2018年10月31日水曜日

新潟2 神経科学・松本元と関野氏

1989年、新潟に初めて来たのは神経科学学術集会。

ネットで調べると会場は新潟大学医療技術短期大学部。
ここは2003年に廃校となり、現在、敷地は新潟大学医学部保健学科になっている。

朝、いってみた。
古町の人情横丁、本町中央市場商店街の道を海のほうへ向かうと段々上り坂になるころ、左手に医学部保健学科の校舎が現れる。
2018-10-27
なんとなく見覚えある。
耐震補強しているから、そのままの校舎を使っているのだろう。

この学会は私にとって印象深いものだった。
1988年6月に長尾研にはいり、新しいCa拮抗薬クレンチアゼムに取り組むこととなった。
しかし安易にそのまま薬効が保証された高血圧や狭心症の薬に開発すれば、自社品ジルチアゼムの市場を食ってしまう。
Caチャネルは神経細胞にもあることから、中枢神経系の薬の可能性を探るため、1989年には海馬神経細胞を培養したりして、グルタミン酸毒性に対するクレンチアゼムの保護作用など調べていた。

初めて来た神経科学の学会は面白かった。
例えば、電子技術総合研究所(現、産総研)で神経生理のグループを率いていた松本元が、ポスター会場(体育館)にいた。

彼らは膜電位感受性色素を負荷した脳海馬スライスで、興奮の伝わる様子を光学的に記録し(16x16個のフォトダイオードアレイ)、その様子を足元に置いたテレビモニターで披露した。

物理出身の松本は大言壮語の人というイメージがあり、シンポジウムや特別講演でしか話さないかと思ったら、ポスター会場で私のような若者に対しても、直接、少年のように楽しそうに自分たちの成果を説明していた。(彼は2003年、62歳で死去)

医療技術短期大学部のものらしい石柱発見。

脳神経は脳梗塞など血流不足ですぐにダメになる。
しかしそれは細胞自体が死ぬよりも、シナプスに障害を受け、伝達がダメになると考えられる。
だからクレンチアゼムを脳保護薬として開発するなら、培養細胞の生存を見るより、神経伝達をきちんと測定する実験系を作らねばならない。しかし循環器グループはもちろん、社内の他の研究室にも神経の電気生理学をやっている者はいなかった。

そんななか、ポスター会場に、ちょうど海馬スライスのLTP(神経伝達効率の長期増強)を電気的に記録している人がいた。
東京女子医大の関野祐子。10年ぶりに見た。
薬学の1年後輩で、可愛らしかったから一方的に顔も名前も知っていた。
自己紹介して東京女子医大で見学させてもらうことを約束した。

私は33歳。
この少し前、89年6月に理解ある上司だった長尾さんは東大に転出し、仕事は以前のように進められなくなっていたが、一人でも未知の分野に突き進んでいける若さがあった。

つまり、循環から中枢に転向するきっかけとなった学会であった。

いつのまにか小雨もやんだ。
正面玄関に近づくと
この表札の剥げたところは、医療技術短期大学部とあったのではなかろうか。
剥げたまま残す、というのは記念としておしゃれだと思った。

当時、2日間の会期のうち、一人抜け出して海のほうに行った記憶がある。
海のほうへ行こうとすると、さらに坂を上る。
ここはもと砂丘だろうか。
上のほうに展望台のようなものがあった。
覚えている。
松林の間を歩いてこの建物に近づいた気がするのだが、記憶違いか。

水道局の管理で、無断立ち入り禁止という。
「日本海タワーは平成26年をもって営業を終了しました」
というから、その25年前の1989年は、人々が自由に入れて、松の木もあったのかもしれない。

小雨が降ったりやんだり。
さらに海側にいくと新潟県護国神社。
1989年、来た記憶なし。

参道の両側に様々な部隊や訓練校別の記念碑、慰霊碑が並ぶ。
これだけ多い場所は珍しい。
新潟は戦友会、遺族会がしっかりしているのだろうか。
と思ったら、「○○会解散の碑」などというのもあった。
そうだろう、ほとんどの碑は建てた人が生きておられないのではないか?


