2021年3月29日月曜日

浦和3 玉蔵院から埼玉会館、県庁まで

3月21日、赤津さんのパーティが浦和であり、その前に駅の西口を散策した。かつて浦和一の繁華街とされた旧中山道も、駅前の発展と対照的に閑散としていた。

2021‐03‐21 11:38
その中山道から西に参道が伸びている
初めて入る。

宝珠山玉蔵院延命寺
お寺は山号、院号、寺号、仏像名、4つのうちどれかで呼ぶ。
ここがなぜ玉蔵院を通称としたのか知らない。

弘法大師がいる。
江戸時代に真言宗豊山派となったらしい。

浦和は板橋、蕨に次ぐ中山道3番目の宿場として栄えた。
しかし平安時代創建というのは、それ以前から浦和に町があったのだろうか? 
市場(六斎市)があったというのは、むしろ寺以降のことだろう。

ちなみに蕨宿と浦和は近いと思ったが、大宮宿のほうが後で、浦和の次は上尾だったらしい。
山門は閉まっていたが、裏に行くと開かれている。
生垣の向こうは中央公園
11:40
樹齢百年という枝垂桜が有名

こんな石が欲しいが、我が庭には置く場所がない

墓地は戦後、区画整理で東の原山のほうに移転したというが、どこにあったのだろう?
すぐ南は中央公園、広場、埼玉会館に続く。

11:45
広場に明治天皇浦和行幸の記念碑
明治元年、三年、大宮氷川神社にいらしたときか。
浦和宿本陣に休まれたとされるが、ここが本陣跡だったのだろうか?
あるいは碑をここに移しただけか?

浦和高等女学校発祥の地という碑もあった。1898年創立、間もなく現在地の岸町に移転したが、浦和一女という言葉は、埼玉出身でない私にも特別に響く。妄想のように素敵な女性が浮かんでくる。
広場の隣は埼玉会館。
11:47
1981年7月9日、就職して埼玉に住んで1か月たったころ、小平清美さんとここに来た。岸田智史のコンサート。「きみの朝」の大ヒットの2年後。終わってから県庁のほうに坂を下り、小さなお好み焼き屋で食事した。
お互い結婚して連絡も途絶えたが、いちど偶然、伊奈の町制施行記念公園で子供を連れておられるところを遠くで見た。
当時はリチャード・クレイダーマンの音楽が商店街やいろんなところでかかっていたことも思い出す。岸田智史には武田鉄矢以前に金八先生の話もあったようだ。

11:51
埼玉会館から西に下ると向かいの高台に埼玉県庁

2度ほど来たことがある。
最初は1984年3月、新婚旅行に行くためにパスポートを取りに来た。
当時は今ほど渡航者も多くなく、大宮のパスポートセンターもなかった。
今は各自治体の窓口でも取れるようだ。


2回目に来たのは9年後の1993年4月2日
36歳、企業の研究職であったが、自分が打ち込めるだけの研究テーマもなく、ただ業務をこなしているのがいやになったのだろう。それまでも何回か転職を考えていたがこの時は本気だった。しかし同業他社へは簡単ではないし、だいいち同じような状況に陥るかもしれない。そこで考えたのが高校の教員だった。

今のようにネットもないので、とりあえず県庁に来た。教育局免許係にいって「どうやったら先生になれるでしょうか?」と聞いたのだから素朴というか乱暴である。

理科教員になるには、あと教育原理、教育心理、理科教育法の三科目の単位と教育実習が必要で、ほかの大学で取得してもいいとわかった。休暇を使って毎週通うとなると少しでも近い大学が良い。この日、その足で埼玉大学に行くと聴講生として受け入れてくれるという。ところが所属上長の承認が必要と言われ、考えてしまった。面倒だな。

悩んでいるうちに5月になって留学の話が出た。すでに会社から一人行っている研究室であったが、先方はCaチャネル拮抗薬の電気生理をできる人が欲しいという。
ひそかな教員免許取得の試みはいったん取りやめた。

2021‐03‐21 11:53
ここに岩槻城の長屋門を移設したという。
ちなみに、廃藩置県で岩槻県(大岡2万石)、忍県(奥平松平10万石)、浦和県(旗本、幕府領)ができ、3県が合併したとき県庁は岩槻に置かれる予定だった。岩槻が埼玉郡であったため県名は埼玉県となる(浦和は足立郡)。岩槻県と称さなかったのはほかの関東の県と同じく薩長への恭順が薄く、幕府時代の城下町名が使えなかったからか。
この旧埼玉県は西の川越を中心とする入間県と合併し今の県域となった。

