2024年5月19日日曜日

二宮の果樹園、国府津の国府、根府川の慰霊碑

5月12日、熱海に行く途中、1時間半ほど大磯を散歩した。

大磯発12:32の電車に乗ったが、熱海駅には14時半に着けばいいので、さらに途中下車する。
大磯の隣は二宮駅。
12:37
二宮という地名を知ったのは大学に入ったころ。
東大農学部の付属農場の所在地だった。農場としては東京の田無が有名だが、二宮にも付属果樹園があった。

今回行ってみようかな、と思って調べたら、なんと閉鎖されていた。
東大果樹園はミカン栽培に適した場所として1926年(大正15年)に開園。
しかし2008年3月に閉鎖。
その後、東大から町へ10億円で売却したい打診があるが町は予算がなく購入を断念。さらに東大が5億円に値を下げ、2013年、町が購入したらしい。
東大果樹園正門(二宮町公式サイトから)
https://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/0000000694.html

さらに調べると東大は明治26年、駒場の土質が果樹園に適さないことから、神奈川県橘樹郡大師河原村(現川崎市)に1町4反歩の大師河原果樹園、さらに大師河原果樹園が水害を被ったため、新たに明治32年、東京府下荏原郡六郷村(現大田区)に1町2反歩の六郷果樹園を設けた。(当時、多摩川の下流はナシの産地で、子規の句に、川崎を汽車で通るや梨の花 がある。)

その後、東大はミカンの経済的栽培をめざし大正14年から3回にわたり二宮の園田孝吉男爵別荘(諏訪脇)、隣地の水田(栗谷前)併せて4.6 ヘクタールを購入、果樹園を造成し、先の2つの果樹園は閉鎖した。
 
さて、二宮では閉鎖された今も戦前の歴史的建造物が残る。
最古は大正時代に園田男爵が建てた家屋を転用した肥料舎。また、震災後に東大の重厚な校舎を多く設計した内田祥三が監修したとされる建物も3棟現存。
さらには古墳時代の横穴墓が53基、また戦時中に米軍の相模湾上陸に備えて掘られた陸軍の洞窟陣地も敷地内にあるらしい。

これはぜひ行かなくては、と思ったが、どうも二宮町がまだ整備中であり公開されているかどうか(建物は立入禁止だとしても、近くで外観だけでもみられるのかどうか)分からない。門だけでも見れればいいかと思ったが、地図を見たら駅から大分離れている。
今回は残念だが断念した。
出なかった二宮駅改札。
大磯駅と違い、現代的な橋上駅だった。

他に二宮というと神社があるはず。
相模国一之宮は寒川神社だが、二之宮は知らなかった。これも調べると川勾神社(かわわじんじゃ)。しかしこれも地図で見たら遠かった。断念。
ちなみに相模三之宮は比比多神社(ヒヒタノ、伊勢原)、四之宮は前鳥神社(サキトリノ、平塚)、また一国一社の八幡宮として平塚八幡宮が五之宮格とされる。
12:38
二宮駅から東大果樹園跡、川勾神社のある北側を見る。

すぐ次の電車が来たので12:44に二宮を後にした。
二宮の次は国府津。
12:49
国府津駅が近づくと車窓から海が見えた。
12:49
ホームからもよく見える。
降りよう。

退職前の職場が大宮の先だったから、帰宅時は上野東京ライン、湘南新宿ラインをよく使った。この2つの列車の行き先は、熱海、小田原、逗子などのほかに国府津が多かった。
毎日、夜の大宮のホームで列車を待ちながら、どんな駅かと思っていたが、来てみるとほとんど乗降客がいない。
12:51
そしてホームが異常に長い。
しかも3面5線ある。
出口はその長い西の端にありずいぶん歩いた。
この長さは歴史的な意味があるのだろう。

