12月3日、伊勢市、田丸、松阪、津、四日市と三重県の主要部を北上してきて、13:27桑名についた。駅から八間通りをまっすぐ東に行くとお城につく。
三の丸にたつ本多忠勝像と柿安本店本社ビルを見て、緩い坂を上がって揖斐川の岸に立った。
揖斐川に合流している長良川の河口堰が見えた。
13:58
上流方向は山が見える。
14:01
外観復元・蟠龍櫓
桑名城には元禄の時代で51の櫓があったという。
この櫓は東海道七里の渡しをゆく旅人や、揖斐・長良川の水位を監視できた。
いま一階が水門統合管理所、二階が簡単な資料室になっていて上がってみた。
14:03
来たほうを見ると柿安本社が見えた。
2階は桑名市所管の展望台兼資料室というが、展望台としては窓の縦格子の木が太くて外がよく見えず、全く用をなさない。忠実に復元したというなら、それはやりすぎだろう。
壁には絵や地図が飾ってある。
14:04
安藤広重「東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口」
切手で見たか永谷園のお茶漬けふりかけに入っていたか、いずれにしても子供のころ見た絵。描かれた建物はこの蟠龍櫓とは少し違うか。
松平定信と松平定綱(右)
二代定行は1635年加増されて伊予松山15万石に移封されたが、その弟(定勝の三男)・松平定綱が美濃大垣藩6万石より11万3000石に加増され3代目として入り、久松松平の桑名藩は続いた。
定綱は、この櫓で肖像画が飾られているように、名君の誉れ高く実質桑名藩の藩祖とも言われた。
久松松平氏は5代目定重の時代に騒動が起き、1710年、懲罰的に越後高田に移封された。
つづいて奥平松平が10万石で入る。
しかし1823年奥平氏は武蔵国忍に転封し、
代わって奥州白河から松平定永が11万石で入封した。
この家は桑名から高田に移封された久松松平家で、高田から白河に移っていた。
奥州白河松平と言えば寛政の改革の老中首座・松平定信(1759₋1829)である。
実際、定永は定信の嫡男で、定信はこのとき家督を譲り隠居していた。定信は寒い奥州より物成りよく父祖伝来の地、桑名への国替えを望んでいたという。
しかし、父祖伝来と言っても定信は田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男、すなわち吉宗の孫であり、桑名とは全く関係なかった。
松平定信について少し書けば(桑名とますます関係ないが)、幼少期より聡明で知られ、田安家を継いだ兄の治察(1753₋1774)が病弱かつ凡庸とされ、一時期は田安家の後継者に、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継になると期待されていた。
しかし定信が数え17(満15歳数か月)となった安永3年(1774)3月、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となる事が決まった。田安家としてはこれを望まなかったが、10代将軍・家治の命により決定される。これには一橋治斉が関係したらしい。この年10月、兄・田安治察は妻子なく22歳で死去し、母はまだ同居していた定信に家督を継がせたかったが、許されず、田安家は断絶した。
将軍家治、一橋治斉、松平定信、3人とも吉宗の孫、いとこ同士である。10代将軍家治の後継は定信がいなくなって一橋治斉の子が就任し、11代家斉となった。
そして、当主のいなかった田安家には一橋治斉の五男斉匡(将軍家斉の弟)がはいった。治斉、相当な男である。
14:05
東の揖斐川のほうを見たら屋根に蟠龍がみえた。
まだ天に昇らず、水中あるいは地中に蟠(わだかま)っている龍のことで、火災、水害を防ぐ守り神とされた。蟠るというのは、とぐろを巻く、うずくまる、という意味だが、この漢字に変換されるのは「わだかまる」だけである。心のわだかまり(心に引っかかっている重い気持ち)もこの漢字を書くはずだが、字面と実態がかけ離れていて、やはりひらがなが良い。
このあたりで揖斐川と長良川の間にあった細い土手(背割り堤)は切れ、一体となり、対岸は長島になる。
14:06
蟠龍櫓を下りるとすぐそばに鳥居が見えた。
東海道、七里の渡しの船着き場跡である。
神社でないのに鳥居があるのは、ここが伊勢神宮への伊勢街道の始まりでもあること、近くに住吉神社があり、航海安全の住吉信仰があったことなどが考えられるが、これは復元されたものであり、江戸時代にあったかどうか分からない。ちなみに昔の七里の渡しは河川改修などで、必ずしもここではないだろう。
