2016年12月31日土曜日

飯山線立ヶ花駅

           (12月30日、カラー写真)

ここ数年、年末は一人で29日に信州中野の実家に行き、31日に戻って独り暮らしの叔父と年を越し、元旦に妻の実家(取手)で家族と合流するというパターン。

1231日朝820、立ヶ花駅は寒かった。

 1972-75年の3年間ここから高校に通った。
 進学して東京に行っても、就職しても、実家の近くの長野電鉄信州中野駅ではなく、この駅を使った。

昔は、写っていないが左に鉄橋があって利用者は皆、千曲川の向こうに自転車を置いて歩いて渡ってきた。こちらには山と川に挟まれて線路とホーム以外、駅の敷地がなかったからだ。(川のこちら側は人家がなかった)。
列車は6時、7時、8時台に一本ずつしかないため、飯山・野沢方面から長野へ行く高校生のほとんど全員(と通勤客)が立ヶ花724(まだ覚えている!)の列車に乗った。

 毎朝、橋を走ってくる人が良く見えるから車掌さんはいつも待っていてくれた。改札口もない無人駅だから線路を越えて飛び乗る。その橋は長野オリンピックで下流に付け替えられ、こちら側に自転車置き場もできたから、今は走って川を渡る人もいない。

 写真の正面に小さく見える橋は北陸新幹線。
 景色は少しずつ変わっているが、千曲川は昔のように流れている。


 左に見える対岸まで中学の通学区域だった。中学時代は、よく写生遠足に来た(もちろん冬じゃないよ)。中学から5㎞近くあるから美術(2コマ)の時間ではなくて遠足としてあったのだろう。この川を二回描いているし、浜津が池で描いた記憶もある。写生遠足は年に何回もあったのだろうか。

 写真右側は山になっていて上に蟹沢神社があった。
写生のときは、そこを中心に皆勝手に散らばって描く。私は線路を渡り、藪をかき分け崖を下り水際まで行った。今なら危険とされることも当時は放任だった。出席も取らなかったから対岸の自宅に帰っちゃった者もいただろう。


 善光寺平はここで終わり、このあたりから千曲川は信越国境まで谷を縫っていく。河原のない大河は近くによると恐ろしいほどの圧倒的な水量だった。それを描こうとしたのだが、技術がなくて、ただ濁った灰色の大きな画面が出来てしまい、アクセントとして草や朽ちかけた杭を入れた。それを翌週だかの品評会で美術の山岸琢磨先生に褒められた。それで2つ目のクラブとして美術部に入った。(1つ目が剣道、3つ目は将棋だった)


 翌年も千曲川を書いた。しかし先生は通知表だかどこかに「描写力はあるが新鮮さが欲しい」と書いた。それでも彼は3年間高く評価してくれた。高校に行くと芸術選択は迷わず美術にしたのだが、高校の先生は私に何も言ってくれなかった。いつしか絵を描くのを止めた。


 子供、学生を誉めることの大切さがよく言われるが、親になって30年、教育職について4年、昔を思い出して今になってそのことに気が付いた。
 書いてあることよりも自分の経験のほうが説得力があるという例。


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2016年12月26日月曜日

第1 話 日露戦争時の毒セリ中毒


「走馬芹(支那ノ通稱)ノ中毒ニ就テ」

 薬学雑誌282, 721 (1905)








今から100年前、明治38年初夏、出征中の2つの部隊で兵士が「無聊ヲ慰メント」満州のセリを食し、意識不明、両部隊とも死者を出した。薬學士渡邊又治郎は、日本の毒セリとの関係を考察している。



() 痙攣ハ手足ニ跳躍スルガ如キ状態ヲ以テ始マリ次ニ口ヲ開大シ眼瞼筋ニ著名ナル痙攣ヲ來タシ數分時ノ後ニハ強ク口ヲ緊閉シ顔面ハ著シキ「チヤノーゼ」ヲ呈セリ手足モ又強直ニ陷リ瞳孔反応及角膜反射共ニ消失シ精液ヲ漏出ス(略)」


