2017年10月28日土曜日

観光立国に反対する

「おもてなし」に反対。
政府は訪日外国人客を4000万人まで増やしたいというが、いったい何を考えているのか?

いつも行く日暮里駅南口は外国人の方が多い。
ラングウッドやアパホテルがあるからなのか、成田直通だからなのか、とにかく多い。
隣の西日暮里では、旅行者というより住民になっている。このあたり、中華も含めてエスニック系のレストラン(わりと安い小食堂)の従業員は全員外国人で、日本人が一人もいない。客も日本人よりその国の人々のほうが圧倒的に多い。旅行者というより移民した人々のように見える。

話がそれた。
旅行者誘致のことである。
政府、自治体が観光に力を入れるのは、経済効果が目的という。
お役所は金儲けがすべてか?

まあ、10歩譲って金儲け第一主義を認めたとしても、一度は爆買いをした外国人も、旅行に成熟すればお金を使わないのではないだろうか?
日本に慣れれば、誰も知らないマイナーなところに行き、ひっそりと地元の人と同じものを食べて、安宿に泊まる。知らない土地ならこれでも十分楽しい。
あるいは移民のようになっている技能修習生や留学生の友人を訪ねてアパートに長期滞在するのも楽しいだろう。

ほとんどお金を落とさなくなってしまった旅行者を迎えるのは、日本の納税者にとってコストでしかない。
駅、名所など外国語対応の案内所を作り案内板の外国語化したりした結果は、
観光地の劣化、民泊をめぐるトラブル、交通機関の混雑、ごみの処理、、
観光地の一般住民にとっては迷惑以外の何物でもない。

先日軽井沢に行った友人が、自転車で大挙して走るアジア人が多くて、雰囲気が変わってしまったと言っていた。

日本らしいひっそりした観光地も、マナーの悪い外国人が増えれば、日本人にとっても外国人にとっても魅力がなくなっていく。

観光地の売り込みはやめてほしい。公務員というのは、何でもいいから仕事をするのが大事だと考えるのか、とにかく新しい仕事を作りたがる。ご当地の魅力を発信するのは100%良いことだと思っている。ゆるキャラを作り、大河ドラマに乗っかり、世界遺産登録を目指す。

しかし発信しなくていいのである。
あまり知られたら魅力がなくなる。

観光業者、お役所は自分のこと、目先のことしか考えない。
観光開発というのは金儲け主義、環境破壊、景観破壊、モラル悪化と同義語である。

外国人は本当に日本に来たい人だけ来ればいい。
自分で事前勉強し、日本語に苦労しながら、誰もいかないところを観光してほしい。
少数ならば親切にする気になるし、交流も楽しいと思うが、大勢だとうるさいし、迷惑だ。

何でもかんでも数値目標を出すというお役所の神経が理解できない。
観光客など増えても減っても、自然に任せればいいのである。


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2017年10月22日日曜日

第82 もう一つの薬学会と東京薬学新誌

日本薬学会前史・東京薬学新誌の創刊について
薬学雑誌 1910年度(第340号)  C1-3

第80話、81話と薬学会の起源について考察した.
ところで,明治13年(1880年)以前にも「薬学会」があった.
これも下山,丹波,丹羽が中心となっている.
明治11年3月に第一回生として卒業し,母学に残った彼らは,在学生,教員,学外の賛助者を加えて毎月勉強会を開いていた.そして同年11月,「薬学会」を結成,「東京薬学新誌」を発行する.しかし資金難から明治12年11月発行の7号で廃刊,同時に「薬学会」は解散した.

 

この時のメンバーには,柴田承桂,大井玄洞,飯森挺蔵,熊沢善庵,松原新之助ら教官も含まれ,全51人である.翌13年1月、新年会の30人で始めた親睦会的集会よりも,ずっと薬学会らしい.中心となっていた下山はじめ,多くの会員が共通しており,雑誌廃刊から親睦会の新年会まで1,2か月足らずなのだから,明治13年創立とする薬学会は,明治11年から連続しているようにも見える.しかし現在の薬学会が,学問的大志を抱いた11年の学術結社よりも,たまたま開いた13年の親睦新年会の方を起源としたのは,81話で述べたとおりである.

ところで,第一次薬学会が発行した「東京薬学新誌」は,順天堂医事雑誌(1875),東京医事新誌(1877)に続いて1878年に創刊された.医薬系雑誌としてはかなり古い.残念ながらネットで見られず,現物は東大薬学部にもない.金沢大,東北大,京都・日本文化研究センター,内藤記念くすり博物館などにはあるようだ.関東の人なら東大法学部付属の明治文庫に行くと手に取って見られる.

