2022年9月20日火曜日

スズメバチ巣の駆除、分解して女王バチを探す

2022-09-18 
前の道路に出て、何気なく生垣にまとわりつく烏瓜のつるをとっていたら、目の真ん前にスズメバチの巣があった。顔から巣までほんの50センチくらい。びっくりして離れた。

何も知らず、からまったつるを取るのに巣のついた枝をゆすっていたから、ぞっとした。攻撃的で知られるスズメハチは幸い私に向かって蜂起せず、数匹が巣に出入りしているだけだった。この日は台風が近づき、朝から断続的な雨、その合間で活動が低下していたのかもしれない。

何とかいい写真を撮りたいと近づくが、やはり怖い。

庭のほうに回ると全貌が見えた。
見事なマーブル模様。
何で今まで気が付かなかったのだろう?

ハチによる死者数
http://www2u.biglobe.ne.jp/~vespa/menu.htm
一部アシナガバチによる死者も含まれるが、ほとんどがスズメバチ。

スズメバチによる死者は最近は10~20人だが1984年は全国で73人、2000年以前は毎年30~40人が死んでいた。これはクマや犬に襲われた死者より圧倒的に多く、動物による死因では最大のものである。

はて、どうしよう?
左のキンモクセイの枝の中に巣が見える。

ここは通学路に当たり、小学生でも手が届く場所にある。
死傷者が出た場合、私の責任になるのかな?

2016年、長野県飯島町で橋を渡っていた女性がスズメバチに刺され大けがしたとき、女性は140万円の治療費、慰謝料を町に請求し、武蔵野簡易裁判所は町に51万円の賠償を求めた。
これが民有地にあっても民法717条に定める「設置・保存の瑕疵」が適用されるらしい。

木の枝が落下して通行人にけがをさせたというなら、まあ所有者の責任になるだろうが、ハチの被害まで私の責任になるとは、可哀そうではないか?
「予見可能性」というものが問題になるらしいから、すぐ私の責任になるわけではなさそうだが、発見してしまった以上、放っておくと「予見可能性」があったことになり、賠償責任が出そうである。

駆除費用の相場は、1万円~5万円らしい(難易度、巣の場所によって異なる)。

ひょっとして、と思い「文京区、スズメバチ」で検索したら、区が駆除してくれるようだ。
良かった~。
文京区に来たのは子供たちが高校を終えてからだから、高い住民税のわりに世話にならなかったが(あ、サクラ保護樹木があった、ハクビシンも)、今回、区民として恩恵をうる。
しかし連休中、窓口は休み。メールだけ入れておいた。

ちなみに、よく見るハニカム構造が露出したアシナガバチの巣は、文京区で面倒は見てくれず、自分で撤去しなければならないようだ。この蜂はそれほど危険でなく、その巣は埼玉の家にもできたし、子どものころ信州では見つけると中のハチの子を炒って食べた。
2022‐09‐19
翌日、雨が一時的に上がったので写真を撮りに行くと、ハチが1か所しかない出入り口から顔を出していた。
ここで、ふっと、駆除するのはもったいない気がしてきた。
もっと大きくしたい。
連絡したのは早まったかな?

スズメバチの巣は4~5月ごろからでき始め(逆さフラスコ型)、7~9月にかけて球形になり、10,11月で最大になるらしい。冬になると働きバチはすべて死に、次の年の女王バチだけが越冬する。そして翌年巣は捨てられ再利用されることはない。つまり、冬になったら手で取れる。そして田舎のドライブインのように、記念品として飾ることもできる。

しかし今から、「やっぱり巣はありませんでした」とか、「業者に頼んで取ってもらった」とか、嘘をつくのもな~。それこそ通行人に被害が出たとき、こちらが不利になる。

と思っていたら、さっそく連休明け、本日8時半過ぎに区役所から電話がかかってきてた。
ちょうどこの日は業者が回っている日だという。9時半に行けるというので頼んでしまった。