症状観察が詳しいのは、医学が未発達な時代に加え戦地での診断で、とにかく後日のために分かることは全て記録しようとしたからであろう。


有毒のセリ科植物は2種類あり、その成分は、アルカロイドのconiineと三重結合を持つ炭化水素のcicutoxinが知られている。それぞれニコチン受容体とGABA受容体に結合する。

事件後の現地試験で

「依的兒(エーテル)ニヨリテ抽出シ得タル物ハ阿爾加魯乙度(注:アルカロイド)反應ヲ呈セズ」
「樹脂樣ニシテ酸性且ツ葉ノ芳香ヲ有スルハCicutaVirosaノ含有スル「チクトキシン」ト能ク相一致」
「戦地ニ於テ操作十分ナルヲ得ザルヲ以テ抽出シ得ザル他ノ成分尚存スルヤモ知レザルモ其生理作用ハ中毒者ノ症状ト相似タリ」

と推定している。


ACh、GABAなどの生理作用は知られておらず、神経伝達物質の概念もない。
(心臓の副交感神経刺激で還流液中に抑制性物質が出ることが発見されたのが1921年)。
これらは単に「毒」であり、分析同定も困難な時代であった。Cicutoxin1915年単離、1953年に構造決定されている。


この年の薬学雑誌は、”日露戦局進ンテ漸ク満州ノ野ニ入ル“の書き出しで『満州ノ薬用植物』、『蒙古産牛乳ノ価値ニ就テ』などの論文がある。

サボテンの耐寒性

竜神木の越冬

 サミット横の坂を下りて西日暮里駅に向かってすぐ、道灌山通りの左側、美容院の軒下に3メートルほどの柱サボテンがある。鉢植えだが冬でも屋外に置いてある。
 これをみて私も育てたくなり、小さいのを買ってきた。成長早そうな地植えにするつもりが、買ってきた竜神木は氷点下に耐えられないらしい。

耐寒性の順位は


短毛丸・花盛丸・青王丸・金晃丸・白檀
-5°)
>長盛丸・金盛丸・白竜丸・希望丸・玉翁・満月・ローマエビ・美花閣・般若・新天地・ヤマカル柱・鬼面閣・ブラジル柱>袖ヶ浦
0度)
>竜神木・白雲閣・朝霧閣・武倫柱
5度)
>三角柱・月下美人

という。

耐寒性の高いヤマカル柱・鬼面閣・ブラジル柱の区別は、この順にやせている。つまりブラジル柱がいちばんふっくら。道灌山通りのサボテンは鬼面閣にみえる。


さて、買ってきた竜神木は、2本あったので一本を試しに鉢ごと外に植え、ビニール袋を上からかぶせてみた。すでに一度寒波で霜柱が立ち、地面が完全に凍ったが、ビニールの中は凍らなかった。ひょっとしたら春まで持つかもしれない。
 
いつかは鶴仙園さん(12/18投稿)にあったような立派なものになるかな。

何年も冬を越し、大きくなったらどうするか? 
とりあえず、クリーニングに出して帰ってきたコートのビニールをとっておこう。


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第2話 丹波敬三の海外出張

 平安時代の丹波康頼につながるという日本最古の医家、丹波家。
蘭方医・元礼の三男、東大薬学の第1回卒業生(1878)である丹波敬三は、1887ドイツ留学を終え、帝大教授に就任した。柴田教授の後、長井、下山、丹羽博士らとともに草創期の薬学をリードした。博士は、19049月、2度目の洋行、モンゴリヤ号にて米国に出発する。


 「新橋停車場は混雑を極め見送人は無慮六百人なり。重なる人は正親町伯爵(注、初代薬剤師会会長)、石黒男爵(軍医総監)、長井薬博、(略、以下23人書いてあった)。正午十二時発車に横浜に同乗せしは下山、田原、丹羽、(以下21人の名前)、其他選科及び模範薬局員等十数名なり」 
薬学雑誌271804頁(1904
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00241525/ISS0000180579_ja.html

