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2020年3月6日金曜日

スモンの謎7 椿教授の神データ

1960、70年代に連日新聞をにぎわせ社会問題にもなった難病スモンの「解決」に最も貢献した人の一番は新潟大・椿忠雄教授(1921~ 1987)であろう。

昭和20年、東京帝大医学部卒。脳研究所の助教授を経て、1965(昭和40)年新設の新潟大学神経内科の初代教授に就任した。

東大時代に釧路奇病を研究し、昭和39年5月の日本内科学会で豊倉らとともに、SMONの名称を提案、以後これを普及させた。
さらに、スモン患者の多く(ほぼ全員)がキノホルムを服用していると真っ先に発表、電光石火で厚生省を動かして販売停止させ、そしてスモンの原因をキノホルムであると断定した。

当時も今もヒーローであるわけだが、厚生省、日本の医学界を動かしたことになるデータを見て驚いた。すなわちグリーンブックNo2, p147である。

この報告は
「新潟県におけるスモンの発生は病院集積性が強く、特に総合病院の外科に集中的に院内発生し、特定の医師の受け持ち患者から発生することが観察された。このことからSMONの発症は、何らかの医療行為が関係を有するであろうと考えていた」
で始まる。

そして田村のキノホルム錯体にヒントを得て、疫学調査を行い、SMONとキノホルムに密接な関係があることを見出した。

しかし、彼は腹部症状を(故意なのか?)無視して、神経症状の発現前の服用率を見たから、結果か原因かわからないことは今まで述べた。

そして今回、報告書を実際に見てまた大きな問題点を見つけた。

彼は7つの病院で171人のスモン患者を調べ、166人(96%)がキノホルムを飲んでいると豪語した。飲んでいない人はたったの5人と自信たっぷりである。

ところがデータをよく見ると、これらの患者は、消化器をみる内科よりも、外科などにかかっている人が多かった。
例えばA,B,Cは外科病院である。
その3病院の79人のスモン患者は100%、全員キノホルムを飲んでいる。
自信たっぷりである。

しかし、3病院で、スモン患者以外の普通の患者はどうだったのだろう? 
下痢などで来院したわけではないから、誰もキノホルムを飲んでいなかったのではないか?
つまり、A,B,C病院の患者が何人いたか知らないが、ひょっとすると79人しかキノホルムを飲んでいなくて、79人全員がスモンだったのではないか?
飲んだらスモンになるというなら、これでよい。良いデータだろう。
しかし、キノホルムは曲がりなりにも医薬品である。


もしキノホルムが原因ならそんなことはあり得ない。
なぜなら全世界いや日本でもほぼ安全と思われ長年、のべ数億、数十億人使われていた薬が、飲んだら100%スモンになるなどありえないからだ。そんな猛毒が薬になることはあり得ない。

この椿の報告でのE病院は岡谷市の結核病院である。
ここでのスモン患者の発生は、ベッドの位置などから伝染性を示すものとして東大の塚越、豊倉、井形らは、昭和42年これを日本内科学会誌56巻p49(1967)に発表した。(彼らは後にキノホルム説を主張する)
椿忠雄 グリーンブックNo2 p150

岡谷市、某結核病院でのスモン発生図。
院外で3人発症して入院してくると、その後、同棟のものが次々に発症した。

しかし、3年後椿教授は同じ図を再掲して逆にキノホルムを犯人とした。
根拠は、調べてみたら神経症状発現前に上の図の全員、発症医師2人を含む15人全員がキノホルムを「服用していた事実を明らかにした」というのである。
さらにその後の調査でスモン患者は増え、33人のうち30人が飲んでいた(p148、上の表)と主張する。

しかしここは結核病院である。
他の患者は外科以上にキノホルムを飲んでいないだろう。

椿は続けて丁寧に書いている。
「また当時、他の病棟ではキノホルムがほとんど投与されていなかった」
「非スモン入院患者240例の病歴を調べたところ、キノホルムを投与されていたものは5例(うち3例は少量)に過ぎなかったことなどが判明した」(p151)

これは非常に重要な事実である。
つまりこの結核病院 Eは、
 全スモン患者41人(8人は受診前発症のため除外)
 調査対象スモン患者 33人 (うちキノホルム服用30人)
 非スモン入院患者 240人 (うちキノホルム服用5人)
 (そりゃそうだろう、結核患者がキノホルムを飲むはずがない。なお椿は少量服用者を除き2人と数えたいようだ)

こんな重要な事実があろうか。
きちんと病歴、服薬管理のなされた 入院273人のうち、キノホルムは35人しか飲んでおらず、うち30人がスモンに成ったというのである。(少量者を除けば32人中30人)
この世界中で古くから使われ、家庭常備薬にもなった整腸剤が、飲めば86%あるいは94%がスモンになるなどあり得ない。

このデータはあまりにも強く関係性を主張しすぎて、猛毒を主張しすぎて、大きな矛盾を露呈した。

むしろこのデータの解釈は、
1.結核病院はもともとキノホルムを飲むようなところではなかった。
2.ところがスモンを発症した結核患者が3人入院してから、突然、同じ病棟の患者、医師がキノホルムを飲むような状態すなわち下痢になった。
3.やがてこの下痢患者が8割、9割という高率で神経症状を発現し、スモンと診断確定した。

いったい、
なぜ外科病院の患者がキノホルムを飲んだのか?
なぜ結核である彼らがキノホルムを飲んだのか、
それこそスモンを解明するカギであろう。

そして
スモンの腹部症状(下痢、腹痛)はキノホルムが効かない。
だから副作用が大してないことをいいことに長期投与になる。
効かないということはアメーバ赤痢などではない疾患ということ。
キノホルムを投与しているうちにやがて神経症状が現れる未知の病気。
それこそスモンではないのか?
そして伝染性が疑われる。

椿教授は、自分の調査データの矛盾に気が付かなかったのだろうか?
沖中内科以来の盟友だった豊倉康夫・東大神経内科教授(1923-2003)、東大神経内科から鹿児島大教授となった井形昭弘(1928-2016)、東大医学部から京大教授、国立予防衛生研究所部長、スモン協議会の会長・甲野礼作(1915-1985)ら秀才たちも何も思わなかったのだろうか?

こんな初歩的なことを誰も考えなかったはずはない。
わざと感染説を否定したかったのではないか?
意識してキノホルム説をでっち上げ、自分たちの頭脳とキャリアなら日本中を騙せると思ったのではないか?

このデータで昭和45年8月6日、キノホルム説を報告、9月7日にスモン協議会からの報告を中央薬事審議会が受け、翌8日厚生省は電光石火のごとく販売中止の措置を取った。

このデータはスモン協議会の公式報告書にあるが、一般人の目には触れなかった。
新聞、テレビなどメディアは悲惨な患者の様子や裁判で抵抗する製薬会社を報道することはあったが、この事件で最も重要であった椿のデータを論評することはなかった。

ましてや、裁判でキノホルム説が確定し、教科書に載ると、学生はテストのために教科書の文言を暗記することだけに専念し、書いてあることの真偽を疑わなかった。

そして数十年。
「スモン=キノホルム」と現在の医療関係者は100%信じている。


・・・

先日卒業した I 君にはなむけのメールを送った。

教科書というのは凡人が、前の本を転写しているだけです。
本当かどうかでなくて、文句を言われないように書かなくてはならない。
事実は何か? 感じられるように勉強してください。

(続く)

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)

