2023年6月29日木曜日

サツマイモ芽出し、苗作りと6月の畑

今年もサツマイモは芋から芽をとっている。

初めて作ったのが2020年。
たまたまホームセンターで芽の出ている種芋が目につき、1つ買ってみた。
そこから出た芋づる13本(シルクスイーツ)を植えた。

翌2021年は、前年の芋を種芋にして蔓をとり、またホームセンターで紅あずまの苗を20本買った。合計41株植えた。

2022年は前年のシルクスイーツ、紅あずまを種芋に、蔓を111本もとり、狭い庭に何とかスペースを見つけて植えつけた。敷石の間やプランターにも植えたが、生育条件が悪かったか、収量は22.3キログラム。

そして4回目の2023年。
前年収穫したシルクスイーツ、紅あずまに加え、食用に買った紅はるかの一部を土に埋めて発芽させた。
ところが、芽の出たころ、紅はるか1株をのぞきネズミに芋をかじられてしまった。散乱した芽はもったいないので地面に植え、残った一株は大切に育てた。
2023₋06₋26
唯一残った紅はるかの種芋
1つの芋から複数の芽が出て、その1本が伸びたころ先端を切れば(これももったいないから苗にする)、さらに枝分かれする。
種芋からとった蔓
左はトマト、右はジャガイモ
6月29日現在、14株育っている。
しかしまだ足りない。

ちょうどバイト先でサツマイモの苗(これも紅はるか)が余り、バケツに入れていたら腐ってしまった。捨てるというので数本もらってきた。
成長点のある先端と葉っぱが腐っていたが、茎が生きていた。
埋めてい置いたら節々から新芽が出て、苗がいっぱいとれた。
紅はるか
6月29日現在20本植えた。

これからも苗はどんどん取れるだろう。芋は葉物野菜と違って取れすぎて困るということもないので、いっぱい植えたい。
どこに植えよう。
夏ミカンは順調。
昨年はこの木の下にも芋苗を植えたがあまり育たなかった。
キウリは順調。
ここは午後になると日が当たらず、サツマイモ(昨年)、枝豆(今年の一次)の発育が今一つだったが、キウリは大丈夫のようだ。6月29日現在すでに12本とった(5株)。
ここに芋は植えられない。

もうじき終わるキャベツの場所。
キャベツ20株植えて成長の遅い6株が残っている。
昨年もここに芋を22本植えた。
いざとなったらキャベツをつぶして芋畑にしよう。

2023₋06₋26
枝豆3次、4次
すでに枝豆1次は収穫、抜根しているから、ここも早く種まきすればサツマイモを植えられたのだが、この枝豆の前は玉ねぎがあった。1年に畑3回転はさすがに難しい。
トウモロコシは雌花(ひげ)が咲いている。
早い株の雄花は花粉が終わってしまった。
ここは2020年にシルクスイーツを植えた場所。
当時は通路と畝を作っていなかった。場所がもったいなくて全部を畑にして中に飛び石のように足場を作っていたっけ。
こちらはナス。
市販苗を7株、自家実生を6株、合計13株も育てているが、今年も発育悪い。
うちの庭は、合う野菜、合わない野菜があるようだ。

2023₋06₋26
左はシシトウ7株、パプリカ7株。
いずれも自家採種の種。
右の畝は落花生(自家採種)、空心菜、オクラ(市販種)
ここは2021年に紅あずまの苗20本を買って植えた場所。

長野の弟は苗12本でリンゴ箱3つとった。サツマイモの収量は苗の本数ではなく、育て方かもしれない。いたずらに苗をとり、あちこち密に植えるより、ゆったりと育てたほうが良いかもしれない。


2023年6月22日木曜日

巣鴨とげぬき地蔵の本尊はハンコ? とげは針?

梅雨の中休み、土日に真夏日が2日続いたあと、
月曜は曇り、少し過ごしやすい。
午前中、家を10:15に出た。
六義園正門前、大和郷をへて巣鴨駅まで歩くと2.3キロメートル、29分。

その先の、おあばちゃんの原宿・とげぬき地蔵までは2.8キロメートル、36分。
しかし巣鴨駅周辺の飲食店のメニュー看板など見ながら歩いたから高岩寺まで43分かかった。
2023₋06₋19 10:58
「歓迎 池袋本町小学校のみなさま とげぬき地蔵尊高岩寺」
という看板をお坊さんが持っていた。
2.3キロの遠足か。子どもたちはちょうど帰るところだった。
お坊さんはどんな講話をされたのかな。
何も分からず連れてこられた子供たちは、ちゃんと話を聞いたかな。

とげぬき地蔵に初めて来たのはいつだろう?
30年近く前の1995年6月10日、駒込駅東口の英会話サロンMINICOに来た。
このころはダンスも野菜つくりもせず、古本屋めぐりが趣味だった。まだ埼玉の大宮プラザに引っ越す前、上尾の奥、伊奈町に住んでいた頃。東京の知らない街で珍しい古書を探そうと、駒込から巣鴨駅まで初めての道を歩き、さらに古書店を探しながら旧中山道を埼京線の板橋駅までぶらぶらした。
そのとき高岩寺とげぬき地蔵の前を通っているはずだが、記憶にない。
2012年には埼玉から巣鴨駅北口のダンス教室に数か月通っていたが、やはり記憶はない。