 その後長井薬学会会頭宛に「米国通信」「欧州通信」を頻繁に送り、薬誌各号に掲載されている。阿蘭陀の医師は転地療法、温泉など薬物を使わないため、薬剤師の収入が少なく結果、女性の薬剤師が増えてきたとか、普仏戦後ドイツの脅威を感じている仏蘭西では政府が人口減少につながる避妊を禁止したため以前見られた洗浄器が薬局から姿を消したとか。


 旅順陥落、露國内乱、奉天の日軍全勝等の感想は伯林から送っている。
露国びいきだった独逸の新聞は最近変わってきたとある。


 薬誌(1905644頁の長崎縣通信によると、日本海海戦の16日前、すなわち511日独逸郵船ダルムスタット号にて出発、バルチック艦隊同様、印度洋を経て614日長崎入港、大歓迎会のあと翌日汽車にて帰京の途につく。山陽本線が1901年に開通したばかりだった。神戸に寄って東京着20日。神戸では実業に進んだ兄たちに会ったのだろうか。

 薬誌翌月号の東京通信には6月29日上野精養軒での歓迎会の様子がある。


第105話 駒込、丹波新邸での園遊会


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薬学昔むかし 目次

薬学昔むかしの再開、再掲

薬学雑誌とは


薬学昔々 1~108話

 タイトル西暦(明治)内容ファルマシア
1日露戦争の毒セリ1905(38)満州で兵がセリを食べて中毒死。その成分について薬学者渡辺又治郎による考察。コニインとチクトキシン2006年01
2丹波敬三博士の欧米出張1905(38)平安時代から続く丹波家。丹波哲郎の祖父。日露戦争時の欧米の様子、医薬事情を薬学会に書き送った。2006年02
3コリン誘導体の化学構造と生理作用1905(38)分析と生薬成分の化学ばかりであった薬学だが、構造活性相関が注目され始めた。ムスカリンは今と構造が違う。2006年03
4ジアスターゼ製品の比較分析1905(38)高峰譲吉のジアスターゼは、PD社の特許が日本まで及ばなかったので、様々な商品が登場、品質はバラバラだった。2006年04
5写真撮影の神様、上野彦馬翁逝く 1904(37)坂本竜馬の有名な写真を撮影した人。長崎で教科書を書くほどの化学の第一人者。薬学会の会員でもあった。2006年05
6生きた血吸い蛭の医療への応用1906 (39)19世紀まで瀉血療法としてヒルは盛んに使われていた。生きた医薬品としてその飼育管理は薬剤師が行った。2006年06
7三高医学部と秦佐八郎1898 (31)三高医学部は京都でなく岡山にあった。秦が勝山虎三郎とチモールの代謝について投稿。サルバルサン発見者の片りん。2006年07
8黄色血塩製造に蚕のサナギ1898 (31)重要な化成品原料であるフェロシアン化カリウムの製造に廃物の蛹を使うことを考案、在松山、村田康太郎2006年08
9明治32年の薬剤師国家試験1899 (32)年2回、大阪東京で実施。東京は133名出願、5科目を2日間で。合格すると実地試験が4日間、16名合格。2006年09
10pH指示薬としての赤キャベツ1906 (39)pHの概念が出てきた頃、試薬はまだ手作りだった。紫キャベツから指示薬を作るノウハウ。2006年10
11大日本製薬新工場、鷺洲村海老江に完成1899 (32)道修町の薬業家が共同で作った大阪製薬。経営不振に陥った官立の大日本製薬を、名前ごと買収。工場開きに著名人2006年11
12明治のチョコレート1906 (39)庶民がチョコレートを知らない頃、偽物が氾濫。各種チョコの製法と偽物鑑別法を解説。着色には鉛丹、朱砂が使われた。2006年12