1872年に新橋ー横浜が開通した東海道線は1887年、国府津まできた。そのあと難工事が予想された熱海方面にはいかず、大きく北に曲がり御殿場、沼津を経て2年後の1889年に静岡まで開通した。
国府津から御殿場までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、国府津は機関車の基地としても重要な駅となった。
その後、東海道線が小田原・熱海まわりとなり、国府津は御殿場線との乗り換え駅となったが、駅周辺は全く発展せず、それにもかかわらず、今も上野東京ライン、湘南新宿ラインのターミナルなのはこのホームの長さ、多さが関係するだろう。
12:56
改札を出てすぐ機関車のレリーフがある。
「国府津駅開業100周年記念 明治20年7月11日開業」
国府津の一番の名所はこれかもしれない。
12:57
駅前広場の南側から海が見えた。
地図によれば住所は小田原市である。

波打ち際まで行ってみよう。
12:58
国道1号線と海。
と思ったが、国道まで出ると、道路を渡って海まで降りる適当な道がない。
簡単に諦めた。

海に行かないとなると、国府津は何もない。
しかし名前は国府の港(津)である。
相模の国府はここだったのだろうか? 国分寺もあったのだろうか?
駅そのものは山と海に挟まれているが、西のほうは酒匂川の平地が広がる。

調べるとそもそも相模の国府はどこにあったかよく分からないらしい。

相模は今の神奈川県から川崎と横浜(ともに武蔵)を除いた地域だが、それは律令制以後のことで、記紀によれば、第13代成務天皇の時代(実在したとすると古墳時代)には、相武国造(さがむのくにのみやっこ)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが~)の領域(酒匂川と中村川流域、県西部)に分かれていたとされる。(同様にのちの武蔵は3人の国造がいた)。

ふつう国府の近くにあるはずの相模国分寺は海老名にあるが、国府の遺構は発見されていない。いっぽう、小田原の東、酒匂川東岸にあった千代廃寺も国分寺だったという説があり、国府津の「国府」は小田原・酒匂川流域を中心とする師長国の国府という意味かもしれない。が、よく分からない。
千代廃寺のあった場所は国府津駅のすぐ西で、下府中、上府中という地区に上府中公園、下府中小学校もあるが、かみふなか、しもふなか、と読むらしい。

結局、国府の海まで行かず駅まで戻ってきた。
12:59
国府津駅舎
ふつう駅ビルと言えば、町一番の人の集まるところだから商業施設がメインである。しかし国府津駅の場合、1階の改札付近のみが駅利用者が来るところで、残りは4階分すべてJRの管理施設となっている。鉄道の町といっていい。
13:01
切符売り場の横に「こうづの思い出 エピソード展」と題して利用者の体験談などが貼ってあり、しばらく足を止めて読んだ。

次の電車は13:04,13:10とあったが両方とも小田原どまり。
国府津の次の鴨宮は何もなさそうだし、次の小田原も二回歩いてブログにも書いたし降りる気はない。
そこでベンチで待って13:20の熱海行きに乗った。
発車メロディーは「みかんの花咲く丘」。
(ちなみに隣の二宮は菜の花畑の「朧月夜」、次の次の小田原は「お猿のかごや」。)

国府津を出ると鴨宮、小田原、早川とすぎ、
根府川で降りた。ここも小田原市。
根府川駅は海のすぐそばにあり、以前熱海に来たとき景色のいい駅だと思っていた。
地図を見れば箱根外輪山が相模湾に落ちていく中腹にある。
崖を削って道と線路を作ったようなものである。
13:38
ホームから改札口に向かう跨線橋の上から相模湾を見る。
駅舎は線路の山側にあるから当然、ホームより高いところにある。
ホームは2面3線。
1番線がなく、駅舎のある左(山側)から2~4番線である。

小さな改札を出る手前に石碑があった。
13:38
関東大震災殉難碑。
「殉難」は殉職や殉教と違って職務中に死んだ人でなくても使うようだが、1973年に駅職員一同で建てたらしい。

根府川は1923年の関東大震災の時、土砂崩れがあったことで知られる。住民289人が命を落とした。
また地滑りは直下を走っていた国鉄熱海線(現東海道本線)の根府川駅を襲い、停車中だった8両列車の6両が飲み込まれ、駅舎、ホームもろとも海中に没し、131人がなくなった。列車は昭和になって引き上げられたが、今も海中にホームなどが残るという。