はっきりしているのは、千駄木に引っ越して同時に大学に転職した2013年。
大学では毎年在校生の成績や動向を卒業高校の先生にフィードバックすることになっていた。私は豊島区の高校が担当だった。2013年6月、巣鴨駅の東にある本郷学園から西の十文字学園に行く途中、広い国道17号を渡り、この寺の裏から境内を突っ切って商店街に出た。
以後、定年退職するまで9年間、高岩寺の北の脇の細い道か、前の商店街(旧中山道)か、どちらかを年に1,2回、通った。

おそらく10回以上この前を通っているはずだが、とげぬき地蔵を見たことがなかった。ちょうど来るときにトゲが刺さっていることもないから、高岩寺は、道路からちらりと見るだけで、中まで入ろうと思わなかった。
11:00
今回、初めて有名な「とげぬき地蔵」を見てみようと思った。
私の中のお地蔵さんといえば路傍あるいは屋外に立っている石像のイメージ。しかし境内には水洗い観音があるが、お地蔵さんはない。
本堂に行ってみた。
私は神社仏閣に行ってもお参りしない。
何かこだわりがあるわけではなく、立地と境内をみれば満足して、中まで見ようと思わないのである。今回初めて本堂に入ってみた。
11:02
お地蔵さんどころか仏像が何もない。
若いお坊さんがいらしたので聞いてみると、正面中央にかかっている白い紙のうしろに厨子があり、そのなかに小さなご本尊があるという。

「秘仏だから誰も見れないのですが、このお札に写したものがあります。これが実寸大です」って、親指より小さい。
本尊を写した御影
これがお札にもなるらしい。

彼は「とげぬき地蔵尊縁起」と題する1枚紙の説明書をくれた。
それによれば、正徳三年(1713)高岩寺が上野屏風坂にあったころ、田付又四郎という武士が小石川に住んでいた。彼の妻は地蔵菩薩を信仰していたが、重い病になった。
彼が毎日祈願を続けていると、ある夜、夢に一人の僧が現れ、「私の姿を一寸三分(3.9センチメートル)に彫刻して川に浮かべなさい」という。彼がすぐにはできないというと、「では印像を与えよう」と言われ、夢から覚めた。
ふと枕もとを見ると地蔵菩薩が描かれた小さな印があった。そこでこの印に朱肉をつけ、紙片に1万体の「御影」(おみかげ)をつくり、両国橋から隅田川に浮かべた。すると妻の病が癒えたという。

その2年後、毛利家の屋敷で女中が誤って針を飲み込んでしまった。又四郎から地蔵菩薩の「御影」をもらっていた西順という僧が、たまたま居合わせ、その紙を飲ませると針が尊影を貫いて出てきたという。

そうか、針が「とげ」になったのか!

又四郎は1728年、この話を書いた霊験記とともにこの印を高岩寺に奉納した。
いま高岩寺ではこの印を本尊として祀っている。地蔵菩薩という仏像ではなく、印である。
そして、和紙に印じた「御影」を広く参拝者に配布している。
(ちなみに印ははんこ、印鑑は印を押して得られる図のこと)

昔はこの奉納されたハンコに朱肉をつけて紙に像を写し配布したのだろう。毎日のように何枚もペタンコペタンコ、何千何万枚もお札を作っていたら、秘仏とは言えない。ひょっとしたらハンコは何度も作り変えているかもしれない。
いまは、かつて和紙に押したお札をコピー機で複製するのであろう。元の木片は使わないから奥にしまって「秘仏」にすることも可能だ。
そのお札は、包みの中に4センチX1.5センチの御影が5枚入っていて100円。針もとげも関係ない人は、痛みがある場所にこれを1枚ずつ貼るようだ。

本尊はハンコ、とげの起源は飲み込んだ針。
10年経って初めて知った。

さて、私にとって新発見のあと、高岩寺を出て、旧中山道すなわち地蔵通り商店街を板橋方面に歩いていく。
11:05
昭和8年創業、もんぺ・はんてんの越後屋。

月曜の午前11時のせいか、人はあまりいない。
飲食店のほか、もんぺなど部屋着に楽な洋服などの店が多い。
11:09
ワンカップ大関、佐久間のドロップ、ペコちゃんのミルキー、懐かしい箱は、訪れる高齢者のための復刻版か? と思ったら、箱の中身は線香だった。見れば数珠などもあり、やはり老人相手の店である。(伊藤仏具店)

11:12
巣鴨と言えば赤パンツ。
マルジ商店は両側に4店舗あり、衣料品を売っているが、ここ4号店は「赤パンツ館」という。日の丸とよく似あう。

ぶらぶら歩いて折戸通りとの交差点、猿田彦大神、庚申堂を過ぎると都電にぶつかる。
11:20 庚申塚駅
高校訪問のときは巣鴨駅からこの商店街を歩いてきたり、あるいは王子または雑司が谷から都電に乗ってきたこともあった。
11:22
駅のホームにある茶店のような「いっぷく亭」
和菓子がおいしそう。
唯一残った都電に実に似合う。

