2022年6月26日日曜日

貧乏性で廃品利用の家庭菜園


2022-06-23
トウモロコシの穂が出てきた。
昨年自家採取した種から育てたもの。他の野菜も苗は極力買わず、種から育てている。

トウモロコシは茎が倒れやすいので枠で囲んで、その中を麻ひもでさらに仕切る。
この枠はファンシーケースの鉄枠。

ファンシーケースなんて死語だろうか、要するに小さい電話ボックス型でファスナーで開ける衣装ケースのようなもの。
外の壁というか袋というか、不織布がボロボロになって廃棄したのだが、枠だけとっておいた。
毎年、枝豆とかシシトウとか、倒れやすい野菜にこの枠をすっぽりかぶせ、重宝している。

野菜つくりをしていると、なんでも利用しようと思う。
我が家は貧乏性だから、お土産などの箱の紐、袋はもともと捨てずにとってある。ほとんど使わずに引っ越しのとき邪魔になるのだが、家庭菜園をすると結構役立つ。
頭で考え、廃品がそれなりに使えると結構楽しい。

廃品は自分で捨てずに取っておくだけでなく、新たに拾ってくることもある。
粗大ごみのときは必ず見てプランターや支柱が出ていればもらってくる。
近くの戸建ての工事現場からもらった板切れは、耕した畝の中に足を踏み入れるときの足場として最適である。
(写真)左側通路の敷石タイルや、また、庭を区切って畝を作ったときの土留めの細長いタイル。
これらは不忍通りのタイル屋さんで半端タイルが出た時「ご自由にお持ちください」と歩道に出してくれるのでもらってくる。
特に使う当てがなくてもタダだともらってしまう。
当てがなくてももらうなんて、こんな貧乏性な人はいるだろうか?
こういう行為は一歩間違うとゴミ屋敷をつくることになり、妻はひどく嫌う。

桜の切り株
それでも桜の切り株を持て余したときは、保存していたこれら大型タイルのおかげで土留めができて、株の上にイチゴを植えられた。
写真に写っている苗の黒ケースは大学の粗大ごみ置き場から拾ってきたもの。
物を運ぶときはもちろん、直射日光や鳥から若い苗を保護するときは、上からかぶせたりして大活躍している。

2022‐06‐23 サツマイモと枝豆
枝豆のところに立っているのは、網戸を処分したとき分解してアルミの外枠をとっておいたもの。支柱の代わりに役立っている。短い枠もマルチ抑えに使える。(網は防虫ネットの代わりに使った)

そして写真の黒マルチは黒ビニール袋を切って広げたもの。

こんな私が菜園アドバイザーのパートを始めた。
お客さんは物をばんばん捨てる。
麻ひもやマルチは使い捨てが標準だから構わないのだが、もったいなくて仕方がない。枝の誘因の麻ひもなどは短くて済むから、私が指導で紐を使うときはゴミ箱から拾って使っている。

また支柱は使い捨てではないが廃品が出る。
支柱は初心者が変な方向に力を入れて差し込むと曲がってしまうことがある。
いったん曲がると次に差すとどんどん曲がり折れてしまうから、曲がったものは廃棄処分。しかし廃棄も金がかかる。
そこで2回に分けて何本かもらってきた。
少々曲がっていても我が家の支柱より立派だし、なんせ千駄木菜園は慢性的に支柱不足である。
(210センチの支柱をもって恐る恐る電車に乗ったのだが、特に駅員さんには咎められなかった。しかし近年のエスカレーターは気を付けないといけない。昔スキーを担いで上がった階段と違い、引っかかると大事故につながる)

さて、支柱をもらってきたものの、我が家のシシトウ、パプリカ、オクラなどは実生のため発育遅くてまだ支柱を使う必要がない。

そこで物を掛けるハンガーを作った。

移植ごて、ハサミ、ノコギリをとりあえずかけた。

上の写真で支柱以外の材料も廃品である。
横の棒は2年前に東大農学部のゴミ捨て場から拾ってきたもの。
竹ぼうきの柄の部分だけ六方最密充填の7本ずつ、商品のようにきっちり縛って3束も出ていて、使う当てはなかったが、とりあえず1束もらってきた。長らくゴミ屋敷のように放置していたが、今回ようやく日の目を見た。

そして支柱と横棒を縛ったのは靴紐。靴は捨てても紐は残す。
紐は野菜つくりに必需品だが、よくある荷物を縛るビニールひもは紫外線に弱いため外では使えない。

さらに、ひっかける金具はカーテンをかけていたもの。カーテン、レールは捨てても金具だけとっておいた。世間の人はこのケチぶりに驚くだろう。(当時野菜つくりをしていたらレールもとっておいただろう)

気を良くしてもう一つ作った。(材料同じ)
縦の支柱が台形すなわちハの字に歪んでいるのは、安定化させるため。
今度は横棒2本に、斜め棒を加えて少し堅固にした。
完成したらロシア軍の「Z]になってしまったことに気づいたが、横棒を手前にしたいのでこのまま。(Zは上下逆にしてもZだが、裏表逆にすればSになる。)

移植ごてもじょうろも、これで定位置が決まった。
いつも庭中を探し回るという妻に、これで文句を言われなくなるだろうか?

