2019年1月31日木曜日

西郷山と菅刈公園

1/20、代官山スポーツプラザでダンスをした後、旧山手通りに出た。
良い機会なので初めて西郷山公園に行ってみた。

遊具などはなく、大人が芝生に座って目黒川の向こうに沈む夕日を眺めていた。
2019-01-20  16:22

代官山はどこが山か分からなかったが、西郷山ははっきり分かる。
西郷従道が兄のために買い求めたが、西南戦争の後、従道の別邸となった。
しかし説明がほとんどない。

鹿野ら1998の論文がよい。 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/61/5/61_5_389/_pdf

もとは中川清秀を祖とする豊後竹田7万石、中川家の抱え屋敷。
25,000坪、目黒川沿いの池を利用した庭園が見事だったらしい。

明治7年、従道が前年下野した兄の復帰を願い、ここの2万坪を購入。
山県、井上、大隈らも興味を示したが、みな売値1200円を値切る中、従道は
「これだけの邸宅を手放すのは何か事情があり忍びないことでしょう。わずかではあるがこの金で屋敷と別れの盃を交わしてください」と100円添えたという。

大戦中に西郷家の手を離れ久しく、西郷山という名前しか残っていなかった1979年、目黒区が高台部分4000坪を取得、1981年に開園したのが、この西郷山公園である。

しかし、鹿児島県の市町村から送られた樹木や溶岩の石があるほかは、西郷家につながるものは何もない。

北西出口近くで、この辺りに住んでいそうな、ハーフっぽいモデル二人がジョギングしている撮影現場に出くわした。スポーツウェアの広告だろうか、総勢10人くらい。カメラはノートパソコンにつながっていて、モニターを見ながら色々指示を出していた。


公園を出ると1本の道が木の枝のように3本に分かれていたので、一番右の道を通って渋谷に戻った。

帰宅してから、菅刈公園という、同じように西郷邸のあとにできた公園を知る。
地図を見たら一番左を通ればすぐだったのだが、現地では知らなかった。

そこで翌週の1月27日、朝倉邸お茶会(→別ブログ)のあと、再訪した。

ちょうど昼時で西郷山公園では芝生の上で弁当を食べている人がいた。
公園内の坂を下りると菅刈保育園と住区センターがある。
目黒区が4000坪取得したのに、西郷山公園が1万平米というのは、こういうことだ。

高級住宅を見ながら崖下の道を少し行くと目的の菅刈公園。

入ってすぐ右に和風の建物。
中が資料館になっている。
西郷山公園にほとんど何も記念碑がない理由がわかった。



この池は新たに掘ったもの


従道が兄のために買ったこの土地は、隆盛が死んだため、従道の別邸となる。
彼はさらに周辺の農地、山林を買い、最大14万坪まで広がった。
明治34年から昭和16年までは西郷家の本邸となった。

14万坪というのは、東大本郷キャンパスの病院を含めた加賀本家、富山藩、大聖寺藩を合わせた12万坪、水戸上屋敷(東京ドーム、遊園地、中央大学、後楽園など)の10万坪、湯島の榊原下屋敷(三菱岩崎庭園、湯島合同庁舎、旧竜岡町の住宅地、一帯)の1万8000坪と比べればよい。

一番下に西郷山公園、菅刈公園がある。
明治42年は菅刈小学校などに敷地を譲渡した後だから、すでに小さくなっている。
とはいえ、14万坪はもっとずっと大きい。
調べると旧山手通りの向こう、都立第一商業高校あたりまで広がっていたらしい。

山林を除いた邸宅部分

江戸、明治以来の大邸宅は 家屋を高燥な斜面の上に、下の方に回遊式の池泉が造られたが、西郷邸は山下の池のそばにあり、背後は山林である。

東京市の拡大に伴い、敷地も縮小されたが、昭和15年でも庭と邸で6500坪、背後の山を入れれば5万坪あった。しかし5000坪を残し山林部分を売却(西郷山文化村分譲地)、昭和18年には低地の邸宅部分も国鉄に売却、従道の子、従徳は渋谷に移った。

