2021年1月29日金曜日

隅田川の橋、永代橋の名前

 1月24日、神田駅のそば、新常盤橋から日本橋川に沿って下流に歩いた。

この川は江戸時代以来のビジネスの中心地を流れ、最後は豊海橋で隅田川に合流する。

(別ブログ)

2021-01-24 14:15
日本橋川の終点、豊海橋から永代橋を見る。
向こうは深川、越中島。

隅田川は永代橋を過ぎて石川島にぶつかり、右(西)が隅田川、左の越中島との間の水路は晴海運河と呼ばれる。上の写真だと隅田川は永代橋の先で右のほうに隠れていき、橋の向こうに伸びるのは晴海運河である。

江戸時代に隅田川にかかっていた橋は5つだけ。
江戸防御のためもあるだろうが、本所深川を除けば、川向うは人があまりいなかったのだろう。
その5つとは
千住大橋 文禄3年(1594) 、
両国橋 万治2年(1659)、
新大橋 元禄6年(1693)、両国橋が大橋と言われていたため。
永代橋 元禄11年(1698年)
吾妻橋 安永3年(1774年)である。

元禄は綱吉の時代に2つ続けて架けられた。
14:15
永代橋の浮世絵パネル
右の白い橋は日本橋川にかかる豊海(とよみ)橋。

永代橋という名は、橋あるいは幕府が末永く代々続くようにという慶賀名だと思っていたが、対岸にあった中洲、永代島にわたるための橋だったという。
永代島はいまの江東区の永代、門前仲町、富岡に広がる地域である。1624年、その中州に永代寺が創建され(だから永代島になった?)、すぐ永代島八幡宮(のち富岡八幡)も建てられた。

永代橋と佃島(広重)

富岡八幡は江戸最大の八幡、深川八幡として幕府の保護を受け、永代寺も別当寺として栄えた。しかし明治になって永代寺は神仏分離で廃寺となり、敷地は深川公園や深川不動(成田山新勝寺の東京別院)となった。門前仲町は深川不動ではなく、永代寺の門前である。

その後、明治29年になり塔頭だった吉祥院が名を継ぎ、参道途中の小さな寺として永代寺を名乗っている。

明治11年
中央に永代橋あり

さて、当時の永代橋は、日本橋川河口の北側、箱崎のほうにあった。
隅田川も海に入るところで、当然これより南に橋はなかった。

文化4年8月(1807)富岡八幡で12年ぶりに江戸三大祭りの一つ、深川八幡祭りが行われ、江戸市中から多くの群衆が橋を渡って押し寄せた。ところが、その重みに耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分が崩れ落ち、だが後ろから群衆が続々と押し寄せ、死傷者・行方不明者、1400人を超える大惨事となった。

日本銀行発祥の地
(道は右にカーブして豊海橋を渡っている)
明治になって、日銀は永代橋のたもとにあった建物を利用して営業を始めたが、すぐに常盤橋のところに移転した。

永代橋は、明治になって老朽化が進んだため、1897年(明治30年)、日本橋川を挟んで対岸(南)の現在の場所に再架橋され、それまでの旧永代橋は廃止された。

新しい橋は道路橋としては日本初の鉄橋、頑丈で、1904年(明治37年)には路面電車も敷設された(1972年11月廃止)。しかし大正12年の関東大震災で炎上し、1926年、再架橋される。

永代橋は渡ったことはないが、その地下を通る東西線はよく乗った。門前仲町、東陽町、葛西でダンスをしていたからだ。

14:16
上の写真、地図看板の右うしろに薄く見えるタワーマンションは石川島かもしれない。
なお石川島は佃島の北にあった島だが、埋め立てられて佃島と陸続きとなり、住所も佃島2丁目。
14:21
日本橋川河口北岸は日本IBM本社
日曜、コロナでひと気なし。
1階にはコンビニの他に保育所あり。

家康入府から70年近く千住大橋しかなかった隅田川も橋が増えた。
この地点(日本橋川河口、北岸)の下流は埋立地が広がったこともあり、
永代橋 150m先
中央大橋 750
佃大橋 1300
勝鬨橋 2150m

上流には
隅田川大橋 200
清洲橋 650
新大橋 1250
両国橋 2100
蔵前橋 2950
厩橋 3350
駒形橋 3850
吾妻橋 4100
言問橋 4700
桜橋 5150
白髭橋 6700

