2017年12月31日日曜日

記憶の大切さ。自分史と年表を作る

1年前、2016年の末に、「61回目の冬至」という文章を書いた。
単なる物忘れの話だが、同時に記憶が失われていく心配、恐怖も感じた。

あれから1年、ブログを書き続けた理由の一つに、記憶を固定したいという思いがあった。日々の出来事を記録するだけでなく、積極的に過去を思い出して文に起こす。
お出かけしたら必ず、前回来たときのことに触れたり、しばしば若かったころを書くのは、そのためだった。

人間、一番の財産は何か?
お金、土地という人は少ないだろう。
健康とか家族と答える人が多いだろうか。
若者なら友人というかもしれない。
しかし一番大切なものは記憶ではないか。

もちろん記憶とは、受験で覚えた年号とか英単語のことではない。
もっと基本的なもの、祖母に優しくしてもらったこととか、父親に怒られたこととか、初恋とか、蜂の子の味、雷の音、山羊小屋の臭いといったものだ。

これらは、生きていくうえでの自信になったり教訓になったりするだけでなく、自分の性格を決め、自分を定義するものだ。
なくなったら自分が自分でなくなる。
最も重要な財産である。

最も大切なものなのに、はかない。
自分の脳にしか存在せず、年とともに淡雪のように消えていく。残したくても、本人さえ気づかないまま存在を消していく。
これ以上の記憶の消失を防ぐには、出来るだけ書き留めることだ。しかし思い出す景色、エピソードが一体いつだったのか、しばしばわからない。

そこで年表をつくり、西暦、和暦、年齢、家族のことなどを整理することにした。これをみれば、大学に入った時、父は何歳だったのか、叔父が入院したのは何年だったのか、翻訳を始めたのは長女が何年生だったか、すぐわかる。

10か月




年齢 家族
1956 31 0 中野 父26 7.25柳沢で生まる。
1957 32 1 中野 母25
1958 33 2 中野   8.28妹生まる
1959 34 3 中野  
1960 35 4 中野 父30 12.12弟生まる
1961 36 5 中野 保1
1962 37 6 中野 保2 
1963 38 7 中野 小1 入学前に上野動物園
1964 39 8 中野 祖父60 小2 東京五輪
1965 40 9 中野 祖母60 小3
1966 41 10 中野 小4 
1967 42 11 中野 弟小1 小5 能生
1968 43 12 中野 小6 メキシコ五輪、松本諏訪
1969 44 13 中野 中1 美術部、岩菅
1970 45 14 中野 中2 剣道部、燕登山
1971 46 15 中野 妹中1 中3 剣道、将棋。東京修学旅行
1972 47 16 中野 高1 剣道。能生。野尻湖クラスコンパ。
1973 48 17 中野 高2 奈良京都修学旅行
1974 49 18 中野 高3 東京見物、高輪クラブ
1975 50 19 駒場寮 父45 大1 滝沢祖父死去。碑小の宿直。
1976 51 20 駒場寮 大2 古典ギター。窪田塾
1977 52 21 本駒込 妹大1 ボート。12月向岡寮
1978 53 22 谷中 1月転居、式根島
1979 54 23 谷中 祖父死 M1 新島、祖父75、野沢スキー
1980 55 24 谷中 弟大1 M2 千葉大バス、式根島、天然物シンポ、水上
1981 56 25 大宮寮 就職、加島寮
1982 57 26 大宮寮 名古屋BMS、
1983 58 27 東大宮 妹結婚 東大宮に転居、会津、札幌、蔵王
1984 59 28 東大宮 祖母死 79才、5.12結婚、NY,WDC
1985 60 29 東大宮 金沢、中国、那須、YMCA、下鴨茶寮
1986 61 30 東大宮 長女生 弟エチオピア。白樺湖、吹田、
1987 62 31 東大宮 遠藤研出向、須坂農村工業研
1988 63 32 東大宮 神戸、大宰府、長尾研、坂東簗、浜松、大洗
1989 1 33 伊奈 長男生 細胞培養、6月転居。LTP研究会
1990 2 34 伊奈 父60 浜フォト、宮崎、順大大地、妹蓮田へ
1991 3 35 伊奈 叔父鷲宮へ、長野建て替え、福島、仙台、
1992 4 36 伊奈 次女誕生 谷中散策、CNSへ、自治会長、秋田、仁徳陵
1993 5 37 伊奈 長女小1 横須賀、天皇来町、8月UCへ
1994 6 38 Cinti 父64 NewOrleans、8月帰国、Dallas、七五三
1995 7 39 伊奈 阪神震災、熱田神宮、松代、水交会、体調不良
1996 8 40 プラザ 長男小1 長崎、6月転居、黒部、佐渡、Manilla、生理研
1997 9 41 プラザ 長女小5 岡崎で実験、幕張、小川村、秩父、広島呉
1998 10 42 プラザ 御柱、KittyHawk乗艦、京都
1999 11 43 プラザ 長女中1 ダンス開始。T-Ca電流検出、木崎湖、中野講演
2000 12 44 プラザ
大正そうせい、野尻湖キャンプ、観艦式
2001 13 45 プラザ
philadelphia, 義父死去、伊勢神宮、
2002 14 46 プラザ 長男中1 熊本、HERG、草津スキー
2003 15 47 プラザ
福岡、安全性薬理、SanFでAP比較、京大シミレーション
2004 16 48 プラザ
Balt、宿坊探訪、競技ダンス開始
2005 17 49 プラザ 長女大1 次女中1、ファルマシア委員、両親金婚式、JBDF-D級 
2006 18 50 プラザ 次女中2 SLCモルモン教、仙台、父癌発覚、恒久突然死、
2007 19 51 プラザ
Balt、翻訳開始、叔父入院、三菱と合併、
2008 20 52 プラザ 長男大1 LongBeach、新薬誕生出版 
2009 21 53 プラザ 長女M1 Boston, ロテルド比叡、
2010 22 54 プラザ 父死去 SanF、片岡と解消、田端で家探し
2011 23 55 プラザ 長女就職 Balt、次女B1、震災、千駄木仮契約 
2012 24 56 プラザ 次女大2 松本、Barcelona、岡崎、DSCJ-B級
2013 25 57 千駄木 長男M2 転職、次女B3、転居。適塾、東京人、Kuriym、
2014 26 58 千駄木 長男就職 知覧、西成飛田、子ども大学、
2015 27 59 千駄木 次女M1 昔々終了、神戸姫路、栄村、応神陵、桃結婚、長女転職
2016 28 60 千駄木
Huaway、海野宿、谷根千94巻、洗濯機・コタツ買い替え
2017 29 61 千駄木 次女就職 長女結婚、次女神戸、長男家出、千駄木二人きり