別ブログ
20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場

千駄木菜園 総目次

2020年3月2日月曜日

スモンの謎6動物実験の怪

服用率85%は何の意味もない。
販売停止以後のスモン発生の激減についても反論がある。
こうした疫学的調査だけではキノホルム犯人説が弱いことを前回までに述べた。

キノホルム犯人説に傾くスモン協議会もそのことは承知しており、動物実験に向かう。

キノホルム部会の部会長に就任した江頭は、(このシリーズは敬称略)
「キノホルムを経口投与することによって、実験動物に、できれば二種以上の動物にスモン患者の定型的病変にできるだけ近い病変を起こさせることが急がれた」との項目を重点目標の1番に上げた。
(グリーンブック・No9(序)、文献1・p59、p64)

まだ仮説であるのに結論が決まっていて、そこに向かって「急がれた」のである。
本来仮説を定説にするには、反論にきちんと答えてサイエンスで封じ込めなくてはならないのに、それらをスルーして何でもいいから補強したかった。

スモン患者の服用量は1日0.6~2グラムであり、最大2グラム、20日として総投与量40グラム。
前回述べたように、総投与量40グラム以下のスモン患者は672人中421人、69%である。

動物実験するなら体重あたりの投与量を合わせなくてはならない。50キロの人で2グラムなら40 mg/kgを20日間ということである。
岡山大小坂教授らはラットに60mg/kg/dayで1か月飼育したが異常が認められないことを報告した。

実験は多数行われたが、ヒトと同じ投与量あるいはその2倍、3倍を連続長期投与しても期待するスモン症状(消化器症状、運動神経麻痺など)が起きなかった。そこで大量投与すると症状が出る前に動物は死んでしまった。誰がやっても同じ結果だった。

普通なら(なにも「意志・願望」のない中立の研究なら)ここでスモン症状なし、で終わりである。
ところが、スモン協議会ではスモン症状を出すことが「目的」になっていた。
崇高な目的のためなら手段は選ばない。
9回出なくても運よく1回でも出ればいいのである。

岡山大の大月、奥村らはキノホルムを滞留させ少しでも吸収をあげるようブスコパンでイヌを便秘にしてキノホルムを投与した。一度に大量に与えると死んでしまうので漸増投与にしている(グリーンブックNo2,p29)。

東大神経内科の豊倉、井形らは経口で毒性が出ないことから静脈投与にした。ウサギに30mg/kgという高用量で「2~4週間後に下肢麻痺を含む神経症状を効率に発症させることに成功した」という、意味がない結果を堂々と発表した。(グリーンブックNo2. p166)
砂糖だって塩だって静注したら毒である。飲んだら無害の塩化カリウムは静注したら少量でも心停止する。

江頭らはキノホルム単独ではスモン症状を再現できないことから、農薬も影響しているのではないかという仮説を立てた。ハムスターに4種の農薬についてLD50の5分の1の量を2か月与え、そのあと農薬と同時にキノホルム500mg/kgを毎日1か月与えたが、なんの異常もなかった。(グリーンブックNo4 .p190)

そこでキノホルム派は漸増投与という名案?を採用していく。
一度に大量投与すると死んでしまうから、死なない量から始め、少しずつ慣らすようにして長期にわたって投与し、最終的に大量を入れるのである。
LD50を超えても死なないようにさせて異常が出るまで投与量を増やすことは意味がない。そんなことをしたら今使われているすべての医薬品は何らかの作用が出るであろう。

上田らは農薬と併用でマウスにキノホルムを90㎎/kg与えはじめ、150mg/kgまで増やしても3か月まで何も影響なし、しかし19週目(350㎎)、400㎎/kg(20週目)で後ろ脚の麻痺が出たという(グリーンブックNo9)。しかしヒトに換算すれば17グラム、20グラムを毎日飲まされればおかしくもなるだろう。

江頭らのウズラの実験ではヒトに換算すれば1日20グラムを2週間、その後30グラムに増やして4週目からは40グラム、5週目から60グラム、6週目から80グラム、8週目から120グラム、10週目から150グラム。。。。

ちなみに経口での体重あたり半数致死量LD50 (グラム/kg)はウィキペディアにある。(ただしマウス?)
  食塩   3.0~3.5 
  ビタミンC 12
  エタノール 5~14
  砂糖  15~36
  水  86~360
50キログラムの人間なら食塩で150~175グラム。これは副作用ではなく致死量である。しかもたった1回飲んで胃に入れたら半数死んでしまうのである。
キノホルムでは毎日飲んでも死なないのだから、一般的には毒性が低い物質と言える。

大月、立石らはイヌ(21匹中13匹)、ネコ(27匹中6匹)に対し神経症状を起こせたという。長期にわたる漸増投与100~150 mg/kgであり、ヒトの20~40mg/kgの2.5~7.5倍だからマウス、ラットより低用量と言える。ただしイヌ、ネコのLD50は知られていない。

長期大量投与はえさに混ぜて与えることが多い。イヌはキノホルムを高濃度に含む餌を嫌い、あまり食べないらしい。1か月投与して歩けなくなったという犬が栄養失調ではなかったとどうして言えるか?

(某教授が長期大量投与し、痩せて立てなくなったイヌを見て、下半身まひのスモン症状が出たと喜び8ミリフィルムを回した。しかし飼育員が「先生、これは栄養失調ですよ」といって栄養剤を与えた。すると歩けるようになり、それを見た某教授はこれはスモンの治療薬になるかもしれないといったそうだ。これには周囲の助手、研究員も驚き、インチキだともいえず「先生、雑犬二匹ではデータが少ないのでおやめになったら」と言って、発表は免れたという(文献1、p261))
「薬害スモン全史」第一巻グラビアページから
キノホルム長期大量投与でよたよた歩くイヌ

有名な写真だが、たんに瀕死の犬を引きずっているように見えてしまう。それは、当時は今の韓国の、事実を無視した反日キャンペーンのように「キノホルムを悪く見せるものはなんでもOK」という時代だったからである。

このころは日本中の研究者がキノホルムをなんとか犯人にしようとしていた。
基礎の薬理学者である東京医科歯科大薬理の大塚正徳教授らはモルモット腸管平滑筋に対する作用をみて、高濃度のキノホルムが収縮を抑制したと報告する(収縮を抑える物質など山ほどある)。

これを甲野会長が「これはスモン腹部症状の発生機序の一部に手がかりを与えた」などと48年総括でとりあげた。それまで神経症状の方に衆目を向けさせ腹部症状にあまり触れなかった会長が思わず口を滑らせてしまったようだ。
もし腹部症状を気にしているなら、なぜスモン協議会は、腹部症状発生前のキノホルム服用率を調べなかったのか。
いや、アンケートには腹部症状発現日とキノホルム服用年月日の記入欄があったから、なぜ集計して公表しなかったか?


もう一つ大きな疑問。
医薬品というのは副作用がなくても薬効メカニズムの研究は盛んに行われる。
キノホルムはこんな単純な化合物なのに、動物や細胞を使った分子レベルでの発症メカニズムの研究がないのはなぜか?
例えば、
1.放射能ラベルのアジド体などを作り標的タンパクと共有結合させ、酵素なり受容体なり同定してキノホルムの毒性本体を暴く。
2.培養細胞などに投与し、遺伝子発現パターンの変化を見る。

当時は現在ほどの技術がなかったが、スモン協議会(国立鈴鹿病院内「スモンに関する調査研究班」)は今も続いているし、未解決テーマとして十分手掛ける価値はある。海外でアルツハイマー病への適用が話題になるならなおさら実験するべきだろう。
それなのに50年間も報告がないというのは、研究を敢えてしないか、実験しても何も作用がないか、どちらかであろう。

私としてはあまりにも簡単な構造式で、何かが出るイメージがわかない。
せいぜいフェノールとNのところで金属をキレートするだろうが、これより強いキレート作用のある生体高分子はありそうだし、そもそも金属イオン不足で神経特異的な作用になるとも思えない。
物は安定だから代謝されて反応するとしても、せいぜい肝毒性、腎毒性など、薬物一般の毒性だろう。第一、大部分の人に作用がないのだから、普通に考えられるターゲット(酵素、受容体)への特異的作用は期待できない。要するに実験する気が起きない。

(続く)

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980


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20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
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千駄木菜園 総目次

2020年2月28日金曜日

スモンの謎5 用量と発症頻度

前回、日本で大量発生したスモンが外国でほとんど発生しないことを述べた。
世界中で使われるキノホルムを犯人にしたからには理由が必要だが、それを日本の特殊事情、長期大量投与とした。
昭和40年ころは公害とともにサリドマイドの薬害、さらには薬漬けが問題になっていたことから、いかにももっともらしく、広く受け入れられた。

しかし、本当だろうか?