14:33 
隅田川大橋から下流を見る。
永代橋の向こうは佃島のタワーマンション群。
やや右のほう、そこへ渡るための斜張橋の中央大橋が小さくみえる。
「斜張橋」という言葉はお隣にお住いの伊藤学東大名誉教授が名付け親である。
先月90歳になられたが、毎朝根津神社まで歩くことを日課とされている。
今月はコロナと寒さで休まれている。

隅田川大橋から上流側を見る。
上は首都高9号深川線、川底深く地下には半蔵門線がとおる。
小さく見えるのは清洲橋。

東岸にわたり上流へ行く
14:39
隅田川大橋、西詰の穴あきビルは、ダイワリバーゲート。
1994年「リバーサイド読売ビル」として竣工、中央区では4番目の高層ビルだった。2015年大和証券オフィス投資法人が信託受益権を取得、この名前になった。穴(ピロティ)の両側は賃貸しマンション、穴の上はオフィス、三井製糖、吉野家などの本社が入っている。

14:39
清洲橋
こちらは斜張橋でなく吊り橋である。
震災後に永代橋とともに計画、昭和3年竣工。
東岸は清澄町だが、橋の名は深川区清住町と日本橋区中洲町から一文字ずつ採られた。

次回は清洲橋から浅草まで歩こうかな。


2021年1月27日水曜日

日本橋川を、常盤橋から海まで歩く

普通、川があって橋が架かるから、川の名前が先にある。

奇妙な名前の日本橋川は、明治になって命名されたものである。

「江戸はこうして造られた」鈴木理生(2000)

もともと家康入府前、今の神田川の水はすべて平川として日比谷の入り江に流れ込んでいた。
家康は築城よりも都市計画を優先させた。
日比谷を陸にするため、江戸前島(銀座当たりの微高地)を掘削して平川の水を東に流した。併せて城下まで物資輸送できる道三掘を掘った。(上の写真の図)

その後駿河台を掘って神田川(平川)の水を外堀として隅田川に流すと、平川は途中埋められたこともあって堀のようになり、川というより濠と物資輸送の水路になった。
それが明治になり再び飯田橋との間を掘り川に戻し、このとき日本橋川とされたらしい。
(別ブログ)

(Goo辞書「江戸城門」から拝借)

小田原北条攻めの時、秀吉が戦後処理として、目障りな家康を東海から遠い関東に押し込もうとしたとき、渋るであろう家康に「水運が使えるから」と強く勧めたとか。


2021年、雨が降ったりやんだり、寒い1月24日、神田駅から日本橋川に出て、海まで歩くことにした。
2021-01-24 13:07
このあたり中山道の角度で道路が碁盤の目に出来上がってから鉄道が斜めに通ったから、斜めの交差点が多い。写真左の鋭角のビルは石づくりでいい感じだが見たら1990年代だった。いい趣味である。
このあたり高架鉄道は昔のままレンガが使われている。
この工事はそれを生かす方向に行って欲しいな。

京浜東北・山手線にそって歩けばすぐ新常盤橋交差点。
日本橋川である。
13:14
新常盤橋と東北新幹線
1988年架橋というから新しい。
時期からして東北新幹線の南伸に伴う工事、区画整理で新たに道路ができたのだろう。
上は首都高都心環状線。

目を下流に転ずれば石橋と江戸城の外郭門。
旧常盤橋と常盤橋御門

昔は水路や掘が多く、その割に橋が少なかった。その橋をお城に向かって入れば、入ったところに枡形門があった。常盤橋御門はその一つ。

奥州・水戸街道は東の日本橋が起点だが、将軍、大名などがお城や大手町から東北、常磐(じょうばん)諸国に向かうときはこの門から出入りした。田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)と共に江戸城と街道を結ぶ要所として江戸五口に数えられた。

明治10 年(1877)、それまでの木造橋は洋式2連の石造アーチ橋(通称、眼鏡橋)に架け替えられた。現存する東京最古の石橋。
手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れた下流に建設されたが、旧橋は「磐」の字を用いた「常磐橋」という名で呼ばれる。これは「皿」が割れて縁起が悪いことからこの字にしたともいわれるし、新橋と区別する意味もある。

13:16
工事中の常磐橋
旧橋は経年と東日本大地震による損傷で2011年から通行禁止となっており、2013年から修復工事が行われている。本来は2020年中に完成予定であったが、コロナの影響か遅れている。

周辺地域では「常盤橋街区」として超高層ビル建設など大規模な再開発計画が進んでいるが、人々は何で開発が好きなのだろう? 開発しなくてもいいという人もいるだろうが、開発好きな人が世の中を動かしていく。
13:17
日本橋川に沿う外堀通りに面して日本銀行本店