西郷家が去った大戦中、池泉は埋め立てられ耕作地となり、斜面には軍馬用の防空壕がほられた。そして和館は空襲で焼失。戦後、残った洋館が明治村に移設された。

昭和22年

その後、持ち主の国鉄がアパートを建てた。
こうして明治22年天皇も行幸、史跡にも指定されていた名園邸宅は跡かたもなく消滅した。

当時からあった銀杏の木

 
ボート遊びをした大きな池は、埋められたまま、芝生の公園になっている。

目黒区は1981年に西郷山公園を開設した後、
1997年、国鉄アパートの土地、6000坪あまり(つまり西郷邸の庭と建物があったところ)を取得した。
さらに発掘調査して庭園をある程度復活させ、菅刈公園として2001年に開園。
区として高額な出費であったに違いない。

帰りは公園内の坂道をのぼって旧山手通りに出た。
途中、段々畑のように石垣で造成された平地がある。
おそらく国鉄の職員宿舎の跡であろう。


不自然な石垣は、ここが国鉄アパートの入り口だった跡だろうか。

1995
確かに菅刈公園はJR青葉台宿舎になっている。
朝倉邸は中央官庁渋谷会議所


前田邸の駒場公園といい、西郷邸跡といい、目黒区はきちんと購入し、市民に無料で開放している。建物も修復維持し、お茶会など区民活動に供している。
民度の高い区は、税金を有効に使い、ますます住民の生活が豊かになり、また区としてのブランドも高まっていく。

一方、文京区なら住民がいくら要望しても、ふつうに民間から民間に渡りマンションが建ってしまうだろう。世間のイメージと異なり、文化に対する文京区長、区役所の意識、あるいは民度は平均より低いのではないか?


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2019年1月30日水曜日

代官山アドレスと同潤会アパート

1/20、日暮里のダンス練習場が休みなので
代官山のダンスパーティで踊ることにした。

パーティ会場は渋谷区代官山スポーツプラザ。
同潤会アパートの跡地を再開発した、代官山アドレスという複合施設にある。

2019-01-20
36階建てマンションのザ・タワー、商業施設ディセ、ピーコックなどがある。
区のスポーツ施設はザ・タワーの東、半地下?部分にあり、温水プールは大人400円。
タワーマンションは、公共施設を併設することで容積率の緩和を勝ち取った。
正面が代官山スポーツプラザ。
パーティは600円。
私も老人だが、もっと年取った人ばかり。
話を聞くと笹塚とか都立大とか、城西、近辺の人で、千駄木からというと「まあ」と驚かれた。

更衣室のロッカーも大きく、シャワー室もきれい。
渋谷区は金持ち。
23区というのは面白いように千差万別。

・・・・
同潤会アパートは、震災後に東京横浜で16か所に建てられた。
重厚な鉄筋コンクリートづくり。

1980年代になると設備が古くなったことや狭さ、老朽化のため順次、建て替えが進められた。
歴史的建築物として、代官山・青山・大塚女子・江戸川などでは保存運動も起こった。しかし、立地条件が良い場所が多く、高層化することにより個人負担なしで建て替え可能なこともあり、住民が建て替えを希望した。

代官山は、原宿表参道(2003)、上野下(2013)、日暮里(1999)などに先立ち、1996年に解体。代官山アドレスは2000年8月に開業した。

この日は何も見ずに帰ってしまったが、翌週、1月27日に朝倉家住宅(→別ブログ)に来たついでにまた立ち寄った。
ザ・タワーの下を通ったら、壁に昔の写真が展示されていた。

大正14年、関東大震災によって大破した青山女学院の跡地に着工され、昭和2年~3年にかけて36棟の建物が完成。
敷地面積は5,976坪、25%という建ぺい率から豊富な緑を持ち、敷地の起伏を生かした傾斜地に2階建てと3階建ての鉄筋コンクリート造りのアパート、公衆浴場、食堂などが配置されていた。(wiki)


