2024年1月30日火曜日

信州中野、岩水神社、新生病院の元日

能登半島地震で始まった、長いような短いような1月が終わろうとしている。

2024年1月1日朝、つまり元旦にひとり帰省した。

大宮発7:49のあさま自由席は1車両に数人しか乗っておらずガラガラだった。
しかし長野電鉄、9:53発の特急スノーモンキーは驚くほど混んでいて、ほとんど外国人観光客だった。

10:25信州中野駅着。
彼らは終点湯田中まで行くから降りる人は2~3人だったか数人だったか。沿線で一番大きな駅の一つがこれである。いかに地元の人が電車に乗らないか分かる。
駅から家まで歩いて550メートル、8分だが、早く着いてもコタツにあたっているだけだから遠回りしてみた。何十年ぶりかの道だった。

1989年、リンゴ畑だった駅西側の区画整理と橋上駅化(西口開設)が完成した。私は1975年に上京したから、住んでいた頃は東口からぐるっと、駅の南北に2つある、どちらかの踏切まで遠回りしなければならなかった。
北の踏切は、まだ記憶に残らない頃、よく電車を見たいとせがんで連れて行ってもらったらしい。
そこへ行ってみようと歩き始めたが、途中で引き返す。
10:33
北の踏切から家に向かう道。
左は線路、右は東和医科器械製作所(現・東和)

東和の現会長、尾島和夫さんは1997年から2003年にかけて存在した「ふるさと中野テクノ会」の幹事で、私が会議や講演などに呼ばれたときなど、いつも二次会、三次会まで接待してくださった。

左のフェンスは、もっと昔、タールを塗った枕木に、鉄条網が張ってあった。
1960年代だろうか、母の実家、柳沢に行く途中、彼女は支度に手間取りいつも電車がぎりぎりで、踏切まで回る時間がなく、その鉄条網の破れから入った。そして線路の上を私の手を引いて走り、ホームに上がってから駅舎に行って切符を買っていた。
10:33
道がカーブするところの空き地。
昔から鉄条網に囲まれた長野電鉄の空き地だった気がする。
10:34
左の道は線路に沿って南へ、右は岩水神社の裏にいく。
この三つ角の向かいは黒岩君の家。

彼は山の内町から転校してきた。岩船部落は通学区の東端、田舎と都市部との境であるから転校生はたいてい都市部の南宮中学に行く。しかし彼の家は、確か父上が農協の理事だったからか、珍しく農家ばかりの中野平中学に来た。妹の秀子さんは私の妹の数少ない友人の一人だった。
彼の家は入口が50年前と場所が変わっていて、空き家になっていた。
10:34
駅の裏の道
この道は私が小学校のころ、60年代終わり、リンゴ畑に住宅が建ったころ開かれた。

その住宅ができる前は、駅(線路)のすぐ裏までリンゴ畑であり、道らしい道はなかった。駅側の斜面にはネビロ(野蒜の転訛)が生えていて、大きなクルミの木が何本かあった。
そのネビロと草の土手にはコカ・コーラの空き瓶などが捨ててあり、酒屋に持っていくと10円で買ってくれた。その草むらには、ときに成人雑誌も捨ててあった。畑と田んぼと近所の家しか知らない子供にとって、駅の裏の畑は、なにか未知の世界に通じるものだった。

駅側の斜面に登り口ができている。
10:35
登ってみると駅の構内で、中野駅から分岐する木島線の線路跡が枯草に埋まっていた。木島線は母の実家に行く路線だったが2002年に廃止された。
10:36
進むと右に大堀君の家があった。
小学校6年のとき、リンゴ畑が住宅地になって、そこに引っ越してきた。
彼は同じ岩船でハトをたくさん飼っていたので、2匹だけ飼っていた私はよく遊びに行った。すいぶん大人びていてベトナム戦争の話などしていたが、中学になる時、中野平中学ではなく南宮中学に進学して、それっきり。
10:38
ここはまだ一面リンゴ畑だったころ、フォスター電機という会社の工場があった。
裏の畑のほうに融けたプラスチックの塊とか大きなスポンジ、発泡スチロール、ときには磁石のついたスピーカーなどが捨ててあり、農産物しか知らない小学生には魅力的な場所だった。いまフォスター電機は影も形もなく、新しい道路に一般住宅が建っていた。

お宮のほうに行くと町田憲一君ちの工場があったところが、いわき総業とアパートになっていた。

神社の横に公園ができていた。
10:40
岩船北公園。初めて存在を知った。

10:41
岩水神社本殿
初詣での人がいないせいか、あるいは肌寒い天気のせいか、元旦の晴れやかさを感じない。
それとも自分の気持ちのせいだろうか?