少量では発生せず、長期にわたる大量投与でのみ発生するなら、大量に飲んだ人ほどスモンになる確率が高いことを証明せねばならない。

しかしそのような調査はしなかった。
キノホルムは日本薬局方に収載され特許もなく誰でも製造販売できた。家庭での置き薬や胃腸薬の成分としても入っていたから、何人、どれだけ飲んでいたか調べようもない。

薬事日報 昭和45年9月15日
厚生省通達のキノホルム含有医薬品。
国内だけで93社、173品目にも及んだ
(実川ら、グラフィックドキュメントスモン、1990)
武田、田辺だけでなくエーザイ、第一、中外、大日本、大正などほとんどの会社が売っている。

服用量と発生率は調べられないので、
発祥したスモン患者だけを対象に、投与量と症状の重さとの関係を調べた。

しかしこれは意味がない。なぜなら
1.まったく飲まなかった人、ごく少量の人もスモンになっている。
2.症状が重いほど腹部症状が長く続けば、服用量が増えるかもしれないから、相関があっても因果関係にならない。

こうした致命的な欠点に目をつぶって、とにかく当時の研究を紹介する。

グリーンブック No2、p228(昭和46年)によれば、
患者890例の調査報告(楠井、重松)の要約で、

「今回の調査は、スモン患者のみについてキノホルムの服用状況を遡及的に観察したものであり、この成績だけからでは、それがスモン患者に特有な現象であるかは断言できない。しかし、もしキノホルムがスモンの発症あるいはその進展と密接な因果関係があるならば、いわゆるdose-response relationship(量と反応の関係)が成立するはずであり、またすべてのスモン患者が共通してキノホルム剤を服用していることも必要条件となる」

と、のちのスモン協議会の結論や裁判、教科書と違い、まともなことを述べている。
そして以下のように続ける。

「キノホルム剤の明らかな672例について観察したが、いずれの場合も明瞭なdose-relation ship は認められなかった」(p229)
と結論したのである。

祖父江は総量と症状をみて相関なしとした。
軽症 48例  平均使用量 57グラム
中等症 105例 平均使用量 68グラム
重症 53例  平均使用量 52グラム
(スモン協議会総会 1970年11月13日。なぜか報告書に記載がなく、この数字は文献11、p88による)

ただし祖父江らは、軽症者と重症者の服用量の分布を見て、1日の使用量と重症度の関係が見られるとした。
(グリーンブック、No2 p132)
                       軽症者 重症者
0.9 g 以下/日  29% 17%
1.2~1.8 g /日  25% 25%
2.7 g /日       13% 36%
それ以上    33% 22%

しかし、これで差があるといえるだろうか?
だいいち、諸外国でほとんどないことを思えば、0.9~1.8グラム/日(諸外国の量)では軽症も重症もゼロ%(そもそも患者でありえない)でないと世界標準と合わない。

とにかく、権威が集まったスモン協議会の結論として、
「キノホルム剤の明らかな672例について観察したが、いずれの場合も明瞭なdose-relation ship は認められなかった」(p229)

その後、あらたな調査研究報告が出たわけでもないのに、社会のムードというものがキノホルム犯人説に傾き、それに押されたのか、キノホルム説派がこじつけのような理由を出してきて、ついに8年後、
昭和53年8月、東京地裁可部裁判長は、日本だけの特殊事情をなんとか説明するために、
発症は「一に長期大量投与による。」とした。

それが正しいか、数字を見てみる。

スモン患者は、協議会の18班員による890例の調査では、服用量に記載のあったものが672例で、

確実に飲なし 102
量の記載あり 508
量不明 62
である。(服用率調査と同じグリーンブック No2 p235であるが、微妙に違う)

量不明をのぞいた610人の総服用量は
0        102
1~10グラム   62  
11~20グラム  84
21 ~40グラム  173
41 ~60グラム  77
61 ~100グラム  63
101グラム以上  49 
計      610 人
     
20グラム以下が248人、41%いる。
40グラム以下なら421人、69%である。

キノホルム派の中心、椿教授は昭和46年、ヨーロッパに飛んで服用量の調査をした。西ドイツでは1日0.6グラム以下が79%、投与日数13日以下が64%とし、日本より少ないとした。
(逆に言うと、0.6グラム以上が21%、投与日数13日以上が36%、10グラム以上のものが3割程度いるだろう。しかしそこからスモンは出ていない)

一方、チバガイギーは、1年間のキノホルム販売量をその国の人口で割ると、西ドイツ、スイス、オランダなどでは日本より多いとした。
また、椿教授よりもっと大規模に調査し、オーストリアでは1日1.2グラム以上が80%、投与日数1週間以上が29%、そのほかの国でも総投与量10グラムないし20グラム以上はかなりある。だから(長期投与患者の100グラム以上はないとしても)スモン患者と大差ないとする。
(文献2、宮田 p100)

また、戦前から昭和30年代までなぜ発生しなかったということについても、椿教授らは同様に投与量が少ないからとした(東京スモン判決・判例タイムズ365号、p153)。そして片平・中江調査の、1日投与量が1グラム以内、投与日数30日以内であったという数字を根拠にする。しかし30グラム以内のスモン患者は41%以上、69%未満いるのである。つまり5000人ほどは30グラム以内であり、戦前スモン患者がいなかったことの説明にならない。(文献6 増原(4)p90)


どうしてこんな矛盾だらけなのか?
答えは1つ。
そもそも仮説が間違っていて、無理やり押し通そうとしたからである。

科学というのは仮説があり、それに対して支持者、反対者が議論し、最も矛盾のないように、自然とそのときの最良解に収束していくものである。
ところがスモンに関しては途中からキノホルムに固定し、マスコミなども参加して反対者を封じ込めた。その圧力は後で書く。

昭和45年夏以来、10年?にわたり、東大医学部を中心とした我が国医学会最高権威を集めたスモン協議会は、信じられないことに、会の名称であるスモンを研究しなかった。
その代わりキノホルムばかりを研究した。
それもキノホルムをなんとか犯人にするよう、あらゆる手を尽くして研究した。
この時の医学は科学ではなく、政治のようであった。

キノホルム停止の45年9月から、チバガイギーが裏で舌を出し、田辺が認めないまま金だけ渋々払うところに到達するまで(和解確認書の調印が昭和54年9月)、9年もかかったのは、この仮説があまりにも矛盾だらけであったことを示す。

続く

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。


別ブログ
20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


千駄木菜園 総目次

2020年2月23日日曜日

スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか

スモン関連の資料の年月はほとんど昭和で書いてある。
このブログシリーズでは、1,2はいちいち西暦に直していたが、面倒なので3からは昭和のままである。

なぜ昭和で書いたものばかりなのか?
昭和30年代にはじまり、40年代にキノホルムと確定、昭和のうちに突然(大きな動きは)終わってしまった。
しかし、西暦で書かれたものがないのは、海外でスモンが発生しなかったこともその理由だろう。