竹ぼうきの柄とパート先からの破損支柱は、まだこれだけ残っている。
千駄木菜園は金を使わないが頭と時間を使う。

世間の人は簡単に新しく買ってくるだろう。
しかし千駄木は近くにホームセンターはないし、ふだんの行動範囲でただで手に入るならもらっておくべきだ。

農家で育った子どものころを思うと、祖父も父も何でも自分で作った。
物置きすら作るから、小屋を壊しても扉や板、廃材をそっくりとっておく。当時はプラスチックはなく、畑で使う支柱として竹や棒、丸太は大量にとってあった。

小学校高学年でハトを飼ったときは、祖父が廃材を使って立派なハト小屋を作ってくれた。まるで二階建て切り妻屋根の民家を小さくしたような小屋で、ハトは”一階の屋根”に着地し、”二階の窓”から入っていった。さすがに瓦葺ではなかったが、屋根は廃材のトタンを張ってくれた。

私が廃材を拾ってくるのは、貧乏性という性格に加え、研究所での仕事も関係しているかもしれない。
電気生理学を専門にしたから、脳切片や培養細胞を灌流する標本槽など水回りや、ハムノイズを遮蔽する顕微鏡の覆いなどは自分で作らねばならなかった。
だからいつも粗大ごみ置き場に行って鉄板や金網、鉄棒、バケツ、銅線、木の本棚などを拾ってきた。すぐに使わなくても、いざというときに使えるようにと、何でも拾ってきた。
今の研究者はお金があるから自分でがらくたから作ることなどせず、装置のセットアップなどは業者に丸投げする(すでに20年前もそうだった)。そしてお金がない人は最初から研究しない。しかし昔はお金がなければ廃品を再利用して実験したのである。

もったいない、といって捨てなかった時代。
何でも自分で作った時代。
私はぎりぎりその時代を知っている。
良い時代だったと思う。



2022年6月24日金曜日

早稲田、穴八幡の穴と流鏑馬

6月19日、長野の弟と地下鉄早稲田駅で待ち合わせ。
早稲田大学にいくまえに、開館前の漱石山房記念館の周辺を30分ほど歩いた。
駅まで戻って西を見ると、大きな鳥居が見えた。
2022‐06‐19 9:29 早稲田駅前
鳥居は穴八幡。

八幡宮というからには、大分の宇佐神宮を総本社とする武門の神である。
九州一円の神社だったが源氏によって全国に広まった。

今まで来たことがなかったが、地図でみるたび、穴という変わった名前は気になっていた。
早稲田大学に行く前に穴八幡も見ることにした。

穴八幡は早稲田通りと諏訪通りの交差点にある。
9:32
大鳥居脇の説明版は、穴八幡の起源ではなく、流鏑馬の説明であった。
後ろに馬上弓を射る武者の像がある。
そういえば高田馬場は馬場である。
家光の時代に旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのために造営された。
(この近く、早稲田通りを西に行って西早稲田交差点付近にあった)

ここの流鏑馬は、八代将軍吉宗が将軍世継ぎ(孫?)の病気平癒を願って、その馬場で行い、武門の神、高田八幡(穴八幡)に奉納したのが起源という。
以来、将軍家の厄除けとしてたびたび流鏑馬が奉納された。

明治以降は流鏑馬も馬場も廃止されたが、昭和9年皇太子(現上皇)誕生奉祝で流鏑馬が復活した。戦争で中断、1964年に近くの水神社境内で復活、1979年からは毎年体育の日に戸山公園で行われているらしい。

流鏑馬をなんでやぶさめというか?
話し言葉で矢馳せ馬といったのがなまってやぶさめとなり、一方で見世物的に鏑矢(戦場での一番矢とか合図とか、縁起のために音が出るようにした矢)をつかうことから「鏑の流し馬」という文字があり、同じものを指すから当て字になったのだろう。

馬を疾走させる直線区間は、通常2町(120間、約218メートル)。
(右利きが多いから)進行方向左手に間を置いて3つの的を立てる。
走路から的までの距離は5m前後というが季節のニュースで見るともう少し近いように感じる。

さて、石段を上がると立派な隋神門。
隋神門とは、寺院の仁王門と同じで、神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ神をまつる門のこと。
9:33
隋神門の扁額には光●門と書いてある。寮、賽のような字だが、分からない。
門の両そでに祭ってある神は、神社公式サイトによると「隋神さま」としか書いてない。
隋神は、随身と書けば貴人を守る左右近衛府の舎人のこと。ひな壇でお内裏様を守るのは左大臣、右大臣である。

