しながらブログを何本か書いているが、そもそも、入社2年目で水戸にきた理由こそ、新しいGC/MS装置の使用法についての研修だった。毎朝水戸の隣の勝田にあった日立の事業所に通った。質量分析計は真空でイオン化するものだったが、ガスクロ、液クロから試料をそのまま導入するには大気圧でイオン化する必要がある。その装置の開発者として彼は有名だった。勝田で拝見したかどうかは記憶にないが、田辺の代謝研究部門にいたころ彼の論文や学会発表は注目していた。
彼の名があったことで、水戸城址の景色以外にも若かったころを思い出すことができた。

・・・・・
慌ただしく一高をでて、本城橋から三の丸に戻る。
11:22
本城橋から二の丸を見れば水戸三高がある。
その間の堀は水こそなけれ谷深し。

丸い壁の建物は体育館のようだ。
1982年、みまつホテルでもらった地図
よく見ると三高の体育館は本城橋の通りの反対側、すなわち杉山門のほうにある。
調べたら新体育館は平成7年に竣工したらしい。
11:23
左:水戸三高、右:杉山門

水戸一高は旧制水戸中学の名門、二高は高等女学校、では、この三高は?
戦後できた新制高校かな? でも一高の隣で比較されていやだな、と思ったら、前身は大正15年創立の市立高等女学校だった。戦後の1948年に県立に移管、水戸女子高校と改称、さらに翌年水戸三高と名を変えた。もとは女子高だから、一高と比較されることはなかっただろう。

しかし、水戸三高の公式サイトに行って驚いた。トップページがいきなり昨年入学した男子16人の集合写真があり「来たれ男子生徒!」と呼び掛けていた。
共学でありながら事実上長く女子高であり、本格的に男子を受け入れ始めたのは2007年からという。それまで水戸一高、水戸桜ノ牧高校が難しい生徒は、隣の勝田高校などに行っていたが、ここにも進学できるようになった。大学進学率は7割、国公立大学は例年30~35名で有名私大への合格者もおり中堅進学校といえる。

そうだ、水戸一高の東大合格者をみてみる。 
2023年から2020年まで数字をさかのぼると 
水戸一高  15(11) 14(11) 23(20) 8(5)
土浦一高 15( 7 )14( 8 )22(17 )26( 14)
現役合格者(カッコ内)は、東京通勤圏で筑波学園都市を控える土浦一高を上回る。
地方の県立高校としてはかなり立派である。

・・・・
さて、水戸城二の丸に戻る。
左に三高、右に市立二中、左に付属小学校、と順に見ながら二の丸を出て、三の丸に戻り、弘道館の北の梅園を通って旧茨城県庁(三の丸庁舎)の横に出た。
11:33
三の丸庁舎の駐車場から、水戸市水道低区配水塔(1932年竣工、2000年稼働終了、いまは文化財)の白い塔が見えた。
その左の瓦屋根は水戸東武館(剣道、なぎなた・居合道の道場)のようだ。
水戸一高は剣道が強いイメージがあるが、具体的に誰かを知っているわけではない。

ちなみに水戸二高(旧県立水戸高等女学校)は、1900年弘道館跡(このあたり?)に仮校舎で設立され、今は三の丸を西に出た右側にある。数十メートル手前の裁判所までは行ったが、そのすぐ先の二高は見ずに駅へ急いだ。


2023年11月16日木曜日

水戸学の道を歩き、大日本史と光圀肖像を見る

茨城県に行く用事があり、42年ぶりの水戸に寄った。

みまつホテル(前のブログ)をみたあと、駅前の大銀杏のわきの銀杏坂をあがると三の丸。
坂を上った突き当りは武家屋敷のような土塀に囲まれ、これこそ三の丸の弘道館だと思ったが、よく見たら小学校だった。名前もずばり三の丸小学校。
10:33
水戸市立三の丸小学校
42年前の1982年はこんな時代がかかった外構はなく、普通の小学校だったのだろう。記憶に残っていない。(学校沿革によれば、冠木門、白壁の塀は1984年2月という)

信州でも松代小学校は藩校の敷地に建つが、このような観光資源とすることはなく、年月とともに昔の建物は消えて行き、復元計画もないだろう。

駅前を含め水戸城周辺は散策用の地図が多い。
小学校の塀の前にもある。
10:35
地図のタイトルは「水戸学の道」という。

水戸学というのは、第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて幕末の第9代斉昭のもとで大きく発展した、尊王攘夷の思想、学問、学風のことである。明治維新の思想的原動力となった。
しかし、この散歩道のタイトルに水戸学の道とは大げさかな。
10:38
南東の角を東にまわると再び冠木門があり、小学校の中がよく見えた。先ほどの衝立があった門より、こちらのほうを常に使っているようだった。
見れば屋根や腰壁部分に擬古的デザインがあるが、もっと派手にやっても良い。

