2021年8月23日月曜日

子ども大学で桶川飛行学校跡の記念館に

桶川駅から西に5km。荒川のほとりに、かつて熊谷陸軍飛行学校桶川分教場があった。

戦後、建物がそのまま引揚者など生活困窮者の住宅に使われた。市営住宅、若宮寮と呼ばれ、最大64世帯、303人(昭和31年)がいらしたという。平成19年(2007)最後の住人が退去され、そのまま放置されていた。

私はどなたかのブログで存在を知ったのだが、あまりにも交通が不便なところだったので行くこと能わず、そのまま年月が過ぎた。

その間、建物の保存について署名とともに要望書が桶川市に提出されていたらしい。
それを受け、市は更地にして国に返還するところを方針転換して土地を買収。
2016年に建物が市の有形文化財に指定され、2018年から復元整備工事が行われた。
昨年完成、コロナの最中、2020年8月、桶川飛行学校平和祈念館がオープンした。
この看板は平成27年(2015)とあるから、記念館が整備される前に、保存に尽力したNPO法人らが立てたものらしい。
戦後の若宮寮時代、昭和39年の消防訓練の写真もみえる。

昨年平和祈念館としてオープンしたといっても、それでも車がないと簡単にはいけない。
それが、2021年「子ども大学・あげお・いな・おけがわ」のプログラムで訪ねることになった。
子どもたちの興味は知らないが、私は喜んだ。
2021‐08‐20 祈念館正門


2021‐08‐20 8:04
子ども大学の対象は3市町の小学校5,6年生。
主催者側として受付用にテントを張るが、今は組み立ても簡単。

8:51
参加する子供は40人、ほとんどが車で来るので祈念館駐車場では入りきれない。
係が入り口に立ち、坂を下りた河川敷の総合運動場に車を誘導。

8:53
斜面をおり運動場へ行く間にサイクリングロードが横断していて、事故防止に係員が二人立つ。
もともと運動公園に行く車はここを通るのだから、この日だけ特別に立つこともないとも思うが、実行委員会として決まったことなので行く。
この暑い中、自転車は一台も来なかった。
9:03
太郎右衛門橋。新しそうに見えても1971年完成。
これを川島町側に渡り、南に行くとホンダ飛行場。戦前はそこに滑走路があり、飛行学校生徒は徒歩で学校(宿舎)との間を往復した。ホンダ飛行場近辺にはコンクリートの遺物が3か所ほどあるらしい。
1990年、このあたりの堤防でバーベキューをした後、本田エアポートを見学したが、当時は桶川飛行学校のことを知らなかった。


9時までの受付が終わりほぼ子どもたちが来たというので祈念館に戻る。
9:06 陸軍の境界杭
参道のような正門への道がつづく。
その西に(写真左)、すなわち今の駐車場付近に燃料置き場があった。

西の荒川側は崖だが、見れば東も崖になっていた。
たぶん荒川の自然堤防の上に宿舎、校舎がつくられている。
だから敷地が細長く、正門まで参道のような道になった。
河川敷の滑走路に近く、かつ洪水でも浸水しないよう、慎重に敷地を選んでいる。

正門を入ると左に守衛棟、右に車庫棟、奥に宿舎棟が修理復元されている。
かつては、うしろに教室棟と講堂があったようだ。

受付を終わった児童は見学に出発していた。
かつては、写真に見える井戸?の向こうに学校本部棟があり、北の宿舎棟とのあいだが営庭になっていた。

右側の車庫棟には資材などの運搬用に車両を入れていたらしい。

調査、復元には行田のものづくり大学が担当したようである。
銘板を読めば、戦後一時期GHQが使用したため、飛行場、格納庫のように破却されることはなく、奇跡的に残り、川田谷引揚寮となったらしい。
若宮寮の若宮は、桶川駅の近くの地名が有名だが、川田谷村の中にも字としてあった。