神社公式サイトによれば、康平五年(西暦1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎・源義家が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納め、源氏の氏神である八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀ったという。
それなら、義家を隋神様にすればいいのに。二人必要だと難しいか。
9:35 本殿も立派。
弟は賽銭を上げて大きな柏手を打った。
私は斜め後ろで見ていただけ。

さて穴のことである。
昔々斜面の藪に住み着いた狐の穴の跡をお稲荷様として祀っている神社があるが、ここの境内はよく整備されていて、土の斜面、藪などはなく穴はありそうもなかった。

南西を向く神武天皇遙拝所の左手から、旧別当寺の放生寺へ続く石段をおりる。
その途中、右手に出現殿という社殿があった。
9:39 出現殿前の石垣も立派。

そのまま西門から諏訪通りに出て、再び鳥居の前を通って早稲田大学に向かった。

帰宅後調べると、江戸時代に南側の山裾を切り開いたところ横穴を発見、横穴より金銅の阿弥陀如来像が出現したため、瑞祥のあった神穴があることから高田八幡宮を「穴八幡」と称するようになったという。

前を通った出現殿の「出現」こそ、穴から阿弥陀如来像が出たことを意味し、穴の場所らしい。出現殿の門は堅く閉まっていて穴を見ることはできない。


2022年6月23日木曜日

漱石山房記念館と喜久井町

弟夫婦がこちらで就職した子供たちと会うため1泊2日で上京した。

弟は2日目の朝、6月19日、一人で家族と分かれ都内を見物することになった。
電話で相談し一緒に早稲田を歩くことにした。

JR高田馬場でなく、東西線早稲田駅で9時に待ち合わせ。
千駄木から大手町経由、日曜朝のすいている地下鉄で行くと、駅の混雑もなく、車窓の景色もなく、地上に出ると瞬間移動したようだった。

早稲田大学に行く前に、おしゃべりしながら少し周りを散歩する。
東西線が下を通る早稲田通りから斜めに住宅街に入る。
漱石山房通りという。
2022-06-19 9:03
新宿区立早稲田小学校
創立122年。早稲田尋常小学校、早稲田国民学校などと名前を変えたが、一時牛込第四小学校ともいわれた。
関東大震災で被害を受け、1928年(昭和3年) 鉄筋コンクリート3階建の校舎となった。戦災を受けたが、当時の面影を残して修復されている。
区立早稲田幼稚園を併設。

このあたり歩くのは初めて。
坂を上りながら落ち着いた家並みが続く。
下り坂になるころ、左手に現代的な建物が現れる。
9:06
新宿区立漱石山房記念館
2017年開館だから新しい。

夏目漱石は牛込喜久井町、代々名主をつとめた夏目家で生まれた。
慶応3年で翌年が明治元年だから、明治の年号がそのまま満年齢となる。

生まれた喜久井町は、ここ早稲田南町の隣町。記念館からは家数件分しか離れておらず、明治のころはほぼ同じ土地とみてよい。

すぐに新宿の名主、塩原家の養子となり、浅草、喜久井町(生家)、猿楽町、本所、大学を出てから松山、熊本、ロンドンなどに住んだが、文京区とも縁が深い。一高、東大に通ったほか住んでもいる。

1. 新福寺(白山3-1-23)
明治16(1883)年、大学予備門受験に備えて英語を学ぶため、成立学舎に入り、その間ここで下宿した。

2. 法蔵院(小石川3-5-4)
明治26年、東大英文科を卒業後、東京高等師範学校の講師となり、ここに間借りした。
ここから明治28年松山中学へ赴任。

3. 千駄木、猫の家(いま向丘2丁目20-7)
留学から帰って明治36年3月から39年12月まで、3年10か月すみ西片へ転居。
草枕、吾輩は猫である、坊ちゃんを書いた。この家は13年前の明治23年から1年ほど鴎外も住んでいた。

4. 漱石・魯迅旧居跡(西片1-12-8)
39年12月から40年9月まで9か月すみ、早稲田南町に転居。
虞美人草を発表。
そのご、明治41年4月から魯迅が住んだ。

さて、生家のすぐ近く、ここ早稲田南町は明治40年から大正5年に49歳で死ぬまで9年間住んだ。漱石山房と呼ばれ、毎週木曜日の午後を面会日とし、木曜会は若手作家、青年たちが集まるサロンのようになった。鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成、芥川龍之介、寺田寅彦らである。

漱石にとって、ここは最も長く住み、ここで死んで、生まれた家にも近い。さらに代表作の「こころ」が書かれた。しかも、戦後、漱石公園と区営住宅があり、土地が残っていた。
記念館の場所として最もふさわしい。新宿区はいいものを建てた。

ちなみに、一葉記念館(台東区)、サトウハチロー記念館(北上市)は文京区が建てるべきだったと思う。
9:08
入場料は300円。開館は10時。
ガラス張りの記念館の中で掃除機をかけている係員が見えた。
離れのような小屋(上の写真の奥)は開いていて、係員が一人いらした。
展示物があり、そこだけ覗いて(無料)退去した。