おしゃれだと思うのだが。
住んでいた人は今時の便利なマンションみたいなものを希望された。

荒れているのは、建て替え前の立ち退いた後だろうか。


同じく震災後に建てられた駒場寮に似ていて、少し懐かしい。


ザ・タワーの総戸数は387戸。
その半数近くは地権者用となり、残りの200戸が1999年夏から分譲された。

1980年代、バブル以前の代官山は鄙びた場所だったようだ。
確かに昭和50年代、代官山は、東横線の急行の止まらない駅という認識しかなかった。


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2019年1月29日火曜日

朝倉家住宅でお茶会

先週1/20、代官山スポーツプラザに行ったとき、たまたま置いてあった渋谷区の広報誌をみた。そこに1/27、朝倉家住宅お茶会のお知らせがあった。

11:00~12:30、13:30~15:00、
15分前から整理券配布

とある。
区役所に電話してみると、午前午後とも1回30分で3回ずつ。
年3回ある催しだが、今回は大使館の人も招待しているというので、早めに出かけた。

10:10恵比寿駅着
めったに来ないおしゃれな場所に2週続けてきた。
10:20すぎに朝倉家住宅着。

入場料100円だが、60歳以上は無料。
きれいな庭へ回って建物を見たかったが、整理券をもらうのが先決と、中に入る。
広間に行くとすでに皆さん座って並んでいらっしゃる。
老若、ほとんど女性。
どんどん人が入ってきて
10:45に午前の整理券を配り始めるときは60人近く。
渋谷区の職員だろうか、列の整理や説明も丁寧で客も行儀が良い。

茶会は1回につき20人ずつ。
私は10:25に来て15番目くらいだったから11:00からの第一回目をゲット。

安心して時間まで少し見物した。
二階に上がってみる。
階段も普通の家より広い。手すりにも細かな意匠。

家族が住んだり生活する場所は1階廊下の北側で、1階、2階の大広間は会合などに使ったらしい。2階は15畳と12畳半。
二階は他に6畳が2部屋とトイレがある。
 昔は木々の間から目黒川、その先の田園、連山、富士が見えたことだろう。


降りてくると、皆さん控え室(杉の間、奥、床の間入れて10畳)にいらした。
そこで荷物を置いてふすまを開けて南の杉之間(表)に移る。

床の間をいれて12畳、南と西が障子、ガラスの部分から庭が見える。

袴の男の人が湯釜のそばにいらして(亭主?)、20人は1畳に4人ずつぐるりとコの字型に並んですわる。
年配の女性が入ってこられ、20番目にいた私の横に座り、ご挨拶をされた。床の間に向かって右の一番前(左)に座られた方が答えられたりして、ああ、これが正客というものか、とすると末席の私はお詰めになる。全くの初心者でちょっと不安・・・

お茶会は何回か、例えばこの秋も学園祭で茶道部のお茶会に出たが、毎回初心者対象、「堅苦しく考えず、気楽に楽しんでください」と言われ、膝を崩し和菓子を食べてお茶を頂くだけ、全く知識がない。

5人ほどの女性が隣の部屋からお菓子を一つずつ運んでいらした。甘さ控えめでおいしい。京都・老松の御所車という。
周りは食べ終わると敷かれていた和紙をたたんでしまっている。お皿のように前に置きっぱなしだった私もそれに従う。

裏千家といわれる彼女(席主?)による掛け軸、花、道具などの説明があるも私にはよくわからず。
正客と次客はこの部屋で点てられ、茶碗も特別。
他の客は隣の部屋で点てられたものが供された。

様子を見ていると、持ってきてくださった人にあいさつした後、すぐ飲んではいけなくて、次の人との間に置いて「お先に」というようなしぐさをしてから手に取っている。
こんなことも知らないで来てしまった。
彼らは、飲み終わると肘をついて器の裏を見たり、隣の方と話をされたり。

私はすぐ隣の席主の話に黙って頷いてたまに目が合ってほほ笑むだけ。

皆飲み終わってから正客次客の器が浄められてまた出てきて、それらや棗という茶器を皆で触ってみたりして30分はあっという間に終わった。

そのあとは邸内の見物。

敷地面積は5419平米
大正8年建築の母屋が573平米、他に土蔵と車庫。

朝倉家に関しては略。(ネットにもある)


旧山手通り沿いのヒルサイドテラスや猿楽塚、通りの向こう側の棟もすべて朝倉家の敷地であったようだ。


 表と裏の間の廊下。
北側に台所など生活空間が集まっている。
中庭も大きい。
土蔵に行く渡り廊下が右奥に見えた。
ガラスは手延べの時代だから平らでなく、昔の金魚鉢のように厚くて景色が少しにじむ。

