2017年1月28日土曜日

アークヒルズ以前のスリランカ大使館

長女の結納で六本木のアークヒルズに行った。
18時前、サントリーホールの前、カラヤン広場は開演待ちの人々が時間をつぶしており、皆なんとなくおしゃれだった。

そのまま、結納会場の全日空ホテルへ行くには時間があるので、夜なのに散歩することにした。前回来たのは14年前の2003年、ANAホテルでのシンポジウムだった。その前この場所に来たのは42年前の1975年。このときはアークヒルズがなかった。

大学1年の夏、学生課の掲示板でスリランカ大使館の草取りというアルバイトを見つけた。4000円。当時の普通のアルバイト相場。
 農家の長男だったから草取りには東京の誰よりも自信があり、なんだかよくわからない大使館というものに入ってみたい気もあって行ってみた。お屋敷町の洋館という感じ。門の反対側に庭が有って樹木の間を独りせっせと草取りした。
 昼になり食事に外へ出た。
 崖のあたりは緑が意外と多く、静かで日差しがまぶしかった。教えられたとおり近くの細い階段を下り、食堂にはいってオムレツと厚切り鮭の昼定食を食べた。いつもの大学生協や寮食より少し豪華だった。
 午後も蚊に刺されながらひたすら草取り。途中声がかかり、クッキーと紅茶が出たが、庭で一人飲み、帰るとき2階に招かれ初めてスリランカ人の偉そうな人と握手して、アルバイト料をもらいサイン。ちょっと期待した英語を話す機会もなかった。

現在、大使館は高輪に移転。かつての場所はARKヒルズの開発で街並みどころか道路さえも変わっている。あの石段はどこだったのだろう。
調べたら、当時の区道と新しい計画道路が合わせて描かれた地図を見つけた。
よく見ると確かに階段はある。
アークヒルズとなる坂下、首都高に面したところは、航空写真だとめぼしい建物が何もない。地形が複雑なこともあり区画整理が進まず、震災、戦災にも焼け残った古い家屋が密集していたらしい。

2枚とも橋本清春ら:「赤坂・六本木地区第一種市街地再開発事業の概要」(1985)より

42年たってその場所に行くと、石段は広い車道になり、坂上の大使館の場所は、霊南坂教会の並び、いまの霊南坂ビルか、Blossom Terraceというマンションのあたりである。すぐ先はホテルオークラであり、アメリカ大使公邸があるせいか、ポリスボックスが二つもあった。

夏の静かな細い石段にかかっていた木は、緑の枝は覚えているのだが、何だったか。
イチジクだったような気もする。


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文京区保護樹木・サクラの剪定



2011年夏、初めて見たとき、あまりの大きさに驚いた。
何としても欲しくなった。
当時のGoogle航空写真がある。
自分の家の二階屋根を覆い、道を越えてご近所3軒にまで枝を伸ばしていた。

2011年秋、手付金を払うと、一人暮らしだった前の持ち主が売却を機に近所迷惑だったということで強剪定した。
2013年3月、依然として大きすぎるということで、私のものになってから初めての剪定。このときの見積もりでは80万円と出してきた業者があった。道が狭くて高所作業用の車が入らないから、足場を組んで4人でやるというのだ。しかし別の業者は28万でいいという。一度に切ると枯れるかもしれないから、少しずつ切るということだった。で、そこに頼んだ。

以来、毎年少しずつ低くしてもらっている。
落ち葉掃きも最初は夫婦二人で40分かかったが、今は妻が一人で30分。大樹の迫力はなくなったけれど近所迷惑を考えると仕方がない。

区の保護樹木なので剪定に助成金が出る。
半額支給だが上限があって、最初の年は28万かかったうち、限度額いっぱい6万円出た。しかし直径70センチ以上なら限度額は9万円ではないか、と申し出たら区から測定に来た。地上1メートルの高さで周囲が3メートルを優に超え、次の年から文句なしに限度額9万になった。ところが2014年は25万かかったのに予算がないということで1円ももらえず、我が家にとってはずいぶん金のかかるお荷物となった。

今年は2011年から数えると桜にとって6回目。見積もり14万円と言われたが、あまり切り詰めると葉が減りすぎて樹勢が弱りそうで心配になり、作業を小さくして11万円に負けてもらった。
この日は仕事を休んで1日付き合った。(要するに見物)
これだけ太くなると切り落とすことは危険なため、チェーンソーで切る人と、切り離される部分を持っている人、二人で上から少しずつ輪切りにして短くしていく。
たしかに足場を組めば楽だが、そんな予算はない。彼らはもっと高かったころは木に登っていたが、このくらい低くなると長い梯子でなんとか届く。


感心するのは、彼らは必ず梯子を木に縛りつけてから作業することだ。安全のためには決して手を抜かない。そしてかなり頭を使う。梯子をかけるにしても、作業しやすさと、寄りかかる枝の選択のために、上を見てずっと考えている。

梯子の上でもすごい。両手を使わねばならないから、両足を使って体勢を維持、体の位置を変えるときは、バランス感覚と柔軟性がないとだめだ。もちろん高所を怖がっては話にならない。正月の出初式の演技など彼らにとっては簡単すぎるのではないか。

こんなに短く切っても下に落とすと地響きする。1つ1つやっと運び出せる重さが、この大きさなのだ。
丸太は最初の頃、庭の椅子にしたり、敷石代わりに埋めてみたが、虫がわいたり、アリの巣になったりして、家に置くのは止めた。

休憩時、植木屋さんという職業について話を聞いた。
Tさんは造園会社にいたらしい。給料は安定するが、街路樹や公園とか公共の仕事は単純作業で、このまま一生やるのかと思ったら嫌になったという。それで独立。雨の日や風の強い日はできないし、収入は不安定になるが、一本一本毎年様子を見ながら手入れしていくほうが楽しいという。Fさんも独立しているが、仲間内で仕事を紹介しあったり、手伝ったり、ときには大使館などもいくらしい。皇居は奉仕団の人たちが切るという。

いずれにしろ、植木屋というのは将来なくなる職業らしい。
確かに木のある大きな家は代が変わると遺産相続で売りに出され、数軒に分割されて木どころか庭のない家ばかりになる。私の前の家(さいたま市)も松と桜があったが、業者に買いたたかれ、売った翌月には樹木をすべて切られ、分割されて二軒の建売住宅となった。

そのときの不動産業者の言葉
「今は住宅購入年齢が低くなっています。つまり年収が低い。広いと売れないんですよ。どうしても高くなる。それだけのお金を出すなら、狭くてももっと便利な所に買いますよ。今の人は松やサクラに興味ありません。それより駐車場です」。

正月、よく手入れされた松の見える門には日の丸が似合う。古くともそうした家は美しい。
貧乏しても、庭の植木のお金だけは工面しようと思う。


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2017年1月26日木曜日

初めてのブログは超簡単だった。

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12月、その前日まで頭になかったブログを突然始めた。
面白くて気が付けば1か月たっていた。
その日まで全く、やり方、始め方を知らなかった。

きっかけはOさんのブログを覗いたこと。

今年も年賀状を出さないので、年末の挨拶でもしようと思って。
写真ブログが面白かったのでコメントを残そうとした。
クリックすると記入者のところでログインを求められ、その通りしたら、ブログをはじめませんかという、グーグルの画面が出てきた。試しに指示のまま進んだらプラットフォームが自然とできたのである。作る気がなかったのだから、出来たというより、出来てしまった、というのが正しい。
テストという記事だけではつまらないので、書き始めたら、結構面白くて、どんどん書いた。
ゲームをしている妻とPCの奪い合いになった。
その間の私の失敗、気づいたことをメモしておく。

 1.無料ブログはどこを選ぶべき?


