2022年1月30日日曜日

私と薬学4 天然物の生合成研究(修士論文)

生薬学教室について、第2回、第3回で書いた。
4年生は5人一緒の教育を受けた後、テーマを与えられる。

飯島洋氏は私と同じ部屋で菌が産生する毒素、citrininの生合成酵素をいじり始めた。
渋谷雅明氏はプロスタグランジン生合成酵素のシクロオキシゲナーゼを扱い、「魚の生臭さはこれだ」とアラキドン酸の臭いをかがせてくれた。
平尾哲二、成田有子氏はどんなことをしていたか記憶にない。毎日おしゃべりしていたのに、仕事の話をほとんどしなかったからだ。

さて、私は博士課程3年の嶋田寿男さんにつき、ペニシリンに似た抗生物質セファロスポリンをいじり始めた。
しかし、お恥ずかしいことに、何を目的にしていたのか、どんなテーマだったのか、さっぱり思い出せないのである。いくらぼんくらでも何も考えずに2年も実験していたとは思えないのだが。
手帳もノートもメモも、何も残っていない。頭から出てくるまま書いていく。

当時の実験室で覚えているのは、一日中イオン交換樹脂を大きなビーカーで、酸、水、アルカリ、水で何回も洗い、飽きてしまったこと。その臭い。
そして、どこから来たのか使用済みサントリーレッドの空瓶を大量に洗ったこと。中には枝豆の莢やたばこの吸い殻が入っているのもあった。それを容器にして褐色のキクラゲのようなカビを静置培養した。(あれ?セファロスポリンのカビは三角フラスコの振とう培養だったかな?)

セファロスポリンの定量を阻止円測定で行うため、枯草菌Bacillus subtilisを、当時目黒の国立予防衛生研究所のどなたかにもらいに行った。今は移転し跡地に高級マンションが建ったが、当時は戦前の海軍大学校の建物をそのまま使っていた。

培地上清からのセファロスポリンCの精製は難航した。活性炭カラムで精製していたが、収量は低かった。あるとき「まさか?」と思い、ごみ箱に捨てた使用済み活性炭の塊を拾い、アセトンで溶出させたら、大量のセファロスポリンが吸着していた。

セファロスポリンの定量は結局、液クロで行った。のちの卓上小型液クロ装置と比べると当時最先端、バリアン社の液クロの図体はとてつもなく大きかった。
オフコースの「愛の唄」(1975)を聴くとこの液クロ装置の置かれていた第4研究室(測定室)を思い出す。この年1978年、共立薬科大学から横山千鶴さんと若松美栄子さんが来ていて、私の鼻歌を聴いていた横山さん?も偶然オフコースが好きでLP「ワインの匂い」をカセットテープにダビングしてくれた。

当時薬学は7割ほどが大学院を受験した。実際進学するのは5割だったが、受かったのでそのまま修士課程に進んだ。就職活動が面倒だったのか、とくになんの目的もなかった。
入試の面接のとき、確か田村善蔵先生だったか、「修士では何をやりたいですか?」と聞かれた。「今やっていることとは違うんですが・・」というと、隣で三川先生が苦笑いするのを横目に、彼はにこにこしながら「いいよ、いいよ、言いなさい、言いなさい」と言われる。
まだ実家の家業が頭にあったのか、「野菜など、農産物の微量成分を研究したいと思います」と答えた。

私の進学と同時に嶋田さんが転出され、山本芳邦さんに指導を受けるようになってからもセファロスポリンをいじっていた。
M1の1979年夏、ラジオイムノアッセイでセファロスポリンを定量しようと、BSAにセファロスポリンを結合させ、ウサギの背中や首に注射して抗体を作らせようとした。血清を取り、穴あき寒天で沈降線をみるオクタロニー法でチェックした。確かに投与タンパクに対する抗体はできたが、何回やってもセファロスポリンの目的部位を認識する抗体はできなかった。韓国からの留学生、成忠基さんは、「抗体作成は科学技術ではありません、アート(芸術)です」と慰めてくれた。

それにしても何の目的で毎日実験していたのか、情けないことに全く思い出せない。
菌類によって合成されるセファロスポリンCはペニシリンNと同じように、α‐アミノアジピン酸‐システイン‐バリンのトリペプチドが閉環し、そのあと水酸化、アセチル化される。
教授の考えを今になって推定するに、その生合成経路を研究するため、その中間体、最終産物を培地中で(精製せずに直接、一斉に)検出、定量する方法論を確立しようとしていたのではあるまいか?

さらに1年たちM1も終わろうとする冬、カナダに留学していた飯島とハガキをやりとりした。2年たっても全く修士論文のめどが立たず、薬学史上初めてのM3(修士3年目)になるかもしれないと書いた。彼もM3になるかもしれないと言ってきたが、1年留学してレイク・ルイーズでかわいい日本人留学生の女の子と並んで写真に納まっている彼の場合はM3になっても不思議なく(しかしちゃんと我々と同時に修了した)、毎日苦闘している私とはわけが違う。

さて、2年ほどやって全く進展が見られないため、三川先生もさすがに心配になったか、M2になってテーマを変えた。
そのあとは修士論文が残っているので何をやったか分かっている。

当時実験室にエアコンはない。
冬はガスストーブ、夏はパンツ一つの上に白衣を着ていた。
山本さんは酵素精製のため温度差30度近い低温室と行き来した。

新しいテーマは、三川教授が誰かの博士論文のために温めていた文字通り「とっておきの」テーマだったが、残り1年を切ってしまった修士課程の私に「背に腹は代えられず」やらせたのである。

そのテーマはC-13NMRを生合成研究に応用すること。
炭素C-12は、陽子・中性子とも6つずつで核にスピンがなく、NMRで検出されない。しかしC-13は検出され、しかもその環境によって共鳴周波数がずれる。だから有機化合物の骨格をなす炭素がすべて観測できれば大きな情報となる。しかし、化合物中にC-13はC-12の1%程度しか存在しないため、シグナルが弱い。

ちょうど私がM1になるころ、薬学にC-13対応のFT-NMRが入った。さまざまな周波数を含む矩形パルスを何回も繰り返し与え、得られる自由誘導減衰波形をコンピューターで積算、S/N比を向上させてフーリエ変換する。
生合成研究に応用する場合は、C-13の低い天然存在比を逆手に取り、C-13で標識した、例えば酢酸を培地に投与する。得られた天然物のC-13NMRにおいて、ある炭素のシグナルが増大していれば、その部分は酢酸由来とわかる。

さらに、C-13のシグナルは隣もC-13(核スピンI=1/2)、あるいは重水素(核スピンI=1)であれば、カップリングを起こしピークが2本、3本に割れる。多くの天然物は酢酸(グルコース由来のアセチルCoA)が重合したポリケタイドから生合成されるが、二重標識の酢酸を投与し、得られた天然物にこれらのカップリングが検出できれば、化学構造において酢酸のC-C単位がどのようにつながったか、あるいはC-H結合が保持されているかどうか分かる。
ここまでは先輩の嶋田さんたちの研究で行われていた。

私のテーマは、これをさらに発展させ、天然物に存在する酸素原子Oすなわちカルボニルや水酸基、エーテル酸素の由来をC-13NMRで調べられないか検討することだった。
つまり、ポリケタイド系天然物を産する培地にカルボニルC-13とO-18の二重標識酢酸を投与し、得られた化合物のC-13NMRを測る。
ここでC-13のシグナルは隣の元素が重い同位体に置換されると高磁場側にシフトすることが分かっている。これを利用して、目的の炭素のシグナルが高磁場側にシフトしていれば、そのO原子が酢酸由来とわかる。つまり化合物中の酸素が酢酸由来なのか、空気あるいは水の酸素由来なのか明らかにできる。

具体的には、シトリニン、ペニシリン酸、アベルフィン(アフラトキシン前駆体)などの生合成でこの方法を試し、C-O結合がどこから来たか示すことができた。とくにアベルフィン、ストリグマシスチンなどのビスフラン環におけるエーテル部分の酸素原子が酢酸由来であったとき、両側のどちらのC-13 とつながっていたか分かり、生合成経路がどのようなものであったか、大きな情報が得られた。

M2の冬はデータ取得のピークで、わずかなケミカルシフトのずれを検出するに薬学の100MHz装置が不十分な場合は、板橋の老人研の松尾先生(220MHz)、そして導入されたばかりの応用微生物研の瀬戸先生(400MHz)のところへサンプルを持って行った。