漱石が一葉、鴎外など多くの作家と違うところは、言文一致の現代書き言葉を作った点である。明治の昔は王朝風文体、漢文読み下し文体、江戸っ子的話し言葉風文体などいろいろあったが、彼の文体なら小説も論文もレポートもかける。読みやすいだけでなく、心の描写も現代的で、今読んでも古さを感じないところが他の作家と違う。
外から見ても資料が充実していそうで、いつかまた来てもいいと思った。
喜久井町の住宅街を少し歩いて車の通る道に出る。

通りを東に行けば三川先生のお宅がある二十騎町、さらには神楽坂に出るが、早稲田に戻るため西に向かう。通りは牛込原町と喜久井町の境で、昭和40年の住居表示で整理されず小さな町が残る地域である。
9:21
有島武郎旧宅跡
いまは三井住友銀行原町社宅

通りは広い道に合流した。
夏目坂通りという。
9:24 このあたりから下り坂

9:27 夏目坂
坂を下りて、早稲田通りとの交差点手前、右側に漱石生誕地の記念碑がある。
喜久井町1番地。

1番地というのは番号を振るときに町内で最も駅に近いところ、皇居に近いところだったりするが、ここは喜久井町夏目家があったところでもあり、1番にふさわしい。
すぐ裏は早稲田大学40号館、41号館がオフィスビル、マンションの間にたっている。

ちなみに喜久井というのは、武田の遺臣だった夏目家の家紋が“井桁に菊”で、漱石父の直克が夏目坂とともに名付けたらしい。

夏目坂を下り切って地下鉄駅のある早稲田通りに戻った。
ぐるっと一回り、改札口から30分足らずの散歩だった。

西を見ると大きな鳥居が見えた。
9:29 早稲田駅前
鳥居は穴八幡。



2022年6月18日土曜日

アジサイの花は2種類ある アントシアニンと変色

退職してから歩くスピードが遅くなり(老化?)、そのぶん家々の草花にも目が行くようになった。今はアジサイ。

アジサイの花には2種類あるようだ。

2022-06-17
我が家にも両方あるが、一つは花序が均一の大きな花で構成されているもの。
(花序とは花のついた茎全体、要するに花の塊。または茎に対する花のつき方のことをいう)

2022-06-16
もう一つは大きな花が花序の外周だけにあり、その中に小さな花が密集しているもの。

アジサイは挿し木が容易で、倒れた茎からも発根して繁殖するほど。
だから鑑賞用に大いに品種改良された。

原産地は意外なことに日本である。
原種は花序の周囲に萼(がく)が大きく発達した装飾花(中性花)が並び、中心に小さな両性花が密集する(2枚目の写真)。この原種をガクアジサイというが、もちろん萼ではなく、額縁の額である。
そして、品種改良し、周囲にあった大型の装飾花を全体に広げたのがホンアジサイである。「額咲き」に対して「手まり咲き」というのは花序が球形だから(1枚目の写真)。
もちろんガクアジサイのまま品種改良されているものもある。

さて、挿し木で簡単に増えるため、我が家の株はみな妻が友人からもらったもの。
歩いていて珍しいもの、きれいなものは、欲しくなる。
公道の植え込みに近所の人が勝手に(違法で)植えているものは、花が終わり誰も振り向かない秋ごろ、小さな枝をもらっても怒られないと思うがどうだろう。(そこまで興味がないからやらないけど)

しかし庭に植えて同じ花が咲くとは限らない。
理由の一つは土壌により花の色が変わるからだ。

たとえば、土が「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」といわれる。
あれ? 
色素アントシアニンは紫キャベツからとると、これとは反対に「酸性なら赤、アルカリなら青、緑」だが?(子ども大学で実験した)
つまりフェノール類はアルカリ性でプロトンが離れると共役系が長く伸び、長波長(赤)を吸収し青くなる。

アントシアニンは誘導体によって違うのかな?
調べたら、花の色はアントシアニンだけで決まるのでなく補助色素とアルミニウムイオンによっても変わるそうだ。
すなわち、アントシアニンであるデルフィニジン3-O -グルコシドと補助色素5-O-カフェオイルキナ酸(2)または5-O -p-クマロイルキナ酸が Al3+を中心に錯体を作る。これが青い。
つまり錯体の可視光線吸収スペクトルは、共役二重結合が長く伸び(というか影響しあい)、アントシアニン単独よりも長波長(赤方向)にいき、反射される光は単独よりも青くなるのだろう。

そして酸性だと地中のAlがイオン化され吸収されやすくなり錯体が増え、青が強まるが、アルカリだと青の錯体が減る。
pHによってアントシアニン自体の色が変わるより、pHによって錯体量が変化するほうが花の色調への影響が大きいのだ。


これが分かったのは2015年(名大、Oyamaら)だから、身近な面白い研究はまだいっぱい残っている。



2022年6月17日金曜日

イチジクの語源、花はどこに?


