2019年9月29日日曜日

戦時中の有機合成化学協会

古い雑誌をすべて廃棄するというのでもらってきた1冊。
有機合成化学協会誌。
この協会、1942年12月 商工省より社団法人として許可。
国家総動員法以来、資源は全て戦争に向けるということで学会や雑誌の統合、廃止が行われたが、この時期に新設は珍しい。
戦争遂行における有機化学の重要性、情報交換の大切さを思えば当然であるが。

1942年は開戦半年後の6月にミッドウェーで大敗、8月にはガタルカナルの飛行場を奪われた。その攻防を巡って、10月には南太平洋海戦でホーネット撃沈するも、11月には第3次ソロモン海戦で比叡、霧島が沈没、12月にはガタルカナル撤退が決定、戦局がますます悪化していく時期である。

翌1943年は、4月に山本五十六が戦死、5月アッツ玉砕、ニューギニア、ラバウルが孤立し始め、外地の部隊は飢えと病気で消耗し、11月にマキン・タラワの部隊が全滅、内地はますます物資が不足していった。
そんな時期、10月に有機合成化学協会誌第1巻第1号が発行された。

創刊号の巻頭言は「大決戦の秋」
秋はトキと読まねばならない。
アキと読めばとたんに芋やら栗やら、のどかな感じになってしまう。

「戦局は今や重大である。物的戦力を唯一の頼みとして、消耗を意とせず、執拗に反撃を企図する敵米英に、徹底的痛打を與へ、再び立つ能はざらしむためには、われも亦相対的に物的戦力を増強するほかはない」
と、どこかの国のアナウンサーのようだ。
執筆した牧鋭夫は東大工学部教授(応用化学)。

記事も戦争関連一色。
たとえば山田桜「兵器材料と有機合成化学工業」という総説。
 
第一次大戦からの爆薬の解説。
こちらはホスゲンなど毒ガスの生産

技術要員充足問題懇談会(昭和18年4月14日於染料会館)というのがあった。
企業でも大学でも軍に応召されて研究員が不足しているという話。

大卒研究員ならば招集されてもそれなりのところで働かされるからまだ救われるが、実験補助員として教育してやっと一人前になったものは、その技術を考慮されず満州でも南方でも兵隊として前線に送られてしまうという。
また、学生の就職にあたり、飛行機工場など機械の方は人気があるが、化学工業の方は人が来ないとこぼしている。

続く11月号巻頭言は「研究隣組の結成」林茂助

合成マラリア治療剤の解説もあった。
日本は全世界キニーネの95%を生産するジャワを占領したが、独逸イーゲー染料工業会社エルバーフェルド研究所(つまりバイエル)で作られたプラスモヒン、アテブリンの重要性を解説している。
著者・近藤龍は厚生省東京衛生試験所技師 製薬部長 薬博

以後、巻頭言だけ見ていけば
 12月号 戦争の現段階が我々に要請するもの
1944年 
 1月号 有機合成は「科学の粋を集めた果実」なり
 2月号 増産を急げ・・・今の一機は明日の10機
 3月号 (本なし)
 4月号 己を知り敵を知れ
 5月号 新資材の創造

6月以降は巻頭言がなくなった。
6月16日に本土初空襲(成都から八幡製鉄所に)

1944年10月号は酒石酸の特集であった。
このナトリウム・カリウム塩(ロッシェル塩)はピアゾ素子と知られ、圧力―電圧の変換に使われる。
すなわち、対潜水艦などの水中聴音器、航空機との電話などに使う重要戦略物質である。戦時中、この情報がドイツからもたらされ、1943年初夏、突然軍需として緊急大量生産を求められた。
酒石酸はHOOC-CHOH-CHOH-COOH であるから、l体、d体、メソ体、ラセミ体が存在する。合成品はラセミ体、メソ体になるため、ワイン樽の壁に着く酒石(d体)が重要原料となる。
ところが日本ではもともとブドウの栽培が盛んでなく、しかも1943年はブドウをワインにせずほとんど生食してしまった。そこで陸軍糧秣本廠の指導で山葡萄を採取したらしい。
座談会では、山へ入って野ばらで着物が破けるとか、マムシが出る、ひっくり返って指を3本切ったとかいう話が出た。
蚕のさなぎからキチン質をとり、それから酒石酸を合成するとか、各研究者、国民は涙ぐましい努力をしているけれども、これでは勝てない。