鉄道沿線の風景で頭に浮かぶイメージというものがある。例えば私にとって八高線は秋の柿の木である。都電荒川線(王子―大塚間)は、アジサイである。ちょうどその季節。
しかし、ここらは専用軌道のため、アジサイを探して線路を歩いていくわけにいかない。
11:23
いっぷく堂の前からアジサイが二輪見えた。

いっぷく堂で折り返し、地蔵通り商店街を再び歩いて戻った。
コロナ前とくらべ外国人が増えたようだ。
商店街の南の端、すなわち旧中山道が巣鴨駅のそばで17号から分かれるところまで来ると、歩いてきた商店街の地図があった。
11:38
巣鴨地蔵通り商店街
すっかりさびれてしまった霜降り銀座や田端銀座と比べ、この商店街は店も多く、元気だ。谷中銀座は観光客は多いが、商店に魅力がない。ここはとげぬき地蔵を中心に来訪者も多いから、店もやっていけるのだろう。

この地蔵通り商店街すなわち旧中山道の入口に真性寺がある。
とげぬき地蔵と比べ、参拝者はほとんどいない。
11:39
真性寺と銅像地蔵菩薩坐像 
真性寺の創建年代は不明だが、江戸時代、元和年間(1615年~1624年)に中興されている。ここには大きな傘をかぶり、杖を持つ地蔵があり、こちらは秘仏ではなく本堂前の屋外に堂々と座っている。江戸六地蔵として有名である。

江戸六地蔵は、江戸の六街道の出入口に置かれ旅の安全を見守ったという。品川寺(東海道、第一番)、東禅寺(第二番、奥州街道)、太宗寺(第三番、甲州街道、江戸三大閻魔もある)、真性寺(第四番、中山道)、霊巌寺(第五番、水戸街道)、永代寺(第六寺、千葉街道、廃寺)である。

地蔵菩薩というのは本来、釈迦が死んだ後、弥勒菩薩が現れる56億7千万年後までのあいだ、無仏時代の民衆を救済することを釈迦から委ねられたとされる。
しかし我々のイメージは、仏教というより生活に密着して、お墓の入口にある六地蔵や(実家・岩船の墓地にもある)、道祖神のように村はずれに立っている石仏である。決してとげぬき地蔵のように厨子に入った秘仏ではない。まだこちらの江戸六地蔵のほうが、イメージに合う。

真性寺に地蔵が建立されたのは正徳4年(1714)、すなわち将来とげぬき地蔵となる物体が田付又四郎の枕元に現れた翌年であり、お札の紙を飲んだ女中から針が無事出てきた年の前年である。そして高岩寺に霊印が奉納され、一般に知られるようになるのは10年以上あとである。しかも、このころ高岩寺は下谷屏風坂にあった。高岩寺が上野の区画整理のため巣鴨に来たのはずっと新しく、明治24年(1891)である。

だから巣鴨のお地蔵さんというのは間違いなく、真性寺であった。

・・・・
1時間半も歩き続け、さすがに疲れた。
無事帰れるだろうか?
ランチを巣鴨で食べると、歩いて帰宅する元気はなくなる。電車に乗っても降りてから坂道がきつい。そこで、来るとき駅でみた美味しそうな木村屋のサンドイッチを買って帰ることにした。帰るまで食べられないとすれば、疲れても頑張って歩くだろう。
11:47
巣鴨駅構内のキムラスタンド
木村屋総本店の直営である。

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2023年6月19日月曜日

接木のキウリはなぜブルームレスか?

キウリは10年ほど作っているが、季節の初め、苗が小さいときは雌花が咲いても実が小さいうちにしぼんで枯れてしまう年が多かった。しかし昨年ころから実の付きがよくなっている。
だがこの時期は木を大きくするため、実は早めにとったほうが良い。
すでに3本ほど摘果して食べた。
2023₋06₋19
キウリは5株育てている。
近くの川越青果で買った80円程度の実生苗4株と接木苗1株。
この日は手前の15センチほどのものを収穫。

いっぽう、バイト先のシェア畑では今年の標準作物にキウリが入っているため、すべての区画に1株ずつキウリが植わっている。
この季節、成長スピードが速く、1週間見ないと、あちこちでお化けのようなキウリが生っている。
販売していない区画でも、ヘチマのようなキウリがぶら下がったり、太ったワニかツチノコのようなものが横たわっていてギクリとする。
このままだと株が弱るので取った。
バイト仲間の野呂さんは捨てようとするので、もったいないから食べましょうよ、と二人で分けて持ち帰った。
2023₋06₋19
巨大キウリ 33センチ、610グラム。
もっと大きなものが二本あり、一つは食べ、もう一つは人にあげた。
それらは1キロくらいあったかもしれない。立派な大根と同じである。
これだけ大きいと1本で立派なお土産になる。
(写真手前は千駄木菜園のキウリ。長さ16センチ、70グラム)