C-13,O-18のデータが貯まる中、もう一つおまけで、C-13とN-15の二重標識化合物の生合成研究への応用についても検討した。
天然窒素N-14は核スピンI=1であるが、核の電荷分布が均一でなく4極子モーメントを持つ。そのため電場勾配によって核スピンは非常に早くエネルギー交換し、めまぐるしくその向きを変える。その結果、スピン結合しているC-13は短時間にすべてのスピン状態と相互作用するためシグナルは1重線となる。(重水素も同じI=1であるが、4極子モーメントが小さいため、C-13シグナルは3本に分裂)
一方、窒素の安定同位体N-15はI=1/2であり、C-13シグナルはきれいにカップリングして2本に分裂する。これを利用した。

ペニシリンは先に述べたように、α-アミノアジピン酸-Lシステイン-Lバリンのトリペプチドから生合成されるが、ペニシリンのバリン部分はL体でなくD体である。このL-D変換はそれまで、α位の水素が脱離して起こると考えられていた。そこで、C-13、N-15の二重標識バリン(カップリングあり)を投与し、得られたペニシリンのNMRをとると、バリン由来C-13にカップリングが観測されなかった。このことから、変換には水素脱離の定説とは異なり脱アミノが起きていると結論した。
修論要旨

修論発表会が終わると一気に春が来たようで、昼にみんなで湯島天神に行った。
梅は終わっていただろう。

しかし修士論文をすべて書き終わった3月の、しかも下旬になってもバタバタと仕事していた。
C-13,O-17二重標識化合物(O-18と違いカップリングする)の投与実験やそれまでの各種使用菌株の保存など。こちらは就職を控え、大阪に行く前に先立ち、アパートを引き払い長野に行きたかったのだが、三川先生は何も気を使われない人で、平気で用事を言いつけられた。合田幸広氏は「この忙しさはきっと将来のための財産になりますよ」と言って慰めてくれた。

C-13NMRはシグナルが小さいため積算が必要なことは書いた。とくにわずかなケミカルシフトのずれ、カップリングを見ようと思うと、数千回の積算で6時間とか10時間とか、長時間、装置を占有する。だから私が使うのは深夜に限られた。
昼は野球と実験、夜はNMR。 
寝るところ、地下の休養室は生化学系の人が使っていて、我々は南側の屋上の休養室を使った。プレハブのような小屋で冷房もなく、昼の間に熱せられ夜でも蒸し風呂のようだった。
たまに着替えと風呂に谷中のアパートへ帰ったが、深夜は弥生門が閉まっていて柵を乗り越えた。
パジャマ・運動着・実験着

M2の中盤からは本当によく仕事した。その集中力を誰かに褒められたことを覚えている。
野球をしたジャージとTシャツのまま実験して、そのままの服で眠り、翌日も起きたらそのままの格好で生協で食事、再び実験、野球、食事、測定、睡眠のサイクルを回していた。服を替えなかったのは、忙しかったからというより面倒くさかったからにすぎない。
(続く)

次回は、その5 田辺製薬に就職

別ブログ

2022年1月28日金曜日

私と薬学3 生薬学教室の人々と助手のポスト

このシリーズ、第1回は薬学に進学した3年生での学生実習をかき、第2回は4年生で教室配属されたときの同級生と山本芳邦さんのことを述べた。

さて、生薬学教室では野球が盛んだったことを前回書いた。
毎日、バットを担いで御殿下に皆を引き連れていったのはD2の高木重和さんだった。生薬はもともと入ってくる人が多くなく、大学院に進学する人も少なかったから、彼の下にはM1の藤井さん木内さんしかいなかった。それが1978年4月、一挙に4年生5人と山本さんが来たものだから毎日嬉しそうだった。
彼は、キャッチャーで4番、どっしりと太っ腹で、飲みに行くといつもおごってくれた。高木さんの1年上のD3の嶋田寿男さんとは仲が良くて、嶋田さんはいつも「おい、高木、払っておけ」と言っていた。

本郷三丁目の駅近くにラ・メールというスナックがあり、高木さんと二人で行き「長崎は今日も雨だった」を歌ったりした。カウンターの中に可愛らしい女性がいた。東郷さんと言って東大看護学校の学生でアルバイトだという。上野公園に行く約束をして後日、3人で不忍池のボートに乗った。さらに後日、私単独で彼女を呼び出し、図書館前噴水広場の東、今は文3号館ができてつぶされてしまった藤棚の下でおしゃべりした。しかし今一つ盛り上がらず、その後、会うことはなかった。
1979年3月

いつも明るく過ごされていた高木さんもD3になられた。ある夏の日、教授室から浮かぬ顔をして戻ってきて「おい小林、公務員試験について教えてくれ」という。聞けば、博士課程を終えたら厚生省管轄の国立衛生試験所に行くよう言われたらしい。
みな博士課程を終えたら研究室に助手として残り、助教授、教授を目指したい。ところが助手のポストは2つしかない。助手の在任期間が8年とすれば、4年間でたった一人しか残れないことになる。

海老塚豊助手の2学年下は、人材豊富で大塚英昭、木下武司、佐藤俊次、古川淳(以下、敬称略)の4人が博士課程に進み、大塚さんが医学部生化学教室、古川さんが応用微生物研究所8研に助手のポストを得て、木下さん、佐藤さんが残って助手となった。ゆえに我々が入室したときは、海老塚さんが留学から帰られたので助手は3人。まもなく木下さんがニューヨークに留学されたが、まだ二人。この年博士課程を終えた嶋田さんは、入る余地がなく帝京大助手に赴任された。

その年の忘年会だったか送別会だったか、湯島で飲んだあと、歩道に「秋山歯科」「野口眼科」という看板が並んで立っていて、酔った嶋田さんが蹴った。野口博司さんと嶋田さんは同じ年で、大学受験の時に東大紛争で入試がなくなった。嶋田さんは1浪、野口さんは2浪して東大に入られている。近いうちに佐藤さんが留学すれば野口さんが助手として残れるから、悔しかったのだろう。それにしても「秋山歯科」から連想される助教授の秋山敏行先生は嶋田さんとは全く関係ないはずで、看板とはいえ蹴られたのはとばっちりである。

嶋田さんは博士課程の最終年度、4年生の私の面倒を見てくださった。
最後の3月ごろだろうか、赤門前のすし屋に誘われごちそうになったとき、私に修士を終えたら帝京に来ないかと誘ってくださった。「博士号は取らせてやる」「女子学生はみんないい子でかわいい」という。
そして「小林と俺は6歳違う。教授の斎藤(保)さん、高井さん、みんな年回りがちょうどいいんだ」と言われた。ご自身の年回りで運命が決まったのがよほど悔しかったのだろう。

さて、高木さんの場合は、同級生の野口さんが残され、自分は出されるわけだから、前年の嶋田さんとは少し違う。年齢が野口さんより2年下ということよりも、助教授の秋山敏行さんについていて三川教授のテーマでなかったことも大きい。半ば予測されていたことだが、当日になって慌てるところが楽天家の高木さんらしかった。

その助教授の秋山さんは、三川潮教授と8年しか違わず、先代・柴田承二先生のきょうだい弟子であり、三川先生の部下ではなかった。だから独立しており、自然秋山さんの部下を三川さんが採用するわけがない。
秋山さんはニンジンサポニンやステロイドの研究をされており、そのグループは博士課程1人、4年生1人、留学生1人を従えた4人構成だった。
このころ、東大薬学は100MHzのNMRを導入した。それまでのNMR(60MHz)の周波数スキャン方式(実際は磁場をスキャン)と違い、さまざまな範囲の周波数を含む矩形パルスをあたえ、得られる自由誘導減衰をコンピューターに取り込み、フーリエ変換して周波数スキャンと同じ波形を得る。すなわちFT-NMRであった。その原理がよくわからず、たまたま口にしたら、秋山さんはさっとその場で図を書いて説明してくださり、その頭脳明晰さに(失礼ながら初めて)驚いた。
私がM2のとき、他大学から卒業研究で池田さんが来て秋山先生のテーマを手伝った。その後、彼女は私と結婚したこともあり、秋山先生は西武新宿線鷺宮のご自宅に二度ほど呼んでくださった。一度は長女が妻のおなかにいた時、二度目は1才の時だった。
彼は東大教授になれないことが分かっていたから、製薬企業に転出された。そこではアマゾンや東南アジアに植物採集に出かける仕事も任され(許され?)、楽しまれていた。植物がお好きだったのか、その後高知の牧野富太郎植物園に転職された。