小学校高学年の3年間、岩船の部落を将来背負って立つと思われた3人の長男は村祭りで獅子舞を踊った。年に一度、私はその年の産子惣代(うじこそうだい)の家で剣をもって舞い、次の山浦正隆ちゃんは区長さんの家に場所を移し御幣をもって踊り、最後はみんなでお宮に来て、町田憲一君がこの本殿で鈴を両手にもって獅子を舞った。
3年目の小学校6年生のとき

普段から境内にはよく遊びに来た。
何人かいるときは三角ベースなどもしたが、そうでないときは何をしていたか思い出せない。蟻地獄の穴を掘って虫を探したり、早朝羽化する直前のセミをとりにきたときもある。
社地の両側は藪と大きな穴になっていて、窪地の茂みに入っていくとよくボールが落ちていた。あるとき私は草に絡まりカビの生えたキャッチャーミットを拾った。
10:42
境内から参道をみる。
昔は洞に乞食が住み着いたほどの杉の大木があったそうで、私の子供のころも切り株が残っていたが、いまや切り株どころか周りの木々も、道路(右)と宅地になってしまった。両側の林と窪地は私有地だったのか、区(岩船)が売ってしまったのか、知らない。
10:44
岩水神社の鳥居と石柱は区画整理で参道が半分に縮まったとき、本殿に近いこの場所に移された。鳥居は狛犬とともにその時新調されたようだ。
60年ほど前、腰ベルトをつけピストルをもって石柱の台に上がる。

昔を思い出すと、ここで遊んでいた頃、大人だった人はほとんど亡くなってしまった。

ーーーー

こんなつまらない文章をここまで読む人は、公開しているとはいえ、誰もいないと思うので、さらに私的なことを書く。記録として。

元旦、急に帰省したのは母の見舞だった。

弟夫婦がずっと在宅介護してくれていた。だいぶ前からほぼ寝たきり。
床ずれ、膀胱炎を繰り返していたが、1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞を起こしてから見当識が怪しくなり、5月に帰省したときは誰が誰だかわからなくなっていた。
11月に急性腎盂腎炎で発熱、北信病院に入院した。熱はなかなか下がらず、自宅に戻せば数週間しか持たないといわれる。

コロナ以降の規定なのか、病院での面会は同居家族だけという。弟嫁がラインで動画を送ってくれた。呼びかければ反応はするという程度。

12月2日、我々が行くのに合わせ病院が母を一時帰宅させてくれた。寝たきりのまま介護タクシーに乗せられてきた。意識はあるのかどうか不明。

もう91歳で、ほとんど眠っているので胃ろう、人工呼吸はせず、自然に、安らかに過ごしてもらう、と我々の間で決めた。しかし北信病院では看取りはできないといわれ、主治医から転院を勧められた。治療はしない療養型病床のある、飯山の日赤、上今井の佐藤病院、小布施の新生病院が候補という。

12月8日、キリスト教系、看護師の優しいと言われる新生病院に転院。
ここで点滴が静脈から皮下経由になった。血管に針が入らないから皮下注射になったというが、そんな急に入らなくなるだろうか? 看護師の腕にそれほど差があるだろうか? 今までのところが刺せなくなったら場所を変えて刺すだろう。
血管でなく皮下点滴だとそれほど輸液は入らないから体力はもたない。実際、弟たちは医師から1か月くらいと言われたらしい。しかし私は何も言わず。
ここは北信病院よりもっと面会が厳しい。同時に2人まで、10分間。
4人で来たら特別に2人ずつ5分交代で面会できる。基本は月~金、土日は要相談という。
次回の予約目安は1週間程度というが、1日4組限定ではそれも難しいのではないか?
コロナのせいだろうか? 都会ではもう(少なくとも病院外では)コロナによる制限はないのに。

実際に12月15日に弟夫婦が面会すると次は23日という。
私はその日バイト先の畑で正月用しめ縄作りイベントを仕切らねばならないため行かれず、その次の面会に行くことにした。
しかし次の面会は年末は無理で10日後が目安となり、年が明けた1月6日に私が行くことになった。しかし皮下点滴になって1か月近く、医師の言われた「限界」に近い。もつのだろうか?