キウリは大きくなると味が悪いというが、よく分からない。
種は固いから、吐き出すか飲むしかない。
いつものキウリとのはっきりした違いは、皮が非常に硬く、緑がつやつや鮮やかなこと。
これらは近年のブルームレスキウリの特徴である。

ブルームbloomとは、表面にできる白い粉状の物質のこと。ケイ酸が主で少量の炭水化物とカルシウムが含まれるらしい。実を乾燥や病気から守る役目もある。これがないとキウリは自身を守るため、皮を固くせざるを得ない。

シェア畑のキウリは、病気になりにくいカボチャの台木に接木したもの。接木苗はブルームがない。

シェア畑で提供する苗は、スイカ、ナス、トマト、ミニトマト、ピーマン、甘長唐辛子、すべて接木である。おもに根がセンチュウにやられないなど、病害虫に強い性質を持つ。

ところで、キウリを接ぎ木にすると性質が変わるとは少し変な話である。

そもそも、継いだところの上は元の品種の性質を保つから、美味しいミカンがカラタチの台木に継いであるのである。台木は根の水分を上の細胞群に供給するだけの役割しかないのではないか? 皮の性質を変えるのはなぜか?

おそらく、台木の細胞から出る成分が影響したのでなく、台木に使うカボチャの根がケイ酸を吸収しないため、上部のキウリがケイ酸不足になってブルームが作れないのかもしれない。

キウリの横は枝豆(一次)。
3月20日に種をまいたもの。
2023₋06₋19
枝豆一次は、(時計回りに)キウリ、夏ミカン、アジサイ、塀、イチジクに囲まれている。
当然日当たりも不十分、草丈も低い。

この場所にはサツマイモに追い出されるネギが避難してくるため早く場所を空けたい。
しかし抜根するほど全ての莢が熟しているわけではない。膨らんでいる莢だけ選んで取れば、残った未熟な莢に栄養が集中するかもしれないと思い、手でいくつか莢をとった。
今年初めての枝豆収穫(110グラム)。右は枝豆2次。

枝豆は栽培が簡単で期間も短いので手軽に種をまいている。
先日空いた玉ねぎの場所にも2回に分けて種まきした。
2023₋06₋19
枝豆3次は5月29日種まき(右)、4次は6月6日種まき(左)

2023₋06₋19
トウモロコシも雄花が出てきたが、相変わらず木が小さい。
肥料不足か日当たりか。

キウリに話を戻すと、昨年キウリは4株で27,31,25,12本で合計95本とった。
今年は日当たりが昨年より劣る場所なので5株にした。なんとか100本はとりたい。

ブルームという、くすんだ白い粉が消毒に見えたりすることから消費者は光沢ある緑鮮やかなブルームレスを好み、それに迎合してキウリはブルームレスが増えている。
また、輸送中も傷がつきにくく、収量も良いから生産者も好む。

長野の弟は、ナマコのようなずんぐり短いキウリを作っていた。在来種の八町キウリという。昭和20年頃、近くの須坂市上八町の農家によって育種され、昭和30年代に広まったが、その後、果樹栽培が盛んになり、キウリ栽培が減少、八町きゅうりも消えてしまったという。ブルームに覆われ、皮が薄く、味の良いキウリである。しかし市場には出ない。


2023年6月16日金曜日

フキとツワブキの原産地とは

我が家の庭は日当たりが今一つなので、シソやミョウガはよく育つ。

こういう庭はフキとツワブキも元気が良い。
2023₋06₋09
ツワブキ(手前)とフキ(奥)
西側の通路は、狭くてさらに日が当たらないのでフキや山芋くらいしか植えられない。自転車を使わなくなってから通らなくなり、フキとツワブキでふさがってしまった。

ツワブキは2013年4月、引っ越し荷物と一緒にさいたま市プラザの家から持ってきた。タンポポのような毛のついた種でどんどん増える。

ツワブキのツワは「夏草や強者(つわもの)どもの夢の跡」と同じで「強いフキ」だと思っていた。
しかし、ウィキペディアでは艶葉蕗(つやはぶき)、厚葉蕗(あつはぶき)から転じたとする。単純に強いフキでいいと思うのだが。

漢字では石蕗・艶蕗と書くらしい。
艶蕗と書くなら単にツヤブキからツワブキに転じたと言ってもいいのでは?

ちなみに前述の芭蕉が平泉で詠んだ句では、「つはもの」は強者ではなく「兵」と書くようだ。

いっぽう、フキは長野の田んぼから持ってきた。
こちらも柿の木の下やレッドロビンの日影などで大いに繁っている。今年は近所と妻のパート先、4人に差し上げた。
フキは、調理前にあく抜きのため煮て、皮をむいてから、さらに味付けして煮るという手間のかかる野菜のため、あまり人にあげられない。
4人に差し上げたあとも大量に繁っているので私も食べることにした。
毎日暇だし。

どうせなら、フキとツワブキを同時に(同じ鍋で)調理して食べてみる。
2023₋06₋09
ツワブキ(向こう)とフキ(手前)
ツワブキのほうが固い。フキは茎が空洞だが、ツワブキは詰まっている。
しかし、形、味は似ている。
生物学的にはどうなんだろう?