児童への説明は祈念館常駐の桶川市職員の方が二人、丁寧にしてくださったので、こちらはすっかりお客さんになって見学した。

メインの展示場に変わった旧宿舎棟に入る。
入り口から土間が裏まで続いているのは昔の農家に似ている。

元の部材をできるだけ使って修理している。
昔の小学校を思い出す。

今回は保護者も一緒(新井利次氏撮影)

桶川飛行学校は昭和10年(1935)に開設された熊谷陸軍飛行学校の分教場として昭和12年に開設された。桶川だけでなく東北から九州、朝鮮まで各地に熊谷本校の分教場が設置された。上田分教場はいま上田千曲高校などになっているらしい。

けふ「第三の空都」誕生  という新聞記事。
埼玉県において所沢、熊谷について三番目の飛行学校という意味である。
いや、文字通り飛行機の都として三番目ということだろう。


航空機は第一次世界大戦(1914-18)で初めて実戦に使われた。
日本陸軍は1915年(大正4)、常設部隊として気球中隊も含む航空大隊を所沢に創設した。
1918年には航空大隊は4つに増設され、第一(所沢)、第二(各務原)、第三(滋賀八日市)、第四(福岡大刀洗)となり、操縦士や整備兵などの教育は各大隊で行われた。

しかし、第一次大戦で航空機の重要性が強く認識され、欧米に遅れていた我が国では系統だった教育が必要となり、1919年、所沢に陸軍航空学校が開設された。
1921年には下志津分校(いま千葉四街道市)と明野分校(いま伊勢市北部)が設置され、のち独立した。

1931年に満州事変が始まりますます航空兵力の充実が急務となった。
1935年所沢航空学校の操縦と機関・技術の教育を分離する。後者を陸軍航空技術学校として独立させ、搭乗員養成の教育は新設の熊谷飛行学校に移り、1937年所沢飛行学校は廃止となった。


訓練は九五式一型練習機で行われた。
95式だから紀元2595年(昭和10年)に制式採用されたのだろう。
赤とんぼと呼ばれたのは、複葉機としての形や速度が遅かったからではなく、海軍同様、練習機が橙色に塗られていたためらしい。
終戦まで2600機も生産されている。最後、一部は実戦にも投入された。

当時のテキスト。今の大学生は理解できるだろうか?

教官の手帳
4人の生徒について毎日、欠点や特性まで学修状況を丁寧に記している。
教官として、若かったはずだが、かなり優秀だったと思われる内容。

一部屋には18台の木製ベッド。
隣との間が狭いから、肩や腕がぶつからないよう、頭の向きが互い違いになるよう配置された。海軍予科練のハンモックなども互い違いだった。場所の節約のほか、ひそひそおしゃべりもできないし、結核などもうつりにくいかもしれない。
おそらく敷布団は藁だろう。

特別に詳しく展示されていた伍井芳夫・第23振武隊長は桶川出身、
ここで教官を務めたあと、特攻隊の隊長として出撃した。

海軍の特攻隊が現地でインスタントに編成されたのに対し、陸軍ははじめから選ばれたものが内地から知覧などに送られた。

航空機による特別攻撃は1944年10月20‐25日のレイテ沖海戦で海軍が敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊、6機x4,24人を投入、各隊は神風特攻隊と総称した。
陸軍は1944年11月のレイテでの万朶隊、富嶽隊から始まるが、フィリピン戦は八紘隊で統一(隊によっては別名もあり)、沖縄戦になると振武隊で統一、番号を振られた。

敷地の東の食堂跡
コンクリートの、べた基礎が残り、草が生えない。

便所棟
小学校の時の便所を思い出した。
そうそう、昔は田舎の駅なども個別の朝顔はなくて、こんなふうに壁に向かって用を足した。

当然汲み取りだから便器の下には桶が置かれていた。
地元の人がコンクリートで手作りしたという。

便所の北、このフェンスまでが桶川市の取得した祈念館の敷地。
戦時中は、この向こうに体操場のような講堂があったらしい。

宿舎棟の裏からフェンスまでの間が空き地になっている。
ここで子ども大学の修了式をすることにした。
子どもたちに直射日光が当たらないようテントを張る。

修了式は短時間だからテントなどいらないと思うが、今の人たちは熱中症に対して非常に神経質になっている。しかし蚊帳まで張り始めたのにはびっくり。過保護ではないかと思うが、私のほうが世間からずれているようだ。