弟たちが1月6日では危ないということで電話してくれ、1月3日に面会予約が取れる。
しかし12月31日、弟の嫁さんから電話。危ないからと病院に呼ばれ、急遽翌日1月1日、14:30に面会してもよいことになった。

そこで元旦の朝、帰省したのである。
面会の人数に制限があるため私は一人で来たのだが、浦和の妹は二人の息子を連れて到着した。
元旦で飲食店は開いていないので、寿司と唐揚げのテイクアウトで昼食。
時間を見て帰り支度をした我々4人を弟が小布施の新生病院に連れて行ってくれた。
14:40
新生病院
1932年、カナダ聖公会から派遣されたスタート博士により開設された結核療養所を前身とする。正面には十字架が掲げられている。

私がここを知ったのは20年くらい前か。モーグルスキーの森徹を扱ったテレビ番組である。野沢温泉村のスキー選手一家に育ち、飯山北高を出た後カナダ留学、1994年に国内大会で優勝、95年にナショナルチーム入り、96年ノースアメリカンカップ・ディアバレー大会で優勝。しかし活躍が期待された地元開催の長野オリンピックの半年前の97年9月、スキルス性胃がんが発覚。手術を受けたため長野五輪は断念、ソルトレイクを目指したが病状の進行は速かった。五輪直後の98年春には治療断念、新生病院のホスピスに入った。発覚して10か月、この年7月に死去。25歳。テレビでは小布施の花畑の中を、家族に車いすで押される姿が映っていた。
14:41
かつては至る所にあった体温センサーを久しぶりに見た。
病院だからか。
元日のせいか、受付にもどこにも人の姿がない。

廊下に中島千波の絵が何枚も飾ってあることに高校時代美術部だった妹が気付いた。
彼は父親(中島清之)の疎開先であった小布施で生まれたらしい、と弟が教えてくれた。
14:45
3階に上がると職員詰め所にようやく人が見えた。
面会者名簿など記入して、係の人が準備するのを待つ。係の人はとても丁寧で、これがキリスト教の病院のせいなのか、今の病院では普通なのか、分からない。

今まで点滴は一日500ccだったが、もう入らない(体が受け入れない)ため、入れると浮腫になるため200ccに減らしたと説明された。

母は2000年1月、68歳のとき軽い脳梗塞になった。
救急車を呼ばず父が車で北信病院まで連れて行ったら待合室で待っているうちに麻痺が治ってしまったという。幸い後遺症は全くなく、スタチンと抗血小板薬を欠かさず飲んでいたが、まったく普通の健康な生活に戻った。
2010年2月に父が亡くなっても一人で庭の草取りや、絵を描いていた。
しかしいつからか脚が痛くて歩くのがおっくうになり、すべり症と診断された。絵などもだんだん描かなくなった。同居する弟家族とは台所、居間が別だったから、ひとりで帰省して母のコタツに入っていれば「何食べたい?」と精一杯ごちそうしてくれたのだが、いつしかテレビを見るだけになり食事は弟夫婦のほうに行くようになった。

2017年11月、85歳の時、脳梗塞が再発。突然、自分からは話さなくなった。言語中枢がやられたのか、「薬」とか「お薬手帳」という単語と実物を一致させられなくなり、私が「薬はどれ?」と聞いても現物を指せなくなった。たまたま私が帰省しているときで、こちらが驚いていろいろテストする様子に本人も戸惑っていた。事の重大さに本人もショックだったかもしれない。

自分で話すことはなくなり、話しかけると、そのまま言われたことを繰り返したり、「そうだなぁ」と言ったりしてごまかすようになった。文字も、自分で記入していた毎日の血圧の数字すらも書けなくなった。
すべり症で下半身がしびれていたのか、脳梗塞で排泄神経がダメになったのか、あるいは尿意を感じても歩けなくてトイレが間に合わないのか、おむつをするようになった。

世話をする弟たちも大変だったが、本人も苦しい数年間だっただろう。
そして1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞。右半身がマヒ。
もう私のことは分からなくなった。

・・・・
さて、元日の新生病院。
ストップウォッチ型タイマーを残り10分に設定されて渡され、それを首に下げて病室に案内される。
15:06
小さくなった本人は目をつぶっていた。
眠っているのか起きているのか、そういう区別はあるのかどうか。
眉間にしわが寄っていた。
苦しいのだろうか。まだ意識があるとしたら悲しい。