左からおにぎりを持つ私、いとこ、叔母

たぶん5年生ころ。制服はないのに男は学生服。

エクセルで作ったら、私の61年分がA4の紙1枚に収まってしまった。
一生ってなんて短いんだろう。
しかし、61行書いたことで、もっと詳しい年表にしたくなった。
12倍して1か月ごとに出来事を書く。732か月。
もちろん空欄が多いだろう。
しかし、残っている手帳、手紙、年賀状、本の書き込み、アルバム、あらゆるものを調べ、見つけたら空欄に埋めていく。8年前にがんで死んだ父親は自分史をノートに書いていたから、私のことも何か書いてあるだろう。親戚、近所の人にも聞いて埋めていく。

もう、前を見て歩くのではなく、後ろを見て、記憶のほころびを繕い、人生の化粧をする年齢になったということだ。

一昨日信州に帰省。
駅からの道は区画整理で変わっている。
脳梗塞になって一か月の母親は、言葉がなかなか出て来ず色んなことを忘れてしまった。大切さなものは消えやすい。


吉祥寺3 経蔵、赤松家墓地、板倉勝静

暮れも押し迫る12月30日。
前日長野に帰省、先月脳梗塞になった母を見舞う。

1泊して弟が車で送ってきてくれた。
途中、二人して埼玉鷲宮で一人暮らしの叔父を見舞う。

85歳の叔父は1月3日にグループホームに入るというのですべて家具を捨てる。
もったいないけどもらっても置き場所がない。
ひとつ、形見にチェストをもらうことにした。
しっかりしたつくりで腰かけられる。
弟は火鉢をもらうという(一番奥)