実行委員長のスピーチをした。
平和教育がどの程度効果があるか分からない。自分自身を考えれば、小学校、中学校のころから戦記物を読んできた。真珠湾での華々しい戦果を喜び、ミッドウェー、南太平洋での激戦に悔しがり、レイテ、マリアナの悲惨な終盤戦に沈黙した。しかし戦争の残忍さは、もう少し遅れて分かってくる。子供が亡くなる悲しみは、子供を持ってからよく理解できる。
戦争はいけない、ときれいごとを言ってもなくなるわけではない。

何を話したらいいか分からないまま、マイクを持った。
児童はじっと私の目を見ている。
まあ、委員長は年齢も地位も一番偉いので、適当にしゃべっちゃおう。
(新井利次氏撮影)
*
皆さんはこれから大人になっても、
私のようにおじいさんになっても、
ずっと戦争について考え続けると思います。
戦争はいけないというのでなく、なぜ戦争が起こるか考えてください。
みんな戦争は嫌だと思うのに、これからも戦争がなくならないでしょう。
ということは、
皆さんも私も含め人間はもともと争うようになっているからです。
*

テレビや新聞も我々の怒りを代弁して気持ちを増幅させる。相手を悪く言うほうが売れるからだ。人々は、それぞれ自分が正しいと思っている。
そして、かつて大陸でふつうに商売していた人たちは、自分らの経済活動が戦争につながるとは思っていなかった。
戦後のインテリ左翼は(今も)あの戦争を軍部や軍国主義のせいにしてしている。しかし戦争を起こしたのは政治家、財界人を中心とした日本人そのものである。

*
それから、いまみんなは
熱中症にならないようにとテントに入っているけど、
ここで勉強して戦場に向かった人たちは、もっと熱い中で厳しい訓練をしていました。
暑いとか寒いとか、皆さんが文句を言うことは、
死ぬことからくらべたら問題になりません。
そういうことを忘れないでください。
*

先の大戦のとき、日本人はアジアの人々を見下していた。スイッチ1つでエアコンが入り、虫のいない生活を望み、そうでないとすぐ文句を言うような大人に、アジアの人々の気持ちが分かるわけがない。

(新井利次氏撮影)
支離滅裂なスピーチになってしまったが、どうせ何を話しても残らない。
内容よりも、子ども大学修了書の授与の前の形式として、委員長の話は必要だった。

修了式の場所は、ちょうど宿舎棟のうしろの講義棟があったところ。
ふつう学校は正門から入れば正面が事務室や講義棟などで、寄宿舎は後ろの端のほうにある。ここは本来、荒川対岸の飛行場で厳しい訓練したあと寝るために帰ってくる場所だったから、このような配置になったのだろう。


(補遺)

桶川飛行学校の本校である熊谷陸軍飛行学校の鳥瞰図をスマホでとってあった。
JR熊谷駅東口、エスカレータの脇の壁画である。
今年の3月30日、たまたま写しておいた。
昭和11年(1936)に描かれたとある。
熊谷飛行学校が開校した翌年である。
校舎は描かれているが、滑走路はない。
この敷地は戦後航空自衛隊の基地になった。



ところで、桶川飛行学校跡地の戦後、若宮寮について大きな疑問がわいた。
64世帯、303人がここに住めるだろうか?
国土地理院の航空写真で調べてみた。
 国土地理院 1964-5-16 桶川
引揚者の住宅だったころは、飛行学校の宿舎棟だけでなく講義棟も残っている。
今の車庫棟から食堂棟も含め便所の近くまで長屋のような建物が続いており、収容力はある。

しかし講堂はない。すなわち今、市有地の境となっている金網フェンスの北は畑になっている。周りの田畑と比べ区画が非常に小さく見えるのは、若宮寮住民たちの家庭菜園であったのではなかろうか?