東京にいると本所被服廠に集まった数万の避難民が四方を炎に囲まれ焼け死んだ惨事などが大きすぎてつい根府川のことなど話題にならないが、震源地は相模湾だったのである。

(ちなみに内閣府の防災関連広報誌「ぼうさい」106号で根府川駅列車転落事故のことが書いてある。
「現在の根府川駅は2・3・4番線がありながら、1番線が存在しません。これは当時もっとも海側にあった1番線が列車とともに海中に流れてしまったためで、わずかにホームの名残を残す石積みが確認できます。」
これは嘘である。
駅のホーム番線は駅長室に近いほうから番号をつけ、実際今の根府川駅は山側から2,3,4と並び、1番線は山側の貨物線であったものが使われなくなっただけである。)
13:39
JR東日本管内の東海道本線では唯一の無人駅。
日本一豊かなところを走る東海道線は、西のほうへ行っても愛知県の西小坂井駅まで無人駅はない。
無人改札の向こうに海が見えた。

広場とは言えない駅前に地図がある。
根府川駅周辺かと思ったら小田原市街に隣接する早川から根府川までのウォーキングトレイルだった。かろうじて左の端に根府川駅がある。
13:41
駅の近くに寺山神社と釈迦堂があるようだ。
行ってみる。
歩く道は県道740号だが、線路の下の海側を走る真鶴道路が2008年に無料開放されるまで国道135号線だった道である。車も少なく山村の旧街道のような雰囲気。
旧街道と言えば少し北西の新幹線のそば、白糸川に根府川関所跡がある。東海道は小田原を出るとずっと北の箱根を通っていたから、この道は小田原と熱海・伊豆を結ぶ道で小田原藩が管理していたらしい。
13:44
寺山神社の前から海側に降りる細い道に釈迦堂の案内石があった。
関東大震災の慰霊碑があるらしいので降りてみる。
13:48
脇の夏ミカンの木はほとんど管理放棄された感じで、昨年の実をつけたまま新しい花を咲かせていた。次の代が実をつけても先代が残る「ダイダイ」である。
遠くに白糸川を渡る東海道線の橋梁と相模湾が見えた。

しかしずっと道は下り坂だが釈迦堂がどこだか分からない。
さらに進めば、坂を上がってくるのがきつくなるのでここで諦め、来た道を戻った。
13:54
駅の近くまで来るとホーム越しに海が見えた。
また似たような地震が起きたら駅舎ごと国道に、あるいは海中に滑り落ちるだろう。
それは仕方がない。
景色の良いところは災害に弱いものだ。


2024年5月15日水曜日

大磯2 明治記念邸園と島崎藤村旧居

5月12日、熱海にダンスのバイトに行く途中、用はないが大磯で下車してみた。

この駅には商店街がない。
駅前の旧木下邸の西の坂を降りて国道1号線(旧東海道)を西に歩いていくと、さざれ石の交差点の先から少しずつ上り坂になる。

このあたりから南側(海側)に役場や料亭、中学校などが並ぶが、元は政府高官や華族の別邸だった。
敷地が広いから「軒を連ねる」という表現はできないが、門塀を連ねて並んだ。
砂丘のため東海道より一段と高く、家から相模湾が臨め、庭を下りて行けば波打ち際である。
11:16
旧徳川邸・山県邸だった大磯中学校の隣から長い石塀が続く。右は旧国道1号線。

石塀が途切れたところに門があった。
11:18
「古河電工 大磯荘」という表札。

長い石塀の中は古河電工の保養所だったが、元は陸奥宗光邸、大隈重信邸である。
いまは国が所有し明治記念大磯邸園を整備中。

国道からこの門へのアプローチの左に石段がある。
個人宅の表札が2つ
はて、古河電工保養所の中に民家があるのだろうか?

西の正門のほうにまわる。
11:19 
明治記念大磯邸園 正門
入場無料がうれしい。
東海道(国道1号線)と浜辺(厳密には西湘バイパス)の間をそっくり公園にする計画。