ちなみに明治12年1月発行の第3号をみてみる.
裏表紙うらに「社員」全員51人の名前がある.社はSocietyの訳だ.会員即出資者という状況であった.表紙を入れて32ページ,両面印刷ではなく2つ折にして綴じている.



第三号目録
○薬学会記事
紫根の試験
有機酸分別の論
栄養論
キハダと黄檗と異なるの説
○中外抄譯
  癩病「レプラ」に「グルコン油」の寄効ある説
  日本酒製造法並びに酒母分析実験説
  酒の説 ヲスカルコルシェルト氏著
○投書
  毒蛇咬傷治験

東京薬学新誌は,表紙に毎月2号発行とあるが月1回であった.
定価7銭5厘.府内12冊分前金69銭,24冊1円33銭と,長期契約の割引料金まで示していたが,第7号で廃刊となった.

第81 薬学会創立が13年4月の理由

日本薬学会の創立は本当に明治13年か?(下)
薬学雑誌 1910年度(340号) C1-3,1911年度(347号)C231-233

明治13年1月に集まった者は、東大薬学本科11年卒業9人中7人(下山,丹波,丹羽ら),12年卒業10人全員(桜井,山田ら),在校生から14年卒業予定の9人中8人(田原,曲淵ら),15年卒業予定の5人全員ら,わずか4学年の若者30人だけである.
ここには教官,その他の薬学人はいない.
志ある青年の会とはいえ,単なる同窓会,親睦会であり,今のように公的な,立派な学会組織を作ろうという気などまったくなかった.

さて,毎月一回集まるように決めた明治13年も,晩秋には例会出席者がたった3人になってしまう.それでも年が明けた明治14年1月15日,例のごとく新年会が開花楼で開かれた.ほぼ全員が出席したるを機とし,一人立ちて曰く.
「我が親睦会は今やまさに廃滅に瀕す.是(これ)その目的を親睦の一点にありて,その他の利益を度外視した結果なり.宜しく会の組織を変更し,時世の要求に応じて学術的のものとなすべし」.
そして翌2月の第4土曜日,福田屋で組織変更案を議論した.
日本薬学会沿革史
親睦会は学術会に改まる.
「職として薬学に関する事項を講習し,演説し,討論し,また質疑するの機関となり,おのずから本邦薬学の発達を図るをもって会の本領となすに至れり.」
会則が決められ,会名は薬学会となった.
「日本薬学会は実にこの秋(とき)において初めてその型核を成したるなり」
と沿革史にある.
さらに雑誌発行のための東京薬学社を作り,同年12月,官許を得て薬学雑誌第1号を発行した.

翌15年7月には,東大薬学科教官であった熊澤,飯盛ら4氏入会,以後,会員が少しずつ増えていく.薬学科発足時の唯一の日本人教授であった柴田承桂(明治10年東大医学部創立時の7人の日本人教授の一人)は,偉すぎる人だったからか,すぐには会員になっていない.ただし明治16年に東京薬学社の安定のための株券を筆頭の3株も引き受け応援している.明治18年1月の総会をかねた新年宴会にも,来賓として長井(17年帰国)とともに招待され,翌月に入会した.翌3月には長井が名誉会員として推薦され,資生堂の福原有信もこの月入会している.彼らは毎月の例会で頻繁に演説を引き受け,後輩たちの会を盛り立てた.

さて表題に戻る.
薬学会の創立はいつか? 根本曾代子『日本の薬学』(南山堂1981)には明治13年4月とあった.薬学会ホームページと同じ立場である.
しかし第80話で述べたように,月例会といっても囲碁をしていた明治13年4月は,薬誌の「日本薬学会沿革史」を見る限り,何の出来事もない.むしろ会則,会の名称を定め,学術会とした翌14年2月が正しいように思われる。
あるいは学術的かどうかには目をつぶり、人の集まりだけ見て、現在の薬学会から会の母体を連続したまま遡れるだけ遡った13年1月の方が、甘いけれども、創立に相応しいように思われる.
では、この中途半端な13年4月創立説はどこから来たのだろう? 