ツワブキは、キク科ツワブキ属(学名: Farfugium japonicum)の常緑多年草。
フキは、キク科フキ属(Petasites japonicus)の宿根多年草。
てっきり属は同じかと思ったが、別だった。

注目すべきは種名が japonicum、japonicusということ。
両方とも日本原産と書いてある。
しかし「原産」とは何だろう?

イチジクはアラビア南部原産、玉ねぎは中央アジア原産、ジャガイモは南米アンデス山脈原産といわれ、これはもともとそこに生えていたのが世界中に広まったという印象を持つ。

しかし、フキやツワブキは日本原産といえど、朝鮮、台湾、中国東部にも分布する。外地のフキが日本から広がっていったたものとは思えない。
この「原産」は、縄文、弥生時代とか平安時代に渡来した外来種ではなく、もともと日本に生えていたものという意味だろうか。あまりに基本的なことで、よく分からない。

フキには抗腐敗成分でも含まれているのか、6月9日に煮たものが、薄味なのに、冷蔵庫に入れて置いたら今日16日でも味が変わっていない。

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2023年6月8日木曜日

玉ねぎ、エシャロットの種類と収穫、ユリ科ではない

玉ねぎは昨シーズンに続き2回目の挑戦。

前回2021₋2022年は9月8日と10月11日、ポットに種をまいた。
泉州黄玉ねぎ、ダイソーで2袋100円だった。

ちなみに日本で栽培される玉ねぎの主流は「黄玉ねぎ」といわれる系統。1871年アメリカから札幌農学校に導入された春まき栽培のイエロー・グローブ・ダンバースが「札幌黄」という品種になり、秋まき栽培用は1885年に大阪へイエロー・ダンバースが導入されて「泉州黄(せんしゅうき)」になった。(danversはマサチューセッツ州の地名)
白玉ねぎの代表「愛知白」は、フランス系のブラン・アチーフ・ド・パリが導入されたもの。

玉ねぎは中央アジア原産、古代エジプトの壁画にも残っているほど古い野菜だが、日本に来たのは明治初期と、意外と遅い。いっぽう、易水にねぶか流るる寒さかな(蕪村)とあるように長ネギは昔からあった。
タキイ公式サイトから

さて、私の手による最初の種まき栽培は、発芽はするが育ちが悪かった。
「草丈20‐25センチになったら10センチ間隔で定植」と書いてあったが、とてもそこまで成長せず、数センチの細いまま11月19日定植。
しかし、全く育たず、冬には霜柱で根が浮き、さらに育たず、成長の始まる春にはほぼ全滅した。

ホームセンターで苗を買ってくれば簡単なのだが、やはり種からやりたい。

今回2022₋2023は、昨年9月12日と10月12日に種をまいた。
しかし相変わらず育たない。細くて短いまま12月に定植。
しかし今度は前年の反省から黒マルチを張り、ビニールのトンネルで保温してみた。
相変わらず細く短いままだったが、春になって少しずつ大きくなってきた。
出来は悪いが玉ねぎらしい。
2023₋06₋05
株間(マルチ穴間)15センチ
(向こうにマルチなしの玉ねぎがみえる。)

一般に、畑の7~8割の株で茎が倒れたら収穫という。
大分前から倒れているが、まだ球が小さく十分できていないので粘っていた。
しかしこの日よく見たら、一番大きいものが割れたようになって傷みかけている。
右上の一番大きな株を強く押すと柔らかい。傷み始めか?
マルチ穴の直径は5センチ
よく見れば葉が枯れ、これ以上粘っても光合成による肥大化は望めない株もある。
大きさはバラバラ
大きいもの、茎が倒れているものから順次抜いていくという手もある。
しかし面倒なので全部収穫することにした。
早くスペースを空け、枝豆をまきたいということもある。
ここは9月から大根の場所だから、もう余裕の日数がない。
すべて引き抜いた。
比較的大きくて茎が折れているものと、小さくて茎が立っているもの2群にわけた。
小さいものは別の場所に再び植え、大きなものだけ収穫、乾燥に回した。
2023₋06₋05
乾燥法をネットで見れば、根を切り、葉は15センチほど残して切りそろえ、縛って軒先などに吊るして干すという。
根を切る理由は、空気中の水分を吸収して乾燥が遅れるから、と書いてあった。しかし、これはおかしい。根の上皮細胞における水分子の移動は完全に受動輸送であり、その向きは内外の水分量による。空気より細胞内の水分のほうが多い。つまり、根が取り込む水分より根から出る水分のほうが多い。だから根を切る理由は、単に切り口を作ってそこから水分の蒸発を促すことにあると思われる。
どっちでもいいと思ったが、台所にゴミを持ち込むこともないので根を切って干した。