7人乗りの車の後ろの椅子をすべて倒し、何とか載せて千駄木まで運んでもらった。

荷物を降ろした弟は吉祥寺を見たいという。
かれは秋に上京したとき富岡八幡の骨董市で中洲三島毅の書を7000円で買った。

三島中州(1831‐1919)は山田方谷のいた備中松山出身、江戸末期から大正の漢学者。二松学舎を創立した。
見つけた書は函館戦争を記したものという。

方谷や三島の仕えた備中松山藩主、板倉勝静(かつきよ)は、藩政改革の手腕を評価され老中に抜擢された。鳥羽伏見の戦いでは徳川慶喜の側近として大阪にいたが、慶喜が開陽丸で江戸へ退却するとき従い、その後いったんは恭順したが、幕府軍、奥羽列藩に参謀としてかつがれ函館までいく。

弟は吉祥寺にある板倉勝静の墓をみたいというのだ。
午後3時、弱くなった西日に向かって、師走の静かな狭い路地を家から歩いていく。
吉祥寺の敷地は駒込病院に接しているほど我が家に近いのだが、入口は遠い。
山門のある本郷通りに出る前、住宅街に面した南側にも入り口がある。
ここから入ってすぐの経蔵の前では子どもたちが遊んでいることもあり、神社と違って一般に入りにくい寺院としては例外的に開放的である。

消失した後1804年に再建されたとある。

前回、吉祥寺2で榎本赤松の関係を書いたが、赤松家の墓の写真を載せなかったので、撮影。

当たり前だが赤松則良の直系の家の人だけで、鴎外に嫁した登志子らの名はない。

いなくなった弟を探すと経蔵の北にある石碑を見上げていた。
早くも目的の松叟板倉勝静を見つけたようだ。

寒くてしっかり読む気にならず。


次は板倉勝静の墓である。
大名だから大きいだろうと、北側から探し始める。
墓さがしは難しい。
古いものは戒名しか書いてないし、字が崩れかかっている。
新しいものは○○家と苗字しか書いてない。

 勝静は旧藩主とはいえ、新しいから、どんな形かは見当もつかない。
弟とはすぐにはぐれ、私もさがすも、寒くてすぐいやになった。何年か前、弟が正月に来て二人で谷中墓地に行ったときと全く同じになった。

弟は板倉家という小さい墓を見つけたらしいが、何も書いてなかったとのことで、諦めた。


こういう墓ならすぐわかるのだが。

順天堂大学の慰霊碑(解剖献体供養塔)
ちかくには佐藤進の広大な墓がある。


2017年12月25日月曜日

暮れの庭、生姜冬越し

12月24日、今日はダンスの練習なし。
冬至を二日過ぎた庭をのんびり見る。
(今年は忘れずゆず湯に入った)

今年の大根は例年に増して細い。
先日取ったのは、たったの230g。
市販のものは1-2㎏ある。
やはり肥料なしは無理なのか。

白菜も巻かない。
妻は青いのは葉っぱが固くて嫌だという。
農家では、寒くなる前に、巻くぐらい育つのだが。
場所を変えても昨年と同じ。
11月18日、長野へ行ったとき弟からもらったニンニクの一部を埋めてみた。
ラッキョウと同じなら、この時期もっと大きくなって、株が分かれて枯れ、春に多数発芽するはずだが。

野沢菜も本来はずっと前に大きな株となって漬けるものだ。

キャベツ。
これだけはこのくらいで良い。
秋冬のうちに大きく育ってしまうと春に球ができる前にトウがたってしまう。

ラッキョウ
ひとかけらずつ植えたのが何本も芽が出た。
いま、その数だけ株が分かれているはず。
葉は冬に枯れても、春にもっと太い芽がその数だけ出てくる。

イチジク
紅葉、黄葉するまえに枯れるようにして落葉している。
これが普通なのか、病気なのか不明。

ジャガイモの皮は生ごみとして捨てても簡単に芽が出る。
一つ二つ取れても楽しくはないし、料理にも役立たないから、たいてい雑草と一緒にぬいていたのだが、残っていたやつを掘ってみた。割り箸と比べても小さいが、春まで室内保存して植えてみようかな。