13一高医学部薬学科のウサギ狩り1898 (31)一高医学部は千葉。大雪晴れた翌日、紀元節式典を無視して鎌取村、生実山にて遊ぶ。教官古屋織田松山も合流2007年01
14長井邸での大運動会1900 (33)薬学会会頭長井長義、現在、渋谷の薬学会館になっている広大な屋敷で例年ビヤ樽を取り寄せ大運動会を行った。2007年02
15マーガリンとバターの区別1898 (31)普仏戦争でバターが欠乏し、1872年代用品として登場したマーガリン。当時欧米でも素人は区別が難しかった。2007年03
16各種イオンを舐めてみたら1899 (32)機器の無かった時代、最も鋭敏な分析は舐めることだった。15人で各種塩類をなめてみた結果(味)一覧。2007年05
17旧制高校薬学科の修学旅行1889 (22)東大薬学科に次ぐものとして官立薬学校が5校、旧制高校付属として設立された。遠足は研修、見学、もちろん徒歩。2007年06
18東大病院ペスト騒ぎ1901 (34)鼠死骸からペスト菌が発見され、大騒動。薬学科が中心となって帝大全学でネズミ捕り。古い建物は鼠ごと燃やした。2007年07
19缶詰の検査1900 (33)缶詰は重要な輸出品で、マツタケ、鮒など珍しいものもある。加熱、密閉が不十分なため腐敗するもの多かった。2007年08
20越後、日本石油会社の出油1901 (34)新潟は江戸時代からガス、油が自然に湧出していた。石炭から石油の時代に入る頃、内外資本が採掘に参入した。2007年09
21人体を材料とした医薬品1902 (35)墓が暴かれ頭骨が盗まれる事件が頻発。天霊蓋という薬の製造のため。人胆を作る業者もいた。2007年10
22二宮忠八、医薬品クレオソートと飛行機製造1903 (36)吉村昭の小説やテレビでも有名な飛行機製造のパイオニア。彼は大日本製薬の支配人、薬誌地区通信員でもあった2007年11
23岸田吟香と薬学会評議員選挙のようす1902 (35)麗子像で有名な岸田劉生の父はジャーナリストで、目薬の会社を興した薬学者でもあった。薬誌編集委員、評議員歴任2007年12
24最初の薬学博士1899 (32)薬学3教授は薬学科独立のため医学博士号を拒否、数年後田原を加えようやく薬学博士を授与されたときの祝賀会。2008年01
25明治薬学人の宴会のようす1903 (36)上野・伊予紋、根岸・岡野で茶番劇、福引、羅漢踊り、投票戯、詩歌、落語、都々逸、大津絵節、長唄踊り、など2008年02
26キニーネによる医療事故死と医薬分業問題1901 (34)漢方と違い切れ味鋭い西洋医薬が導入され、ストリキニーネをキニーネと誤って処方。地方医師の多くはもと漢方医2008年03
27卵の長期保存法19種類1898 (31)冷蔵庫のなかった時代、軍の要請か。ワセリン塗って石灰水に沈めると室温で8か月持つ。濃塩水はもつが辛くて廃棄。2008年04
28明治の医師は無試験の資格者が最多1904(37)兵庫を例に、当時の医師、薬剤師、看護師の学歴別人数。医師1184人のうち大学卒は62人。最多は従来開業の398人。2008年05
29木材を鍍金(めっき)する法1899 (32)プラスチックのなかった時代、木材を徹底的に利用するためにメッキする方法、あるいは磨いてピカピカにする方法。2008年06
30台湾での自殺事情1900 (33)日清戦争で日本領となり、澎湖諸島含め多くの薬学者が渡海。当地はアヘンによる中毒、自殺が多いことを報告。2008年09
31永楽病院移転、東大分院に1907 (40)ここは医術開業試験の実地試験用につくられ治療費は無料。東京駅建設のため小石川に移転する事情。2008年10
32大正天皇・皇太子時代の東北行啓11908 (41)皇太子行啓に先立ち、自治体関係者は大騒ぎ。薬学者を呼んで、飲み水、食料の徹底検査。乳牛は1000頭から選抜。2008年11