庭園ではなく邸園である。
現在整備中であり、西側の西園寺地区(公望別邸のち池田成彬邸)、滄浪閣地区(伊藤博文邸のち李王家別邸)は非公開、一番東の大隅・陸奥地区のみ公開されている。
11:22
管理事務所でパンフレット地図をもらって歩き始める。
11:23
旧大隈別邸
大隈重信が明治30年(1897)に購入し、1901年、古河財閥創業者の古河市兵衛に売却された。
公開はされたが家屋は整備中であり公園内のみ散策できる。
こういう状態では入場無料が妥当だろう。
完成したら国営ひたちなか公園、立川昭和公園の例からして入場料は450円くらいだろうか。
大隈邸は2018年、古河電工から国に寄付された。
陸奥邸を合わせて敷地25,352平米。大隈邸家屋は388平米。
11:25
きれいに手入れされた庭に、こういうところで植木職人のアルバイトをしてみたいというより、いったいいくら維持費がかかるだろう、と心配する。

もちろん大磯町では手に負えず、国土交通省が管理運営するようだ。
パンフレットの裏を見たら、
「発行:国土交通省 関東地方整備局 国営昭和記念公園事務所」とあった。

東隣りは陸奥宗光邸。
11:26
陸奥邸は372平米
1896年、陸奥宗光が病気療養のために建築した。
本邸は北区西ヶ原の現古河庭園の場所にあった。陸奥は古河市兵衛と親交があり、陸奥の次男・潤吉が14歳で子のない市兵衛の養子となった。
この関係から、陸奥の死後、東京西ヶ原の本邸、大磯の別邸ともに古河家のものとなる。
潤吉は体が弱かったため結婚せず、市兵衛の晩年の子であった虎之助を養子として古河財閥3代目とした。
陸奥宗光邸は関東大震災で一部倒壊し、栃木県足尾町に移築した。
ここに現存するのは虎之助が1930年に建てたものである。
11:26
バラ園の前だけ見物客がいた。
庭園が広大過ぎてバラ園が貧弱にみえる。
11:29
南の端に四阿があり、海が見下ろせた。
西湘バイパスもなかった戦前は、波打ち際まで自分の庭だったのだろう。
11:31
落ち葉を掃いて集めた袋。
穴を掘って埋めればいいのに。袋がもったいない。
それよりも、広大な庭園でこの程度集めても無駄だし、どうせ全部掃除しきれないのだから、通路部分だけ両側に落ち葉を掃き寄せるだけでいいと思う。
アルバイトというのは費用対効果など関係なく言われたことだけ何も考えずにやる。やらせるほうも予算があるから使わなくてはいけないし、何か指示しなくてはならない。

落ち葉の袋の向こうからテニスボールを打つ音が聞こえた。
隣は大磯中学のグラウンド、かつては山県有朋の別邸であった。
11:32
庭園内を流れる川の跡。
古河財閥がこういう広大な邸宅を取得できるのは分かるが、政治家がなぜ買えるのだろうか?
11:35
公開されているとはいえ、庭園の大部分は草が繁っている。
もっとも、きれいに刈り込む必要はなく、このままでもいいと思う。

帰り際、事務所を通ると中にシニアの方が4人くらいいらした。
アンケートを頼まれて書いたら絵葉書とボールペンをもらった。

敷地の東の端で見た民家の表札について聞いたら、まだ住んでいらっしゃいます、とだけ教えてくれた。園内見取り図には緑地のように描いてあり不自然なので、昔の古河邸と関係があった家なのか聞いても「いえ、まだ住んでいらっしゃいます」という返事を繰り返すだけだった。
11:42
絵葉書とボールペン

明治記念大磯邸園の大隈・陸奥地区の西隣は立派なマンション。
11:44
大磯プレイス。
ここは民有地で元佐賀藩主の鍋島直大(なおしまなおひろ)の邸宅跡。

そのまた西隣は再び明治記念大磯邸園の滄浪閣地区。
11:45
現在工事中で入れない。

滄浪閣は1896年に伊藤博文が別邸として建て、翌年本籍を移して本邸とした邸宅の名前。
伊藤の死後は李王家に譲渡され、別邸として使われたが関東大震災で倒壊、建て直された。
戦後は米軍に接収されたが、返還後、1951年に西武が取得、54年には大磯プリンスホテルの別館となった。
11:47
古い歴史的家屋を修復するだけでなく、何やら新しい建物も立てているようだ。

明治記念大磯邸園の設置が閣議で決まったのが2017年11月。
古河地区の庭園工事が2019年10月、2020年11月には庭園の一部を公開した。
2021年からは滄浪閣地区の庭園工事、さらには3地区の建物改修工事も始まっている。