2022‐09‐20 9:39
早速業者がいらした。
今の季節はとくに多いという。文京区だけで週2日、一日3件、駆除しているとか。
意外と多いが、すぐ来てくれたことから、毎回3件はないかもしれない。

取った巣は記念に欲しいというと、崩れるから駄目だとおっしゃる。
彼は巣の穴にスプレー缶のノズルを突っ込み薬剤を注入した。
数匹のハチが乱舞する中、レジ袋を下からかぶせ、巣を削り落とした。
場所が手の届くところにあるということもあるが、テレビでよくやるスズメバチ駆除とは違って、あっという間に終わり、拍子抜けするほど軽作業だった。

彼は巣を入れたレジ袋の口をしっかり閉じ、道具と一緒に箱に入れて持ち帰ろうとされるので、改めて欲しいと言って、置いて行ってもらった。

巣は、けっこう重かった。
ふと、この中には幼虫がびっしりいることに気が付いた。
中で腐ったら記念品として飾れないではないか。
捨てるしかないか。

こうなったら分解しよう。
3時間後、薬剤噴霧されたとはいえ、恐る恐る袋を開けてみた。
ハチは死んでいた。
12:37
移植ごての赤い部分が20センチ
狭義のハチの巣(幼虫のいるハニカム構造)は二層構造になっていて、それをマーブル模様の外壁が覆っている。

巣の外壁は直径20センチほど
改めてじっくりみる。

日本にいるスズメバチは16種類という。地中や樹洞に巣を作るオオスズメバチ、信州などで幼虫が缶詰にされるクロスズメバチが有名。
市街地に営巣するのはキイロスズメバチとコガタスズメバチ。
これはどうもキイロスズメバチのようだ。

ちなみに大平洋戦争で日本海軍と戦った米軍空母のWasp、Hornetはスズメバチの意味である。ミツバチは(honey) beeという。

さて、内部の巣をよく見ると、幼虫は様々な大きさがあり、うんと小さいものも穴の奥にいる。
また、膜のふたで覆われている穴には成虫寸前の、手足のはっきりした蛹が入っていた。
つまり、ハチは一斉に産卵されるわけではなく、何回かに分けて産卵、育児される。
調べたら、働きバチは3週間ほどで死んでしまうが、次々と羽化して、餌を集めて育児に従事するらしい。

これらを生んだ女王バチはどこにいるのだろう?

ざっと探したが分からなかった。
キイロスズメバチは女王蜂25-30mm, 働き蜂18-25mm, 雄蜂26-28mmという。
これは微妙な差だ。そこですべて、紙の上に並べてみた。

13:19
巣の中で死んでいた成虫は全部で47匹。
右上のものがわずかに他より大きくて女王バチっぽい。
その下の2匹は交尾しているような格好で死んでいたが、大きさは働きバチである。

右下には生育ステージの違う幼虫とさなぎを並べてみた。
信州を離れて47年、薬剤が噴霧されていないとしても、気持ち悪くて食べる気はしない。

それにしても、ハチの巣の分解など、この年齢になって経験するとは思わなかった。
退職老人らしい一日。

2022年9月13日火曜日

ハダニと芋虫

2022-09-11 9:36
ハダニで葉が白っぽくなったナス
それでも4株で92個収穫した(9/13現在)

初めてこの庭でハダニを見たのは2020年春。
2019年秋にペピーノなどピーマン類を室内越冬させたときハダニがつき、翌春庭に植えたらナスなどに伝染した。
(本当はそれ以前からあったのかもしれないが、この時初めて気がついた)
以後毎年出るが、放置している。

消毒しないのは、有機農法信奉者のように、農薬が嫌いだからではない。
生きている虫にも、食べ物を分けてあげようという優しさからでもない。
ただ単に面倒くさいからだった。

しかし今回は少し問題が出た。
9:40 白菜
それは近くの白菜の苗が全滅したこと。
種まきが早すぎて暑さで枯れたのかと思ったが、よく見たらハダニがいた。

そこで消毒することにした。
家にあるマラソンの瓶を見れば、白菜、ナス類のハダニに有効とある。
噴霧したが効かなかった。
2016年に買ったものだから失活しているのかもしれないと、新たに買ったがやはり効かない。
スミチオン(10年以上前のもの)も効かなかった。
薬剤耐性のハダニだろうか?