護国神社、神門は立派で新しい。

御創祀150年記念 御神門回廊御造営事業
竣工7月末日、竣工祭はこの2日後の10/29、
ほんとに作ったばかりだった。


社務所の隣にあった迎賓館TOKIWA
文化財のような結婚式場

護国神社の反対側、
松林に入ってみたが、1989年に入ったのは、もっと広々と明るかった気がする。

護国神社のところが一番高くて、坂を下りると海。
佐渡は見えなかった。
その先にはウラジオストクがある。ロシアまでの距離は北前船の行った蝦夷や下関と同じくらい。
戦前かの地は日本人も多かったから、戦争がなければ、新潟はもっと発展したに違いない。

2018年10月30日火曜日

新潟1 万代橋とメディアシップ

10月26日夜、翌日の日本薬史学会に参加するため、長岡を経て新潟に入る。

これまで新潟に来たのは2回。ネットなどで日付も調べれば、
1989年10月2-4日 神経科学学術集会
2002年10月2-4日 日本臨床精神神経薬理学会

1989年は息子が生まれたという電話を家でもらって、大宮から新幹線に乗った。この日は月曜。土曜から取手に行き、月曜も休みをとって待っていたが、生まれないので家に戻ったところ電話があった。
新潟では吉川公平と万代口、東側の飲食店街で飲んだ覚えがある。今よりゴミゴミしていた分、手ごろな店があった。何処に泊まったかは記録も記憶もなし。

2002年は一人で来た。
ダンスを始めていたのでネットで探し、南口のバイパス沿い、周りに何もないようなところのダンスホールで踊った。ホテルは不明。テレビで拉致被害者の帰国について放送していた。

2018年、泊ったのは古町の新潟カントリーホテル。
駅前からの大通りをあるき、万代橋を渡って本町通りとの角。
繁華街というかオフィス街。

チェックインして振り返ると、たぶんホテルのレストランだったであろう一画が吉野家になっていた。ホテルに泊まるときは寝付けなくて腹が減るから、24時間営業の店とは相性がいい。
翌朝、例によって散歩に出る。
アーケード街を南に歩くとすぐ、小さな店舗がハーモニカ状につながった通りにぶつかった。
ここは覚えている。2002年に来た。
人情横丁、本町中央市場商店街協同組合という。鮮魚や野菜、干物・乾物などから茶・菓子・雑貨に至るまでなんでもある。
しかし開いていない。
以前も、きた時間帯は忘れたが、閉まっていた。
新潟の人は朝が早い、なんてことはなく、6:45だと誰もいない。
輪島のように観光地化しないと難しい。
橋の跡があるから、川を埋め立てたところに店が並んだようだ。

このあと、新潟大学、海の方まで歩いて(→別ブログ)、戻ってきた。
雪降るせいか、中くらいの通りなら雁木をつなげ、アーケードの商店街がいくつもある。
雪があっても財力がなければ、こういうものは作れない。
ホテルの面している本町通り商店街もアーケード。
8:00、ホテルのとなり、新潟本町食品センターはちょうど開いたところ。
ぐるりと囲む店舗はまだ荷物を運びこんだり準備に忙しい。
生きたカニもいる。
フードコートのように真ん中で食事もできるようだ。

大通りを薬史学会会場まで歩く。
赤さびだらけの長岡と違い、きれいな県庁所在地。
長野や松本より都会のような気がする。
港があるからだろうか。
そういえば、新聞などで地元に来ることを来阪とか来熊、来仙とかいうが、新潟の場合、来港というらしい(明治時代)
新潟は万代橋の北側、つまり信濃川の左岸で発達した。
しかし海抜ゼロメートル、とは、昔はどうやって排水したのだろう。
少なくとも排水路が縦横に走っていたに違いない。
先ほど行った人情商店街は、そのような排水路を埋めた跡にできたと思われる。

