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2017年7月16日日曜日

第111 東京田辺製薬が誕生したとき

田辺三菱製薬というのはいくつもの会社が合わさっている。

2007年に田辺製薬と三菱ウェルファーマが合併して誕生したが、
後者は、2001年に三菱東京製薬とウェルファイドとが2001年に合併してできた。
ウェルファイドは薬害事件で経営危機に陥ったミドリ十字を1998年に吉富製薬が救済合併、2000年に商号変更したもの。
三菱東京製薬は1999年、三菱油化と三菱化成の医薬品部門と東京田辺製薬が合併したものだ。

この東京田辺製薬とはどういう会社か?
かつて、田辺製薬の東京事業所と、東京田辺製薬の区別のつかない人が多くいた。
私事、1981年田辺製薬に就職したとき、大阪ではなく埼玉の研究所だと言ったら、東京田辺製薬か?と言われたものだ。

古い人なら一緒に思ってしまうのも分からなくもない。
実は東京田辺製薬というのは、田辺製薬が東京進出のために作った田邊元三郎商店が株式会社に改組したものである。
以下にその記事がある。

薬学雑誌233号(1901年7月号) 721ページ
明治34年、大阪通信(二宮忠八投稿)

田辺五兵衛氏の分家:
大阪道修町に有名なる同氏は薬業の大成を期し、着々経営の実を挙げらる。本年さらに次男、元三郎君(一年志願兵終末試験及第者)を東京市日本橋区本町4丁目へ分家せしめ、以て東京大阪間の取引を親密ならしむる媒介者となし、ますます斯業の発達に尽力せらる。(中略) 
元三郎君、千代三君は去る10日(7月)当地を出発せられ、送別者沢山ありしと云ふ。

ここで『田辺製薬305年史』を開いた。
昭和58年(1983)社員全員に配られ、処分しなかったもので、初めてまともに読んだ。

この時の五兵衛氏は12代。
元三郎は、1879 (明治12)、12代の次男として生まれ、はじめ武次郎といったが、12代の末弟元三郎が不慮の死を遂げ、後継ぎがなかったことから、元三郎を襲名した。

13代は12代の長男(つまり元三郎の兄)、五三郎(1878-1941)が五兵衛を襲名、
14代は13代の長男、治太郎(1908-1972)が襲名。最後の田辺家社長である。

話がそれた。
東京田辺製薬は独立しつつ本家と深い関係を持っていたが、昭和30年ころ、合併の話が持ち上がり、それが消えて、一気に独立した。すなわち、32年(1957)には東西市場にそれぞれ独自の販売網を組織し、56年にわたる販売提携は終了した。

そしてちょうど半世紀後の2007年、
社名は消えていたが、8年経っても旧東京田辺出身者は三菱出身者と明らかに同化していなかった。出身会社のプライド?愛情?を持ったまま、合併新会社の一員となった。
もちろん本家?と一緒になっても、何のメリットもなかったが。



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2017年7月15日土曜日

サルファ剤はいつ日本に入ってきたか?

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つまり、サルファ剤を日本人が知ったのはいつか?
そして国産第一号はいつ、どこが出したか?

最初のサルファ剤、プロントジルは戦前の
1932年11月にバイエル(IGファルベン)で合成され、
  12月に特許申請されるも秘密にされた。
1934年12月、特許成立、公開
1935年2月、ドーマクが論文発表、世界の知るところとなる。

隣国パスツール研のフルノーなど、もともと関心のあった研究者はすぐ動き始め、
1935年5月 早くもプロントジル合成に成功
すぐに誘導体の合成、試験に入り、11月にはバイエルに先駆け、スルファニルアミドに薬効があることを発見した。

こうした状況で日本にはいつどのように伝わったか?
1935年は昭和10年、もちろん航空機はあった。羽田から江の島までの遊覧飛行もあったようだが、航続距離は数百キロで、遠距離の定期空路はなかった。ゆえに欧州からの雑誌や人は船できた。

明治からずっと続いている薬学雑誌でサルファ剤の記事を探してみる。
1935年前半には何の記事もない。
ちなみに1935年2月号の表紙裏の広告は、ドイツ、カール・ツァイスの顕微鏡である。
このころは明治時代と違って、地区通信とか外国論文紹介などのコーナーがなくなって、論文ばかりになっている。ニュースが取り上げられにくい雑誌になってしまったのが残念である。
1935年後半6冊にもサルファ関連記事なし。
8月号に久しぶりに論文紹介のコーナーあるも1934年の雑誌ばかりであった。
12月号の総索引にもなし。