2022-06-08
退職したら晴耕雨読と思ったら、晴耕雨耕いや、毎日耕すこともないので晴れても雨でも庭に出て野菜を眺めている。
ふと、イチジクに実がついているのに気が付いた。

ちょうど1年前の6月、西日暮里駅に行く途中の道灌山通りの路上から鉢植えを拾ってきたもの。その時は実をつけていなかったから、この株は今年初めて実をつけたのかもしれない。

鉢が置いてあった場所の古い家屋は今やすっかり取り壊され、三菱地所レジデンスのマンションが建設中である。現場もすっかり変わったが、イチジクも小さな鉢から解放され、1年ですっかり姿を変えた。

鉢は2つあり、しばらく置いてあったが誰も持って行かず持ち主は転居したのか枯れそうだったので、2つとも引き取った。

実はイチジクはもう一本ある。

退職直前の今年2月、伊奈町のホームセンター「コメリ」でイチジクの苗を買った。
もう植える場所はなかったのだが、拾った2本が本当にイチジクの木か確証がなかったこと、イチジクだったとしても観葉植物として育てられ実がなるか不明なこと、東京都心ではイチジクの苗が売っていないこと、から保険の意味で買った。
すなわち狭い庭に3本もある。
2022-06-08
4か月前にデコポンと一緒に買った苗。
植えるところがないからまだ鉢植えにしている。

イチジクにこだわるのは、2017年に苗を買って実をつけ始めたころ、2020年カミキリムシにやられ枯れてしまい、十分に楽しんでいなかったことによる。

乾燥イチジクの入ったパンが好きなので、毎朝食べてみたい。
それから料理にも使えるのではなかろうか。
他の果物と違って、甘さ、酸っぱさがゆるいから、野菜のように、ナスのように使えるのではなかろうか。あの種のツブツブ感は他の食材にない。
2022-06-16
2つ目の鉢にあったイチジク
これも狭苦しいが、写真左の山茶花は秋に伐採する予定。

イチジクは無花果と書く。
要するに花が咲かないで実がなる。だから桃やミカンと違い、今回のように気が付いたら実がついていることになる。

花は、将来肥大化すれば実(果嚢)になる花嚢の中つく(隠頭花序)。すなわち初夏に、花嚢の内面に無数の花(小果)をつける。

雌雄異株であるが、イチジク属には雌雄同株もある。すなわち同一の花嚢に雄花、雌花をつける種がある。受粉は内部に共生するイチジクコバチによる。しかし日本にイチジクコバチはおらず、受粉しなくても果実が肥大する単為結果性の品種が栽培されている。

花が見えないというのは、進化の点からみると珍しい。
そもそも、遺伝子の傷が現れないように、手軽な単為生殖から面倒でも有性生殖が進化の点で有利となった。
その頃は放射線が地球上に降り注ぎ、突然変異が多かったのだろう。しかし酸素が増え放射線が減り、生物のほうの防御機構が整ってくると突然変異は少なくなる。
とくに動けない植物の場合、同じ株で両性の配偶子(精子、卵子)を持つものも現れた。これでは両性とも同じ個体に属し、すなわち同じゲノムになってしまうから遺伝子の傷はカバーされないのだが、単為生殖と同じ手軽さでメリットがデメリットを上回ったのだろう。
しかし、雌雄異株はもちろん、花が雌雄別(キウリなど)、花が同じもの(ナスなど)もすべて、受粉には昆虫などの助けを必要とする。そのため虫にも目立つ派手な花が発達した。

だから花が見えない植物など繁栄するはずはないのだが、実が美味しかったのだろう。進化と繁栄は、自然界における生存に有利だったというのでなく、栽培してくれる人間の都合で進んだ。

古代ギリシャ、ローマなど西アジアから地中海世界では古くから知られ、ヨルダンの新石器時代の遺跡から、1万年以上前の炭化した実が出土、イチジクが世界最古の栽培された植物であった可能性がいわれている。
アダムとイブが下半身を隠したのもイチジクの葉っぱ。
ちなみに蛇にそそのかされて食べた禁断の実はリンゴではなくイチジクだったという説もある。それくらい歴史的に特別な植物である。

日本には1591年にポルトガルの神父が肥後天草に伝えた説、江戸時代初期に中国から長崎に伝来した説がある。南蛮柿といわれたらしい。中国名「映日果」を日本語読みしたエイジツカがなまってイチジクになったといわれる。ちなみに「映日」は13世紀頃にイラン、インドから中国に伝わったときに、中世ペルシア語 anjīrを音写したとされる。

南蛮柿というなら、イチジクの隣の柿も料理に使えるかな?
退職すると土いじりのほかに料理にも目が行く。
早くイチジクをつかってみたい。

ところで、イチジクは挿し木でも増えるらしい。
カミキリムシにやられる前に増やしておけばよかった。


2022年6月16日木曜日

コウガイビルが庭にいた

梅雨空が続く日々、夏ミカン根元のガラクタを片付けたら、ビニールの下に黄色いヒルがいた。

2022-06-13
頭(写真では左上)が笄(こうがい)の形をしているからコウガイビルという。
(笄は髪をかき上げる道具だったが転じて髪飾りになった。)
この頭部はよほど印象的と見えて、英語でもhammerhead wormというらしい。