万代橋の手前にホテル・オークラ
2002年に来た学会はここだった。
臨床精神薬理では、新しい創薬テーマとか、基礎研究に役立つ情報は取れないが、不満足ながら使われている薬物の発表はある。
 中に入ってもほとんど記憶なし。

万代橋の向こうに見える新潟日報メディアシップが学会会場。

2002年に来たとき、万代橋のたもとはもう少し緑と空き地があった気がするのだが記憶違いか。

無事学会での講演が終わり、20階の展望台へ。
雨が上がっていた。
ANAホテルから駅方面
新潟港と朱鷺メッセ
佐渡は見えず。

万代橋
信濃川。長岡は見えず。
新幹線の向こうはサッカースタジアムだろうか
新潟の高校生は20階のこんなおしゃれなところで宿題をしたりおしゃべりしていた。
ちゃんとテーブルもあり、夏も冬も快適。
歩道橋の上でおしゃべりした私たちとはえらい違いだ。


2018年10月29日月曜日

長岡3五十六胸像、米百俵、アオーレ

17時、山本五十六記念館を出て
すぐ南の記念公園に。
ここは高野家のあったところ。高野家は代々儒学者の家系。
暗くなっていてよく取れず。

胸像はもと霞ヶ浦航空隊に立像としてあったが、終戦後すぐ胸部で分断し、霞ケ浦に沈められた。その後引き上げられ、昭和33年、公園ができたときブロンズに鋳なおされ設置された。元はコンクリート製で、こちらは江田島の教育参考館にあるという。

五十六生家
戦災で焼失、戦後復元したらしい。

すっかり暗くなるが、地図で見ると米百俵の碑が近くにあるらしい。
近くに行っても、それらしきものなし。
発見。
俵が積んであるモニュメントかと思ったら違った。
その米を売った金で作った国漢学校跡地の碑。

もし100俵を三角形に積んだら底辺は俵何個か?
答え (-1+√801)/2=13.6 (14)
62歳でも辛うじてできた。
後ろに倒れて積めない、と答えるのは好きでない。

小林虎三郎は、象山門下にあって吉田松陰(寅次郎)と並び二虎と称されたほどの秀才であったが、藩主は継之助のほうを重用した。
北越戦争では、藩主牧野忠訓に従って東北に避難したから死なずに済んだ。藩主が藩知事になると、主席家老稲垣平助らを飛び越え、三島億二郎らとともに、家老職に匹敵する大参事になった。

米は三根山藩から送られた。
皆飢えていたが、藩士1200戸で割れば1軒2升にすぎない。虎三郎は、皆に我慢させ売った金で校舎を整え、明治3年6月開校。

駅に戻る。
長岡と言えば花火か。
へー、こんな頑丈なものから出るんだ。
ま、大砲の砲弾みたいなもんだからな。

ついに見つけた。本丸跡。
ほんとに駅前ロータリーの真ん中。

長岡というのは大都市でありながら豪雪地帯。
駅前の空中デッキがすっぽり透明な壁と屋根で守られ、チューブのようなものが四方に伸びている。

雨風に会わないまま、アオーレ長岡というところにいける。

広く大手通りに開いたオープンスペースでありながら、雪国に便利な屋根付きのイベント広場。
巨大。
中でもなく外でもない。
ナカドマというらしいが、土間はもともと中だから、正しくはソトドマというべきではないか? 
下に降りたら二の丸跡

なんか卒塔婆みたいなものに長岡の歴史が書いて貼ってある。
まだ何も書いていない板がいっぱいある。
市民の俳句コンクールとか七夕のお願いにも使えそう。
木が多いが、隈研吾とは少し違う。
と思って調べたら、これも彼だった。
広い階上のスペースにはテーブルがあちこちあり、帰宅途中の高校生がたむろしたり、勉強したりしていた。