点滴バッグは空っぽだった。
あとで聞けば、朝200cc入れたらしい。
もう500は入らないというが、入るのではないか?
点滴を皮下にしたのも、点滴量を減らしたのも、病院の方針だったのではないか?
1か月間かけて家族に死を受け入れさせ、患者を神のもとに送る措置だったのではないか?
誰にでも訪れる死である。
もう十分生きた人である。
こういう状態で1分1秒でも長く、という気持ちは私にない。
点滴に異論を唱える心は、もちろん起きなかった。

・・・
3歳のころ
6、7歳ころか。母、弟と祖母

小学校のころ、夏休み、冬休みの宿題の絵日記は、母がみんな先に絵をかいてしまい、私はそれに合わせて文を書くだけだった。

今、私は67歳だが、自分の子供が生まれた時のことはよく覚えている。おそらく90歳になっても可愛かった子どもの姿は忘れないだろう。女親は余計そうだろう。

彼女は私のことをずっとかわいがってくれた。
しかし私はあまり親孝行しなかった。とくに彼女が病気になってからは帰省しても弟のほうにばかりいて、十分相手をしてあげなかった。

そんなことを考えながら小布施から電車に乗った。
権堂駅まで来たとき大きな地震があった。何とか長野駅には着いたが、寒い中3時間以上、駅構内で行列に並び続けるなど、その日は帰宅するのに難儀した。

能登半島地震のニュースが連日放送されている、1月4日、母は亡くなった。


2024年1月28日日曜日

ミカンを食べるムクドリ、ツグミ、ヒヨドリ

ミカンがどんどん鳥に食われるので、木に残っているもの全て収穫した。

前日までに156個とっている。
(そのうち鳥に食われていたもの、ハチに刺され?腐りかけていたものが23個。)
2024-01-23
この日はミカン56個。鳥に食われた5個

つまり、2023年は1本の木で212個生ったということ。
363個とった柿ほどではないが、なかなかの数だ。

教科書的には葉っぱ20枚に1個くらい生らすように摘果しないといけないのだが、そのままにした。
その結果、大きさはバラバラだが数はふえた。
光合成の糖分が分散されるならば味が心配だったが、例年と同じく、市販品と比べても甘み、酸味とも十分よかった。
2020年に初めて5個生って、2021年64個、2022年は77個だから、飛躍的な豊作である。
収穫の終わった温州ミカン
今年は柿がなくなったころから鳥害が著しく、1月になって遅ればせながら
1.5メートルx5.0メートルの防虫ネットを2枚縫い合わせ、上からかぶせた。
しかし縫い方が雑であちこち隙間すなわち穴があった。
ある日、鳥が入ってバタバタしていた。瞬間的に捕まえようかとかいろいろ考えたが、とにかく急いで写真を撮ろうと思った。家に駆け込みスマホを手に戻ってきたがまだ暴れている。しかし枝葉の陰になったりして、なかなかいい写真が取れない。そうこうしているうちに穴を見つけて飛んで行ってしまった。
2024-01-23
この日はパプリカもとった。
ミカンや柿と似たような色をしているが、鳥は食わない。
もし嘴で突いてもいないなら鳥は賢い。

ミカンを食っていた鳥は何だろう?
スズメより大きい3種類が考えられる。
画像はすべてwikipediaから
上からムクドリ、ヒヨドリ、ツグミ
いずれもスズメ目に属するが、その下位分類である科では独立し、3つの科の和名はその名を冠している。

外見で区別するとき、分かりやすいのは一番上のムクドリ。嘴と脚が黄色。
ヒヨドリは頭髪がトサカのように立っていて、ほほに褐色部分がある。
ツグミは目の上の眉毛の部分が白い。

ムクドリは地方によってはモズとかツグミとか別種の鳥の名で呼んでいるところもある。北信濃ではリンゴなどを食べる、こういう鳥を総称して「モクドリに食われる」と言っていた。
雑食性で、植物の種子やミカンなど果物、地面に降りて歩いて虫などを探すこともある。
群れをつくり夜は一か所に集まってねぐらを形成する。東上線の朝霞などのロータリーの樹木に集まってうるさく鳴いていたのを思い出す。

ヒヨドリは秋には国内暖地に移動する「渡り」が観られる。糖分を好むから花の蜜や果実を食べる。

ツグミはシベリアで夏繁殖し、冬になると日本にやってくる。夏にはいなくなり鳴き声がきこえなくなるから口をつぐむと思われ和名になったとされる。雑食で、昆虫、果実などを食べる。