さて、嶋田さん、高木さん、佐藤さんが出られたあと、助手は海老塚さんと野口さんになり、人事の悩みはしばらく去った。

海老塚さんは我々が入室する前に留学から戻られ、教室全体を整備している最中だった。開かずのロッカー、戸棚などをあけ、代々たまった書類、ガラクタの処分。戦前の先生らが留学先から持ち帰った試薬とか、ガラス器具とか、使えない、使わないものを捨てた。私はガラス器具を五月祭で一つ10円で売ったが、他大学からたまたま来た先生は、これはお宝だ、といくつか持ち帰られていた。海老塚さんは教授に代わり、教室運営全体に目を配る立場であった。
一方で野球はファーストを守り、「グラブが少しでも触れたのなら、取れるはずだ」という名言を残された。また、ちょうど猛暑で水不足が話題になったとき、我々が器具を洗う姿を見て苦言を呈した。「ブラシやスポンジを動かしているときは蛇口をしめろ」。この名言は、その後45年間、私もその通りだと思い、企業に入っても実行したし、今も台所の妻を見て思い出す。しかし彼女にそうは言えない。
エーテル缶は100円

野口さんは父上が東大農学部の教授で、阿佐ヶ谷に住まわれていた。典型的な戦前からの山の手育ちではなかろうか、クラシック音楽や絵画、ワインに造詣が深く、貴族趣味であったが、外見は汚い白衣に頭は手ぬぐいを巻き、山田ルイ53世を思わせるように太っていらした。だから昼はよく砂糖のないヨーグルトでダイエットされていた。
しかし三川研の二本柱の1本として、ラボを支えた。和洋、甘いものに目がなく、後年、静岡県立大を突然アポなしで訪ねた時、冷蔵庫から美味しそうなスイーツがさっと出てきたのはさすがである。
私の修士論文では内容ではなく、図における構造式の配置具合、白黒のバランスが絶妙だと(芸術的見地から)ほめてくださった。また、後年博士論文を出し口頭発表したとき、質問された先生と言い合いになった。それを聞いていた野口さんに後で「審査する人に逆らう人は珍しい」と、これまた内容でない点で面白がられた。

野口さんの下は山本さん、そして1学年あいて我々の1年上の藤井勲さんと木内文之さんだった。お二人はたぶん学年全体的に見ても多分かなり優秀な方々である。しかし魚津高校、野沢北高という田舎出身のせいか、万事控えめであられた。

藤井さんはスキー、テニス、野球、すべてスポーツ万能、実験もよくされていた。培養実験などで、私などは、失敗したらやり直せばいいと思うのだが、彼は失敗をある程度想定してバックアップも走らせ、それが無駄になったとしても、失敗が分かってからやり直すことの時間の遅れを戒めた。費用が掛からないなら手間を惜しむな、時を惜しめと。
野球で肩を痛めたとき、まじめに左投げの練習を始めたあたり、普通の秀才の発想ではない。
西武線の沿線に住んでいらした。一見クールなのだが、毎週、電車の網棚から漫画雑誌を拾ってこられ、我々も恩恵にあずかった。引っ越しを手伝いに行ったとき、弦のない壊れたギターが転がっていて、ごみ置き場で拾ったと言われる。ボディにサインがしてあったが、誰のサインか藤井さん含め全員わからなかった。

木内さんはコーラスでもやっていらしたのか、歌をハモるのがうまかった。ご自身の結婚式で親戚の方と歌われた「朧月夜」が記憶に残る。カメラが趣味で、我々みな生薬時代の写真が多いのは彼のおかげである。きちんとした事務処理で信頼されていたため、教室行事の会計とか実務を任されていた。
彼の研究テーマで、キャンパスの北の端、応用微生物研から20リットルの培養上清をいくつか南端の薬学まで運ぶのをお手伝いしたときは疲れた。その功績か、M2を終えて教室を出るとき、記念品としてバドミントンラケットをもらった。記念品価格の上限を超えていたが、木内さんの一存で買っていただいた。

その下の我々の学年5人については前回書いた。

我々の下の学年は1979年4月入室の4人。
まず、広島出身の合田幸広。彼は中学のとき広島市民球場でライトを守ったという。長身を生かし、腰痛で野球をやらなくなられた海老塚さんのあとのファーストを守った。彼の美人の奥さんは確か私と一緒に行った合コンで知り合ったのではなかったか?(記憶あいまい)。インベーダー、パックマンなど当時はやったテレビゲームがうまかった。彼は背も高いが声もでかく、私の結婚式ではエールの音頭を取ってくれた。

石川芳明は桐朋出身。合田と違って静かな男。教室でスキーに行くとき、ビクトリアとかではなく、一式をデパートでそろえた。30年ほど前、東大医学部薬理の同窓会でばったり会って懐かしかった。数年前、地域雑誌「谷根千」の大昔のバックナンバーを読んでいたとき、読者投稿欄に彼の名を見つけた。本人かどうか、どちらか死ぬまでに確認できるだろうか。

根上慶子さんは偶然にも私の高校の同級生と付き合っていた。話し方に横浜育ちのせいなのか、何とも言えない品の良さ、可愛らしさがあった。

フジキヨ(藤井清孝)は福井出身、生薬で唯一、恋人がいる学生だった。気が合って、昼は二人でメトロ(学内の喫茶店)で毎日カレーとソフトクリームを食べていた。
1980年3月
やはり野口さんはカメラでなくケーキを見ている。

1980年3月、彼は卒業を前に千葉大医学部を受験、合格した。
みんなでケーキを買ってきてお祝いした。写真の女性は翌月からフジキヨと入れ替えで秋山さんのところに卒業研究で他大学から来ることになっていた池田さん。なぜかこの日、写っている。このあと彼女は包丁だかケーキのお皿だかをひとり教授室手前の流しで洗っていた。フジキヨはその後ろ姿を見て、盛んにアタックするようすすめたが(私への最後の遺言?)、おとなしい子で接点もなく、私はその後数か月、親しく話をすることもなかった。

次の学年、1980年4月入室したのは以下の3人。
北川祥賢。金沢大付属、私と同じ昭和31年生まれ、実験台も向かいで気が合った。サザンオールスターズとビートルズが好きで、12月、ジョンレノンが殺されたときはひどくショックを受けていた。文字がきれいで文章が抜群にうまかった。彼はのちに「いとしの乗り入れ列車」を出版している。休日に二人きりで実験室にいることがあった。彼が石川県松任から送ってもらったというインスタントラーメンをビーカーで作って食べた。エビの味がして、65年の間、これほどうまいインスタントラーメンを他に食べたことがない。

小林貢。かの教駒出身だが、とても優しくて表情も穏やか、そして控えめだった。研究室が別だったから話すことは少なかったが、クラシック音楽に詳しい野口さんをして、「あいつのクラッシクの知識はすごい」と言わしめた男である。しかし全く自分からはそういう話をしなかった。

佐々木千草。福島女子高。とても可愛らしい女性だが頭が良すぎるのか何を考えているのか、本心なのか冗談なのかよく分からなかった。1991年、福島市で学会があったとき、思い切って電話して呼び出し、古関裕而記念館で会った。(だから私はNHK朝ドラ「エール」よりずっと前から小関には詳しい)。京都で祥賢と3人で会って以来10年ぶりだったが、やはり不思議な女性だった。
1980夏、式根島
この学年で特記すべきは、他大学から女子が3人も卒研でいらしたことである。東京薬科大から田村有子さん、黒岩敏美さん、東邦大から池田万里子さん。それまで女子が来ても男の中で独りぼっち、借りてきた猫のようだったのが、一挙に3人来たことで雰囲気がガラッと変わった。そこに佐々木さんと秘書の山崎麻美さんが加わり、スポーツ大会や教室旅行だけでなく、昼食や実験など毎日の空気まですっかり明るくなった。

他大学からの卒研生受け入れは、テーマとスペースはあっても人手がない東大と、リソースが少なく全員にきめ細かく指導することが難しい私大のニーズがマッチしたシステムだが、ほかのメリットもあったのではないか?
毎年、女子学生の多くは野口助手につけられた。三川教授の親心だったかもしれないが、恩恵を受けたのは彼でなく、藤井さん、祥賢、そして私だった。
(続く)