ここには市役所も併設されていて、駅直結でこういうものがあるとは、長岡はいいものを持っている。
市役所の守衛さんが連絡通路との境にいらしたので聞くと、出来たばかりで(2012年)、もとは体育館とただの空き地だったという。

こんな立派なものが作れたのは、民有地でなかった城跡が戊辰戦争と空襲で二度にわたり更地になったという長岡の負の歴史のおかげであろうか。

いや、人口27万人、さいたま市の4分の1ながら、大学3つ、県立近代美術館、県立歴史博物館もある。士族、町民を含め、幕末以来の意識の高さと不屈の根性であろう。

2018年10月28日日曜日

長岡2 五十六記念館のお土産、ROOTS400

10月26日、次に行ったのは山本五十六記念館。
入場料500円。
200円だった河井継之助記念館よりスペースも展示品も半分くらいしかないのに、この値段設定はなんだろう。

展示は大部屋1つだけ。
年表、高野家の系図から始まる。

金曜の夕方、だれもおらず一人みていると、隅で静かに座っておられた年配の係の方に声を掛けられた。
彼女は丁寧に
「なぜ高野家からあるかといいますと・・・
名家山本家の断絶を惜しむ牧野公の意向で、将来有望な海軍士官であった高野五十六は31歳で継いだのでございます」
などと言われる。
面倒だなと思いつつ、うなづいていると、サービスは延々続き、仕方がないので戊辰戦争に参加した五十六の異母兄たちのことを聞いたり、こちらのペースにしようとしたら、なんとなく離れていかれた。

いちばんの見ものは、「持ち帰りプロジェクト」(何と直截な名前!?)で5回にわたる派遣(延べ36人)によってブーゲンビル島から回収した一式陸攻の残骸左翼。
1984年までジャングルの中にあったということが意外だった。

長門の軍艦旗もあった。
開戦時の連合艦隊旗艦、五十六との関係も深い。
戦後アメリカに接収され、核実験の標的にされ沈んでしまった。
軍艦旗がハワイの戦艦ミズーリ記念館から昨年2017年長岡市に寄贈されたらしい。
2.6x4.0m。
本物は迫力十分。

軍艦旗(旭日旗)にはいろんな大きさがある。
軍一巾(内火艇など)から軍八巾(戦艦の儀式用)まで。
一巾は昔の反物の巾で66.6cm(二尺二寸)。縦横は3:2。
ここにあったのは軍六巾、戦艦が戦闘時に掲げる旗であった。

見終わって受付の年配の男性に、この敷地は以前はなんでしたかと伺うと、職業安定所でした、と答えられた。なるほど。

山本家は城内、いまの北越銀行本店あたりだから無理としても、生まれた高野家はすぐ南の公園になっているから、なぜそこに建てなかったか。

などと話しをしているとき、先ほどの女性が奥にそっと入って行って、山本家などの屋敷がどこにあったか、日本画の鳥瞰図を持ってきてくださった。

見れば今年のカレンダーで、見入っていると
「もう終わりですが、よろしければお持ちになられて結構ですよ」と仰る。

ここで「ふつう鉄道というのは、町のはずれに作るものですが、ここはど真ん中、本丸をつぶすように作られています。これは何か、戊辰戦争と関係あるのでしょうか」
と聞いてみた。
同じ質問は、河井継之助記念館でも聞いたのだが、学芸員不在のこともあり、
受付の女性は
「一番標高が高かったからだと聞いたこともありますが、よくわかりません」
であった。

ここの方は少し考えて、
「焼け野原になって、食べ物もありませんでしたから、何も残っていない城内も畑になったと聞いております。ここは一部を除いて石垣もなく、土塁でしたから、そのまま崩して濠を埋めたのではないかと思います。大きな空き地があったということが一番の理由ではないでしょうか」
とおっしゃり、西軍の恨み、長岡市民の恨みなどと関係ないお答えで、納得した。