我が家に来たのはどれか、写真をとれなかったから記憶で判断するしかないのだが、なんとなくヒヨドリのような気がする。

来年度はちゃんと防虫ネットを縫い合わせ、食われないようにしたい。
しかしその半面、あの鳥が何であったかはっきりさせるため、防虫ネットに穴を残し、ミカンを犠牲に捕まえたい気持ちもある。

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千駄木菜園 (総合)目次

2024年1月19日金曜日

壬生城郭・城下町図、精忠神社の干瓢

1月10日、壬生にきた。

壬生城址公園にある町立歴史民俗資料館を訪ねたのだが、運悪く臨時休館だった。
晴れていたが北関東の冬は寒い。城址は見るべきところも大してないので本丸跡にたつ町立図書館で時間をつぶすことにした。
館内に入ると係の人以外、利用者は一人か二人。
14:51
壬生城本丸跡に立つ図書館だけあって、城の本が多い。
驚くのは分類識別のラベルが「城」となっていることだ。
こちらには佐野城、小山城、宇都宮城、長福城など栃木県の城の調査報告書などがある。
当然壬生城もある。
14:52
「壬生城郭・城下町図」(壬生町立歴史民俗資料館編)
閉館だった歴史民俗資料館ではこういう図をいちばん見たかったので嬉しい。
壬生城は6つの曲輪からなる。
同心円状の本丸、二の丸、三の丸の東に東郭、南に下台郭、北に正念寺曲輪がある。
郭と曲輪を区別しているが、堀に囲まれたのを郭、囲まれていないのを曲輪としたのか、よく知らない。
三の丸、東郭、正念寺曲輪には侍屋敷が並び、下台郭は足軽小屋があった。この絵図で足軽は侍ではないということか。
現在の市街地に合わせたもの。
追手門(大手門)は東郭の東にある。前に馬出のようなものがあった。駅から歩いてきた蘭学通り(壬生街道、日光西街道)と大手門通りの交わるところ、つまり足利銀行と淀川肥料店のあったところである。
今の大手門通りは当時の大手門から西に東郭を突っ切って、三の丸の北、二の丸門の前に至る道をそのまま使っている。
壬生小学校は三の丸の東部分と下台郭にある。二の丸の西部分に精忠神社。
他の城地の多くは民家となった。

明治の廃城で住民は保存を選ばず、残ったのは本丸の南の堀と、北と西側にわずかに残る土塁(段差)だけだった。平城というのは斜面、崖がないから、きれいに宅地、田畑に転換できる。

前のブログで壬生城の城主に少し触れたが、この城郭図の本によくまとまって載っている。
15:18
1462~1590に壬生氏5代の時代があり、小田原征伐後に結城領になって廃城。
関ヶ原のあと、結城秀康が越前に転封されると1601年から日根野吉明、阿部忠秋(福山藩阿部家ではなく、白河藩・藩祖)、三浦氏3代、松平輝貞(大河内松平家、知恵伊豆の孫)、加藤氏2代と続いた。
そして1712年、鳥居忠英(ただてる)が近江水口から3万石で入封。忠宝(ただとみ)が版籍奉還するまで鳥居氏7代の居城となった。

年表を読むと、城地を払い下げたあと残った本丸に鳥居家の隠居所があったらしいが、昭和2年に落雷で焼失、そこへ戦後になって壬生中学校を建設した。壬生中学は1981年、本丸跡から移転。歴史資料館、図書館や公民館はそのあとに作られたようだ。

城址をもう一度歩きたくなって図書館を出る。
南の二の丸から入る本丸門のあったあたりの脇に石柱が立っていた。
16:10
壬生藩領榜示杭
「従是南 壬生領」側面に「下野国都賀郡 家中村」とある。
街道筋にでも立っていたのだろうか。
家中(いえなか)村は合併して都賀村、都賀町となり、2010年栃木市に編入された。

公民館、図書館の裏に回ると神社があった。
16:15
精忠神社
祭神は鳥居氏祖、伏見城を死守し自刃した鳥居元忠である。
16:16
神社に似つかわしくない造形物があり、近づけば
「干瓢伝来三百年記念」
横には多くの商店、会社の名前が彫ってある。栃木は干瓢が有名とはいえ、こんなに業者が多いのだろうかと感心した。しかし、なぜ壬生なのか?なぜこの神社なのか?
300年と言えば江戸時代である。

上に乗っているのは原料のユウガオだろうか? 私の知っているユウガオはもっと細長い。
ユウガオの生産は9割、干瓢は98%が栃木県だというが、50年前の3%までに激減したらしい。そういえば干瓢巻きよりかっぱ巻き、納豆巻きのほうをよく見る。確かに干瓢はなければないで困らない。

ふと、右(東)の奥のほうに大きな石碑が目についた。
行って見るとなんと、またしても干瓢。
16:18
堂々と「干瓢発祥 二百五十周年記念」
栃木県と干瓢の関係は分かるが、なぜ壬生か、なぜこの神社なのか?