玄関わきの洋間

家族用の内玄関。
北向きで、表を通らずに食堂や私室に行ける。
本玄関は撮り忘れた。

トイレットペーパーのホルダーとか、手洗い鉢の石鹸置き場とか、細かいところにも意匠が施されている。


外に出た。
崖線にあるから高低差が激しい。

 置かれている石も大きくて立派。

先ほど茶を振舞われた杉之間を外から見る。

西の端は蔵になっている。

これを建てたときの当主、朝倉虎治郎は養子に入る前、材木店で働いている。その経験を活かし、最高の材料を選んだ。

戦後の困難期に中央馬事会に売却され、さらに農林省のものとなって、昭和39年から経済企画庁の渋谷会議所として使われた。
さすがにこれだけのものは壊してマンションにはできないだろう。

現在、所有者は文科省(文化庁)、管理者が渋谷区である。

先月行った横山大観記念館は、ここと比べればずっとずっと小さいが入館料800円、それでも維持は難しそうだ。千駄木の安田楠雄邸も、建物応援団が維持に苦労している。
朝倉邸は国と区がついているから安心だが、なるほどそれだけの芸術性がある。


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2019年1月28日月曜日

代官山と青葉台の地形

代官山とはどこをさすか?
住所としての代官山町は、東の東横線と西の八幡通り(渋谷駅東口の金王八幡から発する)に挟まれた南北に狭い地域。西に猿楽町が接している。

しかし、一般に代官山というと、八幡通りの西側、猿楽町も含め、旧山の手通りに沿って西に、さらには恵比寿駅に向かって東にも伸びる。
軽井沢のように良い名前は広がっていく。

ウィキペディアをみたら、渋谷駅・中目黒駅・恵比寿駅・池尻大橋駅を結んだ線のおおむね内側を広義の代官山というらしい。

地形的にはどうだろう?
代官山という山があるのだろうか。
頂上がなくてもよい。
道灌山や上野の山のように、下から見上げるような高台になっていればよい。

西郷山はわかりやすい。
目黒川沿いの低地から東を見上げる高地が西郷家の土地だったから名付けられた。
しかし、代官山という高地はどこか?

・・・
1月20日、日暮里のダンス練習場が休みなので
代官山のパーティ会場を借りて練習することにした。
地形を感じるちょうどいい機会なので、渋谷駅から桜丘町の坂を上がっていく。

このあたり、地形が複雑だから道も分かりにくい。

途中、猿楽町で古代住居跡が公園になっている。
数年前、やはり代官山へダンスに行った時も立ち寄った。

昭和53年に復元したが焼失したという。放火だろうか。
なるほど、縄文、弥生の住居はいかにも燃えやすい形をしている。

ジオラマがある。
目黒川、渋谷川にはさまれた台地。
二つの川には海が入り込んでいただろうし、山には獣もいただろう。
斜面には狐狸が巣を作る。
崖上からは眺めも良い。
海が後退した弥生時代は、谷に水が湧いただろう。
大した土木工事をせずとも良い水田になっただろう。
いつの時代も坂のある地形は住みやすい。

猿楽小学校との境には石塔が並んでいた。

大山街道が北を走り、ここらの尾根や谷にも大小の辻があっただろう。
区画整理などで広げるとき、そこらにあった庚申塔などを集めたものらしい。
ビルが林立する渋谷区では道路わきに再び置く余裕がないのだろう。


歩くうちにオシャレな人々が増え、代官山あたりについた。
しかし田舎者にはどこが一番繁華街か分からない。
ダンス会場は渋谷区代官山スポーツプラザ。

13:30~15:30まで練習して、終わって周辺を歩く。
思ったより高いビルがない。区の規制だろうか。

旧山手通りに出た。
西側を歩いていくと立派な日本家屋が見えた。
テラスマンションの間、駐車場から撮影。

正面に回ると朝倉家住宅という。
台地が目黒川の谷に落ち込む南西斜面に、東京府会議長や渋谷区会議長を歴任した朝倉虎治郎によって、1919(大正8)に建てられた。

惜しくも16時に閉館した所だった。
旧山手通り西側に並ぶヒルサイドテラスも朝倉家の土地だったらしい。
大通り沿いなのにわずか2階建ての高級マンション。
高層マンションがすぐ立つ文京区とえらい違いである。