2023₋06₋05
こちらは黒マルチを掛けなかったグループ。
左は、食べた玉ねぎの根っこの部分を捨てずにうめたもの。

黒マルチをしなかった群は生育が悪い。
しかし(1)昨秋、比較的育ちの良い苗を選んでマルチかけしたこと、(2)日当たりが厳密に同じでないこと、などから黒マルチが良いとは一概に言えない。

ところで台所で出た根っこ(ゴミ)を埋めて育ったものをみて、一つ発見した。
2023₋06₋05
食べた玉ねぎの根っこから再生したもの。
1つから4-5つの株が伸びている。
この形はエシャロットにそっくりである。

エシャロットはラッキョウと似ているが、ラッキョウより球形で、超小型の玉ねぎに近い。
5月に葉が倒れ、4-5つくらいに分けつしたものを保存、9月に一つを埋めると芽が複数出て、冬から春にかけてその一つ一つが太って、また4₋5株に分けつする。つまり、埋めた玉ねぎの根っこは、エシャロットとそっくりの育ち方をしていた。
2023-05-29
そのエシャロットは玉ねぎに先立ち収穫、片付けた。
こちらは長野から持ってきて長年千駄木で作っている。というか丈夫で多年草のように勝手に生えてくる。
(紛らわしいエシャ「レ」ットは生食用に軟白栽培されたラッキョウの商品名)

エシャロットの学名は Allium cepa L. var. aggregatum)で、予想通り玉ねぎ(Allium cepa)の変種である。一方、エシャ「レ」ットすなわちラッキョウは同じネギ属だが種が違う(A.chinense)。
ノビルは玉ねぎの原種かと思ったらA. macrostemonで、別の生物種のようである。
普通のネギはA. fistulosum。

今回はじめて、これらネギ類はヒガンバナ科ということを知った。私はユリ科と習い、ずっとそう思っていた。確かにネギなどヒガンバナ科の植物は1990年代までは形態学的に分類したクロンキスト体系でユリ科に属していたが、近年ゲノム配列から分子生物学的に分類するAPG体系が主流となり、それによってヒガンバナ科はユリ科から独立した。

葉っぱが筒状ではないニンニクやニラは、同じヒガンバナ科であってもネギ類と属が違うかな、と思ったが、調べるとA.sativum, A. tuberosumで同じネギ属であった。

面白いことにハナニラは別の属。有毒だからニラと間違えないよう庭に生えていたものをすべて抜いたほど、ニラにそっくり。だからニラと同じ属と思ったが、別だという。分類学は奥が深い。

生物学も職業的な研究者でなければ、標本採集と分類が一番面白いのかもしれない。昭和天皇や上皇様のように。
 

2023年6月7日水曜日

そら豆片付け、モザイク病のジャガイモ収穫

そら豆はいつ収穫するか?上を向いている莢が重みで下に向いたとき、と言われるが、しっかり触って中の豆が大きくなってきたとき、とも言われる。
今年初めて作ったそら豆。
そういう基準で二回収穫した。
2023-05-29
この日、ふと見ると莢が黒くなっている。
莢はまだ下を向いていない。
成熟しても黒くないのもあるから、これは病気だろうか?
葉が黒くなったら問題だが、莢だけなら表面のポリフェノールが黒化したとも考えられ、バイト先の畑でも遅くなると黒くなるものが多いから、単に成熟かもしれない。
いずれにしろ、これ以上莢は成長することはないから取る。
こちらも莢が下を向いていないが、割れて中が見えている。
結局全部収穫することにした。
早く他の野菜のためのスペースが欲しかったこともある。
2023-05-29
3回目の収穫となる片付けは全部でこれだけ。
枝豆、スナップエンドウは単独で食べてもほんのり甘くてうまいが、そら豆は大きいだけで大してうまくない。でも冬はスペースもあるので来年も10株くらい作っても良い。

この日はジャガイモも掘ることにした。
モザイク病にやられ枯れてきた株から順に掘っている。5月16日に1回目を掘って以来、今回で3回目。

2023-05-29 
3回目のジャガイモ収穫(右上)
過去の2回も分けて保存してあったので一緒に撮影。
モザイク病の重いもの(早く枯れ、早く収穫したもの、左上、左下)ほど小さい。
3回分合わせて2.8キログラム。
右下は最終収穫のそら豆。

2023₋05₋16 参考画像
1回目の収穫(左)370グラム
右はスーパーの市販品。


さて、その後6月になって、モザイク病が軽症だったもの、あるいは感染しなかったものも収穫した。
2023₋06₋05
ジャガイモ4回目収穫。
ほぼ市販品の大きさ。
4回にわたる収穫の収量は、
   370
   740
 1710
 1130
合計3,950グラム

モザイク病にはかかったが、なんとか食べられるものがとれた。
種芋を買わず、調理後に捨てる食用芋から出た芽だけを埋めて、4キログラムとったのは立派と言っていいだろう。
感染したらその株は畑から取り除くという鉄則を無視して、株が枯れるまで畑に置いたおかげだろうか。
いや、教科書通りに感染株を始末していたら、最初の370グラムがなくなって3回目、4回目の収量が2倍になっていたかもしれない。