16:18
石碑の横は「城内ふれあいファーム」
スイカとトマトの絵が描いてあるが、畑の畝がなく、草すら生えていない。
ヤギでも飼っているのかな?柵があるし、ふれあいだし。

帰ろうと思って戻ると大きな石碑が南に向いてある。
日清日露戦役の戦没者慰霊碑だろうか? それとも戊辰戦争の壬生藩士の慰霊碑か?
16:20
正面にまわってみると「頌徳碑」とある。慰霊碑ではなかった。
しかし誰を顕彰したのかすぐ分からない。
16:25
陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次閣下篆刻
 で始まる。次の行の
鳥居浄泉公追遠記
がタイトルか。
もっと読んでいくと、
浄泉公、諱は忠英、龍見公・諱は元忠の玄孫なり。公は廟を立て龍見公を祀る。即ち精忠神社なり。公は領内の物産乏しきを憂い、旧領江州木津村に於いて瓢の種を取り、郡吏・松本茂右衛門に命じ、これを黒川東西に蒔き始めさす・・・国中耕地三千余町、年産額百万余貫、販路は拡大し遂に海外に及び、我が邦重要物産下野干瓢をなす。・・・二百年後、精忠神社境内に有志相謀りて碑をたて公の徳を表す・・・・昭和十二年四月

なんと、この碑も干瓢だった。
そして栃木の干瓢の碑がなぜ壬生のこの神社にあるか分かった。

この日は栃木市の高校で大麻・覚せい剤に関する講演がある。
16:48の電車に絶対乗らなくてはいけないので壬生城をでた。

大手門通りから蘭学通り(日光西街道)に出る。
ここがなぜ蘭学通りか分からない。
医院があった。
16:36
松本内科医院
奥のほうに立派な門がある。駐車場を通って近づくと、国の登録有形文化財であり蔵は文庫蔵と案内板にあった。
16:37
松本家の板塀はずっと奥まで続く。
ここは蘭学通り、松本家は蘭方医だったのだろうか?
(帰宅後調べたら、壬生で本陣役を担った松本家の分家筋で、蘭方医ではなかった)

駅近くの三叉路でとんがり屋根の家が2軒見えた。
16:39
とんがり屋根の壬生交番と火の見やぐら。
16:40
もう一軒、お洒落なとんがり屋根
喫茶店かケーキ屋かと思ったら、「焼肉もりもり」と看板にあった。

壬生は平坦で丘がなく、つまり斜面の樹木がなく、道路は車社会に合わせて広い。つまり城下町という雰囲気はない。かといって現代的でもない。商店や人が少なく、静かに眠ったような町だった。もっとも、本丸と城下が残っているぶんだけ、本丸が堤防に侍屋敷が畑になった関宿城よりマシか。


2024年1月17日水曜日

壬生という地名、歴史館前の宥座の器

1月10日、薬物乱用防止講演で栃木市の学悠館高校にきた。

三部制の定時制高校である。二回話すことになり、午後時間が空いた。
栃木市は巴波川に沿った蔵の街。散策に適するが、2017年に歩いたことがある。
そこで近くの壬生町に行くことにした。
栃木駅からは新栃木で東武日光線から宇都宮線に乗り換えねばならないが、1時間に2本程度あり、16分、261円で行ける。車両はワンマンカーでドアは乗客がボタンで開閉する。
14:02 壬生駅
自動改札ではないがSUICAが使えた。

壬生は気にはなっていた。
京都・壬生の新選組屯所については、20年ほど前、出張先のKRPに行く朝、壬生寺の境内を通り過ぎたことはあるが、下野壬生については全く知識がなかった。

壬生とは変な地名である。ウィキペディアには「水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味する」とあるが、それなら水戸のように水生と書けばいいではないか。こんな字は壬生以外に書かない。だいいいち「壬」を何で「み」と読むのか?古代朝鮮の任那(みまな)はニンベンがあるけど。
ここで壬申の乱を思い出した。「壬」は十干、つまり甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の9番目。陰陽五行説の木火土金水の9番目は水の兄、みずのえである。ここから壬をミと読んだか?