キノホルムというのは世界中で使われていたが、スモンは起きなかった。
最大の謎というか、キノホルム説を推し進める学者にとって最大の不安材料だったに違いない。

(外国でも少数起きているという反論はあったが、日本の1万人以上と比べたらゼロに等しい。外国では投与量が少ないから、という反論については、日本でも投与量の少ない患者までひっくるめて85%という数字を出したのだから、問題にならない)

この薬は1899年にチバ社(のちチバ・ガイギー、現ノバルティス)が創製した。当時は外用剤であったが、1929年梶川静夫医師が疫痢、急性大腸カタルに有効なことを示した。1933年デービッドらがアメーバ赤痢に著効と報告、内用剤として世界中で使われた。

チバガイギーが1930年ころから販売したキノホルムは4000トンにおよび、患者一人当たり4グラムないし8グラムとすれば、延べ5億人、10億人となる。ドイツのバイエルなど他社のキノホルムも合わせれば、10億、20億人(延べ)が使ったことになり、安全性に問題はないとする。(文献2、p99)

キノホルムがスモンを引き起こすという仮説から厚生省が使用禁止の措置をとり(昭和45年9月)、昭和47年3月スモン協議会が公式にキノホルムこそ原因であるとしてからも、世界は日本の学者のいうことを無視して使っていた。
WHOはチバガイギーから大量に買って熱帯の国々に配布した。

サリドマイドを先進国で唯一承認しなかった厳格なFDAをもつアメリカは、スモン以前の1960年(昭和35年)に適応症をアメーバ赤痢に限るとしたから患者がおらず、チバ社が自主的に販売を辞めたに過ぎない。そのアメリカは、日本のスモンを知りながら、キノホルムは公定書(薬局方)に載せていた。
医薬ジャーナル 16, p1060 (1980)
合衆国公定書USP、国民処方集NFいずれにも収載されている。

スモンを心配してキノホルムを中止したのは全世界で日本、韓国(当時はなんでも追随した)とスウェーデンだけである。

田辺製薬の社内報「まるご」に面白いシリーズがあった。
「いまもキノホルム剤は世界100か国以上で有用な薬として使われている」
と1979年から連載されたもの。スモンの販売禁止から9年後、患者側との和解を申し入れて(昭和51年6月)3年後である。
社員が出張した時など、地元の薬局で買って様子をレポートするのである。
社内報はMRが卸、医院などに配布することもあり、内部文書ではない。
田辺は和解したものの、キノホルム説は徹底的に認めないというアピールであった。

まるご1980年9/10月号
松原一郎社長が台湾、インドネシアなどにいったとき、下痢をして自ら薬局で買って飲んでいる回もあった。

世界が認めないサイエンスなどあるだろうか?
WHO、欧米はじめ世界は、キノホルム仮説を、好奇の目で見ていたか、あざ笑っていたかどちらかである。

日本では神妙に謝罪したチバガイギーは、内心は全く反省もなく、自社工場で相変わらず大量に合成し世界に出荷していたし、米国スクイブは1968年にフランスでキノホルム製造を開始、1980年には台湾、オーストラリアへの輸出も視野に入れ、インドネシアにキノホルム製造工場を新設した(まるご1980年7/8月号)。ドイツ・バイエルなども製造販売していた。世界中でぴたりと製造販売が禁止されたサリドマイドとは全く異なる。
日本ではサリドマイドと並ぶ代表的な薬害として教科書に載るが、世界はそうでない。

wikipedeliaの英語版でClioquinol(キノホルム)をみると、こうある。
(2020年2月23日現在)
(Subacute myelo-optic neuropathyの部分)
Clioquinol's use as an antiprotozoal drug has been restricted or discontinued in some countries due to an event in Japan where over 10,000 people developed subacute myelo-optic neuropathy (SMON) between 1957 and 1970. The drug was used widely in many countries before and after the SMON event without similar reports.[7] As yet, no explanation exists as to why it produced this reaction, and some researchers have questioned whether clioquinol was the causative agent in the disease, noting that the drug had been used for 20 years prior to the epidemic without incident, and that the SMON cases began to reduce in number prior to the discontinuation of the drug.[8] Theories suggested have included improper dosing, the permitted use of the drug for extended periods of time,[9] and dosing which did not consider the smaller average stature of Japanese; however a dose dependent relationship between SMON development and clioquinol use was never found, suggesting the interaction of another compound. Researchers have also suggested the SMON epidemic could have been due to a viral infection with an Inoue-Melnick virus.[10]



参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。


別ブログ
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


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2020年2月19日水曜日

スモンの謎3 中止後の発症激減

スモン協議会はキノホルム服用率の調査を2回行った。
1回目は、45年9月開始、18班員の890例
2回目は、46年7月開始、18班員含む全国医師から2456例

2回目は、グリーンブックNo8(昭和47年2月発表)に載っている。
 ・確実になし     269
 ・無いらしいが不確実 189
 ・あり        1381
 ・使用状況不明    617
 合計        2456

「確実になし」と「ないらしいが不確実」を入れると、458人、使用状況不明を除いた1839人のうち、24.9%になる。
それでも例数の多さから、1回目とほぼ同じ結果とし、協議会側は自信を深めて発表した。

しかしイギリスのMeadから、全患者9249名から確実な患者として5839名を選び、さらに「服薬状況の明らかな」2456名を調査したという操作に批判を受けると、重松班長は
「あれは精度が低いので890例の方を使うべき」と述べた。(文献1,p254)

単なる服用率だけでは対照群がないから不十分だと批判されると、昭和45年9月8日のキノホルム販売中止という行政措置のあと、スモン患者が激減したことこそ「動かぬ証拠」とする。
文献7
確かにキノホルム禁止後に激減している。
確実に服用なしの15%分まで消えてしまったのは、減りすぎだが。

スモン協議会の公式報告書を見てみる。
なお、報告書の結論は、
「行政措置は、疫学的にいって全国規模で行われた一種のProspective study であるが、その結果スモン患者の発生は激減した。(下図参照)このことはキノホルム剤がスモンの発生と直接あるいは間接に関係あることを意味している・・・」
グリーンブック No8 p2(要約)
よく見ると前年44年秋から理論推定値よりも新規患者発生が減り始め、バラつき下限2シグマあたりを推移している。そしてキノホルムが自由に処方されていたにもかかわらず、45年6月から2シグマを下回り、例年なら流行する7,8月は明らかに少ないのである。

もっと重要なことは、なるほど全国的に見ると発生は増加を続け、キノホルム禁止後に激減したが、地域的に見ると、各地ともキノホルムに関係なく急に発生、その後激減している。

例えば、釧路地方では昭和33年に1例あり、段階的に増加、昭和37年に一度ピーク(20例)があって、減少したあと40年に最多26例の発症を見、その後急速に減少、43年2例、44年1例、45年は7月までに4例を見たが、その後1例も発生していない。(グリーンブック、No2 伊東弓多果 p3)

戸田、蕨では昭和39年に大量発生、翌年は6分の1に激減、以降は散発した。
グリーンブック No8  p167(山本俊一)

また岡山県井原地区では昭和41年から発生数が急増し、キノホルム販売停止の1年ほど前から発病が減った。このことについて朝日新聞(昭和46年6月16日)は、A医師が41年1月に井原市民病院に勤務し始めキノホルムを乱用、45年1月に退職したせいであると報じた。
しかし、患者発生はA医師の退職前から減少していたこと、乱用はない、などA医師(高木医師)、岡山大第一内科、井原市民病院の関係者らは、6月18日朝日を相手に「事実と反する」と公開質問状を出し、ねつ造偏向報道を批判した。その内容は7月10日付の岡山県医師会報353号にあるらしい(文献1、p208)。