過去のブログを見たら2年前、ハダニにスミチオンもマラソンも試して無効と記録してあった。
私の脳は、もう経験したことが残らなくなってしまったのだろうか?
大根
こちらは発芽率100%なのだが、根切り虫のような何者かに土に近い茎を食べられ、朝になると倒れている。
そのたびに種を追加でまき、欠損部を補充する。

人参
こちらはまだ虫害が目立たないが、サツマイモが栽培域を侵食し始めている。

サツマイモが家を飲み込むかのように繁茂している。
6月7日から7月11日まで一か月以上にわたり紅あずま26本、シルクスイーツ39本、不明46本。合計なんと111本もうえてしまった。
植えつけてから収穫まで130日というと、あと1か月半。

これでは歩くところすらなくなる。
そこで芋のつるを水平でなく上に伸ばそうと、一部は支柱をたて立体的にした。

サツマイモは不思議と青虫やハダニがつかない。
しかしよく見れば葉っぱがかなり食われている。
それでも虫は見えない。
芋虫(エビガラスズメ幼虫)は夜行性なのである。
そこで夜、見に行ったら2匹いた。実際はこの何十倍もいるのだろう。

葉っぱの陰で見つけると、恐怖を感じるほど大きくて気持ち悪い。
大蛇を思わせる太さと模様と重量感。
さすがの私も潰して殺すことはできない。
瓶に入れて太陽熱で殺すこととした。
二匹ばかり処分しても仕方がないのだが。

別ブログ

2022年9月5日月曜日

私と薬学9東大医学部薬理学教室の教育

(前回からの続き)

1987年4月、研究生として東大医学部薬理学教室、遠藤研に通うことになる。
私は30歳、長女が8か月、尾山台団地の最寄り駅、東大宮から東北線(現宇都宮線)で上野まで35分。毎日上野公園を歩いて通学した。

医学部の基礎系の研究室はどこも人がいないものだが、遠藤研も3月に松村さんが転出され、遠藤實先生と飯野正光先生、実験助手の飯田さんの3人だけだった。

その状態で、昭和大薬学部の修士を終えられた小山田英人さん、臨床医だった月岡道隆さんも私同様研究生として入室、また秋葉俊彦さんも理学部物理学教室(若林研)に籍を置いたまま遠藤研で実験することになった。
すなわち3人以外は全員、新人であった。遠藤、飯野両先生は、ゼロから始める私たち4人に対し、実に丁寧な教育をしてくださった。
まず、カエル骨格筋の単一筋線維、すなわち単一細胞を取り出す訓練。
実体顕微鏡で見ながら、ピンセットと眼科ばさみで脚の筋肉を縦に割るように切っていく。つまり筋肉、すなわち筋線維の束を2分の1、4分の1、8分の1、と一太刀ごとに細くしていく。筋線維が数十本くらいまで減ったら、今度は貝印カミソリを小さく割った破片をナイフにして、さらに線維(筋細胞)の束を細くしていく。細胞は少しでも触れたら傷つき死んでしまうから慎重に進めるが、朝から始めて夕方、筋細胞があと数本となったときに傷つけてしまう。

5月22日、20回目で初めて最後の一本まで到達、すなわち単一筋線維ができたと思ったら、どこかでナイフが触ってしまったのか翌朝顕微鏡で覗くと真っ白になって死んでいた。
翌5月23日も成功して電気刺激に反応したが、48時間後は死んでいた。
このころは腕も上がり3時間くらいで単一筋線維まで到達するようになっていたが、その後2回試みても最後の1本にするところで傷つけた。