1936年
4月号に第56回総会(4/11,12)の記事。学術講演会77題のタイトルに、サルファ剤関連演題なし。第17回薬学会薬剤部長会(4/10)でも報告なし。
12月号の索引でもなし。

1937年
4月、総会の学術講演会69題になし。
5月、はじめてサルファ剤の記事
この論文は内務省東京衛生試験所製薬部(近藤部長)の板井、尾島、矢澤らによるもので、新規化合物8種を含む10のスルファニルアミド誘導体を合成している。

この1報の後はなし。
ところが8月号の表紙裏に第一製薬からテラポール(スルファニルアミド)の広告が出ていた。


薬学雑誌に記事はなくとも、国内研究者、製薬会社は、だいぶ早くから情報を得て製造していたと思われる。ちなみにテラポールの第一製薬はネオ・ネオ・サルバルサンの広告も出していた。

薬学雑誌は、植物成分の研究が多く、パパベリン(菅沢ら)、マトリン(近藤、慶松、津田ら)、サポニンや地衣成分(朝比奈)らの記事が目立った。彼らは根っからの研究者で、感染症で死んでいく患者を診ることもなく、自分の研究に関係ないサルファ剤など関心なかったのだろう。

(続く)
20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌


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2017年2月11日土曜日

第109話 世尊院で子どもが天南星を食べる

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薬学雑誌 43号(1885 明18年)p382 

地下鉄千駄木駅から団子坂を上がり(大観音通りという)、左に鷗外旧居跡の記念館と何軒かマンションを過ぎると世尊院がある。都会の寺らしく、広くない境内に木々どころか土さえなく、周りを密集した家々で囲まれている。



しかし今から130年前の薬誌の三面記事のような文章から、違う景色が浮かんでくる。


「千駄木町21番地、消防夫・石田幾次郎の長男、直吉(13年)、次男、金太郎(4年)、および千駄木林町2番地、車夫・小林辰次郎の長男、伊の助(9年)は、去る三日の昼ごろ、世尊院の境内にて丈、2,3尺ばかりの草にて万年青(おもと)のような美しき実を結べるを見つけ・・・」


世尊院は、将軍綱吉に寵愛されたお伝の方の父、小谷忠栄の死に際し建立されたという。江戸切絵図や明治9年の東京実測全図をみると、団子坂上から続く道に北面しながらも、さらに東側の藪下道まで広がる地所を持っていた。近所の子供たちが遊ぶ鬱蒼とした森があったのかもしれない。

なお、奇しくも千駄木21番地のというのは鴎外が1892(明治25)年30歳から大正11年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ場所である。



https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0201100000/0000000037/01

明治東京全図(明治9年、国立公文書館蔵)から



「・・・実を摘みて噛み砕きたるに、辛辣にして口内灼くがごとく、舌たちまち涸りて物をも云へざる体に苦しむを・・・」
薬学雑誌の同記事によれば天南星には種々あり。
  ・天南星やまにんじんArisaema Japonicum
 ・斑杖へびのだいはち、やまごんにゃく
 ・虎掌うらしまそう
  ・(漢名不詳)むさしあぶみ
のちに現物をみて小林九一はArisaema Japonicumと結論した。これらはシュウ酸カルシウムの針状結晶を含み、それが毒となる。

「・・・傍らに見て居たる一人は、早々立ち戻りて親々へ通知せしかば早速駆けつけ、直ちに本郷の医学部第一医院へ入院せしめしに、幸ひ三人とも嚥下せざりしかば、1週間ほど経て治癒出院したりと云ふ」

世尊院のすぐ南、現在救急病院として利用されている日本医大病院は当時なかった。子供たちが人力車?で運ばれたのは、医学部第一医院といわれた。
東大は、明治11年医学部が神田に医学通学生の臨床講義用患者収容所として第二医院を設立、本郷の病院を第一医院と称した。帝国大学医科大学は明治19年からの名称であり、当時は東大医学部が正式名である。

明治40年の地図では、世尊院が古尊寺となっている。世を卋とした地図を見たことがあるので、写し間違ったのだろう。注目すべきは藪下道に面した東部が37番地となり、小さくなった世尊院に与えられたはずの13番地もさらに二分され、敷地が3分の1までに減っていることだ。現在は南側に住宅が建て込み、さらに狭い。