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2019年9月25日水曜日

駒込の坂、木戸邸、樹林館

9月22日、千駄木の家から駒込駅まで歩いた。
グーグル地図では1.2㎞、16分。

1977年住んでいた二葉荘を過ぎ、アザレア通りをいく。
目的の一つは坂道を写真にとること。
どんどん景色が変わってしまうから。

不忍通りからアザレア通りに入ってすぐ、左に入る。
このまま進むと左にカーブし、不忍通りの神明坂上に出る。
42年前は散歩の興味などなかったからアパートから駅までまっすぐ歩き、寄り道などしなかったが、この道だけは覚えている。

写真中央奥の緑は神明北公園。
そこに上がるには石段しかない。

そちらに行かず、右折するとなだらかに登っていく。
このあたり、不忍通りも本郷台地も北へ向かっていったものが少しずつ西の方に曲がるため、方向感覚がおかしくなりやすい。この坂(下の写真)も不忍通りと同じように西に向かって登っていく。
振り返って坂上から。
明治のころは道もなく坂名も無し。
道の右側、すなわち南は幕末の旗本、本郷丹後守泰固7千石の屋敷だった。
その一角に駒込パークハウスがたち、敷地内にあった石碑を道路側に移している。
右が寛政7年(1795)建立の「鹿碑」。左が嘉永2年(1849)の「瘞賜豬碑」。
将軍の鹿狩に本郷氏が側近として同行し、その際将軍から獲物を可賜されたことなどが刻まれている。
 明治になると、木戸孝允(桂小五郎)がここを別邸とした。敷地内を文京区と豊島区の境が通り、いくつものマンションが建っている。
 駒込パークハウス(1998)、並びのトーア駒込マンション(1978、139戸)の反対側へまわってみる。ぐるっと、ミラール、コーポフェリーチェ、メンケンビルをすぎて敷地の南西に回ると
明治天皇行幸所木戸旧邸
木戸は明治10年西郷軍征討のため京都までいき、そこで病没しているから、ここに住んだのはそれほど長くない。

行幸記念石柱の立つマンションはウェリス駒込レジデンス(2008、52戸)。
右隣りのミオカステーロ駒込(2013,15戸)までが豊島区、そこから先のJヒルズ(1989)から文京区になる。本駒込ハウス(2000)、ミオカステーロ本駒込(2006)、崖の端が神明北公園、石段降りてクレール駒込(1983)、駒込パークハウスで一周する。

敷地の外周に林立するマンション群は中庭を共有しているのだろうか。
本郷邸、木戸邸時代からの池があるらしいが、外からは見えず。

なお、DNA塩基配列の高速読み取り装置を日立と一緒に開発しようとして、一時はアメリカより進んでいた生物物理の和田昭允は、允の字をもつ木戸の義理のひ孫。
(木戸孝允の妹ハルの息子である孝正が木戸の娘好子と結婚し、木戸家を継いだ。好子は早世、再婚した寿栄と孝正の長男幸一は木戸家を継ぎ、次男小六は木戸孝允の生家和田家を継ぎ、ここで彼が生まれた。血筋では木戸孝允の妹のひ孫。侯爵木戸幸一は実の叔父)


旧木戸邸の本郷通りがわのブロックには素敵なマンションがある。
樹林館。
駒込駅から歩いて帰るときはここを通る。
10階建て、全9戸。6階のみ2住戸。
他は各戸100平米以上ありそう、エレベーターホールも専用。
1、2階は大家さんだろうか?

ちなみに右の赤いマンションはフォレストヒルズ駒込という。
勝手に隣の樹木を名前に借りている?