生姜。
夏、食卓のお皿に乗る直前の、
きれいに洗ってある葉生姜を、
急きょ土に戻した奴だから、
小さくても仕方がない。
これを種に来年を期待する。

先日掘って様子を見てからまた埋めなおしたのだが、どうも、しょうがの露地での越冬は不可能のように思えてきた。

根っこで増えるものなら、地中で越冬するはず。
そうでなければ野生のものは絶滅する。

しかしネットを見ると、生姜は低温で腐るらしい。
1メートル以上掘って籾殻の中に埋め、地上にはビニールで覆いをかけるという。
少量なら新聞紙にくるみ発泡スチロールの箱で室内15度に置く、と書いてある。どのサイトもそうだ。
生姜というのは熱帯植物なのか、それとも人の手を借りないと越冬できないように品種改良されたのだろうか。

穴を掘るのは大変だから新聞紙にくるんだ。
我が家は夏は暑いくせに、冬はどの部屋も毎朝8℃になる。15度は無理でも、もう少しほしい。いろいろ探したら、ネットの無線ルーターが24時間微熱を出している。この横におこう。ダメだったらだめでもいいや。

2017年12月24日日曜日

息子の彼女と庭の千両

28才になった息子が日曜に彼女を連れてくるというので、
妻が掃除を始めた12/23。
帰宅して居間の隣、自分の部屋に行くと変なにおいがする。

聞くと、翌日のために庭の水仙を取って玄関に飾ったら臭くなったので私の部屋に押し込んだとのこと。
マヨネーズと湿布(メントール)を混ぜたような変なにおい。
一言でいえば悪臭。確かにこれでは飾れない。

一夜明けて当日。
さて代わりに何を飾るか。
ニンジン、大根なども面白いが、妻に怒られるので代わりに千両をとった。
この季節はこのくらいしかない。
全く剪定しないせいか以前より実が小さく、少なくなった気がする。

世の中には万両というのがある。
やはりこの時期に赤い実をつけ、名前の良さもあって正月の縁起物になるのは同じ。

千両は実が葉の上につき、万両は下につくことで容易に区別できる。
もっとも千両はセンリョウ科でヒトリシズカの仲間、万両はサクラソウ科ヤブコウジ属というから、実以外にも大きく違うのだろうが、よく知らない。
おそらくどちらかが先に名前がついて、似ていることでもう一つも似た名前になったのだろう。

息子は5月に茗荷谷に家出して以来、めったに来ないからますます彼の行動は分からなくなっている。
久しぶりに会った先月の長野行きの時、早く結婚しろといっても「わかった、わかった」以外何も言わなかったのに、突然、彼女を連れていくと先週言ってきた。

あまり女気がないので心配してずっとうるさく言っていたから、黙らせるために連れてきたのだろうか。

家は、子どもたちが皆出て二人きりになっても相変わらず散らかっている。妻は大掃除して、この日は大和郷フレンチパウンドハウスからケーキを買ってきた。

息子たちは午後二時に来た。
ちょうど妻がトイレに入っているときで、どっかと構えているはずが出迎えにでなくちゃならなくなった。
午前中「来たら、あたかも知らなかった風に驚く芝居でもしちゃおうかな」と言ったら妻に怒られたが、芝居する余裕はない。あたふたしてたら彼女もブーツを脱ぐのに手間取り、そのうち妻が出てきたので任せた。

冬だからこたつに4人はいった。
「二人とも緊張しているから、そちらから話題を振ってくれ」と息子から前日注文があった。
そんなこと言われなくたって聞きたいことは山ほどある。
6年も前から付き合っていることに驚き、
次々と質問を浴びせては、コメントし(年寄りの昔話と薀蓄をたれ)、
「面接されてるみたいです」と言われてしまった。
べらべらしゃべり、軽薄な父親に見えただろうか。

もともと息子の堅実さとセンスを信じて、彼が選んだのなら誰でもいいと思っていたが、真面目そうで、派手な感じじゃなく、でも明るい。
きちんと育てられた感じ。
まだ予定はないというが、もし結婚すればいい家庭になるだろう。
クリスマスイブだからか、あるいは長居したくなかったのか、二人はこれから用事があると、日が陰ってきたころ席を立った。

彼女は、下駄箱の上の千両に気付かず、丁寧に挨拶して出て行った。



千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

埼玉大学。梶田先生ノーベル賞記念コーナー

12月22日、埼玉大学に行った。
埼玉県に32年もいたのだから、埼大通り(浦所バイパス)から正門は何回か見たことがあるが、中に入ったのは初めて。
 正門の内側にバスロータリーがある。
都内の大学と比べると圧倒的に広い。
学生数は多くはないだろうが(学部生7000人)、ビルが建て込んでいない。