33大正天皇・皇太子時代の東北行啓21908 (41)行啓の沿道、宿泊所などの消毒、清掃。住民、関係者の健康診断。地域の商品もとばっちりで衛生検査を受ける。2008年12
34明治の抗体医薬・血清11908 (41)エールリヒは動物細胞が毒素と結合する側鎖を持ち、これが遊離すると抗毒素になるとした(側鎖説)2009年01
35日本海軍の衛生酒1903 (36)各国海軍と違い、日本は平日の食卓酒はなかったが、式祝日、演習や氷点下の勤務時はラム、泡盛などが供された。2009年02
36三重県の巡回衛生講話、展示に数万人1909 (42)ピペットや乾熱滅菌器に混じって,義眼,産婆器,便器,痰つぼ,鼻茸,コンジローム,胎児,水晶体,酒飲みの心臓腎臓,2009年03
37全国7測候所の初雪統計1898 (31)現在東北全体をカバーする仙台気象台は、関東大震災後に新設された石巻測候所仙台出張所が前身2009年04
38上海での阿片会議とアヘン窟(田原良純)1909 (42)各国はアヘン撲滅を目指すが、イギリスはインド経営の財源だから清への輸出をやめない。2009年05
39東大薬学部が廃止されそうだった頃1898 (31)帝大の医学科は1講座に教授が2人もいるのに、学生が来ない薬学は教授1人がいくつもの教科を担当した。2009年06
40明治の抗体医薬・血清21908 (41)ワクチンは原働性免疫、血清は被働性免疫といった。先天性免疫とは、現代用語の自然免疫ではない。2009年07
41看護師と薬剤師の給与1898 (31)当時看護婦は患家に出張した。普通患者は1日50銭、腸チフス80銭、コレラは1円25銭、黒死病は2円50銭。2009年08
42東沙諸島(西澤島)とリン鉱石1909 (42)リン鉱石の分析と衛生指導でフィリピン西方の島に渡った薬剤師が、島の非人道的労働条件を告発する。2009年09
43リンから砒素が出来た!?1900 (33)元素は化学変化では変わらないという常識は当時まだなく、珍説が発表された。2009年10
44ジャガイモを茹でて作った象牙材1883 (16)プラスチックのなかった時代の試行錯誤。象牙に代わる素材は今も求められている。2009年11
45明治19年下半期、中毒の統計1887 (20)貧しく自給自足であった時代、河豚23人(治7,死16)、キノコ96人(治71,死25)、樒(治2,死3)、蘇鉄(治5,死1)など2009年12
46最初の「薬学部」はどこか1887 (20)130年を誇る東大でも1956まで薬学科であり、薬学部ではなかった。薬剤師試験コースを開講した済生学舎が最初。2010年01
47大国主命ゆかりの霊泉の化学分析1889 (22)霊泉舎という会社が頓原村琴引山の湧き水を東京大阪に出荷。無機イオンの含有量でも民衆はありがたがる。2010年02
48遥かなるウラジオストク1907 (40)日露戦争が終わり日本海時代がきた。総人口8万のうち日本人が4千人。ロシア人医師10、獣医6、歯科4、薬剤師5人2010年03
49陸軍/習志野衛戍病院の風呂水検査1902 (35)サルファ剤もペニシリンもない頃、清潔に保つことは、極めて重要。患者1~30人入った後、アンモニア、大腸菌を検査2010年04
50富山売薬の沿革:前田正甫と反魂丹1911 (44)前田正甫疾ありて癒へず。侍臣日比野、丸薬を呈すと、公たちまち癒ゆ。備前医師萬代常閑秘伝の反魂丹という。2010年05
51in とineの区別は如何1891 (24)今でも化学名で迷う。Vitamin、amineは間違えないが・・・・明治人もよく間違えた。2010年06