旧木戸邸側の方に回るとBMWのむこうに蔵がみえた。
樹林館は昔、古い屋敷だったのだろう。
この道が巣鴨町大字上駒込字伝中裏と本郷区駒込神明町の境になっている。

再び木戸邸にもどり、駒込パークハウスの前の道の一本北の道にいく。
この辺り高台でマンションがないので空が広い。
里芋などを作っている売地があった。
品のある家が建ってほしいな。
里芋畑の前の道は行き止まり、階段でアザレア通りの方に下りていく。
こういう雰囲気は埼玉の田んぼ地帯にいたとき憧れた。
仮名を里芋階段とする。谷中の芋坂みたい。

降りてすぐ、アザレア通りに出る前に再び上り坂があった。
木戸坂というらしい。
左にカーブしているところが工事中、かすかに駒込東公園の緑が見える。
この坂を上りきり公園を過ぎると木戸邸の西側に出る。

でも木戸邸は本郷通りの方が近いし便利。
当時、他に目印が何もなくて名付けたのだろう。

再びアザレア通りを駅の方に向かう。
ふと横を向いたら商店街から工事中現場が見えた。
木戸坂の上から見えたもの。

11階建て、すべてワンルーム36戸という。
右の緑は駒込東公園。
景観破壊は止まるところを知らない。
人口減少しても移民が増えるから需要はいくらでもある。

駒込東公園下。下で二股に分かれるいい坂。
戦前の地図を見ると、この公園はなく坂道の様子も違う。

この坂は駒込東公園坂と仮名する。

少し駅の方に行くと日枝神社。
慶長年間に勧進、朝日山王宮とも称された。
なるほど、マンションのなかった時代は朝日がよく見えただろう。
見晴らしがいいから太田道灌など砦を築きそう。
昭和20年4月13日、空襲で本殿はじめすべて焼失。
先日、9月15日に近くを通ったら幟が建ち、太鼓の音が聞こえた。

石段を下りる。
この坂は駒込山王坂と仮名する。
かつて坂上は山王台といい、いま駒込山王クリニックもあるので。

ふたたびアザレア通りに下りたがすぐ駒込駅東口。
線路に沿って上り坂

古い石段がところどころあるのが良い。

坂上から山手線が見える。
江戸駒という旅館があるので江戸駒坂とする。

JCBの看板など、昭和の旅館の雰囲気。
しかし、ご休憩用に使われているようだ。

国土地理院 1974-78
木戸邸のところはまだ緑が多い。
このころは散歩にも歴史にも興味がなかったから、近くに住みながら存在すら知らなかった。

google 2019
1929(昭和4)
1.中央の「伝中裏」とある区画が旧木戸邸。
(古い地図では左下の28番の方まで広がっていた。)
2.アザレア通りに吾妻通?吾麩通?とかいてある。
3.三業地をおもわせる「業地」の文字が右に見え、演舞場もある。
4.里芋畑のそばに駒込基督会の教会がある。

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2019年9月24日火曜日

神明坂、アザレア通りと藤谷美和子

9月22日、1977年に住んでいたところへ行ってみる。
と言っても歩いて数分、すぐ近く。

動坂上の交差点を渡る。
北東に下る斜面だから擁壁などで区画されるすっきりした住宅地。

動坂公園 2019-09-22

42年前は毎日この横を通って動坂上の交差点に出た。
しかしこの公園に立ち寄ったことは多分一度もない。

数年前、千駄木に引っ越してから、既に一人暮らしを始めた息子を呼び出して、この檻のなかで一度だけキャッチボールをした。もう一度やりたいのだがチャンスはあるだろうか?

ちなみに、動坂上の駒込病院前の公園は駒込公園という。
五木田邸
サクラが我が家と同じ文京区保護樹木だった。指定8-156(平成10年)。
ちなみに我が家のは指定7-39(平成6年)
番号の意味は不明。

この奥が9か月住んだ二葉荘

今日は旧二葉荘を出発して駒込駅まで歩く。

大学は反対方向だったから普段は駅を使わない。しかし、たまには電車に乗った。
徒歩8分だった記憶がある。
不忍通りに出る直前でマンション建設中
大通りに面していないのに地上15階。
72坪しかないのにワンルーム中心42戸のマンション。
私企業が金もうけに走れば、町の住環境はどんどん悪くなる。
行政は品のない企業、個人にブレーキを掛けなくてはいけないのに、文京区はそれをしない。