さて、下野壬生が気になったのは、千駄木に引っ越してから近所を歩いていて本郷通りに江岸寺を見たから。三河以来の徳川譜代大名、鳥居忠政が建立し、彼の墓もある。父の元忠は関ヶ原前哨戦で伏見城を2千人で守り4万の大軍を相手に奮戦、戦死したことで知られる。江戸大名としての初代・鳥居忠政は山形22万石であったが、長男・忠常は後継を決めず死去、改易された。しかし祖父の功績を考慮され異母弟が3代目として高遠藩3万石で家名を残され、5代目忠英が近江水口から壬生に転封され、以後、明治まで壬生藩は鳥居氏8代が治めた。
この江岸寺には子孫の鳥居忱( まこと)の墓もあり、彼は箱根八里の作詞者である。

次に壬生が気になったのは2か月前、第20回全国殿様・藩校サミット2023が文京区で開かれたとき。壬生藩は全国最大の16人の関係者を送り込み、また第18回大会の主催地でもあった。これは行かねばならない、とその時思った。
14:03
駅前広場に壬生タクシーという会社はあるが、タクシーはいない。
人もいない。店もない。とても城下町に思えない。
14:06
歩くと少し動きのある通りに出た。
壬生街道(県道18号)だが、「蘭学」という旗が通りに沿って下がっている。
電柱を地中化し、しゃれた街灯にしたが、北関東らしく車社会であるから道路が広く(新しく)、樹木もなくてあまり風情はない。
14:08
「壬生城 大名最中 大師塩羊羹 なからい」という看板。
笹の家紋のようなものが見える。鳥居家の家紋は鳥居笹だが、ちょっと(だいぶ)違う。
閉まったシャッターは汚れていて、営業していないように見える。

車は通るが、歩いている人は少なく、商店街ではない。
これが壬生一番の通りだろうか?
14:10
なからい菓子店の隣は営業していないどころか廃屋に近い。
「喜沢屋質店」「壬生金融株式会社」という看板。
質店と金融会社は同じなのか別なのか?
14:12
しかし、いったいどこが蘭学通りなのか、全く分からないまま歩いているとICHIKAWA ENGLISH HOUSEという英語教室があった。これでは英学通りである。

蘭学通りと大手門通りの角、足利銀行の向かいに立派な木造商店があった。
14:14
造り酒屋かと思ってみると淀川肥料店とあった。
肥料のほか農薬、米麦の集荷を業とされているようだ。

大手門通りは壬生街道から直角に西へ向かう。
壬生小学校の体育館がお城のような屋根をもっていた。
道路端に新しい石碑があったので見ると、
14:18
壬生論語教育之礎 藩校 学習館 故址
正徳三年(1713)正月創立
とある。
下の説明を読めば、全国260の藩校のうち、10番目に古いという。
2021年の全国藩校サミット開催地を記念して建てららしい。

小学校の向かいは城址公園になっている。
14:20
駐車場なども屋根付きの塀で囲み、城址らしい景観を作っているが、人工的な新しさに風趣がないことは否めない。
14:21
公園正門
建造物はどれも新しい。
14:22
典型的な平城である。
しかし石垣や石段、斜面、老木が生えて崩れた土塁などの古い遺構がなく、アスファルトの駐車場や整備された植え込みなどの雰囲気は、まるで田んぼの中に作った体育館、運動公園のようである。

案内看板を見ていたら、屋外スピーカーからメロディーが聞こえてきた。カラスが鳴くから帰りましょうといった夕方の放送ではなく、「箱根八里」のメロディーであった。
なぜ箱根八里か、町外から訪ねた人で分かる人はあまりいないであろう。私も近所の江岸寺に行っていなかったら気づかなかった。

ちゃんと説明板があった。
14:26
作詞者、鳥居忱は壬生の出身としか書いてない。箱根八里は「中学唱歌」の中で人気が高かっただけでなく、明治期を通してもっとも歌われた歌の一つとある。

鳥居忱(まこと、本名は忠一。1853-1917)は、藩主家の出身ではないが、父は藩祖の鳥居元忠につながる壬生藩江戸家老・鳥居忠敦(志摩)である。大学南校でフランス語を学び、また外国語学校にも入っている。明治15年(1882)、音楽取調掛(後の東京芸術大学の前身)を首席で卒業。直ちに助手に採用され、1891年和漢文と音楽理論を受け持つ教授となった。生徒の中に瀧廉太郎がいた。箱根八里は滝の作曲である。