常盤橋から常磐橋を見る
石垣を積まれた常盤橋御門は最も保存状態が良く、見学したかったが向こう岸なので次回に回す。

13:18
高速道路の橋脚で常磐橋がよく見えない。
ここで一時的に川から離れ、日銀本店、三井本店、三越を見た(別ブログ)。

13:43 三越本店
日銀の貨幣博物館など寄り道したが、日本橋で川に戻った。

日本橋川は古くから川に面して荷揚げできるよう両側が建てこんだため、神田川中流のように川に沿った道がない。川面が見えるのは空き地を除くと基本的には橋のところだけ。

常盤橋の下流は
・一石橋 
外堀通りが渡る。北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があり、破損したときは両後藤の援助で再建された。そのため後藤の読みから五斗+五斗で一石、という洒落から名付けられたとか。
・西河岸橋
日本橋から一石橋までの右岸一帯は、西河岸町という地名であった。
初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋だったが震災で破損、大正14年に現在の橋に架け替えられた。

一石橋のそばは呉服橋交差点という。
呉服橋は外堀川にかかっていたが、第二次大戦後のがれき処理で埋められ、橋も消滅した。(下図)

明治40年頃

さて2021年、日本橋から川筋に戻る。

13:43
日本橋魚市場発祥の地
像は乙姫らしい。
日本橋の魚河岸は、1923大正12年の関東大震災で焼野原になり、その後の復興計画によって海軍の転出した築地に移った。


遊覧船(左)は休業していた。

乙姫様の横から見下ろせば、首都高で頭を抑えられて日本橋もかわいそう。
東京オリンピックや新幹線より、首都高の廃止あるいは地下化のほうが先だったのではないか?
東欧などGDPは低くても古い景色の良い街並みは民度が高い国に見える。
日本も生活は十分な水準に来たのだから、もう金儲け、経済優先でなく、少し身なり(景色)に気を配って民度の高い国として見られたい。

13:45 麒麟
一般にはビールのラベルのように翼はないが、道路の起点から飛び立つイメージで特別に付けられたらしい。

13:46 日本橋南詰
首都高の地下化は神田橋JCT~江戸橋JCTの間、1.8kmで計画されているが、着工しても10年から20年、新幹線以上にかかるらしい。JRの西からもぐり、日本橋川の下と半蔵門線の上をすり抜け、銀座線の下をくぐり、都営浅草線の上と江戸橋の下で出てくるという難工事。
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/exp-ug/pdf02/03.pdf

少し南岸を歩く。
13:48 江戸橋南詰
左、三菱倉庫日本橋本館 右、日本橋郵便局
ここは郵便発祥の地として知られる。前島密の像でもあるのかな?
渡るのが面倒だから見に行かず。
(帰宅後ネットで見たらほんとにあるらしい)

13:50 江戸橋
日本橋を見ようとするが、首都高の橋脚がじゃま。

大げさに「江戸橋」なんていかにも新しい名前だと思ったら、17世紀には架かっていたらしい。江戸、お江戸という言葉にふさわしい場所だったのだろう。まあ、日本橋なんてのもよく考えればふざけた名前だ。

江戸橋から下流側をみる
大きく右に湾曲する。


13:56 小網町児童遊園
右への湾曲は続く。
浅草寺の大提灯、日本橋小舟町はとなり。

14:01 鎧橋北詰
この付近は、古くは海との境も分からぬ茅の生い茂る沼地で、家康入府のあと日本橋川を残して埋め立てられた。江戸時代は渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。
鎧の名の由来は、一つは源頼義が奥州討伐の際にこのあたり(東京湾)で暴風雨に遭い、自分の鎧を海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったという説、もう一つは平将門が兜と鎧を奉納したという説。

初めて橋が架かったのは明治5年。橋の南には証券取引所や第一国立銀行ができた。
鎧の由来は兜町の兜との関連かと思ったが、鎧の渡しのほうが古いから、兜のほうが鎧に倣ったか。いや、兜も頼義、将門につながるらしい。

今の橋は1957年(昭和32年)にかけられた。
14:02
鎧橋から上流の江戸橋を見ると左に曲がっている。
昔、江戸湾に入った船がこの川を北西にさかのぼり、このあたりから西に向きを変えると突然富士と江戸城天守閣が見え、将軍家の権威を高めるのにも役立ったとか。

鎧橋 下流をみる
流れはほとんどなく、海が近い。
しょっぱいかな? なめる気はしないけど。

14:04 茅場橋北詰
橋を渡れば茅場町。地下鉄路線図で見るけど、行ったことはない。
いかにも茅の繁っていた湿地らしい地名。
この橋をとおる新大橋通りは震災後につくられたから橋はそれ以降。
橋の下を日比谷線が通っている。