さて、1回目、2回目の収穫では小さい芋ばかりだった。
こんなに小さい芋の皮をむくとは面倒だ、と妻がいう。
まあ、退職老人の私は時間がある。
皮をむかず、強めにごしごし洗って(イモ洗い)、電子レンジでチンして皮ごと潰してポテトサラダを大量に作った。
マヨネーズが高いと聞いていたので食用油と卵を加え(酢を忘れた)、キウリなどの代わりにトウ立ちして倒れたレタスを刻み、取ったばかりのそら豆、最終収穫後に冷蔵庫に入れておいたスナップエンドウを入れた。
妻は食べず、私がパンにはさんで何日か食べた。


2023年6月1日木曜日

中野殺害事件の江部、石垣きれいな赤岩集落

5月25日に発生した長野県中野市の4人殺害事件は私の実家のすぐそばだった。

立てこもり実況放送中に実家へ電話すると、容疑者には妹がいて私の姪と同じ陸上部だったので、よく知っているという。

平野小学校を中心に現場は左、我が家は右
同じ小学校の学区内で、西江部の事件現場と岩船の実家は、西の端と東の端だから距離を測れば1.9キロメートルだが、小学校からは800メートル、我が家の下の田んぼ(今は畑)からも1.0キロメートルである。

全員農家の30人2クラスの小学校時代、とくに仲が良かった丸山たかおちゃんちのすぐそば(数軒先)。たかおちゃんとは、お互いの家を行ったり来たりしていた。あのあたりの川には泥ッ貝がいたから、自転車も乗れない低学年のころから一人で遊びに行っていた。
丸山タカオちゃんと依田トシカズちゃん。たぶん5年生ころ。

あれから5,60年経つ。
江部の部落の世帯数は大して増えていないが、母屋、物置の建て替え、田んぼのほうでは水田から畑への転換があり、エノキダケ栽培小屋やビニールハウス、ブドウの棚などができ、テレビで見る景色はすっかり変わっていた。水田がなくなったことに加え、車社会と機械化に伴う農道拡張により水路が縮小、消滅、今の人は泥っ貝やシジミがいたことなど想像すらできないだろう。
(持ち帰った泥っ貝は、家の池で大事に飼っていた。大人はカラスガイと教えてくれたが、いまネットで画像を見ればドロガイのほうが近い気がする。音も似ているし)

実は事件の5日前の5月20日、中野に日帰りで帰省した。

体が不自由だった母が、2月、2018年以来3回目の脳梗塞の発作を起こし、今度は重くて右半身不随、認知症となった。
4月まで入院、面会もできないというので、見舞は5月まで延期されていた。
誰が誰だかわからなくなってしまった母を見舞っても仕方がないのだが、介護している弟と彼の嫁さんを労うのが一番の目的だった。

妻と息子も一緒。
新幹線は速い。早く着いてしまっても迷惑かと、小諸、上田、須坂あたりのどこかで途中下車でもしようかとも思った。付き合いで来てくれる二人への少しばかりのサービスでもある。
しかし、毎日大変な思いをしている弟夫婦のところへ行く前に観光というのも不謹慎な気がして、結局朝のんびり家を出て11時半ころ中野の実家についた。

ちょうど弟が畑でとった蕨を叔母(母の妹)の家に持っていくという。することもなく、ずっと家でお茶を飲んでいるのも(とくに息子は)気づまりなので、ついていくことにした。

母の妹は中野市赤岩という部落に住む。
母の実家の柳沢とともに、信州百名山の高社山の裾野斜面に広がり、昭和29年の中野市成立前までは下高井郡倭村大字赤岩といった。(江部と岩船は平野村)

道中、すっかり景色が変わっていた。長年大赤字だった長野電鉄木島線が廃止になって、かわりにリンゴ畑の中にバイパスができ、その両側に大型店舗や飲食店が並んでいる。

しかし、長野電鉄の赤岩駅跡をすぎ、赤岩集落に入ると昔ながらの景色が広がっていた。村の下のほうにあった高社神社に車を停めて歩いていく。懐かしさで写真を撮る。
2023₋05‐20 12:02
ずっと坂道が続き、弟と息子に遅れがち。
(ところで、google photoは、このピンクのシャツの後姿を息子と自動認識したのに驚いた。というか、恐れを感じた)
振り返ると夜間瀬川を渡る新幹線の線路がみえた。
トンネル、高架など、これも中野市北部の景色を大きく変えた。
全ての家は、母屋も物置も畑も石垣の上に立つ。