県庁の敷地は思ったより広い。
教員免許について話を聞いた窓口の場面はうっすら覚えているのだが、建物は分からない。

さて、ここにきた4か月後の1993年8月、シンシナチに留学した。
そこで京都の森泰生氏に会い、帰国後イオンチャネル創薬を自分のテーマに据える。転職するという考えはしばらく引っ込んだ。

ところが県庁に来てから20年後の2013年、「違うところに住んで、違う仕事をしたい」と、昔とまったく違う理由で転職した。
くしくも教育職だった。
しかし8年やって、自分にはあまり向いていないと最近思う。
1993年に高校教員に舵を切らなくて本当に良かった。

1993年5月に出身大学で発行してもらった「単位修得証明書」が残っている。
免許教科・理科(高等学校一種)のための49.5単位が似たような取得科目で読み替えて証明されていた。理科以外に必要な日本国憲法2単位、体育2単位も取得したと書いてあった。憲法は直接関係ない法学を1コマだけ、体育はテニス、卓球など4期4コマ受けたんだけどね。


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2021年3月27日土曜日

メジロも桜が好きなのかな

昨年に続き2021年も暖冬。

東京靖国神社のさくらは平年より12日早く3/14開花した。
これは暖かかった昨年と同じで観測史上最速という。

我が家の桜は標本木より毎年遅く、3/19朝、7~8輪以上開花していたのを確認。
風の当たらない根本のひこばえなどは二日ほど早いがカウントしない。
昨年の開花は3/18だったから全く同じ。

2021-03-22
3月22日、靖国神社の標本木は8割以上開花し満開宣言。
しかし我が家はまだまだ。
その後、暖かい日が続き、こちらの木も花が増えていく。

2021‐03‐26
6割かな? だいぶ大枝を切ったから迫力はなくなった。
先月の切り口は生々しく、このまま周囲の細い枝が枯れずに伸びてくれればいいのだが。

リビングのコタツからも見える。
この家は私が谷中にいたころの1979年築、もう42年前だが、建てた人は桜のことを一番に考えていたようだ。
樹齢不明だが10年前の当時70くらいの人が子どものころ植えたという。

2011年にここを見つけ2012年8月自分のものになった時、周囲3メートルの文京区保護樹木を職場で自慢した。翌年春になったら花見をしようと約束したのだが、引っ越す直前に転職してしまった。2013年4月荷物運び入れるときは散ってしまった後だったのか、桜の記憶はない。

花見は時期が短いためセッティングがむつかしい。
その後はいつも気づくと過ぎてしまい、誰も来ない。
毎年一人で眺めている。

今年はとくにテレワークで毎日のように見ている。
PC画面に疲れ、顔をあげると目の前に広がる。
風の強い日は花が舞うように散る。
リフレッシュしてPC画面に戻るつもりが、去っていく花びらが気になり、また色んなことを思い出したりして仕事に集中できない。

2021‐03‐27
 この日は広島でやっている日本薬学会の初日、午後からズームでポスター発表する。

ふと、風もないのに花が散った。

10:53
メジロが花をつついていた。
体色の似ている鶯が虫や木の実を食べるのに対し、メジロは花の蜜を好んで吸う。
地方によってはハナスイの名もあるとか。
目白押しも見たいが一匹だけだった。

2021‐03‐27 8:57
7、8割かな

昨年の3月27日、東京の感染者は54人、累積で326人。
https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/cards/positive-number-by-diagnosed-date/
連休と花見で広がったと騒ぎ、4月7日に最初の緊急事態宣言を出したが、今から思うとかわいい数字。


2021年3月25日木曜日

浦和2 駅の改築とコルソ、柏屋楽器

 3月21日、赤津さんのパーティが浦和パルコの上、コミュニティセンターであった。

2021‐03‐21 東口
1階から7階までシネマ、レストラン含む商業施設、8階から上、図書館やコミセンのある公共部分はコムナーレというらしい。ビル全体はストリームビルというみたいが、みな浦和パルコと呼んでいる。
 浦和駅1984‐86 国土地理院
2007年開業のパルコができる前、東口は駅前広場すら十分ないような裏口だった。