ヒントはやはり「沿革史」にあった.
これは373ページもあるため,1910年6月号から7回にわたり薬学雑誌付録として掲載されている.順にみていくと,その明治34年のところに面白い記述がある(C231).
この年7月5日,文部省の正木直彦氏から薬学会に手紙が来た.フランス政府が各国の学会の実態調査をしていて,日本薬学会にも回答してほしいとのこと.質問事項は学会名,主催者,書記,常務,事務所住所,創立年月日,会員数,発行雑誌についてであった.
薬学会は同18日に文部省に回答した.
そこに「明治13年4月創立」と書いたのである.
何の出来事もない13年4月だが、若者たちが集まった「13年」に物事の始まりの「4月」を合わせたものだろう。
以後これを公式の創立年にしたと思われる。

第80 日本薬学会の誕生秘話

日本薬学会の創立は本当に明治13年か?(上)
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42

薬学会の創立はいつか? 
本会ホームページには
「明治13年(1880年),日本薬学会は我が国では最も古い学会の一つとして誕生しました.」と書いてある。
本当だろうか?
ちょっと疑ってみよう。
現存する薬学雑誌の古いバックナンバーを使って調べてみる.

しかし薬誌の創刊号(明治14年12月)は長輿専齋,長谷川泰の祝詞のほかは学術論文のみ。以後の号も学術記事と会員への通達ばかりで,その1,2年前という会の創立に関する記事は一切書かれていなかった。
諦めかけたら薬誌1910(明治43)年6月号の付録に「日本薬学会沿革史」というものがあった.30年後とはいえ創立メンバーの多くが存命中の公式記録であるから,信ぴょう性は高く、かなり期待してよい.

すでに明治43年の日本薬学会は医事,衛生,化学,博物の諸科にわたって会員2750余名を有する大規模学会に成長していた.
しかし沿革史によれば,明治13年創立当時は,東大本科の同窓生30人(明治11年,12年の卒業生19人中17人,在校生15人中13人)より成る些々たる小集団に過ぎなかったという.すなわち

「明治13年1月,在京の製薬士,神田明神境内の開花楼に会して新年会を催す.酒酣(たけなわ)なるころ某氏発議して曰く.我が徒,同窓多年その交,水魚啻(ただ)ならざれども一たび業を卒へて校舎を去るの日は一別東西,容易に相見ること能はず.年処悠久竟(つい)に呉越の疎情を生ずるに至らんことを恐る.宜しく今において情誼を永遠に保持するの策を講ぜざるべからず.その方法の一端として今より定期の親睦会を設くべし.」

満場一致これを賛成し,翌2月第4土曜日を卜して各自会費15銭を醵(きょ)し,神田仲町福田屋に親睦会を開いた。これを第1回とし,以来毎月集まっていたのだが,親睦以外何も目的がなかった.初めの頃こそ談笑囲碁の間に多少の交歓の楽しみもありしなれ,会を重ぬるに従い興味衰え,晩秋には会する者わずか3人になってしまった.

沿革史によればこのまま明治13年は終わってしまうのである.
創立というには少し寂しい一年ではないか?
しかし沿革史はこの話から始めている。なぜか?

2017年10月14日土曜日

立川、自衛隊駐屯地の歴史

10月14日、箱根駅伝予選会に出かけた。
スタート地点は、立川基地の中。
迷彩服の自衛隊員も駅伝コースのそばにいらっしゃる。
 選手控室にあてられた体育館の北には、東部方面航空隊本部の建物がある(上の写真右側)
よく見れば、かなたに格納庫がいくつも見える。
駅伝一色、一見、ただの運動場に見えても、やはり自衛隊の基地なのだ。
ここには固定翼の戦闘機隊などはなく、格納庫の中はヘリコプターだと思われる。

さて、このあと、基地を出て、レースのゴールとなる記念公園の原っぱに向かった。
各大学、悲喜こもごもの予選会がすべて終わり、みな立川駅、西立川駅に向かう中、ひとりで逆方向に向かい、朝スタートした立川基地を訪ねた。
出入りした門はまだ閉まっておらず、迷彩服の隊員が4人いらした。
 写真をとてもいいでしょうか?
 あの奥の、記念碑も撮っていいでしょうか?
と了解をとってから、急いで写してきた。


裏には紀元二千六百年と書いてあった。
両手が持つのは地球だろうか。戦前の記念碑に似合わないデザイン。

 維時昭和八年五月四日( )聖駕この地へ幸し給ひ、親しく陸軍航空の威容を・・・・天覧の光栄に浴す。すなわち碑を以て之を不朽に伝ふ

飛行第五戦隊の碑

ここ、立川飛行場は1922(大正11)年、帝都防衛の陸軍航空部隊の中核拠点として開設された。前年に岐阜県各務原で編成された飛行第五大隊が移駐し、1925年に飛行第五連隊へと昇格した。
本来、大隊が集まったものが連隊であるが(たとえば普通科連隊は4個大隊を含む各種大隊からなる)、番号が変わらず昇格したということは、飛行機の重要性が増し、各大隊に補給や整備部隊などの大隊、中隊が付属し、そのまま発展したことを示す。