小学校の並び(北)に有名な弘道館がある。
10:39
弘道館 正門
1982年に来たことは間違いないが、ほとんど記憶がない。
夕日が当たる白い壁くらいしか覚えていない。

弘道館のある三の丸はもともと重臣の屋敷地だったが、幕末斉昭の時代に藩校弘道館が開設された。単なる子弟の教育機関ではなく、藩政運営の一環としてとらえられたため、三の丸の真ん中に広い敷地を有した。

私の城巡りは相変わらず忙しいので中へは入らない。
10:44
弘道館正門と向かい合うように、濠の向こうに二の丸の大手門がある。
景観整備の一環として2020年に復元された。
10:46
徳川御三家の大手門として立派。
これを正門とするかのように、くぐるとすぐ学校がある。
10:47
茨城大学教育学部付属小学校・幼稚園

前身は茨城師範学校付属小学校(1877)で、1888(明治21)年にこの地に移転してきた。
戦後、付属水城小学校と改称。
茨城女子師範付属小学校(のち付属愛宕小学校)と統合され、ここ水城校地が付属小学校に、愛宕校地が付属中となった。

小中学校としては珍しく警備員がいる。2001年大阪教育大学附属池田小学校の事件以来だという。

付属小学校の向かいの武家屋敷のような門も学校。
10:49
こちらは水戸市立第二中学校。
門は閉じているが登校時は開いているのかな?

この中学は戦後できた水戸市立三の丸中学校と市立五軒中学校が1949年合併し、現在地に作られた。どうせなら二の丸中学校に名付ければよかったのに。

ちなみに、ここは城としては二の丸だが住居表示では本丸も含めて城内はすべて「水戸市三の丸」となる。
そして一丁目、二丁目、三丁目は、逆順の三の丸、二の丸、本丸である。なぜこの順番にしたのか、役所のある三の丸を一丁目にしたかったのだろうか。
10:50
第二中学校の正門わきに「大日本史編纂之地」。
この校地は彰考館があったところ。

碑の書は、徳川圀順(くにゆき、1886- 1969)、水戸徳川家第13代当主。

彰考館は、二代藩主・光圀が世子時代の1657年、江戸駒込別邸(現・東大農学部)内に開設した史局を前身とする(明暦の大火で上屋敷は焼失していた)。光圀は日本史に関心を持ち、数人の局員と文庫を設けて日本史の編集に取り組んだ。
のち彼は1672年、史局を小石川の上屋敷(現・後楽園)に移転し、「彰考館」と命名する。光圀は西山荘(常陸太田)に隠居して1698年、総裁はじめ主な史局員を水戸に移転、二の丸のこの地に水戸彰考館(水館)を発足させた。

光圀死後、1715年に修史事業は本記・列伝の170巻が完成し、書名を「大日本史」とした。
その後も志・表154巻の編集事業は続けられ、全397巻226冊(目録5巻)が完成したのは1906年(明治39年)。徳川慶喜の同母兄・長兄の10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順の時代である。
1645年光圀が学を志してから数えて261年、光圀が史局を開設してから満248年の歳月を要した。南朝を正統とする日本史(つまり後醍醐天皇を王とし、それを追った足利尊氏を賊とする尊王攘夷思想)の編集に携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。
11:01
二の丸の真ん中を東の本丸に向かって真っすぐの道路ができている。
塀の内側の教室には児童生徒がいっぱいいるはずだが、外は観光客どころか誰もいない。
弘道館まではニ、三人観光客がいたが、平日ともなればここまで来る人は少ない。

ひとり何もせずに立っている方がいたので、この塀はいつできたのか聞くと、10年くらい前から何年にもわたり少しずつ整備されたとのこと。歩道に低い街灯が並び、夜はライトアップされるらしい。

その方は道路脇の「大日本史編纂之地」の碑の横、すなわち彰考館の跡地に建つ、二の丸展示館という小じんまりとした施設に入っていかれた。
ここでシルバー人材として働いているそうだ。
11:02
二の丸展示館
表札は「水戸城跡 二の丸展示館 水戸市立第二中学校」とある。
中学がなぜ関係しているのか? 
今は市の職員(嘱託シルバー)が管理されているが、つい最近まで中学校の先生が朝夕鍵の開け閉めをされていたらしい。中学の先生?生徒?が展示を始めた、中学校付属ということか。しかし中学は市立だから結局は市立博物館なのかな?
11:04
展示は水戸城の歴史かと思ったら、「近世日本の教育遺産群と水戸」と題する企画展のような内容だった。
11:05
彼の前職は60で定年退職のとき東日本大地震があり、ドタバタしているうちにそのまま勤務が続いてしまったという。つまり全く同じ勤務内容だったのに4月から給料が半分になったそうで、それに私も応え「うちの会社なんて60過ぎたら時給勤務で年収は3分の1です。私はその前に転職しましたが」などと老後の雑談が始まってしまった。