1981年埼玉に住み始め、85年に埼京線を使うまで、浦和駅を毎日通過していた。埼京線ができてからもたまに本屋などに来た。
とくに83年から89年までは東大宮にいたから、浦和駅の4番線ホーム(宇都宮線下り)に立つと、線路の向こうがブロックの壁になっていて、飲食店の換気扇の出口などもあり、その上を貨物列車が通過していた。
1988年、貨物線を高崎線、宇都宮線の通勤電車が1時間に1本程度通るようになる。
2004年、それらが浦和駅にも止まれるよう、駅の大改造が始まった。
電車の運行を止めずに、貨物線のホームを新たに作らねばならない。またホームの分だけ幅も広げなくてはならない。
2007
線路工事は東口の再開発と一体化したもので、一番東の1番線(京浜東北線南行き)の東に新たに高架の線路を作り(上の航空写真)、順次線路を東側に移していった。
2013年3月、9年の工事で新たな5,6番線が完成、湘南新宿ラインが止まるようになった。私はちょうど転職、引っ越したときで、ばたばたしていてこのニュースは記憶にない。
2015

2021
5番線から3,4番線を見おろす。

2021
3番4番も高架になって、かつての貨物線との高低差も小さくなった。

浦和駅は中山道のある台地の東ふちに作られたため東口が低い(別ブログ)。
だから改札は東口からだと1階だが、高い西口から見ると地階になる。
改札から西口への階段が見える

昔は改札から各ホームまで狭い地下道のようなところを通ったが、今や広い東西連絡通路ができ、線路の高架化によってできた広い駅構内にはアトレなどきれいな店がいっぱい並ぶ。

2021‐03-21 
しかし西口広場に立てば、景色はそれほど変わっていない。

伊勢丹とコルソは、別だと思っていたが、全体でコルソというらしい。
専門店の入るコルソがA棟、伊勢丹側がB棟。
埼玉は大きな書店がなくて、大宮のそごうに三省堂(1987年)、ロフトにジュンク堂(1999年オープン、いま高島屋に移転)ができるまでは浦和の須原屋しかなかった。中山道の本店は少し離れていたが、コルソに支店があったのでよく立ち寄った。
ダンスショップのセキネもあったな。
コルソと伊勢丹は各フロアでつながっているため、歩行者が向こう側に行けるよう、間に通り道がある。抜けると柏屋楽器店。

2002年12月、家の近くでジュニアオーケストラを作るという話があり、当時小学4年生だった次女が興味を持った。
私はそれまでバイオリンというものに触ったことがなかった。当時はまっていたヤフーオークションに中国製の新品、5000円のバイオリンが出ていたので買った。
届いて早速弓を動かしても全く音が出ない。松脂を塗ったら大きな音が出てびっくりしたほどのド素人。それでもギターの経験があったので、きらきら星はすぐ弾けた。
バイオリンで何十万以下はおもちゃと言う人がいるが、すぐ飽きる私にはこれで十分。たとえ何百万しても値段に見合う音色の有難さは分からない。
次女に買った子ども用は15800円だった。彼女は楽しんで練習し上達、高校生のときバンドを組んで学園祭でかっこよく弾いていた。

この柏屋楽器にはバイオリンの弦、肩当や譜面台など小物をしばしば買いに来た。
大宮の下倉楽器などより安かった。

浦和に来る時は必ず古書店巡りをした。
大宮の古本屋は漫画と文庫とエロ本がメインで、掘り出し物がない。埼玉では浦和と川越にいい古書店があった。
11:19
中でもコルソの裏の古本屋は一番で、1995年ころからよく来ていたが、なくなっていた。
1997年2月9日、ここで戦前の新聞や修身の教科書など見つけて買っている。
昔の日本史教科書は神話から始まっていた。

コルソA館を西に通り抜けると、歩行者専用道路が埼玉会館まで続いている。
途中、旧中山道にぶつかる。
浦和で一番の通りのはずだが、繁華街という感じはない。
2021‐03‐21 11:36 須原屋本店
かつては埼玉一の書店、わざわざ電車に乗って来たものだが、今ここに立っても入る気がしない。ネットに無料で読める文章が氾濫しているのも原因だろう。本屋が減るわけである。
そのまま、すぐそばの玉蔵院の枝垂桜を見に行った。

別ブログ

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2021年3月22日月曜日

浦和1 調神社の狛兎、古代の地形と倉庫

3月21日、雨、ダンスの帰りに調神社に行った。

過去に2回ほど来たことがある。

ずっとツキノミヤジンジャと呼んでいたが、ツキジンジャあるいはツキノミヤ(調宮)というらしい。確かに。私は屋上屋を架していた。

2021‐03‐21 16:10 
狛犬の代わりに狛兎
しかし狛犬は高麗犬。「コマ」に入り口を守る像という意味はない。
唐の獅子像が仏教とともに伝わったとされるから、狛兎という言葉は適切でない。