14:25
壬生城は室町時代なかば、文明年間(1469-1486)に壬生氏第2代・壬生綱重によって築かれたとされる。
戦国時代、壬生氏は北条氏についたため、1590年小田原征伐で滅んだ。その後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。結城氏が越前に転封された後は多くの譜代大名が2万石から3万石で入った。

というような説明板には城址公園を整備する前の古い写真があり、それは空堀の土の斜面に木が生えている。
14:27
しかし、1989年公園として整備されたのは水をたたえた立派な石垣の堀。
子供にはお城らしいかもしれないが、明治維新の廃城時の面影はない。壬生城は本来、石垣もなければ天守や櫓などもなかった。明治の壬生では保存を考えなかったようで、本丸をのぞいて宅地や畑となり、堀も本丸の南を除いてすべて埋めた。

堀をわたって本丸跡にはいる。
中には中央公民館、図書館、歴史民俗資料館がある。

室町時代に近世の平城のようなものはなかったから、当初は(例えばこの本丸部分だけの)壬生氏の館のようなもので、後に堀、郭を増やして城郭にしたのであろう。
14:31
壬生町医師会による「種痘医 齋藤玄昌翁碑」があった。
下野近代西洋医学の先駆者、とあるから、駅から歩いてきた蘭学通りに屋敷があったのだろうか?
14:32
壬生町立歴史民俗資料館

ショック!
展示替えのためこの日だけ臨時休館している。

歴史資料館なのに「壬生論語 古義塾」という堂々とした看板が掲げられていた。
小学校のフェンスにも論語をもつ子供たちのイラストがあったし、壬生に論語は特別なのだろうか? それを聞くべき資料館が閉まっているのだから仕方がない。

ふと振り向いたら足元に水槽がある。
みれば壷のようなものが鎖でぶら下がっていて、宥座の器という。
14:33
「宥」というのは宥和政策のように穏やかに許す、なだめる、という意味だが、座右に置いて戒めとする器という。
空のときは傾き、程よく水を入れると水平を保ち、さらに水を入れるとひっくりかえる。孔子が桓公の廟でこの器を見て弟子たちに「満ちて覆らないものはいない」と中庸、謙譲の徳を教えたという。

私もひしゃくで水を汲み、少しずつ器に入れて確かめた。
水平になってから徐々に傾き、ざばあーんとひっくり返る。
このひっくりかえる瞬間のインパクトと装置が面白くて、肝心の教訓まで思いが至らない。

その代わりに、孔子以前にこの器があったなら、この教えも有名だったはずで、孔子が出る必要はないではないか?なんて思う。

そばに作者のパンフレットがあった。見れば館林の工房「銅司」針生清司氏の作。
氏は1938年生まれ、20歳で建築板金業を始められる。宥座の器は、教訓はあっても現物がないことから製作をこころみた。試行錯誤を13年、1992年に完成したという。2004年、孔子直系77代子孫・孔徳成氏にも寄贈したとか。(2550年前の孔子から77代というと1代33年か、とつい計算した)

これで何度も水遊びするわけにもいかず休館中の歴史資料館のほうを見ると中に人がいる。
14:36
入り口のドアは動いたのでパンフレットでももらおうと入ってみた。
しかし何もなく、窓口の奥の人も来訪者に気づいているのかいないのか、声をかけられない。このまま二階の展示室にも行けそうな気もしたが、階段を上がるのは憚れた。
ふと階段下に何かごちゃごちゃしたものがある。
14:39
覗くと埴輪がある。壬生は古墳が多いことでも知られる。
古墳時代というのは稲作が始まった時代で、稲を作るには給水・排水が可能な斜面地が良い。だから関東平野でも真ん中より北西部の山に近いところから開けた。壬生は黒川と思川が山から出たところに作った複合扇状地の末端部にある。

階段下には埴輪のほかに、「論語検定」ののぼり、車いす、角材、また鎧、兜などが置かれていたが、説明板がないとただのガラクタと同じである。

資料館が休館で当てが外れ、16:48発の栃木行き東武電車までどこかで時間をつぶさねばならない。冬の午後の太陽は小さくて弱弱しく寒い。
幸い隣が町立図書館である。
14:41
図書館に入るとまたもや書架案内の下に宥座の器。
「虚則攲 中則正 満則覆」
壬生というのはずいぶんと論語に関するものが多い町だ。
(続く)

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