しかし昭和に入り、実際には、各連隊から戦闘大隊、中隊を抽出、動員するうち、連隊の中の飛行機部隊を独立させたほうが合理的となる。

かくして1938年、立川の飛行第五連隊の戦闘大隊は飛行第五戦隊に改編され、翌年、柏飛行場(千葉県)へ移駐した。そのため立川飛行場は戦時中、実戦部隊がなく、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点となった。
(なお飛行戦隊は46個で開戦し、終戦時までに92個戦隊が編成されている。)
立川駐屯地のホームページから

これを見ると今の昭和記念公園というのは、実に広大な、陸軍航空研究所の研究、工場群の跡地である。
今の公園内には大きな池や丘や、川まであるが、返還後に掘ったり盛ったりしたのだろうか。


ここは戦後、米軍に接収され、朝鮮戦争時には一大補給拠点となった。
その後ジェット大型機の運用が可能なように、米軍が滑走路の拡大を図り、用地を買収しようとした。1957年、国と反対住民がもめ、全学連が加わり、その後の学生運動の原点となった砂川事件の舞台にもなった。

なお、米軍立川基地が返還されるとき、跡地に東大が引っ越す話があった。
長野で新聞を読んだ記憶がある。
学内(文系や病院をもつ医学部)の反対があり、実現しなかった。

しかし数十年たち、結局本郷キャンパスが狭くて工学部の一部などが柏に移転した。その柏キャンパスは、この立川から第五戦隊が移った先の陸軍柏飛行場の跡地であったことが面白い。


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立川・箱根駅伝の予選会

2018箱根駅伝の予選会が小雨の中、行われた。
会場は自衛隊立川基地と隣接の昭和記念公園。

昭和公園の開園は7:30、西立川駅から入り、広い園内を迷いながら、自衛隊基地の西南入口を見つけた。普段は閉まっているが、予選会の時だけ開けるという。

自衛隊の体育館に各校選手がいた。
毎年そうなのか、雨だから解放してくれたのか不明。
競技のスタートはその東の、広大な空間、滑走路。
滑走路は1周4kmくらいの陸上トラックのような形をしていて、内側には各大学の応援団が陣取り、一般人はトラック?の外から見る。

スタートは9:30だが、8:30ころから応援合戦が始まる。
~闘魂は今ぞ極まる~ 
メロディに振り向いたら東大だった。
東大は昨年、いなかったような気がする。
チアガールはユニフォームの上から透明の雨合羽。
気づいたのは、大学の旗が淡青に「大学」の文字だけ。
明治時代、唯一の大学だった時に決めた旗なのか、それなら対抗戦もないから旗もなかったような気もするが。
写真には上智、亜細亜、中央、流通経済大などが見える。
左から男だけの防衛大、今年初めて応援団ができた日本薬科大、チアリーダーの多い首都大学東京。

一番好きなのは東京農大。
大根は以前は葉っぱのふさふさしたものを、ちぎれんばかりに振っていた気がするが、今年はスーパーに売っている葉っぱが切られているやつ。
それにしても、あの重い大根2本持って、動作が単純なだけに、切れ味鋭く腕を伸ばして曲げて、相当疲れるだろう。毎日ダンベルもって練習していると思われる。
今年気が付いたが、チアガールは白い長そでのぴっちりした服に、緑のボンボンを持っている。そう、彼女らも同じ動きをするから、腕が真っ白な大根に見えるのだ。


チアガールが立位のピラミッドを作ったり、あるいは空に放り投げられたり、スタート時間が近づくにつれ、応援合戦は熱が入る。
全49チーム。応援団はいくつあるか知らないが、これだけのものが一度に見られる機会はそうない。選手家族や大学関係者以外にも一般人のファンも相当いるのではなかろうか。
そのうち応援がぴたりとやんだ。
スタート時刻が近い。
滑走路の対角線のはてにあるスタート地点は見えない。しかし号砲が遠くで聞こえ、再び応援が再開、やがて、目の前の2km地点に選手がきた。あっという間に通り過ぎる