不忍通りに出る。
紳士服いつでも大安売り(卸問屋?)のカツロ。
1977年すでにあったそうだが、記憶にない。
数年前一度安い靴下を買った。

不忍通りが上がっていく坂を神明坂という。

不忍通りは根津遊郭の仲通りを北に延長したもの。
団子坂下まで来たのが明治32年、新道といった。
動坂下まで伸びたのが明治43年夏。
大正3年 市電を通すため幅を6間から12間に拡張、
市電は上野から動坂まで大正6年7月27日に開通。
同じ年の6月に本郷通りを駒込富士前まで市電が来ているが、不忍通りが本郷通とつながったのは大正11年(1922)という。神明坂ができたのはそのときだろう。

神明坂の上の交差点は「上富士前」交差点という。
富士神社があるから上富士町といったが、「前」とは何か?
と今、調べたら「上富士前町」だった。

カツロのそばの交差点で不忍通りを渡る。

1977年夏、この左側にラーメン屋があった。
カウンターだけの小さな店。
國枝卓氏と昼に二葉荘を出て、つけ麺を食べた。
つけ麺というと最近出てきた(2000年以降)というイメージがあるが、あれは確かにつけ麺だった。

調べたら、つけ麺は1955年大勝軒の山岸一雄が始めたという。
(ちなみに彼は信州中野出身)
1970年代後半につけ麺ブームが発生したというから、我々が食べたのはこの時か。
1990年代中頃から山岸の下で修業、独立したラーメン店主が類似のつけ麺を出し2000年頃から関東圏、特に都内につけ麺を出す店が増えていったらしい。
もちろんそのラーメン店は影も形もない。

この通りはそのままアザレア通りとなり駒込駅まで続く。
居酒屋「神明」。入ったことがない。
ちなみに「神明」というのは駒込神明町という町名からだが、神明社すなわち駒込病院わきの天祖神社からきている。
そもそも神明社(神明神社)は、天照大御神を主祭神、伊勢神宮内宮を総本社とする神社で、全国に5000もあるらしい。神明宮、皇大神社、天祖神社などの名前になっている。
神明坂は浦和や都内(三田、千束)にもある。

アザレア通りも駅から離れた場所は1977年当時の建物が残る。
しかし記憶はない。

ユニバーサルドラッグのビルの裏壁が蔦に覆われていた。
写真で撮ると大したことがないが、高いと迫力ある。

アザレア通りといえば、藤谷美和子の実家があったようだ。
1977年にカルビーポテトチップスのCMに出演、1978年『ゆうひが丘の総理大臣』というが見ていない。
「月刊明星」1979年12月号
蔵書を調べたら、79年と80年にグラビアがあった。
下町の電気店、ぜんそくがひどかったと書いてある。
そう、アザレア通りの電気店という記憶がある。

記憶に電気店の景色が浮かぶのだが、はて、当時見に来たのだろうか?

ネットで調べた。
「あの人は今」的な話ばかりの中で、古い2チャネルで実家がブティックSOLEILになったという情報にたどり着く。
洋品店はあったが、店名も電話番号も別だった。
その情報すら大昔の話だから。

中里1-5-11は道の東側だった。
私の記憶にある電気店は通りの左側(西側)である。今、西側に電気店はない。
42年前、西側にも電気店があったかどうかは不明。

ひょっとすると、実際に見たことはなく、私が1978年に本駒込から谷中に転居した後、懐かしのアザレア通りを思い出しながら、勝手に彼女と電気店の店先を想像したのではないか? それが小さな書店などに並んで通りの西側にあったという錯覚・現実ごちゃまぜ記憶になったのかもしれない。


最も印象に残っているのは、アイドル時代ではなくて、ラグビーで半身不随になった柳葉敏郎の車いすを押すNHKドラマ「妹」。
音楽はlet it be だったな。調べたら9年後の1986年。