すなわち各地でのスモン発生は一時的で、キノホルムの使用禁止前にもかかわらず、終息したのである。国内で新規患者がどんどん増加したのは発生地点がどんどん広がったことによる。45年9月の急激な減少は、全国に広がった発生が、初期の発生地点と同じように、一斉に終息した結果であるとも考えられる。

感染病などはこれと全く同じ流行、終息パターンを示す。

キノホルム説は大きな矛盾があったから、協議会の中でも反対意見があった。
しかし甲野礼作会長は45年度報告(文献3、No2-4、46年3月)の序文の中で

「スモンの病因究明に対する多くの有力な手掛かりが、昭和45年度の研究から生まれて来た。この網にかかった最も大きな魚はキノホルムであるといえよう。(略)もとより現時点においてはキノホルムを原因と断定するのは時期尚早ではあるが、スモン発症に対する影響はもはや何人も否定できないと思われる」と書いた。

その後、東大神経内科とその関係者を中心としてキノホルム説を進めていく。
彼らが発表する証拠、論文の問題点については後で述べる。
ちなみにスモン協議会は64人もいたが、会長、班長、幹事の多くは東大医学部出身であった。

最後に一つ、キノホルム処方件数が患者発生と並行しているとしたグラフ。
証拠として挙げられたグラフは一見一致しているように見えるが、棒グラフと折れ線にして、たくみにずらしていた。
文献1 p56
田辺は両方とも棒グラフに書き換え、一致しないではないかと反論、控訴したが、裁判遅延策であると日本中の非難を浴びた。

この少し前の、記憶に新しかったであろうサリドマイドは、
1957年10月1日  グリューネンタール社がコンテルガンの商品名で発売。
1961年11月18日  ウィドゥキント・レンツが催奇性を学会で報告。
   11月26日   グリュネンタール社が製品の回収を開始。
1962年5月17日  大日本製薬が製品の出荷停止。
   9月18日  販売停止と製品の回収を開始(ドイツでの回収開始から294日後)

アメリカでは1960年9月に販売許可の申請があったがFDAの審査官フランシス・ケルシーがその安全性に疑問を抱き審査継続を行ったため、治験段階で数名の被害者を出しただけだった。

一方、日本ではこのときの当局の遅れが問題になったこともあり、キノホルムに対する厚生省の対応は非常に早かった。
この速さが、キノホルム説の弱さにもなり(減少が禁止のせいか自然現象かどうか確実ではなくなった)、裁判が長引く原因となった。

文献3 スモン調査研究協議会研究報告書
昭和48年から平成7年まで東大医学部図書館にあった。
それ以前はグリーンブックと呼ばれ本駒込の日本医師会図書館にある。

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980
7.薬害スモン全史(1~3) スモンの会全国連絡協議会編、1981

なお、書く人によって内容は著しく異なる。
3~5は権威者側の記録、総説、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。7は患者、支援者側の記録
3~6はネットで読める。(ただし3はNo1~No6)


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20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


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2020年2月15日土曜日

スモンの謎2 キノホルム服用率85%

「スモン患者の85%がみそ汁を飲んでいた。だから味噌汁が原因である。」
権威者とマスコミ、裁判所は、これと同じ結論を下したのである。

前回、
「スモン患者の85%がキノホルムを飲んでいる」
という結論のもととなった調査が誤り(もしくは故意?)であると書いた。

100歩譲って、結果と原因を一緒にしているという根本的な誤りに目をつぶり、
服用率85%が正しいとして、なお3つの初歩的な問題がある。

1つは、
スモン協議会の権威者たちや原告は、キノホルム服用率の85%は、サリドマイドの服用率80%と比べても高く、文句なしとした。

しかし、サリドマイドは
・障害児を生んだ母親の服用率が 80.4%
・健康児を生んだ母親の服用率が  1.8%
という、この大きな差で犯人とされたのである。

だから、長期にわたる激しい下痢をして、
・スモンになった人のキノホルム服用率 85%
・スモンにならなかった人のキノホルム服用率 ?
を比較しなくてはならない。

このデータがあったのである。
国立呉病院第一内科 大村一郎 グリーンブック No2 p60 (1971)

すなわち、昭和43年に当院の内科を受診した7496人のうち、
 スモン患者のキノホルム服用率 76%(107人中82人)
 下痢患者のキノホルム服用率  73%(119人中87人)

で、スモン協議会の臨床班員である大村は、
「有意な差を認められないことから考え、キノホルムに毒性があるとするならば、SMONを発病した個体側あるいはもう一つ何かの因子が組み合わされる必要があり、その因子も重大な役割をしているのではないかと想像する」
と結論した。

これは権威者が集まったスモン協議会の公式報告書である。
何故か無視されおり(当然か?)、批判的な文献1,疑問点を説明する文献2にもなかった。私も今回調べているうちに初めて知った。

「スモン患者の85%がみそ汁を飲んでいた。だから味噌汁が原因である。」

権威者とマスコミ、裁判所は、これと同じ結論を下したのである。


2つ目は、
キノホルムを飲まなかったスモン患者が15%いることである。
これは早くからスモン協議会でも反対派のあいだでも問題になった。

飲んでいるが把握できなかったのではない。
アンケートでは890人のうち、
  あり   610
  確実になし 110
  ないらしいが不確実 22
  不明 148
で、不明の148人を除いた、
  アリが、82.2%
  確実になしが 14.8%
  「ないらしい」をいれれば 17.8%である。

いったい、結核菌に感染していない結核患者が15%もいるだろうか?
HIVに感染していないエイズ患者が15%いるだろうか?
考えられるのは、
 1.キノホルムが犯人ではない
 2.スモンでない神経疾患が15%混じっている。
どちらかしかない。

1970年9月8日のキノホルムの販売禁止という行政措置の後、一気に患者がゼロまで激減するのだが、この15%分も消えてしまうのである。
すなわち、スモン患者が出ても、9月8日以降はスモンと届けなかったことを意味する。

3つ目は、統計処理の問題である。

890例は、18人のスモン協議会の班員が集めた。
ところが、キノホルム服用率は班員によってばらばらである。
(グリーンブック No2 p261)
非服用者(確実になし)は 
 椿忠雄 35人中 ゼロ
 伊東弓多果 28人中 ゼロ
 藤原哲司 62人中 ゼロ
ところが
 小坂淳夫 29人中 19(66%)
 杉山尚  19人中 7(37%)
 大村一郎 135人中 43(32%)

班員によってこれだけ違うものは施設によるバラつきではなく、同じ現象を見ているとみなさない。
だから合計して解析、85%という数字は出せない。人間と犬を混ぜて平均寿命を見るようなものだ。

なぜ、こんな差が出たかというと
調査票の
「キノホルム剤服用調査票」というタイトルと、そのすぐ下の注意書き「確実なスモン患者で、発病前後の服薬状況の明らかなものを対象とする。従って、できれば貴施設の自験例であることが望ましい」
に引きずられ、キノホルム服用者だけ集めた班員がいたのではないか?

また昭和46年全国の医師に送ったキノホルム服用率の調査票も
「確実なスモン患者で発病前後のキノホルム剤の服用状況が明らかなものの」
(グリーンブックNo8,p89)
としていたら、新聞でスモン=キノホルム原因説で騒がれている状況では、確実に飲んでいない患者の報告をためらう医師もいたのではなかろうか。

また、田辺製薬の解析室長・朝尾正は、スモン協議会報告書を読みこみ、班員の把握するスモン患者数を抽出した。すると平木班員以外、ほとんどの班員はごく一部しか報告しなかった。
 椿 55人中33人
 杉山 190人中20人
 豊倉 398人中60人
この選択基準は何か?
服薬状況のはっきりしている者に限ったというなら、調査票の服薬状況「不明」「ないらしいが不確実」が出てくるのはなぜか?