この後、駐屯地から立川市内に出て、モノレールの下の道を北上、泉体育館の先で西に向かい、昭和記念公園に北西から入る全長20kmのコース。

選手が立川市内に出て行ったあとは、駐屯地から出て、ゴール地点の昭和公園の広場に移動。 大きな液晶画面で実況中継をしていて、選手がゴールするたびに、表示される各大学の完走者数が変化する。やがて10人ゴールした大学から合計タイムが出され、一人ゴールするたびに、その数も増えていく。

以下は、今夜ネットに出ていた結果である。
1 10:04:58 帝京大
2 10:05:45 大東大
3 10:06:03 中央大
4 10:06:21 山梨学院大
5 10:06:27 拓殖大
6 10:07:35 国学院大
7 10:07:47 国士舘大
8 10:08:50 城西大
9 10:09:42 上武大
10 10:10:34 東京国際大
以上10校が本戦出場
11 10:12:05 日大
12 10:13:04 創価大
13 10:13:05 明大
14 10:13:40 専修大
15 10:18:46 麗澤大
16 10:18:58 東農大
17 10:22:28 日本薬科大
18 10:22:37 流通経大
19 10:23:43 筑波大
20 10:26:32 亜大
21 10:28:25 桜美林大
22 10:30:05 平成国際大
23 10:31:19 駿河台大
24 10:31:29 関東学院大
25 10:36:21 武蔵野学院大
26 10:42:07 明治学院大
27 10:42:42 慶大
28 10:45:55 東京経大
29 10:51:50 立大
30 10:51:51 芝浦工大
31 10:52:37 東京情報大
32 11:00:18 東大
33 11:14:01 東京理科大
34 11:16:05 学習院大
35 11:19:33 千葉大
36 11:19:34 上智大
37 11:23:25 一橋大
38 11:24:36 帝京平成大
39 11:28:58 東京学芸大
40 11:29:26 首都大学東京
41 11:30:03 東工大
42 11:30:35 防衛大学校
43 11:33:07 埼玉大
44 11:37:01 成城大
45 11:38:09 横浜国立大
46 11:39:38 国際武道大
47 11:40:33 茨城大
48 11:41:32 高崎経大
49 12:08:41 東大大学院

10人の合計がこれだから、一人あたりの差は少ない。10位と11位の差は90秒だから、一人当たり20kmで10秒も違わない。


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2017年10月9日月曜日

第79 胃液の強弱を調べる方法

薬学雑誌1906年度 251頁(明治39年)

近年製薬会社が開発してきた消化器系の薬といえば,抗潰瘍薬が一番であろう.
しかし、昔は胃カメラなどないから,潰瘍などは思いもよらなかっただろう。
実際、世間の消化器薬といえば胃腸薬である.
ところで,その宣伝を見るたびに思う.「胃もたれ,飲みすぎ,食べ過ぎに効く」とは,いったいどういう試験(動物,臨床)をしたのだろうか.
(古くから使われているOTC薬は試験しなくてもいいのかな?).

痛ければ胃の機嫌が悪いということで,消化を助けてやれば胃が良くなると思ったに違いない.でんぷん(米飯)を分解するタカジアスターゼはベストセラーだった.それゆえ胃液,消化の研究は大きなテーマであっただろう.

以下は平山増之助による外国文献Rep.de Pharm.1905 Nr.9 の紹介.
単純素朴であるが,そのぶん、分かりやすい優れた試験法である.

「Sahli氏の創案に係る胃液の検査法は精密と称すべからざるも,実地に用ひて価値あるものなりと曰ふ.其の法,沃度仿謨(ヨードホルム)もしくはメチレンブラウの小量を丸剤となし,之を薄きクッタペルカ紙に包み,腸線を用ひて固く結紮し,食後之を患者に服用せしむるにあり.もし胃液の作用尋常もしくは其已上なるときは,腸線を溶解するが故に,丸剤は胃中に於いて崩壊し,4時間ないし6時間の後,尿中に沃度を検出せしむ.メチレンブラウの丸剤に係るときは尿を染色す.もし胃液の力足らざるときは,全く不消物を嚥下したるときと一般固より何等の反応あることなし」.
これで全文.当時は記事が短かった.

もちろん,通常はきちんと胃液を採取して試験する.
薬誌197号685頁(1898年)では
「十分定規那篤倫液(注:0.1規定NaOHのこと)1ccは0.00365瓦(グラム)のHCl又0.009瓦の乳酸に対応す」.
乳酸は当時,胃液の成分と考えられ,エーテルで抽出してから定量した.
確かに分子量は90である.