次回はようやくアカデミックな話
(予定)第4回 天然物の生合成に関する研究

別ブログ

2022年1月26日水曜日

私と薬学2 生薬学教室、同級生と山本芳邦氏

学部全体70人一緒の1年間を過ごし、4年生に進級した1978年4月、我々は各教室に配属された。

毎日徹夜が続くと噂された生化学系、全員同じようにいくつものフラスコで反応を仕掛けている殺風景な有機合成系、それほど好きでない動物実験をやる薬理系、今一つテーマにぴんと来ない物理化学系、どれも是非やりたいというものがなかった。
結局、私はあまり特徴のない(バリバリ研究しているイメージのない)生薬・植物化学教室を選んだ。植物という文字が入っていたからかもしれない。

この教室は、東大薬学の前身、医学部製薬学科が明治10年(1877)の東京大学設立と同時にできたときの3講座すなわち、衛生裁判化学(丹波)、生薬学(下山)、薬化学(長井)のひとつである。
創立100年後に我々が進学したときの各教室の序列(たとえば紹介順)もこの3つが先に立っていたが、145年後の今、東大薬学の公式サイトでは各教室の名前も変わり(生薬は天然物化学に)、研究室紹介も分野別に並べられ、明治からの序列は消えた。

1978年4月
教室配属されたばかりの4年生5人
飯島洋、渋谷雅明、平尾哲二、一人おいて成田有子氏

さて、配属された4年生5人はテーマを与えられる前に、基礎教育のプログラムを受けた。
1年前の学生実習の分析と同じように、混合物を各自渡され同定しろ、というのである。1年前は未知混合物をTLCで分け、Rfと染色状況で推定しただけだったが、今度は混合物をカラムで分離して結晶単離し、融点、MS、IR、NMRなどのデータを取って構造式に到達せよというのだ。

この部屋は明治以来、生薬などの成分すなわち天然物の構造決定をしてきた研究室だから(下山を継いだ第2代の朝比奈泰彦は、クロロフィルの構造決定でノーベル賞を取ったヴィルシュテッターのところに留学し、帰国後生薬中のフラバノン類の構造研究などで1943年文化勲章を受章、1951年、52年の2回ノーベル賞候補にもなった)、そういった天然物化学の研究で必要な精製単離と機器分析の知識、技術を最初に習えということだ。

一人一人違う未知物質の同定はミステリーを解くようで、学生がやる気を出し、競争心も煽る。かつ実用的な知識、技術の習得において教育的効果も高いということで、他の研究室でも行われていた。たとえば毒性薬理学教室では、我々のように精製分離して機器分析、構造決定するのではなく、決められた候補物質の中から5つの試料を渡され、それらの腸管収縮や、ラットの血圧、心拍数への作用を見る。どのくらいの濃度で、どのような作用をみせたか観察し、教科書の記述と比較しながら、どれがどの候補物質か決める。もちろんこの過程で、標本作成や動物実験の基本を学べるようになっている。

4年生の教育では当然、座学もあった。
「Biosynthesis」(著者忘れた)という天然物の生合成に関する本を5人で輪読した。外国人かと思うほどきれいな英語を話される三川潮教授と、ブリティッシュコロンビア大から帰国された筆頭助手の海老塚豊先生が指導してくださった。

ところで各自購入したBiosynthesisは海賊版だった。今でこそ洋書は丸善、紀伊国屋などのネットでほとんどのタイトルが安く手に入るが、当時は高価でしかも注文してもなかなか届かなかった(注文したことはないけど)。
もちろん海賊版は違法であるから、きれいなオリジナルカバーはついておらず、真っ黒な表紙で製本され、無地の紙カバーで背のタイトルは隠されていた。私はBiosynthesis全4巻の他にもMerck IndexやC13-NMRの本などを買った。メルクインデックスなどはオリジナルより製本がしっかりしていた。
しかしBiosynthesisなど日本で何冊売れただろう? 危ない仕事の割にはほとんど儲からなかったのではないか? 海賊版出版も大学の先生に懇願されて続けていらしたのではなかろうか? 我々に本を持ってきてくださった彼が帰った後、博士課程D2の野口博司さんから、「ばれると彼の手に縄がかかるから絶対に外に知られないように」と言い含められたが、むしろ悪いのはこちらだろう。

さて、我々4年生5人は基礎教育が終わると助手あるいは博士課程の先輩のもと、各テーマに分かれた。

5人のうち、飯島は船橋高校出身、松戸から通っていた。成績もよく、三川ー海老塚ー藤井、とつながる、主流の生合成酵素の精製をテーマに与えられた。M1のとき、教授の勧めで1年カナダに留学したが、ちゃんと修士課程を2年で終えた。彼は私の文字(丁寧に書いたとき)をかわいらしい、といつもほめてくれた。

渋谷は駒場のころから渋谷区富ヶ谷に住み、千代田線で通ってきていた。福島高校では水泳で県の代表になるような選手で、研究室でもブルワーカーで鍛えていた。1977年9月二食の地下で学内水泳大会があり、3年生だった私と渋谷が面白そうだと出た。私はしょっぱなの50メートルバタフライで力尽き(4人中4位)、残りの平泳ぎ、自由形などもさえず。一方渋谷は出たすべての種目で優勝、入賞した。彼のとった大量の賞品は同じものが多数あったため、ナップザック、髭剃り、折りたたみ椅子などをおすそ分けしてもらった。

平尾は静岡学園出身、平尾昌晃の甥?にあたり、ギターがうまく、絶対音感があってどんなの歌でも伴奏できた。当時は数少ない車もちで、本田シビックにみんなで乗せてもらい野球やテニスに出かけたものだった。五月祭のとき二人で声をかけた東京音大の二人のうち、かわいいほうと付き合うことになったとき、私にすまなそうにした。しかしそれは彼女が平尾のほうを気に入ったからで、仕方がない。その後、彼は教室旅行などでも私に相手が見つかるよう気を使ってくれた。もてる男は、成田恵一(留学)、福田祐士(伊藤忠)、中垣俊郎(厚生省)など大学院に行かず外へ出る傾向があり、彼も修士に行かず就職した。

唯一の女性、成田さんは千葉高出身。天然ボケというか、常にどこか抜けたところがあり、樹脂を洗っている大型ビーカーの中に腕時計を落としたりしていた。食堂で昼食の後、生協でアイスクリームを買おうと、二人で冷蔵庫を覗き込んだことがある。彼女の胸が私の腕に当たっていたので、ぐにゅっとひじを動かしたらひっぱたかれた。

・・・・
生薬はスポーツが盛んだった。
テニスは先代教授の名を冠した柴田杯が毎年行われ、真っ白な装束で固められた柴田承二先生はじめ、斎藤洋先生、山崎幹夫先生らも参加された。我々は準備と称して前の日から検見川に入り合宿所で模造紙にトーナメント表を書いたり、宴会するのがテニス以上に楽しみだった。

そして一番は野球。
薬学部内のトーナメント戦のほか、東京薬科大糸川研、昭和大庄司研、千葉大との定期戦、さらには理学部高橋研や、薬学内の他の部屋との臨時の親睦試合もあった。

生薬では、暗くなったらできない、という理由で午後の一番いい時間に御殿下グラウンドに出かけ、ノックを受けた。ほかの部屋が春、秋の研究室対抗トーナメントの前日にキャッチボールするだけなのに対し、生薬はシーズン中ほぼ毎日4,5人はグラウンドに出た。

我々5人が4年生で教室配属になったのと同時に、千葉大から山本芳邦さんが博士課程に入学された。彼はルックスが良いだけでなくスポーツ万能で、すぐにエースとなり教室野球チーム「生薬OL学園」の黄金時代を築いた。(OLはPLをもじったつもりが女性すなわち永井豪のハレンチ学園を連想させてしまう)

教室に入ったばかりの1978年5月
千葉大薬学、坂井・相見研究室との対抗戦(検見川グラウンド)。
2イニングだけピッチャーをやらせてもらい、三振も取った。
おや、敵のセカンドランナーは昨年明治薬科大学を退職された齋藤直樹氏(当時M2)ではないか。
前年まで千葉大を引っ張っていた山本さんがこちらに移ってしまったため、この年は圧勝だった。
山本さんは、このブログの「忘れられない人」シリーズで独立させてもいいくらい話があるのだが、ここで書いてしまおう。