東海道は、宮宿(名古屋熱田)と桑名宿の間を、海路七里(27 km)で結んだ。干潮時には海が南に行くから沖廻り航路で約10里(39 km)かかった。北方へ迂回して陸を歩くと途中1泊せねばならず、危険と船賃を考えても使う人は多かった。
14:07
江戸時代、東海道の主要河川は橋が架けられなかったが、ここは木曽川、長良川、揖斐川が集まり、橋をかけようにも建設、維持とも困難で、不可能であっただろう。
14:08
東海道は陸に上がると南下する。
だから標柱が示すように、ここで直角に曲がった。
すぐ北の濠を隔てて国営木曽三川公園があり、現在整備中でここもその一部になるらしい。
14:14
堀はだいぶ埋め立てられたが、まだまだ水面は広い。
高松や三原などの海城というより水城か。
水運の盛んな場所に建てられた城として、下総・関宿城も地面に比べ、水面が広かった。
しかし昔の絵図はそうでもない。
17世紀半ば、正保元年(1644)、家光が全国の大名に対して、堀の幅、石垣の高さまで幕府に報告させたものだが、絵図そのものが正確に書かれたわけではない。(当時は157点あり、63点が国会図書館に現存する)
こちらのほうの濠の幅のほうが現実に少し近いか。
右に長島が見える。
14:17
本丸跡に建つ鎮国守国神社。
普通名詞かと思ったら違った。
白河から松平定永が入城したとき、藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る神社を城内に建てた。
ちなみに、久松松平は伊予松山も桑名も当主は定の字を通り字にした(松山のほうは後に崩れた)。NHKの松平定知は、伊予松山の久松松平の分家、旗本の子孫に当たる。
14:18
本丸から二の丸へわたる。
濠が広いから途中に東屋があり何やら中国の公園のようだ。
そういえば城址公園は九華公園という。
ちなみに、前のブログで少し書いたが、桑名というと私は幕末、実兄、会津の松平容保とともに京都の治安維持にあたった松平定敬しか知らなかった。
桑名藩は鳥羽伏見でも幕府軍の主力を成したにもかかわらず将軍慶喜に見捨てられた。二人は御三家尾張藩の支藩、美濃高須藩の出身である。高須藩から幕末の尾張藩主となった徳川慶勝(新政府側)、また尾張藩主を経て慶喜が出た後の一橋家を継いだ徳川茂栄らは実兄であり、高須4兄弟と言われた。
公園のすぐそばにアーケード商店街があった。
水につきそうな松。根株がごっそり抜けて堀に落ちそう。
この城は洪水、大潮のときは大変だっただろう。
あと桑名というと猛将・立見尚文である。
鳥羽伏見で崩壊した藩の軍を立て直し戊辰戦争を戦った。その能力から西南戦争で陸軍から引っ張られた。日露戦争では軍司令官の大将たちより経験豊富であったが、賊軍だったから中将で、弘前第8師団を率いた。黒溝台で数倍のロシア軍に囲まれ、師団の半数を失いながら敵を退却させた。全滅しなかったのは立見がいたからだと、桑名から遠く離れた弘前で長く伝えられたとか。
14:19
橋の上で餌付けしている人がいた。
鳩は落ちた豆を拾うが、鴎は空中で餌をとる。
14:20
二の丸から橋上東屋を振り返る。
14:21
二の丸の南側も濠が広い。
堀の南に接するのは市立立教小学校の校舎。
駅に向かう途中、精義小学校というのもあった。
桑名市の小学校は、地名とか数字でなく藩校のような、漢籍からとったような校名である。
駅に向かう途中、南下する旧東海道が駅のほう(西)に曲がっていて、少しだけ歩いた。東海道が再びかぎ型に曲がって南下するところに小さな公園がある。いくつか記念碑、説明板が立っていた。
14:32
京町公園
まず、「京町見附跡」。ということは桑名宿の京都側の端ということか。
「桑名市市制施行時市役所跡」。桑名は明治22年のときに桑名町で出発、1937年に市制施行した。現在人口は13万人。
一番目立ったのは「現代から未来へ・タイムカプセル・市制50周年記念」の石碑だった。「開封日2037年4月1日」と書いてあった。
14:33
寺町通り商店街
駅からお城に向かうときアーケードの北の端を過ぎ、いま南の端を通っている。
寿町通りを西の駅に向かっていく。
駅の近く、国道1号線との角に中部電力桑名営業所とフラワー薬局のビルがあり、そこに石柱がたっていた。
14:41
「左 おみせ」「右 車おきば」
朝から伊勢の街道筋を歩いてきて、何本か歴史を感じさせる石標柱を見てきたが、最後にいいものを見せてもらった。
(つづく)
20251220 伊勢6 桑名の柿安本店、本多忠勝、長良河口堰
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