私が信州ということで、小諸の牧野家にも話が及ぶ。
話していると、再び彼女はそっと奥に行き、
「ここに書いてありますが、よろしければ」と小冊子をくれた。

長谷川泰を出せばすぐ済生学舎のことで話せるし、長岡病院の梛野直(良精の妹、保子の夫)のこと、石黒忠悳についても出身地を教えてくださる。長岡を何でも知っている方、二人を独占できる贅沢。

山本五十六記念館にいながら山本五十六の話はほとんどなし。
話題が変わるたびに、彼女は奥に入り、別の小冊子を持ってこられる。

4、5冊頂いたとき、「重くなりますが」と残りの号をすべて持ってきてくださった。
今年が長岡開府400年ということで、2016年5月創刊号からから今年5月の9号まで、平均2,3か月に1回発行されたROOTS400。A4版16ページ。

この夜、ホテルで広げる

「長岡中学の山本も、長野中学の栗林忠道も留学はイギリスやドイツでなく、アメリカでしたね。そういえば天下の三長中という言葉を長野高校で聞きましたが、あとの一つはどこでしょうね」
「どこでしょうね」
となり、
「長野県と言えば、山本五十六は兵学校入学時200人中2番でしたが、1番は長野の塩沢幸一という人です。養命酒創業者の家の出身で五十六の親友、堀悌吉と卒業まで首位を争ったようです」
と教えていただき、最後は五十六で終わり。
いっぱいのお土産を手に、お礼をして後にした。

(後で調べたら、天下の三長中の残り1つは、日露戦争の軍神、橘周太などを出した長崎中学のようである。)


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長岡1・小金井、河井継之助

薬史学会で新潟に行くことになった。
参加だけなら早朝出て少々遅れてもいいのだが、朝の講演を頼まれた。
会場でスライドチェックなどしたいので前泊とする。

ちょうど星新一『祖父・小金井良精の記』を読んでいた。
小金井家は、長岡藩主牧野家7万4千石の、三河以来の家臣。150石。

小さな藩であるから1000石以上の家老5家(稲垣、山本、牧野など)から、100~200石程の家臣(小林、河井、三島、高野、、)まで、みな長年にわたる養子縁組、婚姻などで親戚関係にある。

例えば小金井家も7代目良和は、家老の山本家の次男である。しかし山本家に後継ぎができなかったことから、山本家に戻り、良精の父となる8代目の良達は小笠原家から養子に入っている。
またこの8代目は小林虎三郎の妹、幸と結婚している。つまり星新一の祖父、小金井良精の叔父は、あの米100俵の人である。
小林家と河井家も親戚。

なお、こういう関係は明治、大正になっても続き、1915年、跡継ぎのなかった山本家に養子に入って継いだのは、31歳になった高野五十六だった。

星新一は、さすが読みやすい文体で祖父良精が子供のころ逃げ回った北越戦争から書いている。司馬遼太郎『峠』を久しぶりに思い出し、長岡に行ってみたくなった。

また、この本は、父の星一(星製薬、星薬科大学創設者)や祖母の小金井喜美子(鴎外の妹)でなく、東大解剖の初代教授、良精の伝記であることから、明治初期の医学界のことがよくわかる。

明治初期、まだ大学東校や東大で学んだものが一人前になる前、我が国の医学界で重要な働きをしたものをあげれば、佐藤泰然、松本良順らがいるが、医学校、医療制度の整備にあたり中心にいたのは石黒忠悳(1845 - 1941)長谷川泰(1842-1912年)、相良友安、岩佐純らであろう。
このうち、石黒と長谷川は長岡の人である。
以前ブログにも書いたが川上元治郎や、東大を出てのちの東京医科歯科大をつくった島峰徹(1877 -1945)も長岡である。
そうだ、江橋先生の師匠、田辺製薬の薬理の顧問でもあった熊谷洋先生もずっと後だが、長岡出身。