16:10
伊勢神宮への初穂、貢物を集めるために蔵を建てたのが始まりという。
鳥居がないのは荷物を運ぶのに邪魔だから取り払われたとか。

調神社の調は、租庸調の調。ツキと読む。
昨今、ミツギは「貢」しか使わないが、本来は「御調」であろう。

彼らは蔵の周りに祠(小さな神社)を建てたであろう。集積場としての役割が終わってから、その神社をミツギの蔵のヤシロと呼び、それが「ツキのお宮」、「調の神社」となったのだろう。

ツキのお宮から、月=兎となり兎の像になったのだろうが、だ洒落の好きだった江戸時代からのような気がする。
手水鉢の水が兎から出ている
観光客を意識して作ったのでは?

入り口の兎は新しそうだから、以前はこちらが飾られていたのだろうか。

お百度参りの数え板
一枚ずつ、手で動いた。
今でもお参りする人いるのかな?

池の中にも兎。
こうなるとしつこい。名所化しようとしたのではないか?
入り口の1対で止めておいたほうが品がある。

16:18
池を回って奥に行くと、ガラス張りの小屋に入った小さな社があった。
臨時の立て看板のような説明を見れば、
調神社稲荷社(調神社旧本殿)
とあった。

今の本殿は安政6年(1859)竣工というから、こちらは江戸時代初期のころか。
神輿の大きなものという感じ。
神輿はportable shrineということを思い出した。

昔の神社は森とか岩、山を神聖なものとみて、前に祭祀を行う広場があっただけだったという。そもそも社殿は小さかった。大きくなったのは仏教、寺院の影響か。

さて、ここは伊勢神宮あるいは朝廷におくる調の集積所だったという。
当時は道も悪く、船で運んだであろう。
ここは大宮浦和台地にあり、その南は東京湾まで続く低地であった。
すぐ近くまで船がこれただろうか?
16:21
神社の南は確かに下っているが船が入れるほどの入り江があったとも思われない。
帰宅後、国土地理院の地図で高低差を確認した。

中央の十字が調神社
神社のすぐ南の浅い低地には船が入るほどの川はなかったであろう。
東から水路を掘ったなら別だが。
水量のある川は南西の白幡沼あたりなら考えられる。
そのあたりに陸揚げして、蔵の場所まで運んだのかもしれない。
ここに集めたのなら、都や伊勢に送るのは南の東海道ではなく、北の東山道を通っただろう。

・・・
室町時代、江戸時代以降の近代の神社は各部落の一角に作った(氏神)。
しかし古代は集会所とか蔵とか公共の施設が神社に転用されたのかもしれない。豪族の屋敷内の祠が地域の神社になったこともあろう。湯島の天神や嬬恋神社は出城(砦)、船着き場だったかもしれないし、香取、鹿島の神宮は、大和朝廷の東征前進基地だったという話を聞いたことがある。
調神社には、そういう遠い時代を想像させるものがある。

・・・
調神社には一つ思い出がある。
1995年ころから近くの古本屋に来ていた。
16:28
建物はあるが廃業されたようである。

2001年2月11日、この本屋から出た時、向かいの洋品店から高校生?中学生?が二人、ハンガーにつるされた服を持ったまま走ってきた。
「ドロボー」という声が聞こえたかどうか忘れたが、すぐに追いかけた。後ろの一人が調神社の手前の横道に入り、塀を乗り越えようとした。追いついて服をつかもうとしたが私の手が滑って逃げられた。

彼が放り捨てた服を拾い、持って行ったら感謝された。
住所を聞かれたから書いたら、後日、靴下を送ってきてくださった。
16:29
その洋品店はもうなかった。
当時、彼らは盗んで道を斜めに横断して逃げた。
わずか10年前だが、旧中山道は狭かったのか、あるいは車がいなかったのだろうか?
少なくとも今より古い家が多かったのは間違いない。


たいていの人は殴り合いなどしたことないだろう。
私も人を殴ったことはない。
殴ったら自分の手はどのくらい痛いのだろう?
一度も経験しないで人生を終わるのだろうか?
もしあのとき調神社の塀で万引き高校生を捕らえ、つかみ合いになったら殴るチャンスがあった。体力では負けるが向こうは後ろめたさがあるからこちらが有利。たとえ殴られても貴重な経験になっただろう。
何年かに一度、そんなことを考える。