国土地理院 2007-6-16
講義棟はつい最近まで残っていたようだ。


お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ 
翻訳本あとがき 目次へ 
競技ダンス 目次へ


2021年8月20日金曜日

被服廠跡、震災復興記念館に入ってみた

二年ぶりに長野に帰省する予定だった。
春に結婚した次女と婿さんを、コロナで結婚式に出られなかった母や弟夫婦に見せるつもりだった。しかしまたしてもコロナで直前にキャンセル。

我々も娘たちもスケジュールが空いたので食事することにした。
場所は彼女らが住む蔵前のイタリアンレストランなので、食事前に妻と両国から蔵前まで散歩することにした。

この日の両国駅と隅田川テラス(遊歩道)については別のブログで書いた。

両国駅からすぐ、安田庭園の北東に都立横網町公園がある。
ただの公園ではない。
かの陸軍被服廠跡、あるいは東京都慰霊堂、あるいは復興記念館、これらに行くとは、ここのことだ。

2021-08-14   12:14
駅に近いほうから入ると慰霊堂のうしろになる。
ここは2016年5月5日にも来た。錦糸町から歩いて回向院を回ってきたのだが、写真も取らず文章も残さなかったので、今回きちんと書いておく。

12:15
慰霊堂正面に回る途中、関東大震災でなくなった朝鮮人犠牲者の追悼碑あり。
碑文を読まなかったが、ただ地震で亡くなった朝鮮人というのでなく、殺害された人々のことが念頭にあるだろう。

殺害に関与した人は口をつぐみ、資料も多くが戦災で失われただろうし、一方で韓国の人々(と日本の左翼知識人)は、事実はいっさい関係なく反日なら嘘でもOK、何でも叫ぶからなかなか歴史的全貌は明らかにならない。

しかし、当時は差別があり、不安と情報混乱から罪のない朝鮮人の殺害があったことは間違いない。朝鮮併合のあと困窮した農民が日本に流れ込み、日本人経営者は不当に彼らを搾取した。信濃川逃亡労働者殺害事件なども起きた。義憤にかられた社会主義者らの活動が活発になるも、国家は治安維持を名分に鎮圧方向につとめた。抑圧された彼らの貧窮と不満は国民の知るところで、それがデマに真実味を持たせてしまったのだろう。

近年の韓国のふるまいや、慰安婦記事の捏造を認めても謝らない朝日新聞などの行為がなければ、日本の市民もこの碑の前で素直に反省、哀悼の意を表したのではなかろうか。

関東大震災直後の混乱で、自警団ら一般人によって虐殺された朝鮮人は、政府発表で231人、在日朝鮮同胞慰問会は6,000人としている。

慰霊堂正面に回る。
設計は伊東忠太。
だと思った。どことなく築地本願寺に似ている。
この地は大正時代まで陸軍被服廠があり、1922年それが移転した後、東京市が買収、近代式運動公園の造成を進めていた。その最中、1923年(大正12)9月1日、関東大震災が起き、周辺の住民がこの空き地に避難してきた。ところが四方から火が迫り逃げられず、3万8千人が焼け死んだ。

その霊を供養するため昭和5年、この堂が完成、関東大震災による死者5万8千人の遺骨がおさめられた。
さらに昭和20年3月10日の東京大空襲などによる死者も合祀し、ここには現在16万3千体の遺骨が納められているという。
慰霊堂建坪は377坪とある。
当初は震災記念堂といったが、戦後、東京都慰霊堂と改名した。

12:15
慰霊堂は見学できるように開いていた。
5年前に来たときは閉まっていた。今日がお盆だからかな、と思ったが毎日開いているようだ。5年前は閉館時刻を過ぎていたのだろう。

12:16
200坪の講堂のうしろに納骨堂をかねた三重塔がある。
右側にビデオ上映があり、老人が一人見ていたほか、人はほとんどいなかった。
12:17
仏教だけでなく、イスラム教、キリスト教のひともお祈りできるようになっている。
写真は空襲のものが多い。
震災の様子は絵画になっている。
12:19  絵画「旋風」
第一震(11:58)によって130か所で火災が発生、折からの風にあおられ一気に広がった。その高熱によってつむじ風が起き、この被服廠跡でも人々や家財道具が舞い上がり、隣の安田庭園などにも落下した。
被服廠のトタンの壁が残っていて猛火で赤熱しているところに、風で飛ばされた人がぶつかって貼り付き、多数焦げ死んだという。
市川まで飛ばされた人もいると何かで読んだ。
(いま吉村昭「関東大震災」を開いたが、そんな記述はない。)