この雑木林はキャンパスができる前からあったような雰囲気。

陸上トラックの向こうに並木があって
その向こうにサッカー場や野球場がある。

何か古いものがないかなと、うろうろしてようやく見つけた。
埼玉師範学校のもの。

埼玉大学は、戦前の埼玉師範(浦和市常盤、さいたま市役所のあたり)が教育学部になり、旧制浦和高校(いまの北浦和公園)が文理学部(のちの教養、経済、理、工)になってできた。
両者は1964~69年に現在地に統合移転、当時は何もなかったであろうことが、今のこの広さから想像できる。

こんなに広いんだから、当時の木造校舎の一棟でも引っ張ってくればよかったのに。あるいは石碑など記念碑などもすべて持ってくればよかったのに。
オリンピックの直後という高度成長時代の真っただ中、古いものなど見向きもされなかったのだろう。

何か面白いものがないかなと図書館に行ったら、入ってすぐのところに梶田隆章先生のノーベル賞受賞記念展示コーナーがあった。先生は川越高校から埼大に進学された。
真っ先に目についたのがノーベル賞のメダル。えっ?めだる?
いくらガラスケースに入っているとはいえ、本物があるわけない。
だいいち、3個もあるし。

よくみたらノーベル賞メダルチョコレートの容器がある。
テレビでちらっと見たけど、これが例のチョコレートか。一般人も買えるらしいけど、先生のサイン入りに価値がある。
日付がH29.10.14って、つい最近だけど。
卒業論文。
学生番号を見るとアイウエオ順に二人一組で書いたのだろうか?

よく考えたら、私の場合なんか、卒業論文は何も書かず、修論で初めてかいた気がする。妻の場合も記憶ないというから、4年生でこういうものがあるだけちゃんとしている。

今の4年生は書けるだろうか。

弓道部でしたね。

受賞対象となった論文。
これはケースに入っていなくて、ただ置いてあったので、
写真を撮るためにタイトルプレートを移動させてパシャリ。

著者の数に圧倒される。
一番上の行だけで9人。それが16行続く。
さすがスーパーカミオカンデのビッグサイエンスである。

不思議なのは梶田先生の名前が7番目であること。
この分野は全く素人なので筆頭著者のY.Fukudaも、ラストの K.K.Youngも誰だか知らない。
受賞のもととなったのなら、Kajitaは筆頭でないとおかしい。
と思ってさらにみていくと Y.Totsukaも、M.Koshibaも目立たない場所にあった。どうもアルファベット順に並んでいるようだ。物理はこうなのだろうか。

この論文は July 6 1998
Y.Totsuka 戸塚洋二は生きていた。というか中心人物だった。

その後、彼はがんを発病した。
余命もすべて公表してから、盛んにメディアにとりあげられるようになった。
文芸春秋での立花隆との対談や、日経サイエンスに毎月連載した彼の文章はかかさず読んだ。死を目前にした人の書くものは、深い意味が感じられた。末期に顔がむくんで別人のようにみえても文章は相変わらず明晰で、死が近づくにつれ深く透明になっていった。

自分は死んでしまうが、一人一人のデータを丁寧に集めれば何かが分かるはずだ、と自分の腫瘍マーカーの変化を克明に片対数グラフにプロットしたり、どんな医師よりも徹底的に自己の病態を分析した。確かにこれくらい深いデータを他の患者からもとれば次の人のための新しい治療法が見つかるかもしれない。
膨大なノイズからかすかなシグナルを拾い出し、それらを統合してニュートリノに質量があることを示した彼らしく、はっきり言わなかったが、ヒトのがんは個人差が大きいから一般法則など取れないという医学者、生物学者の甘えを批判しているようだった。
2008年7月10日死去。数日前までブログを更新されていたのを覚えている。

梶田先生が受賞したのは2015年。
この7年というのは、戸塚の死でノーベル財団が一旦ほかに目が行き、再び戻ってきたように見える。
梶田先生と共同受賞したカナダのA.マクドナルドは、ニュートリノが質量があることを示し、戸塚と2007年にベンジャミン・フランクリン・メダルの物理学部門を共同受賞した。
その翌年、戸塚は去った。
小柴は追悼で「あと18か月生きていてくれたら君にノーベル賞が行ったのに」と述べた。
ノーベル賞は3人まで受賞できるが、2015年は梶田マクドナルドの二人だったというのは、戸塚の霊のために空席を作ってくれたようにも見える。