第58 住友金属と別子銅山

住友・別子銅山のこと
薬学雑誌 1903年度(明治36年) p728-732

物事には序列がある。
ーーー住友グループで一番力を持つのは、住友金属であるーーー
2011年ファルマシア「薬学昔むかし」に書いたときから大分たつので、
念のため確認しようと住友グループのホームページをみたら、筆頭は住友化学になっている。だいぶ下のほうに住友金属鉱山がある。
あれっ?
実は、グループ筆頭企業だった住友金属工業は、2012年に新日鉄と合併し、新日鉄住金となった。「住友」の二文字が消え、新日鉄主体の新会社は、住友グループ(白水会)から離脱した。住友金属鉱山は別会社である。

住友金属が住友グループで最も力を持っていたというのは、
元禄時代に開かれた伊予の別子銅山が住友グループの前身で,ここから精錬,輸送,電気,機械,商取引,金融と広がり,住友発展の基となったからだ.

幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に代わると,銅が最大の輸出品になり,別子銅山は貿易や明治以降のわが国近代化に大きな役割を果たした.皇居前広場の楠正成像は,1900年に別子の銅で献納されたものである.

明治時代まで医薬は、草木金石であり、鉱物も薬学者の興味、守備範囲であった。
5ページにもわたる薬学雑誌の記事は鉱山沿革から始まる.
それによると、もともと寛永年間より大阪屋何某が立川銅山を経営していたが,元禄3年(1690),住友の田向重右衛門が隣接する山に入り,採掘開始したという.元禄8年,両坑が偶然貫通し,協議の末,住友が譲り受け,以後発展を続ける.

明治に入ると採掘の機械化が進み,鉄道,電信電話が敷設され,水力発電による電灯がともるなど,文明開化の最先端をいった.各坑道の延長合計は明治35年頃で5867mだったと書いてある.(ちなみに,鉱山は操業が即ち坑道伸長だから,1973年の閉山時には全長700km,深さ海抜マイナス1000m――わが国で人間が到達した最深部――に達していた).

鉱石は,よもぎ鉑,石地上鉑,そばかわ鉑など11種類あって,それぞれの銅,鉄,硫黄,硅酸,アルミニウムの含量が表になっている.どの鉱石も鉄と硫黄が多く含まれ,銅含量は1%(しまがく鉑)から18%(上鉑)くらい.また,精錬方法の解説もあり,各段階,すなわち生鉱(銅7%),焼鈹(34%),稠密鈹(75%),粗銅(98%),精製銅(99.7%)の分析表もあるところが薬学雑誌らしい.

鉱山には住友による「地方稀に見るところの良き病院」があり,「私立小学校」も別子山のほか,精錬所のあった新居浜,四阪島にも1つずつあった.
ただし別子山小学校の生徒は「草木の名を知らず,雀とは如何なるものなるや,米麦は如何なるところに生ずるやをも」知らなかった.なぜなら,「亜硫酸ガスのため,一の草木なく,付近山上,一面の沙漠のごとき故なり」.

住友鉱山は四国の山中にあるのかと思ったが、海の近くである。住友グループが作った銅山記念館は新居浜駅から3.7㎞、産業遺産の多く残るテーマパーク、マイントピアも6㎞ほど。ネットには鉱山で育った方のHPもあり、
http://ww9.tiki.ne.jp/~jf5ffl/tonaru.htm
いつか行ってみたい場所である。


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第57 日本薬学会、初めての会員名簿

薬学昔々 第57話

薬学会の初期のころを知るには、会員名簿が一番いい。
人数が少ないから有名人の比率が高く面白い。

最初の名簿はいつか?
明治11年3月、東大製薬本科、第1回卒業生9名が中心となり、月例となる勉強会を始めた。その年11月には東京薬学新誌という雑誌も創刊、東京薬学社を結成する。3号裏表紙に社員51人の名前が書いてあるのは、薬学会最古の名簿といえなくもない。
東京薬学新誌 第3号(明治12年)

しかし経営不振のため明治12年11月の7号で廃刊、解散した。
ところが、すぐ13年1月、ほぼ同じメンバーが神田明神開花楼で新年会を開き、以後、毎月の勉強会(神田福田亭)を復活させる。会員は約30名だったという。
なお、薬学会の創立は13年(1880年)4月とし、年会回数の基点は14年の総会(新年会)を第1回とする。14年12月には今に続く「薬学雑誌」が創刊された。