すでに選んでしまってから見たのだが、これはいろんなサイトで語られている。

さまざまにある。検索されやすさ、広告の入れやすさなどでAmeba、FC2がいいとか、いや、無料ではないが後々のことを考えたらWordPressのほうがはるかに良いとか。

普通の人が皆やっているのだからその気になればどれもできるはずだが、なんか面倒くさい。
私はグーグルのBloggerで良かったと思う。
作るつもりがなくても出来たというのはものぐさにとって最高である。これで金儲けするつもりもないし、そのままだと消えていく日常の記憶を残すには十分だと思う。将来孫が読んでくれればいいな。
無料なのに広告がない(自分で入れたアドセンスのみ)こともあり、画面がシンプルで見やすい。グーグルアカウントと連動しているから、メールを書くのと全く同じ感覚、同じ手間で記事を書いてアップできる。

2.ブログアドレスを途中で変えるとどうなるか?

 これはどこにも書いてないから、困った人もいるんじゃなかろうか。
喜んで書き始め1週間経ったころだろうか。ブログアドレスは管理画面の左側、設定の基本のところで簡単に変えられた。私は最初tkobay.blogspot.comにして始めたのだが、メールアドレスと似ているので紛らわしく、いっそのこと同じにしようとtkobayをtkobaysに変えた。問題なく変わったのだが、自分の記事をグーグル検索すると、すでに元のURLで登録されたものが検索されてきて、クリックしても「存在しません」となってしまうのである。
 リダイレクトで誘導しようとしたが上手くいかなかった。
記事を削除して新たに(新たなブログアドレスで)投稿しなおしても、やはり検索結果のURLは変わらなかった。結局あきらめた。
そのうち、よく見られる記事(自分でクリックしたものか他人がクリックしたものか不明)は、新たなURLで検索されるようになってきて、いつの間にか解決した。

3.検索でヒットしないのはなぜか?

せっかくアップしたのにグーグル検索しても出てこない。

検索順位が低いから出てこないのだろうか。いや、検索期間を狭め、そのページにしかないキーワードを入れても「存在しません」と出てしまうから、順位の問題ではない。まだ検索エンジンに感知されていないのかと思ったが、出るときと出ない時があって結局よくわからなかった。
あとGoogle-Bloggerのサイトで、インデックスされるようページのURLを登録する画面があったが、いま出てこない。ただしこれは有効ではなかった。


4.ブログをホームページのようにカテゴリー分けにできないか?

ホームページを作ればいいのだが、そこをなんとかBloggerでやってみる。
要は溜っていく記事が分類されて表示されればいいのである。
デフォルトだとアーカイブとして投稿日付順に並べられるだけでジャンル分けはされない。
ジャンル分けするためにラベルという機能があるが、ラベルを付けただけでは、多くのラベルが五十音に並び、そのラベルの記事数が表示されるだけで、ラベル一覧表の役割しかない。そこで

(1)   Bloggerのレイアウト設定を使う。
レイアウト画面を開き、「ガジェットを追加」を選び、編集を押す。そこでカテゴリー名をつけ、そこに入れるべきラベルを選べば、それらラベルが集められて画面に出る。例えば、「お出かけ」というカテゴリーを作り、その中に「ご近所」「近場」「遠く」という3つのラベルを入れて表示した。
(2)   目次のページを作る。
ホームページのようにタイトル一覧が出て、クリックするとそのページに飛ぶようにしたい。そのためには、「目次のページ」という記事を書き、記事を書くたびに目次のページにタイトルを追加し、リンクを貼ればよい。

5.広告収入を得るには

アドセンスは広告をクリックされるとお金がもらえるらしい。世の中には何百万、何千万も稼ぐ人がいるらしく、期待した。設定は簡単。管理画面に収益という項目があり、それをクリックして、アドセンスのアカウントを申請するだけ。13日に申請して、広告が載ったのは、114日。

 26日現在、広告クリック0回。ということは収入0円だが、ページビュー数からの見積もりだと4円ある。ページビュー数900回は、最初の頃、検索されるかどうかの確認と試行錯誤のため、自分で大分クリックしたから、おそらくその数が大半であろう。現在も目次ページにリンクを貼らなくちゃいけないから、ページ1枚できるたびに、そのページと目次ページを数回クリックしている。だから本当は誰も見ていないようだ。8000円にならないと振り込まれないというから一生お金はもらえないかもしれない。
 本格的にお金を取るには、皆が検索するような記事を書かねばならない。しかしそれは書きたいことじゃないから、金儲けは諦めた。

6.フェイスブックとブログはどちらがいいか


私にはブログの方が合っているようだ。昨年6月に始めたFBは結局数本書いただけだが、ブログは毎日のように書いている。

FBは、記事を書くと友達に連絡が行き、その中の優しい人がコメントしてくれる。すると、どうしてもパソコンの向こうに友人の顔が見えてしまい、思ったことが書けない。自分の書きたいことが友だちコミニティーの空気に合わないのではないかという心配もある。
その点ブログはいくら書いても誰も気づかず何の反応もない。暗闇に石を投げているようなもので、気楽に好きなことが書ける。
もっとも、何でも書けるわけじゃないけどね。


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2017年1月22日日曜日

第14 長井長義邸での運動会

長井博士の麦酒会
薬学雑誌 224号1073頁,1900(明治33年)東京地区通信欄

タイトルは運動会ではなく、麦酒会である。
例年のごとく10月6日青山の邸内にて開かれた。

「招待者は大学、陸海軍、衛生試験所の学士、技術官および屈指の実業家等、無慮六十余名。邸園内は色旗紅燈を以って飾られ、樹下に恵比寿ビール数樽を開き、会衆随意の快飲に任せ・・・・」.

木の下にビール樽を並べ、「開く」というのは、ふたを空けて飲んだのだろうか。気が抜けて美味しくないだろうと心配するが、冷蔵庫のない時代、また、ビールが今より珍しい時代、たいそうなご馳走であったのだろう。

2時を告ぐるや丹波博士,高橋(秀松)学士の指揮により運動に着手せり。
長井氏らの徒歩競争に始まり、戴嚢競争,一脚競争,提灯競争,スプーン,盲旗,徒歩2回競争,二人三脚,盲球,障害物,綱引き・・・・ .