ちなみに愛が生まれた日は1993年だが、もう私は興味がなく、彼女が歌っていたことも知らなかった。

駒込駅(東口)到着
線路の下が改札というのは他にもあるだろうが、この天井の低さが独特。

この構造物は何だろう?
椅子にしては尻がいたくなりそうだし、屋台防止、自転車駐車防止なら、こんなもの置かずにどんどん撤去してしまえばよい。

駒込駅東口
ほとんどの駅の顔が変わっていく中、ここだけは何十年も変わらない。
寮を出て初めて一人暮らしをしたところだから、友人を呼んで、ここで出迎えた記憶がある。町田憲一などはお互いハガキに地図を書いてやり取りした。

駅のすぐそば、今のパチンコ屋スリーセブンがあるビルの二階、ここに英会話サロンMINICOがあった。

1995年4月ころ埼玉の伊奈町から数回来た。
オーナーは峰さん?と言う方で若いころ柔道を普及させるため全米を周ったという人。彼は場所を提供するだけで、そのとき集まったものが雑談するだけ。
覚えているのは外交官として中近東に行っていた年配者の女性関連自慢話と、親の残した小さいスーパーを経営する若者の、日本で一番良かった旅行先は長崎だった、という話だけ。

峰さん?はがっしりした明るい方で、東大宮の大規模開発マンションを購入されたが、バブルがはじけて値下がりしていると仰った。
行かなくなって数年後、知らない人から手紙が来て、峰さんが交通事故で大けがをされたから激励パーティをしようというお誘いだったが、私は数回通っただけで知っている人もいないだろうから行かなかった。

そのMINICOに通った95年にアザレア通りから少し足を延ばせば、電気店、ラーメン屋、二葉荘、日の出湯など見られたかもしれない。

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2019年9月22日日曜日

上野公園6 江戸の坂

上野の山は彰義隊の前後で大きく違う。
上野駅の開業でも大きく変わった。
鉄道以前は、東の山下には多くの塔頭があり、降りていく坂道があった。
嘉永4年 尾張屋版
絵図右下にシナノ坂。
斜めになっていても急だから階段だったようだ。
もちろん現存しない。
中ほどに屏風坂。
これは御本防(現国立博物館)の前の道だから、いま両大師橋の下あたり。
その南に車坂。
凌雲院(現東京文化会館)の前から降りているから、今のパンダ橋あたり。
この坂は途中から二つに分かれていて、南側のはいまの不忍口から公園口改札まで上がってくる車道だろうか。
車坂という名前でありながら絵図は階段である。
2018-12-23 南の車坂

西郷さんの下の3153の南に石段がある。
昔、似顔絵を描く人がたくさん座っていた石段。
ここは江戸時代から坂道だっただろう。あがると新黒門があった。

本来の黒門は、御成門と並んでもう少し西にあった。
黒門を入ってまっすぐ行けば吉祥閣だが、右手の坂上に清水(きよみず)堂があった。

2018-12-05
弁天島から清水堂への石段
きよみず坂は、この石段ではなく、この上の黒門内から堂に上がる階段を言う。

左下に清水堂
今回は関係ないが、絵図の右に半分切れて浄名律院。4万8千地蔵の浄名院である。
いまは離れてしまい、とても寛永寺36坊の一つとは思えない。

また中央上、護国院の門を寛永寺の清水(しみず)門といった。
池之端・清水坂(しみず坂)の由来か。

池と山の間は動物園通りという。
忍坂、しのぶ坂というらしい。
上野公園、韻松亭前に上がる坂道。
江戸絵図でも近い場所に坂がある。

2018-12-05 五条天神
江戸時代、この地に牛頭天王、忍岡稲荷(絵図はイナリ)があった。
五条天神社はもとは上野の山にあったが、江戸時代に下谷(今のアメ横あたり)に移り、1928(昭和3)に現在地に遷座した。

花園稲荷から忍坂上に登る坂は、江戸絵図にもあり、いま稲荷坂という。

梅川亭に行く、精養軒うらの坂道
名はないので、精養軒裏坂とする。

2018-12-05 東照宮の鳥居。
上がると右に梅川亭。
2016年、長女と彼に結婚前の挨拶を受けた。
うなぎはうまかった。

参照
上野駅2 駅舎と外観
上野公園1 聚楽第と映画館あと
上野公園2 昭和38年の広小路
上野公園3 清水堂と彰義隊墓所
上野桜木~平櫛田中、浄名院、寛永寺


千駄木菜園 総目次