52東大生薬教室、下山順一郎先生急死1912 (45)朝6時ごろ昏睡に陥れり。池口夫妻、丹羽、高橋(順)、三浦、橋本3医学士らが下根岸の邸に駆け付けるが2010年07
53下山教授の葬列、葬儀1912 (45)会葬者1700余名、葬列十余町、数120余りに及ぶ造花、生花、花輪、放鳥の列、弔詞70、弔電300数十通2010年08
54平成の口蹄疫と明治の牛結核1904(37)畜牛結核予防法が施行され、はじめて神戸市で結核牛の検査。1005頭中,健牛595,病牛376,疑似66,猶予59.2010年09
55松脂(まつやに)からテレピン油を作る1889 (22)得られたワニスは、焼酎製造用の容器にいれ、水蒸気蒸留。27%とれた。石油もない頃、有機溶剤として重宝された。2010年10
56各国のコレラ解説記事1892 (25)この年はロシアで16万、欧州では4万人が死亡。1832の世界流行時は、肛門にコルク栓したり、シーソーさせたりした。2010年11
57明治25年の薬学会会員名簿1892 (25)464人となった全員の住所がある。長与専齋、中浜東一郎、三宅秀、大沢謙二、緒方正規、濱尾新も会員。2010年12
58住友・別子銅山の発展1903 (36) 明治に入ると採掘の機械化が進み,鉄道,電信電話,水力発電、小学校、病院など,文明開化の最先端をいった.2011年01
59薬学会会頭長井に異議を唱えた男1890 (23)第10回総会、村上栄太郎が代議員選挙について質す。役員候補者10人の選定法について執行部を批判。2011年02
60健康食品と「ヘルス」なる海ガメの肉1893 (26)海ガメの肉から作った粉末に、医学界240余名が賛同.榊俶,田口和美,三宅秀,高木兼寛の名もある。2011年03
61助っ人のいらぬ鼠撑器1891 (24)南京鼠(マウス)に注射するのに,二人掛りで行っていたが、東京衛試がベルリンの器械商ラウテンシユレゾルに注文2011年04
62幻の結核特効薬(1) 1891 (24)コッホが肺労新療法を発表、世界中が沸く。コレラ菌の培養液から菌を除いたもの。猛烈な反応の後治癒したと。2011年05
63幻の結核特効薬(2) 1891 (24) 帝大は在民賢の坪井次郎に調査を命ぜり。濱野昇議員は学士ドイツ派遣を帝国議会に提出。2011年06
64幻の結核特効薬(3) 1891 (24) 3/27コッホ氏液,日本上陸.4/14帝大の宇野,佐々木両教授,山極(勝三郎)助教授がドイツ出張を命ぜられる。2011年07
65幻の結核特効薬(4) 1891 (24) 帝大教師ベルツの試験では無効、2か月のインド洋航路で変質を疑う。ドイツでの無効という成績も2か月遅れで届く2011年08
66幻の結核特効薬(5) 1891 (24) なぜ騒動は起きたか。プロシア国威発揚のためヴィルヘルム2世が拙速でも発表を強要したらしい。2011年09
67炊飯釜のふたの改良1907 (40)五高薬学科(長崎)の森川釖三郎が、吹きこぼれしないふたを作り、ついでにご飯のタンパク、デンプン含量まで計算した。2011年10
68脚気菌(1)1885 (18)東大緒方正規が脚気患者から脚気菌を発見。東大(神田)で講演、石黒忠悳はじめ皆賛同、高木兼寛のみ反論。2011年11
69脚気菌(2)1910 (43)帝大農科大の古在らが米ぬかに予防物質ありとするも、東大医学部,陸軍は無視、伝染病説にこだわる。2011年12
70脚気菌(3)1914鈴木梅太郎らは1911年オリザニンに到達、それでも内科の青山胤通,三浦謹之助,薬物学の林春雄は細菌説を主張。2012年01