彼はハンサム、スポーツ万能だけでなく関西にある香料会社の御曹司だった。教授の客が外国から来るときは成田まで車で迎えに行くよう頼まれたし、話もうまくて大きな宴会の司会は彼に任せれば万全だった。
こう書くと非の打ちどころのないような人だが、けっこう間抜けな失敗もされる人間的な人で、みなに愛された。バレーボールでスパイクした後、相手のコートに転がり込んでしまい、オーバーネットどころかコート侵入、審判に反則を取られないよう慌てて四つん這いで戻ってきた姿は他の研究室の人々も大笑いした。

私は修士課程の2年間、彼の隣の実験台で公私ともに指導を受けることになる。
バレンタインになると千葉大の下級生から郵便で送られてきたチョコレートを私に自慢した。スチュワーデス相手の合コン(彼が企画した)では、我々が全く彼女らを満足させる話ができず手出しできなかったのに、彼は彼女らの一人を送っていき、電車の中でそっとキスしたと嬉しそうに話された。
すでに結婚されていて、奥さんのご実家が持っていた目白の一軒家に住んでいらした。
同じ目白の学習院を出られた奥さんは、このころ、ご自宅をケーキとお茶を出す店にされた。Mari’s Dessert Houseといい、当時は閑静住宅街にある隠れ家的な店は珍しく、雑誌でも紹介された。優雅にケーキとお茶で当時破格の1000円もしたから、普通の喫茶店のような忙しさ、暗さはなかった。客としては一度もいかなかったが、クリスマスパーティなどには呼んでもらった。

検見川で奥さんもご一緒にテニスでもやった帰りだったか、車2台で奥様のご実家に寄ったことがある。みんなでお茶だったか、夕飯(チャーハン?)だったかごちそうになったが、駒込駅のそば、大きな家が並ぶ一角で、今思えば本駒込の大和郷だった気がする。奥様のご実家は何をされていたか知らないが、軽井沢と伊豆に別荘があり、伊豆にお呼ばれした。ホテル川奈でお茶を飲むなどは彼女がいなければ経験できなかった。麻雀旅行だったのだが、奥様は途中で買われたアジでたたきを作ってくださった。山本さんがみそ汁を飲んで「あ、インスタンドだな」と指摘したが、我々はインスタント味噌汁なんてハイカラなものは飲んだことがなかった。彼女は今も目白のあの場所でスペイン料理文化アカデミーを主宰されている。
ピッチャー山本、ショート小林
背景は七徳堂(東京都選定歴史的建造物)

私が人集めした合コンを、山本さんの知る銀座の店ですることになった。なんでも支配人が彼の父親と海軍で一緒だったという人で、途中あいさつに来られた。相当高かったと思うが「山本香料のおごりだ」といって全部払ってくださった。

話はいくらでもあるのだが、仕事の話をすると、M2の終わりごろ、ペニシリンを上手に分解してNMRを取る必要ができた時、彼が鮮やかに予備検討をして助けてくださった。遊びだけでなくj研究、実験の達人でもあることが最後で分かった(最後というのは冗談)。

(続く)
次回は
私と薬学3  生薬学教室と助手のポスト

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2022年1月25日火曜日

日本医大病院の改築と薮下通り(その2

湯島のキャンパスで入試業務があり、終わってから歩いて帰宅した。

東大構内を突っ切り、根津神社裏門坂上の日本医大の角に来た。いつもはまっすぐ漱石旧居跡の前を通って、大観音の横を北上、養源寺の前に出るのだが、久しぶりに坂を下りてみた。

長く工事中だった日本医大病院の薮下通り側がすっかりきれいになっていた。

2022‐01‐25 13:51
広々としたタクシープールができていた。
以前は道路に止まっていたのではなかったか?

薮下通を渡る陸橋も撤去され、長いものが新設されていた。

これだけ新しいと中も入ってみたくなる。

13:53

薮下通の上の陸橋

坂の上からは地下1階に見えるが、薮下通と同じ地面

13:57
2年ほど前、ここの院内薬局に来た。
セミナーに使える会議室もあって、広い面積を占めていたが、この案内板は外来患者用だから窓口の「お薬渡し口」としか書いてない。

13:59
薮下通に出た。古い建物が道路まで迫り、病院で出たごみが通りから見えたものだったが、すっかりきれいな斜面になった。
植込みの間を歩けるようになっている。

14:00
解剖坂もすっかりきれいになった。
工事のフェンスに覆われていた時は、ぎりぎりまでビルができるかと思ったが、いい感じになった。利益を上げようとベッド数を増やすため床面積を広げたら、つまらない景色になるところだった。日本医大はこの空きスペースを作ることで、大学病院としての品格を保った。45年前から薮下通を愛してきた私は、変化を残念に思っていたが、この景色はうれしい。

日本医大千駄木2号館
解剖坂下から薮下通をすすむとすぐ。
以前ここの土地が売りに出されたことを記憶している。
日本医大は近隣で広めの敷地が空けばたいてい買っている。

14:02 汐見坂下

朝倉響子邸はマンションとなり、その石垣はほんの一部を残して消滅した。
右側にあったレンガの塀はもっと前に消滅している。

ほんのわずかになった石垣をしみじみ見たことで、「汐見坂」という標石を初めて見た。

朝倉邸跡にできたマンションは落ち着いた雰囲気だった。
14:04
かつて朝倉段々と名付けた石段は、セットバックが必要だったのか広くなっていた。
右側の石垣はかろうじて残っている。

しかしここも空き地だから、石垣もいつまであるかわからない。

14:07
坂を上がり、汐見小学校の上まで来ると、旧早川邸あとのマンションも洗濯物を干している部屋があり、生活感が出て、景色になじんできていた。

見れば、ベランダを部屋のように奥まで引き込ませている。これなら洗濯物が外に出ず、雨にも当たらない。いすを置けば外の空気を楽しめる。

かつての薮下通の写真を載せておく。

根津裏門坂と日本医大 2018
右側手前の建物が撤去された。
解剖坂 2018
左側が日本医大解剖室のあったところ
汐見坂下(2001)
かつての朝倉石段 2017
20181015 拡大する日本医大、解剖坂、猫の家
20181014 ふれあいの杜とお化けだんだん

2022年1月23日日曜日

私と薬学1 東大薬学部と学生実習


薬科大を定年退職するにあたり、日本薬学会のYAKUGAKU ZASSHI(薬学雑誌)から研究内容を総説として書いてくれと言われた。
おそらく毎年何人か書いているのだろう。回想も交えて研究哲学がつづられていることもあるかもしれないが、たいてい真面目に専門分野のことを詳しく書いてあって読んでもあまり面白くない。ふつう一人が生涯あげられる業績というものは、他人が興味を持つほど大きくない。

それにYAKUGAKU ZASSHIに書いても何人読むか?
ネットで活字が氾濫する今、会員にタダで送られてくるファルマシアだって読まれない。読まれないものに書いても仕方がない。

断ろう。
第一、面倒だ。学内の退職記念講演も辞退しようと思っている。東大など都市部の大学と違い、久しぶりに同門の研究者とか集まるわけではないし、教え子も来ない。

まず、退職後も薬学の世界にいるなら別だが、4月からは朝のスーパーの品出しとかフリーターをしながら、千駄木菜園で野菜を作る老後になる。いまさら研究の話をしても何のメリットもない。
薬学とは完全に離れ、今までの交際もなくなり、一人老後を生きていく。

振り返らずに前だけを見ていく、といえば格好良いが、要するに義務でもないことをするのは面倒くさい。

しかし、この機会に、つまり定年退職にあたり少し考えた。
薬学の周辺にいて45年になる。この仕事で生活し、家庭を持ち、社会とつながってきた。私にとって薬学は決して軽くない。自分の人生そのものといえる。どうしてこういう人生になったのだろう?