横網町公園には復興記念館がある。
ここも5年前に来たときは閉まっていた。
12:22
入るのは初めて。入場無料。

昭和6年(1931)竣工
入り口でもらったパンフレットに
ゆるむ心にねぢをまけ(大正13年大震災記念日標語より)
とあった。

12:23

12:24
地震後、皇居前広場には30万人が避難してきた。
大八車などに家財道具を満載している。
当時市民はすでに火災を想定していたのだろうか?

しかしこの荷物が、足手まといになるだけでなく道をふさいて避難、消火の邪魔になり、さらに燃えることで火勢を強めた。橋の上では両側から押し寄せて立ち往生した人々の荷物に火が付き、橋が焼け落ちた。彼らは溺れ死に、橋がなくなって人々はさらに逃げ場を失った。

上野駅前を埋める避難客と家財道具
荷物を持っての避難は、すでに江戸時代から危険が指摘されていて、町奉行から禁止、犯したら罰するとの布告が出ていた。しかしその教訓はまったく生かされなかった。

12:25
死者、行方不明者は東京で70,387人、神奈川で68,660人
阪神淡路(1995)の圧死、東日本(2011)の津波と異なり、大部分が火災によるものだった。この日は能登半島付近に台風があり、関東は風速17メートルの南風、これが昼食時の火災を大きくした。

焼けた交換機やタイプライター

12:26
現在の横網町公園は6000坪だが、当時の被服廠跡は南の両国中学、第一ホテル、江戸東京博物館の一部を含む20,430坪あった。
ここに4万人ほどが集まった。一坪2人である。早くから来た家は十畳分くらいの場所を確保し、四方に家財道具を建て、そのなかに一家が座って避難していたが、あとから来た人は荷物の間に挟まって立錐の余地もない状態になった。

午後4時ころ、その状態で火に囲まれたわけである。
まず家財道具が燃え出し、逃げまどい、苦しくなって地面のほうの空気を吸おうとしゃがむと押しつぶされた。人の来ないところで爪で土を掘って顔を中に入れて息をしようとした女性は髪油に火が付き、そして人々に押しつぶされた。旋風は3回襲い、火が燃え尽きると95%、3万8千人が焼け死んでいた。

ここも人はほとんどおらず、静か。
小石川礫川公園の東京都戦没者記念館より展示ははるかに充実している。
中国語の母娘がいた。

12:27

復興小学校及び復旧図書館
本郷区、小石川区は南部の一部を除き消失を免れた。
東京市の小学校196校のうち、118校が焼失した。
震災を契機に区画整理が行われ、道路、橋が新設された。

12:30
東京市街路ノ復興
震災前の東京はほとんど砂利道だったのが、復興計画で一気に舗装道路が整備されたことが示されている。

12:31
一階で十分見たが、二階もある。
軍隊の傷病者救護
人々は火に囲まれ、空き地などに寄り添うように集まったため、そのような場所はあたかも死体集積場のようになった。浅草区田中小学校校庭・1081人、本所横川橋北詰・773人、錦糸町駅・630人、吉原遊郭内公園・490人など。

12:31
一枚一枚見ていたら気が変になるかもしれない。

大震災記念安田善次郎氏寄贈
安田善次郎の本邸は被服廠跡の西隣、いまの安田学園や同愛記念病院の場所にあった。
その南の旧本邸は庭園として東京市に寄付していた。

作者の有島生馬は有島武郎の弟。この絵は皇居前だろうか。山本権兵衛首相、後藤新平内務大臣のほか、有島生馬と親交のあった竹久夢二、島崎藤村、大杉栄なども描かれているという。
社会主義者、大杉栄は千駄木にも縁のある妻・伊藤野枝とともにこの直後、憲兵隊甘粕大尉らに殺害された。
12:34
上野公園より見たる灰燼の帝都
右下の黒い部分は不忍池と池之端岩崎邸から湯島天神の森だろうか。
火というものは外部要因がなければ燃えつくすものがなくなるまで燃える。