14:08 湊橋
これは古い。幕末の地図にはある。
なお当時は水路、川に隔てられ、橋の両側とも島だった。(箱崎の島と霊岸島)
このあたり日本橋川防潮堤耐震補強工事の看板あり。

明治11年
左上が常盤橋、右下に豊海橋と永代橋
江戸橋と湊橋の間は橋がなかった。

14:14
日本橋川最後の橋、豊海(とよみ)橋
これも幕末の地図にある。
ここで隅田川と合流する。

14:15
豊海橋から隅田川にかかる永代橋を見る。
隅田川は右のほうに隠れていき、向こうに見える水面は晴海運河。

昔は広重の絵にあるように、永代橋のすぐ先は石川島、佃島だから海だったのだが、その南に月島、勝どき(明治、大正)、豊海地区(1963)と埋立地が下流に延び、その分隅田川も長くなった。

タイトルで海まで、と書いたが、うそ。
ここを終点とする。





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2021年1月25日月曜日

日銀、三井本店、三越はなぜここか?

 1月24日、朝からの雨が一時的に止んだ。

神田駅から日本橋川を海まで歩く。

それは別ブログに書く予定。

線路に沿って南下、すぐ外堀通り、新常盤橋北詰で日本橋川にでて左を見ると重厚な建物。

2021-01-24 13:17
日銀本館の西側(外堀通りからみる)

日本橋川と日銀の間の外堀通りを少しだけ歩く。

復元中の常盤橋(下流のものと区別するため常磐橋と石の字を使うらしい)
工事中で渡れない。

旧常盤橋の下流にある常盤橋北詰
江戸五口の一つ、常盤橋御門は最も保存状態が良く、見学したかったが次回に回し、日銀のほうへ交差点を渡る。

左、日銀本館、右、日銀分館。

13:20
本館の設計は、東京駅でも有名な辰野金吾。
明治23年着工、29年に完成した。
関東大震災では倒壊しなかったが付近の火災でドームやフロアの一部が燃え、のち復元された。
政府機関なのになぜ大手町でなく、日本橋だったか?
日銀は明治15年(1882年)隅田川永代橋(今の橋より北方にあった)のたもとに開業したが、手狭なうえ、都心から遠かったので早くも翌年には移転が決まった。
いまの場所は、江戸時代に金座のあった場所。さらに常盤橋を渡れば大手町。橋のたもとに大蔵省印刷局、少し行けば大蔵省だった。当時は鉄道線路がなかったから、ここと大手町は今よりずっと一体感があった。

また明治13年の東京市内の銀行は24行で、そのうち日本橋区20行、京橋区 4行、すなわち日本橋は、交通の要所だけでなく金融・商業の中心だった。

東京市の地価(明治35年、区内1坪の最低~最高)をみれば一目瞭然。
山手線(明治18年)の開業していた明治35年ですら、西の赤坂の地価など日本橋の10分の1近い。その西の新宿、渋谷などは江戸、東京のうちに入らなかった。
徒歩の時代は市内でも区の差が激しい。

麹町 0.08~4.32
神田 0.28~13.35
日本橋0.60~29.55
京橋 0.11~6.83
芝  0.11~9.27
麻布 0.09~5.03
赤坂 0.07~3.49
四谷 0.07~5.19
牛込 0.07~3.00
小石川0.07~3.09
本郷 0.07~5.35
下谷 0.09~7.71
浅草 0.05~9.76
本所 0.10~7.26
深川 0.03~0.50
「朝日新聞100年の記事にみるー東京百歳」

本館の向かいは日銀分館
貨幣博物館になっている。月曜定休。

入場無料なので入ってみた。
コロナ体温センサーだけでなく空港なみの手荷物検査がある。
驚くのは係員の多さ。この日は見学者はほとんどいないのに、外の階段上に一人、中でセキュリティーチェックの説明、聞き取りをする人、荷物をトレイに入れる人、金属探知機の脇でX線の画像を見ている人、もう一人くらいいた気がする。入るまでに4~5人はいらした。
池袋にあったころの造幣局博物館はほとんど無人だった気もするし、王子の国立印刷局博物館もあまり係員はいなかったと思う。
展示は2階、撮影禁止。
階段で振り向きパチリ。
上がるといきなりヤップ島の巨大な石の貨幣。
生活には使えないから先祖代々の家宝のようなものか。
この日は海まで行くつもりだったから先を急ぎ、あまり見なかった。