そんなわけで、ますます長岡。
10月26日、朝から慌ただしく仕事して、13:42大宮発の新幹線に飛び乗り昼食。
長岡にはじめて降りる。15時ちょうど。
駅ビルから一歩出れば、長野や新潟と全然違う。
広い歩道は車道より一段高く、上に大きくせり出した屋根、全て雪対策であろう。

商店街も飯山などによくある雁木。
これだけの近代都市で見るとは思わなかった。
長岡戦災資料館
まずここに入った。
長岡は昭和20年7月まで一度も空襲に遭わなかった。
ところが、7/20、 8:13、初めて長岡にB29が単独で侵入、1発だけ爆弾を落とした。原爆投下の練習をした模擬爆弾(パンプキン、長崎型)であった。7/26にも訓練があったが天候不順でうまくいかず、結果的に新潟は原爆投下地候補から外された。

しかし、8月1日、初の本格的空襲、無差別爆撃925トンの焼夷弾。
戊辰戦争で焼け野原になって、ようやく復興したのに、再び市街地の8割が焼け野原になった。死者1486人、と簡単に書けるが、1486以上の悲惨なドラマがあったことだろう。

DVDもすすめられたが、先を急ぐ。
歩いてすぐ目につくのは、道路のさび。
タイヤにまいたチェーンからでた鉄粉が原因であろう。
中央には溶雪パイプが埋まっている。
錆は壁にまで

次に向かったのは河井継之助記念館
120石の河井家に生まれながら、幕末の非常時に筆頭家老に抜擢される。
長岡藩というのは実力主義の開明的な藩だった。

長岡では明治以降、西軍に焼け野原にされたのは河井継之助のせいだと、彼をよく思わない人も多かったらしい。
辛い目に遭った人もなくなり、1966-68年の『峠』で見直されて郷土の誇りとなる。
市制100年記念の一環として記念館が2006年オープンした。

河井家の屋敷跡にありながら、二度にわたる戦火で当時の建物は何もない。





私はもともと熱心に展示品を見るほうではない。
二階に会津への避難経路のパネルがあった。

慶応4年5月の激突で城下は戦火につつまれ、女子供は、東へ東へ避難した。
小金井良精は9歳。
身重の母、兄、弟、妹と、着の身着のまま、山道を逃げ東の栃堀村に。
農家の粗末な小屋など借り、そこも危なくなるとさらに奥の塩谷村へ。
7月に味方は城を奪還するも、再び陥落、河井継之助も負傷、会津を目指して敗走が始まる。8月、あちこちバラバラに避難していた女子供たちも、敗残兵と合流、会津を目指す。

ここからがパネルになっていた。
途中、継之助は傷が化膿、目の前で下男に自分を焼く薪を組ませている。
平地8里を歩く10倍もかかるという八十里越え難所を空腹の避難民、負傷した敗残兵は越え、会津領の人々に助けられながら、若松にたどりつくころ、すでにそこも戦火につつまれ、長岡の人々は北の米沢を目指す。

秋深く、紅葉濃くも、飢えと寒さはいかばかりであったか。
米沢の上杉家は西軍との和議を交渉中ということで、留まれず、長岡の殿様が仙台にいるということで、旧暦9月には雪が舞うなか、さらに山道を東へ向かう。
仙台では寺に収容され、ようやく年末に和議が整い、長岡に戻るもすべて灰になっていた。

DVDは勝手にボタンを押してみることになっている。
壁には来訪有名人の色紙。ほとんどは誰だかわからない。
「今でしょ。林修」は読めた。
よく記念館の人は誰だか分かってお願いできたな、と思うようなマイナーな人もいた。
学芸員の方はいらっしゃらなかったが、係の人に聞いたら、庭の石灯籠は、継之助の父の時代からのものという。
隣のマンションの方まで河井家の屋敷地だったそうだ。
常在戦場をモットーとする三河武士は自分の家で野菜など作っていたようで、120石でも敷地は広い。一般の人の所有であったが、市が買って記念館にしたという。

暗くなる前に次に急ぐ。

なお、つぎのすけ、と読む。


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