半白頭、洋燈(ランプ)頭の博士学士連に至るまで一人も余さず競争をなし、あるいは徒走中途にして転倒、泥濘に「ツボン」を汚し(まだ袴が多い時代の貴重な洋服)、あるいは半途提灯の火を消し失望背走するものあり.(略)

4時頃、遊技終了するや賞品を笑声の裡に授与,洋食の饗応あり。散会せしは点燈の頃にて、折しも雨脚霏霏として、濡れ鼠の如くなりしものありしはこれのみ遺憾なり。

なお,入賞賞品にはタイトルがついていた.
「危篤の病人」は、牛脂が1升(九死一生,受賞者は山田董),
「最も需要多きろ過器」は、味噌こし(慶松勝左衛門),
「盲人の金貸し」は、氷砂糖(高利座頭,中村瀧次郎),
「妻君なき人」は、イチジク(無花果,むかか,長井氏息アレキサン),
「新しい空気」は、新しい茶碗と箸(食ふ器,丹波敬三),
「頼山陽の名吟」は、芫青(ゲンセイ:カンタリジン含む生薬)を36個(=4x9)(鞭声粛々・・・,近藤平三郎),
などだ。

このとき長井先生は55才。
渋谷駅のそば、今の薬学会館の場所に、屋敷地は9000坪あった。

第13 一高医学部薬学科のウサギ狩り

薬学雑誌192号198頁(1898) 千葉県通信欄から
 
明治19年の中学校令により全国に高等中学校が5つ、また各都道府県に尋常中学が作られた。前者は後のいわゆる旧制高校、後者は旧制中学である。
高等中学校は、大学予科のほかに学部設置が認められており,本郷弥生町に本部があった一高は付属の医学部を千葉猪鼻台(亥鼻)に置き,薬学科も明治23年併設された.

その8年後,立春も過ぎ,良く晴れた冬の一日,薬学科はこんなことをしていた.

「去る10日は寒余の降雪にて都鄙いずことも銀世界に化し知りぬれば,この好機を利用して兎狩りを催さんものと協議一決,翌11日学生の有志は先発として千葉町を去る2里余東南に方れる釜取村にと赴きぬ」

提案,即決、元気が良い。
鎌取村は外房線鎌取駅付近だろうか。6.5㎞、1時間20分である。

「その日は払暁いずれも得意の粉紫にて肩には猟銃ならずば張網の結束せるなどの品々携えられて一同は薬学部構内へと集合して7時というに出発したりき.
古屋、織田、松山の3教官は紀元節の拝賀を了りて直ちに式衣を解き、倶々徒歩に便なる軽装に支度なし、先発隊に追ふて猟場へと急行したり」

当時、紀元節式典は参加自由だったようだ。御真影を奉じて大変だったのは昭和に入ってからなのか。

「やがて鎌取村に至るや、はるかに喧囂駆逐の声を耳にす.余ら3人一茅屋について憩う間もなく、先発隊の面々は二三の猟師とともに大なる一兎を得て来たるに会ふ。ここに於いて衆皆,快と呼び,再び他の猟場にと歩をとり、駆逐すること以前の如し (中略) 
既にして日は西山に春き暮色昏々たり。此に於て一同帰途を急ぐの途,千葉町を距る1里ばかりなる生実山なんと呼ぶ処にて三度猟し,ここに一兎を獲て衆の意気は愈々揚り,路を鉄道線路にとり曾我町を経て帰校したり。時に夕陽は全く没し余の帰宅するや時辰八時を報ず」

生実山は、今の千葉市中央区生実町、鎌取駅と蘇我駅の中間にある。
当時漢字は色々な字を当てている。

2017年1月21日土曜日

冬の軽井沢は何もない

この寒い中、研修で職場の保養所にやってきた。
軽井沢駅から国道18号を西に向かう。
長野には年に3回、父の病気のときは毎月帰っていたが、新幹線にしろ、高速道路にしろ素通りばかりで、軽井沢は30年以上前かも。冬は始めて。

中軽井沢駅前の信号を右折。
現在軽井沢町となった浅間根腰の三宿(軽井沢、沓掛、追分)の真ん中だから沓掛駅が中軽井沢になった。いかにも観光客目当ての改名であり、これは私の生まれた1956年のこと。祖父母、親たちはずっと沓掛と言っていた。

保養所は千ヶ滝西地区。地図を見ると道が碁盤のようになっている。
1915年、堤康次郎が卒業したばかりの早大の学生服姿で村に乗り込み、1918年にかけて80万坪の斜面を取得、別荘地の開発に乗り出した。1928年朝香宮の別荘がたち、戦後の1948年国土計画がこれを取得、プリンスホテルとし、1950年から毎年皇太子時代の陛下が滞在したというが、64年以降皇室専用となるも、1994年閉鎖された。

ロビーに地元の自治会が編集発行した冊子「千ヶ滝西地区のあゆみ」(2014)が置いてあった。それによれば、現在千ヶ滝西地区は住民115軒、別荘1600件という。住民も古くからいる人は10軒程度、大部分は店舗経営者など越してきて20年未満、別荘も新しい人が多いらしい。それでも100年近い歴史をもつから、冊子に寄せられた思い出話には、作家など有名人とのエピソードが多くあった。
もともと人のいなかったところだから、浅間山麓に多い道祖神もほとんどない。

朝、凍てつく中を歩いたが、ほとんど景色は変わらず、人もおらず、冬の軽井沢はただの冬の林であった。大きな門、建物をみても表札から持ち主を想像する余裕もなかった。

帰り、高速道路から妙義の山の向こうに、明るい大地が広がっていた。
75年3月、受験で上京した時、白と黒の世界から碓氷峠のトンネルをすぎて関東に出たら、地面が乾いていて驚いたことを思い出す。



2017年1月20日金曜日

相手の悪いところを言い合う

ダンスの練習で今日も喧嘩。
そのあとは鏡の前でひとり練習。
鏡の中でちらちら相手の様子をみるが、こちらからは歩み寄らなかった。

そもそも、二人で組んで動くというのは本来不自由なものである。それなのに美しく見せるためには、昔から多くの、頭が良く、運動神経の良い人が考え抜いた方法を、繰り返し練習して、習得しなくてはならない。だから平凡な中高年が始めても上手く行くわけがない。

ワルツのナチュラルターン、男性カウント1で右足出す時に左ボディを前にストレッチする。
このとき彼女は
「こちらが後退する左足に体重乗る前に、男がストレッチすると押される」と文句を言った。私としては
「普段歩くときは、右足出すとき、右に体重のる前に左手が出るように、体重のる前に左半身が出たほうが自然ではないか?こちらが早いというより、そちらの後退が遅いからではないか」と。
珍しく反論したら彼女がその後一切話さなくなってしまった。

毎回のような喧嘩の理由はさまざま。
要するに私が一方的に機嫌を損ね、ついで彼女が黙るのだが、その原因は

1.一番多いのは、私の指摘を受け入れる前に、別の問題を持ち出されたとき。
例えば、こちらが「音に遅れている」と指摘したときに、
「わかった。でもそちらのコネクションの手が堅すぎる」と、いわれると私はむっとする。向こうも言いたくて我慢していたのかもしれないが。