2017年12月17日日曜日

熊谷2 片倉シルク記念館と熊谷工場

カタクラと聞いて何を思う?
と妻に尋ねたらショッピングセンターときた。
取手駅前にあったという。
確かにさいたま新都心のコクーンやゴルフセンターもカタクラだし、あちこちにショッピングモールがあるみたい。

1878(明治10)年、信州岡谷で片倉兼太郎が洋式器械の製糸工場(のち片倉組)を創業。1920年には本社を東京に移し、片倉財閥を形成した。日本の輸出額の50%を生糸が占めていた戦前に、貴重な外貨を獲得し、日本の近代化に大いに貢献した。製糸会社として操業停止後も富岡製糸場を守ってきたことはどれだけ知られているだろう。

12月15日、熊谷に来て、たまたま地図で片倉シルク記念館というのを見つけたので立ち寄った。
土蔵みたいなのが二棟。入場無料である。
ここは熊谷石原工場の跡地、片倉の最後まで操業していた工場である。
すぐ前が巨大なイオンショッピングセンター。
反対側も買い物客用駐車場の出口になっており、記念館はイオンに囲まれ、昔をしのぶ雰囲気ではない。
アプローチは古瓦が埋めてある。
左側の棟は、養蚕に使われた道具の展示。

私の出た信州の平野小学校は、空いた教室を郷土室と名付け、古い農機具を展示していたのを思い出す。たしか我が家も何かを寄付した。

私が子供のころはすでに養蚕をやめていたが、道具は土蔵や物置に残っていた。
記憶にあるものも初めて見るものも。

周りの農家も昭和30年代に一斉にやめて、桑畑はリンゴが植えられた。
養蚕はなくなっても、旧正月は竹などの枝に繭玉や小判の形をした菓子などをぶら下げ飾っていたし、3時のお茶には蚕のさなぎの煮たものがお茶うけに出てきていた。

右側の棟は製糸関連の機械などを展示している。
かつての繭の倉庫は、耐震補強をしただけで、木組みなどは当時のまま。
なぜか一階より二階のほうが天井が高い。





片倉組は関東甲信越に広く工場を持っていて、八王子工場、松本工場などの往時が展示されている。
片倉熊谷高等学園、片倉石原青年学校など、ここ熊谷石原工場の若者が通った学校や寮などの写真もあり、懐かしい昭和の写真が一杯。

片倉最後の熊谷工場
写真の左が国道17号、一番右は新幹線の高架と秩父鉄道。カーブして下のほうに伸びてきているのは高崎線である。
17号にいちばん近い角の二棟が保存され記念館となり、ほかは更地となった。
イオンは土地を借りている。

12月15日、土曜の10時半、見学者は誰もいなかった。

片倉家家訓どおり「売らない、貸さない、壊さない」で富岡製糸場を操業停止後も守ってきて、最終的に富岡市に寄付した片倉工業に、以前から敬意を抱いていたが、今回これだけの記念館を見せてもらい、すっかりファンになった。

受付の人にどうしてもお礼を言いたくて、声をかけた。

彼女は昭和49年に熊谷工場に就職したという。私が高校を卒業する前の年である。
(あの当時まだ製糸工場があったことにびっくり。)
製糸業が縮小されるにともない、工場から経理に移り、工場がなくなってからは、他の事業所へ行き、この資料館ができてから戻ってこられたという。

私が信州の農家の長男で、家には養蚕の資材が残り、さなぎをおやつに食べていた話をしてみた。
ここ熊谷工場では大量のさなぎは業者に引き取ってもらって鯉の餌になったらしいが、彼女の上司だか、年配の人は持ち帰って焙烙鍋で炒って食べる方もいたという。彼女はあの臭いがどうしてもだめで、食べられなかった。

すっかり親しくなった彼女は名刺をくれた。
  カタクラ 
  総務部総務課片倉シルク記念館
  管理員 ○○xx
と書いてあった。

1992年6月 片倉最後の熊谷工場で生糸製造停止
(繭収納、販売は継続)
1994年12月 熊谷工場すべての業務を停止
1999年10月 土地再利用(カタクラフィラチャー)のため建物解体