 数年前、この辺りで家を探したことがある。私の予算では土地付きの家は変えない。借地権付き中古住宅を探したのだが、寺が地主の物件が多かった。世尊院も困窮した明治に土地を貸したり譲ったりしたのだろう。

ついでに言うと観潮楼の21番地というのは、実は団子坂上の角のところで、鴎外は藪下道に面した21番の南側と19番、20番を買った。




2017年2月8日水曜日

第108話 大正天皇、X線に手をかざす

ここから、ファルマシアに書かなかった「薬学昔むかし」を書く。

第108話 東宮殿下のエキス光線ご一覧


薬学雑誌 1898(明31)年度p644

 
大正天皇は頭がおかしかったという話がある。
議会で詔勅を読んだ後、くるくると巻いて望遠鏡のように議員席を見渡したという。しかしこれが真であったとしても愚昧であることの理由になるか? 帝国議会など恐るるに足らず、皇太子時代の全国行啓中、きさくに庶民に話しかけるような人柄であるなら、当然ありうる行動だ。

生まれつき病弱で、学業、運動とも発達は健全でなかった。しかし漢詩1367首、和歌456首をつくり、朝鮮語も学んだとなれば、知能は十分あっただろう。

明治、昭和の大帝と比してエピソードが少ないのは、天皇制を利用したい政治権力がその権威を保つため、なんにでも興味を持ち無造作に国民と接触する彼を封じ込めたからという噂も聞く。
今でも右翼、左翼、政府、メディアは様々な文章を残す。ときに捏造もあることは正義のA新聞で周知のこと。まして戦前の皇室については、噂と真実の区別は難しい。

どんな人物だったか。この欄でも皇太子時代の東北巡啓を書いたが(2008年11、12月号)、出迎える側の食事、衛生面での裏方話ばかりで、東宮に関する記述は一切なかった。ところが偶然、私のイメージ通りの記事を薬学雑誌に見つけた。

明治31年5月26日午後2時過ぎ、明宮嘉仁殿下は
「大尉の御正服にて理科大学へ行啓あらせられたり」。
この年3月、医科大学のお雇い外国人教師、スクリバが一時帰国したドイツからX線透写装置を持ち帰った。1895年11月レントゲンがX線を発見して2年半。スクリバと近藤助教授は、頭蓋骨に弾丸を入れ二重の箱に収めたもの、それから鯛、小童2人の胸部の透視像を見せた。殿下は「すこぶる珍しきもの」を興味深く見物しただけでなく、なんと
「親しく右の御手を光線にかざし給ひ、また宮内高等官をして試みし給ひ」、
大いに満足した。さらには研究中の無線電信にも興味を示し、
「始終ご熱心にご熱覧あらせられご機嫌ことに麗しく」
4時20分頃還啓した。
このとき19歳。

21歳で結婚、歴代天皇で初めて一夫一妻を貫き4人の男子に恵まれたが大正3年ころから軽度の発語障害、大正8年には食事をとることも勅語を読むこともできないほど悪化したとされる。その7年後、47歳で崩御。

***********

以上の文章をそのまま、2015年1月、ファルマシア編集部に送ったのだが、不敬にあたるとのことで、没になった。理由を聞けば、そのまま3月1日号に載せたら、3月末の薬学会年会に右翼の宣伝カーが来るかもしれないと心配された編集委員もいらしたという。
私は一般参賀にも行くし、1993年埼玉に両陛下がいらしたときは、仕事を休んで旗を振りにいったし、伊勢神宮でも両陛下に旗を振れたし、皇居清掃団にも参加したかったほど、皇室が好きで、大正天皇を悪く書いたつもりは全くなかった。・・・文章は難しい。
どうも冒頭の「頭がおかしかったという話がある」が良くなかったらしい。私の子供の時分は、そのような話はいろんなところで言われており、学校の先生すら教えてくれた。しかし、その悪い評価を(少なくとも彼がお若いときは)否定できるエピソードを当時の薬学雑誌で見つけ、彼の名誉回復のつもりで喜んで書いたのに、どうも編集委員の方々は、反対に解釈されたようだ。
とにかく、薬学昔々の連載が終わるきっかけになった文章である。
 
雑誌の編集などはセンスのある人が一人あるいは少人数でやるべきだと思う。私の原稿を没にするかどうかは20人もいる編集委員のメール会議だったらしい。誰か神経質なほど心配性な優等生的発言の人がいれば、どうでもいい大多数の人はそちらに流れ、角は取れるが、内容もきれいごとの多い、つまらない原稿ばかりになる。

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