坂道は体力的に大変だが好きだ。
埼玉から千駄木に引っ越した理由の一つでもあった。
12:03
ほとんどの家は藁ぶき屋根にトタンをかぶせた北信濃の懐かしい姿。

あとで調べたら、この写真の横に通る道は谷街道(松代道)だった。
長野市の南、稲荷山から千曲川東岸を通って松代藩、須坂藩、中野陣屋、飯山藩を結ぶ、江戸時代、北信濃では北国街道よりはるかに重要だった道である。
小布施町から中野市に入ると、先に書いた江部集落を過ぎ、岩船集落の南(田んぼ)をへて中野の町に入り、夜間瀬川を渡って、この赤岩、柳沢を過ぎ、再び千曲川を渡って飯山の城下町に至る。むかし中野と飯山を結ぶ幹線道路だったと思うと、この部落の豊かさも分かる。
12:04
母の妹、ゆうこちゃんの家についた。
昼時だったので玄関の土間で立ち話。

12:11
帰るとき燕の話になって、巣を見せてくれた。
昨年、へびに襲われ、雛がすべて食べられてしまったという。
蛇は壁を伝って這い上ったため、今年はビニールを貼って防御している。
12:14
ゆうこちゃんちの石垣も古城のような長さと高さがある。
石垣に加え竹藪など樹木に囲まれているから蛇には絶好の生育環境。
弟は古い家が好きだからしきりにほめている。

12:17
ゆうこちゃんの夫がなくなったとき、老いた母を一人にしておけないと、東京で勤めていた末娘のよしみちゃんが帰って来た。いとこだが私とは年は離れていて祖母(母たちの母)の葬式のとき(1983年)会って以来。
独身で私より若くて東京にいただけあって、写真を送るためにラインをつなげようとしてもたもたしていたら、代わりにやってくれた。
素晴らしい景色の家だが、毎日いたら飽きるだろうし、わずか5.4キロしか離れていない岩船と違い冬は雪が深い。女二人で生活するのも大変だろう。
12:23
来た時と違う景色を見たいと、すぐ上の道を通って帰る。
ゆうこちゃんちの土蔵は、屋根裏がオープンになっていて横の梁の曲がりぐあいが面白かった。すなわち屋根が二重になっている。火事のとき上を取っ払うのだろうか?
12:25
ゆうこちゃんちの裏で水の音がした。村の中を高社山(たかやしろ)から小さな川が流れている。この川に沿って少しのぼれば天長2年(825年)創建の名刹・谷厳寺(こくごんじ)がある。2007年に訪ねたが、写真を撮らなかったから記憶は曖昧。もう一度行きたかったが、実家で女たちが昼食を待っているので今回はやめた。
12:25
谷厳寺からの沢の渡る向こうの家は、個人で石垣の橋を作っている。
12:26
よく見れば、どの家も草の下に古城のような石垣がある。

12:30
何かを建て替えるときに壊した石垣は、もう積む技術も資金もないのか、石が転がったまま。

このあたりは豪雪地帯が始まるところで、南のほうを「上(かみ)」、北の飯山方面を「下(しも)」といった。進学、就職、結婚は上(カミ)のほうに行かなくてはダメだ、と昔、赤岩の叔母さんが言っていたことを思い出す。
その結果、どんどん人が減り、過疎地域となり、しかし、そのおかげで岩船や江部と違ってこの美しく懐かしい景色が保たれているのかもしれない。
12:30
その赤岩から「カミのほう」、すなわち夜間瀬川の向こう、南の中野の町、岩船方面を見る。
西のほうは高岡・長丘の丘陵のトンネルから出てきた新幹線と、新しくできた斜張橋・平成橋が見えた。
手前左はブドウ畑。この辺りは西南斜面で水はけが良く、果物は岩船や江部よりも旨い。
右のナスかトマトの苗は寒さ除けにビニールの行燈をまとっている。
赤岩集落全景。
赤印は上の写真を撮ったところ
北の端に七つ鉢遺跡、東の端に谷厳寺、西に夜間瀬川。
12:30
写真を撮っている間に、弟と息子はどんどん先に行った。

12:31
この石垣などは石が大きいことに加え、ちゃんと「アール」をとっていて、下手なお城より立派。
車社会になって道路を広げる前はもっと風情のある辻だったのだろう。

12:32
桃畑の脇に筆塚という大きな石があった。
そのまわりは小さな石仏と傾いた墓石。墓石には玄行院修法信士、常修院妙・・・と彫ってある。
畑の邪魔ものとして端に寄せられたものなのか、説明文も何もない。

赤岩という集落は、今や過疎地域だが、七ツ鉢遺跡という縄文時代の巨大な共同石臼があったり、平安前期に創建された谷厳寺や、石垣を築いた富があったり、いま栄えている平地の岩船、江部などと違う、重厚な歴史を持っている。この道端の石碑も何かいわれがあるのだろう。
12:32
石垣の町は穴太衆の積んだ近江坂本が有名だが、信州高井郡赤岩の石垣もなかなかのものだ。
12:32 
高社神社(里社)
車を停めた神社に戻ってきた。

赤岩の隣は、もっと懐かしい母の実家がある柳沢の部落である。
しかし行く時間もない。

これから日帰りで実家に来ることは増えるだろうが、子ども時代を過ごした場所をのんびり歩き回る時間はあるだろうか。
事件のあった江部には私の通った平野保育園、平野小学校がある。

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