じっと見れば、そのプラナリアみたいな笄と頭部近辺だけ動き、胴体から尾のほうは止まっている。全身運動するミミズなどとは違う。伸ばせば50センチくらいあるかもしれない。我が家ではヒキガエルに次ぐ大動物である。
生物が安定して生息するには数十から数百の個体が必要と思われるが、千駄木に住んで10年目で初めて見た。

前回見たのは伊奈町から大宮市プラザに引っ越した1996年だったか、その翌年。
それまで花壇だったところに野菜を植えようと石をどかすと、黄色く紐のような生物がとぐろをまいていた。うごめく、その異様な姿を初めてみてびっくりした。

いまネットで調べれば外来種として日本に定着したオオミスジコウガイビルに似ている。
ヒルは環形動物門だが、コウガイビルは全然違う扁形動物門で、三岐腸目リクウズムシ科コウガイビル亜科。
プラナリア同様、切断しても小片から再生するらしい。

肉食で、カタツムリやナメクジ、ミミズや小型の昆虫などを捕食する。体に絡みついたり粘液を分泌することで餌生物の動きを封じ、口から咽頭を伸展させて体外消化を行うと書いてある。舐めるようにして食べるのだろうか。

今日、これを書くにあたりもう一度見たくなり夏ミカンの下を探した。
あれだけ大きければ見つかるかもしれない。
2022-06-16
夏ミカンは昨年初めて2つ生り、今年も実をつけている。
伐採したザクロの場所に植えて?年。
ようやくザクロの代わりとして存在感が出てきた。

2022-06-16
夏ミカンの下を探してもコウガイビルはいなかった。
しかし、ミカンの隣、日よけ用に植えた山芋がまだ発芽しない。
5月26日だからもう3週間たつ。
2022-06-11
先日待ちきれずに掘ったら、細い根と、芽のようなものが出ていた。
芽は2つ、3つあり、これだとクレバーパイプの中にうまく入れるか心配である。

山芋は食べることよりも、日よけを目的として植えた。
梅雨が終わるころ、つるが茂ってくれないと桜を切った我が家は、朝から猛暑になる。


(2022-06-19 追記)
2022-06-19 6:49
また、いた。
大分離れた場所で、ここに来るには日向を通らねばならないが、雨の夜なら移動できるから同じ個体かもしれない。
妻は初めて見たという。
三本の平行線があるからオオミスジコウガイビルのようだ。
外来種であるが1960年代から東京でも目撃されるようになったという。

長さを測ってみよう。

割りばしでソーメンを持ち上げるようにつかんでみた。
ぬるぬる滑るし、伸びてしまう。

写真は重力によって伸びた状態で横たえたが、頭のほう(左)は縮み始めている。
移植ごてが30センチだから、1メートルくらいある。

プラナリアみたいに二等分したら2個体に再生するかどうか見てみたい気もするが、飼う気にはなれなかった。


2022年6月13日月曜日

サツマイモの芽出し(2)苗取り

定年退職して3か月目。週2回、3時間のパートに行く以外、いつも家にいる。

薬学雑誌の原稿を書かねばならないのでPCに向かうが、ネットサーフィン(株価、天気予報、プロ野球、野菜つくり、その他)ばかりで、ちっとも進まない。

野菜栽培について思いつくと、すぐ庭に出る。
しばらく育ち具合を眺めているが、見ていて変わるわけでもない。
支柱を動かしたり、草をとったりして、部屋に戻る。
あとはおやつと食事。
死ぬまでこんな毎日でいいのだろうか?

昨年収穫したサツマイモを4月6日、埋めて芽を出させた。
しかし成長が遅い。
世間では苗植え付けピークの5月の連休でもまだ小さい芽のまま。
2022‐04‐29

しかし6月に入り、ようやく育ってきた。
茎が短いが、小さい芋にびっしり発芽している。
狭苦しいので間引くように少し苗をとった。
2022-06-07
紅あずま。
6本も芽茎をとったのに、まだこんなに芽茎が残っている。

2022-06-07
こちらはシルクスイーツ。
中央の芋は2つ大きな芽が出ているが、それほど込み合っていない。
そこで取れる苗を増やすため、枝分かれさせるよう芽の先端を切った。

芋から芽茎をとるのは今年で3年目だが、毎回短い。
市販の苗は30センチくらいある。
しかし自分で芋から伸ばすと葉っぱが6,7枚になっても5センチから10センチしかない。
なぜだろう?
私のは芋が小さいのか?
市販の苗は発芽させるとき、もやしのように暗いところで延ばすのか?