ここからさらに西へ歩いていけば吉田茂邸に行く前に、徳川篤守(清水家)伯爵別邸跡、梨本宮守正王別邸跡などもあるみたいだが、きりがないので引き返す。
(梨本宮の娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王族となった李王・垠(ぎん)に嫁いでいる。親子は滄浪閣で会っていただろうか)

大磯には150戸の別荘があったと言われるが、総理大臣経験者だけでも8人が居を構えた。(今回ブログで触れなかったのは寺内正毅と加藤高明。彼らは東海道沿いの浜辺ではなかった)

この日、私は東京から東海道線の各駅停車で1時間5分で来た。当時もそれほど変わらないだろう。軽井沢、日光などと比べて時間的にも近く、さらに駅から歩ける。温暖でもある。海があって富士が見える。人気があるわけだ。

駅への帰り道は、国道の北側、低いところにおりてみた。
11:52
鎌倉を思わせる住宅街である。
この道は統監道という。
統監といえば、朝鮮統治のときの言葉しか知らない。総督との違いは何か。
1905年、日露戦争の勝利によって設置されたのが韓国統監府で、初代統監はもちろん伊藤。伊藤は1909年に満州で暗殺され、翌1910年、日本は朝鮮を併合、そして設置されたのが朝鮮総督府である。
11:55
統監道は伊藤博文が開いた道路というが、彼が土を運んだわけでもないし私財を出したわけでもなかろう。
さらには韓国の人が不快に思う道路名だが、道路は名前がついていると便利だし、当時はこの名前に全く違和感がなかったのだろう。
11:55
この町は思ったより歩いて楽しい。
駅のすぐそばに海も山もあり歴史もある。
それでいて鎌倉と違って観光客がいない。
11:56
駅に向かう途中、住宅街の中にいかにも散策している人が見えた。
11:57
行ってみると島崎藤村の旧宅だった。
11:59
誰もおらず、恐る恐る入る。
すぐ、庭に面した書斎だった部屋に案内のご婦人が座っていらした。
入場無料。
昭和16年1月、藤村は湯河原に来る途中、左義長見物で大磯に寄った。ここで大磯を気に入り、翌月から、敷地145坪、建坪24坪の平屋(貸別荘)を月27円で借り、翌17年8月にはサラリーマンの30年分に相当するという1万円で買い取った。
しかし昭和18年8月、静かに永眠した。大磯生活は2年半だった。
11:59
こちらは居間
12:00
向こうの家は一帯に立ち並んでいた別荘の管理事務所であったが、藤村が書庫にしようと買い取った。戦後静子夫人が建て替え、母屋を大磯町に寄付したあとは、こちらに昭和48年に亡くなるまで姪と住んだという。

受付の上品な女性と話をすると、彼女は藤村のことを「先生」といい、海岸で見つけた大きな石を人にこの庭まで運ばせたとか、いろんな話をしてくださった。そのたびに「先生」というので、よほど藤村のことが好きなんだな、文学少女だったのかな、ちょっと話を振ってみようかなと思った。
ところがそこに女性観光客が二人きて、色々話し始めた。やっと彼女らが庭の奥のほうに行ったので、さあ信州木曽の馬篭の話からしようかと思ったら、また老夫婦の観光客が入ってきた。
もうここで諦め、礼を言って藤村邸をあとにした。
よく考えたら私は藤村の作品を一つも読んだことがなかった。
12:12
大磯駅に戻ってきた。
10:45に駅を出発したから1時間半の観光散歩だった。

駅に入ると熱海行きは12:32発。
改札口前のベンチに座りながら、かつてはこの駅に貴賓室があり、政府高官たちはそこで汽車を待ったらしいことを思い出した。

(続く)


(追記)
陸奥宗光の東京本邸は西ヶ原にあったが、鶯谷駅近くの根岸に別邸があった。
千駄木から自転車で見に行ったことがある。


2015₋09₋22
本邸、大磯別邸と違い、住宅街の中にあり敷地も狭い。
陸奥宗光が死去した後は長谷川武次郎氏が所有し、その後西宮邸、西宮版画店となったらしいが2015年は人の気配がなかった気がする。