しかし長い間じっと我慢していらしたのか、飯野先生は「待ってました」と、この訓練を卒業させてくれた。そして、次のステップ、すなわち取り出した筋線維の実験で使う溶液調製について教えてくださった。
溶液作りは、ただ粉を量って溶かすのではなく、そのまえに自分で計算しなくてはならなかった。細胞内液は、Caと結合し緩衝効果を示すEGTAのほか複数の高エネルギーリン酸化合物などキレート剤を多く含み、なおかつそれら化合物はpH によってイオン種の比率が変わってくる。それらとCa、Mgとの結合定数をいちいち調べ、さまざまな遊離Caイオン濃度、さまざまなpHについて必要な試薬量を計算するのだが、複雑な数式をいくつも書かねばならず、これも良い訓練だった。
1987年8月
左から小山田、上田、月岡、前が秋葉、小林

カエル単一筋線維取りに話を戻す。
それまでみんなで仲良く顕微鏡を覗きながら、おしゃべりしたり音楽聞いていたりしていた。(小山田さんは岡村孝子の「夢をあきらめないで」が好きだった)。しかし一人が成功すると雰囲気が変わる。気合を入れた月岡さんは私の卒業した翌日単一筋線維をとり、嬉々として溶液調製に加わってきた。
いっぽう一人残された小山田さんは無言で顕微鏡をのぞいていた。そして彼はこの日、徹夜して成功する。(しかし夜通し硬い椅子に座っていたのが祟ったか、その後、腰痛に悩まされることになる)

単一筋線維取りは手先の訓練とともに気合、メンタルの訓練でもあったようだ。
カエル骨格筋はその後使うことはなかったが、この経験は後年、実体顕微鏡下で心筋、平滑筋の標本をつくるうえで大いに役立った。


また、我々新人4人のためだけに輪読会が開かれた。
筋肉、神経など興奮性細胞の生理について厳選された論文を読む。Hodgkin, Rushton (1945)の神経軸索のケーブル理論から始まり、Hodgkin, Huxley, Katz の Constant field equation, フィードバック増幅器によるVoltage clamp(1951)、電位依存性の確率因子m,n,hの導入による透過性変化の数学的記述(1952)、骨格筋チャネル分子の動きを想像させるcharge movementの観測(Chandler, Rakowskiら1975)など。

我々は電気生理学すなわちパッチクランプの実験をするわけではないのだが、興奮性細胞を扱うからには膜電位の基本をきちんと身につけなくてはならないという教育的配慮だった。
土曜、生協で食事した後、13時くらいから始まり17時、18時まで、1つの論文を徹底的に読む。説明当番は秋葉・小山田・小林・月岡4人で順番に回ってきて、飯野先生が黙って聞いている。4人とも分からないと教えてくださった。どれも数式がびっしりの大論文で、物理、数学は好きだったが、当番の週は丸一日図書館にこもって準備した。これら論文には実験装置の説明でも細胞膜のモデルでも、電気回路がよく出てきた。だから、こちらも電気の本を2,3冊買って勉強した。

半分くらいは遠藤先生も顔を出されて、HodgikinやHuxley(先生のご留学先)らの人柄とか、ご自身が秋葉原で部品を買ってアンプを組み立てられた時代とか話してくださる。
Na電流、K電流の数式で(m^3)*h,  n^4と確率因子の積が「4次」になるところでは、
「半分冗談ですけど」と前置きされて、Naチャネル分子(前年沼研でクローニングされたばかり)の4回繰り返し構造、Kチャネルの4量体と関連付けて貴重な話をくださった。
実にぜいたくなセミナーだった。

輪読会は17回、中断しながら1年続いた。

4月末の薬理の学生実習のあと、オブザーバーとして輪読会に参加した学部学生の上田(長瀬)美樹さんは、Hodgkinらが微分方程式を手回し計算機で近似的に(オイラー法)解いて再現した活動電位を、実験室のPC98で再現した。これは後述する野間先生がバーチャル細胞(京都モデル)で心筋膜電位を再現する15年ほど前である。
(彼女は北天佑が好きで、ある日、スポーツ新聞を持ってこられ、見ると第一面の大関のうしろに彼女が写りこんでいた。)