2022-06-07
左:紅あずま6本 右:シルクスイーツ2本
市販の苗は長いから船底型、あるいは斜めで植えられるが、私の苗は短いからまっすぐ差すしかない。まっすぐ差すと、芋は大きくなるが取れる芋の数は少なくなる。

6月末までに30本、40本くらい植えたいが、苗がそれだけとれるかどうか。

昨年は4月21日に紅あずまの市販苗を20本植え、保存していたシルクスイーツから5月23日から7月5日まで、32本苗をとった。合計52本。
今年は自家苗だけでまだ8本。大幅に遅れている。
2022-06-07
こちらはジャガイモ
もともと作る気はなかった。
たまたま台所で芽が出ていた芋があったので、芽の部分だけを埋めた。
本来種芋は芋を半分くらいに切って使うものだから、やはり成長が悪い。
芽を深く切って少し芋が付いているものは発育が良いが、皮だけしかない芽、あるいは皮だけのものは大きくならない。
2022-06-07
トウモロコシと枝豆
肥料をまったくやらないものだから、トウモロコシが小さい。

枝豆は小さな実がついてきた。(早生種)
しかし株が小さいからあまりとれないだろう。

2022-06-07
こちらは落花生の隙間に気まぐれで野沢菜をまいた。
数年前の自家採取の種だったが順調に発芽。
せまくてネットを張らなかったから虫に派手に食われた。
全部抜いて処分。

2022-06-07
桜の切り株は邪魔者になりそうだったが、土をかぶせて有効利用、野菜栽培スペースとした。
いまは来年用のイチゴの苗を育てている。

2022-06-08
キャベツも遅い。昨年は5月21日に初収穫だった。

2022-06-08
5月28日、ヨトウムシが出てベニカで消毒した。
この虫食いは消毒前だろうか後だろうか?

定年退職してますます庭にいる時間が増えた。
0.8メートルx3.5メートルの畝が6本。
2022-06-08
左手前の畝1はジャガイモ、ミニトマト、ナス、
畝2が枝豆、トウモロコシ
畝3が落花生、オクラ
畝4がナス、シシトウ、パプリカ、(間にサニーレタス)
畝5がサツマイモ用
畝6(ネットかかっている)キャベツ
その奥がキウリ、山芋
ここまで今存在する夏野菜だけで14種類。
野生のフキ、コゴミ、ニラ、セリ、ミョウガ、シソはすべて長野から持ってきた。
周囲に柿、夏ミカン、温州ミカン、イチジク

あと何回、これらを育てられるだろう?


2022年6月6日月曜日

私と薬学8 代謝から薬理部門へ

高脂血症治療薬TA-1801の次に担当したのは肝保護薬TA-1725の代謝であった。

この化合物にはジチオカルバメート構造があり、チオカルボニルに分子内水酸基が入って閉環するほか、チオエステルの加水分解、Sの酸化(Oとの置換)、芳香環部分の水酸化、など代謝されるところが複数あった。それら組み合わせの結果、代謝物が多数生じる。
抱合体を除いても20種類以上あった。
それらの構造はいずれも予想されるものばかり。

一つ一つ構造を決めて、それぞれの血中濃度、組織内濃度を求める。
悪い癖で、また余計なことを思ってしまった。
果たして前臨床段階でここまで詳しく必要だろうか?

会社は新薬を必要としている。
薬は薬効があって毒性がなければよい。
つまり、新薬の研究、開発で一番大事なところは、初期段階のテーマ選び、薬効、毒性評価であると思った。
私の担当する代謝物の構造決定など、そのあとでいいのではないか?

新薬の種となる化合物を探すには、有機化学研究所で合成された新規化合物を、薬理研1部(循環、消化器など内臓の動き)、2部(血液など生化学)で薬効を評価する。

1980年代は今と違ってランダムスクリーニングはほとんどなかった。生体内成分の構造とか、他社特許情報などから新しい化合物を合成した。だから新しいテーマは合成化学者から提案されるものが多かった。一方、薬効評価部門の薬理研1部、2部は病態モデルの作成、実験系の改良、日常スクリーニングに追われ、新しいテーマを考える余裕がなかった。

新薬開発の律速段階は薬効評価部門にあると思った。
薬効評価部門に異動すれば、自分だけでなく会社にとってもプラスではなかろうか?
しかし簡単に言い出せるものではない。
いったん封印した。

そのころ前に担当したTA-1801で図らずも論文を二つもかいた。

ちなみに、当時の代謝部門は論文を書いて学位をとることを目標にする先輩が多かった。製薬会社は、研究者の職場として他の製造業よりも恵まれていたと思う。今は成果主義の名のもと、目標設定を厳密にしてその達成度で人事評価をするようになったこと、また管理部門が大きくなりプロジェクト進捗を自分たちでは決められなくなったことから、なかなか論文は書けない。学位取得は社会人大学院に行かないと難しい。

当時は管理が緩く良い時代だった。かといって本来の業務をおろそかにすることは許されず、17時過ぎと休日の無給時間などを中心に、自分の興味を深める実験をしたり、論文を書いたりした。