71木炭から砂糖を合成?1908 (41)水蒸気に電流を通すと3000度でH2とO2とに分解し、これを高圧化で同温の木炭に作用させる。米国化学者の論文。2012年02
72香港のペスト(1)1894 (27)国威発揚のため、北里柴三郎,青山胤通を派遣。ライバル2人の背後には内務省と文部省、伝研と東大、もあった。2012年03
73香港のペスト(2)1894 (27)すぐに北里は青山の解剖で出てきた臓器からペスト菌を発見、しかし調査研究が一段落したら青山発症2012年04
74香港のペスト(3)1894 (27)青山救援に派遣された高田耕安は、東大解剖の小金井良精に手紙3通送り、それが掲載される。2012年05
75香港のペスト(4)1894 (27)青山も帰国、箱根で休養後、、自宅(駿河台)に戻る。東大図書館で近衛篤麿を中心とする国家的歓迎会。2012年06
76香港のペスト(5)1894 (27)ペスト菌はYersinia pestisという.世界的偉業と日本中で沸いたのに,北里の名前でないのはなぜか?2012年07
77長井長義、静岡での講演録1897 (30)日清戦争おえて、殖産興業の重要さ、即ち軍艦、大砲買うには生糸、茶の輸出だけではだめで、製品を輸出せよと説く。2012年08
78文部大臣濱尾新と薬学会1897 (30)維新の元勲ではなく、初めての学士会会員の大臣。彼は薬学会員であったから、小石川植物園での祝宴を載せている。2012年09
79胃液の強弱を調べる方法1906 (39)メチレンブラウを薄きクッタペルカ紙に包み,腸線で結紮し,食後の患者に服用せしむ。健康ならば尿が青くなるというが.2012年10
80薬学会の始まり(1)1910 (43)明13、神田明神境内・開花楼での新年会で、定期的な集会を発議。翌2月に神田仲町福田屋で親睦会を第一回とする。2012年11
81薬学会の始まり(2)1910 (43)晩秋には例会出席者がたった3人。翌14年2月福田屋で組織、規約を制定、名称は薬学会、暮れには薬学雑誌創刊。2012年12
82もう一つの薬学会と東京薬学新誌1910 (43)明治11年東大薬学科の第1回卒業生が中心となり在学生、教員を含めた51人で勉強会を開き、雑誌を創刊。2013年01
83フグ毒テトロドトキシンの命名者1909 (42)河豚には三種の属あり。曰くTetrodon, Tridon, Diodon是なり。歯の数により之を類別す。田原良純2013年02
84薬学会年会の時期と名称1910 (43)名称は、新年会、大会、総会、年会と変わる。当初は1月。春になったのは明治23年から。2013年03
85薬学会年会の会場と会員数1903 (36)明24、東京薬学会から日本薬学会に名称変更。32年間で30人から2911人に増えた。総会会場と会員数の一覧表2013年04
86中の島、大阪ホテルでの薬学会総会1903 (36)道修町薬業家ら27人を中心に、委員長辻岡精輔、常務委員二宮忠八。長井テレーゼ夫人は高野山に。2013年05
87薬学会総会、懇親会の会場1910 (43)神田明神開花楼、上野弁天島の長蛇亭、神田三河屋、神田淡路町の万代軒、麹町富士見軒。25年以降は精養軒2013年06
88洪庵先生第四子、故緒方惟孝君略伝1905(38)溝口恒輔氏の追悼文。江戸下谷の西洋医学所教授、開成学校英学教授心得、ロシア留学。新潟病院兼洋学校取締など2013年07
89米沢のはっか栽培史1897 (30)上杉鷹山公、薬草に経験ある士を江戸表より招聘し吾妻山中を調査せしめ、次に会津より人参の種を取り寄せ、2013年08
90緒方一族と緒方ビル1905(38)緒方正清が開いた産院の後身、くりにっくおがたの他に、医院が9つ、薬局が一つ入っている。3階に除痘館記念資料室2013年09