2. どちらが悪いか分からないのに文句を言われるとき。
例えば、女性の動きが遅いから、強くリードすると、強引過ぎると文句を言われる。

3. ここが悪いと指摘されることが、自分の考えでは理屈に合わないと思い、納得できないとき。私が理詰めで反論すると彼女も自説を主張し、気まずくなる。

4。機嫌が悪くなると些細なことが気になる。
例えば、こちらが組んで踊りたくても、彼女がよそ見して(他人の動きを見学して)考えているとき。これは私が気が短い話というだけだが、さあやろうという気持ちが一致しないと面白くない。

喧嘩せずに練習できる日は、2割くらいだろうか。ほぼ毎回喧嘩する。
途中で相手が帰ってしまうこともあった。相手の悪いところを指摘しあうわけだから面白くないのは当たり前か。

冷静に考えたら、喧嘩している暇があったら練習した方がいいに決まっている。お金をかけ時間をやりくりして、二人の動きを合わせているわけで、それを無駄にしてしまう。

たいてい彼女の指摘は当たっていて、私の動きが良くなるように考えてアドバイスしてくれているのである。私が正しく動かないと彼女も動けない。

また彼女は遠くからわざわざ私の最寄り駅の練習場まで来て、終わったら満員電車で帰っていく。それを考えると申し訳ない気持ちになり、感謝しなくてはいけないのに、フロアではすっかり忘れて喧嘩してしまう。

60過ぎても子供の様に、些細なことで不機嫌になる。
人間はいくつになっても理屈よりも感情の方が優先される。
(むしろ年とともに強まるかも)

きょうは別々に帰ることはなかったが、駅まで一言も話さなかった。
土日月と三日休むから回復していれば良いのだが。

2017年1月17日火曜日

迷って大根初収穫、710グラム

一昨日、ダンス競技会の会場に妻からメールが来た。
 「鍋にするんだけど、白菜、どれをとればいい?」
 「小さいから二つ取らなくちゃだめだろう。一番混雑している所の、大きいのを取って下さい。」
しかし、混雑しているところの小さいのと、空いているところの大きいのはどちらを選ぶか? 
彼女はとくに迷わなかったらしい。

今朝、大根を前にして私は迷った。
間引きを優先するか?大きいものからとるか?
さらには、もう少し待ったら、もっと大きくなるのではないかと、この期に及んで抜くかどうかさえも迷う。

昔から迷う子どもだった。
専業農家の長男であったから小さいころから農作業をしたが、例えばリンゴの花つみ、摘果、葉摘みなど、どれを残してどれを摘み取るかで迷う。
いちいち聞いたりしたものだから、父は「お前は百姓に向いていないな」といった。

それでも中学の頃、後継者に関する農協のアンケートで父が
「継がせる気はあるが、本人が嫌なら仕方がない」と書いた紙を偶然見た。
嫌だといったことは一度もないが、高校でたまたま進学校に進んだため、成り行きで上京してしまった。そして帰らずに勝手に就職。
私は何も言わず、父も何も言わなかった。

優柔不断は60歳になっても治らないが、農業でなかったから、何とか生活はできた。

いろいろ見比べて、2本、抜いた。

宮重総太り大根。
甘く、尻の肉付きもよい。収穫まで60日と書いてある。前年より2週間早い9/4にまいているから、11月に収穫できるはずだが、非常に遅い。もったいなくて間引きが不十分だったか。
そろそろ化学肥料を使わないとだめだろうか。

葉っぱを切り落とすと610gと710g。
昨年はとった時期にもよるが、聖護院と合わせて、800gが1本、600以上が6,7本だった。

3月になると筋っぽくなるし、小さいのは長く待っても大きくならないから、どんどん見切りをつけなくてはいけないのだが、自分で育てると、つい成長を期待してしまう。

2017年1月16日月曜日

第12 チョコラーデの製法と衛生的検査

長崎 森川釖三郎
薬誌292号632頁(1906)より

 チョコレートが日本へ入ったのは1715年、オランダ語でショコラート、明治期にはドイツ語でショコラーデと呼ばれたと言われるが薬学雑誌にはチョコラーデである。1878年(明治11年)貯古齢糖の名で風月堂から発売されたが、「牛の血が混ざっている」と噂するひともいた。

 日本におけるチョコレートの一貫生産は大正時代(1918)、明治ではなく森永製菓に始まる.従って110年前はまだ本物のチョコを知らぬ者が圧倒的に多かった。偽物も多かったらしい.当時チョコには多くの種類があってバニラチョコ以外は国名を冠した名前で区別していた.それらの製法もこの記事の前半で説明している.

 「仏国チョコラーデ:華尼拉(バニラ)豆2個を砂糖と共に粉末となしたるもの及び善良砂糖1ポンドを柯々阿豆3ポンドに混和す」.また,西班牙(スペイン)チョコラーデは,甲乙2種類あって甲にはカカオ砂糖バニラの他に丁香,桂皮が,乙は甘扁桃が入っていた.華尼拉チョコラーデ(甲,乙)の乙には麝香も入っている.英国チョコラーデはカカオ脂が少ない.

 検査法はまず顕微鏡観察「エーテルを以って脂肪分を除去し,次に温水を以って糖分を溶解し去り残渣を久しく水中に振蕩し濾紙上に集めて澱粉混入等を検査すべし」.化学的検査は,1水分2脂肪3澱粉4糖分5繊維の重量比の求め方,6含窒素物としてテオブロミンとカフェインの定量法,7酒石酸定量,8偽物について書いてある.

 偽物は (脱脂した)カカオ殻,澱粉,穀紛,卵黄,ごまの他,カカオ脂の不足を補うため,牛脂,ヤシ油,扁豆油などを入れている.さらに白亜CaCO3,石膏CaSO4,朱砂HgS,鉛丹Pb3O4なども使う。とにかく板状,赤茶色,甘くて口中に溶ける物さえ作れば、それだけで十分ハイカラな西洋菓子だったに違いない.

 「有害なる銅を検出する簡単なる法は,チョコラーデ粉末に塩酸を加えて酸性となし之に研磨せる小刀を挿入し置くときは光輝ある銅を鍍金す」

第11 大阪製薬と大日本製薬(明治32年)

薬学雑誌 206号400頁(1899)ほか

 2005年10月,大日本住友製薬が誕生した。
 あれから11年も経ち、製薬会社に入ってくる若者でも大日本製薬のことを知らない人が多いと思う。当時、なんか窮屈な感じであっても大日本などという時代がかった名前が残ったのは,ちょっと嬉しかった。

 大日本製薬は、明治16年半官半民会社として東京に誕生した。
設立は、それまで高価で劣悪品も混じる輸入医薬品に頼らざるを得なかった我が国の悲願であった。
 一方,明治30年,道修町の有力薬問屋21社が,共同で大阪製薬株式会社を設立する.社長:日野九郎兵衛,取締役:田辺五兵衛、塩野義三郎、宗田友次郎、小磯吉人、小西久兵衛、上村長兵衛。監査役:小野市兵衛、武田長兵衛、谷山伊兵衛(薬誌1897年189頁)。同社は翌年10月,経営悪化していた大日本製薬の器械什器をすべて買収,栄光ある商標,社名も継承することに決めた(薬誌1898年1140頁)。