優しい上司であられた杉原重孝主任研究員は薬物のリンパ管吸収という教科書にない分野を切り開き学位をとられた。また、朝の通勤時間に「小林君、青空の雲はなぜあんなにくっきりと輪郭があるのだろう?」などと色んな問題を出され教育してくださった大塚峯三主任研究員は、たまたま得られた含硫黄代謝物の由来が思いもしなかった腸内細菌によることを明らかにされ博士号をとられた。私をリクルートされた中野さんはグルクロン酸抱合体でなく珍しいグルコース抱合体を発見された。

しかし私は論文、学位よりも、製薬会社に入ったからには新薬を作ってみたかった。
薬物代謝部門というのは支援部門であり、直接関与しなかった。前回のブログで書いたTA-1801のアシル基転移やフラン環開裂‐アルデヒド生成は、論文にはなるけれども創薬に関係ない。さらに、代謝による活性化と生体高分子への結合を明らかにすれば、毒性の「可能性」に触れる。昨今のコロナウィルス問題同様、実際起こるどうかは別問題なのに、一部の人々は大げさに取り上げるため、むしろ創薬にはマイナスとなる。

与えられた候補化合物について100%以上に深入りすれば創薬から離れていくというのは、一生続ける仕事として面白くない。再び異動を考え始めた。
第一部、第二部の薬効薬理部門なら薬理研究所内の異動で済むが、何の知識、技能もない若造ではなかなか言い出せない。薬効部門のT主任に相談すると、「来るなら何か手土産(有望なアイデア、テーマ)が欲しいな」と言われた。

当時、『ストロングメディスン』(アーサー・ヘイリー)が新潮社(1985)から出た。
シーリアというMR(営業職)の若い女性が、出世してビッグファーマの社長に上り詰める話である。そこに新薬が3つ出てきた。
1.ペプチド7というアルツハイマーの治療薬を目指したが、体重減少作用が副作用として現れ、美容目的の薬に転換したもの。
2.モンテインという薬は妊婦のつわりの抑制だったが、胎児の脳に悪影響を与え、シーリアの上司だった社長の孫が障害児として生まれた。
3.ヘキシンWという薬は、フリーラジカルなど活性酸素の抑制、リウマチなどを対象としたが感染症を悪化させるという副作用が出た。

ここでヘキシンWのような薬を探そうと、抗酸化剤の勉強を始めた。
TA-1801の代謝でCYPという酸素添加酵素がでてきたように、代謝部門にいるものとしては一番とっつきやすかったからである。
大柳義彦さんという藤沢薬品の研究者が活性酸素と生物作用の単行本を出されていた。隅から隅まで読んで、珍しく自分でノートをつくり勉強した。

TA-1725の次はリグナン誘導体のTA-7552だったが、その代謝物の構造を決めながら、薬理部門への異動についてまだ迷っていた。
しかし1986年、もう30歳になっていた。大塚主任、杉原主任に思い切って相談すると、お二人とも研究所として薬効薬理部門の強化が必要と言われ、応援してくださった。案ずるより産むがやすしである。針谷部長はもともと薬効薬理の人であり、薬理研の次期所長となる方であったから話はスムーズだった。

当時、田辺の薬効薬理部門は熊谷洋東大名誉教授を顧問とし、東大医学部薬理学教室と関係が深かった。研究所内でも内地留学された人が何人かいらした。
ちょうど江橋節郎教授が定年で生理研に転出され、東北大から遠藤實教授が後任として飯野正光助手を連れて戻ってこられ、新しく研究室を整備されているときだった。人手が必要だったのだろうか、どういういきさつか存じ上げないが、両方の先生と親しい針谷部長が、「君は薬理のことは何も知らないだろうから、1年勉強してきなさい」と内地留学させてくれた。実際、私は筋肉がCaで収縮することすら知らなかった。

年が明けた1987年2月、針谷部長は私を連れ、本郷通りの近江屋でお菓子を買って薬理学教室へあいさつに伺った。部長は私を紹介するのにTA-1801のフラン環の開裂の論文について話した。
すると遠藤先生は「そうですか、いい仕事をした人は違う分野でもちゃんと出来ますよ」と私に微笑んでくださった。そして「どんな研究をしたらいいか、会社の希望はありますか?」と部長にきかれた。
針谷さんは「遠藤先生の考え方、サイエンスに向かう心というものを教えていただきたいと思います」という。「それは一番難しいですね。でも実際の実験は飯野君に指導してもらうのですが、彼は私とほとんど同じ考え方をするんですよ」とやはりにこにこしておっしゃった。

1987-05-22 薬理研3部(代謝部門) 
私の送別会はこの年の新人(河野君)歓迎会と一緒。
遠藤洋さん河野君の手はどこを触っているのか?
山口さんは私の膝の上に乗っかった。
まだセクハラという言葉がなかった時代。
(続く)

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