中央に焼け残っているのは、神田和泉町、佐久間町である。

ここは東京衛生試験所(のちの国立衛研)と三井慈善病院の耐火建築があり、道路を挟んだ北にも市村座、三ツ輪研究所のレンガ建築があった。南は神田川。水道は断水していたが秋葉原貨物基地の運河水路の水が使えるという幸運があったが、いちばんの理由は住民が逃げなかったことである。失敗したら家が燃えるだけでなく全員が焼死という賭けであった。

四方を火に囲まれ、消しても消しても押し寄せる火炎にバケツリレーで立ち向かった。
夜中にいったんは鎮火したが夜明けとともに再び火災は押し寄せる。不眠不休の住民は水をかけ、家屋を押し倒し、延焼を防ぐも疲労困憊で地べたに座り込んで立てなくなった。そこに午後になって最大級の火災が浅草方面から襲来、しかしさらに8時間もの戦いで夜中11時に完全に消し止めた。二昼夜、30時間以上の消火に消防署は全く関与せず、住民だけで守ったことは震災の奇跡と言われた。

100年近くたち、三井記念病院の南、和泉公園にそれを記念した「防火守護の地」という記念碑がある。以前見た時は写真も撮らなかったが、今この絵を見て、改めて特別な碑として思い出された。
12:35
こちらは東京空襲の展示。
悲惨さにマヒしてしまった。

外に出る。
12:38
5年前はこれらだけ見た。
焼け跡から出た金属性遺物。

火災は9月3日まで続いていたが、残暑厳しいころで路上の死体は急激に腐敗を始めた。
死体の多くは逃げまどった挙句に焦げたもので、大部分が性別不明であった。
一家全滅の家も多く、膨大な数の身元確認は不可能である。

警視庁衛生部は早くも9月2日の午前10時から死体処理の対策会議を開いている。
その結果、死体の腕に布を巻き付け、発見時の情報をできるだけ記録して、各区ごとに遺体を集めることに決まった。二日間保管して遺族の便宜を図り、身寄りのない遺体は焼却することになる。

荏原郡桐ケ谷、北豊島郡町屋、南葛飾郡砂村新田、豊多摩郡落合などにあった火葬場のほかに臨時の火葬場を設けたが、それでは間に合わず、露天で薪を積み石油をかけて焼却した。
ここ、被服廠跡でも近隣から運ばれた死体もあわせ、49,821体が積まれた。一体残らず蛆がわき、運ぼうとすると肉が崩れた。薪と石油では半焼けになるだけでさらに腐敗は進み、手が付けられなくなった。しかしたまたま新発明されていた重油火葬装置が一角に築かれ、9月9日から3日間で焼却された。
当時の東京で縦横に走っていた水路の溺死体は路上の死体よりさらに処理が困難だったという。

12:39
溶鉱炉のような熱さだったのか、保管していた釘が溶けて鉄塊に戻っている。

この地で奇跡的に助かった人々は「一二九会」(ひふくかい)を作り慰霊をつづけた。
大正12年9月と被服廠をかけている。
もう存命者はおられないだろう。

蔵前橋東詰めに面した公園北口から出るにあたり、再び慰霊堂を見た。
納骨堂には都内の震災死者58,000体に、東京空襲の身元不明の遺骨が加わり、163,000体が安置されている。
今立っている場所で4万人が泣き叫び、ぶつかりながら逃げ回り、あるいは焼かれ、あるいは押しつぶされて38,000人が死んだ。
怨念、無念の地である。
霊感がなくてよかった。
事故物件とか、殺人があった場所で幽霊が出る、なんて、ここに比べたら可愛らしい話である。 

この日のブログ

お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ 
翻訳本あとがき 目次へ 
競技ダンス 目次へ