このような数学モデルから膜電位を理解していく勉強は、薬理学の実験をするにあたって必要ない。もっといえば、じつは電気生理学の実験をするにあたってさえも必要ない。
難しいとされるパッチクランプも練習すれば誰でもできる。電気生理の理論を知らなくても、パッチクランプさえできれば、薬物のイオンチャネルに対する作用などは薬物添加前後の電流値を比較するだけでよい。もちろん測定機器は(自らハンダごてを持たなくても)市販されているし、防震台、顕微鏡を含めた電流測定系も(金さえ出せば)業者がセットアップしてくれる。

ほとんどの研究室では学会発表に備えて、新人と言えど、一日でも早く実験してデータをとることが優先される。当然勉強することも研究室、本人のテーマに関連したことが中心となる。

しかし遠藤研では目先のテーマと関係ない教育がなされた。
そして私にとってこの輪読会は大きな財産となった。
以後30年近く細胞生理学と付き合うことになるが、徹底的に勉強したことは自信となった。昔の生理学研究者はみな通った道だろうが、1980年代以降は理論の勉強よりも早く電流をとること、考えることより早くデータを出すことが大事となり、Hodgkin-Huxleyをあれほど読み込んだのは我々が最後だったのではなかろうか。

もちろん、オリジナルの難解な文献を読み込む目的は自信をつけるためではない。
細胞がどのような機構で動いているのか? それらに初めて切り込んだ人々はどのような装置を作り、どのような実験をしたのか? どういう考え方でモデルの数式が作られ、実測値とどのくらい合致したのか? 教科書、総説に書いてあることを鵜呑みにするのでなく、一流の研究をきちんと辿ることが目的だった。
遠藤先生も飯野先生も、独創的研究を大切にしていらした。具体的には、例えば、今まで見えなかった現象を観測することに一番の価値を置いていらしたようだ。そして新しい現象を観測するには新しい装置を自作せねばならない。

当時飯野先生は骨格筋の収縮に伴うCa動態を研究されていた。溶液交換、筋肉の電気刺激、張力測定、fura-2測光のためのシャッター開閉、信号の記録は秒、ミリ秒の正確さを要した。それらを手作業で行うことは不可能であり、先生はコンピュータで制御するシステムを作られた。

今では当たり前のことだが、当時は極めて珍しかった。
すなわち世間ではNECのPC98が多くの研究室に導入されつつあったが、まだ共同のコンピュータ室に置かれ、タイプライターでなく「一太郎」で論文を書けることになって喜んでいた。まだウィンドウズもマックも、ワードもエクセルもない時代である。
飯野先生はA-D、D-A変換のボードを後ろに差し込み、各機器とつなげ、キーボードで操作し、一方で機器から得られた電圧信号をパソコンに取り込み、自由に加工できるよう、n88basicでプログラムを書かれた。

我々に対してもプログラミングを推奨され、演習問題を作ってくださった。
最初はグラフィックに慣れるため、
  y=1/n*sin(nx) 
などでnを自由に変えられるプログラムコードを書かせ、次にそれらを級数として加算した
  Y=Σ[k=1,n]1/k*sinkx (-4Π<x<4Π)
  Y= Σ[k=1,n]1/(2k-1)*sin(2k-1)x 
のコードを書くように指示された。
出来上がると「nに100を入れてください」と言われる。
やってみると正弦波でなくのこぎり波、パルス波が突然画面に現れた。
驚くと、先生は「フーリエ変換の逆です」と、にこりとされた。
その時の経験をもとに、会社に戻ってから配属新人のために私が出題した演習。
しかしYさんもOさんも手を付けず質問すらしてこなかった。

遠藤先生は1994年に定年退官後、埼玉医大にうつられ、飯野先生が翌年教授となられた。
飯野研はその後、新しい実験手法を導入して大発展していくが、集まる学生は優秀な者ばかりで、我々が一から教えてもらったことは、たぶん各自が自習するべきことであり、あのような丁寧な指導はなされなかったであろう。
つまり、あれは薬理学教室の教育ではなく、たまたま我々がお二人から受けた、1987年一回かぎりの教育であった。

(続く)

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