そもそも信州から出てきて大学に入ったときは、まだ家業(私は専業農家の長男)が頭にあり、薬、薬学など、考えたこともなかった。それが教養学部の成績の関係からたまたま薬学部に進学してしまい、流れに任せたら製薬会社に就職した。

企業の研究所にいたときは薬とか薬学は意識しなかった。農学部や理学部の人と出身学部など意識せず、純粋にサイエンスが一番だった。ところが転職して薬科大学に来ると、とたんに薬と薬剤師国家試験が前面に出た教育、世界となり、すっかり薬学部が嫌になったと同時に、日本の薬学が心配になった。

希望をもって薬学部に進学して45年、その間のことを思い出しているうちに、頭がボケないうちに書き留めておこうと考えた。

とくに定年を待つだけの今は、一番ひま。
冬は野菜つくりも仕事がない。ちょうどよい。

・・・・・・・・・

薬学部に進学、修士課程を終えて企業の研究所に就職、その間、東大医学部薬理、シンシナチ大学、京大シミュレーションプロジェクトでも研究に従事した。
その後、薬科大学に転職。教育にも携わった。
その間のことを書いていく。 


1 東大薬学部と学生実習

もともと薬にも薬学にも興味はなかった。
東大は本郷での専攻分野を決めるにあたり、2年生の秋に各人希望を出す。応募者が定員以内なら問題ないが、人気のある学科すなわち応募者が定員を超えた学科は、教養学部での成績順にとっていく。
私は理学部の植物学教室に行きたかったのだが、8人しか枠がなく、最低点が読めなかった。留年覚悟で応募する気もない。薬学部は70人だったから毎年最低点が一定していて、私の持ち点でも入れそうだった。構内図を見たら隣が看護学校だったし(のちに全く関係ないことが分かる)。

すなわち薬学は、どこかに行かなくてはならなかったから決めたに過ぎない。化学は嫌いではなかったし、体と健康の勉強でもして、田舎に帰って後を継ごうと思っていた。農業のことは父に聞けばいいから、大学では違う勉強をしようと思ったわけだ。

2年生の冬学期はまだ教養学部だが、進学先が決まったことから週に2日、本郷まで行き、薬学の先生の講義を受けた。それまでの駒場の講義は、例えば線形代数は行列をいじくりまわすだけで何の役に立つかわからなかったし(役に立たなくてもいいが学問としてのストーリーが欲しい)、物理化学の熱力学ではエントロピーなどの式を変形していくだけで、教員も平たんに話すばかりで、分かりやすく説明しようとか面白い話をしようとかいう熱意が見られなかった。進学振り分けの点数を取るためだけに出席するような授業だった。当然さぼる。

しかし薬学の先生は、教える相手が自分たちの後輩になることが分かっているからか熱心だった。同じ物理化学でもエントロピーは実例をあげ熱力学と統計力学の両面から説明し、量子力学も化学構造、機器分析スペクトルと関連付けてくれた。

参考書もいくつかすすめられた。
レーニンジャーの生化学は大型本、上下で8800円もして貧乏学生には高かったが(当時生協の定食は230円、アルバイトは時給400円)、図が素晴らしく、1ページ1ページ、大切に読んだ。井本稔「有機電子論」は、薬学に決まって2か月後の年末、帰省の車中で読んだ。共立全書で小さかったため旅行バッグに入ったからだ。これらは試験のために読んだのではない。なんとなく進んだ薬学だが、初めて勉強が面白いと思った。

当時の薬学は水野伝一教授が学部長で、岡本敏彦、田村善蔵、坪井正道先生らのベテランに加え、野島庄七(1975就任)、三川潮、粕谷豊、古賀憲司、広部雅昭(以上1976)各先生が教授になったばかりで活気のある時代だった(ほかの時代を知らないけど)。清水博、福田英臣の両先生は1977年就任だから我々の本郷進学と同時である。
本郷に進学した3年生は1学年70人、毎日午前講義、午後実習である。
講義は出席自由だったから寝坊したら出ずに図書室で現代化学や科学(岩波)などの雑誌を読んでいた。NMRの理論や、阻害薬が複数ある時の受容体結合などで分からないことがあると講義に出ずに図書館で一人考えていたこともあった。私は赤羽浩一氏に誘われ、薬学のボート部に入ったから、早朝、戸田で練習する長期合宿中は、ずっと午後の実習だけの期間もあった。

試験も大してなかった気がする。あっても追試なしの全員合格。それまでの駒場と違って点数も関係ない。
ある教科は問題用紙を配ったら教員が「あまり騒がないように」といって帰ってしまい、全員ノートや資料を見たり、佐瀬真一氏などは濡れた傘を広げて干していた。

必ず全員合格させるのは、勉強などは自分で必要と思ったときにすればいいという学部としての哲学があったからか、あるいはそういうシステムで上がった人が教員になることで伝統になっていたからか。あるいは単に教授が面倒だったからか。
もっともらしい理由は、午後の実習で実験台が72人分しかなかったことである。一部に物が置いてあったから70人ぎりぎりで、留年されると次の年が困るのである。

その、午後の実習は、4月、分析から始まった。
最初に教わった「薬包紙1枚は0.3グラム、水一滴は0.05ミリリットル」は、今でも覚えている役立つ知識だ。
先日、終活の片づけで、当時の返却されたレポートが出てきた。

各自、尿を分析するという課題があった。
自分の尿をトイレでビーカーに取ってくるのだが、女子はハンカチを巻いて隠して持ってくる人が多かった。自分の尿が極端に色が濃いとか泡立っているわけでもなかろうに、うら若き乙女には、やはり恥ずかしいのだろう。
私の学年(1979年卒業)は女子がとくに多く、男52人、女子18人だった。それまで1969年卒から75年卒までの7年間の学年は、ずっと計ったように女子は5人しかいなかったが、76年から12人、13人、13人と増え始めていた。
さて、私の隣の黒阪泰子さんはとても可愛らしかったが、気は強かった(個人的感想)。彼女の叫び声が聞こえ振り向いたら、川村氏か木村氏の尿が操作中にはねて彼女の白衣についたらしく怒っていた。

課題は、自分の尿を前処置して、TLC(自作)で展開、馬尿酸と尿素を分離検出すること。いま当時のレポートを読めば、私の尿には課題の2物質のほかに、未知の大きなスポットがあった。
未知のスポットに関する考察が面白い。
当時の本駒込の古い4畳半アパートの記憶が鮮やかによみがえり懐かしい。

「・・・体の異常で出たものでなく、ある物質を口から取り入れて多量すぎて尿に出たものと判断した。私の下宿には冷蔵庫がないため一度買ってくるとどうしても大量に食べてしまう。この実験の前に大量に食べたものは、鶏卵、わかめ、キャベツなどであった。特に卵は悪くなりやすいと考えられるので一食に3個ずつ食べていた。わかめなどは尿がアルカリ性になっていたことに関係があるだろう。もう一つ、私の下宿の水道は管が古いのか、始まりのバケツ一杯ぐらいはかなり鉄分を多く含むようなのである。この物質をさらに究明するため、・・・・」
さらに究明するため、私は加温濃縮して再度分析している。

また、金属イオン24種のうち、各自、未知の6~7種を混ぜたものを渡され、ペーパークロマトグラフィと発色試薬のスプレーで同定せよという課題もあった。
私は6種類のうち、5つ当てて1つ間違っていた。

ポリアミドの薄層プレートを各自調整し、渡された未知アミノ酸混合物を二次元クロマトグラフィーで同定する課題もあった。
分析レポート末尾のサインは中村洋先生のようだ。
汚い字の全8枚を隅から隅までよく読まれて、こちらのつぶやきのような疑問にも丁寧に答えてくださっている。45年後の自分とはえらい違いで、自分のレポート採点の態度を少し反省した。

1年間の実習書

有機合成の実習はガラス細工から始まった。今実習書をみれば、1日目はガラスの性質を学びガラス管の選択、切断やバーナー、ふいごの整備。融点測定用毛細管を作る。その後、スポイトやU字管を作り、5日目までにT字管をつくり、最終9日目までにリービッヒ冷却管を作る。

合成実習で反応フラスコと冷却管などをつなげるとき、われわれ実習生は高価なすり合わせ器具は使わせてもらえなかった。ゴム栓に穴をあけ自分でガラス管をまげ、自作のT字管とゴム管でつなげていく。
水浴、油浴(金盥に食用油?)だって電熱器でなくガスバーナーで加熱した。分析のところで述べたように、TLCのプレートだって自分で作る。物がないというのは頭と手先を使う良い訓練になる。(薬理のマグヌス実験の記録もペンレコーダーではなく、煤紙を貼ったドラムだった)