91ジェンナー像の謎(1)1899 (32)私立衛生会が種痘医祖善那君之像を芝公園に建立するとの記事。しかし現在は国立博物館にあり、形が違う。2013年10
92ジェンナー像の謎(2)1899 (32)高村光雲、米原雲海、藤田文蔵らにより3種、6体作られたが、結局薬学雑誌の像はどこに行ったか不明。2013年11
93ジャワのキニーネ1890 (23)キナの種・苗は南米各国が輸出を禁じたがHasskarlが密輸、ジャワに植えた。その27年後の記事。第2次大戦の戦略物質2013年12
94医薬分業をめぐる闘い・11890 (23)薬律は明23から施行。同時に医薬分業が否定される。このとき日本薬剤師会はなく、彼らは懇親会という名目で集まった。2014年01
95医薬分業をめぐる闘い・21890 (23)雨宮綾太郎は各々手を分かちて業権握取する手段を講ずべしと論じ、下山順一郎は学識をもって地位を高めよと説く2014年02
96医薬分業をめぐる闘い・31891 (24)島田三郎ら6議員は分業をうたう改正案を議会に提出。東京各区の医師たちも分業反対の請願書を衆議院に提出2014年03
97「私立薬学校」下谷から上野桜木に移転1898 (31)のちの東京薬科大。引っ越しの式典は、石黒軍医総監,帝大総長外山文博,三宅医博らが演説し、国家行事のよう。2014年04
98自らコレラ菌を飲んだペッテンコーファー1893 (26)緒方正規や,鴎外森林太郎も留学,師事した世界的権威。菌だけでは発症しないとした。胃酸を中和してから飲んでいる。2014年05
99水滴1mLの体積1899 (32)Harnackが100種類の溶液を調べた文献の紹介。蒸留水は13滴。アルコールが42滴、一半塩化鉄液が11滴というが?2014年06
100多少毒性を有する新薬の極量(表)1890 (23)大人に対する一日または一回に投与できる最大限の量のこと。当時は容量が決まっておらず、さじ加減が重要だった。2014年07
101明治の宴会はどこで1910 (43)伊豫紋楼は下谷同朋町、横山大観らも好んだ。明43年,東京薬学校同窓会は上野鶯坂下の伊香保.2014年08
102明治の千駄木にいた薬学会会員1902 (35)在京会員477名のうち98人が本郷区に居住、6人が千駄木。曲淵景章、丸山長四郎、石川静逸、前島知徳など2014年09
103駒込神明町と慶松勝左衛門1902 (35)10代足利将軍、義材の子、慶松丸に始まる名家。31歳で満州中央試験所に所長として招かれ、のち東大教授2014年10
104本郷区の薬学会会員1902 (35)弓町に丹波、飯盛挺造、田口和美、辻新次。東片町に緒方正規、大澤謙二、真島利行。西片に齋藤寛猛、喜多尾元英。2014年11
105丹波博士、駒込妙義坂の新邸での園遊会 1905 (38)敷地3000坪。ビヤホールは三か所、ラムネ店、団子屋、寿司屋などは庭の入口に、てんぷら屋などは崖下に出店。2014年12
106同志社ハリス理科学校に薬学科開校1892 (25)教官は下村孝太郎、児玉信嘉、須田勝三郎、小野瓢郎ら。第一回卒業生を出すも廃校、在校生は京都薬学校へ。2015年01
107上野の山と明治薬学会1901 (34)送迎会など、精養軒、梅川楼(浅草八百善、桜雲台、常盤花壇)、韻松亭で行われた。2015年02
108エックス線と大正天皇1898 (31)X線発見の2年後、19歳の殿下は理科大学へ行啓。頭蓋骨に弾丸を入れた箱、鯛、小童2人の胸部の透視像を見学。 
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