自説に都合のいいように患者を選んだと言われても仕方がない。

(続く)

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するものだが原告寄り。

日本医師会図書館(本駒込)
公式報告書である文献3は、色からグリーンブックと言われた。
昭和47年度からは厚生省特定疾患スモン調査研究班研究業績となり、ベージュとなった。

スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) 
No1 昭和44年度疫学班 45年11月 
No2 昭和45年度臨床班 46年3月
No3 昭和45年度病原班 46年3月
No4 昭和45年度病理班 46年3月
No5 昭和45年度疫学班保健社会学部会 46年3月
No6 昭和46年度治療予後部会 47年3月
No7 昭和46年度保健社会学部会 47年3月
No8 昭和46年度疫学部会 47年3月
No9 昭和46年度キノホルム部会 47年3月
No10 昭和46年度微生物部会 47年3月
No11 (欠番)
No12 昭和46年度総括報告 47年3月


2020年2月14日金曜日

スモンの謎1キノホルム説の登場

スモンという難病がある。
発生は昭和30年代後半から10年間のあいだに突然流行、終息した。
患者は神経を侵され、歩行困難となり患者数1万人を超え失明、死者も多数出た。原因は整腸剤キノホルムと決定され、我が国史上「最大の薬害」とされる。

この「真実」にたいして書いてみる。

きっかけは先日、田辺製薬の社内報を見て、いろいろ思いだし、久しぶりにスモンの本を読んだことによる。
本をだいぶ処分してきたが、この二冊は手元に置いていた。

スモンは Subacute Myelo-Optico-Neuropathy(亜急性脊髄視神経症)の略であり、そのとおり運動麻痺、視力低下がおこる。
1955年頃より発生し、1967~1968年頃に全国で大流行した。
患者数11,000人(潜在患者入れると2万人とも)、裁判に訴えたもの5000人、賠償金請求額2000億円だけでも大きな事件であるが、原因究明と裁判が長期間にわたり、何度も新聞1面をにぎわすほど大きな社会問題になった。

現在ほとんどの人はその騒動を忘れ、教科書などに記されるだけになっている。
50年ほどたった今、どの資料を見てもキノホルム犯人説は疑いない。
たとえば、

1.ウィキペディア
「整腸剤キノホルム(クリオキノール、5-クロロ-7-ヨード-8-キノリノール)による薬害。(略)当初はウイルス原因説も出たが、現在ではキノホルムが原因と判明している。」

2.薬学部の教科書「スタンダード薬学シリーズ・薬学総論」(日本薬学会編、東京化学同人、2015)
「1969年、厚生省はスモン調査研究会を設置、原因究明に乗り出した。翌年患者の尿からキノホルムが結晶化されたことをきっかけに、疫学調査を実施、”スモン=キノホルム中毒説”が登場した。これが確定するのは1972年であるが、厚生省は1970年9月の段階でキノホルムの試用販売中止の措置を取った。その結果、スモン患者の発生は激減し、キノホルム説は証明された」

3.厚労省「スモン手帳」(2012)1ページ目
「キノホルムにより健康被害を受け、長期にわたっての苦しい闘病生活を送っている皆様に、お見舞い申し上げるとともに、」で始まる。

すなわち、キノホルム犯人説は、学会権威がお墨付きを与えた、日本中、誰もが疑う余地のない科学的事実となっている。

しかし当時、この事件を最も「研究した」人々は、そう思わなかった。


まず、なぜ権威者たちがキノホルムに至ったか書いておく。

スモン患者の一部の人々は特有の緑舌、緑便、緑尿を呈した。
疾患解明の糸口として「みどりの窓口」といわれた。(東大・生理の時実教授が最初に口にしたという)

1970 (昭和45)年5月、東大神経内科の豊倉康夫教授、井形昭弘助手が緑尿の分析を東大薬学の田村教授に依頼。
6月30日、これがキノホルムの鉄錯体と判明。
直ちに椿忠雄新潟大教授(東大神経内科出身)らは、新潟で疫学調査、171人の患者のほぼ全員がキノホルム服用をつかむ。
8月6日、椿は新潟県衛生部を通じてキノホルム原因説を厚生省に報告。
9月7日、中央薬事審議会、スモン協議会を通じてもキノホルムの報告を受け、翌8日、販売中止の措置を取る。
(以上文献5)

それまで京大のウィルス説などを中心に回っていた研究が急転直下、電光石火、大転換である。

スモン協議会は改めて全国調査、9月20日に調査票発送、10月20日回収。
890人中、84.7%がキノホルムを飲んでいることが分かる。
さらに販売中止により、患者は激減した。

これだけ読めば疑問の余地がなさそうだが、当初から疑問はあった。

すなわち、スモンは初めに下痢、腹痛など消化器症状が「必発」する。
スモン協議会の報告書に、中心となった臨床班3人の代表的診断基準が載っている。
(文献3、No1 p10-11)

椿忠雄
1.腹部症状に続いて神経症状をおこす。
2.神経症状の発現は急性または亜急性
 (以下略)

祖父江逸郎
1.下痢、腹痛などの腹部症状に続いて急性または亜急性に発症する。
2.足の裏のしびれに始まり、左右対称にしびれが上行する
(以下略)

高崎浩
1.前駆症状として下痢、腹痛などの胃腸症状を有する。
2.突然に下肢麻痺に始まる上向性知覚異常と痙性対麻痺をきたす。
(以下略)

文献4 スモン研究の回顧
椿がスモンと命名する前、病名はさまざまなものあったが、
「腹部症状を伴う脳脊髄炎症」など、腹部症状の単語を必ず入れていた。
腹部症状があるのはALSなど他の神経疾患と区別するスモンの定義である。
『スモン(腹部症状を伴う脳脊髄炎症)調査個人票』
1969年末調査 文献3 No1 p8

ところで、キノホルムは下痢を止めるための薬である。
日本薬局方にも収載され、長年、安全で効果のある第一選択薬であった。
つまり、スモン患者がキノホルムを飲んでいるのは当たり前である。
キノホルムを犯人にするには発症前に全員飲んでいることが必要となる。

ところが、患者の84.7%が飲んでいるとした調査をみれば仰天する。
 
「スモン患者のキノホルム剤服用状況調査票」1970年9月20日送付
文献3 No2 p230
ここでは
「神経症状発現前6か月以内の服用」と
「神経症状発現後の服用」
について聞いているのである。
いつのまにかスモンから腹部症状が消えている(タイトルからも)。

ちなみに腹部症状発現から神経症状発現までは

神経症状が先 1.7%
1か月以内 34%
1か月 29%
2か月 11%
3か月 6%
4~6か月 8%
それ以降 12%
(文献3 No1 p20)

つまり神経症状発現前というのはほぼ全員、98%が腹部症状を先に発症しており、キノホルムを飲んでいておかしくない。
84.7%は当たり前だ。
腹部症状がスモンならその前にキノホルムを飲んでいなければならない。

なぜスモン協議会は<神経>症状前でなく、
「<腹部>症状発現6か月以内の服用」
を聞かなかったのか?

誰でも気づくことであろう。
実に不自然である。

ここからは、キノホルム説に批判的な文献1,6にも、また騒動解説書の文献2にも書いてないことだが、
私の推理だが、
故意だったのではないか?
なぜ故意か?