私はガラス管をゴム栓に押し込んでいる最中にガラスが割れ、手にけがをした。そのとき代謝学教室の渡辺先生がサルファ剤を振りかけたことは、「忘れられた奇跡:サルファ剤と~」の訳者あとがきに書いた。

有機合成化学は東大薬学が最も自信を持っていた分野である。
秋から始まったこの実習のテキストは英語だった。
シクロヘキサノールからアジピン酸とテトラメチレンジアミンを各自つくり原料とし、それを四塩化炭素と水の界面で重合させて4-6ナイロンを作る。
これは最終産物が目で見えるから、各反応が最後までうまくいったかどうか、機器分析しなくても分かる。
何段階もステップがあるから70人のうち出来たのは数人。長崎大村の尾崎一成氏もその一人で、ビーカーからナイロンのフィルムをひも状にして、ゆっくりと巻き上げていた。精密機械のような実験技術を持っていた彼は、家業を継ぐため、1年半後に千葉大医学部に再入学し薬学を去った。

薬学に進学してまだ半年で70人全員が一人一人このテキストで有機合成している。
当時は何とも思わなかったが、少し驚いた。

講義は出なくてふらふらしていても、実習はみなしっかりやった。
内容もよく吟味され、研究室配属前の基本技術を、すなわち分析、物理化学、合成、微生物、動物実験などを1年で効率よく学べるようになっていた。

実習は基本的に一人で課題をやるのだが、物理化学などで7人のグループでやるものがあった。大人数だとちゃんと予習してきた優秀な人(わが班ではブレインと呼んだ)が中心になって課題をすすめ、私や駒野宏人氏はよく分からず手持ち無沙汰でぶらぶらしていた。そんなとき先生が回ってくると慌てる。國枝卓氏は本当はこっちの仲間なのに、先生が来るとさっと洗い物をもって流しのほうに行き、やり過ごしたものだった。
その年の駒野からの年賀状は「今年はテイルを脱してブレインになろう」と大きく書いてあった。

学生実習室の外には、小さな木造平屋建ての「学生実習器具管理室」があった。ガラス器具を壊すたびに、そこの大友善四郎さんという「おじいさん」にもらいに行くのだが、孫のような我々を相手にいつも優しくわけてくれた。
12月には本駒込の二葉荘を出た。行き先がなかったので農学部裏、異人坂上の向が岡寮の6畳二人部屋に厄介になった。年が明けて坂下の根津の向こう、谷中真島町にアパートを見つけたとき、大友さんから器具管理室の前にあったリヤカーを借り、國枝に手伝ってもらい引っ越した。

そんな楽しい70人一緒の1年を過ごすと、4年生になる前に配属教室を決める。
いつも使う講義室の後ろの黒板に教室名が書いてあり、各自行きたいところに自分の名前を書いていく。
「1教室は5人まで。一人もいかない教室があってはならない」という二つの条件があり、我々学生が自己調整するのである。成績順などという野暮なことはないが、やはり人気の部屋がすぐいっぱいになるし、だれも行きたがらない可哀そうな教授の部屋もある。
そんなことになっても大丈夫。じゃんけんがあるし、修士課程に行く予定の者は、1年は他の分野で修業しようと、犠牲的精神で人気のない部屋に名前を書き、ちゃんとうまくいく。
(今、工学部の建築はこれと似た形式だが、機械学科は15研究室あれば15希望まで書いて成績順で決める。しかし第15希望なんて、この部屋だけは行きたくない、という研究室ではないか。日本薬科大の研究室配属もこの方式だが、よくない)

さて、4年次にむけた研究室配属。
私は進振りから1年たってもまだ植物に未練があったから生薬・植物化学教室にした。この部屋はいつもはたいして人気がないのだが、この年は珍しく上限いっぱいの5人が名前を書いた。

裏紙にあった当時のメモ

(続く)
次回は
私と薬学(2)生薬学教室の人々

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2022年1月12日水曜日

65歳からの職探し3 嫁探しとの共通点

1.いわゆる「知的な仕事」はできるだろうか?

4月1日から就業する求人は、12月初めに募集を出して1月13日、14日に応募締め切りのところが多い。つまり今が応募のピークである。

国立歴史民俗博物館(佐倉)の展示事務補助(巡回、パネル・キャプションなどの製作)は簡単そうで面白そうだった。
やってみたかったが締め切りよりずっと前に応募者殺到していたため、12月中に諦めたことは書いた。
しかし気になっていた求人があった。

国立科学博物館(上野公園)の非常勤職員である。

サイエンスコミュニケータ養成実践講座というのがあり、その企画業務に従事する。
日本最大の自然史博物館を内部の人間として見られることが魅力だった。
家から公園まで2.1km、歩いても27分。1年更新で最長3年。
待遇も他が時給1050円くらいだったのに対し、日給10,000~12,000円程度というから、少し良い。

求められる資格、能力として
・パソコン(パワーポイント含む)を用いた文書・データ作成、処理。
・学校・博物館等における理科教育・科学教育の指導またはサイエンスコミュニケーションに関する経験。
・科学または教育に関わる修士以上の学位。

これなら国立東京博物館150年史編纂助手のパート求人で競合した有能な人々(たぶん主婦など文系女性?)にも勝てるかもしれない。

今までやってきた学会発表、大学での講義、子ども大学実行委員長などの経験がアピールできる。一般人へサイエンスの魅力を伝える業務というなら、医学史、科学史関係の7冊の翻訳出版もプラスに働くだろう。ファルマシア編集委員としての特集号や座談会の企画経験もアピールしよう。

年末年始の休み中に力の入った履歴書を作製、完成した。
あとは応募ファイルを送信すればいいだけ。
しかし、送信直前に昨年の「サイエンスコミュニケータ養成実践講座」なるものを見てみた。

令和3年度プログラム

具体的なプログラムがあった。こういう講座を企画するのか。
講師の依頼や世話、ポスターを作ったり、受講者のレポートの採点とかするのかな。
膨大な標本、資料を持つ国立科学博物館の中で働くのは魅力だが、果たしてこの仕事は面白いだろうか?
周りの人は優秀でまじめだろうな。
なんか面倒くさくなってきた。

今まで41年間、比較的自由な仕事だった。
企業でも上司は何も言わなかったし、締め切りもあまりなかった。実験室でも一人だったし。
転職してもオフィスは個室だったし、楽だった。

しかし、科学博物館の、こういうきちんとした職場でやって行けるだろうか? そのオフィスでは仕事と関係ないネットを見るわけにもいかないだろう。ぼーっと関係ないことを考えていることもできないだろう。

そもそも、この仕事は楽しいだろうか?
若ければ、こうした面倒な仕事も経験値を上げて将来役立つだろう。
しかし、この仕事は、老後の私にとってプラスだろうか。
若ければ、2,3年でやめてまた違う仕事ができるが、もうこの年になるとやり直しはない。

送信は保留した。

正月はテレビをよく見た。
人間の数だけ仕事がある。もう少し視野を広げよう。

2.転職サイトの実際

ところで、履歴書をつくるにあたり、ネットで書式の無料ダウンロードというものがあった。そのサイトに行くと、様々な個人情報を聞いてくる。入力終わってダウンロードすればそのまま履歴書が完成するのかな、とせっせと記入した。しかし、顔写真を入れると行間がずれて、使い物にならなかった。

ところが、その直後から(おおげさでなく、すぐ)、求人メールマガジンがバンバン来た。
個人情報を入力したキャリアインデックス社だけでなく、ビズリーチ、マイナビ転職エージェンシーからも来る。つながっているのだろうか? 
各社とも1日に何通も来る。
鬱陶しいのは、どれも役に立たなこと。多いのは大学事務職員とか、化学会社だが、すべて正社員。ミドル・シニア向けといっても40代、50代である。
よく考えたら、65歳の老人なんて自社を定年退職した人間がいくらでもいるのだから求人情報を出すわけがない。
つまり、私にとって転職サイトは意味がない。
すべて配信停止にした。