こちらは時間がないのでうまく切り上げて展示を急いで見た。
11:05
徳川光圀画像と「大日本史」現物
大日本史は名前からもっと大きな本のイメージがあったが、思ったより小さい。しかし250年にわたる大事業、全402巻とは、まさに「大日本史」である。
諸国から学者を集め、史館員を遠方に派遣しての史料収集、調査が行われたから、修史事業は水戸藩の財政をだいぶ圧迫したらしい。趣味というのは金がかかる。

ところで光圀はご存じ、水戸藩第2代藩主である。
家康の孫であるが、初代藩主徳川頼房の三男で、同母兄の頼重がいた。二人とも正式な側室の子ではなかったため、頼重は家臣・三木之次の江戸別邸で生まれ、のち京に送られ、いっぽう光圀は三木之次の水戸屋敷で生まれた。先に光圀が二代藩主に決まったため、頼重は次男扱いとなり、17歳で常陸下館5万石を与えられた。のち讃岐高松12万石に加増転封となったあたりは、ただの次男扱いではなく御三家嫡男を考慮されたか。

光圀は兄・頼重の二男、綱条を養子にとって、後継の第三代水戸藩主とし、自分の長男・頼常は高松の兄の養子とした。兄を差し置いて水戸家の家督を継いだことが負い目になっていたのだろう。

なお光圀・黄門様が天下の副将軍とされるのは諸国を漫遊したからではなく、水戸藩主は参勤交代のない江戸常府で、逆に、ずっと江戸、将軍のそばにいたからである。
11:06
各藩に広まる水戸学。
大日本史の骨格となる各天皇の事績を書いた本紀「百王本紀」・列伝は江戸時代には完成していたから、北海道・松前藩から九州・佐土原藩まで多くの藩校はこれを教科書として採用した。松代・文武学校、福山・誠之館、萩(のち山口)・明倫館、福岡・修猷館など多くの名が連なる。

当時の藩校で教えていたのは(幕末、一部では医学、兵学なども併せて教えたが)、主として国学と漢学である。そもそもそれまで国学の全国的な教科書がなかったわけだから「大日本史」を通じて水戸学が諸国の藩士に与えた影響は大きい。
すなわち尊王攘夷思想(天皇を王、幕府を覇とし、後者を否定する)を刷り込まれた。まさか光圀も自分の研究事業が討幕につながるとは夢にも思わなかったであろう。

11:07
水戸城の模型。
彰考館は確かにこの場所にある。弘道館も大きく、水戸における歴史研究というのは大したものだ。模型をよく見ると、この展示館(彰考館あと)の前、二の丸を東西にまっすぐ伸びる道路がある。いまの二中、付属小の間の道は、いかにも観光用に新しく作ったように見えたが、実は江戸時代からあったものだった。
11:07
「水戸学の道」という散策図
駅前から上がって三の丸小学校前の地図でこのタイトルを見た時は大げさだと思った。しかし明治維新を引き起こす尊王攘夷思想を生んだ地、また幕末に桜田門外の変、天狗党の乱などを起こした熱血の水戸藩士たちが歩き回った地ということを考えると、このタイトルでも良い気がしてきた。
11:08
弘道館を中心とする水戸の文化財は、足利学校、閑谷学校、咸宜園(日田市)とともに「近世日本の教育遺産群」として2015年文化庁の日本遺産第1号に指定された。
(同時に指定された18件は、2号以下が「かかあ天下・群馬の絹物語」、「琵琶湖とその水辺空間」、「四国遍路」などである。)

二の丸展示館を出て東の本丸に急ぐ。
11:12
土塀の切れたところから水戸市立第二中学校の校舎が見えた。
白壁と瓦屋根の城郭建築を(少しだけ)思わせる和風のデザインである。
どうせならもっとテーマパークのようにお城っぽくしちゃえば良かったのに。

水戸三高の前を通って二の丸から本丸にわたり、水戸一高を見た後(別ブログ)、同じ道を戻ってきた。
11:26
左:茨城大学付属小学校 右:大手門

大手門を出ると三の丸の弘道館。
11:28
大手橋から見た弘道館

「水戸学」についての展示を見たあとだから、その中心たるべき弘道館は見学しても良かったが、とにかく時間がない。
中には入らず、北の梅園を通り抜ける。
11:29
弘道館北側の梅園
ふつう、今時こういう公園は桜であるが、さすが水戸である。
なぜ梅か? 
9代、列公・斉昭が好きで種を江戸から送り、偕楽園や城内に植えさせたという。
冬の寒さに耐え、春に先駆けて咲き、詩歌の材料となり、実は戦時の保存食となり、薬効にも優れているという。しかし、梅は好文木とも呼ばれ、菅原道真・天神さまとの関係のように、梅は学問と関係があったからではないか?

このあと旧茨城県庁のほうを周り駅に戻り、12:02発の電車で勝田に向かった。