 翌32年(1899)4月15日,大阪市外,鷺洲村海老江なる同社製薬所で盛大な開業式を行う。連日の雨が上がり,天高くさえずるヒバリの声と満開の菜の花畑。人力車が続々と吸い込まれる門の外には,村人集まり,屋台が軒を連ねてお祭りのようだ。
 長与専斎・中央衛生会長,長井長義・薬学会会頭,菊池常三郎・陸軍軍医総監ら四百余人の来賓,迎える社員は二百余人。社長は来賓を一々奉迎所に迎え,徽章と順序票,業務案内書を渡して事務所階上の休憩所に案内,茶菓,ビールを出し,数人集まると技師が工場内を案内した。見学が終わると「嬋妍たる美女に擁さしめて之を模擬茶店ビール店団子店等数軒を構へたる春風賞観の遊園場に導きて優遇至らざるなし」

 21世紀になり、武田,塩野義の合併のうわさが出た。ここに大日本住友も参加したとする。外国人役員を入れてすっかり変質した武田は、もう社名に拘らないのではないか? 塩野義、住友を全部社名に埋め込むことはできないから、「大阪製薬」が復活するのではないか。
 更に妄想すれば、これも噂の出たアステラスと第一三共の合併は,アステラスが東日本だからと自社名に似た「日の出製薬」を主張する。そしてメガファーマに対抗するため、厚労省主導で大阪製薬と日の出製薬が合併する。
 このとき画期的な新薬が双方に生まれていて、世界3位くらいになっていればいいな。名前はもちろん「大日本製薬」。明治16年と同じ期待を込めて。

第10 紫キャベツとpH指示薬

標示薬として赤「キャベージ」の応用
―――Union Pharmaceutique, April 1906の文献紹介(石津)
薬学雑誌293号768頁(1906)より

110年前の薬学雑誌に新pH指示薬に関する外国文献紹介があった。
pHという語も、水素イオンという語もなく、ただ「標示薬」である。
昔はキャベツと言わず、英語に近いキャベージだったようだ。
(ふつうの人は、たまな、葉牡丹、かんらん)。

「普通市場に散在せる赤キャベージを細切りし、適度の水を加へて1時間煮沸し1日放置したる後、越幾斯(エキス)に作り乾涸し、酒精に溶解したるものにして、酸に対しては赤色を呈し、亜爾加里の存在には緑色を呈す・・・」

欧米の学術雑誌に紹介された研究は、いま研究室で顧みられることはないが、小中学校の理科で使うかもしれない。昨年の上尾、伊奈、桶川の子ども大学では、小学生を大学に呼んで、様々なpH 溶液を作らせ、そこにキャベツの抽出液を入れて色の変化を観察させた。夕食の紫キャベツに酸っぱいドレッシングをかけ、色の変化に気付いた人もいるだろう。

紫キャベツの色素成分は、植物の花や果皮などに広く存在するフラボノイド系シアニジンアシルグリコシドであろう。アグリコンcyanidinは、1915年クロロフィルやカロチンなど植物色素の研究でノーベル化学賞を受けたWillstatterによって構造決定された。まだ真島利行(1907~)、朝比奈泰彦(1909~)両先生がこの研究室へ留学する前でもあるせいか、見事なほど、本記事には成分の化学的な説明が一切ない。ただ、標示薬として熱に分解しないとか、燈火の下に於いても作業を誤認すること無し、とか、あくまでも実用的記事として書いてある。

本当にいろんな試薬が手作りの時代だった。
今は実験によっては、市販試薬どころかキットまである。パソコン普及で全てがスピードアップし、成果主義?では半年、1年ごとの成果を求められる。これでは、じっくりした研究は敬遠され、誰でも手軽に、簡単にできる(結果の予測できる)小さな研究が選ばれる。たぶん、キャベツの千切りをしていた昔の人のほうが実験の腕は良く、頭をゆっくり使って、思索も深かった気がする。
シアニジンアシルグリコシド(アントシアニンの一つ)の構造式(上)は、キリヤ化学のHPから拝借。
pH3.0で鮮明な紫赤色、pH5.5で薄い紫赤色、pH8.0で紫青色になる。

今は理科の実験として人気が高いらしく、アントシアニンという言葉は割と知られている。紅芋などからも簡単に抽出できる。

2017年1月15日日曜日

第9 明治32年の薬剤師国家試験問題

薬学昔むかし
薬学雑誌208号620-625(1899)

当時試験は年2回大阪と東京で行われた。
学科試験は5科目。6月8,9日東京での試験問題は以下のとおり。難しいのか簡単なのかよくわからない。合格率からすると難関である。

物理学 
 (1)物の重さは地面下に降るに従いて減却し地球中心にありては零なりといふ其理如何。
 (2)大気中の水蒸気の多少を検定する法
化学 
 (1)明礬の種類,製法ならびに性状 
 (2)アルコールの通性
生薬学 
 (1)安息香 
 (2)耶僕蘭日葉
植物学 
 (1)植物の蒸発器とは何ぞや 
 (2)十字科植物の特徴
製薬化学 
 (1)過マンガン酸カリの製法,性状,鑑識 
 (2)蟻酸の製法,性状,鑑識
133名出願、欠席20,途中退席14,試験完了99名。合格者18名。

この18名に加えて実地試験出願者11名で、6/14から4日間の2次試験が行われた。
 分析術 (担当、丹波)、
 薬品鑑定 (下山)、
 薬物精錬 (高橋),
 調剤術 (山田)、
志願者29名で途中退席2名,合格者16名。

一方、大阪の学科試験は6/1,2。
71人出願,合格15名。
物理学 
 (1)遠心力とは何ぞや
 (2)飽和蒸気の張力と温度の関係如何
化学 
 (1)砒素の検出法、アンチモニウムとの区別 
 (2)アルデヒッドの通性
生薬学 
 (1)攝涅瓦根
 (2)苦扁桃
植物学 
 (1)根と茎との区別および根の種類 
 (2)橙科の通徴およびこの科に属する薬用植物
製薬化学 
 (1) 金硫黄の製法に何種ありや,および其の方法の大要を問ふ 
 (2)斯篤利幾尼涅(strichinine)を香木鼈より製するの法如何

実地試験はなんと6日間、実地からの参加者11名を加え26名受験。
合格者16名の名簿には,士族,平民の区別がある。

薬学雑誌での関連記事は、
19号 第1回医術開業試験 浅草本願寺にて
27号 東京薬学校開校式
38号 p424 薬舗試験 (11-29号には薬舗試験なし)
49号 p135 明治19年東京医術開業試験
50号 p180 薬舗試験
95号 薬舗試験

明7年 医制 公布
明8年 京都における薬舗主試験で薬剤師第1号 山崎・薬と日本人 p81
明16年(1883) 医師免許規則及医術開業試験規則 発布
明22年(1889) 「薬剤師試験規則」公布。 薬舗主から薬剤師へ改称(前年から薬剤師会が各地で設立される)。