このあたり外国人も多いが、西日暮里、日暮里あたりの外国人とは全く違う。

旧山手通りの向こうにテレビによく出る蔦谷書店が見えた。
芸能人が歩いていないかちょっと探してしまった。

エジプト大使館、デンマーク大使館、少し行くとマレーシア大使館もある。
なお、このあたりから旧山手通りの西側は目黒区青葉台になる。
(それまでは両側とも渋谷区猿楽町、もちろん一帯は「代官山」である)

西郷橋を渡ると西郷山公園。
この公園は別のブログに書く。
西郷山公園を出ると1本の道が木の枝のように3本に分かれていたので、一番右の道を通って渋谷駅に戻った。
国土地理院、デジタル標高地形図から

上の地形図をみれば、渋谷の西側台地は、渋谷川のほうから3本の切れ込み谷があり、4つに分かれる。南から
1.恵比寿駅から鎗ヶ崎交差点に至る駒沢通りの南、
2.東横線が通る低地の東、
3.西郷橋と桜丘郵便局を結ぶ線の南、鶯谷、猿楽町などのある高地
4.西郷橋と桜丘郵便局を結ぶ線の北、南平台町や青葉台のあるところ

住居表示の代官山町は3に含まれ、蔦屋や朝倉家住宅も3である。

・・・・・・

1週間後の1月27日、ふたたび代官山に来る。
朝倉家住宅でのお茶会である(→別ブログ

この住宅は代官山台地が目黒川に落ち込む崖線にある。
お茶会が終わり正門前からでて朝倉邸に沿った坂を下りる。
目切坂という。
東京富士見坂7つの一つ。
上の写真の木のところに説明版。
そうか、広重の絵はここだったのか。
しかしあの絵の富士は目切坂の方向ではなく、90度左の方角。
見ればキングホームズ代官山という高級マンションがある。1975年築、ゆったり3000坪の樹木に囲まれ、芸能人も住むという。そこに富士塚があったようだが、明治に岩倉具視の別荘となり、一般人は入れなくなった。

目切坂下から振り返る

坂を下りて、目黒川の低地を西北に歩く。
右側の山側におしゃれな家が続く。
上村坂下に出る。

坂上に上村彦之丞の邸があったからとか。
だから、かみむら坂である。
日露戦争の時の第二艦隊司令長官である。
巡洋艦中心の艦隊で、日本海海戦でも活躍した。
薩摩出身だから西郷邸の近くに屋敷を構えたのかも。

 この坂の両側は大きな家ばかり。
ひときわ大きな家があり、表札を見たら加藤とある。
美空ひばり記念館だった。
あとで調べたら、家を生前のままに保ち公開、入館料1500円。目黒区の条例で、住宅地であるから展示スペースは50平米に限られているという。

朝倉邸の裏も住居専用地域だったため、ヒルサイドテラスは旧山手通りに面していながら二階建てしかできなかったように、目黒区、渋谷区は民度が高いから、規制があって町が美しい。

坂を上り切り旧山手通りに出て、西郷山公園から再び坂下に降りる。

場違いのように錆びたトタンの古家がある。
近づいたら高級外車が2台入ったガレージだった。

このあたりは目黒区青葉台だが、坂上も坂下も大きな家ばかり。
菅刈公園に立ち寄り、再び坂をあがって通りに出た。
旧山手通りを南に戻り、代官山アドレスから東の谷に降り、東横線の越えて、また坂を上がって山手線の谷に降り、渋谷まで歩いた。
東横線が代官山を出て渋谷に向かうところ。

かつての東横線の跡を渋谷に向かう。

この日は低地の恵比寿駅から出発、坂を8回通った(上り下り4回)。
前の週の桜丘町、鶯谷町、猿楽町の上り下りと合わせ、このあたりの地形は、しっかり体に覚えさせた。覚えても何の役にも立たないけども。