「腹部症状発現6か月以内の服用」を調べたらキノホルムを犯人にできないだろう。
なぜなら下痢をしていないのにキノホルムを飲むことはないだろうから。
スモン協議会はこのことを知っていたからではなかろうか。
単なる初歩的なアンケートミスではないと思う。

文献4 座談会「スモン研究の回顧」
スモンのことなどみな忘れてしまった1993年のことである。

田村(善蔵)「15%は飲んでいないというでしょう。だから反対説が非常に強かった。その時にどういうわけか、甲野先生がキノホルム説に肩持った。裏は知りませんよ。私は甲野先生に「どちらもまだ灰色じゃないですか、どうして甲野先生、キノホルム説に肩持つんですか」と聞いたら甲野先生が「田村先生、考えてごらんなさい。どちらも間違ってるとして、どちらが患者を苦しめますか」。びっくりした。僕はそういう考えは全然もっていなくて、サイエンスとして真実を追求していく。甲野先生だって基礎の医学者ですからね。甲野先生からそういう臨床医の、医者の魂というのか、そういうのをパッと出されてびっくりしました。
だけど裏にはおそらくウィルスなど感染性病原体がいつもネガティブ、ネガティブとこれが蓄積されていたから、それだけの強いことが言えたんだと思いますね。
豊倉(康夫)「それはいいお話ですね」

・・・・
苦しむ患者を救うことが正義。
正義のために働くのが立派な医学者。
朝日などマスコミもそうであった。

しかし、サイエンスと患者救済は別のものだと思う。
ただ、国の「医薬品副作用被害救済基金」(1979 年 10 月設立)医薬品副作用被害救済制度(1980 年 4 月)の設立以前は、こうしないと患者が救われないと多くが思った。

ところが現在、教科書、国、大学はじめ、日本中のあらゆる知識人がキノホルム説を無条件で信じていることに違和感を覚えるのである。


参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書 No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。

(続く)

追記 2月15日

腹部症状を無視したのは故意ではないか?という根拠をもう一つ示す。
890例集めたという調査票の集計用コードがある。
スモン患者のキノホルム剤服用状況調査票集計用コード一覧
文献3 No2 p233

先に示したように、調査票(文献3 No2 p230)では
 腹部症状発現年月日
 神経症状発現年月日
 薬品名とその服用期間(年月日~年月日)
を聞いているのである。だから手間はかかるが、ここから腹部症状前のキノホルム服用率を出せないこともない。ところが集計用コード一覧では、腹部症状の年月日と、服用期間は設定されていない。集計するとまずいことになったのだろう。また神経症状は「年月日」で聞いたのに「年」と集計し、恣意的操作がしやすいようになっている。

以降、このブログで何回か論じる(シリーズ化)。



2019年10月28日月曜日

エーザイくすり博物館でアデュカヌマブの真相が

昨年に続き、日本薬史学会に参加した。
会場は岐阜、エーザイ川島工場にある内藤記念くすり博物館。

ずっと川島は西の岐阜羽島の方という勝手なイメージがあったが、今回、各務原市南部、木曽川の川中島にあると知る。
各務原と言えば、戦前、陸軍の飛行場があり、隼の川崎重工があり、三菱のゼロ戦も牛車でここに運ばれ試験された。いまは航空自衛隊の基地がある。
2019-10-26 富士と大山 
久しぶりの晴れ。

当日9:30、尾張一宮の駅前から川島の学会会場まで送迎バスが出る。
9:27着の電車で行って間に合うか、前もって事務局に聞いたら大丈夫という。
電車が2分遅れて焦ったが、改札口に事務局の人が案内に立ってくれていて、小走りでバスに向かった。
しかし大型貸し切りバスはすでに学会参加者で満員、東京から来た人は多かったはずだが、この電車できたのは私だけ。
私だけを待っていた感じになり出発。
出発時刻は1,2分しか遅れていないはずだが、大そう道路が混んでいて、10時開始の学会には到底間に合いそうもない。
あたかも私のせいで全員遅刻になるようで、バスの中では文字通り肩身を狭くして隣の人と言葉も交わせなかった。
くすり博物館はただの展示場ではなく、本館、図書館、展示館の3棟に、立派な劇場型の大ホール、小ホール、多目的ホールなどもある。
本業と関係ないこういうものに金をかけるエーザイは、金持ちというより、オーナーの考え方が現れやすい会社ということだろう。
内藤記念財団による生命科学研究への多額の援助しかり。
他社が諦める認知症治療薬への執念しかり。
この日は市民開放講座もあるので臨時に座席を増やしている

特別講演でエーザイ執行役(ニューロロジー)木村禎治氏が
認知症治療薬の開発の歴史について話された。

しかし、ちょうど数日前にエーザイが驚きの記者発表をしている。
3月に効かなかったとして臨床試験を中止、株価が大暴落したアルツハイマー病薬アデュカヌマブが、データを解析しなおすと有効と分かり、来年早々に申請すると。

それに大きく触れる講演となった。

アデュカヌマブ(開発コード:BIIB037)は、Neurimmune社から導入、バイオジェンと共同開発していた、抗アミロイドAβ抗体。

この発表で(22日)、エーザイは株価が5534円からたった3日で8150円(25日)まで急騰した。
メガファーマ、医療関係者はじめ皆諦めていたのに(3月は株価9000円台から急落した)、この大逆転はなぜ起きたのか。

まさか、神経疾患と関係ない薬史学会でホットな話を聞けると思わなかった。



アルツハイマー病の薬は、エーザイのドネペジルなど、進行を遅くする対症療法的なものはあるが、原因に迫り治す薬はなかった。

1992年以来、遺伝子変異家系の解析から老人斑の構成タンパク、アミロイドAβが原因ではないかと推定され、2001年のアミロイドワクチンAN1792を皮切りに多くの抗アミロイド製剤が登場した。
しかしファイザー、ロシュ、ノバルティスなどことごとく失敗した。
抗体は0.1%しか脳に行かないし、結合しても神経を救える保証はない。
エーザイ・バイオジェン連合軍も、3月に抗体のアデュカヌマブを中止、アミロイド生成酵素BACE阻害薬エレンべセスタットも9月に開発中止に追い込まれていた。

アミロイド仮説は間違っていたのではないかと皆思っていたところだった。
この即位礼祝日まで。
 

アデュカヌマブは、ほとんど他者と同じ抗アミロイド抗体なのに何が違うのか?
中止になって復活したのはなぜか?

1.他社の開発品との違いは何か?
ーーエーザイは、アルツハイマー病治療薬には5Rが大事だと考えた。
Right Target アミロイドでも凝集度合いでいろいろある。どんなアミロイドを狙うか。
Right Population PETでアミロイドが沈着している患者のみ選抜。効きそうな患者だけ選ばないと優位差は出ない。
Right Dose 抗体はなかなか脳に入らない
Right Period 試験期間が短くても差は出ないし、長いと効いていたのも悪化して差がなくなる。
Right Scale 差が出やすい指標を工夫する。

2.今年の3月で効かなくて中止にしたのに、今回 なぜ差が出たか?
ーー3月は昨年12月までのデータだった。その後、臨床後期、高用量、長期観測の患者のデータがどんどん増えた。

3.今回申請したのはどういう自信か?
――結果解析で外部アドバイザーのほかにFDAの審査官も議論に入っている。
FDAが申請にアグリーしたということだ。

木村氏はもちろん責任者だから、このことは前から知っていただろう。
しかしエーザイの時価総額が1兆6千億からたった3日で8000億円も増えてしまうという情報は外に出せない。学会要旨の〆切は8月31日、今そう思って読むと我々よりAβ仮説に対し楽観的な感じ。
バイオジェンの記者発表は1時間半もあり記者、投資家との質疑応答が十分行われ、秘匿する事項もなくなったのか、口はなめらか、内情をいろいろ話してくださった。
4 ほかの開発品の状況はどうか?