第8 黄血カリの製造にカイコのサナギ

黄色血磠塩製造にサナギの応用
在松山 村田康太郎
薬学雑誌 201号1069頁(1898)

県下ことに喜多郡においては養蚕の業,非常に旺盛にして穀野変じて桑田となり、野婦鍬を棄て卵紙を作る・・・

当時の論文は、みな書き出しが格調高い。
社会で習った北関東甲信だけでなく愛媛も養蚕が盛んだったようだ。卵紙というのは、カイコ蛾の卵が産み付けられた紙で、農家は業者から買った。

  斯くの如く隆盛なる製糸場より出すサナギ(繭を蒸殺し水中に煮沸し生糸を採繰し了りたる後,残留する蛹虫の死せるもの)の量も亦非常の多額に及ぶといえども当業者は其の利用の法を知らず.徒に無用の長物として否桑田の肥料として低廉の値を以って之を売却せり・・・・

えっ?私が子供のころ食べていたものを愛媛は明治31年でも捨てていたのか。
長野では、戦後養蚕が減り続け、最後の桑畑がリンゴやブドウ畑になる昭和40年頃まで、これを砂糖と醤油で煮てどんぶりに盛り,漬物と共に10時半と3時のお茶に出ていた。ドキョと呼んだ、あのグロテスクな姿と独特の味は50年以上たっても忘れられない。当時、我が家ではドキョの他に、ハチの子や、薪を割って出てくる芋虫も、鉄なべで炒って食べた。飢えていたわけではなく、別に食べなくてもいいのだが、珍味として喜ばれた。
佐久の方では鯉のえさにしていらしいが、いまでも高速道路のPAなどで売っている。

さて、さなぎの有効利用法として目的製品の黄色血磠(滷、ロ)塩とは、黄血カリ、K4[Fe(CN)6], potassium ferrocyanideのこと。
当時、死肉乾血毛皮蹄角などの動物性廃棄物を、溶融せる炭酸カリに加え,得られる蔵化加里に鉄クズなどを加えてつくっていた。 
本論文は、製造収率と,費用や製品の窒素含有率を分析し,蚕のさなぎを他の原料の場合と比較している.柔らかい蛹は特に操作の簡便さ,燃料の節減において優れており最も有望であると主張している。

黄色血磠塩は、KCNや顔料プルシアンブルーFe3+4[Fe2+(CN)6]3の製造原料だった。
黄血カリは今NaCNから作るから、原料と製品の立場が逆になっている。
当時の薬学雑誌は殖産興業に貢献する薬学者の記事が多い.

1/15 武蔵野カップとMSA

目標 
  ・ミドルシニアスタンダードA級維持
    ・武蔵野カップ(非公式戦)ラテンは上位半分を目指す。

技術的目標
    ・スタンダード:右ひじを張り、右脇に空間を作る。こうするとラインがきれいになるだけでなく、左回転でも女性を右で押さなくなる。
    ・ラテン: 手をおろそかにしない。部分練習でできていることを、競技でも実践する。

三鷹駅からバスで武蔵野体育館は、2012年以来5年ぶり。
当時は、KYさんのつぎにTIさんと組んだばかりで、最初の競技会。
1年半休んだのでC級からD級に落ちていた。その日は、それまで持つことを拒否していた携帯電話をついに買ったばかり。バスの中で使い方を教えてもらったことを思い出す。
その後TYさんTKさんときて、今のIYさん。ずいぶん昔のことのように感じる。


で、結果。
ラテン武蔵野カップ。非公式とはいえ、今後を占う1戦だったが、早々に敗退。1週間前と同じということは、これが実力か。

スタンダードMSA。若者はまったくいないからチャンス。上位40%に入れば、クラスを維持できるのだが、ステップを間違えたりして、全く目標通りに体を使えず、25組中16位。
もうダンスを止めた方がいいのではないか、と再び思う。

目標は何か? 
上位クラスで上位に入るのは物理的に不可能。
また、競技ではなくて練習場で美しいと思うように踊れることも、皆私より美しくて、これも不可能。
考えられる目標は、同じ年代、同じ境遇のライバルに勝つこと、しかしこれもむなしい。他人と比較したら、満たされることは永遠にない。では、自分だけを基準に、できなかったステップができるようになっただけで喜ぶべきか。

それだけのために、こんなに犠牲にしていいものか?

投資と見返りを考えたとき、もし企業経営、株、戦争、とかなら、とっくに撤退すべきものである。
しかし、どうしたらいいか分からない。

答えは先送り。
A級戦は2/5(立川)にあり、その日は今のところ用事がないのだが、今回がっくり来て戦意喪失、申し込まない。2/12のラテンBでも申し込もうかな。

2017年1月14日土曜日

翻訳あとがき・目次



新薬誕生--100万分の1に挑む科学者たち
(2008-July-03)

20210514 なぜ日本の製薬会社はワクチンを作らなかったか?
20190424 製薬企業ランキング2019 武田とBMS
20180707 武田、シャイアー選び道修町去る
20180416 医薬品売上ランキング2018年版
20180415 製薬企業ランキング2018 武田とシャイアー
20170715 製薬企業ランキング2017年版
20170501 医薬品売上高ランキング2017年
20170222 武田、ミレニアムのデボラ・ダンサイア
20170205 高すぎる薬価4・ではどうしたら良いか
20170205 高すぎる薬価3・オプジーボのこと
20170204 高すぎる薬価2・製薬会社の言い分
20170201 高すぎる薬価1・利尿薬サムスカ
20161224  製薬企業ランキング 世界編

Diseases --人類を襲った30の病魔 (2010-Jan-12)
20171205 コレラ菌を自ら飲んだペッテンコーファー

セレンディピティと近代医学--(2010-Mar-10)
20170319  忘れられているスペンサーの微小球体
20170313 ポストイットは偶然ではない
20170114  カビ餅とコッホの培地
20161217  ゴキブリホイホイのヒント

モーツァルトのむくみ--(2011-Apr-10)
20170304 『モーツァルトのむくみ』の続編 
20170301 結論がないと怒る人たち
20200415 ボルチモア・翻訳とポーの墓


スパイス・爆薬・医薬品--(2011-Nov-25)
20191010 高校生に構造式を講義した

サルファ剤、忘れられた奇跡--(2013-Mar-08)
20170819 サルファ剤7・太平洋戦争は薬でも負けた
20170813 サルファ剤の日本登場6・医学中央雑誌
20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌

第四の大陸--(2015-Aug-07)
20240320 神楽坂2 日本出版クラブ会館「洋書の森」と翻訳

千駄木菜園(庭・植物のみ)・目次

千駄木菜園 (総合)目次

千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次



20210309 啓蟄に出るのは幼虫か成虫か
20210222 キャベツ苗をいつ植えるか。冬に枯れないニラ。
20210216 畑の造成、コロナ禍の結婚式
20210210 サクラの剪定9年目、家の風格より菜園優先
20210203 氷点下でなくても霜柱、2月2日の節分、
20201217 植物のツルの巻き方、右まき、Sまき、Zまき
20201115 大根初収穫、キャベツ発芽
20201104 大人だけの芋ほり会
20201013 桜のベッコウタケはサルノコシカケだった
20200928 白菜、人参、ほうれん草が育たない
20200927 イチジクがカミキリムシに食われ枯れた
20200909 サツマイモの芋虫、エビガラスズメ
20200822 梅雨で弱ったネギを干して夏越し
20200820 サツマイモの蔓を食べる
20200710 文京区にもハクビシンか? トウモロコシが
20200625 ナスのハダニ、消毒前の初収穫
20200622 梅雨の桜に巨大なベッコウタケ
20200621 サツマイモの親苗からつるをとる
20200528 クルミをきれいに割りたい
20200522 苗をあちこち移し、畑の造成
20200520 根を傷めぬようオクラの苗を分割
20200512 ネギはどうやって増えるか
20200507 ミカンと文化勲章、橘とミカン属
20200505 ロビン剪定、トウモロコシ発芽、ナスに行灯
20200411 コロナで家庭菜園がブーム
20200408 白菜は冷蔵庫で1か月保存
20200405 ダイコン保存法、地中に埋めて冷蔵庫
20200404 桜満開後の積雪とコロナ患者数
20200316 株ネギを植えた春の庭
20200301 切り干し大根を作る
20200223 ネギの成長、ふきのとう
20200220 庭を畑にする歴史
20200211 サクラ保護樹木とプロの植木職人
20200131 旧暦で春の七草を探す
20200101 巻かない白菜を縛ってみる・2
20191211 パプリカの越冬、山芋、ニンジン
20191119 生ごみからの長芋を収穫
20191119 挿し木いろいろ・菊、ペピーノ、ロビン、ネギ
20191111 落花生は洗うべきか
20191025 ネコブセンチュウ?にショック
20191008 信州のひたし豆とは何か?
20191006 大根の虫、ナスを抜いて白菜定植
20190920 コガネムシの幼虫が増えるわけ
20190918 ハクサイ、大根は余計にまいて間引く?
20190912 ヒキガエルが生きていた
20190826 抜け殻からセミの判別
20190814 ミョウガ、トマトは豊作
20190812 ほうれん草は夏に発芽せず
20190729 記録的長梅雨でネギが腐る
20190717 長い梅雨にトウモロコシ収穫
20190709 株ねぎの栽培とネギの種類
20190707 息子の結婚式でスピーチ
20190624 憎きネコが鳥の巣を襲って
20190623 入梅後の菜園、ラッキョウ収穫
20190603 キャベツとレッドロビンの剪定
20190519 エンドウ青虫にスミチオン
20190512 ミカンが咲いて消毒
20190512 ひたし豆と落花生をまく
20190506 五月連休の菜園
20190505 ツワブキとミョウガタケを食す
20190428 山芋、ナガイモ、自然薯の違い
20190423 青虫、ヨトウムシの卵
20190421 腹の赤いハエが発生
20190414 ナス、キウリを植える
20190412 春の大根の保存法
20190410 開花から桜吹雪まで
20190325 トウの立ったアブラナ科
20190310 啓蟄すぎてハコベを食べてみ
20190303 モミジの根を掘ったら巨石 
20190227 アブラナ科とは何か
20190226 キャベツ苗の本植え
20190225 雨水のころの菜園
20190218 モミジを切ってもらう
20190127 大根の移植
20190102 冬野菜の収穫とワタ
20181219 イチジクが生ったが
20181216 日本のツタは2種類
20181215 干し柿の白い粉と冬野菜
20181126 ほうれん草が何者かに食われるので
20181126 干し柿の白い粉
20181124 パパイアの根を食べてみた
20181111 冬野菜の育ちと綿花など
20181102 落花生の収穫時期
20181101 青パパイヤを味見する
20181025 柿の種はどこ? 断面を見る
20181015 黒豆の枝豆は黒くなかった
20181001 台風一過、パパイヤとイチジク
20180929 いたずら猫への恨み
20180925 前の古家が解体されて
20180923 大根、ほうれん草は発芽したが
20180911 スベリヒユ食べて、秋の種まき
20180825 生ごみから出る芋、カボチャ
20180814 ワラビの畑と荒れる農地(長野)
20180730 キャベツ、3年間の害虫
20180715 受精しなかったトウモロコシ
20180710 日陰で育つ野菜、ミョウガ・ウルイ
20180627 ナス、キャベツ収穫
20180608 大豆腐敗のアリと傷口の蛆虫
20180604 剪定、ナス、トウモロコシ、ニンニク、
20180603 今年もアゲハの幼虫が
20180520 モロッコ地植え、落花生発芽、大豆は腐敗
20180428 フキの葉っぱを縮めるアブラムシ
20180422 保温のマルチのビニールは黒か透明か
20180420 いい店見つけた!ビバホーム
20180404 ウルイと奥信濃の常慶院
20180401 桜満開の下のコゴミとドジョウの記憶
20180324 老いた桜も満開
20180319 フキ、ニラ、野沢菜、サクラ開花
20180315 豆苗を土に植えてみた
20180225 啓蟄、春キャベツ地植え、ニンジン処分
20180225 鍬代わりのスコップが折れた
20180211 文京区の補助停止と桜の剪定
20180204 大根9本収穫、スーパー小売値調査
20180127 大寒の、雪の下から巨大根
20171224 暮れの庭と生姜冬越し
20171224 息子の彼女と千両
20171126 柿の剪定と7年の回顧
20171126 生姜の収穫、白菜、大根
20171101 イチジク支柱、今年も冬野菜発育悪し
20171101 落花生を収穫、塩茹で
20171008 白菜苗の地植えと大根植え替え
20170924 枝豆の二期作、結果
20170924 アゲハの幼虫と鳥の糞
20170918 山芋のムカゴとラッキョウ処分
20170909 命の大切さの教育、動物愛護と毛虫
20170908 冬野菜の種まき。白菜、大根、ほうれん草
20170827 トマトのネット解体、夏野菜終了
20170820 大豆、実がならないまま処分
20170724 大豆の二期作(とった種をすぐ植える)
20170721 食卓の谷中生姜を食べずに植える
20170719 文京区でヒョウ2・一夜明けて
20170718 文京区でヒョウ1・妻から急報
20170714 朝の庭、倒れた苗にヨトウムシ
20170709 生ごみカボチャが暴れている
20170702 レッドロビンの剪定
20170628 トマト豊作だがスイートトマトは甘くない
20170624 枝豆はいつ蒔くべきだったか
20170624 6年前の密林のような庭との比較
20170611 ナス、ピーマン、大豆の苗が多数
20170604 繁茂するフキを煮る
20170528 菜園の三大雑草
20170531 秋まきキャベツ、ようやく収穫
20170527 野沢菜の花と種取り
20170520 ラッキョウの収穫
20170514 育ちすぎたニンジンの葉を食べてみた
20170430 10年以上前の種の発芽
20170429 コガネムシ幼虫は手でつぶせるか
20170422 棕櫚を切った後のミカンが発芽
20170422 4月22日朝の庭
20170409 5年目の桜満開2017
20170323 発見、新しい野沢菜づけ
20170317  穴を掘ったらヒキガエルと烏瓜
20170313 3月13日朝の野菜たち
20170226 フキノトウが2種類?
20170226 満開の白菜をひもで縛る
20170220  半年がかりのザクロ抜根
20170201 秋まきキャベツと冬野菜のようす
20170128 文京区保護樹木・桜の剪定
20170117 迷って大根初収穫、710グラム
20170109 白菜、時間切れ初収穫
20161226  サボテンの耐寒性
20161224  スミチオンとマラソン
20161224  12月の野沢菜2
20161218  宮重大根、12月