明治18年には会の名前が東京薬学会となる。
20年会頭を置くことが決まり、長井長義就任、22年副会頭の選任が決議され下山順一郎が当選した。
当時の交通事情から、会員は在京のものに限られていたが、地方会員がだんだん増え、早くも24年には在京171人、地方220人と逆転する。
翌25年(1892年)1月の総会で会の名前も日本薬学会に変更された。
日本薬学会として初めての名簿がこの年11月号に付録してある。
この1年で60人増え、464人となった全員の住所が書いてあった。
長井、丹波両教授は京橋区木挽町8-1、本郷区弓町2-20である。


よく見ると薬学以外の有名人も多い。
明治維新から厚生、文部行政の中心だった長与専齋、医師で東京衛生試験所長の中浜東一郎(ジョン万次郎息)、さらには明治の日本医学界をリードした三宅秀、大沢謙二、緒方正規、高橋順太郎といった有力教授たちの名も見える。

興味深いのは小石川区の濱尾新。安田講堂と三四郎池の間に東大最大の銅像として座っている。彼は文部官僚、東大総長(第3代、8代)として有名だが、何で薬学会にいたのだろう? 
1894年の名簿からは北里柴三郎や後藤新平も加わった。

地方会員では京都、静岡に慶松勝「右」衛門、近藤平八郎がいる。
薬学科2代目教授の父君たちであろう。
大阪には洪庵の息、緒方病院を経営していた惟孝がいた。

今はどの学会も会員数維持に苦心しているが、全会員400人の時代も楽しかっただろうとは思う。


千駄木菜園 総目次

2017年10月8日日曜日

白菜苗の地植え、大根移植

金、土の雨が上がり、ほかに用事もない日曜。
種から育てた白菜の苗。
埼玉で見る他人の白菜は、すでに大きな株になっていて、ネットを外しても虫に食べられないくらい、青々している。しかし私のは、ヨトウムシやナメクジに食べられたからか、日照不足なのか、昨年同様、1か月でほとんど成長していない。
地植えして再びネットを張った。
上写真の右側は大根。

間引きした大根を試しに植えてみた。
大根は根が長く伸びるから苗の植え替えはだめだというが、どうだろう?

足場にしている板を裏返したらナメクジ

こちらの板の裏にはシロアリがびっしり。
そのままコンクリートの上に持ってきて、カメラを取りに行って、また裏返したところ。シロアリはコンクリートのほうに移り、食べた板の穴からも1匹出てきている(写真中央)。

農作業していると甘い香りがした。
金木犀
先週は気付かなかったから、咲いたばかりかな。


2017年10月7日土曜日

将棋会館。売店と将棋道場のシステム

10月7日 千駄ヶ谷、鳩森八幡神社の続き。

境内だったか、富士塚頂上だったか、すぐ隣に将棋会館の看板が見えたので寄ってみた。
ヒフミン、藤井聡太の活躍で、何回かテレビで見たが、来たのは初めて。
2階の窓際に将棋を指している人たちが見える。将棋道場と書いてある。
入っていいのだろうかと迷いながら入口に近づき、そのまま入ってみた。

一階はショップになっている。
まあショップなら一般人が入ってもいいだろうと一安心。

将棋の駒
高いものは756,000円もする。
材は伊豆、御蔵島の原生林の黄楊(ツゲ)。4,5年寝かせたものを使うらしい。
大竹竹風作、源兵衛清安書とある。
大竹竹風という人が板から駒の形をつくり、源兵衛清安という人が字を書いたのだろうか? しかし源兵衛清安とは、書家の号としては変である。

帰って調べたら、源兵衛清安書というのは書体の一つらしい。
作者(駒師という)は、材から駒の形を一つ一つ手作業で削り出し、書体に合わせて彫ったり、漆で書く。大竹竹風は1944年生まれ。名人といわれる駒師5人の一人という。

もちろん安い駒もある。
旅行の車中でも使ったようなマグネット将棋盤セットは2160円。

私が子どもの頃使った、文字は印刷(ハンコ?)、9x9のマス目の紙が小さくたたまれ、駒と一緒にボール紙の箱に入っていた500円くらいのものは、今ないのだろうか。

反対側には将棋盤があった。
最高級品は、屋久島産の榧(カヤ)。162万円。

扇子が1728円でうっている。
言葉が書いてあって、私の場合はダンスに結び付けてしまう。

・大山康晴「調和」:
自分をきれいに見せることより、パートナーが美しく踊れるようにしないと勝てない。
・羽生善治「継続は力なり」:
上達が見えず、競技で負け続けても、諦めずに練習しろということか・・・・。しかしそのために払う犠牲は相当なものだ。
・加藤一二三「生涯現役」:
パーティーダンスはできるだろうが、競技はいつまでやれるのだろう?