転職サイトの良くないことの一つは、現在の仕事、希望した職種だけの情報ばかり来ることである。私はもっと自由なはずだ。

3.タウンワーク

テレビを見ていると転職、求人サイトのCMがとても多いことに気が付いた。ビズリーチ、indeed(斎藤工)、エン転職(バカリズム)、タウンワーク(松本人志)、

駅にも求人情報誌がおいてある。
どこにでもあると思っていたが田端駅、地下鉄には見つからず、西日暮里にあった。
西日暮里駅の改札外
赤羽、成増は駅構内にある。
フリーペーパーのラックから分かるように、タウンワーク、SUUMOはリクルートである。
SUUMOの位置にはかつて住宅情報(タウンズ、マンションズ)があったがどうなったか?
あれ? indeedも同じリクルートだけどタウンワークとの違いは何だろう?
今まで考えなかったことを考えるようになった。

さて、タウンワークを開いてみる。

多いのは交通誘導、警備スタッフ。
年齢不問、日払い、ヒーターベスト貸与はいいとしても、個室寮完備、履歴書不要、と畳みかけられると、いかにも不人気で誰でもいい感があり、引いてしまう。

ビル清掃の求人も多い。
アマゾンのラベル貼り、ピッキングというのも多かった。ネット通販の時代を反映していて、あちこちに配送センターがある。

谷中、千駄木にあるカフェの募集もある。働いてみたいけど、爺さんよりきれいな娘さんに給仕してもらいたいよな。
すぐそばの駒込病院で胃カメラの洗浄スタッフを募集していたが、すぐに飽きてしまいそう。
チェーン店でない(忙しくない)居酒屋で働いてみたい気もする。
タウンワークはweb版もあり、希望場所を駅単位にして検索できる。都県単位でしか指定できないハローワークより便利だ。お役所と民間の違いか。

4 入間基地

ハローワークはお堅い求人が多い気もして、日雇いバイトの多いタウンワークとの棲み分けも感じる。
その検索サイトで「記念館」と入れたら入間基地の修武台記念館の案内人を募集していた。今まで「博物館」と入れていたので引っかからなかったのである。
4月採用だが締め切りが1月14日、そのご面接。急いで応募した。

5 職探しと家探しの共通点

話は戻るが、最初に書いた国立科学博物館の非常勤職員。
たった数日でまったく魅力を感じなくなった。
先月、真っ先に興味をもった、探偵(尾行、張り込み)、国立東京博物館150年史編纂助手、染井霊園の管理人も、今や興味もなく、不合格だったこともまったく悔しくない。

職探しは、結婚相手探しや、家探しと似ている。
確かにそのときは夢中になって、何とか自分のものにしたいと思う。しかし、力不足か、ぐずぐずしたかで他の人にとられてしまう。その後しばらく逃がした魚は大きいと悔しく思い続ける。ところが、やがてもっといい人、物件が現れるものだ。

今の妻と今の家はそうやって見つかった。
そのあと探していないから最高とは言い切れないが。


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2022年1月8日土曜日

十条富士塚の破壊。懐かしのダンス富士学院

先日、富士塚である高松富士、江古田富士について書いた。

そこで、おなじ江戸七富士の一つ、十条富士神社についてもかく。

ここは、20年前の2001年、初めて来た。
隣に富士学院というダンス練習場があったからだ。2004年9月に競技会に出るようになってからは、レッスンしたことの復習に、週2回通った。週2回なら年100回、10年なら1000回にもなる(入場料だけで100万円?)。
そのたびに横の富士塚を見ていたに違いない。

2013‐01‐13
9年前の富士学院と富士塚

しかし前の道路が都市計画のため拡張されることが決まり、富士学院と道路との間にあった小さな児童遊園(写真上)は道路用地に飲み込まれた。
富士学院もほんの少し道路にかかるため、建て替えることになり2014年3月31日で閉鎖された。
新築された富士学院は2015年6月オープン、その月に一度練習しただけで、それ以降は行っていない。

隣の富士塚も道路拡張にひっかかっていた。
2015年の段階ではまだ残っていたが、その後どうなったか?

グーグル航空写真を見た。
google2022とあるが、撮影日は不明

道路の拡張、すなわち家屋の撤去は富士学院まで来ている。
すなわち富士神社の森の手前で止まっている。

歩道橋を右側に降りたところに公園がわずかに見える。
2013年、そのベンチでTさんと深刻な顔をしてカップル解消の話をしたのが懐かしい。
ダンスは熱心になると喧嘩ばかりになる。

この道路は谷中から王子を経て赤羽に続く尾根道で、恐らく江戸時代からの道だろう。
片側1車線だったものが、拡張される。
東側の公園や北区立荒川小学校は残し、西側の家々を撤去した。

グーグルの航空写真を見たあと、ストリートビューにしてみた。
こちらは撮影が新しい。
富士塚はなくなっていた。
予想はしていたけれども。
グーグル撮影2020年11月

東京都都市整備局の公式サイトをみると、

「東京都市計画道路事業補助線街路第83号線の整備に伴い十条冨士塚の移設が必要となったことから、これまで、北区教育委員会等の関係機関と移設に向けた協議を行ってまいりました。」

移設?
どこかに行くのだろうか?

しかし、詳しく見ていくと

経緯
平成 3年11月 北区有形民俗文化財に指定
平成21年 8月 街路事業認可告示(Ⅰ期区間)
平成27年10月 北区文化財保護審議会より北区教育委員会に対し「現状変更」で対応すべきとの答申。
平成30年 4月 北区教育委員会より十条冨士講の講元に対し「現状変更」許可が出される
令和 2年 1月 十条冨士講と冨士塚再建に関する合意書を締結
 (東京都が十条冨士講に代わり再建工事を行うための合意書)
令和 2年 10月 十条冨士塚撤去工事完了
令和 2年 11月 埋蔵文化財調査着手
令和 3年 秋頃  埋蔵文化財調査終了予定
令和 3年 秋以降 十条冨士塚再建工事予定

西が上
拡張道路は下になる。
現在地で二分の1以下に縮小するようだ。

移設とか、再整備とか、現状変更とかいろんな言葉を使っているが、これは破壊ではないか?
公平に書けば移設ではなく「縮小して再建」であろう。
そうはっきり書かないのは、後ろめたさがあるのではないか?
残念である。

かつての富士塚の写真を載せておく。

2013‐01‐13
十条富士塚は尾根道の街道に面していた。

十条富士神社には社殿や境内がない。
塚という小山のみに「神社」とつけるのは奇異に感ずるが、大昔は巨木や巨石に縄を回したものだけが信仰の対象だったから、これが本来の姿かもしれない。
後世、その御神体の前で神事などを行う広場が整備され境内となり、飲食したり物を保管したりする建物が作られ、社殿になったのだろう。

頂上から北のほうを見おろす
日本語学校のような名前の富士学院は、この富士塚から名付けたものだろう。
ダンスをする人はあまりこういうものに興味がないようで、登る人はほとんどいなかったのではないか?

2013‐01‐13
かつての富士学院。懐かしい。
競技は和泉さん(2004年9月)、片岡さん(2005年2月)と始めた。
しかしそれ以前から、柏瀬さん、堀内さん、モエギさんなどと少し練習した(教えてもらった)ので埼玉から通ってきた。

2014‐04‐01
受付は二階
ここでおやつを食べたり、ビデオ録画でチェックもできた。
貸切練習用の部屋もあった。

この写真は、取り壊すために休業した(2014-3-31)翌日である。
記念に写真を残したくて、出勤前に東十条で途中下車し、お願いして撮った。
今思えば何か記念品をもらってくればよかった。
2階にはシャワーもあった。
ここから上級者は3階へ、それ以外の人は1階に降りる。

1階練習場。
3階は若者がバンバン大きくスピード出して踊っているので怖い。
私はもっぱら1階で練習した。
当時は日暮里ファーストプレイスもなかった。池袋のアカデミーホールは狭い。だから埼玉、千葉、神奈川からも大勢練習に集まった。独身の若者など、どうせ住むならと、このそばにアパートを探す人もいた。ダンス人口も多かったから活気があった。

2014‐04‐01
コーナーにはソファーとテーブルがあり、お茶、コーヒーなどが飲み放題だった。
1日居てもいいから食事しているカップルもいた。
休憩しているときは他の人の踊りを見ている。
喧嘩して別れた人が他の人と練習していると、気持ちが落ち着かなかった。
絶対負けたくない、と思ったが、新しいリーダーは私より上手かった。

富士学院に通い始めてから20年、競技を初めて17年、富士学院が壊されて8年経つ。
当時踊っていた人々は高齢化とコロナでかなりの人がダンスをやめてしまった。

富士塚が壊されるのも時代の流れだろうか。


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