千駄木菜園(総合)目次

カビ餅とコッホの培地

長野からもらってきた餅にカビが生えた。
暮れの30日についたものだから、16日経っている。おやつ用に大学に持ってきて冷蔵庫に入れっぱなしだったから気が付かなかった。
しかし捨てるわけにはいかない。
食べ物を捨てることと、家庭菜園の収穫物を無駄にすること(優先的に使わずにスーパーから買ってくること)には異常なほど抵抗感がある。

自然科学者として、「皆捨てるから」、「ふつう食べるものじゃないから」という理由は納得できない。学生時代、水野伝一先生が「私は床に落ちたパンでも平気です。汚いという意味を考えてください。」と言われたことをずっと心にとめている。

カビの美しい色というのは共役二重結合が伸びた化学物質ができていることを示す。これは肝臓で酸化されてエポキサイドができやすいから、大量に入れれば高分子と結合し肝炎、へたするとガンになる。
ただし私は動物実験からこのくらい食べても大丈夫だと思う。しかし、かび臭いので削ることにする。削っても白い菌糸は内部まで入っているが、これは毒性がないものと思われ、体内で繁殖することもないので食べる。

さて、この色鮮やかな斑点。
19世紀、ロベルト・コッホが、この餅と同じようにジャガイモの切れ端に生えた色鮮やかなカビを見た。その斑点1つが同じカビのコロニーになっていることに気が付き、固定培地を思いつく。日本の寒天を使った培地を工夫した。多種雑多な細菌の混合物でも希釈してここにまけば、別々のコロニーとなり、単一の細菌が得られる。

ライバルのパスツールが無菌培地に微生物が発生しないことを示した時にフラスコを使っていたように、当時は液体培地で実験していた。これでは病原菌の単離が難しい。ごく少量とって新たな培地に移し、繰り返すことにより純化できるかもしれないが、不可能に近い。
コッホの研究室から続々と病原菌が単離され、ノーベル賞受賞者のベーリング、エールリヒや北里など、多くの著名研究者が育った要因には、このかびたジャガイモがある。

固定培地の発見こそノーベル賞ものだが、誰もが目にするありふれた光景だから、賞にはしにくい。
しかし、これこそ偉大なセレンディピティの典型であろう。

『セレンディピティと近代医学』では、コッホが初めてジャガイモを使ったかのように書いてあるが、1872のJ.Schroeterが先である。しかしジャガイモでは栄養成分が変えられないから生える菌が限られる。コッホはゼラチン培地を考えたが、37度で溶けるばかりでなく、菌が増えても溶ける。

それを解決する寒天は、「オランダ領東インドに赴任していたある同僚の妻から教わった」(p51)とあるが、彼女はコッホ研にいたWalter.Hesseの妻である。彼女もコッホ研で実験助手をしていたからジャムやフルーツゼリーに使っていた寒天を教えられたのである。
彼女はアメリカで育ったドイツ人で、母親がアメリカでジャワで暮らしたオランダ人から教わったようだ。いずれにしても、ジャワからドイツまでは遠い。コッホは頭もよかっただろうが、運も良かった。


千駄木菜園 総目次

有明の月(2) 鉄道唱歌と奥の細道

有明の月で真っ先に連想するのは鉄道唱歌。
何年か前、愛宕山に初めて上ってから口ずさむようになった。
名曲だと思う。

  汽笛一声新橋を
  はや我汽車は離れたり
  愛宕の山に入り残る
  月を旅路の友として

 ところが、4年前に千駄木に越して、上野谷中が身近になってから、有明の月というと奥の細道も浮かぶようになった。

  弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、
  月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、
  上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
  むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
  千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、
  幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
     行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」で始まる序文は高校の時習った記憶がある。しかし、このすぐ後に続く、上野谷中が出てくる道中初日の文の記憶がない。教科書に載っていなかったのか、当時上野谷中に関係なかったから頭に残らなかったのか・・でも千住の句は古い記憶にある。

いずれにしろ、昔の旅立ちに有明の月は舞台装置のように使われている。
今は月を見ることがない。
都会では見えないし、田舎では車の運転に余裕がない。


千駄木菜園 総目次

有明の月(1) 日の出、日の入り

1月14日、西日暮里駅の朝6:45。
ちょうど開成の上に満月が見えた。

写真を撮ろうとしたが、映らず、人間の目はすごいなぁと思いながら、いろいろ試みているうちに電車がホームに入り、月の撮影は断念。
もっと暗いうちに撮らなくてはダメだな、明日早起きしようかな、なんてネットで暦を調べてみたら、
(気象庁HP)
  東京2017年1月14日(土)
  日の出   6:50
  日南中時   11:50
  日の入り  16:50
  月の出   18:54
  月南中時   0:52
  月の入り   7:50
  正午月齢 (15.8)


そうか、こんなに明るくても日の出前だったんだ。

日の出が一番遅いのは、冬至ではなくて正月明けである。
これもちゃんと調べると
                    日の出 日の入り
   11/26 6:27  16:29
  12/ 5  6:36  16:28

   12/21  6:47  16:32(冬至)
   1/ 7  6:51  16:44
   1/14  6:50  16:51

つまり冬至を過ぎても、夜明けはさらに遅くなるのである。
一方、夕方は日暮れが遅くなって明るくなった気がするが、確かに冬至より19分、12月5日より23分も午後が長くなっている。

これに初めて気が付いたのは高校生の時。
信州中野から長野市まで通っていた。正月休みが終わって、また暗いうちに起きるようになったら、休み前より暗く感じた。冬至が過ぎたら明るくなるはずなのに、と思っていたから、調べたら確かに日の出時刻が遅くなっていて驚いた。
さっそく地球の自転と公転を図に書いてみて、なるほど、と喜んだ。
賢い子供なら中学生でも解けるだろうが、今の子は忙しくて朝の暗さなど不思議に思ったり問題にしたりしないだろう。

あの感激を家族に経験させたくて、この問題を出したいが無理である。
妻は「そんなの私に分かるわけないでしょ。今テレビ、」。息子はたぶん「めんどくさい、わからん」とスマホ、キンドルから目を離さず、仲の良くない長女は私を無視するだろうか。次女は毎晩帰りが遅くて、年明けてから1,2回しか見ていない。


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