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2021年3月21日日曜日

本駒込、千駄木でキャッチボールできる公園

夕方、息子が珍しく来たのでキャッチボールをせがんだ。
64歳、どのくらいの球が投げられるか?
体力チェックとして、年に一回の健康診断より重要。

ボール遊びができる金網のある公園に行く。
昨年キャッチボールした都立駒込病院の公園にいったら網の中が子どもたちでいっぱい。
少し先の動坂公園も混んでいたので神明公園に行く。

2021‐03‐21 神明公園
稲荷坂の途中、1977年21歳、この坂の下のアパートに住んでいた。
部屋に電話がなかったので、夜、ここの公衆電話を使っていた。
いろんな思い出がある。
あれだけ電話をかけに来たのに、公園の中に入るのは初めて。

中学生が三角ベースをやっていた。
しかしわれわれが入っていくと場所を空けてくれ、そのうちいなくなった。

大人になった息子に相手してもらうのは、2017年3月、2020年1月以来、3回目。
まあまあ投げられた。

息子は小学4年の時ソフトボールチームに入った。人がいなくて1年生の次女まで入れたという弱小チームであったため、ショートの息子のところに球が飛ばないとアウトをとれなかった。彼はとても熱心だったので近くの土屋公園などで練習に付き合ってやったが、いまや立場は逆転、私が頼み、彼が本気で投げられたら怖くて受けられない。

あまり調子に乗って肩が上がらなくなると困るので適当にやめた。
2021‐03‐21 17:07
帰路、動坂公園に立ち寄る。

1977年は、毎朝この脇を自転車で通学した。

動坂公園の金網の中はバスケットのゴールもあるのでいつも混んでいる。
しかしみな帰ったのか誰もいなかった。
向こうに本駒込図書館、勤労福祉会館のビルが見えた。

息子は中学、高校と6年間軟式野球部に入った。
しかし都会の学校はグラウンドが狭い。
グランドの使えない日は皆でこのあたりの公園で練習したという。
彼らはキャッチボールのできる(金網のある)公園をすべて把握していた。

不思議なことに金網のある公園は千駄木、根津になく、本駒込の駒込病院付近に集中している。神明、動坂、駒込の3つにはあるが、少し北の富士前公園、神明北公園に金網はない。

昔のように小学校のグランドを開放すればいいのに、責任を強く求められる現代は、役所、当局は「自分からは何もしない」傾向になる。

道路を渡り、最初に寄った駒込病院の公園をのぞいた。
2021‐03‐21 17:14
ここは旧駒込動坂町であり、かつ動坂に面している。また動坂遺跡の場所でもあるのに、「動坂公園」の名は隣に取られた。
その代わりについたのがもっと大きな名前「駒込公園」。
かつては駒込病院の敷地内だったしね。
今「駒込」というと山手線の駅の周りを思うが、昔は東大の北側から始まる本郷区の広い範囲、すなわち今の千駄木も向丘も駒込だった。これは文京区大塚と大塚駅の関係に似ている。

縄文時代の動坂遺跡
弥生時代を経て、山林から畑になり、江戸時代は鷹匠屋敷、明治になって避病院となる。
すなわち伝染病の隔離施設である。薬がなかった時代は隔離しかなかった。

その隔離病院は都立駒込病院となり、がんと伝染病を専門とする拠点病院。
敷地の一部は駒込公園と、都営バスのロータリーとなり、駒込遺跡の記念モニュメントも置かれている。

駒込公園はトイレがあるので、横の道にタクシーがよく休憩している。
桜は我が家の木よりだいぶ咲いていた。
ここもあんなに混んでいたのに誰もいなかった。
このあたりの子供は良い子で5時になったらきちんと帰るのかな?
と思ったら、網の中の使用は17時までと書いてあった。

3つの公園の敷地は以前何だったのだろう?
国土地理院1945-50
左に稲荷坂、右に動坂、不忍通り。
上に都電車庫、下に駒込病院と天祖神社。
神明公園の場所は緑が多いが、公園とか工場とかではない。
動坂公園も一つの区画ではなく、一般の住宅地のように見える。

先月結婚した次女の夫は野球が好きなようだ。
彼と次女を呼べば4人になるからノック、守備練習ができるな、
と息子と話しながら帰ってきた。
「本当は孫とやりたいんだけど」とは言わなかった。


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