2018年6月30日土曜日

千鳥ヶ淵2 道灌と江戸氏

朝晩ひとりゆっくり座れる通勤時間は、一日で最も好きなひととき。
しかし、最近は疲れてじっと目をつぶっていることが多かった。
久しぶりに読んだ本は家康以前の江戸について。

と言っても図を見ていたくらいだったが。

前回書いたように(→)、千鳥ヶ淵のもととなった局沢川は、本丸西を通っていた。
その川筋を利用して造ったのが、蓮池濠(下)。

1993-01-02一般参賀のあと、乾門まで歩いた時の写真。
2015年12月の一般参賀では、宮内庁前から本丸、東御苑の方に誘導され、ここには入れなくなっていた。
道灌濠 1993-01-02
西側の道灌濠も、この沢筋を利用したもの。

前回、千鳥ヶ淵と牛が淵について、飲料水確保のために堰き止めたものと書いたが、それを信じない人もいるだろう。
なぜなら、皇居の中で最も広い幅、高い土手、石垣を持ち、もっとも防御用の堀に見えるからだ。
しかし下の図を見れば、確かに淵だったと納得する。
「江戸はこうして造られた」鈴木理生(2000)

天正18年(1590)8月1日、家康入府。
甲州から入った先発隊8000人だけでも寒村、江戸の収容能力をはるかに超え、日を追って東海5か国から家臣団と家族が流入した。彼らの飲み水確保が最優先だった。
上図を見ると、たしかに2つの淵は小さく、防御用の「濠」ではなく飲み水用の池である。

天正の工事のうち(上図)、本丸の東は道灌時代の濠を修復したものとすれば、徳川による江戸の建設は、濠や内郭(西の丸、北の丸)といった城郭部分よりも、二つの淵と、平川の付け替え、道三掘の掘削といった都市整備が優先された。
(平川付け替えは将来の日比谷入江の埋め立てのため)
戦国時代が終わり、戦闘のための城よりも城下町建設の方が大事だったのだろう。

千代田区史(1960)を図書館から借りてきた。
昭和31年から編集をはじめ、3冊合わせると3000頁を超える大著。
家康以前の江戸(イコール千代田区)について、区史の概念を変えるほど詳しい。

区史にあった中世の江戸図。
これも鈴木理生氏の作った図らしいが、平川が日比谷入江に入らず江戸前島を横断している。彼は、これは間違いと後で訂正しているが、紅葉山の周りの沢が描いてあって、築城前の地形がよくわかる。

江戸城と言えば太田道灌が有名だが、それ以前この地にいたのは江戸氏である。

整理すれば、
桓武平氏で関東の武士団になったのが、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏など。
平安時代、前九年、後三年の役のころ。

秩父氏から別れたのが
畠山、河越、高山、江戸、豊島氏。(平安末期)
すなわち、秩父氏の当主・秩父重綱(出羽権守)の四男、重継が江戸郷を相続、江戸四郎を称して江戸氏を興し、桜田の高台に居館を構えた。

桜田の高台とは、桜田郷(平川の南)の大地のどれかであろうが、水陸の交通の要地、田安台地の先端、のちの江戸城本丸、二の丸あたりであろう。

1180、頼朝が石橋山で破れ、上総から巻き返し、旧利根川(江戸川、入間川など)を渡るとき、江戸氏(重継の子、重長。江戸太郎八か国の大福長者と称された)の存在は大きな障害となった。同族葛西氏などの調停で江戸重長は頼朝に従うが、1192、鎌倉幕府成立後、江戸氏は急速に衰えた。それでもその支族(木多見、丸子、六郷、渋谷、中野、阿佐ヶ谷、金杉、小日向、蒲田氏など)は、小豪族として15世紀戦国時代の初めまで江戸周辺で存続した。

1336年室町幕府成立。
幕府は鎌倉に関東管領を置いた。足利尊氏の四男、基氏が初代である。管領の補佐役(執事)が上杉氏。
(のちに関東管領は鎌倉公方と称し、上杉氏が関東管領と呼ばれる)。

上杉氏はもともと丹波の豪族であったが、1252年、鎌倉将軍6代目として宗尊親王が下向、この将軍の介錯人として上杉重房が同道した。
丹波で重房と主従関係にあった太田資国も関東に移住。
そのご、上杉氏の娘が足利貞氏と結婚、尊氏を生んだため、上杉は関東武士の中で一躍重きをなすようになる。足利時代に管領職を世襲した理由である。
土着の開墾地主である関東武士に比べ、上方出身という貴族的出自も影響しただろう。

太田氏は上杉氏の家臣であるから、関東が古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断されたとき(→ブログ政氏館跡)、鎌倉側(幕府側)として、古河公方側と戦った。
1457年、道灌が前線基地として江戸に城を築く。江戸氏の時は館であったから、初めての城である。江戸氏が頼朝の抵抗勢力として吾妻鏡に現れてから277年後になる。

築城から30年、1486、道灌は主の上杉定正に謀殺される。
いっぽう、道灌と同い年と言われる北条早雲が力を伸ばし、上杉家は関東から駆逐された。
1524、江戸城は早雲の子、氏綱に占領され、本丸には富永氏、二の丸に遠山氏、城内の香月亭には道灌の孫、太田資高が住んだ。富永、遠山の子孫は家康入府まで城主を務めた。

・・・・・

天皇がいて本当に良かった。
皇居でなければ、ほかの城と同じように、(いや東京だから、それら以上に)堀を埋め石垣を撤去して、駐車場、道路や省庁のビルを造っただろう。森や濠より、体育館や区民センター、美術館がいい、と選挙民は言い、政治家と業者は喜ぶ。
皇居の存在が地下鉄や高速道路の建設の邪魔になっている、と昔、誰かが書いていた。

2018-06-30
豊作ナス、初物モロッコ


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