BAN2401 p3 Aβは凝集して老人班になるが、凝集度合いはさまざまである。 他社の抗体はモノマーに対するものがほとんどだった。また大きな凝集体を除くと毛細血管が出血する恐れがある。そこで、小さすぎず大きすぎない可溶性Aβ凝集体を狙って抗体をつくった。アデュカヌマブが成功すれば、BAN2401もぐっと成功確率が高まるだろう。

E2814 P1準備中 リン酸化体が蓄積するタウに対する抗体。タウはAβとちがい細胞内タンパクであるから抗体は効かないといわれているが?
ーータウはプリオンのように凝集が伝播する。伝播するとき、いったん神経細胞の外に出るらしい。その時を狙う。

E2511 前臨床  Aβ抗体やタウ抗体で効かずに神経細胞が障害受け始めたときに効くことを目指す。すなわち、コリン神経のシナプス再生剤。低分子。

 
貴重書の書庫、いや宝庫

アルツハイマーの新薬は成功確率が4勝150敗。
4勝はエーザイのドネペジルやメマンチンなどだが、対症療法であり発症原因を抑えるものではないから、根本治療でない。
しかも、臨床開発は、診断に手がかかるため例数を集めるのが大変で、がんや糖尿病など他の疾患と比べると開発費用がけた違いにかかる。

よくもまあ、こんな疾患に手を出したものだ。
もちろん国内でやっているのはエーザイだけである。
手を出すどころか全力で。

これも内藤イズムだろうか。
お雇いCEOのメガファーマ、会議好き責任回避の日本企業、他社ならずっと早く撤退している。
話しは戻るが、エーザイの内藤記念くすり博物館所蔵品の質、量は素晴らしい。
例えば、大戦末期1944年12月に作られた国産ペニシリン碧素の初めてのロット、1.5リットルはペニシリン第一号とされる。150本のアンプルのうち現存するたった1本は、ここエーザイ博物館が持っている。(2019年9月、国立科学博物館で重要科学史資料の第276号に認定された)

 
解体新書は複写版を自由に触らせている

貴重な医薬関係の資料をもっている団体、個人は、自分で保管できなくなったとき、ここに寄付すれば大切にしてもらえるというコンセンサスができているようだ。

これだけの資料館を維持するのは大変だが、常勤の従業員(学芸員?)が9人いるらしい。
エーザイのイメージを大きく上げている。

座長もやり、ポスターも出し、

今回、エーザイのhhc(ヒューマンヘルスケア)活動なるものを知った。
全従業員が勤務時間の1%、患者と触れ合うというルール
年250日とすれば2.5日。半日を5回か。
特別講演の木村先生も認知症の患者と触れ合っていらっしゃる。

本来、製薬会社の研究者は、「人類の福祉に貢献する」などときれいごとを言っても、しょせん彼らはもっとも健康で、病気と患者から離れている。しかし直に向き合ったら、意識が変わるだろう。

内藤イズムすばらしい。
同族会社もいいものだ。
大正、大塚、同族会社は他にもあるが、エーザイが群を抜いて従業員の顔が誇らしげで幸せそうに見える。
もう少し株価が下がってくれたら、ぜひ買いたい。

千駄木菜園 総目次

2019年9月29日日曜日

戦時中の有機合成化学協会

古い雑誌をすべて廃棄するというのでもらってきた1冊。
有機合成化学協会誌。
この協会、1942年12月 商工省より社団法人として許可。
国家総動員法以来、資源は全て戦争に向けるということで学会や雑誌の統合、廃止が行われたが、この時期に新設は珍しい。
戦争遂行における有機化学の重要性、情報交換の大切さを思えば当然であるが。

1942年は開戦半年後の6月にミッドウェーで大敗、8月にはガタルカナルの飛行場を奪われた。その攻防を巡って、10月には南太平洋海戦でホーネット撃沈するも、11月には第3次ソロモン海戦で比叡、霧島が沈没、12月にはガタルカナル撤退が決定、戦局がますます悪化していく時期である。

翌1943年は、4月に山本五十六が戦死、5月アッツ玉砕、ニューギニア、ラバウルが孤立し始め、外地の部隊は飢えと病気で消耗し、11月にマキン・タラワの部隊が全滅、内地はますます物資が不足していった。
そんな時期、10月に有機合成化学協会誌第1巻第1号が発行された。

創刊号の巻頭言は「大決戦の秋」
秋はトキと読まねばならない。
アキと読めばとたんに芋やら栗やら、のどかな感じになってしまう。

「戦局は今や重大である。物的戦力を唯一の頼みとして、消耗を意とせず、執拗に反撃を企図する敵米英に、徹底的痛打を與へ、再び立つ能はざらしむためには、われも亦相対的に物的戦力を増強するほかはない」
と、どこかの国のアナウンサーのようだ。
執筆した牧鋭夫は東大工学部教授(応用化学)。

記事も戦争関連一色。
たとえば山田桜「兵器材料と有機合成化学工業」という総説。
 
第一次大戦からの爆薬の解説。
こちらはホスゲンなど毒ガスの生産

技術要員充足問題懇談会(昭和18年4月14日於染料会館)というのがあった。
企業でも大学でも軍に応召されて研究員が不足しているという話。

大卒研究員ならば招集されてもそれなりのところで働かされるからまだ救われるが、実験補助員として教育してやっと一人前になったものは、その技術を考慮されず満州でも南方でも兵隊として前線に送られてしまうという。
また、学生の就職にあたり、飛行機工場など機械の方は人気があるが、化学工業の方は人が来ないとこぼしている。

続く11月号巻頭言は「研究隣組の結成」林茂助

合成マラリア治療剤の解説もあった。
日本は全世界キニーネの95%を生産するジャワを占領したが、独逸イーゲー染料工業会社エルバーフェルド研究所(つまりバイエル)で作られたプラスモヒン、アテブリンの重要性を解説している。
著者・近藤龍は厚生省東京衛生試験所技師 製薬部長 薬博

以後、巻頭言だけ見ていけば
 12月号 戦争の現段階が我々に要請するもの
1944年 
 1月号 有機合成は「科学の粋を集めた果実」なり
 2月号 増産を急げ・・・今の一機は明日の10機
 3月号 (本なし)
 4月号 己を知り敵を知れ
 5月号 新資材の創造

6月以降は巻頭言がなくなった。
6月16日に本土初空襲(成都から八幡製鉄所に)

1944年10月号は酒石酸の特集であった。
このナトリウム・カリウム塩(ロッシェル塩)はピアゾ素子と知られ、圧力―電圧の変換に使われる。
すなわち、対潜水艦などの水中聴音器、航空機との電話などに使う重要戦略物質である。戦時中、この情報がドイツからもたらされ、1943年初夏、突然軍需として緊急大量生産を求められた。
酒石酸はHOOC-CHOH-CHOH-COOH であるから、l体、d体、メソ体、ラセミ体が存在する。合成品はラセミ体、メソ体になるため、ワイン樽の壁に着く酒石(d体)が重要原料となる。
ところが日本ではもともとブドウの栽培が盛んでなく、しかも1943年はブドウをワインにせずほとんど生食してしまった。そこで陸軍糧秣本廠の指導で山葡萄を採取したらしい。
座談会では、山へ入って野ばらで着物が破けるとか、マムシが出る、ひっくり返って指を3本切ったとかいう話が出た。
蚕のさなぎからキチン質をとり、それから酒石酸を合成するとか、各研究者、国民は涙ぐましい努力をしているけれども、これでは勝てない。


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