ところで支店は各都道府県にあると思ったが、
1882 明治15年10月に本店、12月に大阪支店、
1893(明治26年)- 全国2番目の支店として函館支店と西部支店(下関、のち北九州に移る)
1894京都出張所(1911支店昇格)
1895名古屋支店
1899福島出張所(1911支店)
1905広島出張所(1911支店)
1909金沢出張所(1911支店昇格)
1914年(大正3年)新潟支店・松本支店
1917年(大正6年)熊本支店・秋田支店
1918年(大正7年)松江支店
以後、松山(1932)、仙台(1941)、札幌(1942)と増えていく。

なにやら旧制高校の設置に似ている。
松本と長野の日銀誘致合戦、松本と新潟の旧制第九高等学校の誘致合戦を思い出した。
戦後も増え、32店である。

この日は寒かった。
貨幣博物館をそこそこで切り上げ東に急ぐ。
13:34
日銀の隣は三井本館(左)。右は三越本店。

明治40年頃
三井本館の場所には三井銀行、三井物産の文字が見える。
石へんに戸は見たことない字だが、三井御三家と呼ばれた三井鉱山だろうか?
日本橋川は曲がるところで道三掘と外堀川が交わり四つ角のよう。
いまはすべて鉄道の駅を中心に考えるが、昔は人も荷物も船を使った。
五街道の起点であり、水運の要所。ビジネスの中心になったのは当然である。

13:35
三井本店の前は三越
この百貨店の名前はもちろん三井高利が開いた呉服屋「越後屋」からきている。

伊勢の商人、三井高利(1622~1694)の祖父高安は、守護大名・六角佐々木氏に仕えていたが、六角氏が信長に敗れ、父高俊は刀を捨て商人となる。越後屋は高安が越後守を名乗り、伊勢の店も「越後殿の酒屋」といわれたことから名づけられた。

高利は江戸に奉公に出て修業したが、伊勢に帰り、その後息子たちを江戸で修業させた。高利52歳の時、修行していた長男を独立させ、今の三井本館の場所、日本橋駿河町にあった店を借り、呉服店を開いた。

三井広報委員会公式サイトから
西を見て左、今の三越、右、今の三井本館の場所


さて2021年、東を見て歩く。
三井本館(1902明治35年)は関東大震災で被災したが、その場所で建て替え、昭和4年(1929)に竣工。名前通り、三井財閥の拠点だった。

今は三井住友銀行日本橋支店である。
本店は大手町(旧住友銀行?)
ほかに三井住友信託銀行日本橋営業部、三井不動産本社が入る。
そうだ、ここは半沢直樹、東京中央銀行のロケ地でもある。
今日は日曜だが、いつもはこの扉は開いているのだろうか?
なかに赤じゅうたんの階段があるのかな?


13:36
三井本館の前は三越本店の裏

中央通りに出る。
かつて日本橋を出た中山道、日光街道、水戸街道がここを北に向かった。
いまは国道4号、6号、14号、17号だが、国道の埃っぽさは全くなく、銀座よりも洗練された街並み。昨年からテレビで三井不動産が盛んに宣伝していたが、日本橋コレド室町や三井タワーなど新しい東京の顔となっている。

13:38
南、日本橋方面

三越本店
銀座三越は1頭でコロナマスクをしていたが(別ブログ)、こちらは2頭。

ブランド物の店が並ぶ
この三越本店は2017年5月に千駄木からママチャリで来たが、気後れして入れなかった。
(別ブログ)
今回も外から眺めただけ。
結局私の人生は、せいぜい駅ビルか大宮のデパートくらい、今でも上野松坂屋どまりで、銀座、日本橋の三越には入れなかった。

13:39
三越の向かいに山本海苔店の本店発見。
13:41
1849年(嘉永2年)現在地で創業。
山本陽子との長年CM契約はギネス世界記録という。

しかし両側の新潟、奈良のアンテナショップは老舗の多い日本橋より銀座、有楽町のほうが似合う。
ちなみに山本山(1690元禄時代、日本橋で創業)は別会社。

13:43
 日本橋交差点でもういちど渡り振り返って三越本店。
大正3年(1914)、三越呉服店時代に鉄筋コンクリート、ルネッサンス建築として竣工。
「スエズ運河以東最大の建築」いわれた。
関東大震災で一部焼失するも改修増築、
昭和10 年(1935)には現在の姿になったという。

13:44 日本橋
日本橋川に戻り、川べり散歩を続ける。


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