それほど上手な字でないから、本人の筆跡であろう。
つまり、これらは下手に書いた方が価値がある。

将棋関連書籍
面白いのは児童用の将棋入門ドリル。
すべての漢字に読み仮名がふってあった。

彼のジグソーパズル、クリアファイル、Tシャツは別のところで売っていた。

3,4階は対局室、事務所があるため一般人は立ち入り禁止。
2階に上がってみた。

人が一杯。
碁をするところは碁会所だが、将棋を指しに行くところは何というか?
考えても分からず、調べたら将棋道場というらしい。
そうか、だから窓ガラスに「将棋道場」と書いてあったんだ。
道場と言えば武道の練習場のイメージがあるから、しっくりこない。
1日いて平日1000円、土日祝1500円。
中学生以下半額。
回数券、定期券はぐっとお得。
部屋の外、廊下の椅子にはお母さん方がいっぱい、子供たちの付添できたのだろうか。
見ると子どもと老人が多く、その組み合わせも目立つ。4割は中学生以下だという。
駒盤は全部で70、8割がた埋まっていたので100人以上が対局している。
土日は200人、平日70人くらい来るという。

マイクで名前をしょっちゅう呼んでいる。
尋ねると、カウンター(手合い係)に名前を伝えて待っていると同じクラスの人と対局できるよう案内してもらえるという。
「同じクラス」というのはどう判断するか? 
棋力認定(昇級)のシステムはなかなかよくできている(以下を参照)


3階へ上がる階段は、あまり人が通らないから、小学生が何人か座っておにぎりを食べていた。
一日中ここで過ごすようだ。

母親が付添できていたり、子どもが一日中過ごしていたり、ひょっとして未来の藤井聡太が何人もいるのかもしれない。
毎日のようにトーナメントが行われていて、景品は駒のキーホルダーなど。
45年以上前、中学3年のとき、学校の方針で週1コマ、授業をつぶしてクラブ活動の時間が新たに作られた。皆2つ目のクラブに入ることになり、私は放課後のクラブとして剣道をしていたが、この2つめを将棋にした。もちろん、クラブの週1回だけでなく、休み時間も毎日指した。
市の将棋大会にも出た。子どもは同級生と私の二人だけ。参加費が500円くらいで、昼にざるそばが出た。

そんなことを思い出しながら外に出たら、鳩森神社、富士塚の頂上であった赤い服の小学生が向こうから歩いてきた。彼はそのまま将棋会館に入っていった。富士塚には気分転換に登ったのか、それとも祈願に行ったのだろうか。


千駄ヶ谷、鳩森神社の富士塚

7月、股関節のスジを傷めてダンス中断、9月にダンス再開、ようやく競技会に出られるようになった。
10月7日、千駄ヶ谷の東京体育館、DSCJのB級戦、29組中12位に終わった。

敗退したら、さっさと会場を出る。
隣の国立競技場を見に行く。
前回は穴を掘っているだけで建造物はなかったが、もう観客席の形ができてきた。

負けた疲れから、工事現場をみながら信濃町まで散策する気になれない。
反対方向に歩き、以前から気になっていた鳩森八幡神社を初めて訪ねた。
ずっとハトモリと呼んでいたが、正しくはハトノモリというらしい。

昔、青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然多くの白鳩が飛び立った。そこで村人は小さな祠をつくり鳩森(はとのもり)と名付けたが、ご神体がほしく、その後、神功皇后・応神天皇の像を作り添えて、八幡神社としたという。
御神木のイチョウ。
昭和20年5月、本殿はじめ多くのものが焼けた空襲に耐えた。

うしろの赤い鳥居は甲賀稲荷神社。
青山練兵場を作るときに、移されたらしい。
ここは富士塚が有名
前方に池というのは基本様式だったらしい。


雨が上がった登山道を頂上まで。
山を作っている石は明らかに千駄ヶ谷にはない。
溶岩が固まった石である。
富士講で実際に行った者たちが、担いで持ち帰ったのだろう。重いものほど褒められたに違いない。

写真右下に写る赤い服の小学生、私が頂上にいた時は遠慮して、私のあとで上っていった。

能楽殿
ガラス張りであった。

隣に将棋会館があったので、神社を後にする。
こちらのほうが正門だろうか。